例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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vestiges carve















其処に、僕がいるという証を。


























【vestiges carve】


























唯一、行方知れずで生死すら危ぶまれていて。
微かに拾い上げる事の出来た点を線で結べば、出てくる答えは考えたくもない事ばかりだった。





大丈夫だと、理屈ではない何かが龍麻の心中に確信を持たせていたけれど、それも云わば単なる勘だ。
根拠のない言葉に雨紋は顔を顰めたし、如月もいぶかしんだ顔を見せていた。
逆の立場であれば自分も同じ顔をしただろうから、彼らの言葉は最もだったと思う。

寧ろ、どちらかと言えば、ああして言い切れた事の方が龍麻にとっても不思議だった。
だって自分は誰よりも先に、彼の身に何かあったのではないかと言う“点”を見付けたのだから。


龍麻が“壬生紅葉”と名乗る人物と闘った後。

転げるように龍麻の下にやって来たのが、吾妻橋を除く墨田の四天王の三人だった。
殆ど支離滅裂になって必死になって説明しようとする彼らの言葉の中で、まともに聞き取れたのが「アニキが」「吾妻橋が」「妙な奴が――――」の三つ。
京一に限って何か起こるとは思えなかったが、それでも何処か胸騒ぎがして、彼らが言うように真神学園に赴いた。


そうして―――――降りしきる雨の中で、唯一つ。
何処に行こうと手放さなかった筈の木刀の一端が、まるで墓標のように佇んでいるのを見つけた。



何度呼んでも、聞こえてこない返す声。
面倒臭そうに、仕方ねェなと言うように返ってくる笑顔がなくて。
………狼狽したのを覚えている。

けれどもそれ以上に、その後、冷静だった自分自身に驚いた。
京一がいない事を心配する面々の中で、一人、大丈夫だと言い切れた事も。




醍醐の事も、小蒔の事も心配だった。
見付からなかった時も、見付かった後も。


それなのに、何故だろうか。

見つけた点を線で結べば、嫌な答えしか出て来なかったのに、雨紋や如月もそうであったのに。
どうしてか“大丈夫”と言い切る自分がいて、其処に証はないのに確信を持っていた。







そして。
立ち込めた雲の切れ間、長かった夜が明けて。

光が差し込んだ瞬間を、龍麻はまだ覚えている。


































思う所は、色々あって。
それは恐らく、誰の胸の内にもそれぞれの形で点在していた。

失われた道に迷う者、新たな標に向かう者、変わらぬ日常に戻り行く者がいて―――――その中で、龍麻は日常に戻り行く者だった。


全てが終わった夕刻は、家路に着く気力もなく、それは他の真神メンバーも同様だった。
真面目な葵も今回ばかりは疲労もあって、気は進まないような仕種は見せるも、結局彼女も家にも帰らなかった。
また小蒔もそれは同じで――――恐らく、今はもう暫く一人になりたくなかったのだろう。
龍麻と京一は傷の手当、醍醐は《力》の覚醒の負担や様子見の為、真神の面々は織部神社で当日をやり過ごす事になった。

如月は自分の骨董品屋へ帰り、雨紋もふらりと街へ流れた。
今日はもうこれ以上、何某か起こることはないだろうと。




期せずしてお泊り会のような雰囲気になった事に、女子メンバーは何処か楽しそうだった。
お喋りに花を咲かせる葵、小蒔、織部姉妹に、気楽なモンだと京一は呟く。
最も、そう言う京一も漸く訪れた静寂に気が緩んで、盛大な欠伸などを漏らしていたが。

それでも一晩の内に様々な事が立て続けに起きて、疲れていたのは誤魔化せない事実。
最初に葵が、次に小蒔が畳の上で寝落ちた後、織部姉妹も今日一日はと龍山に断りを入れて、二人と一緒に眠りに落ちた。


畳の上じゃ流石に辛いだろうと、龍麻が布団を敷き始めると、醍醐も動いた。
最初に小蒔を、次に葵を布団に運ぶ。

京一はそれを見ていただけだったが、龍麻も醍醐もそれを咎めることはしなかった。
今の彼が実は立ち上がる動作をするだけで辛いと言う事を、二人は重々理解している。
本当なら、行きつけの彼の大嫌いな病院に行った方が良いだろうと言う事も。



京一の学ランの下。
借りた白いシャツのそのまた下に、幾重にも巻かれた包帯。


戦闘続きで解けかけたそれを、京一は直していない。
恐らく、そうする事も今は辛いのだ。
傷の痛みと疲労と、二重に圧し掛かる圧力が、京一の体力の回復を妨げている。

葵や雛乃が心配して治療しようとした手を、京一は平気だと言って断った。
小蒔や雪乃が怒鳴ってみても聞かないから、だったらせめて気になるから隠せと、シャツを押し付けられたのである。

断ったのは多分、京一自身のプライドと、其処に隠された傷を見せない為。
平然と動き回って木刀を振るっていたけれど、龍麻は彼の動きが何処かぎこちないのを見逃さなかった。
つまりそれ程、負わされた傷は深いもので―――――だからそれは人に見せたくないし、増して女子に見せるものでもないと。








「……意地っ張り」








ぽつりと漏らした声に、京一が顔を上げた。






「……なんでェ、いきなり」
「別に」






眉根を寄せた京一の顔を、龍麻は見なかった。



広い座敷の真ん中で、葵、小蒔、雛乃、雪乃の四人が寝ている。
その傍で甲斐甲斐しく、布団をかけなおしたり、暑くはないか寒くはないかと戸の開け閉めをしているのは醍醐だ。

其処から少し離れた同じ空間で、京一は開けた障子戸に寄りかかり、何をするでもなく外を見ている。
龍麻はその隣で、同じく何をするでもなく、茶を啜っていた。


京一は、時折、居心地悪そうに姿勢を変えたり、腹に手をやったりする。
触れた其処に傷があるのは誰が見ても判ることだ。
包帯が解けかけたままだと言う事も、京一が落ち着かない原因の一つだろう。






「包帯」
「あ?」
「貰って来る」






京一の返事を待たずに、龍麻は立ち上がった。
出入り口を塞ぐように座っている京一を跨いで、廊下に出る。

京一は何も言わず、見送ることもしなかった。




京一の包帯が、何処で誰に巻いて貰ったのか、龍麻は知らない。
けれども既に崩れかかったそれが、治療道具としての役割を破棄している事は明らかだ。
もう随分時間が経っているようだし、戦闘による汗で緩んでいるだろう。

だけれど女子が起きている横で、傷を晒すのは良しとしなかった。
手当ての為に一日此処に残る事にした筈なのに、平気だと言って彼女達の手を振り払って。



―――――もう寝ているんだから、気にしなくても良いのに。



思ったが、口にはしなかった。
京一のプライドに障るのは、女子からの心配の言葉だけではない。

一度とは言え敗北の二文字と共に負わされた傷。
簡単に人に曝け出せる訳がない。
自分の剣の腕に自信を持っていたからこそ、そのダメージは計り知れないのだ。





部屋を二つ三つと通り過ぎた先、広い座敷に龍山と道心――――それから、鳴滝冬吾を見つけた。
どうも難しい雰囲気で話をしているようで、どうやって声をかけたものかと暫く迷って、






「ん? ……おォ、お前ェか」






振り返ったのは、道心だ。
それに倣って、龍山と鳴滝も此方を見る。






「どうした?」
「えっと……包帯を、貰おうと思って」






京一が手当てを受けていない事は、恐らく、この人達も知っているだろう。
小蒔や雪乃の高い声は、此処まで聞こえていただろうから。


龍山が示したのは、開けた襖の向こう、隣の座敷の桐箪笥。
一つ頭を下げてから、龍麻は座敷に上がらせて貰った。

上から三段目だと言われたので、其処を開けると、年季の入った薬箱があった。
何が必要になるかは判らなかったし、あまり長居するのも良くない気がして、箱ごと借りる事にする。
ふとすれば底が抜けてしまいそうに古めかしい箱を、落とさないように気をつけて抱えた。



座敷を後にしようとした直前、声がかかる。






「龍麻」






それは鳴滝の声だった。

振り返ると、数ヶ月前まで毎日のように見ていた師の優しい面がある。
これが修行となると鬼のようになるのを思い出して、懐かしくなって笑みが漏れた。


ほんの数秒間の沈黙の間に、境内の向こうから虫の声が聞こえる。
陽が西に沈みつつある今、見える世界は緋色のフィルターがかかっているようだった。

その何処か寂しげな色の中で、師はゆっくりと口を開き、








「学校は、楽しいか?」








……その問いは、恐らく言葉の形だけのものではないだろう。


―――――今まで、龍麻がどんな学校生活を送っていたか。
師は全てとは言わずとも、知っている。

人の輪の中にいながら、何処か一人でいるような。
両手で有り余る程の人の中にいるのに、隣に誰もいないような。
………そんな日々を。



楽しいか、楽しくないか。
寂しいか、寂しくないか。

隣に誰かいるのか――――――









「――――――――はい」










頷く事に、迷いはない。



今年の春から、今日まで。
思い出してみれば、必ず浮かんでくる顔がある。
それは笑っていたり、怒っていたり、呆れていたりと様々で、龍麻はそのどれもが好きだった。

一番最初に何もかも曝け出してぶつかってきてくれた、あの瞬間から。


それから少しずつ輪が広がって、今となっては、昔の自分が驚く位だ。
《力》が呼び合うものだけだとは言い切れない、沢山の糸が沢山の人に繋がっている。





師の笑みを見つけて、龍麻は頭を下げてその場を後にした。





元来た廊下を真っ直ぐ戻れば、ほんの数秒で、出てきたばかりの部屋に辿り着く。
京一は龍麻が其処を出た時と同じ格好で、同じ場所に座っていた。

差し込む夕陽の茜色が、京一の顔を照らし出す。
京一は障子戸に寄りかかり、木刀を腕に引っ掛けて目を閉じていて、一見すると眠っているようにも見えた。






「包帯、貰ってきたから、手当てしよう」
「…………」






陽光を遮るように、翳を作って京一の傍に立つ。
しかし、京一からの反応はなかった。






「京一?」






呼びかけると、僅かに瞼が震える。
だが持ち上げられる事はなかった。

その場に座って、京一の頬に触れてみると、明らかに熱を持っている。


ちらりと葵達の方を見遣ると、寝返りも打たない程に深い眠りの中にいるようで、寝言の一つも聞こえてこない。
傍らで甲斐甲斐しく世話をしていた醍醐も、座った姿勢のままで舟を漕いでいた。

其処に龍麻の存在もなくて。

ほんの一分二分程度の時間で、張り詰めた糸が切れたのだろう。
常と変わらぬ所作を装う事も、やはり限界だったと言う事か。
精神よりもとっくに音を上げていた体の方が悲鳴を上げている。






「……意地っ張り」






そうなったら、プライドも何もないだろうに。
この隙に誰かに傷を見られてしまうのだから。

……今なら見つかってもきっと龍麻だろうからと――――そう思っているのなら、少しだけ嬉しかったけれど。


負けた事だとか、深手を負わされた事だとか。
龍麻も見られた事があるから、これでお相子だろう。




出来れば横にさせたかったが、そうすると恐らく起きるだろう。
この熱では、然程深い眠りには落ちれない。


そっと、汗の滲んだシャツをたくし上げる。
薬箱の中にあった小さな鋏を取り出して、すっかり緩んでいた包帯を断ち切った。

取り払った包帯の下にあったのは、深く長い、大きな――――――刀傷。






「……ッ………」
「……痛い?」






身動ぎする肩を捕まえて、圧迫しない程度に抑えて問う。
意識のない今、返事などある訳もないのだけど。



起きている時は、時折一瞬、顔を顰めていたりもした。
それでも覚悟の上の痛みなら耐えられるし、他の事でも考えて誤魔化す事も出来る。

だが眠っていようとも、夢を見れるほどの眠りでもない今。
あるのは痛みを訴える肉体と、無防備になった所為でそれを噛み殺す事の出来ない脳。
痛みを純然たる“痛み”として、体に危険信号を送っている。


京一の右手が彷徨った。
恐らく、探しているのは木刀だ。

立てかけているそれに辿り着く前に、龍麻はその腕を捕まえた。






「……ぅ……ッ…」
「……ごめん」






逃げるでも、耐えるでもなく、無意識に選んだ行動は恐らく“反撃”。
負わされた傷への反発。



―――――でも、此処にいるのは自分だから。




起こせば良いのだろうけれど、龍麻はそれをしなかった。
今なら、起こした所で自分を押し返す力もないだろうと、それも判っていたけれど。








「京一………」








傷の隣に触れてみる。
一瞬、京一の肩が跳ねた。



恐らく、この傷は残るだろう。
裂けた皮膚は繋がる日が来るだろうが、今度は繋がった痕が残る。
京一の大嫌いな病院に引き摺っていっても、これは多分変わらない。

寧ろこれだけの傷を負って、痕が残るだけで済むのが可笑しいのかも知れない。
……同じような傷を、自分も負った事があるから、龍麻には判る。


癒えない傷、消えない傷。
きっと一生残る傷―――――――………







「………―――――ッ」







そっと顔を近付けて、傷の形を舌でなぞる。
直接触れた所為だろう、痛みに無意識に耐えるように京一の右手が拳を握った。















学校は、楽しい。
クラスメイトがいて、遠野が来て、葵が小蒔が醍醐がいて、――――――京一がいる。


桜が舞うあの日から、今日という日まで、ずっと。
例えば其処に何某かの運命が―――《宿星》が―――動いていたとしても、今はそれに感謝したい程で。

だって、皆と、彼と出会うことが出来たから。



一番最初に、何もかもを強引に引きずり出して、曝け出して、ぶつかってきてくれた。
その瞬間の喜びを、忘れられる訳もない。
それからもずっと隣にいてくれる事が、とてもとても嬉しくて。

だから学校は楽しいし、その後の時間も楽しくて、離れている時間も決して寂しくはなくて。
明日会えるのが楽しみだから、誰かが笑いかけてくれるのが楽しみだから。





でも、もしも。
あの雨の中で感じた、一瞬のざわめきが、もしも今も続いていたら。

あの時、光が差していなかったら――――――






師の問いに、なんと答えていただろう。





















微妙なバランスを取っていた木刀が倒れて。
カタリと音を立てて、それが覚醒に繋がったのだろう。

ふるりと震えた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
覗いた瞳は何処か茫洋としていて、傷の深さと熱の高さを物語る。
意地っ張り、と龍麻は今度は胸中で呟いた。






「………っあ……?」






ぼんやりとした瞳で、京一は自分の腹の位置にある龍麻の頭を見下ろした。

右手が動かないのも、抱えていた筈の木刀がないのも、今は判らないのだろう。
混濁しかかった頭は現状に中々追いつかないようで、じっと龍麻を見つめる。






「……たつま……?」
「うん」
「……ぁ…に、して……」






何してんだ?
なんだろう。

言葉よりも瞳で問いかけられて、龍麻はそんな返答をした。
ふざけんなと、左の拳が落ちてくる様子もない。


また傷の上に舌を這わす。
ビクッと京一の躯が跳ねて、捕まえたままの右手に力が篭る。

逃げを打つように身を捩った京一だったが、還って傷に響いたのか、歯を食いしばって仰け反った。






「じっとしてて」
「……っは……ぁ…?」






零れた京一の吐息に熱が篭っていて、龍麻は奇妙な既視感のようなものを感じていた。






「う……ッ……」






消毒にしては乱暴で。
愛撫にしては丹念過ぎて。

繰り返し繰り返し、傷を舐めて、その都度京一の喉から熱い呼吸が漏れる。






「龍……」
「あんまり声出すと……」
「………?」
「――――あっち、」






起きちゃうよ。

声に出さなかったその言葉も、そちらに目を遣ったことで、京一も察したようで。
それまで無抵抗だった左手が、不自由な右手に代わって龍麻の頭を掴む。






「はな、せ、……っの……ッ」
「嫌」
「…っあ………ッ」






離そうとして後頭部に置かれた、手。
傷によって齎された熱は、そんな所にも影響が出ているようで、それは掴むと言うより添えられているだけに近い。
予想した通り、今の京一に龍麻を押し退ける力はない。


微妙な痛みは、快感と似ている。
熱に浮かれた体は確りとそれを錯覚したようだった。

ピリピリとした小さな痛みを与え続けられて、京一の瞳からは理性の光が失われつつある。
此処でそんな事をしてしまってはとんでもない事になると、それは判っているようだったが、元より傷の所為で弱った体だ。
比例して疲労した脳は、正常な機能を手放しかけていた。






「……っは……痛ッ…ぅ…」
「痛い?」






先刻もした問いを、もう一度してみる。
今度は意識があるから、当たり前だと小さな声が降って来た。






「残るね」
「……あ……何、が…」
「これ。残るよね、きっと」






ゆったりと、下から上に。
傷の形をなぞって舐める。

熱の篭った吐息が、押し殺しきれずに隙間から零れていた。



生きているだけ良かったとか。
それは、あるかも知れないけれど。

それでもやっぱり悔しい気がして、龍麻は傷の横に歯を立てる。







「バッ………!」







傷の痛みもあるだろうに、それ以上に身の危険を感じたか。
不自由な右腕以外をフルに使って、京一は龍麻を押し退けようと躍起になって暴れた。

弱った抵抗など龍麻にとっては大した効果はなかったけれど、龍麻は拘束も解いて京一の傷から顔を離す。






「しないよ」
「………」
「皆いるし。あっちに、先生達もいるし」
「……なら…ハナからすんなよ…こんな事……」






疑う目をする京一に、しないという根拠について告げれば、苦虫を噛み潰したような顔。






「だって、悔しかったんだ」
「……あァ……?」






言葉の意味を目で問う京一の頬に口付ける。
京一の瞳はぼんやりとしてはいたが、幾らか落ち着きを取り戻そうとしていた。






「僕も残していい?」
「…何を……」
「なんでもいい。……消えないもの、残していい?」






指先で京一の腹の傷をなぞる。
右手でそれを払われた。




夕暮れに照らされた堀の深い顔、随分と陰影がくっきりと浮かび上がる。
きれいな顔をしていると、思った。

そのきれいな顔を見つめているだけでいるのが勿体なくて、また頬に口付ける。
犬が甘えるように擦り寄ってみたり、舐めてみたりして。
耳朶を軽く甘噛みすると、すんなっつってんだろ、とお叱りの声がかかった。



何処に何を残すのか。
言っておいて難だとは思うが、正直、考えてはいなかった。
ただ、この傷が残るのだと思うと悔しかったから。


だって自分の中には、剥がそうとしたって出来ないくらい、沢山の痕が残っているのに。
なのに彼の中に自分がいないのは、自分の残した痕がないのは、嫌だ。

その上、他の誰かの消えない傷痕が残るなんて、悔しくて堪らない。








残したい。

なんでもいい。
消えない痕を残したい。













「………此処じゃ、御免だ…………」















うん。
判ってる。

今じゃなくていい、此処じゃなくていい。
だけど、後で。




















この傷みたいに、刻み付けて。

何よりも消えない、証を。






























----------------------------------------
拳武編最終話の隙間の話です。
戦いが終わって、鳴滝達の話が終わった後、翌日学校に行くまでの隙間です。
最終話の時間軸が自分で少々判り難かったのですが、“闘い終わり→鳴滝達の話→学校→学校が終わって各自→龍麻とマリィ→龍麻と壬生の勝負”かなと思いまして。だから闘い終わって学校に行くまでの時間を、織部神社で過ごしてたって事にしてみました。

八剣に妬いて、周囲なんてお構いなしの龍麻が書きたかったんです。
負傷で弱ってる京ちゃんとか、コトはやってないけどエロい雰囲気とか。
…なんか黒いね、この龍麻も。


……この後?
はい。ガッツリ裏の予定でした。ってか続き(エロ部分)書きたい。


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To shoot the general, shoot his horse first














ねえ、君を頂戴

そうしたらきっと、僕は“彼”になれるんだ


























【To shoot the general, shoot his horse first】



























全く、何を考えているのか。
そう何度思ったか判らない。

そしてやっぱり、相棒が何を考えているのかも判らない。








公園のベンチの隣に佇む京一と、反対側で沈黙している車椅子の少年と。

二人の間にはお世辞にも良い空気は流れておらず、かと言って互いを無視していると言う訳でもない。
車椅子の少年の視線は、公園の中心で遊びまわる子供達に向けられたまま動かないが、京一は時折少年へと目を向ける。
それも一瞥足らずと言う短い時間ではあったが、見ている事は見ているので、意識している事は確かだ。


だが友人同士と言うにはあまりにも殺伐とした空気。
京一から少年へと向けられる目は、何処か、“監視”の意味合いを持っているように、見る者に印象付ける。

それは間違っていない。
京一にとって、この少年は友人でもなければ知人でもなく、良い仲ではない。
それでも京一が此処に残っているのは、確かに、“監視”の意味があった。



少年が一体どんな人間で、何をしたのか。
前者については京一も把握しているとは言い難いが、後者については明確だった。

故に、京一は監視している。
この少年と、今はこの場にいない相棒の行動を。







―――――色んなもの、見せてあげたいんだ。







彼はそう言って、少年を迎えに行った。
そして常と変わらぬ表情で連れて帰ってくると、二人で街に行くと言い出した。



彼の中で、あの出来事が薄らいだ訳ではあるまい――――きっと一生消えはしない。
だと言うのに、彼は少年を迎えに行き、まるで以前からの友人であったかのように振る舞う。
その瞳に一瞬、違う意識が過ぎるのは否めなかったが、それでも彼は努めて平静だった。

そんな仲間に、まさか、まさかと不穏な考えしか浮かばなかった、クラスメイト達。
無理もないと思う者、それでもと言う者、様々。


その時、自分が何を思っていたかは、京一にもよく判らない。


小蒔が言っていたように、昏い感情を覚えても無理はない。
嘗ての自分はそれに似ていて、そして我武者羅に剣を振い続けていた。

失ったものは大きく、得たものは喪失感と消えない傷だけ。
それを埋め合わせるように、時に狂気に身を狂わせても、京一にそれを否定できる理由と材料はなかった。
ただ出来るものなら、その色に手を染めてくれるなと思うのが精一杯。




だから。

だから、こうして此処にいる。
何を考えているのか判らない親友に付き合って、東京巡りなんてものをしている。
殺伐とした時間を、延々と過ごしている。







(けどなァ龍麻……このシチュエーションはねえだろが)







この場にいない親友の顔を思い出して、京一は頭を掻く。
漏れかけた溜息は、どうにか飲み込んだ。



ちょっとコンビニに行って来ると言って、彼は京一の止める声など聞かずに、一人行ってしまった。
少しの間待っててね、と車椅子の少年に言って、京一には頼むね、の一言だけ。
まるで、それで十分だと言わんばかりに、相棒はあっと言う間にいなくなった。

そうして、京一と少年だけが此処に取り残されている。


はっきり言って、間が持たない。
別に持たせようとは思っていないが、続く沈黙が随分と長いように感じるのだ。




どうしろと。
いや、きっとどうしろとは言わないだろう。

頼まれた(何をとは知らないが)とは言え、別段、何かする事がある訳でもない。
会話をするような間柄ではなく、正直、どちらかと言えば接点は薄い方だ。
こうして京一が二人に同行している事の方が、不思議と言えば不思議なのだろうし。

だから単純に、相棒は彼と一緒に待っていて欲しいと言っただけなのだ。
その間に自分がこの少年と会話しようと、何もせずにいようと、それは相棒にとってはどちらでも良い事で。







(……だりィ)







何がと言われると判らないが、ふっと浮かんだ言葉がそれだった。
恐らく、現状への感想である。

また漏れかけた溜息を、ギリギリの所で飲み込んだ。




ちらりとベンチを挟んだ向こう側に目を向ける。
少年は相変わらず、ボールを追って駆け回る子供達を見ている――――表情のないままで。
口角は僅かに上がっているが、それは笑みとは違うものだった。

元気に駆け回る子供を見つめる瞳は何処か空虚で、中身の気配が酷く稀薄。
京一は、彼がその表情のまま全てを、まるで羽虫を殺すかのように容易く切り捨てられることを知っている。


ふと、そのキレイな顔を演技的に歪めた顔を思い出す。
つい先刻、見たばかりの顔だった。



木刀を握る手に力が篭ったのは、無意識。
それに気付いて舌打ちが漏れたのも、また無意識だった。




くるり、少年の目が此方に向いた。
舌打ちが聞こえたかと思うと、また同じように打ちそうだった。







「蓬莱寺京一――――だったよね」







抑揚のない声だ。
目を細め、笑うのがわざとらしい。

当たり前だ。
向けられる眼が何処か空虚に見えるのも、中身の気配が酷く稀薄である事も、何もかも演技がかって見えるのも。
何せこの少年――――耶之路龍治は“欠如”した人間なのだから。


返事をせずにいれば、龍治はしばし此方を見つめたまま黙ったが、少しするとまた口を開いた。






「君は変わってる」
「テメェ程じゃねえ」






自分が“普通”の枠に収まるとは思っていない。
しかし、この少年の方が余程“普通”ではない。

目を向けぬまま、まるで切り落とすように低い声で告げると、そうかなァと龍治は首を傾げる。






「変わってるよ。凄く。面白い位だ」






言葉通り、面白がっている色が垣間見えて、京一は龍治を睨んだ。
話し方の一つ一つが、酷く癪に障る。
空っぽのその喋り方は、京一の神経を逆撫でするのに十分な役割を果たしていた。






「君達を初めて見た時、緋勇龍麻の次に、君の事が気になったんだ」






車椅子が方向を変え、龍治は体ごと此方を向いた。
京一はそれを横目で見ただけで、街灯の柱に寄りかかったまま、動かずにいる。






「君達の中で、彼が一番、生きている感じがしたんだ」
「………」






龍治のその言葉は、以前も聞いた。
“あの事件”の全てを起こす切っ掛けになったとも言える理由として。

彼が大切なものを失う理由と言うには、あまりにも理不尽で身勝手な理由だった。



だからなんだと。
声を荒げかけて、また湧き上がりかけた感情を、歯を噛んで押し殺す。

殴り飛ばしてやりたいと思うし、それで何が変わる訳でもないと思う。
大体、それをすべきは自分ではなく、彼なのだ。
今、自分はただ見守る事だけが赦された介入なのだ。






「そして、一番生きていると感じる彼の、その隣に、君はいた」






車椅子のタイヤが砂利を踏む。
からりからり、車輪のチェーンの音がして、それさえ酷く空っぽに聞こえた。






「よく覚えているよ。初めて君を見た時の事」
「……そりゃ、ありがとうよ」






心にもない言葉を述べれば、龍治はまるで嬉しそうに笑う。
その本心は喜んでもいなければ、傷付いてさえいない、琴線に触れてすらいないのだろう。

空っぽの少年には、己の感情さえも、何処かに置き去りにした遠い存在でしかない。







「不思議だったよ」
「………」
「そう、とても不思議だったんだ。だから覚えてる。他の人の事は、顔も覚えていないんだけどね」






龍治の言葉は、告白に似ていて、単なる独り言のようにも聞こえる。

少しの間、思い出そうとするように、龍治は目を伏せた。
京一は龍治から視線を逸らさぬまま、動かない。










「君は強い光に似ていた。けれど、深淵で眠る闇にも似ている」









それは、正反対の性質。
全く逆の極地にある、云わば裏表。

一辺がなくなっては存在できず、しかし自らの裏側を見る事は敵わず、近くて遠いモノ。




光の中に存在しながら、深淵の闇を知っている。
深淵の闇に身を落としながら、光の中を歩いている。

失う痛みを知っている。
奪う瞬間の悦楽を知っている。



全てが崩れたその後の、虚しさを覚えている。




だから、酷く面白かったと龍治は笑う。






「……そうかよ」





再び姿を見せた瞳は、やはり空虚で、其処には京一が綺麗に映り込んでいた。


褒めてんのか、貶してんのか。
こいつもよく判らない頭してやがる。

相棒はまだ帰って来ないのかと、公園の入り口を見遣りながら胸中で思う。
なんだって自分の周りには、よく判らない思考回路を持った奴ばかりが集まるのかと。






「そんな君を、彼は一番信頼している」






京一は返事をしなかった。
恐らく、しようとしまいと、龍治にとっては関係ないのだろう。

思った通り、龍治は喋り続けた。






「さっきも、彼は君に、俺の事を頼むと言った」
「ああ、言ったな」
「俺が今此処で、君を殺す事だって在り得るのに」






聞こえた台詞に、京一は振り返る。
見たのはやはり、常と変わらぬ表情の龍治。




街灯から背を離し、真っ直ぐに地面に脚をつけて。
木刀を肩に担ぐいつもの姿勢で、京一はこの日この時始めて龍治と向き合った。




何と言った。
何を言った?


僕が今此処で、君を殺す事だって在り得るのに。



それは、あの事件のようにか。
自分は何をする訳でもなく、他者をまるで玩具のように操って、例えば首を絞めるのか。

例えば刺すのか、例えば、例えば―――――方法は幾らだって思いつく。
そして目の前の少年がそれを指示したとは、恐らく誰も思うまい。
目の前で友達が殺された、それを助ける事が出来なかった、可哀想で心優しい車椅子の少年。
きっとそれ位の泣いた顔や台詞くらい、すらりすらりと口から滑り出てくる事だろう。



可能だ。
まだ、あの不可解な《力》が使えるのならば、それは可能な話だ。

………京一が大人しく殺されるような人間であれば、だけど。






「殺されるかよ。お前なんぞに、このオレが」






きっぱりと言い切る京一に、彼もそう思っているんだろうね、と龍治は呟いた。







「それがまた、不思議なんだよ。どうして、他人をそんなに信用できるのか」
「……今のお前じゃ、到底判りっこねェんだろうよ」






言いながら、自分もはっきりとした理由は判らない。
理屈ではない、としか思い付かない。



嘗てあれだけ嫌悪していた人と人との繋がりが、今はやけに温かく思える。
何処でどう、そういう方向に変化したのか判らないが、それでも何某かの切っ掛けはあったのだろう。

変わる切っ掛け、思う切っ掛け、それはまるで静かな水面に落ちた雫のように波紋となって広がった。
いつしか雫の数が増え、雫が雨になって晴れた頃、湖面には沢山の光が棲んでいた。
その一つ一つを掬い取ってみれば、其処にあるのは、身近な人々の言葉や顔であったりして。


だから、多分―――――人を信じるようになったのは、やはり、人のお陰なのだろう。



今の龍治には判らない。

怒りも、悲しみも、喜びも、全ては人と交わることで生まれて来る。
何処かにそれを置き去りにして、忘れてしまったままの今では、きっと判らない。






「……緋勇龍麻は、どうしてそんなに君を信じる事が出来るのかな」






龍治のその言葉は、問い掛けのようで、独り言地味ている。






「…ンなモン、オレが知った事かよ」
「君にも判らない?」
「あいつの頭の中身なんざ、判った例がねェ」






ただ判るのは、自分が信頼されていることと、自分が彼を信頼していること。

春の桜吹雪の中で交えた時から、何故か、気付けば当たり前のように隣にいた。
まるで随分昔から知っていたかのように、言葉なくとも通じる何かがあって。







「………それなら、」







判らないものは、判らない。
どうして龍麻が自分を信頼しているのか、どうして自分が龍麻を信頼しているのか。
龍麻なら、例えば――――「京一だから」なんて台詞が出て来るのだろうか。















「それなら君が俺のものになったら、彼が君を信じる理由が判るのかな」















真っ直ぐに射抜く瞳は空虚で、昏く、深い。

その奥底が見えないのは、何かが阻んでいるからか、それとも真に底がないのか。
空っぽだから、底辺さえも見つからないのか。




龍治の台詞の意味を判じかねて、京一は眉根を寄せた。






「君が彼じゃなくて、俺を見たら、その理由は判るかな」
「……オレの知った事かよ」
「俺が彼になったら、君が彼を信じる理由が判るのかな」





京一の声など聞こえていないかのように、龍治は繰り返す。


彼じゃなく、俺が。
俺が、彼になったなら。

馬鹿馬鹿しい机上の空論を並べる龍治は、真剣というには曖昧で、しかし巫戯蹴ている訳ではなく。
空っぽの心の埋め方を探し続ける瞳は、空虚であるが故に嘘を知らないのだろう。
嘘を吐く程に、中身が埋まっていないから。






「そうしたら、彼は俺になるのかな。君を失った彼は、どうなるのかな」






言葉に奇妙な色が浮かび、顔を見れば何処か喜色が含まれて。
並べられる言の葉に似合わぬ色が其処にはある。






「俺が彼になって、彼が俺になって……君は彼じゃなくて、俺を見る」
「馬鹿馬鹿しい」
「君は俺を見て、彼を見ない。俺は彼になっていて、彼は俺になっていて」
「……うるせェな」
「彼は空っぽになってる? 今度は、俺が満たされる? 生きている?」





滑稽な戯曲の台詞を聞いているようで、酷く苛々する。
なんだってこんなのを任せて行くんだ、と今は此処にいない相棒を少しだけ恨む。







「空っぽになった時……彼はどんな顔をすると思う?」







突然投げかけられた問いの意味が、京一には判らない。
龍治の指す“空っぽ”がどれであるのか、それさえも判然としない。
ただ並べられる言の葉の一つ一つが、酷く気に障って仕方がない。



あはは、と明るい笑い声が響いた。
公園の中心で駆け回る子供達と比べても、遜色のない明るい声。

ただし、それは酷く空っぽな笑い方で。







「面白いね!」







そういった龍治の顔は、まるで悪戯を思いついた小さな子供のようだった。






「ねぇ、試してみよう」
「………あぁ?」
「君が俺のものになって、俺が彼になって。その時、彼がどんな顔をするのか。見てみようよ」






共犯者を求める子供は、それがどれだけ残酷な事なのか判らないのだろう。
有が無に変わる瞬間の冷たい時間を、知らないから。


木刀を握る手に、痛いほどの力が篭る。

振り上げてはいけない、振り下ろしてはいけない。
その先にあるものに気付かせる為に、きっと龍麻はこの少年を連れ出したのだから。






「俺は、君の事を気に入ってる。きっと彼と同じように」
「…“カラッポ”のテメェに、そんな事が判んのかよ」
「さあ。よくは判らない。でも、きっと同じだと思うんだ」






伸ばされた龍治の腕は、真っ直ぐに京一に向かっていた。
其処に不穏な気配は感じられないけれど、まるで捕らえようとしているかのようで、京一は顔を顰める。



浮かんだ“空っぽ”の笑みは、酷く空虚で薄っぺらい。
ヒトを壊す事で笑うしか、この“空っぽ”には束の間の感情を覚える事すら思い付く方法がない。
己を埋める方法を、他者を壊す歪んだ手段でしか、考えることさえ出来ない。

…何を考えてこんな少年を連れ出して、同じ時間を過ごそうとしているのか。
相変わらず、相棒の考えが判らない。



届かない手を伸ばして、まるでいつかは其処に来るべきものが自然と収まるものだと。
信じることさえ判らない筈なのに、まるで絶対者のように告げるのが、
















「だってほら。俺は君を欲しがってるみたいだ」
















―――――――気に入らなくて、虫唾が走る。






全てを見透かすように、空虚な笑顔を浮かべ。
場違いな程に明るい声を上げ。

その芯は、何もなく空っぽで底さえも存在しない。


……きっと、ヒトが“死”を持たずして壊れる事も、この少年にはまるで些細な事なのだ。




ふざけるなと怒鳴ることも面倒だった。
第一、この少年にはそんな台詞も意味を持たないだろう。


砂利を踏む音が聞こえた。
勝手に席を外した当人が、ようやく戻って来たのだ。

そちらへ向く前に、京一は一つ息を吐いて、龍治を見据える。







「オレが、お前のものになるって?」







改めて相手の言葉を吟味すれば、やはり馬鹿馬鹿しいとしか思えずに。











「出来るモンならやってみやがれ」











オレは、お前になんざ興味ない。

言って背を向ければ、面白いと思うんだけどなぁ、という台詞。
動きかけた右腕を左手で掴んで、京一は強く拳を握った。




振り返って、見慣れた顔を見つける。
……それが随分、久しぶりだったように感じた。






「どうしたの? 京一」






なんの話、と問いかける声が。
不思議そうに見つめる瞳が。

例えば空っぽになるなんて、考えたくもない。


壊れかけた色を、ついこの間見たばかりだ。
あれが今度は空虚になって、何も映さなくなるなんて、冗談じゃない。







「―――――なんでもねェよ」







龍麻の手のコンビニ袋から、断りを入れずにコーラのペットボトルを抜き取った。
止める声も注意の声もなかったから、そのまま蓋を開けて黒い液体を胃へ流し込む。
喉が潤うと同時に、炭酸の気泡が弾けていた。

龍麻は黙したままでそれを見て、京一が視線に気付いて交えると、ふわりと笑う。
今の何処か笑うタイミングだったかと疑問に思ったが、言った所で解決もしないだろう。
気にしないことにして、またコーラを煽った。


がさがさと音を立てて龍麻が取り出したのは、案の定、苺牛乳。

それを片手に持って、龍麻は龍治にパックのジュースを見せながら、






「龍治君も飲む?」






親しい友人に見せるのと同じ笑顔で、問う。
そんな龍麻に、龍治は先刻京一に見せた笑顔とは一変した顔を見せた。






「いらないよ」
「そう」






あっさりと龍麻は引き下がった。
龍治は既に此方を見ていない。













よく判らない。
緋勇龍麻も、耶之路龍治も。

どうして自分なんかを気に入ったなんて言い出すのか。
どうして自分のことをあんなに信頼なんてしているのか。



何を見て、
何を感じて、
何を得て、

何を思うのか。


判らないけれど、一つだけ。
彼らは対でありながら、何処かが酷く似通っていることだけが、なんとなく判る。









―――――――だからと言って、あの空虚な手を掴むつもりは、なかった。








































……出来るものなら。

彼は言った。
彼は確かに、そう言った。



それは、つまり。

出来るのならば、彼は自分のものにもなってくれると言う事か。








「……うん」







告げた彼に、きっとそんな意識はないのだろうけれど。
都合良く解釈したところで、誰も咎める者も、止める者もいない。




向けられる鋭い眼差しも。
鋭さを隠さない言葉も声も。

自分に向けられることのない、笑顔も。
束の間の無防備な表情も。
何もかも、何故か酷く記憶に焼きついて離れない。


この感情の名を、自分は知らない。
それが“感情”の一つであるのかすら、よく判らない。

ただ、やけに記憶に鮮明に残る色を、自分だけに向けてみたい。



その時、やっと、自分は“空っぽ”ではなくなるような気がする。












「やっぱり、俺は君が欲しいんだ」

















君の全てで、僕を埋めたいんだ。


君の光と、影で、全てを。























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初! 龍治×京一です。マイナー路線ドンと来ーい!!
厳密にすると龍京←龍治です。自分の予想通り、龍京前提になりました。

龍治、難しい。
無邪気に怖い事言ってるイメージは揺るがないのですが、それだけに逆に中々……
妙に老成しかかっている部分と、善悪の区別がつかない小さな子供の部分を意識しました。
……玉砕してる感有りますが。

こんな感じが、龍治×京一のスタートです。ダーク路線だな、こりゃ。

summer memory 5









もう直、電車がやって来る。
そんな時間になっても、息子は頑固なままだった。




バカ息子、とよく揶揄った。
しかしそれでも、やる時はやる。

けれど、こんな時には臆病で、まだまだガキなんだと。







「……京一」







ベンチに座って、麦わら帽子に顔を隠して俯いたままの息子に、声をかける。
返事もなければ、顔を上げることもなく、まるで貝みたいだと思う。






「電話ぐれェなら、今からでも十分間に合うぞ」
「………」
「其処に公衆電話あるだろう。100円やっから、行ってこい」






ふるふる。
京一は、首を横に振った。

父は、はっきりと溜息を吐いた。




息子が何を嫌がっているのか判っている。



自分の口から、あの言葉を言いたくない。
あの子に向かって、あの言葉を自分の口で言いたくない。

だから電話をするのも嫌がって、今朝も父を頼って伝えてもらうのが精一杯。
自分であの子に、あの言葉を告げたくない。
だって、本当に嫌だから。


さよならなんて、したくない。



けれど、もう直ぐ夏休みは終わってしまって、東京の学校も授業が始まる。
母も娘も東京の家にいるから、自分たちは帰らなければ行けない。

それは京一も判らないほど幼くはなくて、だから友達にさよならしなきゃいけないことも判っていて。


………だけど、言いたくない。
さよならなんて、したくない。






「ばあちゃん、年だからな……お前も知ってるだろ」
「………」
「そろそろ、病院とか行った方がいいんじゃねェかと思ってんだ」
「………うん」
「足ィ悪いだろ。ばあちゃん。一人にしてちゃ、危ねェかも知れん」






今年の夏に此処に来たのも、そんな祖母の説得の為。


大きな田舎の家は、確かに思い出も沢山あると思うけど、孫たちの為にももう少し長生きして欲しくて。
何かが起きて大変なことになる前に、何処か―――例えば子供達でも直ぐに行ける場所の病院だとか。
移っては貰えないだろうかと。

そんなに頑固な祖母ではない。
せめて自分が逝くまでは家も土地もそのままにしておいてと、それで話はまとまった。


子供の京一は、難しい話はよく判らなかった。
でも、こんなに遠い場所に一人で住んでいたおばあちゃんが、近くに来てくれるのなら嬉しかった。
それは、京一にとってとても嬉しいことだったのだけど。








「だからな。来年、此処に来れるかどうかは、判らねェ」








それはつまり。
此処で出会った友達と、もう逢えなくなるかも知れなくて。



東京から此処までは、遠い。
子供だけで来れる場所でもないし、移動に時間もお金もかかる。

だから、息子には悪いけれど、もう来ない可能性もあった。


だから何も言わずに此処を離れて、ずっと後悔するよりも、せめて何か言った方がいいんじゃないかと父は思う。
けれど、この息子は誰に似たのか、妙に聞き分けのないところがあって。






「行って来い。電話すぐ其処だ」
「………」





やっぱり、京一は首を横に振った。


あの言葉を、自分であの子に告げた瞬間、全てが夏の夢になってしまうような気がする。
楽しかった日々も、現実にあった筈なのに、あの言葉が全て夢にしてしまうようで、だから言いたくない。

こんな別れ方も初めてだから、余計に怖くて言えなかった。




電車がホームに滑り込む。

父が立ち上がっても、京一はベンチから降りなかった。
帰らなきゃいけない、でも帰りたくない。
息子の気持ちは判るし、父自身もやきもきした所はあったけれど、父は息子を抱きかかえて電車に乗った。


こうしてやると、いつも子供扱いするなと怒るのに、今日ばかりはしがみついて来る息子。
バカ息子、と呟いたのは無意識。




乗客の少ない電車のボックス席に座って、京一を窓側に下ろす。
窓の肘掛に寄りかかって、京一は広がる田舎の風景に見入った。






実の成り始めた田んぼ。
さらさら流れる小川。
山から聞こえる、鳴きやまない蝉。

どこでどんな風に遊んだのか、覚えてる。
底が見えなくなるぐらい、沢山の記憶があちらこちらに散らばっている。



夏の強い陽の光の下で、春の陽気みたいにふんわり笑う友達は、思い出全部の中にいて。




さよならなんて、したくない。







間もなく、発車します。
アナウンスの声が車内に響いて、ドアの閉まる音がした。

丁度、その時。
















「待って!」















聞こえた声に、無情にもドアは閉まる。
けれども、その声は確かに、京一の耳に届いた。


景色が動き始めたのも構わずに、京一は夢中で窓を開けようとした。
しかし、施錠された電車の窓の開け方が判らず、ガタガタと音を立てるだけで、気ばかり焦る。

後ろから腕が伸びて、それは父のものだった。
直ぐに窓は開けられ、京一は危ない事なんて頭に一つも浮かばずに、窓から外に乗り出した。





見付けたのは、駅のホームを走る友達。








































「龍麻、」







必死に走る最中、京一の呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げて前を見れば、窓から乗り出す、見慣れた麦わら帽子。

龍麻は手足を精一杯動かして、出来る限りの速さで走る。
列車はまだ速度を出していない。






「京一、」
「龍麻、お前、なんで」
「お父さんに、自転車」






焼き場にいた父を母が呼んでくれて、自転車に乗せて此処まで連れてきてもらった。
もっと早くもっと早くと珍しく急かす息子に、父は応えられるだけの速さで応えてくれた。

そうして、今、間に合った。

列車は既にドアを閉めてしまったけれど、まだ加速していない。
友達の存在はまだ此処にあって、遠い遠い東京じゃない。
言葉を紡げば、届く距離。






「バカ、危ねェ」
「京一だって危ないよ」






電車と並んで走るのも、走る電車の窓から乗り出すのも。
どっちも危ないけれど、今はそんな事は問題じゃなくて。






「龍麻、オレ、」






何かを言いかけて、京一が喉を詰まらせた。
見上げた瞳に浮かんだ雫に、龍麻も視界が滲みかけて、目を擦る。

そうしている真に、列車は少しずつ少しずつ、加速を始める。
残された最後の時間は、残り僅か。







「龍麻、」
「京一、」







言葉を捜す京一に変わって、龍麻が口を開く。








「また、逢えるよね、」
「龍、」
「いつでも、いいから。来年でも、来年じゃなくても、」








いつでもいい。
いつでも。

来年でも、再来年でも、十年先でも。
いつだっていい、もう一度会えたらいつだっていい。


それがどんなに遠い日でも。








「だから、だから、」








だから、さよならなんて言わないで。
これっきりみたいに言わないで。

もう逢えないなんて、言わないで、思わないで、決めないで。


楽しい日々は、直ぐに過ぎてしまうけど、また繰り返される時が来る。
そう教えてくれたのは、他でもない、目の前にいる友達で。




だから。









「また、逢えるよね、」









手を伸ばしても、もう届かない。
少しずつ開き始める、二人の距離が、今もまだ寂しくて悲しい。



時間が止まってくれたらいいのに。
夏が終わらなければいいのに。

何度思ったか知れない。
何度願ったか判らない。
叶うはずのない、子供の希望。


だって時間は止まらない、夏は過ぎて秋になる。
蝉はもうじき鳴くのを止めて、コオロギや鈴虫が鳴き始めて、川の水はもっともっと冷たくなる。
山の緑は緋色に替わって、空の蒼も少し変わって、稲穂は重くなり頭を垂れる。

でもそれと同時に、この小さな自分たちの手も、少しずつ大きくなってくれるはず。
届かないこの距離を、もう一度縮められるくらいに、足も速くなるはずだから。













「今度は僕が、逢いに行くから」













―――――最初の一歩は、京一からだった。
だから今度の一歩は、龍麻から。

届かなくなったこの手を、もう一度届かせる為に。



だから、さよならなんて言わないで。







「……ばぁか」







赤い顔で、京一が呟いた。
それから、腕でごしごし目を擦ってから、
















「またな、龍麻!」
















龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔。
ほんの少し、涙の滲んだ、きらきらの笑顔。




ホームの終わりに立ち止まって、精一杯背伸びして手を振った。
同じように、京一も、窓から乗り出して手を振った。

見えなくなるまで、ずっとずっと。


滲んだ視界を、また擦って、見えなくなった笑顔を忘れないよう心に刻む。











さよならなんて言わないで。
もう逢えないなんて言わないで。

だって逢いに行くんだから。


だって、大好きな友達なんだから。



















この夏が終わっても、


キミと出逢った思い出は、ずっとずっと忘れない。


























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(夏休みで5題 / 5.夏の終わり)


最後は“さよなら”に決めてました。
悲しい感じにならないように、未来に向かってく感じで。

意外と京ちゃんがよく泣いたなぁと……感情の起伏が龍麻より激しそうなので。
京一が弱ると、やっぱり龍麻がちょっと男らしくなります。でも天然気味。
そして出張りに出張った京一の父ちゃんでした(笑)。

summer memory 4











茜の空

茜のとんぼ


きらきら金色の太陽が、茜色になって山の向こうに隠れていく




ばいばいするには、もう少しだけ早いから

手を繋いで、寝転がって空を見る


























summer memory
- 夕涼み -



































みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。







8月が半分過ぎた。
夏休みが終わるまで、あと二週間が残っている。

相変わらず蝉の声は山のあちこちから聞こえてきて、降り注ぐ太陽の光は暑くて眩しい。
それでも川を流れる水は冷たくて、きらりきらりと閃く光の反射は子供達の心を躍らせる。
跳んで行くオニヤンマを虫取り網を持った子供が追いかけて、道行く大人達はその光景に目を細めた。


夏はもう終盤だ。
だけど、夏が終わるなんて、まるで思えないくらいに暑くて、子供達は元気に駆け回っていた。




夏祭りの日に取った二匹の金魚は、龍麻の家の玄関口の土間で、今も水槽の中で元気にスイスイ泳いでいる。
水の中にきちんと酸素を送り込む道具を入れて、餌はパンの耳を細かく千切ったものだ。

あの日、京一にあげた二匹の金魚も、元気だと言う。
京一が自分でちゃんと餌をあげて、毎日毎日、元気に泳いでいるのを覗き込む。
今まで動物を飼ったことなんてなくて、なんだかとても新鮮な気持ちらしい。

金魚の話をする時、京一は楽しそうで、龍麻も楽しくて、その話はいつまで経っても尽きなかった。


龍麻は、金魚に名前をつけた。
京一も、金魚に名前をつけた。

でも、時々どっちがどっちだったか判らなくなったりした。
まじまじと見て、ようやっと違いを見つけて、区別が出来た。



一日のやることリストの中に、金魚の世話が増えたけれど、龍麻は相変わらず山の麓にも行った。
昼前には其処に着いて絵を描いていて、昼頃になると京一が来る。

初めて二人一緒に山に入ったあの日から、時々、二人揃って山に入るようになった。
龍麻は京一の虫取り網を借りて、蝉が取れるようになったし、カマキリも触れるようになった。
でも木登りをすると、やっぱり京一の方が早かった。


帰り道の途中で、畑帰りの母に会った時、初めて京一を家に招いた。
二人、縁側で並んでジュースを飲んで、京一は空が暗くなる前に帰った。
帰る京一を見送る時、少し寂しかった。

それから時々、京一は龍麻の家に寄ってから帰るようになった。
うっかり帰るのが遅くなって空が暗くなると、京一の父が迎えに来た。














































みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。






―――――その日は山に入っていつも通りに遊んで、空が茜になる前に下りた。

美味しいスイカが出来たから、京一君を連れておいで、と龍麻が父に言われていたからだ。
だから外で遊ぶのはそこそこにして、腹が空いた頃に家に帰った。



いつもよりも早い時間に、二人並んで帰ってきた子供達を、母は笑顔で迎えてくれた。
そしていつものように縁側に座って待っていると、さあさあ、お待たせ、とスイカがやって来る。







「うめェ!」






しゃぐっと口いっぱいにスイカを齧って、京一が言った。
満面の笑みに、龍麻も嬉しくなって、スイカを齧る。






「うめーな、このスイカ!」
「うん」






真っ赤な果肉が、すごく甘い。

龍麻は、苺が一番好きだけれど、夏はやっぱりスイカもいい。
母が丹精こめて作ってくれたスイカは、冷たくて甘くて、凄く美味しい。



京一は種を飲み込んでしまうんじゃないかと思うくらい、早いペースで一切れ平らげた。
赤い部分がキレイになくなって、残っているのは見事に皮だけ。
種もちゃんと吐き出して、皿にはそれらだけが残された。


母はスイカを三角の形に切って持ってきてくれた。
全部で4切れ。

龍麻一人なら、二つ食べるのが精々なのだけど、京一なら全て食べてしまいそうだ。






「もう一個食って良いか?」
「うん」






断ってから、京一は二つ目に手を伸ばす。
しゃぐっと水気のある音がして、嬉しそうに笑う。
美味しそうに食べるなあ、と龍麻は思った。






「やっぱ夏はスイカだなッ」
「京一、この前はカキ氷って言ってた」
「あー。ま、いいじゃねェか、どっちでも」






美味いから、と言って、京一はスイカに齧りつく。


うん。
どっちでも良いと思う。

よく冷えた甘いスイカも、キンキンのカキ氷も、暑い夏の季節によく似合う。
京一の麦わら帽子も、日に焼けた腕も、麦わら帽子の笑顔も。
全部似合っていて好きだから、龍麻はそれで良いと思う。



とんとん、歩く音がして振り返ると、母が此方にやって来た。






「よく食べるわね、京一君」
「だってスゲーうめェもん」
「ふふ、ありがとうね」






ふんわり笑う母に、京一が照れくさそうに鼻を掻いた。






「この分だと、足りないかも知れないわねぇ。持って来てあげましょうか」
「いいのか? おじさんとおばさんのもあるんだろ?」
「大丈夫よ。畑に行けば、まだまだあるから。沢山食べてね」






頷いて、京一はあと少し残っている手元のスイカに齧り付く。
龍麻はやっと一つ食べ終わった。

二個目を先に食べたからと、残っていた一つは龍麻が食べることになった。
少し待っていれば、母がまた持ってきてくれる。
それまで待ってる、と京一は言った。
別に、先に食べてもらっても龍麻は構わなかったけれど、京一が良いと言うから、食べることにした。






「いいなー、龍麻。お前の父ちゃんと母ちゃん、優しくてさ」
「京一のお父さんも優しいよ」
「おめェにだけでェ。オレにゃ直ぐにヤな事言いやがる」






京一は唇を尖らせて、拗ねた顔になって言う。
いつもいつも、ああだとか、こうだとか。
優しいなんてあるもんか、と言う京一だったけれど、その目は必ずしも父を嫌っている訳ではないようで。

確かに、京一の父は、龍麻の父のように優しい言葉をかけるよりも、息子をからかっている方が多い。
でも何も本気で酷いことを言っている訳じゃなくて、それは京一も感じているのだろう。


龍麻は、自分の父も優しくて好きだけど、京一の父も優しくて好きだ。
この“優しい”にはそれぞれ違いがあって、京一の父はちゃんと京一に対して優しい。
それが少し判り憎くて、そして京一も素直じゃないから、お互いにケンカみたいな言い合いが始まるだけで。



だって、山の中で迷子になったあの日、京一は父を呼んだ。
迎えに来た父に抱き付いて、大きな声で泣いた。

父は、そんな息子を抱き締めて、頭を撫でていた。


お互い大好きじゃなかったら、あんな風にはならないと、龍麻は思う。






みぃんみぃん……
じー、じー……






少しの間沈黙があって、その間に蝉の声が少しずつ静かになってきた。
空の向こうで、蒼と橙が混ざり始めている。

それを二人で見ていると、母がお盆にスイカを乗せて戻って来た。






「はい、どうぞ」
「うん」
「さんきゅー、おばさん!」






早速、京一が一切れに齧り付いた。
景気の良い食べっぷりに、母がくすくすと笑っている。

龍麻も真似して、思いっきり大きく口を開けて齧り付いた。
口いっぱいに甘い味が広がって、大粒の果肉を噛むのが大変だった。






「ひーちゃん、京一君、スイカは好き?」
「大好き」
「オレも!」
「じゃあ、今度はスイカジュース作ってあげようね」






聞きなれぬ品の名前に、龍麻と京一は顔を見合わせる。
オレンジジュースやリンゴジュースは知っているけど、スイカジュースなんて見たことがない。






「スイカジュースってどんなの?」
「オレ、見たことねェよ」






知らない知識を発見して、二人は興味津々に母に尋ねる。
母はふんわりと笑って、






「スイカの種を取ってね、砂糖とちょっとお塩を入れて、ジューサーにかけるのよ」
「それ、うめェの?」
「さっぱりしていて美味しいわよ。ひーちゃんも飲んだことある筈よ」
「……? 僕、覚えてない」
「お夕飯の後に、時々出してたわ。でも、スイカだって言った事なかったね」






言われて、龍麻は去年の夏を思い出す。
確かに、夕食の後、赤くて冷たいジュースを飲んだような気もする。
あれはスイカのような味がしていただろうか。


思い出せたような、よく判らないような。
曖昧な記憶に、龍麻は首を傾げた。

そんな息子に母は微笑んで、今度作ってあげるわね、と言った。
その時は京一も一緒が良いと言ったら、じゃあ、今作りましょうか、と言って台所に戻って行った。






「トマトジュースなら知ってんだけどな」






片手のスイカを一齧りして、京一が呟いた。






「お母さんの畑のトマトで作ったジュース、美味しいよ」
「すげーな。なんでも美味くしちまうんだな、龍麻のおばさん」






京一の言葉が嬉しくて、なんだか龍麻は自分まで褒められたような気がした。



すい、と何かが視界を横切った。
茜色のとんぼだ。






「あ、アカトンボ」
「ナツアカネだな」






龍麻の呟きに、京一が付け加えた。


ナツアカネ? と首を傾げる。
アキアカネなら聞いたことがあったけれど、ナツアカネは知らない。

京一は食べかけのスイカを置いて立ち上がり、虫取り網を手に持つと、すいすい飛ぶ茜のとんぼを追いかけた。
程なく、網にとんぼを捕まえて、京一はその羽を持って縁側に戻ってくる。
とんぼを虫かごの中に入れて、龍麻にそれを見せた。






「ほら、やっぱナツアカネだ」
「……アカトンボじゃないの? 赤いよ」
「アカトンボだよ。アカトンボのナツアカネ。尻尾も頭も目も赤いだろ。これがナツアカネ」






確かに、尻尾の先から頭まで、そのアカトンボはキレイな茜色をしている。
まるで夕日がそのまま体に溶け込んだみたいだった。






「アキアカネとかと違うの?」
「アキアカネは、此処まで赤くねェんだよ。もうちょっとでかいし。尻尾の方の内側に、黒い点々があるのがアキアカネ」






京一は色んなことを知っている。
虫の飛び方、色、鳴き方で、見分けることが出来る。

龍麻は生まれてからずっとこの山で育ったけれど、あまりよく知らない。
ミンミンゼミやクマゼミは知っているけど、他の蝉は覚えていないし、どれがどう鳴くかも判らない。
毎日のように山の中で虫取りをしているクラスメイトは、多分知っていると思うけど。
龍麻が虫に興味を持つようになったのは、京一が見せてくれるようになってからだった。


今から色々覚えても、京一に追いつけるだろうか。
京一に色んなことを教えて欲しかった。






「僕、アカトンボってアキアカネだけだと思ってた」
「ま、オレも最初はそんなのだったぜ。父ちゃんに教えて貰った」
「お父さん?」
「なんか知らねェけど、そんなのばっかり知ってんだ」






虫の取り方も見つけ方も、最初は父から教わったんだと京一は言った。

木登りが出来るようになるまでは、肩車をして貰って虫取りをしていた。
剣術稽古の後の暑い日でも、父は面倒だなァなどと言いながら、時々息子よりも楽しんでいたりした。






「凄いね、京一のお父さん」






龍麻の言葉に、まぁな、と京一は言って、縁側に腰を下ろした。
地面に届かない足が、宙に浮いてぷらぷら揺れる。


もう十分見たから、と、京一が虫かごのフタを開けた。
茜色のとんぼはしばらくすいすい二人の周りを飛び回り、やがて高く飛んで行った。
自分と同じ、茜色の空に向かって。

それを少しの間見送って、京一は食べかけだったスイカをまた手に取った。






「お前の父ちゃんもすげェよ。皿とか作れるんだろ?」
「うん。一杯作ってる」
「オレの父ちゃんだったら、絶対割ってばっかぜ。すぐモノ壊すんだ、あの親父」






また悪口が始まった。
だけど、それも父をよく見ているから、出て来るものだと、龍麻は知っている。






……かなかな。
……かなかなかな。






ひゅうと涼しい風が吹き抜けて、空の蒼が少しずつ茜の色に溶けて行く。
山の向こうに沈んでいく太陽の光は、昼間の光よりもほんの少し柔らかくて、でもやっぱり眩しい。

その光の中を、茜色のとんぼが群れをなして飛んで行った。








































かなかなかな。
かなかなかな。






ヒグラシが鳴き始めて随分経った頃。
空はすっかり茜色に染められ、あと半刻もしない内に朱色が漆になる頃に、男はその家の戸を叩いた。

はいはい、と足早に向かった家主と妻が見た者は、息子の友達の父だった。







「うちのバカ息子、今日も此方に来てますかね」







世話かけまして、と男は笑う。






「ああ、蓬莱寺さんでしたか」
「はいはい。縁側で仲良くしてますよ」
「どうも。毎日、うちの倅が世話ンなって」






顔を合わせる度に恒例になった挨拶だ。
主人と客人とで頭を下げている間に、母は息子を呼ぶ。






「ひーちゃん、京一君。京一君のお父さんが迎えに来られたわよ」






そう言うと、いつも渋々顔の京一を連れて、龍麻が玄関にやって来る。
龍麻も少し残念そうな顔で。

それでも迎えが来れば帰る時間になる訳で、二人ともそれはきちんと判っていた。
だから声を出して呼べば、いつもちゃんと返事が返って来る。


―――――筈、なのだけど。



その日は、しんと静まり返ったままだった。







「ひーちゃん、京一君」
「おい、京一。京一」






父が二人で呼んでみるけれど、やはり返事がなかった。
親たちはそれぞれ顔を見合わせ、母が二人がいるであろう縁側へと赴く。


一体どうしたのかと首を捻る父達の元へ、母は直ぐに戻って来た。
困ったように微笑みながら。






「蓬莱寺さん、すみませんが、もう少しだけ待ってやって頂けませんか?」
「……と、言いますと?」






息子が何かしでかしたか、と日頃のやんちゃ振りを思って問う。
すると、母は京一の父に家に上がるように勧めて、奥へと案内した。



古い平屋作りの家。
障子戸はそれぞれ開け放たれて、夕時の風が滑り込んで来る。
日中は中々鳴らない風鈴が、今はりぃんりぃんと小さな音を立てていた。

暑い真夏の、束の間の涼。







やがて二人の父が見付けたのは、縁側に寝転がって、手を繋いで眠る息子たち。
夢路で遊ぶ子供達を、起こしたりなんてしては可哀想で。


















夕陽に照らされた丸い頬が、いつもよりもなんだか赤く見えた。



















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(夏休みで5題 / 4.夕涼み)


手繋ぎ好きだー。
そのまま縁側で仲良くおねんね大好きだー。
夢の中で一緒に虫取りしてればいい。

京一、起きたら父ちゃんがいるのにきょとんとして、「なんでいんの?」ってきっと聞く。

Preta-loka














人は最初から一人で

生まれ、歩いて、死んでいく




人の腹から生まれ

人の中で育ち

人に囲まれ目を閉じる


それでも、一人で生きて歩いて死んでいく





生まれた時、其処にあるのは光と闇

赤子が泣くのは、誕生への喜びと、現世の地獄に嘆き泣く為








絵図などよりも、この世は地獄

現世と言う名に最も近い地獄の世界





その地獄の中で、一人、死に物狂いで這って生きる。

































【Preta-loka】





































傷だらけで帰ってきた少年を、この場所だけは、何も言わずに受け止める。
良くない顔をしている事は少年にも判ったが、何も言わないから、それに甘えて此処にいる。

寝床は手放す気にはならなかったし、何より、此処は居心地が良い。
今となってはくすぐったい言葉も、照れ臭くても、此処なら素直に受け止められた。
何をしても何を言っても、此処の人達はいつも許してくれる、だから。




腹、減った。
そう言えば、いつも暖かい食事が用意される。

疲れた。
そう言えば、いつも暖かい寝床があって。



一時、強い日差しも雨風も、隠れようがなかった時があった。
今よりも小さかった手に木刀一本だけを握って、後は何も持っていなかった。
高架下で寒さに震えて、膝を抱えて丸くなり、眠る事さえ出来なかった日もあった。

そんな日々の後で、柔らかな寝床が出来たから、もう一度あの生活に戻りたくないと思う気持ちが強い。
だからどんなに帰り辛いと少しでも思う時があっても、この場所にだけは、帰って来た。





優しい目で見下ろしてくる優しい人の顔を、最近見ていない。
どんな顔をして見ていいのかが判らなくて、目線を合わせられずにいる。
優しい人はそんな自分に怒りもせずに、無理に顔を合わせようともせずに、ただ此方に合わせて応えてくれた。


今日も同じで、その人は、傷だらけで帰って来た京一を、お帰りなさいと言って受け入れた。
返事をしないで中に入って、定位置になりつつあるソファへと腰を下ろせば、直ぐに救急箱を持って他の人もやって来る。

挨拶はコミュニケーションの基本よ、と何時だったか言われたのを、今もまだ覚えている。
けれども、それをきちんと守っていたのは数年前の話で、最近はめっきり減った。
だけど、やっぱり誰もそれを怒る事はなくて。






「………ッ」
「あ、ごめんね、京ちゃん」






額の傷に消毒液が染みて、一瞬表情が苦悶に歪んだ。

直ぐに謝罪の言葉があって、京一は平気だと首を横に振る。
そうすると、アンジーは眉尻を下げて笑って、そう、良かった、と。



額の傷、目尻の痣、頬の火傷、首筋のを伝う血。
ボロボロになったブレザーはすっかり草臥れて、靴も泥だらけ。

学校に行ったのは、いつの話だっただろうか。
義務教育だと言われても全く興味が沸かずに、気が向いた時にだけ、此処の人達に教えて貰った。
その内容も殆ど覚えていないから、頭の中はてんで軽いんだろうと、自覚があって。
でも学校になんて行く気がないから、そんな事はどうでも良かった。


自分がどんな顔をしていたって、此処にいる人々は気にしなくて。
それ以前から自分を知っている事もあるだろうけれど、何処に行っても何をしても、そのまま受け止めてくれる。

今はそれが心地良くて、






「この手、大丈夫かしらねェ……」
「……なんともねェよ」
「なら、いいんだけど。痛かったら、先生の所に行ってね」






無理強いもなく。
取り上げる事もなく。

やりたいようにやらせてくれる。


それが心地良くて、都合の良いように利用しているような気もして、







「アラ。また、何処かに行くの?」







立ち上がった京一を、アンジーは止めなかった。
まだ手当てが終わっていない事も、言わない。











「いってらっしゃい、京ちゃん」
















心地良いのに、時々、泣きたいくらいに酷く痛い。




















































理由の判らない痛みも。
満たされない、正体の見えない餓えも。

どうしてか判らないけれど、剣を振るっている時にだけ、忘れる事が出来る。



発作のように、動悸のようなものが始まって、息が出来なくなる時がある。
酷い時には立っていられなくて、胃の中のものを吐き出して、それでも治まらない。

腹の中が空っぽになれば、当然次は腹が減るのに、食ってもそれは満たされた感覚がしない。
餓えているのは其処じゃない、もっと別の何かがだと、けれどもその“何か”が判らない。
何をすればそれが満たされるのか、ずっと判らないままでいる。


憂さ晴らしのように喧嘩をしている内に、その時だけ、動悸も呼吸も思う通りになる事に気付いた。
ムカ付いた輩を足腰が立たなくなるまで叩きのめして、ようやく飢餓感から開放された。





けれど、それは束の間。





いつからそれが始まったのか、自分の事だけれど、判らない。
随分昔からあったような、つい最近の事のような。
昨日の事さえ忘れている事が増えて、それを思い出すのも面倒になった。

考えようとすると、呼吸が出来なくなる。
だから、必然的に考えるのを止めた。



気を抜いたら、飢餓が来る。
気を抜いたら、呼吸を持って行かれる。

だから、ずっと警戒していた。
見えない何かが、何処かに引き摺り込もうとするから、警戒した。
まだ死にたくない事だけが、明確だった。







いつしか、思うようになった。

此処は、地獄に似ている。
いや、現世の皮を被った、地獄だ。







幾ら食っても満たされない。
食ったものは全て吐き出して、結局零になる。

息が出来ない。
自分の意思だけで息が出来ない。
意識しないと、呼吸の仕方を忘れてしまう。



出口のない地獄。
這い上がる壁さえもない、地獄。













道端で女を犯している男がいた。


背中を蹴飛ばしてやると、蛙が引きつったような声を上げて、男がひっくり返る。
女が呆然と此方を見上げて、数瞬、京一の顔を見てから直ぐに立ち上がって駆け出した。

ヒールの鳴る耳障りな音が遠くなった頃になって、漸く男が起き上がる。







「てめえ糞餓鬼! 何しやがる!!」







女を助けたつもりはないし、正義感なんてものでもない。
見付けて、ただ気に入らなかった、だから蹴飛ばした、それだけの事。


無言のままの京一に、男は眉を跳ねさせる。
バチン、と弾く音がした直後、路地に滑り込んだ灯りが銀を反射させた。

けれども、それは京一の琴線に触れる事はない。
いつしか感情が、感覚が、麻痺するようになってきて、そのまま元に戻らなくなった。
向けられる刃を恐れる意味が判らなくて、口元に浮かぶのは歪んだ笑みだけ。




昔は、どうだっただろうか。
怖いと思った時もあったのだろうか。

今よりもずっと見える視界が低かった頃は、世界はどんな風に見えていたのだろう。
こんなに地獄みたいな世界だったなんて、一度だって考えた事があっただろうか。







「大人ァ舐めんじゃねえぞ、固羅ァ!」







向かってきたナイフの動きは、目を閉じても追える。
滅茶苦茶に振り回されたところで、京一にはなんの苦にもならない。


一歩前に出て、足を払う。
バランスを崩した男の背中を、木刀の柄頭で打った。
蹴った時と同じ、耳障りな声が鼓膜を震わせる。

蹈鞴を踏んだ後で、男は振り返って何か判らない言語を撒き散らした。
唾が跳んで、京一は眉間に皺を寄せる。






「……汚ェモン撒いてんじゃねェよ、ブタ野郎」
「あァア!?」





怒髪天を突いた男は、眼球を引ん剥いて京一を睨む。


木刀を一度振るう。
刃が当たって、ビルのガラスが派手な音を立てて割れた。
ガシャガシャと煩い音が狭い路地に響く。




一つ、息を吐いた。
スムーズに。

筋肉が動くのか、伝達が早い。
信号どおりに躯が動いて、後は本能が命じるままに。
呼吸は意識しなくても、絶える事なく出来ていて。




ナイフが肩を貫いた。
男がにやりと笑う。

その男の顔に間近に近付いて、同じように笑って見せれば、男の顔が引き攣って。










「手前が舐めんな」









右手を振るって、風の切る音がした後で、鈍い音。
見れば男の腕は奇妙な方向に曲がっている。


ナイフが突き刺さったままの肩は、不思議と痛みがない。
信号どおりに筋肉は動くのに、どうしてか、痛みの信号は聞こえない。
腕だって問題なく持ち上がるし、振り下ろせる。

それでも邪魔臭くて鬱陶しかったから、左手でナイフを掴んで引き抜いた。
ズルリと肉を切り裂いて出てきた銀の刃は、紅に濡れてやけに綺麗に煌いた。





痛いとか。
苦しいとか。
辛いとか。

そんなものは要らない。
そんなものは邪魔なだけだ。





男は曲がった腕を抱えて、埃臭い地面の上でのた打ち回る。

痛い、痛い、痛い、痛い、叫んで騒いで泣いている。
同じ言葉を、ついさっきまで己が組み敷いた女が叫んでいた事を、この男は覚えているのだろうか。


右手に木刀を、左手にナイフを持ったまま、男に近付いた。
影に気付いて男は逃げを打ったが、腰が抜けたか、立てずにその場で這い蹲る様はまるで芋虫だ。
追い付くことは容易くて、背後に立って、木刀を振り翳す。

そのまま躊躇せずに打ち下ろせば、男は仰け反って地面に落ちた。





痛い、痛い、助けてくれ。

そう叫ぶ男が、今まで何をして来たかなんて知らない。
それでも、今と逆の立場で同じ事をしていたのを想像するのは容易くて。


助けてくれ、なんでもするから、死にたくない。

して欲しいことなんて何もないし、死にたくないなら逃げればいい。
這い蹲って幾らだって逃げられる、足と腕一本があるのだから。







顔が歪む。

笑みで歪む。



息が楽だった。
こんな事で、自分は容易く息が出来る。

この現世の皮を被った地獄で、まだ生きていられる。









「なあ、悪かった! 悪かった! だから頼む、助けてくれ……!」







あまりに必死に懇願するのが癪に障って、尻を蹴飛ばす。
男は今度は尻を抑えて、仰向けになってじたばたと呻いた。


あれだけ強気に向かって来た癖に、女を力で支配していた癖に。
同じ人間とは思えない程に無様な有体に、京一は無意識に舌を打った。







同じ台詞を言った女に、お前は一体何をした。
同じ台詞を言った奴に、お前はどんな事をした。

そんな事は知らない、知らないけれど。



そいつが願った通りにしてやったと、お前は絶対を持って言い切れるか?






―――――――目障りだ。








自分の肩を貫いたナイフを持ち上げる。
ヒ、と男が引き攣った悲鳴を上げた。




何処に落とす?
どうやって落とす?


斬首刑などで人の首が跳んだ時、人は数瞬意識が残っていると言う。
頭蓋に穴が開いただけでは、人はまだ死なないらしい。

ならば、何処にこの刃を落とす?


















「―――――――――――――ッッッ」




















ガキッ、と音がして。
折れた刃が跳ねて、頬を傷付けた。

皮膚の隙間から零れた紅が、男の顔に落ちる。


男は既に泡を吹いて、白目を向いて、失禁しながら気絶していた。




指の隙間から零れ落ちるように、ナイフが音を立てて地面に転がる。
刃を失ったそれは、もう既になんの役にも立たない、単なるガラクタに成り果てた。



立ち上がって、数歩下がって男から離れる。
足が縺れて、後ろに転んだ。

吐き気がして、左手で口を押さえて、ぬるりとしたものに気付く。
開いた手には、己のものに違いない、紅一色。
けれども一瞬、それが自分のものではなく、他人の――――其処に転がる男のものであるような気がして。







「――――――――……ッッぁ………!!」







息。
息、が。


息、が――――出、来ない。





ドクドクと、鼓動が煩い。

目の前がぐるりぐるりと歪んで、手が震えた。
肩からごぽりと血が漏れて、けれども痛みが判らない。


息をしないと、死んでしまう。
息をしないと。

でも、どうすれば息が出来たか、もう判らない。









何かが足を掴んでいる。
何かが腕を捕まえている。


何かが、引き擦り込もうとする。



見えない何かが、何処かへ連れて行こうとする。











慌てて立ち上がって―――――そのつもりで、酷く動きは遅かった。

機ばかり急いて、足は縺れて、腕が震えて、立ち上がることさえ容易に出来ない。
肩が熱くて、腕に力が入らない。


漸う木刀だけを手にして、壁を伝いに立ち上がる。
失神したままの男は目覚める様子もなく、動かない。
それももう目に入らなかった。



何かが纏わりついてくるかのように、酷く足が重い。
まるで自分のものではないような気がして、其処だけ既に引き擦り込まれているような気がする。

立ち止まっては行けない。
立ち止まったら、あっと言う間に連れて行かれる。
そうなったら、二度と戻って来られない。


剣を振るっている時だけは、そんなものは何一つとして感じない。
だけれど束の間離れたら、直ぐに餓えたそれらは敏感に感じ取ってやって来る。

どんなに抗ってみても、どんなに振り払おうとしても、それらは決して離れない。
まるで取り憑くように傍にいて、隙を見せれば引き擦り込もうとして。
抗えば抗うだけ、何かが酷く餓えて行く。




抵抗するのは、疲れる。








(疲れ、た)








痛みなんて感じない。
苦しいのも、辛いのも、判らない。

だけど、疲れた事だけは、やけにはっきりと判って。


それならいっそ止めてしまえと、餓えた何かが誘いをかける。



それもいいかと、時折、考えて、












「ああ、京ちゃん、此処にいた」












呼ぶ声がして顔を上げれば、路地の出口で、見知った人が立っている。
優しい顔をして、優しい笑みを浮かべて、此方を見ている。


ずるずる足を引き摺って、目の前まで来て立ち止まれば、やはり優しい瞳が見下ろして。
直視できずに俯いたら、大きな手がそっと頬を撫でた。
持ち上げられる事はなかったから、顔を見られる事はなかった。

また怪我しちゃったのねェ、手当てしなきゃね。
理由も何も聞かないで、それだけ言って、行きましょうと告げる声。




甘えているようで。
利用しているようで。

だって、居心地がいいから。


現世に近い地獄の中で、此処だけ酷く心地良いから。








帰りましょうと伸ばされた手を、躊躇いながらも掴んでいる。
























暗い道の真ん中で、光なんて見えない

闇しか見えないこの世界で、光の見付け方が判らない


それでもまだ、光が見たくて、生きている




一人で、暗い道を歩く

一人で、生きて歩いて、いつか死ぬから



その時までに、もう一度光を見てみたくて











現世に近い地獄の中で、這い蹲って生きている
























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中学時代、京士浪が失踪した後です。
あの時期の荒れに荒れまくった京ちゃんに非常にときめいております(台無し!)。
そしてアンジーさんには、京一に対して何処までも“愛”でいて欲しい。

全編殆どモノローグですね、こういう文章好きなのです。
そして普段はほのぼの書いてますが、根はシリアス好きなので、こういうタイプは書いてて結構楽しんでます。


タイトル[Preta-loka]はサンスクリット語で[餓鬼世界]。