例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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The present is ......








部屋に入るまで、京一は警戒心を剥き出しにしていた。
止むを得ない選択肢だったとは言え、やはり中々自分のプライドが納得を示さないらしい。

それを気にせず、八剣は京一を己のテリトリーへと招き入れた。


やはり他者のテリトリーに侵入する事に抵抗があるのが、京一は落ち着かない様子だった。
しかし反対に、借りてきた猫のように大人しくもあった。
部屋の中を見回るのに一々許可を求めるような事はなかったが、気になるものは目に付くらしく、腰を落ち着けたかと思えばまた動き出し、気が済めば元の位置に戻って座って―――――と繰り返す。
八剣に対しての警戒心も、多少は和らいだものの、決して損なわれてはいなかった。



八剣の部屋には、物が少ない。
趣味と言えるほどに興味を持つものがないからだ。

それが京一にとっては、逆に不思議な感覚であったのかも知れない。





少し経つと、やはり物が少ないからだろう、興味を引かれる物がなくなったらしく、京一はようやく落ち着いた。







「何か飲む?」
「……いらねェ」
「走り回って喉が渇いてるだろう」
「だから、いらねェ……って、聞いてんのか、お前」






京一の返答に構わず、八剣は茶葉を取り出して、急須に入れた。
沸かした湯を注いで、湯飲みを取り出し、ついでに茶菓子も棚から取り出す。

座布団も敷かずに床に座っている京一は、相変わらず顰め面だ。
それでも貰えるものは貰う気のようで、差し出した茶と茶菓子は突っ返されなかった。







「そういやお前―――――部屋の中でも着物か?」







茶菓子を食みながら、京一が言った。

八剣は一瞬何故そんな事を聞くのかと思ったが、その理由は特に考えなかった。
京一から声をかけられたという事の方が、八剣にとって大きな事項であった。







「そうだな。大抵、これで過ごしてる」
「…オレと逢った時も、その格好だったな」
「この八掛が一等お気に入りでね」
「ふーん」






京一の相槌は、あまり興味がない事を示していた。
それでも構わない、京一が話しかけてくれるのなら、それで。







「壬生だっけか? あいつ、コートかなんか着てなかったか?」
「ああ。あれが拳武館の仕事用の服装だね。防護用に加工してある」
「……お前はなんで着ねェんだよ。持ってんじゃねえか」







いつの間にか、クローゼットも開けたらしい。







「着物よりか、あっちの方が安全なんじゃねェのか?」
「まぁね」






あっさりと肯定する八剣に、京一は眉根を寄せた。
安全だと判っているなら、何故それを使わないのか。








「ほら。俺はこっちの方が似合うから」
「………………あーそーかい」







ふざけられたと思ったらしい。
京一は聞くだけ損だったという顔をして、湯のみの茶を一気に飲み干した。
思ったよりも冷めてはいなかったようで、喉を通過する熱さにまた顔を顰める。



似合うか否かは置いておくとして。
此方の格好の方が慣れているというのは事実だ。

防護面に置いて用意されたコートよりも劣るのは、判りきっている事。
それよりも動き易さや自分が楽である事を考えると、やはり八剣は着物の方が落ち着くのだ。







「紅葉達には、あまり良い顔をされないけどね」






特に壬生は生来の性格が生真面目である所もあるから、尚更、規定に従わない八剣に顔を顰める事は多い。
しかし短い付き合いではないから、言っても聞かない事は彼も判り切っているのだろう。








「それにしても、京ちゃん」
「あ?」
「俺に興味があるのかい?」
「…………はァ!?」







素っ頓狂な声が上がった。


二人の間には微妙な距離がある。
隣に座れば京一は嫌がり、自分から離れる。
かと言って、決して離れ過ぎる事はなく、手を伸ばしてギリギリ届かないという程度の距離。
間に茶と茶菓子を置いているから、この距離も特に違和感を覚える事はなかった。

それを一方的に詰めて顔を近付けると、京一は仰け反って離れようとする。
けれども逃げるというのはプライドが許さないようで、右手が木刀を掴み、臨戦態勢になっている。







「今まで俺の事なんて聞かなかっただろう」
「だからってなんでそんな話になるんだよ!?」
「聞くって事は、興味が沸いたって事でしょ」
「阿呆!!」






近付く距離に耐え切れなくなったか、京一は木刀を振った。
それを予想していた八剣は、京一の木刀を握る手が強くなると同時に体を退いて逃がす。

空振りした事に京一は思い切り顔を顰め、更に距離を取る。






「教えてあげてもいいよ、俺の事」
「いらねェ!」
「誕生日だろう? プレゼントだよ」
「断わるッ!!」






積んでいた座布団を盾にする京一。
木刀も手に持ったまま、完全に警戒する姿勢になってしまった。



毛を逆立てた猫宜しくの態度に、八剣は笑みを漏らす。
可愛いものだと。

しかしこれ以上は更に嫌われる要因になるので、八剣は退く事にした。


丁度良く空になった急須の茶を追加するべく、立ち上がる。
その一挙手一投足を睨むように観察する京一。
何もしないよと笑いかけてはみたが、余計に警戒される結果となった。








中々気を赦してはくれない猫だが、またそれが愛しく思えるのだから、もう末期だと思う。



ターゲットとして、最初に見た時から気に入っていた。
獲物を狙う捕食者のように眼前の敵を睨む凛とした眼差しは、本当に心地が良く、魅力的だった。

今はそれ以上に、平時の年齢相応な姿が愛らしい。
目付きの悪さは周囲を威嚇するのに役立つが、反対にふとした瞬間の幼さが際立つ。
子供のように怒鳴り散らしたり、落ち込んだり、結構表情が豊かだ。
それから――八剣には未だ向けてくれた事はないけれど――笑った顔だとか、特に。




出逢いからして苛烈だった間柄は、今も尾を引いている。

刺激的な方が記憶に残り易く、最初の邂逅を京一が今もはっきりと覚えているというなら、八剣にとっては嬉しい事だ。
いつの間にか埋もれて取り出せなくなるような、小さな出来事ではないということだから。


とは言え、八剣としてはもう少し打ち解けて欲しいものだ。


中々懐かない猫を宥めるのは楽しくもあるが、近付けば逃げてしまうのは少々寂しい。
折角近付いたと思ったら、一足飛びに遠退いて、初めからやり直しになるのだ。
その都度、残念だと思う。

無理に近付くのは失敗する、猫が警戒している限り。
だから猫の方から、近付いても大丈夫なんだと覚えて貰わなければならない。



慣れて貰うのが一番良い。
相手のテリトリーの中に居る事に。










沸かし直した湯を急須に注いで、リビングに戻る。


――――――――と、其処には。








「京ちゃん?」







確認するように呼べば、いつもの「呼ぶな」という文句は飛んでこなかった。



散々逃げ回って疲れたのか、座った姿勢のまま、夢に落ちかけている京一の姿。
立てた片膝に腕と頭を乗せて、閉じた瞼が持ち上がる様子はない。

傍らに膝を付いて覗き込んでみたが、其処にあるのは未だあどけない寝顔だけ。







「……気紛れだねェ」







起きている時には、少しでも距離を詰めれば逃げるのに。
眠っている時には、こんなに簡単に近付ける。



眠る姿を晒すなんて、信頼されていると思っても良いのかな?


手を伸ばして、いつしか触れた髪に、もう一度触れる。

あの時もそう感じた事だったが、やはり余り手入れはされていないらしく、毛先は少々痛み気味だ。
確かに京一の性格を考えると、其処まで手を回したりはしないだろう。
やはり、勿体無いと思う。


すぅすぅと規則正しい寝息を立てて、京一は身動ぎ一つしない。
そのままにして置いても良かったのだが、この姿勢では目覚めた時に丸まった状態の背中が痛くなる。

起こさないようにと注意を払い、八剣は京一を抱き上げた。







「………んぁ……」






振動が伝わった京一は、不満そうに声を上げる。







「ああ、ごめんね」
「……うー…」






謝ったところで、眠っているのだから聞こえてはいまい。
それでもタイミング良く漏れた声が返事のように聞こえて、八剣は笑みをすいた。





























陽が沈みかけた時分に、京一は目を覚ました。
床に座っていたのに、ベッドに寝ている自分に京一はしばし不思議そうな顔をしたが、八剣の顔を見ると直ぐに顔を顰めた。
さっさとベッドを降りると、木刀と放り出していた薄い鞄を持って、玄関に向かう。

眠ってしまった事が迂闊に思えたのだろう、京一の耳が赤くなっている。







「邪魔した」
「いいよ」






玄関口で振り返らずに一言断りを入れる京一に、八剣は笑って言う。

そのままドアを開けて、京一は敷居を跨いだ。








「京ちゃん」







呼ぶと、顰め面で京一が振り返る。
呼ぶな、と形作ろうとした口が、音を発されないまま止まった。

ヒュッと視界に放り投げられた物を、殆ど反射反応でキャッチする。



手を開いて其処にあった物に、京一は意味が判らない、と眉間に皺を寄せた。








「あげるよ、京ちゃん」
「………」







京一の手には、この部屋の鍵。








「なんで」
「さぁ、何故だろう?」







京一は鍵と八剣の顔とを何度も交互に見た。
真意を掴み兼ねている所為だろう、眉間の皺が更に深いものになる。

何故と言われても、八剣の中で答えは一つしかない。
京一と共有する時間を増やしたい、その中であの笑顔が一度でも見れるなら。
けれどもそれを言ってしまえば、京一は不機嫌な顔をして鍵を投げて返すだろう。


急に距離を詰めようとすれば、それを察した猫はまた逃げてしまう。
相手から近付くのを待たなければ。

先ずは、その切っ掛けから。







「強いて言うなら―――――誕生日プレゼント、かな」
「……これがか?」







鍵を指先で弄びながら、京一は八剣を見返す。
要らないならいいけど、と言ってから、八剣は京一の反応を待った。



―――――数秒考えた後、その鍵は京一のズボンのポケットに滑り込んだ。







「勝手に来て良いんだな」
「いつでも良いよ」






じゃあ、貰っとく。

それだけ言うと、京一は今度こそ背を向けた。






「送って行こうか」
「女子供じゃねーんだよ」
「まぁいいじゃない」
「…オレの意見なんざ聞きゃしねぇじゃねえか。だったらハナから聞くんじゃねぇよ」
「話がしたいんだよ」






部屋を出て扉を閉めると、肩越しに京一が此方を振り返っていた。
くっきりと刻まれた眉間の皺は、まだ当分、取れそうにない。


外までの道を迷わず歩く京一の、一歩後ろ。
並んで歩くには、まだ早い。






「彼らに見付かったらどうするんだい?」
「別に。もうこれだけ時間が経ってりゃ、諦めてるだろ」
「明日になったら、同じ事を繰り返すんじゃないかな」
「……一日逃げ切ったからな。ちっとは懲りたろ、多分」






祝われること事態は、それほど嫌ではない――――言外にそんな雰囲気が滲む。

あまりに大人数になりそうだったから、恥ずかしくて逃げてきたのだ。
一日逃げ回るほどとなれば、流石に盛り上がり過ぎたか、と友人達も思うか。


好意に慣れない猫を手懐けるのは、彼らにとっても、中々容易な事ではないらしい。







「ゆっくりしたくなったら、またおいで」
「気分が向いたらな」






拒絶されなかっただけでも、良い方だ。
京一の方から来るかもしれない切っ掛けは出来たのだから。



門を潜って歩いて行く京一の背に、八剣はある事を思い出す。








「京ちゃん」
「京ちゃん言うな。なんだよ」







立ち止まって振り返った京一に、八剣は笑んで、










「言ってなかったね」
「何が――――――」









最後に一つ距離を詰めて。













「誕生日おめでとう、京一」












逃げなかった。
いや、逃げられなかったと言うのが正しい。


意外に簡単に距離が詰められたことには、少し驚いた。
あれだけ近付けば飛び退いて逃げていたのが、今この瞬間に始めて逃げられなかった。

四六時中警戒している風だったから、少し近付いただけで逃げられた。
それが部屋を出てから数分間―――それとも、京一が部屋で眠ってしまってからだろうか。
微かに緩んだ緊張の糸が、今の今まで張られることがなかった。




だから触れている間、初めで間近で、じっとその顔を見る事が出来た。




何が起こったのか、理解できていないに違いない。
ぽかんと半開きになったままの口と、見開かれた目がそれを雄弁に語っていた。
不機嫌な顔ばかり見ていた八剣にとって、こんな表情も新鮮そのものだ。

が、それもやはり、ほんの数秒のこと。
触れ合っていた唇が離れて、直ぐに京一は我を取り戻した。







「ななななななッ、何しやがんでェッッ!!」
「何って、接吻だよ」
「言うな――――ッ!! なんだ、なんなんだテメェはッ!!」






飛び退いて口を服袖で拭く仕種に、ああ勿体無いと思った。
思ったけれども、仕方がない。







「じゃあまたね、京ちゃん」
「京ちゃん言うなッ! 二度と来ねェからな、こんなとこ!!」






あらん限りの声で宣言して、京一はくるりと踵を返し、一目散に走り出す。



それを見えなくなるまで見送ってから、八剣はふと思い出す。
……突き返されなかったと言う事は、少しは脈アリと自惚れても良いものか。















――――――渡した鍵は、京一のポケットに入ったままだった。
















----------------------------------------
貰えるものは貰う京一。
後から思い出して、どうしようかと暫く困惑すればいい。
そんで返しに行って、結局返し忘れて入り浸ればいい。


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The present is ......

















―――――――プレゼントと告げながら、無自覚のお返しを期待してる


























The present is ......



























曲がり角でぶつかった相手に、八剣は僅かに瞠目した。


蓬莱寺京一。

肩口にぶつかったその人物は、悪ィ、と短い謝罪を述べて顔を上げ、八剣を見ると顔を顰めた。
最初の印象が悪かった延長か、顔を合わせるといつもこんな表情をされる。
致し方ない。







「なんでェ、手前かよ」
「ご不満かな?」
「別に」







口ではそう言うが、表情は“不愉快”と極太マジックで書かれたかのようなものになっている。
言葉にせずとも判り易いその表情に、八剣は嫌われたものだと苦笑した。







「こんな所で何してるんだい?」
「お前にゃ関係ねーよ」






言われて、それはそうだと八剣も思う。
傷付くような事はなかった、こんな返事があるのはとうに予想済みである。


場所は都心の新宿。
雑居ビルの立ち並ぶ街の只中、少々薄暗い道ではあるが、通りから通りへの近道として通行するものは多い。
京一の通う真神学園もそう遠くない場所に位置しているから、此処に京一がいても何も可笑しくはないのだ。

八剣にとってもそれは判りきった事で、単に会話の切っ掛けにしただけのこと。
京一がけんもほろろな態度をするのも予測していたから、次の言葉も決まっている。







「随分、慌てているみたいだったけど」






見通しの悪い雑居ビルの隙間の道。
道の交差する場所など尚更だったが、京一の反射神経を持ってすれば、曲がって直ぐにでも止まる事が出来ただろう。
ぶつかった上に、その相手が八剣であると気付かず、一言短い謝罪まで述べた。

息こそ乱れていないものの、平静とは違う状況であったのは間違いない。


言い当てられた京一は、バレているのが不快だったのか、唇を尖らせる。








「だからお前にゃ関係――――――げッ!」







言い終わる前に、京一は八剣の向こう側にある路地を見て、声を上げた。
それからくるりと方向を変えると、一目散に走り出す。

……その道の向こう側は、確か行き止まりになっていたと思うのだが、それを言う暇はなかった。



一体何があったのかと振り返って、八剣は先刻と同じく、僅かに瞠目。





京一と同じ制服を着た男子高校生が一人、路地の向こうで此方を見ていた。











「………八剣君?」










緋勇龍麻である。


首を傾げて、確認するように呼んだ龍麻に、八剣はどうもと短い挨拶。
龍麻の方は律儀に、小さく頭を下げた。




龍麻の立ち位置から考えても、京一が脱兎の如く逃げて行った原因は彼だろう。
しかし判らないのは、相棒だと言って憚らない人物から、何故京一が逃げているのかと言うことだ。




龍麻はその場に立ち尽くしたまま、辺りをきょろきょろと見回してから、






「京一、見てないかな?」
「―――――いいや」






否定した八剣を、龍麻は問い詰めなかった。
しばし考えるように顎に手を当て、視線を巡らせた後、そう、と短い一言。







「…八剣君は、此処で何してるの?」






都心の雑居ビルの隙間にいる事に今更疑問はないだろうが、棒立ちしていたのが気になるのだろう。
問いかけてきた龍麻に、八剣は表情を変えず、







「猫がいたんでね」







猫? と鸚鵡返しをした龍麻に、もう逃げたよ、と続ける。
どんな猫と問われて、警戒心の強い子猫だと答えた。


人に慣れてはいるけれど、此方から触れようとしたら一目散に逃げて行った。
心を開いた相手には、寄り掛かったり擦り寄ったりするけれど、其処までが酷く遠くて時間がかかる。
何度か見かけている間に、それなりに慣れてきたかなと思ったが、触れるにはまだ早いらしい。
だから八剣が手を伸ばしたら、触れるより先に威嚇して、くるりと背中を向けていなくなってしまった。

―――――そんな猫。



ふぅんと呟いて、龍麻は八剣に小さく手を振ると、それじゃあと言って走って行った。

少しの後、聞き慣れてはいないが、聞き覚えのある幾つかの声。
どうやら、真神の生徒が揃って京一の行方を追っているようだった。





聞き覚えのある声が遠退き、やがて聞こえなくなった頃。
八剣は踵を返し、行き止まりになっているであろう道の奥へと進んで行った。





















思った通り、進んだ道の最後は、行き止まりになっていた。
雑居ビルの隙間に猫が通れる程度の幅はあったが、猫は猫でも、あれは比喩。
流石にあの猫は通れない。


いつから放置されているのか知れない、錆びた鉄製のゴミ箱。
その手前まで進んで、小さく縮こまっている影を見つけた。

憮然とした態度で、正面から挑んでくるのが、この猫の常だ。
だからだろう、縮こまっている姿がなんだか可笑しくて、気付けば笑みを漏らしていた。







「もう行ったよ、京ちゃん」
「……京ちゃん言うな」






周囲を窺うようにきょろきょろと見回しながら、お決まりとなっている返し文句を呟いて、京一は立ち上がった。

表通りと違ってまるで手入れのない場所に蹲っていた所為で、彼の学生服は埃に塗れている。
京一はそれを簡単にのみ払うと、太刀袋に入った木刀を肩に担ぎ、一つ息を吐く。
その吐息が安堵のようなものと同時に、疲労を含んでいるように見えて、八剣は肩眉を上げた。






「鬼ごっこでもしているのか?」
「……なんでそうなる」
「見つかりそうになって逃げただろう?」
「…………」






今更、隠すだけ無駄と言う物である。
しかし、やはりプライドというものが邪魔をするのだろう。

不満をはっきり顔に出す京一に、八剣は提案した。









「理由を話してくれるなら、匿うよ」








八剣の言葉に、京一は目を瞠った。



京一が逃げている相手は、緋勇龍麻並びに真神のクラスメイト達である。
他のメンバーはどうにか撒くことが出来るだろうが、龍麻が相手では容易な事ではない。
何かと一緒にいる人物だから、京一の行動パターンもきっと読めている。

彼らは、今も京一が一人で逃げ回っていると思っているだろう。
舎弟や行きつけのオカマバー等に逃げ込んでも、直ぐに見つかってしまうのは明らかな事。



だが、八剣の介入は想定外である筈。



拳武館の一件から、早一ヶ月。
あの時は命を賭して戦った相手であったが、その全ては誤解と画策であった。
各々思うことはあるものの、既に戦う相手でなくなった相手とは、人にもよるがそれなりの付き合いをするようになっていた。

八剣もその一人であったが、京一の態度はいつまでも頑ななもの。
それも全ては最初の邂逅と、一度でも負けたという事実が、京一のプライドに差し障るのだろう。

だから八剣の方は京一を気に入っていても、京一が八剣を受け入れることはなく、周囲からもそういう認識である筈だ。


――――――そんな京一が、まさか八剣を頼るとは誰も思うまい。





とは言え、京一の性格を考えると、突っぱねるのが常だ。

しかし、京一は考え込んだ。
錆びたゴミ箱に寄り掛かって、視線を落として悩んでいる。


どうやら、本気で彼等から逃げたいようだ。







「……匿うって何処にだよ」
「俺の部屋かな」






問いかけに答えると、京一は判り易く顔を顰めた。

お気に召さないだろうとは八剣も予想していたが、一番手っ取り早くて確実な逃げ場所だ。
寄ると触ると威嚇する相手の家になんて、行く訳がない―――――そう思われるのが当然なのだから。








「拳武館の寮がある。そんなに遠くはないよ」







其処に行くまでに見つからなければ、京一の勝ちだ。


かなり揺れているらしく、京一は腕を組んでまた考え込んだ。
けれどもあまり悩んでいる時間もないと思ったか、顔を上げると、もう一つ聞く、と言った。
どうぞと促す。







「なんで理由なんか聞きてェんだ?」
「俺の個人的な興味だよ」






またしても、先刻よりもくっきりと京一は顔を顰めた。
顰めたままで溜息を一つ吐くと、腹を括って口を開く。









「……………誕生パーティやるって言ってんだよ、あいつら」








―――――それはまた、稀有な理由で逃げ回っているものだ。

彼らが京一を探し、京一がそれから逃げているのだから、恐らくそのパーティは京一の為のものだ。
高校生男子が友達から誕生パーティをされるなんて、京一の性格を考えれば、恥ずかしがったりするのは予想がつく。
それでも、祝ってくれると言うのだから、厭うまでにはならないだろうに。







「京ちゃん、誕生日だったのかい」
「……一応な」
「いいじゃない、祝って貰えば」
「……盛り上がり過ぎなんだよ、あいつらが」







行き付けのラーメン屋の店主に話をつけて、其処でパーティ。
其処にいつものメンバーで集まって、ケーキは女子が大きなものを買ってくると言っていた。
龍麻は吾妻橋に声をかけてくると言って、醍醐は店に飾り付けまですると言っていた。

最初は冗談半分でそんな話になっていたと思うのだが、ノリにノった小蒔が有言実行を宣言した。
小学生じゃあるまいしと京一は拒否したが、龍麻までノってしまった為、もう止められなくなった。


話は更に大きくなって、如月に雨紋、織部姉妹にも声をかけるという提案が出て――――――京一は其処で逃げ出した。


真神のメンバーに祝われるだけなら、照れ臭くはあっても、悪くはないと思っていた。
いや、今でも悪くはないと思っている……こんなに大きな話にならなければ。







「勘弁してくれっつーの………」






顔を片手で覆い、がっくりと肩を落とす京一は、相当参っているのが判る。

人の悪意や敵意に敏感なこの子猫は、どうも友人達からのストレートな好意に慣れていないらしい。
天邪鬼な猫は大変だねェ、と胸中で八剣は笑んだ。



理由はこれだけだ、と言うと、京一はゴミ箱から体を離した。
話したのだから匿え、と木刀を肩に担いで、憮然とした目が八剣に向けられる。








踵を返して歩き出した八剣を、京一は一メートル分離れて、ついて歩き出した。










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Congratulations" is said to the last turn










教室にいると、クラスメイト伝いに後輩からのプレゼントが殺到する。
最初はモテる事実に、面倒臭い顔をしつつも、それなりに機嫌が良かった京一だが、長く続けば次第にそれも萎えてくる。
ぽつぽつと渡される小さなプレゼントも、数が増えれば山になり、紙袋が五つになる頃には、京一も現状に辟易していた。

昼休憩になると、度胸があると言うのか、直接手渡しにくる生徒もいた。
殆どが女子生徒で、渡すとあっと言う間にいなくなるのだが、その後も延々呼ばれ、全く落ち着けない。
屋上に逃げれば、其処で京一がよく授業をサボっていることは知られているようで、数人の女子生徒が待っていた。

渡されたものは貰った京一だが、増えに増えたラッピングの山に、最後は溜息しか出ない。



放課後になると、剣道部の副部長が京一を呼びに来た。
常ならばわざわざ声かけに等来ないというのに。

タイミングと副部長の苦笑いを見て、京一は凡その事を察した。
部員達から誕生祝の催しがあるのだと。


慕われる事に少々の照れ臭さはあるものの、それ自体は決して悪い気はしない。
そもそも、煽てられて(確かに腕も買われたが)部長になった万年幽霊部員である。
指導も滅多にしないとは言え、人気があるのは確かだった。

それなら少しぐらいは顔を出しても良いかと、常の京一ならば思っただろう。
しかし、今日のその頃には、プレゼントラッシュにすっかり疲れ切っていた。
それを今までの事態を知らぬ人間に当り散らす訳もないから、当たり障りのない事と、今日が誕生日である事を忘れた振りをして、京一はさっさと校門を抜けて行った。
後になって少々後味の悪さは残ったが、疲れ切っていたのだから仕方がない。



山のようになっていたプレゼントの中身は、殆どがクッキー等のお菓子だった。

やはり一日で食べられる量ではなくなっており、且つ京一が一人で抱えて帰るのも大変で、葵、小蒔、遠野の三人が分担し、一旦自分の家にもって帰る事になった。
数が数なので、特訓等で皆で集まった時の差し入れにする。
そうでもしないと、傷んでしまい兼ねない。







夕暮れが西の空に姿を隠しつつある頃、龍麻と京一は繁華街の入り口にいた。


京一の手には、中身の少ない薄い鞄と、いつも通り紫色の太刀袋。
それからプレゼントの入った紙袋が一つ。

龍麻はそのプレゼントの中にあった一つ、動物の形をしたチョコレートクッキーを食べながら、二人並んで歩いていた。







「凄かったね、今日」
「……あー……」






朝はモテるんだと豪語した京一だったが、此処まで来ると喜びを超えて疲弊する。
去年までは、知っているのも祝ってくれるのも『女優』の人々ぐらいのもので、彼女達は仕事の前に祝いの言葉と、小さなケーキを一つ差し出してくれるという、ささやかな誕生パーティだった。
知っている人間が増えたと言うだけで、こんなにも大袈裟なものになるものなのかと、京一は溜息を吐く。






「なんでこんなになってんだか」
「今まで渡せなかったからじゃない?」






ボヤく京一に、龍麻は言った。



正面からプレゼントを渡されても、京一は受け取らないと思っていたのだろうと龍麻は思う。
渡されるんなら貰うけどなと京一は言うが、普段接する機会のない人物達は、京一の内面をよく知らないのだ。
“歌舞伎町の用心棒”の異名で呼ばれる京一に、憧れを抱いても、中々正面から向かえる女生徒は少ない。

だから、今日と言う、誕生日という一年に一度だけの大チャンス。
今日ならば渡しても不自然ではないし、誕生日の日にちも遠野によって知れ渡った。
何も不自然な事はない。


今まで渡したくても渡せなかった反動。
それがこの量ではないかと、龍麻は思った。







「凄いね、京一」
「そりゃどーも」
「凄いね」






同じ台詞と繰り返すと、項垂れていた京一が顔を上げた。







「……なんだよ?」
「何が?」






眉間に皺を寄せた京一の言葉に、龍麻は首を傾げる。
そんな龍麻に、京一の眉間の皺はまた一段と深いものになる。







「なんか言いてェ事あんなら、さっさと言えよ」
「別にないけど」
「じゃあ、なんだってんだよ」
「何が?」
「……………」






話がループしている。
早々に気付いた京一は、言い方を変えた。











「不機嫌な面しやがって」










端的な一言に、龍麻は瞠目した。


不機嫌な顔。
自分が。

何のことだろうと思いつつ、京一にそう見えていたのなら、そうなのかも知れないと思った。







「疲れてんのはこっちだってのによ」
「うん」
「言いたいことあるなら、さっさと言え」
「うん」
「お前までオレを疲れさせんなッ」
「うん、ごめん」
「……ったく」






京一の言葉に、何一つ反論することなく、笑んで謝れば、京一からは短い溜息。
そうして、京一の顔を見てから、自分が笑っていた事に―――――さっきまで笑っていなかった事に気付いた。


表情豊かと言う程ではない自覚はあるけれど、基本的には笑みという形を作っていたと思う。
京一が終始不機嫌な面が目立つように、龍麻の場合は笑顔が目立っていただろう。
それが引っ込んでいたから、京一はそれを“不機嫌な面”と称したのだ。

あながち外れてはいない。
言われてからではあったが、龍麻は自覚して、京一の言葉を胸中で肯定した。



龍麻は、手の中にあったクッキーをもう一つ口に運んだ。
どんな子がどんな気持ちでこれを作って渡したのか、それは判らない。
ただ手作り感が滲み出るクッキーは、その子の想いがきっと一杯に詰まっているのだ。
……それを、想い人ではなく、自分が食べるのは、少し酷い事をしているような気もするけれど。

――――――少しだけ、顔も知らない女の子が羨ましくなった。







「京一、教えてくれたら良かったのに」
「あ?」






言い出したと思えば、なんの事だ――――と、京一が顔を歪めた。







「今日」
「…誕生日のことか?」
「うん」
「別に教えるような事でもねェだろ」






聞かれれば答える京一だが、龍麻は結局聞かなかった。
だから、京一が龍麻に自分の誕生日を伝えなかった事に、違和感は無い。
文句を言われる筋合いも無いと、京一は顰め面になる。







「でも、僕は教えて欲しかったよ」
「聞いて来なかったじゃねェか」
「うん、そうなんだけど。でも、教えて欲しかった」






思ったのは、そう思っていた事に気付いたのは、つい先刻の事だったけれど。
教えてくれるのなら、教えてもらって置けば良かったし、知っていればずっと良かった。

だって、そうしたら。












「そしたら、一番最初におめでとうって言ったのに」












真っ直ぐに、視線を逸らさずに言えば、夕映えに照らされた京一の顔が朱色に染まった。
それは多分、夕陽に照らされた所為なのだろうけれど、龍麻には京一が照れたように見えた。
存外に照れ屋(病院で過去の話をされると特に)な性分なのだ、この相棒は。



ビルの隙間から滑り込んだ橙の光は、京一の顔に陰影を作って、その表情を浮かび上がらせる。


常の仏頂面は何処に行ったのかと思うような、きょとんとした、少し子供らしい顔。
野生動物のように辛辣な言葉を述べたかと思えば、ふとした瞬間に歳相応の表情を見せる。

それが、龍麻は好きだった。




無言で龍麻を見返していた京一だったが、ややもするとふいっと目を逸らした。
手首に紙袋の持ち手を引っ掛けて、人差し指で頬を掻く。







「……ンなもん、順番なんてどうでもいいだろが」
「うん。でも、僕は一番が良かったな」






言ってから、でも一番はやっぱり無理だったかなぁ、と龍麻は思った。
昨日は吾妻橋達と一緒にいたようだが、『女優』で一夜を明かしたら、きっと一番は彼女達になったに違いない。



順番なんて関係ない。
ない、けれど。

それでも一番に言いたかった。
だって好きな人の誕生日なんだから、やっぱり一番がいい。







「プレゼントも用意できなかったし」
「要らねェよ」
「でもあげたかった」







葵が言ったようにではないけれど、知っていたら準備したのに。
京一が欲しがるものなんて滅多にないけれど、その時その時、例えば気になるアーティストのCDとか、漫画とか。
そういうものなら、京一自身の口からよく聞いているから、探す事だって出来たのに。

知らないって勿体無いんだな、と思った。






「何か欲しいもの、ある?」
「なんだよ、急に」
「今から何か買おうかなって」
「だから要らねェって。別に何もねェし」
「ケーキ食べて帰る?」
「いらねっつーの……」






オレの話聞いてるか? と京一は顔を顰める。
対して、龍麻は不満そうに唇を尖らした。

それを見て、京一は立ち止まった。


僅かに遅れて立ち止まった龍麻が振り返ると、京一はがしがしと乱暴に頭を掻いている。
口が開いたり閉じたり、言葉を探しているような雰囲気だった。

少し待っていると、京一は視線を外して、






「一番が良かったんだよな」
「うん。一番最初」
「つっても、もう散々言われた後だからな…」
「京一が教えてくれなかったから」
「いつまでそれに拘ってんだよ」
だって教えてくれてたら、一番は無理でも、もっと早く言えたし」
「つーかお前からは、まだちゃんと言われた覚えはねェぞ」






指差して言われた台詞に、龍麻は一瞬きょとんとし、








「………そう?」
「そうなんだよッ!」







首を傾げた龍麻に、京一がきっぱりと言い切る。

考えてみて、確かに、と思った。
会話の中でその言葉は使ったが、はっきりとそれを京一に向かって述べてはいなかった。








「ま、そういう訳だからな。そんなに順番気にするってんなら、一番最後にしてやる」
「………最後?」
「一番がいいんだろ。一番最初ってのはもう無理な話だからな。一番最後だ」
「…一番の意味がちょっと違う気がするんだけど」
「文句言うな」







ずいっと顔を近付けて、京一は龍麻の目を正面から見据える。
間近で見た京一の顔は、やはり夕陽に染められて、朱色が際立つ。
けれどもそれよりも、影になっても判る程、首が赤くなっている事に龍麻は気付いた。

こうして喋っている間にも、京一はこれでもかと言うほど恥ずかしく感じている訳だ。
無理もない、自分が祝ってもらう為に、自分でお膳立てしているようなものなのだから。











「最初が特別だってお前が思ってるのと同じだ。最後だって、特別なんだよ」










多分な、と小さな声が付け足す。







「それをオレ直々に、お前に言わせてやるって言ってんだ」






これ以上でなんの不満がある、と。
上からの物言いだが、その表情が照れ隠しである事を物語る。



じっと京一の顔を見ていると、京一も龍麻の反応を待っていたのだろう。
道端で二人佇んで、互いが動くのを待っていた。

この時期、夕暮れは闇に姿を変えるのが早い。
繁華街のネオンがぽつぽつと明かりを灯し始めて、ようやく龍麻は口を開いた。







「……いいの?」
「良くなきゃ言うか、こんな事。つか、一々言わせんな」






半ば吐き捨てるような口調で言うと、京一は龍麻から視線を逸らした。
そのまま足は繁華街の奥へと向かって進んでいく。

龍麻はそれを追い駆けた。


隣に相棒が並んでも、京一はそちらを見なかった。
龍麻が横顔を見ようとすると、明後日の方向を向いて見えなくなる。
顔を見せたくないらしい。

……耳が赤いのが見えるから、あまり意味がなかったが。

気分を誤魔化すように、京一は手に持った紙袋をガサガサと揺らす。
これでクッキーやらの中身の幾つかは、きっと崩れてしまっただろう。
それを気に留めることはしないけど。






「ね、プレゼントは?」
「要らねェよ。もう邪魔」
「何かない?」
「……だから、オレの話聞けよ」






京一は振り返り、そんなに何か渡したいのか、と問う。
龍麻はそれに躊躇うことなく頷いた。







「じゃあ、ラーメン奢れ」
「いいよ」
「決まりな」






簡単だなぁと思いつつ、京一らしくて嬉しかった。

餃子も頼むかな、と呟いたのが聞こえて、龍麻はそれもいいよと頷いた。
チャーシューも、替え玉も、今日は全部引き受けよう。
だって今日は京一の誕生日なのだから。








「京一」
「あん?」








……明日になったら、また言う人がいるのだろう。
それは『女優』の人々だったり、吾妻橋のような舎弟だったり、真神の生徒だったり。
葵達から話を聞いた友人達の誰かだったりするのだろう。

でも、今日と言う日、“誕生日”の一番最後に言うのは、自分であればいい。
一番最初はもう無理だから、一番最後に。














「誕生日おめでとう、京一」












――――――――……生まれてきてくれて、ありがとう。


















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この日は多分、龍麻の家にお泊まり予定です。


Congratulations" is said to the last turn

















―――――――世界で、一番最初に言いたかったのに


























"Congratulations" is said to the last turn


























下駄箱を開けて、手を入れかけて、京一は気付いた。
其処に入っているのが、自分の上履きだけではない事に。


面倒臭いが、学校生活に必要である上履き。
その上に小さな可愛らしい封筒と、横にはラッピングされた小包。

上履きを取り出す為に浮かした手は、宙ぶらりんの状態で止まっている。
そんな京一の様子に気付いて、既に靴も片付けた龍麻が不思議そうに首を傾げた。
京一は判りやすく眉間に皺を刻み、まるで其処に正体不明の異物が転がっているようである。
――――京一にしてみれば、まさにそんな気分だった訳だが。






「京一?」





どうしたの、と近付いてきた龍麻に、京一は僅かに目を向けた後、無言で自分の下駄箱を指差す。
開けたままの其処を除いて、また龍麻は不思議そうに首を傾げた。






「プレゼント?」
「……だと思うけどな」
「入れる場所、間違えたんじゃない?」
「あのな。莫迦にすんな、オレだってモテんだよ」






胸を張って言う京一に、自分で言わなければ良いのに―――と周囲で遣り取りを見ていた生徒一同は思う。


しかし、嘘ではない。
龍麻がふわふわとした不思議な雰囲気を“ミステリアス”と称して女生徒に人気があるなら、相棒と言って憚らない京一は、全く正反対の気質と理由で人気を博している。

仏頂面が目立つ所為で強面に思えるが、笑うと案外子供っぽい。
喧嘩にしろ部活で臨む仕合にしろ、剣を構える顔付きは凛として、格好良いと言われる事も多い。
最もそれ以上に、周囲の舎弟(取り巻き)と、当人のぶっきら棒さが目について、少々取っ付きにくい感があるのだが。



綺麗にラッピングされた小包を、龍麻が取り出す。
オレンジと黄のボーダーの包み紙を、緑のリボンがしっかりと括っていた。

もう一つ、こちらも綺麗に糊付けされた手紙の封筒には、名前は無く、小さくイニシャルが書かれただけ。
これを京一は、少々雑に指で破って開けた。
取り出した手紙は一つ折りにされた小さなもの。




其処には、『お誕生日おめでとうございます』と、控えめな丁寧な文字。







「………そういやそうだったな」






漏れた京一の言葉を耳にして、龍麻が手紙を覗き込んだ。







「京一、誕生日なの?」
「だな。24日だろ、今日」
「うん」
「じゃあそうだ」






言って、京一は龍麻の手から小包を攫うと、しゅるりとリボンを解いた。
中には星やハートの形をしたクッキー。

ぱくっとそれを口に運ぶと、香ばしい味が咥内に広がった。






「ん、美味い」
「誰からかな」
「知らねェ」






龍麻の当然の疑問に、京一はきっぱり返すと、もう一つクッキーを食んだ。
恐らく手作りであろうそのクッキーは、京一の味覚のお気に召した代物だった。

手紙のイニシャルに覚えはない。
ないが、貰えるものなら貰う。
第一今日は誕生日なのだから、と京一は、見知らぬ人物からの誕生日プレゼントを素直に受け取る事にした。


































「京一、これお前にだってさ!」







小蒔のその台詞と、ドサリと大きな紙袋が目の前に置かれたのは、同時。
いきなりの事になんだと顔を上げれば、不機嫌と言うには柔らかく、しかし穏やかと言うには刺々しいクラスメイトの顔。
そんな顔をされる謂れと、目の前の紙袋との自分の関連が思い付かず、京一は眉を潜めた。






「なんでェ、こりゃあ」
「何って、うちの部の後輩からのプレゼント」
「……弓道部からだァ?」





しかも、後輩と言うからには、一年生と二年生。

今日と言う日のタイミングと、プレゼントと言うのだから、恐らく誕生日というものに関わるのだろうが―――――
何故自分の誕生日を、全く関係のない弓道部の、しかも後輩が知っているのかが判らない。


小蒔が喋ったのかと一瞬思ったが、小蒔に教えた覚えもない。
何より、京一自身がつい数分前、下駄箱にあった手紙を見るまで、綺麗サッパリ忘れていたのだ。



なんで弓道部の奴等が、と問おうとして、それは高い声に遮られた。






「京一君」
「……葵か」
「良かった、いてくれて。来ていなかったらどうしようかと」
「なんでお前がそんな事――――」





気にするんだ、とまでは言葉にならなかった。
葵の手に、今現在目の前にあるものと同様の代物を見つけたからだ。






「これ、生徒会の後輩から、京一君に」
「……だからなんで……」
「だって今日は京一君の誕生日なんでしょう?」
「そうなの?」





始めて聞いたと小蒔が瞠目する。







「私も、生徒会の子に聞いて、初めて知ったの。教えてくれたら、私達も何か用意したのに」






水臭い、とでも言うような葵の口調に、京一は唇を尖らせる。
教えるような理由もなければ、教える程の事でもない、というのが京一の感想であった。







「それにしても、意外と人気があるもんなんだね」
「意外とはなんだ、コラ」
「絶対に京一の本性を知らないよねェ、この子達。教えてあげようかとも思ったんだけどさ、夢は夢のままがいいかなァと思って」
「だ・か・ら! どーゆう意味だ、この男女ッ!」






そのまま京一と小蒔は、定例になりつつある低レベルなケンカに発展した。


すっかり見慣れた光景に、葵も今では気に留めない。
自分の持ってきた袋の中身と、小蒔の持ってきた袋の中身を覗き込む。
それに倣って、じっと事の成り行きを見守っていた龍麻も、葵と同じく袋を覗き込んでみた。

袋の中身は、下駄箱で見つけた小包同様、手作り感の感じられるものが多い。
取り出してみると殆どのものに然程の重さはなく、恐らく食べ物だろうと察する事が出来た。
普段、あまり接触しない人物であるとは言え、京一は良く言えば竹を割ったような性格である。
迷惑なものにならないように、好き嫌いの目立たないものを探して、食べ物に落ち着いたという所か。
しかし、手作りが多いと言う所に、後輩達の本気の色が滲んでいるように見える。

―――――それらを贈られた主は、全くその点に気を置いていないのだろうけれど。



プレゼントのリボンに挟められた、メッセージカードを一つ取り出す。
やはり其処にも、今朝と同じように、丁寧な字で誕生日を祝う文章が連ねられていた。
此方には名前がはっきりと書いてあったが、恐らく京一は気に留めないだろう。




龍麻がメッセージカードを見つめていると、其処にフッと影が差す。
見上げた先には、予想通り、醍醐がいた。







「緋勇、こいつは一体どうしたんだ?」






根が真面目な醍醐にしては珍しく、遅い登校である。
おはよう、と一つ挨拶してから、龍麻は問いに答えた。







「弓道部と生徒会の後輩から、京一に誕生日プレゼントだって」
「京一の誕生日? そうなのか?」
「あれ? 醍醐君、知らなかったの?」






低レベルな口ゲンカを中断させ、小蒔が振り返った。






「え、あ、はい」
「…そりゃそうだろ。言う必要ねェんだから」
「どうして?」






京一の台詞に、すかさず訊ねたのは葵。
京一は、思いも寄らなかった問い掛けに、言葉に詰まる。

いや、京一にしてみれば、何故わざわざ教える必要があるのかという点の方がよっぽど疑問だ。
だから、その疑問を無視して、教えることが前程にあるような質問は、返答に困る。
何せ京一の中で、“誕生日”というイベントは、大した意味を持っていないのだから。


返答に詰まった京一の心情を察してか、話題の転換を図ったのは醍醐だ。







「しかし、俺も知らないのに、随分知ってる人間がいたものだな」
「誕生日のこと?」
「ああ。わざわざ言いふらして回るような性格でもないのに、弓道部と生徒会なんて、それこそ京一と接点がないだろう? 何故こんなに知られているのかと思ったんだが……」
「…そうね。緋勇君は、知っていたの?」
「ううん」






龍麻が首を横に振ったことで、益々この事態は不思議なものになった。

かに思われたが、京一はふと、ある人物の顔を思い出し―――――同時に、その人物が目の前に現われた。









「やっほー、皆ーッ」








明るい声で、いつの間にか3-Bにすっかり馴染んだ隣クラスの友人、遠野杏子。
カメラ片手に5人の前まで来ると、京一にピントを合わせて早速シャッターを押した。








「あらら、やっぱり人気ねー、京一は! 一体幾つ貰ったのよ?」
「………やっぱテメェの仕業か、アン子」







大量のプレゼントを見ても、驚きもしなければ理由も聞かない。
そして探った記憶の中に見つけた、数ヶ月前の会話に、京一は恐らく正解であろう答えに行き着いた。




このメンバーで集まるのが日常的になって来て、各々が打ち解けるようになった頃。
何かの会話の流れで、誕生日の話になり、遠野にそれを問われたのを辛うじて覚えていた。

わざわざ自主的に言う必要はないと思っている京一だが、質問されれば答えるのが普通のこと。
またこれで遠野のデータが一つ増えたと、その程度の事だったのだ。
全校生徒のありとあらゆるプロフィールを暗記している遠野である、今更何を警戒する必要もなかった。


それ以後も以前も、京一が高校生になってから、誕生日の話題をした記憶はない。
ならば、誕生日を知っており、尚且つそれを広める手段を持っているのは、遠野以外他にいない。




目を細めた京一に、遠野は笑う。






「ほら、前に京一の特集やったでしょ。あの時プロフィール載せたのよ」
「京一の…って、あの“不良少年24時”?」
「…ありましたね、そんなの」
「でも、確かに載せたのは私だけど、其処まで見るかは読者次第。私の所為じゃないわよ」
「お前が載せなきゃ、こんな面倒な事にもならなかったんだよ」






紙袋一杯に入った自分へのプレゼント。
それに視線を落とし、迷惑、とばかりにがっくりと頭を垂れる。

好意を向けられることに、京一は慣れていない。
それでも貰えるものは貰っておくが、数が数である。
これを抱えて歩くのは、正直言って面倒だった。


溜息を吐く京一に、龍麻はプレゼントを一つ取り出し、その中身を確認してから、





「殆ど食べ物みたいだから、お昼に食べちゃえばいいんじゃないかな」
「数、多過ぎ」
「皆考えることは一緒なのね」






龍麻の提案は悪くは無かった。
が、昼休憩に目一杯食べても、恐らく半分も減らないだろうと思われる。
育ち盛りとは言え、決して大食いとは言わない京一にとって、この量をほんの数時間で完食など、到底無理だ。

更に、遠野の新聞の影響力は強い。
部員一人で製作される校内新聞であるが、遠野の文章力と、彼女自身のジャーナリスト根性の成せる業か、人気はあるのだ。
いつだったか製作されたマリア・アルカード特集も、あっという間に売り切れだったという話。
人伝いに渡そうと思っている生徒達はまだまだ要るだろうと、一同は予想した。




―――――――そしてそれは外れることなく、続々と運び込まれてくるのであった。









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Ailuropoda melanoleuca














ふわふわ もこもこ

しろとくろ


























【Ailuropoda melanoleuca】



























テレビの動物番組で、パンダの特集をやっていた。

その度、いつも動物番組なんて露程の興味を示さない息子が、食い入るように見入ってテレビ前から離れない。
日中に稽古をして、夕飯を終えた後、番組が始まる前からテレビ前でスタンバイする念の入れようだ。


物心着く以前でも、動物図鑑のパンダのページばかり開いて熱心に見詰めていたし、お気に入りの絵本も殆どがパンダが主人公になった話。
じっとしているのが苦手な子供なのに、パンダの絵を見ている時は大人しい。
ぐずって泣き止まない時には、パンダの絵で泣き止ませていた時期もある程だ。



だから、息子がパンダが好きである事は、家族によく知られていた。
どうにも素直でないから、好きか嫌いか本人に聞いても、「別に…」なんて答えが返ってくるのだが。





そんな訳で、今日も今日とて、息子は動物番組に見入っている。
カーペットの上に座り込んで、何も言わずに、夢中で。

その隣に並んでテレビを見ている娘の方は、見たい番組が見れなくて拗ねていた――――そう、過去形だ。
此方も決して動物嫌いではないし、子猫や子犬を見るのは好きだから、その内一緒になってじっと見ているようになった。
見たいと言っていた裏番組は録画してあるから、後で姉弟喧嘩が始まる事もないだろう。


画面の中でパンダの姿が映る度、息子は前のめりになる。
シーンが切り替わると元に戻る、この繰り返し。



時刻はもう直ぐ夜八時。
そろそろ風呂に入らせようかと母が呟くが、息子は梃子でも動きそうにないし、娘の方もテレビに夢中。

二時間のスペシャル枠で放送されているこの番組は、終わるまで後一時間ある。
一分あるかないかのCMの時間で入らせるなんて、とんだカラスの行水に終わってしまう。
録画もしていないから、此処で無理にテレビ前から離したら、娘はともかく息子は間違いなく癇癪を起こすだろう。

結局母の希望は叶わず、父母と姉弟と家族四人揃ってテレビを見て過ごす。



もこもこのぬいぐるみのような白黒が、画面の中でぴょこぴょこ動く。
他のパンダよりもずっとずっと小さなそれは、約半年前に生まれた子供だと言う。






『――――動物園では、来月の一日から、この子パンダの展示を始める予定です』






ナレーションがそう告げた直後、息子の肩がピクッと跳ねた。
ずりずりと、カーペットに座ったままで前に進む。




小学生の息子と娘は、もう直ぐ春休みに入る。
番組で紹介されたパンダがいる動物園は、此処から電車を乗り継いでいけば一時間程度で着く。


息子が普段欲しがるものと言ったら、食べ物関係ばかりだ。
物欲に関して言うと、学校の友達の間で何か流行があっても、当人は特に興味を示さないことが多い。
強請るものは大体、気になるお菓子があったりだとか、稽古の後の空腹で母にちょっとだけつまみ食いだとかだ。

好きな事や物は何かと聞かれると、息子は躊躇わずに「剣」と答える。
ただ一心にそれに打ち込んで、脇目も振らない。



そんな息子が、剣術以外で最も興味を示すもの。








それが、ふわふわでもこもこの、ぬいぐるみみたいな白黒だった。






































入園チケットを切って貰って園内に入った途端、京一は母親の手をぐいぐいと引っ張った。



チケットを買っている間さえ待ちきれない様子で、早く早くと母を急かしていた京一。
二歳年上の姉から「恥ずかしいから静かにしてなさい」と怒られても、お構いなしだ。
まぁ、その姉の方も、待ち遠しそうにうずうずしていたのだけれど。

放って置いたら一人で広い園内を駆け回って迷子になりそうだったので、絶対に手を繋いでいる事を約束させた。
目当ての場所に早く行きたい京一は焦れたが、それが出来ないなら帰るぞと言われ、渋々母と手を繋いだ。



父と、その父と手を繋いでいる姉の事はすっかり放って、京一は走る。
引っ張られる母は危ないわよと言うが、息子はまるで聞いていない。

その背中を見る姉は、子供なんだからと呆れた風に呟いた。
そんな娘に、いつの時代でも女の方がマセるもんなんだなと、父は内心で一人ごちた。




京一が見たがっているのは、ただ一つ。
ふわふわでもこもこの白黒―――――パンダだ。




少し前のテレビ番組で見たパンダ。
あの時、特集に組まれていた子供のパンダが、最近公開された。

ニュースでも公開された子パンダに、京一は興味津々だった。
それを見た父が、動物園に行くことを遠回しな言い方(そうでなければ、「興味ない」なんて言いかねないのだ。本当は行きたいくせに)で誘えば、案の定息子は頷いた。


その約束をした日から、京一はずっと行ける日を首を長くして待っていた。
カレンダーに、姉が持っていた光るラメ入りの赤ペンで丸印をつけた位だ。

前日は興奮して中々寝れず、かと思ったら今朝は一番に起きていた。
日課の稽古も浮き足立った精神でまともに出来る訳もなく、フヌケんなと父に思い切り叩かれた。
いつもだったら不貞腐れそうな扱き方をした父だったが、今日は全く上機嫌。
朝食が済んだら、「まだ行かねェの」「いつ出んの?」とずっと母に言っていた。

母が家事を一通り済ませて、ようやく行けるとなったら、京一はやっぱり一番に玄関を飛び出した。
それから最寄駅に行って、電車に乗って、動物園の最寄駅に到着して―――――その間、京一はちっとも落ち着かなかった。






待ちに待ったパンダ。
大好きなパンダが見れる。

それも、本物のを間近で!




京一はすっかりテンションが上がっていた。
パンダの展示場所に行くまでにも、色鮮やかな羽を持った鳥や、両の手足が胴より長い猿がいるのに、全く止まらない。
京一が見たいのはパンダだけなのだ。

置いてけぼりを食らった姉が待ってと叫んでも、京一は止まらなかった。
姉は結局父に抱きかかえられて、弟と引っ張られる母を追う。


山の中に作られた動物園だから、ルートの殆どは坂になっている。
でも、そんなものがなんだと言うのだ、京一には何の障害にもならない。
母の方は少々応えているのだが――――生憎、京一の頭の中は白黒のもこもこで一杯だ。
周りなんて見る余裕はない。




それ位、京一はパンダを楽しみにしていた―――――のだけど。






パンダの展示室に着いた途端、京一はぴたりと立ち止まった。
同じように母も傍らで足を止め、中の様子に眉尻を下げる。






「おぅ、どうした?」






追い着いた父が背中に声をかけると、母が肩越しに振り替えし、展示室を指差す。
娘を抱えたままで父が中を伺うと、ああ成る程と納得した。



展示室のガラスの前には、人、人、人。

京一と同じか、それより小さな子供達が張り付いて離れない。
子供の後ろでは親やカップルがカメラを構えて止まっていて、観覧の流れが完全に止まっている。
警備の人が「立ち止まらないで下さい」と声をかけるが、まるで聞こえていない様子だ。


京一達の後から来た家族連れやカップルも、同じように足を止める。
それから此処は駄目だと、くるり踵を返して次の順路へ向かい始めた。






「…まぁ、仕方ねェな」
「…………」






母の手を握ったまま、俯いてしまった息子の頭を、父がくしゃくしゃに撫でる。
その父の腕の中に抱かれている娘も、少し残念そうな顔をした。


パンダの人気は、何処の動物園でもかなり上位に入る。
此処の動物園は、特にこのパンダを売りにして、尚且つ今は生後半年の小さな子パンダもいるのだ。

皆これを目当てに来るのだ。
楽しみにしているのは、京一一人ではない。






「他の所に行こうぜ。時間が経てば、もう少し落ち着くだろう」






父に促されて、母はそうねと苦笑いする。

なんとか割って入って見る事は出来るかも知れないが、やっぱり危ない。
まだまだ人は増えそうで、押し合いへし合いでゆっくり見れる訳がない。



だが母が手を引いても、京一は中々其処から動こうとしなかった。






「京一、行くぞ」
「………」
「見ないって言ってんじゃねェんだ。後でまた来るんだよ」






父に言われて顔を上げた京一は、口をヘの字に曲げていた。
今見たいんだと言わんばかりだ。

でも見たくても見れない状態なのも判っている。


仕方なく、母が息子を抱き上げて、ようやくその場を離れる。










それから、レッサーパンダを見て。
トラを見て、ライオンを見て、ゾウを見て。
ゴリラも見て、サルも見て。

ワニを見て、カメも見て、カメレオンも見て。

ネズミと思えないくらい大きなネズミも見たし。
ふれあいコーナーでヤギも触ったし、羊も触った。
夜行性の動物の展示室では、娘が怖がって泣いた。

大きな馬、小さな馬、中くらいの馬。



昼食は休憩所で採った。
動物の顔を象った皿に盛られたカレーを、京一は綺麗に食べ切った。

食べたら直ぐに先に行きたがる子供達に、両親はゆっくり休む暇なく苦笑しながら歩き出す。



殆ど動かない大きいウサギ、ぴょこぴょこ動く小さいウサギ。
ツンツン尖ったハリネズミ、跳ねるみたいに歩くネズミ。
池ではカモが子供と一緒に行進する。

シロクマが水の中に飛び込んで、大きな水柱が上がる。
よちよち歩くペンギンが、娘はすっかり気に入った。
京一はアシカの餌やり体験に参加して、怖がる様子もなくアシカに触っていた。





楽しかった。
楽しめた。

触れる動物には触ったし。
参加できるものは参加したし。
見れるイベントは全部見たし。


楽しかった。






………楽しかったのだけど。










大都会の真ん中にある動物園だが、広さはかなりのものがある。
ゆっくりじっくり、全部を見回ったら軽く半日が過ぎてしまう。

そうして全てを、ようやく見終わって―――――もう一度、あのパンダの展示室へ来たのだけれど。






「………減ってねェな」






呟いた父の傍らにいるのは、息子一人。
妻は、歩き疲れてしまった娘と一緒に休憩所で待っている。



最初に此処に来てから、かなり時間が経っている筈なのに、パンダを見ている人の数は変わらない。
人垣の騒がしさは幾らか落ち着いてはいるが、ぱっと見た全体の数は、あまり減っていなかった。

家族連れのピークは過ぎたのか、子供の姿は殆ど見えない。
代わりにカップルや写真家らしき大人達がいて、完全にガラス前を占領していた。
進んで下さいと警備員が言うと、数人は出て行くものの、直ぐに隙間が埋まってしまって京一が滑り込めるような場所はない。
無理に入れば、大人だらけの今だから、尚更小さな子供は潰されてしまいそうだ。


父が京一を肩車しても、果たして見えるだろうか。
人垣はそこそこの厚みがあって、パンダは低い場所にいるらしく、おまけに写真だけでも撮ろうとしている者もいるようで、それらは手を上げてカメラを高く掲げて構えている。
子供が動かないより性質が悪いなと、ハードルが上がり過ぎている光景に、父は溜息を吐いた。






「おい京一、どうすんだ」






もう一度パンダのとこ行くか、と。
先刻そう言った時は、嬉しそうに瞳を輝かせていた息子。
今はすっかり意気消沈して、真一文字に口を噤んで、崩れない人垣を見ている。


楽しみにしていた筈だ。
多分、此処で夢中になってカメラを構えている大人達よりも、ずっと。
さっき見れなかったから、尚の事。

人垣を見る瞳が、泣き出しそうに揺れているのは気の所為ではないだろう。
素直じゃなし、幼心にプライドが赦さないから、泣く事はないだろうけど。



コツン、と父は京一の頭を小突いた。






「どうすんだ。此処で突っ立ってても見れねェぞ」
「…………」
「それとも、もう帰ンのか」






ぶんぶん。
頭が横に振れた。


見たい。
でも見れない、見えない。

今じゃなくても見れる機会はある、家から此処までは片道一時間だ。
子供の京一には決して短い距離ではないが、絶対に来れないと言う程でもない。
時間の折が合えば、父でも母でも、また連れて来て貰えるだろう。

でも、今見たい。
見えないけど、今、見たい。





くしゃり、大きな手のひらが京一の頭を撫でる。

その手が京一の手を掴んで、展示室の端へと引っ張った。
壁に背中を預ける父の横で、京一はしゃがみ込んで人垣が減るのを待つ。






ふわふわのもこもこ。
ぬいぐるみみたいな白と黒。

一度でいいから、本物が見てみたかった。


ふわふわのもこもこ。
ぬいぐるみみたいな白と黒。

抱きついたら、どんなに気持ち良いだろう。
触れないのは判っている、でももしも触れたら。
どんなにあったかいだろう。








ふわふわ、もこもこ。
すぐそこにいるのに、見れない。









そう思っていたら、突然体が宙に浮いた。
子猫が捕まえられるみたいに、シャツの後ろ襟を父に掴まれて。

足が地面に着かない不安定さに京一はひっくり返った声を上げたが、父は下ろしてくれなかった。
スタスタ歩いて、その度京一は揺れて、呆然としていたら視界が人の足や服で埋まった。


数歩歩いて父が立ち止まり、京一は地面に下ろされる。
急にぶら下げられて急に下ろされて、頭が現状について行かず、足が少しふらついた。
お陰で丁度頭の高さにあった手摺りに額をぶつけて、痛くて蹲る。

なんなんだよ、と説明も詫びもしてくれない父に頬を膨らませていたら。







ぬ、と目の前に現れた、白と黒。







「わ、」






京一の視界全部を埋め尽くす、白と黒。
ふわふわのもこもこの、白と黒。






「………ぱんだ、」






ずっとずっと見たかった。
ずっとずっと待っていた。

ふわふわのもこもこの白黒。




京一が蹲ったまま動かずにいると、目の前の白黒も動かなかった。
まるで京一の事をじっと見つめているかのよう。
ずっと見詰める京一を、同じように。


そろそろ手を伸ばしてガラスに触れてみると、分厚い透明な壁の向こうでパンダが前足を持ち上げた。
ガラスに前足をぺたりと乗せて、まるで京一と大きさ比べをするように手を合わせる。

パンダの前足は、幼い京一の手よりもずっと大きい。
透明なガラスにぺたりと触れた肉球の形を指でなぞって見ると、パンダは前足で何度かガラスを叩く仕草をして見せた。
それが嬉しくてガラスに両手をつけたら、鼻先で匂いを嗅いでくる。



大きなパンダの横からひょこり、小さな白黒が顔を出した。
京一があの日テレビで見ていた子パンダだ。

テレビで見た姿よりも、少し丸くなってコロコロしている。
小さなパンダは、大きなパンダよりも、もっとぬいぐるみみたいだった。
抱っこして頬摺りしたい位。



大きなパンダがのっそり後ろを向いた。






「あ、」
「お帰りだな」






名残惜しげにガラスに食い入る京一を、父が少し強引に抱き上げた。
俺達も帰るぞ、と耳元で言うのが聞こえる。

上に上っていく京一を、小さなパンダが見上げていた。


大きなパンダが戻ってきて、子パンダの背中を鼻先でつついて。
大きなパンダがまた後ろを向くと、子パンダも振り返って、親の後を着いて行く。

父が展示室を出て行くまで、京一は父の肩越しにその様子をじっと見ていた。




そして、京一が展示室を出る間際。
小さなパンダがくるり、振り返って。







(―――――――目、合った)







……それは、気の所為だったかも知れない。
たまたまパンダの頭がこっちを向いていただけかも。

でもこっちを見ていたんだと、京一は思った。











ふわふわしていて、もこもこで。
大きなぬいぐるみみたいな、白と黒。

ずっとずっと、一度でいいから見たかった。



見れた。
見れた。

あんなに近くで、目の前で。



嬉しくて嬉しくて、顔がにやける。

父がだらしねェ面してるぞ、と言った。
ほっとけと言ったけど、別に腹は立たなかった。


休憩所に行くと、母が眠った娘を負ぶって待っていた。
珍しく父に抱えられて機嫌が良さそうな息子に、母の顔が綻ぶ。

休憩所にある土産コーナーで、キーホルダーやコップを買った。
息子に釣られたように機嫌の良い父も、奮発すると言って大きなパンダのぬいぐるみを買った。
それを持ってろと渡された時、息子は少し赤い顔をしたが、突っぱねる事はしなかった。





帰りの電車の中で、息子は父に寄り掛かって夢路に着いた。
その腕の中に、綺麗にラッピングされたパンダのぬいぐるみを抱いて。














明日から多分、

ふわふわのもこもこに顔を埋める子供の姿があるのだろう。

















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独自設定全開。
だって京一がパンダパンツなんか履いてるから!!(なんだその理由)

この話の京一は、多分まだ小学校低学年だと思います。
そんな小さい京ちゃんがパンダに顔埋めてるトコ想像したら、物凄い萌えて悶えたんです。
ぬいぐるみ抱っこして寝てる子供って可愛いですよね~v


タイトル【Ailuropoda melanoleuca】はジャイアントの学名です。