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上手いものだな。
最初にそう言ってくれたのは、隊長だった。
寺子屋を営んでいたと言う隊士の監督下、字の練習をしていた時だ。
失敗して丸めようとしていた紙の白い部分を見て、何気なく筆を走らせた。
その時、幼馴染は隣で悪戦苦闘していて、此方なんて見ていなかった。
監督していた隊士は左之助の方にかかりきりになっていて、克浩は、実に手のかからぬ子供だったのである。
隣の喧騒を(慣れていることもあって)特に気にする事もなく。
気の向くままに滑らせた筆が描いたのは、行軍の途中、川の辺で見かけたカワセミだった。
思いの外上手く描けたのが嬉しくて、捨てるのが勿体無くて、綺麗に折って横に退けた。
飯が出来たぞと他の隊士が呼びに来て、書道教室はその日はお開きになった。
カワセミの絵は、やっぱり捨てる気にならなくて、いつか失くすだろうとは思ったけれど、懐に締まった。
食事を終えて食器を片付けるべく立ち上がった時、それはぽろりと落ちたのである。
「克、なんか落ちたぜ」
そう言った左之助の手にも、膳があった。
拾う為には、自分も左之助も一度膳を下ろさなければならない。
故に下ろそうと少し身を屈めた時、長い腕がそれを拾った。
顔を上げれば、敬愛する隊長が、それを手に持っていて。
あまつさえ――――弾みに開いたのであろう中身を、しっかり見られていた。
「これは、カワセミか?」
「なんスか? それ」
見えない中身に興味を示して、左之助が膳を持ったままで背伸びする。
「克浩、お前が描いたのか?」
「あ……は、い」
見られたと、しかも隊長に――――そんな恥ずかしさに、克浩は少し俯き気味に答えた。
なんだなんだと背伸びしている左之助に、隊長がひらりと表を見せてやる。
ああ、また見られた、倍に恥ずかしくなって、克浩は膳を持ったまま棒立ちになっていた。
「へー、カワセミだ、カワセミ!」
「ああ。上手いもものだな」
「克、お前ェやっぱ器用なんだなァ」
左之助が大きな声で言うものだから、他の隊士にもそれは聞こえたようで、おまけに興味も注がれたらしい。
なんだ、どうしたと集まってくる大人達から逃げるように、克浩は膳を片付けてきますと、そそくさその場を後にした。
待てよ克、という幼馴染の声も殆ど無視して。
へえ、上手いもんだァ。
誰が書いたんだ?
ええ、克が、へェ上手いなァ。
背中にめいめい聞こえてくる声が、恥ずかしくて仕方がない。
その中で一際高く響く少年の褒める声が、正直、一番恥ずかしかった。
へえ、上手いもんだ。
着色が済んだばかりの錦絵を見て、左之助がしみじみと呟いた。
それを聞いた克浩は、これで食っているのだから上手くなきゃ可笑しいだろう、と返す。
そりゃそうだが、と言うと、また左之助は黙って絵を覗き込んだ。
絵心なんてものに左之助はとんと縁がないが、綺麗な色を見るのは悪い気がしない。
またまた生憎ながら風情だなんだを語るような口ではないが、良いものは素直に良いと思う。
克浩は“月岡津南”として絵師で生きて行くことを止めた。
今は新聞屋を生業としているが、今の時代では、まだまだ規制が厳しくて、これだけでは食っていけない。
そこで昔取った杵柄とでも言うのか、“絵師・月岡津南”としてではないが、時折錦絵の仕事を受けている。
美人画、役者絵、相撲絵など、多岐に渡る。
新聞屋として土地土地を歩く傍ら、名所絵も描くようになった。
左之助が見ているのは、それである。
何処の土地だか知らないが、綺麗な色がふんだんに使われていた。
へえェ、と感心したように覗き込む左之助に、克浩は版画を彫る手を止め、
「お前も一つやってみるか?」
「あ? ああ、止めとく。チマチマした事ァ向かねェや」
ひらひらと手を振って言う左之助に、それは確かに、と思った。
幼い日、字の練習でさえ中々集中してこなせなかった左之助に、細かい版画を彫れと言うのが無理な話だ。
「そういや、覚えてるか? 克」
「なんだ」
顔料が乾いた絵の一枚を手に、左之助が振り返った。
「お前ェが描いたカワセミ」
――――――随分、古いことを言い出してくれるものだ。
悪戯するような子供の笑みで、左之助は言った。
覚えていない訳がないよなァと、そんな意がちらほら見え隠れしているような気がする。
実際、忘れられる訳も無い。
ほんの気紛れで描いた絵、言わばあれは単なる落書きだ。
それを隊長に見られて、左之助に見られて、他の隊士達にも見られて、その上上手い上手いと賛辞された。
子供の絵が上手いなんて訳がないだろう、と当時子供にしては少々捻くれていた克浩は、そう思った。
勿論、褒められたのは子供心に嬉しかったけれど、それよりも羞恥心の方が強かった。
皆からの褒め言葉から逃げるようにその場を離れた克浩を、左之助は絵を手に持って追いかけて来た。
二人で自分達の膳を運びながら、よりにもよって左之助は、「これ貰って良いか?」なんて言い出したのである。
あのカワセミは、本当に子供の落書きだった。
黒の墨で描かれた、技法も何も知らない、本当にただの落書き。
けれども、あの日あの時、敬愛する人はそれを褒めてくれて、目の前の幼い頃の幼馴染は、欲しがってくれて。
十年という歳月の中、出会いと別れを繰り返す中で、あの落書きはすっかり消え失せてしまったけれど。
幼い日の思い出と、其処にあった一枚の落書きを知る人は、もう自分達だけになってしまったけれど。
「こいつも綺麗だけどよ。俺ァあの絵、今も好きだぜ」
って訳で、こいつ一枚貰って良いか? と。
笑う幼馴染と自分の、変わらぬ関係が嬉しくて、好きにしろと言ってやった。
自由性の高いお題だなぁ(汗)。
最後の最後で、昔と今をリンクさせてみました(妄想捏造バリバリですけど)。
左之助は自分の感情に正直だ。
嬉しい、悲しい、腹が立つ。
遊びたい、腹が減った、眠い。
言葉にせずとも、顔と態度に出てしまう。
勿論、きちんとした場では我慢しているが、終わると途端に駄々漏れである。
良くも悪くも素直で、自分自身に嘘が吐けない。
左之助と克浩、二人が一緒に街に買い物に出た時、それは特に顕著になる。
「なぁ克、あそこの饅頭」
「駄目だ」
袖を引っ張って言われた言葉に、克浩はきっぱり言い切った。
左之助の顔が渋面になる。
「いいじゃねぇか、ちょっと寄ろうぜ」
「いつもそう言って寄り道してるだろう。今日は駄目だ」
そう、この光景は毎回のことだった。
左之助は町に出ると、大抵こうして、何某かに気を取られてしまう。
寒村育ちで、町に対して馴染みのないものが多く、子供らしい好奇心を刺激されるのもあるのだろう。
多くは子供らしく食べ物に、時に外国からもたらされた珍しい玩具であったりなど。
とにかく目に付くと気になるようで、ちょっと見ていこうと克浩を誘うのだ。
それを、克浩は毎回きっぱりと断わり、左之助の手を引っ張って宿へ向かう。
「なんでェ、別に急ぎじゃねェんだからいいだろ?」
「急ぎじゃなくても、早く戻るべきだ。勝手な行動は慎めって、隊長も仰っているだろう」
「判ってるって。だから、ちょっとだけだって」
「…お前のちょっとは長いんだ」
袖を引っ張っていた左之助の手を逆に掴んで、ぐいぐい引っ張って歩く。
半歩遅れて蹈鞴を踏むように歩く左之助は、いいじゃねェかとまだ引き下がらない。
「別に食ってこうって言ってんじゃねェよ、寄ろうって言ってんだ」
「駄目だ」
「腹減ってんだよ」
「戻ったら夕餉だ。必要ない」
「待ってらんねェよ」
空きっ腹を宥めるように腹を擦りながら、左之助は眉をハに字に下げる。
それを視界の隅で見てしまって、克浩は長い溜め息を吐いた。
買い物を頼まれた時、克浩は一人だった。
さて行こうかと思って宿の戸口に立った時、左之助が一緒に行くと言い出した。
その時、左之助の口の横には、みたらし団子の食べカスがついていたと思うのだが。
頼まれた品物を探すのに時間がかかったけれど、あれから一刻程しか経っていない筈だ。
なのにもう腹が減ったとは―――――克浩には考えられない早さだった。
なぁ行こうぜ、と駄々っ子のように左之助は繰り返す。
金がないとは言わなかった。
買い物を頼まれる都度、渡される金は、必要な分を僅かに上回る。
お使いのお駄賃だ。
それがなくても、左之助も克浩も、僅かではあるが小銭を持っている。
茶屋で団子や饅頭一つを買うぐらいは都合できる。
腹が減ったとしつこく鳴いた左之助だったが、しばらくすると沈黙した。
ちらりと肩越しに見遣ると、唇を尖らせて、通り過ぎる茶屋を眺めていた。
――――――そんな事をしているのは予想できていたのに、どうして振り返ったりしたのだろう。
「………まったく……」
「あ? なんか言ったか? ……うぉっ」
無言のまま、左之助の手を引っ張った。
看板娘のいらっしゃい、という声が響いた。
叶えてあげるよ、なんだって。
“もしも”じゃなくて、えらい現実的なものになりました(あれッ?)
左之助が腕に怪我をした。
別に珍しい事ではないし、然程心配しているつもりはない。
でも、一人で釣りをするのがこんなに退屈だとは思わなかった。
昨日、左之助は派手に転んで右膝と左腕から出血してしまった。
転んだ場所が石の多い砂利道だったのが運が悪かった。
それでも生傷の絶えない左之助である、本人も痛がる様子は見せなかった。
とは言え、やはり無理をすれば痛むようで、今日一日は大人しくしている。
行軍も大人の隊士に背負われてのもので、気紛れに隊長にまでおんぶされて、その時だけは真っ赤になっていた。
日が暮れてきて、川辺の近くで天幕を張り、今日は其処に野営することになった。
道中に鹿を見たと左之助が言うので、猟師の経歴を持つ隊士が、それを狩りに山へ向かった。
左之助の道案内と共に。
幼馴染がいなくなって暇を持て余した克浩は、折角だからと川辺に糸を垂らす事にした。
―――――それが、四半刻前の話になる。
釣りとは、忍耐力との勝負である。
よって左之助には不向きで、克浩にはそれなりに向いている事だった。
だが他に同じ年頃の隊士などいない所為か、自然と二人揃っている事が増えた。
克浩が一人で魚釣りをするのは、いつ以来だろうか。
随分久しぶりの事のように思えて、克浩は少しだけ解放的な気分だった。
左之助と一緒にいるのは悪い気はしないけれど、何分、彼は落ち着きがない。
魚の食い付きを探りつつ、左之助が癇癪を起こさないように暇を持て余さないように、なんでもいいから話をして――――
………元より自分の性格を“根暗”と自覚がある克浩にとっては、意外に疲れる事だったのだ。
だから今日は久しぶりにのんびり出来る、と。
思っていたのだけれど。
「…………………」
静かだった。
喋る必要がないのだから、当たり前だ。
此処にいるのが克浩ではなく、左之助であったなら。
大人達は何くれと様子を見に来て、揶揄ったり、暇を潰してやったりするのだろう。
彼はじっとしていられないし、一人でいるよりも、誰かと一緒にいる方が好きだから。
対して克浩は、大人しいし、左之助以外に話をする人物と言ったら隊長ぐらいのもの。
あまり騒がしいのも好きではないから、皆、それを判って近付かないのだろう。
それは克浩にとってもありがたい配慮だった。
何を話していいのか判らない大人に傍にいられても、正直、戸惑うだけだ。
こうして遠くから眺められている程度が、克浩にとっては丁度良かった。
「…………暇だな……」
けれども、今に限っては、それでもいいから誰かに喋りかけて欲しかった。
別に寂しいわけではない、言葉にした通り、単に退屈なのだ。
退屈で仕方がない。
釣りは忍耐力が勝負。
暇になるのも当たり前だ。
そんな事は判っている。
判っているのに、暇で退屈でつまらなくて仕方がない。
何気なく、隣に眼をやった。
其処には誰もいない。
いつもぐちぐちと文句を垂れながら、一緒に釣り糸を揺らしている幼馴染は、其処にはいない。
左之助が一緒にいる時は、食い付きがなくたって、何時間でもこうしていられるのに。
「克―――――ッ!!!」
盛大な呼ぶ声がして振り返れば、見慣れた幼馴染の姿があった。
「………左之?」
確かめるでもなく、判っていた事だったけれど。
名を呼んでみると、左之助は右足を引き摺りながら近付いてきて、克浩は竿を投げ出して彼に駆け寄った。
「左之、」
「鹿捕まえたぞ! 今日は鹿鍋だってよ! 克はどうだ? 魚釣りしてたんだろ?」
夕飯がご馳走とあって、左之助は興奮を隠せないらしい。
克浩の返答を待たずに早口で喋る。
その、くるくる忙しなく変わる表情が、見ていてとても楽しくて。
「――――駄目だ。今日は坊主だよ」
「なんでェ、楽しみにしてたのによ」
「そりゃ悪かったな」
「んー……ま、いいか。鍋だ鍋、早く食おうぜ!」
アタリが来ない事に、退屈過ぎる事に。
あんなに苛々していたのに、あんなにつまらなかったのに。
お前が此処にいるだけで、何もなくても、こんなに楽しい。
克浩、多分、表情はいつも通りです。
左之助だけがそれに気付くとかしたらいいなー。
隊長が左之助をおんぶ。見てみたい……
むっつりと、不満をありありと顔に描いた幼馴染。
不機嫌が判り易すぎて、克浩はどうやって声をかけようか、少しの間考えた。
この少年の機嫌を左右させるのは容易い。
切っ掛けに、彼の敬愛する隊長が絡んでしまえばあっと言う間だ。
今日の不機嫌の理由は、大人達の宴会に混ぜて貰えなかった事。
なんでもお偉方が大勢来るから、子供はいても楽しくない、と言われて。
それが子供達を納得させる為だけの言葉だと、克浩も左之助も判っていた。
下手に粗相をしたりしては赤報隊の印象が悪くなるし、子供であるからと大目に見て貰えるとは限らない。
また、失敗をして子供達が凹んでしまうのを避ける為でもあり、今回の事は隊長の温情であるのは確かだ。
だが、それを判っていはいても、やはり左之助は納得行かないのだ。
宴会になんか混ぜて貰えなくてもいいから、せめて隊長の傍から離れたくなくて。
がやがやと宴の声が聞こえてくる。
宴の席に出して貰えなかったのは、何も左之助や克浩という、子供だけではない。
準隊士の半数は同じ場所でお預けを食らっているし、隊士でも酒癖の悪い者は外された。
今回の宴は、要は“宴”の名を借りた接待なのである。
――――でも、やっぱり左之助は不機嫌だった。
「左之」
呼んでも、反応もしない。
相当剥れているらしい。
克浩は一つ溜め息を吐いて、膝を抱えて拗ねる幼馴染の隣に腰を下ろした。
「さーの」
「…………」
「左之助ー」
左之助はこちらを見もせずに、じっと正面の壁を睨んでいた。
其処に何がある訳でもない。
ただ、それしかする事がないのだ。
隊長が帰ってくれば、この表情もコロリと消えてしまうに違いない。
けれども、隊長が此処に戻ってくるまで、まだ随分と時間がかかる。
先ほど厠のついでに宴会場を覗いて来たが、まだまだ盛り上がりそうだった。
その中で隊長は目敏く自分を見つけてくれて、すまんな、と言うように微笑んだ。
あの顔を左之助が見たのなら、少しは諦めがついたのかも知れない。
でも、それを見たのは克浩であって、此処で剥れて動かない左之助ではない。
「おい、左之」
「…………」
「返事ぐらいしろよ」
「…………」
意地を張りすぎて、引っ込みがつかなくなってるんじゃないか?
克浩はそう思った。
こうも長々と拗ねた態度を取っていると、中々元には戻せない。
周囲の大人達も刺激しないように遠巻きに見ている。
気を遣わせてしまっていると感じると、余計に気まずくて、もう大丈夫だとは言い出せない。
これだから、こいつは。
言葉の先に何が続くのか、克浩は自分でも判らなかった。
莫迦にしたような言葉であったような気もするし、仕方がないなという類でもあったような気もするし。
とにかく放っておく訳にも行くまいと、克浩は左之助の手を取った。
「左之助、風呂沸かしに行くぞ」
「…………風呂?」
突然の克浩の言葉に、左之助が思わずと言った風で問い掛けた。
「宴が長くなりそうだから、終わった頃にはきっと皆疲れてるぞ」
「………で、なんでいきなり風呂なんでェ?」
「寝る前には風呂に入るだろ。今から沸かして置くんだ」
言って、克浩は無理矢理左之助を立たせ、部屋を後にする。
流石は克浩、と残された隊士達が呟くのが聞こえた。
それはそうだ、だっていつも一緒にいるんだ。
左之助がどんな時に落ち込んで、どうすれば笑うのか。
自分はよく判っている。
「沸かしておいたら、きっと隊長が褒めてくれるぞ」
ほら、この言葉。
“隊長”。
そうすれば、見慣れた笑顔がようやく覗く。
「―――――おう!」
その笑顔が自分に向くことはなくても、
お前が笑ってくれるなら、何度だって。
左之助の管理(笑)はすっかり克浩の役目だったらいいなー。
退屈そうだな、と言ったのは、相楽隊長だった。
「――――そんな事は、」
「ない、か?」
にっこりと笑みを浮かべた隊長に、克浩は口を閉じた。
続けるつもりだった言葉を先に取られたから、というのもある。
向けられる柔らかな視線から逃げるように、克浩は背を向けて立ち上がった。
泊まりこんでいる宿の、閉じられた障子窓を開けると、外界では雨が降っている。
それほど激しい雨ではなかったが、雨粒が大きく、外を歩く人々の姿はない。
精々、帰り損ねた街人や旅人が、軒先で雨宿りをしている程度だ。
その中に求めた子供の姿は、ない。
「……何処で何やってるんだ、左之の奴……」
呟けば、ははは、と笑う声がした。
振り返れば隊長が面白そうに笑っている。
「仕方がないだろう、何せ左之助だ」
その言葉に納得もして、克浩はまた窓の外へと目を向ける。
隊長が私用で必要なものがあって、左之助はそれを買いに行った。
それが四半刻前の事で、その時にはまだ雲こそ空を覆っていたが、雨は降っていなかった。
急ぎの物ではなかったから、隊長は雨が降るかも知れないから今はいい、と言っていた。
しかし隊長の為なら、左之助はそんな事などお構いなしだ。
振り出したら大雨になる前に走って帰ります、と言って、小銭を握って宿を出て行ってしまった。
せめて傘ぐらい持って行っていれば良かったものを。
左之助らしいと言えば、らしいのだが。
せめて早く帰ってこないものか。
溜め息が漏れたのは、殆ど無意識だった。
「―――――ふふ」
「……?」
苦笑のような、けれど温かそうな声に、もう一度振り返る。
「左之助がいないと、お前はすぐに“そう”だな」
退屈そうに暇を持て余し、からくりを扱う時も心此処にあらず。
何処か詰まらなそうに視線は宙を跳んで、此処にいない子供を探す。
中々帰ってこないと、いつも溜め息を吐いて。
「……一人にすると、何処で何してるか判りませんから、あいつ」
「はは、それも間違ってはいないのだろうな」
隊長の言葉に、克浩は判り易く顔を顰めた。
準隊士のそんな態度にも、隊長は注意もせずに笑って甘受する。
降り続ける雨は、まだしばらく止みそうにない。
こんな雨の中を走って帰ってきたら、明日には風邪をひいてしまいそうだ。
幾ら元気印の逞しい子供とは言え、やはり大人よりも抵抗力は低いのだ。
でも、左之助の事だから、雨宿りなんてしていないに決まっている。
だから、早く帰って来いとずっと克浩は思い続けている。
一人にすると、何処で何をしてるのか。
判らないから、気になるから。
早く、早く帰って来い。
此処にお前がいないだけで、俺はぽっかり穴が空きそうなんだ。
たまには隊長と克浩の2ショット。
此処に左之助がいないのは、他の隊士から見て凄く珍しかったりとか。したらいいな。
絶対左之助はびしょ濡れになって帰って来る。