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マリィには、大好きな人がいる。
マリィよりもちょっとお兄さんの、優しい男の子。
その子がマリィのいる保育園に来るようになったのは、つい最近だ。
毎日来る訳じゃなかったけれど、でも、殆ど毎日やって来る。
マリィはその日が楽しみで楽しみで、男の子が家に帰ると、早く明日にならないかなあと思うのだ。
男の子はとても優しい子で、マリィの頭をぽんぽん撫でてくれる。
メフィストの事も気に入ってくれて、マリィがメフィストを差し出すと、ぽんぽんとメフィストの頭を撫でた。
その時見せてくれる笑った顔が、マリィは大好きだった。
保育園で、マリィより小さな子はいない。
皆マリィより大きくて、立って歩けないのはマリィだけだ。
マリィは、普通の子よりも体が小さい。
同じ二才の女の子と並んでも、一回りも小さかった。
小さいことを、マリィは特別気にしていない。
でも皆と同じ遊びが出来なくて、追いかけっこも出来ないのは、少し淋しかった。
お散歩に行く時も、マリィだって皆と同じように歩きたいのに、いつも舞子先生やマリア先生に抱っこされないといけない。
歩けないから仕方がないけれど、マリィはそれが少し、淋しかった。
いじめられたりしている訳じゃない。
仲間はずれにされている訳じゃない。
皆マリィに優しい。
でも皆、マリィと同じ遊びはあんまりしてくれない。
マリィは皆と同じ遊びが出来ないから、皆にそんなつもりはなくっても、マリィは自分だけ仲間はずれみたいだった。
そんな所に、男の子はやって来た。
龍麻という名前の、優しい顔した男の子。
優しい笑顔と、優しい手。
絵本を読んで貰った時に聞いた王子様みたい、とマリィは思っていた。
龍麻は、マリィと一緒にいてくれる。
マリィが後ろをハイハイしてついて行くと、立ち止まって待ってくれる。
座っている時に膝の上に登ると、頭を撫でて、膝の上にちゃんと座らせてくれる。
抱っこはまだして貰えないけれど、もっと大きくなったらしてあげるね、と言ってくれた。
抱っこもお膝の上に座らせてもらうのも、マリア先生や遠野先生や舞子先生にして貰ったことがある。
でも男の子でしてくれる人はいなくて、それをしてくれた龍麻は、マリィにとって王子様だった。
マリィは龍麻が大好きだ。
小さくたって女の子だ。
これは恋だ、きっと、間違いなく――――だって彼は王子様だ。
お姫様が恋をするのは、優しくて強くて格好いい王子様なんだから。
でも、小さなお姫様の恋は、色々大変なのだ。
積み木で遊んでいた龍麻の背中に、何かがとんとぶつかった。
それで手元が少し狂って、持っていた積み木が積んでいた積み木にこちんと当たって、がらがら崩れた。
龍麻の眉毛がへにゃりと下がる。
でも怒ったりはしなかった。
背中にぶつかってきた小さな温もりがなんなのか、知っているから。
振り返ってみれば、思ったとおり、小さな小さな女の子。
「どうしたの、マリィ」
「ふあ」
龍麻はマリィを抱き上げて、膝の上に乗せてあげた。
大好きな龍麻のお膝抱っこに、マリィは嬉しそうに笑う。
マリィを抱っこしたままで、龍麻はまた積み木を始めた。
少し動き辛いけれど、小さなマリィを抱っこするのは嫌じゃないから、龍麻は気にしない。
土台を作って、そーっとそーっと、上に筒の形をした積み木を置く。
真剣な表情で積み木をしている龍麻を、マリィは膝の上からじっと見上げた。
いつもふわふわ優しい龍麻の顔が、こんな時はきりっと締まって、マリィにはとても格好良く見える。
マリィにとって、この保育園で一番格好いい男の子は龍麻だった。
醍醐は体が大きくて熊さんみたいで、如月は笑わなくって少し冷たそうで好きじゃない。
雨紋はやんちゃばっかりで落ち着きがないし、亮一はいつも泣きそうで情けなさそう。
壬生は落ち着いているけれど、こっちも如月と一緒で笑わなくって少し冷たそう。
京一はいつも勝手な事ばっかりしていて、よく皆とケンカをするから、乱暴そうで好きじゃない。
犬神先生は大人だけれど、よれっとした服ばっかりで、なんだかだらしがない。
その点、龍麻は優しいし、いつも笑顔を見せてくれるし、乱暴なんて絶対にしない。
マリィの中で龍麻は格別な存在だった。
じっと見上げてくるマリィの視線に気付いて、龍麻が目線を落としてきた。
ばっちり目が合ったマリィは、ぽっと頬を赤くする。
「マリィもつみ木、する?」
龍麻の手でちょっと大きいくらいの積み木は、マリィにはもっと大きい。
でも龍麻と同じ事が出来るのが嬉しくて、マリィは両手で四角い積み木を持った。
「ここにのせてね」
龍麻がそう言って指差したところに、マリィはそーっとそーっと、四角い積み木を置いた。
「マリィ、じょうずだね」
ぱちぱち、龍麻が拍手してくれた。
嬉しくって、マリィは今度は三角の積み木を手に取る。
「それは、ここにおいてね」
さっき乗せた四角い積み木の上を指差して、龍麻が言った。
そーっとそーっと三角を置くと、龍麻はまた拍手してくれた。
大好きな龍麻に褒めてもらうのが嬉しくて、マリィはどんどん積み木を乗せていった。
此処だよ、と指差して教えて貰った場所に、あるだけ積み木を置いていく。
……その内、積み木はなんだかよく判らないオブジェになっていた。
なんだかよく判らないオブジェの正体が何かなんて、マリィはちっとも気にしなかった。
マリィにとって大事なのは、積み木が何の形を作るかと言う事じゃなくて、龍麻に褒めてもらうこと。
龍麻の代わりに積み木を積み上げて、龍麻に喜んでもらうことが何より大事だった。
そうしている間に、マリィがいつもお昼寝している時間になった。
小さなマリィはまだまだ寝ている時間が多くて、ちょっと遊ぶと直ぐ眠たくなってしまう。
でも今日はちっとも眠くなくて、積み木遊びに夢中になっていた。
途中で遠野先生がやって来て「眠くない?」と聞いたけど、マリィは返事をしないで積み木に勤しんだ。
眠たそうな表情もしていないのを確認して、遠野先生は、マリィが寝ちゃったら教えてね、と龍麻に言って他の子を見に行った。
お昼寝なんかより、こうして龍麻と一緒に遊んでいる方がずっと良い。
恋する乙女は一途なもので、マリィは龍麻に褒めてもらえるのと喜んでもらえるのが嬉しくて、とにかく夢中になっていた。
葵が龍麻に声をかけてきた。
何かに龍麻を誘ったけれど、龍麻はマリィと一緒にいると言った。
マリィはその言葉が嬉しくって堪らない。
積み木が一段落したから、マリィは嬉しさを一杯胸に抱いて、龍麻の膝に登った。
龍麻は優しく微笑んでくれて、マリィが落ちないように、きちんと膝の上に乗せてあげる。
龍麻はマリィを優先してくれる。
小さなお姫様は、これがとてもとても嬉しかった。
――――――嬉しかった、けれど。
「……ヘンな形」
積み木を見て言われた言葉に、龍麻とマリィが顔を上げる。
と、其処には動物図鑑を脇に抱えた京一が立っていて。
――――――来た、とマリィは思って、ぷくっと丸いほっぺを膨らませた。
「ヘンな形じゃないよ」
「ヘンだろ。なんだかわかんねェもん、それ」
つんつん、積みあがった積み木の天辺を突付きながら、京一は言った。
「おまえ、ヘンなもんばっか作るのうまいよな」
褒めてるんだか、褒めてないんだか。
マリィにはよく判らなくて剥れたが、龍麻はなんだか嬉しそうだ。
マリィにとって、京一は敵だ。
恋敵だ。
だって、マリィはこんなに龍麻のことが好きで、龍麻もマリィに優しくしてくれるのに、京一が来るとそっちに行ってしまう。
ちょっと前まで龍麻は京一の後ろを追いかけていて、マリィはそれが悔しくて悔しくて、羨ましかった。
京一ちょっと前まで誰とも仲良くしなかったのに、龍麻が来てから変わった。
いつもいつも一緒にいるという訳でもなかったけれど、京一は龍麻には自分から声をかけるし、何かに誘ったりする。
そうすると、龍麻は、他の子と遊んでいても京一を選んで一緒に行ってしまう事が多かった。
恋に恋する女の子にとって、こんなに悔しいことはない。
大好きな人が、自分よりも大好きと言う人がいるなんて、小さくたって焼餅する。
だからマリィにとって、京一は恋のライバルだった。
「もっとかっこいいもん作れよ」
「かっこいいよ、これ」
「どこがだよ。ヘンだぞ、これ」
変だ変だと言われて、マリィはどんどん頬を膨らませた。
龍麻と自分が一所懸命、一緒に作ったものなんだから、無理もない。
でも龍麻はちっとも気にしていないみたいだった。
「きょういちもやる? つみき、たのしいよ」
「いい」
きっぱり断る京一に、マリィはむぅと剥れる。
折角龍麻が誘ってくれたのに! と思うのだ。
積み木は断った京一だったが、龍麻の隣に座って、動物図鑑を開く。
「きょういち、つみきやらないね」
「つまんねェから」
「たのしいよ」
「つまんねェよ。すぐたおれるし」
「ヘタなんだ」
「ヘタ言うな」
龍麻の言葉に、京一が口を尖らせて言った。
「ゆっくりおいたら、たおれないよ」
「いい。どうせやらねェし」
「ぼくはやりたいよ」
「一人でやってろよ」
素っ気無い京一の台詞に怒ったのは、龍麻じゃなくてマリィだ。
それまでじっと黙って龍麻の膝抱っこに身を任せていたマリィだけれど、またそっぽを向いた京一の態度が嫌で、マリィは手を伸ばして京一の服を引っ張った。
ぐいぐい引っ張る力はそんなに強いものではないけれど、それでもマリィの精一杯だ。
京一は怖い顔をしてマリィを振り返った。
「なんでェ、このガキ」
京一は直ぐ怒る。
だから皆とよくケンカをする。
龍麻にだってちょっと前まで凄く怒ったりしていた。
相手がマリィのような小さな女の子でも、マリア先生や犬神先生みたいな大人でも、態度を変えない。
誰にでも怒るし、怖い顔をするし、龍麻とは正反対だ。
どうして龍麻と仲良く話をしているのか、不思議な位に。
でもマリィは京一を怖いとは思わなかった。
怖いより嫌いの方が強い。
だって大好きな龍麻を取るから。
服を引っ張るマリィの手を放そうと、京一が体を捻る。
でもマリィはしっかりと京一の服を掴んでいて、ちっとも放そうとしなかった。
放すどころか、京一の腕をぽかぽか叩き始める。
「てッ、いてッ。なんだよ、おまえッ」
マリィの体は他の子たちよりずっと小さいけれど、一所懸命叩けば、京一もやっぱり痛い。
京一は立ち上がって大きい声で言うと、怖い顔でマリィを睨んだ。
マリィが龍麻にぎゅうとしがみ付く。
龍麻はぽんぽんと優しく頭を撫でてくれた。
「きょういち、マリィがこわがるよ」
「たつまッ! てめェどっちの味方だッ」
龍麻がマリィを庇うのが腹が立って、京一は今度は龍麻を睨んだ。
「きょういち、おにいちゃんなんだから、おこっちゃダメだよ」
「そいつがいきなりなぐって来たんだぞ! なんでオレの方がおこったらダメなんだよ!?」
「だっておにいちゃんだもん」
マリィはこの保育園で一番小さいから、龍麻も京一も年上だ。
だからこんな事で怒っちゃダメだと、龍麻は言う。
でも理由も判らず叩かれるなんて、京一には簡単に許せない。
うーっと怒った犬みたいに唸る京一から隠れるように、マリィは龍麻に抱き着いた。
龍麻はそんなマリィの頭を撫でてくれた――――のだけれど。
「マリィもごめんなさいしよう」
「うぁ?」
なんで?
龍麻の言葉の理由が判らなくて、マリィはきょとんと首を傾げた。
京一は膨れっ面でマリィと龍麻の遣り取りを見ている。
「マリィ、たたかれたらいたいよね」
「いたぃ」
「きょういちもいたかったんだよ。だからきょういち、おこったの」
「しぁなぃ」
「このチビ……」
「きょういち、おこらない」
ぷんっとそっぽを向いたマリィに、京一がまた怒った。
でも龍麻に止められて、今度は京一もそっぽを向いて、開きっぱなしの動物図鑑を持って、顔を隠すみたいに読み始める。
「マリィは、きょういちがキライなの?」
「きぁい!」
「オレもキライだ、チビ」
「きょういち」
「フン!」
京一は図鑑に顔を隠したままだ。
龍麻の方を見もしない。
「ぼくは、きょういちがすきだよ」
「まりぃはきぁい!」
マリィは龍麻は好きだけど、京一は嫌いだ。
龍麻が京一を好きだと言うから、京一が嫌いだ。
小さな体で大きな声で一所懸命に主張するマリィに、龍麻はうん、と頷いて頭を撫でた。
「ぼくね、きょういちがすき。マリィもすきだよ」
笑顔で好きだよと言われれば、恋する小さなお姫様は、ぽわっと頬をりんごみたいに赤くする。
「だからね、ぼくは、きょういちとマリィに、なかよしになってほしいんだ」
「……うぅ」
大好きな龍麻からのお願いだ。
でも、お願いの内容がマリィには嫌だ。
だってマリィは京一が嫌いだ。
龍麻を取るから嫌いだ。
葵や小蒔みたいな子ならまだいい。
あの子達も女の子で、龍麻と仲良くしているとマリィはちょっと嫌だけど、京一の時程じゃない。
葵や小蒔はマリィにも優しいし、龍麻にも優しいから、マリィは葵や小蒔は嫌いじゃない。
でも京一はいつも怒ってるみたいだし、この間まで龍麻にも凄く冷たかった。
今でも冷たい所はあって、さっきだって折角龍麻が積み木に誘ったのに、ちっとも相手にしない。
龍麻が誘ってくれたのに!
だからマリィは、京一の事が嫌いだ。
大好きな龍麻をマリィから取るし、龍麻が誘っても冷たいばっかりだから。
……なのに龍麻は、京一に怒らない。
だって龍麻は王子様で、皆に優しい男の子だから。
「ダメかな?」
マリィは龍麻が大好きだ。
大好きな龍麻は、マリィが嫌いな京一の事が大好きだ。
マリィは京一が嫌いだけれど、だからって龍麻に大好きな人の事を嫌いになってなんて言えない。
そうしたらマリィは龍麻の事を嫌いにならなきゃいけないし、そんなの無理だ。
大好きで大好きで大好きで堪らない龍麻を、嫌いになんてなれる訳ない。
むうと頬を膨らませるマリィに、龍麻は困った顔で笑った。
…そんな顔をされると、マリィはもうイヤだなんて言えなくなる。
だって笑った顔が淋しそうで、マリィは龍麻のそんな淋しい笑顔は見たくない。
マリィが大好きな龍麻の笑顔は、もっと優しい、ふわふわの笑顔なのだから。
「なかよくしてくれる?」
「…………」
こっくり。
マリィは頷いた。
頭をぽんぽん撫でられる。
龍麻はマリィを膝抱っこして、京一と向かい合った。
図鑑で顔を隠していた京一が、ちょっとだけ顔を上げる。
京一とマリィの目が合った。
「はい、マリィ」
促されたけれど、マリィはどうしても顔が変になってしまっていた。
龍麻のお願いは聞きたいけれど、やっぱり直ぐには無理だ。
だって大嫌いだし。
でも――――このまま黙っていたら、大好きな龍麻に嫌われるかも知れない。
そっちの方がマリィは嫌だ。
「………ごめんなさぃ」
ぎゅうと龍麻に抱きついて、口の先っぽを鳥みたいに尖らせて、それでもマリィは、ごめんなさいを言えた。
言ってすぐにぷぃっと視線を逸らして龍麻の胸に顔を埋める。
京一は、しばらく何も言わなかった。
でもこっちを見ているのは判った。
そうして、京一もマリィも龍麻も、じっと黙っている時間が続いてから、
「……おこってわるかったな」
言う雰囲気はいつもと同じ、ちょっと怖い感じ。
やっぱり京一は、龍麻みたいに優しく喋ってくれない。
でも、ちゃんと謝ってくれた。
マリィが京一の方をちらりと見てみると、京一の顔はもう本で隠れていた。
大きくて重い図鑑を両手だけで浮かし上げて読んでいる。
子供にはまだ重い図鑑を持った腕が、ぷるぷる震えているけれど、京一は図鑑を下ろそうとはしなかった。
ぽんぽん。
龍麻がマリィの頭を撫でた。
「ありがとう、マリィ」
マリィが顔をあげれば、其処には嬉しそうな龍麻の顔がある。
マリィの大好きな、ふわふわ優しい龍麻の笑顔が。
大好きな人がこんなに喜んでくれるなら、大嫌いな子でも、ちょっとは好きになれるかも知れない。
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マリィvs京一の勝敗は、龍麻の一人勝ちです(笑)。
マリィは京一にやきもち焼いて、京一に色々イタズラしたらいい。
京一は、龍麻との事は別にそれ程気にしてないけど、ちょっと意地になって張り合ったらいい。
「でやーッ」
「たぁッ!」
「やッ!」
「うりゃぁあッ」
元気な掛け声と共に、ぱしんぱしんと竹の打ち合う音。
中庭から鳴るそれを耳にしたマリア先生は、一つ溜息を吐いて音のする方向へと向かった。
真神保育園の子供達は今、保育園からバスで5分の場所にある、織部神社に来ている。
社会見学の一環であり、これは月に二回の恒例行事で、子供達は此処に来ると境内や本殿・拝殿の掃除を手伝う。
織部神社は、保育園に預けられている雪乃・雛乃姉妹の実家だ。
だが現在神主を務めているのは姉妹の両親や祖父母ではなく、その友人の荒井龍山先生だ。
長い髭を蓄えた荒井先生は、威厳もありつつ、子供達にはとても優しいおじいちゃんだった。
子供達は、宗教の事はよく判らない。
けれども広い境内や本殿はとても開放的で、掃除を面倒臭がる子はいても、此処に来る事は皆嫌いじゃない。
まだハイハイしか出来ないマリィは手伝いらしい手伝いは無理なのだが、荒井先生の心を和ませるのに一役買っている。
他の子供達は子供用に短い箒やちりとりを使って、織部姉妹の真似をしながら掃除に励んだ。
きちんと掃除が出来たら、後で美味しいお菓子がご褒美に待っているのだ。
……しかし、そんな事より今すぐ遊びたいと言うやんちゃな子供はいるもので。
「コラ、其処! 遊んでないで今は掃除の時間よ!」
マリア先生がそう言って睨んだ向こうには、チャンバラごっこで遊んでいる京一と雨紋。
雨紋の傍には亮一がいて、此方はチャンバラごっこに参加してはいないものの、雨紋と元気に遊ぶ京一を羨ましそうに見ている。
怒られた二人はチャンバラに夢中になっていて、マリア先生の声なんて聞こえちゃいない。
「めーんッ!!」
「いてッ!」
ぱかん、と軽い音がして、京一の振り下ろした箒が雨紋の額にクリーンヒットした。
雨紋は赤くなった額を押さえて、唇を尖らせる。
「ちくしょー、またきょーいちのかちかよォ」
「へへッ、剣ならまけねーぞ」
「そういう問題じゃないのッ」
自慢げに胸を張る京一と、剥れた顔の雨紋の頭を、マリア先生はペシンと叩いた。
「いてーッ!」
「何すんだよ、マリアちゃん!」
「マリア先生よ。今は掃除の時間なんだから、きちんとやりなさいッ」
「……へーい」
「……はーい」
マリア先生に怒られて、二人は綺麗にハモって返事をした。
いつもは優しいマリア先生だけれど、怒る時は怖いとちゃんと覚えているのだ。
くるりと方向転換したマリア先生の目に、箒を握ったまま棒立ちになっている亮一が飛び込んできた。
亮一もマリア先生が自分を見た事に気付き、びくっとして、慌てて掃除を再開させる。
マリア先生に怒るつもりなんてなかったのだけれど、気弱な亮一は仕方がない。
マリア先生は亮一に歩み寄ると、ぽんぽんと頭を撫でてやる。
目線を合わせると亮一は微かに笑ってくれて、マリア先生も笑みが漏れた。
境内の方から遠野先生がマリア先生を呼ぶ声がした。
マリア先生はやんちゃっ子二人がきちんと掃除しているのを確認して、境内へと駆けて行く。
――――本殿の角を曲がってマリア先生の姿が見えなくなると、京一と雨紋は再び箒を構えた。
「こんどは負けねェぞッ」
「へッ、オレにかてるもんかよ!」
負ける訳ないと言う京一の表情は、確かな自信に裏打ちされているものだった。
京一の実家は、今は閉まっているけれど都内でも大きな剣術道場で、父は師範を務めていた。
門下生達の稽古風景を物心着く以前から見ていた京一は、箒を構える形だけでも、他の子供とは違う。
掛け声を上げながら再び試合を始めた二人に、亮一はどうしよう、と箒を履く手を止めて立ち尽くした。
さっきもこんな調子で、亮一はマリア先生が来るまで棒立ち状態だったのである。
あまり活発な性格ではない亮一にとって、雨紋と一緒になって遊べる京一の存在は羨ましい。
雨紋はいつも亮一の手を引っ張って、自分はそれに引っ張られて、京一のように元気に遊ぶことは出来ない。
…出来るのだろうけれど、自分に自信が持てない亮一は、どうしても積極的にはなれなかった。
雨紋と亮一の家庭は、極端な言い方をすれば、痛々しいものだった。
雨紋の両親は同居離婚状態で、亮一の親は父が母に暴力を振るい、亮一にもそれは及んでいた。
両親の冷え込みから逃れるように雨紋の意識は外に向かい、反対に亮一は物音一つ立てないように、家の前で蹲っているのが常だ。
一人で外を歩き回っていた雨紋が、家の前で蹲る亮一を見つけた事から、二人の関係は始まった。
それからしばらくは二人で遊んでいたのだが、亮一の父が酒に酔った暴力で、母が入院することになった。
入院先は岩山先生の病院で、其処でようやく、家庭内の虐待の事が明るみに出た。
岩山は雨紋も含め、保護預かりも行っている真神保育園に連絡し―――――今現在に至る。
当初の頃に比べれば亮一も少しずつ自分の意見を言えるようになって来たが、まだまだ雨紋がいないと怖いらしい。
また、虐待されていた事もあってか、痛みに人一倍敏感だった。
そんな亮一にとって、チャンバラごっこはなんだか怖い遊びに思えたのだ。
叩かれたら痛い、叩いたら痛い――――そんな遊びは、怖くて出来ない。
でも二人はいつも楽しそうだから、羨ましいと思う。
と言う事よりも―――――今は、掃除の時間な訳で。
さっきマリア先生に怒られたばかりだから、今は掃除をした方がいいんじゃないかな…と思うのだ。
でも楽しそうな二人を邪魔する気にはならないし、生来の引っ込み思案が邪魔をして、それを言えない。
言った所で、二人はヘーキヘーキと笑うだろうが。
「でやぁッ」
「ていッ」
「せやッ!」
京一の箒が雨紋の箒と十字でぶつかり合う。
んぎぎ、と二人は踏ん張りあった。
京一は箒の持つ手を変えて、ぐっと強く箒を押した。
「でぇいッ!!」
気合の雄叫び一本、京一は箒を押し上げた。
雨紋が万歳の姿勢になった瞬間、箒を下から上に向かって振り上げる。
ぱかぁん、と軽い音がして、箒は弧を描いて宙へ飛んだ。
飛んで、それから。
「あ、ヤベ」
「亮一!」
慌てた二人の声に、亮一はきょとんと首を傾げ―――――そんな子供の頭に、ぱかんと硬いものが落ちてきた。
落ちてきたのは勿論箒で、当たったのは柄の部分。
そこそこ硬い。
じわぁ、と亮一の瞳に大粒の涙が浮かんだ。
大人でも広い拝殿は、小さな子供には益々広い。
広大と言う言葉が正に似合う。
それを端から端まで雑巾がけするのは、かなりの重労働である。
中庭の掃除を真面目しなかった罰として、マリア先生から京一と雨紋の二人はこの仕事を任された。
抗議はしても、こういう事にはしっかりと厳しいマリア先生は容赦してくれない。
とは言っても流石に、本当に子供だけで拝殿の掃除をさせる訳ではない。
織部神社で修行をしていると言うお坊さん達にとっては、掃除も勿論修行のうち。
小さな体で頑張る子供達の見本になるように、子供二人と数人のお坊さんが並んで、拝殿の雑巾がけをするのだ。
けれども、やっぱり広くても立って出来る掃き掃除に比べると、この雑巾がけは半端なく辛い。
「………っだ~~~~ッ」
「つかれたー!」
端から端へ、隅から隅まで、くまなく全部。
終わった頃には小さな子供二人はぐったりとしていて、雑巾を片付けるのも忘れて床にべたっと突っ伏した。
お坊さん達は怒る事もなく、自分の雑巾と子供達の雑巾を拾って水場へと向かう。
彼らいなくなると、拝殿にはもう京一と雨紋しか残っていない。
曲げっぱなしの背中と腰が痛い。
あと、足も痛い。
でも自業自得なのはちゃんと判っていた。
とたとた足音がして雨紋が顔を上げると、廊下に繋がる木戸から、ひょっこり顔を出している亮一を見つけた。
「亮一、そーじおわったか?」
「うん。らいとも、おわった?」
「さっきおわった」
終わったと聞いて、亮一はそろそろと拝殿に入って来た。
「ごめんな、なかにわ、一人でやらせちまって」
「ううん。ぼくもごめん。らいともきょういちも、わるくないのに」
「…んなことねーよ」
亮一の言葉に、京一は床に寝転がったままで言う。
京一が放った一撃で、雨紋の持っていた箒は飛んで、亮一の頭の上に落下した。
痛みに敏感な亮一が大きな声で泣き出して、それからマリア先生が飛んでくるまで時間はかからなかった。
京一と雨紋はマリア先生にこってり絞られた後、拝殿の雑巾がけを言い付けられた。
その時亮一はまだ泣いていて、二人は悪くないと言いたくても言えず。
自分が泣いた所為で二人が怒られたと思った亮一は、中庭の掃除を少しでも早く終わらせて、雑巾がけを手伝いに行こうと思っていたのである。
―――――その気持ちだけで嬉しくて、京一と雨紋は顔を合わせて笑う。
むず痒くなった鼻の頭を掻きながら。
「いいんだよ。どーせマリアちゃんにもっかい見つかってたら、コレやるハメになってただろうし」
「だな。だから亮一のせいじゃねェよ」
ぐりぐりと雨紋に頭を撫でられて、亮一はようやくホッとした顔になる。
それから、そうだと手を打って、
「みんなも、そうじおわったみたい。おやつだって」
「やりィ! 行こうぜ」
亮一の言葉に、雨紋が跳ね起きた。
立ち上がると亮一の手を引っ張って、廊下を慌しく走って行く。
京一は置き去りの形になったが、特にそれについて気にしてはいなかった。
雨紋と亮一は、あのまま他の子供達のいる部屋に向かうだろう。
ご褒美のおやつを食べる部屋はいつも決まっているから、迷うような事はない。
けれど、京一は大抵、その輪の中に加わる事をしなかった。
だから雨紋は京一を置いていったし、京一もそれに怒る事はない。
おやつは――――そんなに欲しくはない。
魅力を全く感じない訳ではなかったけれど、それがあるから頑張ろうと言うのとは違う。
腹が減っていたら食べに行くけど。
………そう思ったら、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。
(………とりに行こ)
食べに行く、ではなく。
貰ったら直ぐに部屋を出るつもりで、京一は雑巾がけ開始から久しぶりに立ち上がった。
廊下へと続く戸口を潜って――――敷居を一歩跨いで、京一はあるものを見つけて足を止める。
「なにしてんだ? たつま」
拝殿内からは木戸の陰になって見えなくなっていた場所。
其処にきちんと膝を抱えて三角座りをしている龍麻。
名前を呼ぶと、龍麻は立ち上がって、嬉しそうに京一に駆け寄ってきた。
「あめ、もらったよ」
「しってる。そうじおわったんだろ」
「うん。きょういちもおわったよね」
京一が頷くと、龍麻はポケットから飴や小さな煎餅を取り出した。
多分、今日のご褒美のおやつで出されたものだ。
「これ、きょういちの」
「…いい。もらってくる」
「あげる」
京一の言葉を聞かないで、龍麻は京一の手に飴や煎餅を詰め込んだ。
入りきらなくてバラバラ零れても気にしない。
顔を見れば龍麻はにこにこ笑顔。
いらないと突き返したら、多分、このにこにこ笑顔は引っ込んでしまうんだろう。
なんとなくそれは嫌で、京一は貰った飴と煎餅と、床に落ちたそれらを拾ってまとめてズボンのポケットに突っ込んだ。
そうすると、龍麻はもっとにこにこ笑顔になった。
くすぐったくなった頬を掻いて、京一は皆のいる部屋とは反対を向いた。
「あっちでくおうぜ」
「うん」
指差したのは、拝殿の入り口の階段。
京一は前も其処に座って、一人でお菓子を食べていた。
龍麻は、皆の所に戻るとは言わないで、京一の後ろを嬉しそうについて来た。
春の暖かい風が吹き抜ける。
昼寝するには持って来いの様相に、龍麻は時々欠伸が漏れた。
京一も、こう言う日はお気に入りの木の上で昼寝をするのが好きだ。
でも今は昼寝よりもお腹が空いていたから、ご褒美に貰ったお菓子の包みを早速開ける。
ぱりぱりと景気の良い音が鳴って、まだ小さいけれど元気な胃袋は嬉しそうに食べ物を吸収していく。
保育園のおやつの時間に用意されるお菓子も美味しいけれど、此処で貰えるお菓子も美味しい。
新井先生はどこどこの何菓子で―――と説明してくれるのだけれど、京一はまるで覚えていない。
他の子もそれは同様で、ちゃんと聞いて覚えているのは如月と壬生くらいのものだ。
あと、時々醍醐が興味を示している。
拝殿は勿論、境内も、それらを繋ぐこの階段も、掃除したばかりの場所だ。
だからゴミが散らばらないように気をつけて、オカキ小さなカスはなるべく土の上に落とすようにした。
折角くたくたになるまで頑張って掃除をしたんだから、まだゴミは出したくない―――ちょっと出ているけど。
煎餅がなくなると、今度は飴だ。
京一がポケットから飴を取り出すと、それは殆どイチゴ味の飴で一杯になっていた。
龍麻はイチゴ味のお菓子が大好きだ。
だから京一にお菓子を渡す時、自分の好きなお菓子を渡したくなる。
京一は別に嫌とは思わない、なんでも貰って口に入れた。
でも、イチゴ味ばっかりだと京一は流石に飽きてくる。
そうなるとイチゴ味ばかりの中から違う味を探し出して、口に入れた。
ギシリ、板の軋む音がした。
廊下の板が鳴ったのだ。
龍麻が何気なく振り向くと、見覚えのないおじいさんが立っていた。
「よう、ガキども」
サングラスにジャンパーにGパン。
服装は若いけれど、顔には一杯皺があって、新井先生程ではないけれど顎鬚がある。
新井先生に比べると少し怖い印象を感じて、龍麻は京一に擦り寄った。
「おじいさん、だれですか?」
龍麻が訊ねる。
おじいさんは龍麻と京一から少しだけ距離を取って、階段に腰を下ろした。
「俺ァ楢崎道心ってんだ。龍山と腐れ縁の不良ジジィさ」
「ふりょう……?」
「で、そのふりょうジィさんがなんか用かよ」
耳慣れない単語に龍麻が首を傾げている間に、京一が硬い口振りで道心のおじいちゃんに問う。
「いや、何。俺ァ久々に此処に寄ったんだがな、随分賑やかでどうしたもんかと思ってよ」
「……そーいや、ジィさん見たことねェ」
「だろう。まさか此処がガキ共の遊び場になってるとはな。ま、織部の孫が行ってる保育園と聞きゃ納得したが」
本当に、此処に来たのは随分久しぶりのことだったのだろう。
京一も龍麻も、真神保育園に通うようになってからそう長い日が経っていないとは言え、織部神社での掃除の手伝いは週に一度の恒例行事。
既に何回か此処には来させて貰っているけれど、目の前の老人の顔は初めて見る。
他の子供達は知っているのだろうか、この老人の事を。
口振りからして、雪乃と雛乃は知っているらしい感じはするけれど。
道心のおじいちゃんは、ジャンパーの内ポケットから煙草を取り出し、火をつけた
くすんだ煙が空気を燻らせ、風に流されて消える。
昔からガキ好きではあったがなァと、道心のおじいちゃんはしみじみ呟いた。
「そんで――――お前が緋勇のとこのガキだってな」
龍麻の目を見て、道心のおじいちゃんは言った。
ぱちりと龍麻が一度瞬きして、道心のおじいちゃんの顔を見詰め返す。
「お父さんとお母さん、知ってるんですか?」
「ああ。それと、お前ェさんとも逢った事があるんだぜ。赤ン坊の頃だがな」
「……おぼえてないです……」
「そりゃあそうだ」
へにゃりと眉毛をハの字にした龍麻に、道心のおじいちゃんは笑いながら頷いた。
隣で話を聞いている京一も、そりゃそうだと思う。
最後の飴を口の中に放り込んで。
もごもご舌で飴を転がす京一を、道心のおじいちゃんが覗き込む。
「で、お前ェが蓬莱寺ンとこの倅だな」
ぴくり。
道心のおじいちゃんの言葉に、京一の頭が揺れた。
次に京一が顔を上げた時、其処には以前、龍麻がよく見ていた色が浮かんでいた。
相手を近付けないように警戒している色と、その裏側にある淋しい色。
龍麻と一緒に過ごすようになってから、少しずつ見なくなっていた色が、また。
龍麻の胸の奥がぎゅうと痛くなる。
京一のこんな顔を見ると、何度だって痛くなるのだ。
皺だらけの道心の手が京一の頭をぐしゃぐしゃと掻き撫ぜる。
龍麻にしたよりも少し乱暴な手付きだったが、サングラスの奥の瞳を見れば――見辛かったけれど――優しいもので。
「お前ェのトコは今は大変だろうがな。こういう事は、そう長く続くモンでもねェから安心しろや」
「…別になんでもねェや、こんなこと」
「ガキがナマ言うんじゃねェよ」
何の事を言っているのか、龍麻には判らない。
だが京一の表情を見ていると、何の話と訊く気にはならなかった。
――――多分、教えてくれないだろうとも思う。
頭を撫でる道心のおじいちゃんの手を、京一は押し退けた。
が、直ぐにまた伸びて来て、ぐりぐりと上から押さえつけるようにして撫でられる。
「何すんだよ、ジジィ!」
「おっと」
噛み付く勢いで怒鳴られて、道心のおじいちゃんは手を引っ込めると、そそくさと立ち上がる。
「おお、今日日のガキは手が早ェな。怖ェ怖ェ」
「てめェにげんな!」
怖いと言いつつ、道心のおじいちゃんの口調や態度はそれを裏切っていた。
面白がっていると、龍麻や京一でも判る。
道心のおじいちゃんは二人に背中を向けると、ひらひら手を振って拝殿の角を曲がっていった。
怒った京一が追い駆けようとしたが、龍麻に止められて敵わないまま、京一は剥れてまた階段に座った。
「なんでェ、あのジィさん」
苦々しげに呟く京一に、龍麻は曖昧に笑うしかない。
その笑った顔がまた京一を怒らせるものだったから、ぱかんと拳が龍麻の頭を叩いた。
それでも、龍麻は笑ったままだ。
だって、優しかった。
見た目はちょっと怖そうだったけれど、あのおじいさんも優しかった。
頭を撫でたしわしわの手は、お父さんやお母さんや、マリア先生と一緒で。
隣で赤い顔をしている友達も、ちゃんとそれを判ってる。
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京一はもうちょっと皆の中に溶け込んでいけないようです。
意地っ張りな子だから、今までの態度の引っ込みがつかなくなってるのかも。
でも多分、龍麻と一緒だったら少しずつ近付いて行けるかな。
楢崎じいちゃんが結構好きです。子供と一緒のレベルで遊んでくれそう。
電話が切れたのを確認して、八剣は自分も携帯の電源ボタンを押した。
そうして待ち受け画面に現れた小さな子供に、自然と口元が笑みを象る。
画面の右上に表示されている時刻を見ると、まだ18時前と言う時間。
空を見上げれば、其処は夕暮れに染まり、景色は緋色に染まっていたが、いつもの時間を考えれば早い方だろう。
だっていつも、こうやって外を見上げた時には、既に都会の空には星が瞬いているのだから。
八剣右近は、都内の美術大学に通う大学三年生である。
専攻しているのは日本画で、将来の希望としてはそれで食って行けたらと思う。
とは言え、現在の生活の資金源は、家庭教師の派遣アルバイトだ。
主に女子中高生が多く、端正な顔立ちとフェミニストな言動が相俟って、生徒と奥様方には、ありがたい事に評判が良い。
教え方も判り易いと評価が高く、ほぼ連日、何処かの家庭にお邪魔して勉強を教えている。
一箇所に平均して三時間は滞在させて貰うのだが、一つの家庭が終わると次の家庭に移り、一箇所で終わる事は殆どない。
ありがたい事にそこそこ忙しい生活をしているので、仕事が終わると既に夜――――なんて事はザラだった。
―――――数ヶ月前までは、それで八剣も構わなかった。
今日はお休みにさせて下さい、と言う連絡にも、正直特に感慨を覚えることはなかった。
生徒が休むと言う事は、家庭教師としてお邪魔させて貰う八剣も、休憩する時間が出来ると言う事だ。
だからそんな時は、小学生の頃から続けている剣術に身を打ち込むことが多かった。
だが、その剣術の方は、今年三月からぱったり打ち込むことがなくなった。
高校生の頃から通わせて貰った剣術道場が閉鎖することになった為だ。
代わりに、八剣は毎日、就学・就労を終えて向かう場所がある。
都内で人気のある、小さな保育園だった。
其処に預かって貰っている子供を迎えに行くのが、今年の三月から八剣の習慣に加わった事。
迎えに行く子供は、八剣の血縁ではない。
だが、子供が赤ん坊の頃から、八剣はその子の事を見ていた。
子供は剣術道場の師範であった人物の息子で、名前を蓬莱寺京一と言う。
八剣はこの子供のことを京ちゃんと呼んでおり、彼が生まれた頃から知っていた。
門下生達が竹刀を振るう道場の隅で、赤子は母に抱っこされて、皆の修練風景を見ていたのだ。
竹刀が打ち合い撓る大きな音に泣く事もなく、ただ一心に見詰めていた赤子の瞳を、八剣は忘れられない。
家の人以外にはあまり懐かない子で、八剣は、撫でようとするといつも噛み付かれていた始末である。
その子は、今年の一月で4才になった。
それから二ヶ月が経って、紆余曲折を経て、八剣は彼を預かることとなる。
画材と筆記用具の入った鞄を持って、八剣はすっかり習慣になったお迎えへと向かう。
大学から最寄の駅に着くと、丁度滑り込んできた電車に乗って、約二十分。
その間に八剣は携帯電話の画像フォルダを開いて、映った小さな子供の姿に笑みを浮かべていた。
八剣の携帯の画像フォルダは、一人の子供―――京一で一色に埋まっていた。
カメラを向けられた京一は殆どがムスッとした顔をしていたが、八剣はそれでも構わなかった。
時々、ムスッとしていない顔もある。
それは決まって寝ている時にこっそり撮った写真で、特にお気に入りのパンダのぬいぐるみを抱っこしている時の寝顔は、本当に天使のようで愛らしい。
丸っこいほっぺは大福のように膨らんでいて、触るとぷにぷにとするのだ。
可愛くない訳がない。
(いつもこうだといいんだけどねェ)
開かないドアに寄りかかって、眠る子供の写真を眺めながら思う。
京一は、笑うと可愛い。
照れ屋なので、褒めると赤くなる。
それも可愛い。
でも大抵は口をヘの字に噤んでいて、あまり笑うことがない。
(……今は、無理もないか)
今携帯の中に入っている写真は、全部彼を預かるようになってから撮ったものだ。
その以前でさえ、京一はあまり八剣に笑ってくれなかった。
元々天邪鬼がよく顔を出す子で、八剣は特にその顔を見ていて、未だにスキンシップを図ろうとすると噛み付かれたり引っかかれたりするのだ――――随分加減してくれるようにはなったけれども。
……その上、紆余曲折の全貌を思い出せば、この小さな子供が笑わなくなってしまった理由も判る。
電車が止まって駅に降りると、八剣は携帯を閉じた。
するすると無理なくホームを通り抜け、改札口を通り、外へ。
タクシーが使えれば時間は随分短縮できるのだが、生憎苦学生の身である。
ほぼ毎日家庭教師の仕事を回して貰っているとは言え、八剣が過ごしているのは都内の只中にあるアパート。
それもそこそこ綺麗で広い場所を選んだ為に、この家賃が結構バカに出来ないのだ。
最近タクシー代も初乗りから値上がりしているから、削れる出費は削らないと生活が辛い。
―――だったらどうして安いアパートにしなかったのかと言われるだろう。
八剣がこのアパートに引っ越したのは、今年の二月の事。
それまでは苦学生にお似合いと言われるような、築数十年と言うアパートに暮らしていた。
引っ越した理由は他でもない、今から迎えに行く小さな子供に関連する。
八剣が今住んでいるアパートから、子供を預けている保育園までは、大人が歩いて約十分。
小さな子供が歩くには、決して短い距離ではない。
だが、其処が入園を予定していた真神保育園に一番近いアパートで、家賃がギリギリ手の届く範囲だったのだ。
部屋の広さも、子供が遊ぶのに手狭になるのは嫌だったから、恐らく普通は二人でルームシェアでもして住むぐらいの場所を選ぼうと思った。
その結果、今のアパートに住む事になったのである。
現在、八剣の生活の中心は、京一になっている。
アルバイトが終われば、若しくは入っていなければ、何よりも先に彼を迎えに行く。
大学の友人達に付き合いが悪くなったと言われたが、申し訳ないけれども、このリズムを変えるつもりはない。
今の八剣にとって何より大切なのは、赤子の頃から知っている、天邪鬼な可愛い子供なのだ。
この子を置いて何処かに行くなんて、そんな事は絶対に出来ない。
駅から保育園まで、歩いて十分。
途中で親に連れられた子供達と擦れ違う。
いつもは、そんな親子連れと擦れ違うこともない位、此処を通る時間が遅い。
保育時間のギリギリの時間であったり、期せずして延長保育になってしまう事もしょっちゅうだった。
その度に悪いことをしたな、と思わずにはいられない。
今日は本当に珍しく早い時間だ。
驚いてくれるかな、と思いつつ、多分いつもの顔しかしてくれないんだろうなと予想して苦笑が浮かんだ。
『まがみほいくえん』と可愛い絵と一緒に描かれた看板が見えた。
少し早足で門の前まで来ると、楽しそうに会話をしている親子と擦れ違う。
愛する子供があんな風に笑いかけてくれるのは、いつになるのか。
過ぎった暗い考えを振り払って、八剣は茜色に染まる保育園へと入る。
まだ灯りのついていない保育園に入ったのは、初めてのような気がした。
建物の玄関口に近付くと、他の子供を見送っていたのだろう、女性が八剣に気付いた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は早いですね」
此処でチーフ保育士をしている、マリア・アルカードだった。
京一を此処に預けるようになってから、二ヶ月が経つ。
チーフの彼女はいつも遅くまで残っていて、迎えの遅い京一を最後まで見てくれていた。
「夕方のアルバイトが無しになったんでね。お迎えに」
「それは良かったです。直ぐに呼んで来ますね」
くるりと踵を返して、マリアは子供達の遊ぶ遊戯室に向かった。
その背中を見ながら、果たして来てくれるかなと、八剣は苦笑する。
早い時間に親が迎えに来ると、大抵の子供は喜んで飛び出していく。
でも京一はそうじゃない、遅い迎えでも中々遊戯室から出て来ない事が多いのだ。
迎えに来るのが八剣だから―――という訳でもないだろう。
彼の父や母が迎えに来ても、多分、直ぐには出て来ないと思う。
素直な子ではないから。
八剣のその予想は見事に当たった。
玄関口で五分ほど待ち惚けになったが、子供もマリアも遊戯室から出て来る様子がない。
八剣は失礼する事にして、靴を脱いで上がらせて貰った。
遊戯室を覗くと、まだ数人の子供が残っている。
京一以外の子供が此処にいるのも、八剣はあまり見掛けない。
真神学園は保育園として子供を一時預かりする以外にも、泊りがけの預かりにも応じる。
家庭環境が育児に対して余り良くない家庭の場合、此処で引き取ることもあるそうだ。
今も数人、そんな子供が此処で寝食を過ごしている。
だが八剣が京一を迎えに来た時、それらの子供が遊戯室で遊んでいることは少ない。
遊び疲れて寝てしまったりして、布団の中で眠っている事が殆どだった。
それだけ、いつも待たせてしまっているのだと思うと、胸の奥が痛くなる。
京一は部屋の隅にいた。
大きな本を開いていて、じっとそれを見て動かない。
傍らでマリアが声をかけていたが、京一は其方を見てもいなかった。
マリアが八剣に気付いて、此方に歩み寄ってくる。
「ごめんなさいね、お迎えに来て貰ったのに、まだ帰らないって聞かなくて…」
「いや。いつも俺が遅いからね、その所為でしょう」
いつもの遅い時間でも、しばらくの時間を要して、ようやく帰ろうと言う言葉に応じてくれるのだ。
常とタイミングの違う帰宅時間に、そう簡単に応じては貰えないだろう。
けれど、八剣はどうしたら京一が帰ろうと言う言葉に応じてくれるのか、ちゃんと判っている。
「入っていいかな」
「ええ、どうぞ」
遊戯室に残っている子供は、八剣のことを何度か見ている。
覚えている子もいるのだろう、幾つかの視線が八剣を追い駆けるが、怖がったりする様子はなかった。
部屋の隅で動かない京一の傍らにしゃがむ。
「京ちゃん、迎えに来たよ」
呼ぶと小さな頭が持ち上がって、丸い瞳が八剣を見た。
それは数秒八剣を見詰めた後、ぷいっとまた下へ―――読んでいた図鑑へと向けられる。
「まだ帰らない?」
「………」
ウンともスンとも言わない。
小さな手は、図鑑のページを捲ろうとはしなかった。
ページに書かれた小さな説明文を読んでいる訳ではない。
其処に描かれた動物の絵に釘付けになっている。
開かれているのは、いつもと同じ、パンダのページ。
何回見ても、京一は飽きずにパンダをじっと見ているのだ。
「うん。此処にいたかったら、それでいいんだけど」
「………」
「もう直ぐパンダさんのテレビ始まるよ。見なくていいの?」
毎週、19時から始まる動物番組。
マスコットキャラクターがパンダのその番組を、京一は毎週見ていた。
いつもは録画しないと見れない番組なのだけれど、今日は帰れば直ぐに見れる。
録画予約はちゃんとしているが、やっぱりリアルタイムでも見たかったのだろう。
京一は少しの間無言だったが、ぱたりと図鑑を閉じて本棚に戻した。
京一はロッカーから自分の鞄を引っ張り出して背負うと、そのまま真っ直ぐ廊下へ。
八剣を待とうとしないのはいつもの事だ。
他の子を見ていたマリアが「bye、京一君」と言ったけれど、返事をしないで部屋を出て行く。
それに眉尻を下げて八剣が頭を下げると、マリアも一つ頭を下げる。
傍の子供が直ぐに呼んだので、マリアの視線は其方へと向けられた。
遊戯室を出ると、京一は玄関口で靴を履いている所だった。
隣に並んで自分の靴を履いて、八剣は京一が履き終わるのを待つ。
いつもより履くのが遅い京一は、どうやら靴が小さくなっているようだった。
子供の成長は本当に早い。
「今週の日曜日、新しい靴買いに行こうか」
「……いい」
「転んだら危ないからね」
「…いいっつってる」
八剣の言葉を突っぱねる京一だったが、八剣の頭は既に週末の事で埋まっている。
折角だから京一が気に入ってくれるものを買ってやりたい。
だが子供の成長は早いから、また直ぐに履けなくなってしまう可能性もある。
マジックテープで止めるものじゃなく、紐靴だったら、もう少し長く履いていられるだろうか。
なんとか京一の足は靴に納まったが、爪先が当たるのだろうか。
何歩か歩くと足元を見て、少し落ち着かない。
やっぱり週末に買いに行こう。
京一が要らないと言っても、八剣はもう決めた。
建物を出ると、京一がぴたりと足を止めた。
数歩前に進んでいた八剣も、足を止めて振り返る。
すると、緋色の空を見上げて、ぽかんと口を開けている子供がいた。
―――――この子が夕暮れの空を見たのは、随分久しぶりの事だったのかも知れない。
「……ごめんね、京ちゃん」
八剣が呟くと、京一が此方を見た。
「なにがごめんなんだ?」
「……いつもお迎えが遅くなっちゃうこと、だね」
「なんだ」
そんな事か。
特に気にしていない風で、京一は歩き出した。
……そんな風に振る舞うのが一番良い事なんだと、この小さな子供は思っている。
大人が気にするような事を、自分は何も気に止めてなんていないんだと言うのが良い事なんだと。
顔色を伺っている訳でもないけれど、京一は聡い。
自分の存在が周りの大人にとって、必ずしもプラスでない事を知ってしまっている。
だからマイナスにはならないように、周りに頼らないし、淋しいなんて顔もしない。
重力に従ったままに垂れる、八剣の左手。
背負った鞄を握る、京一の小さな手。
八剣は、この子と手を繋いだ事がない。
暗い夜道を歩く時でも、この子は八剣の手に頼ってくれない。
それが、守りたいと願う大人にとってどれ程淋しい事か、小さな子供はまだ判っていない。
顔色を伺って、ご機嫌を取るような仕草をされるのも嫌だ。
それを考えたら、京一のこの態度は、八剣にとってはまだ幸いと言える。
京一には真っ直ぐでいて欲しい。
天邪鬼でも構わない、根っこは純粋なんだと八剣はちゃんと知っている。
けれどもう少し、甘えて欲しいと思わずにはいられない。
ポケットの中の携帯電話が鳴った。
見ればメールの着信で、ボックスを開くと京一の父からだった。
内容に大体の予想をつけてメールを開いて―――――思った通り。
「京ちゃん」
「ん」
「…師範、今日は帰れないって」
正確には、今日“も”。
八剣が京一を預かるようになった理由は、これだ。
剣術道場を閉め、連日連夜、土建や運送業で働くようになった京一の父は、殆ど息子に構ってやることが出来ない。
京一はそれについて父に泣くような事はなかったけれど、八剣には返ってそれが痛々しかった。
事情を全て知って、八剣は京一を預かる事を彼の父に申し出た。
親子でよく似たこの父親は、元門下生の八剣に頼る事に少々渋い顔はしたが、息子を一人にするより良いと思ったのだろう。
息子の面倒を元門下生に託し、自身はやらなければならない事へと東奔西走している。
だが息子を全く無視している訳ではなくて、こうして必ず、八剣の携帯に連絡を入れてくれる。
そうして、“帰れない”と言う言葉を、何度こうして言伝ただろう。
八剣が京一を預かるようになった時には、京一はもう、父の帰りが遅い―――若しくは帰って来ない事にも慣れてしまっていた。
……いや、慣れてはいない―――けれど、それを我慢する術を覚えていたのだ。
今日もまた。
「……ふぅん」
それだけ呟いて、淀みないリズムで歩いて行く。
いつもの事じゃんか、と小さな声が八剣の鼓膜に届いた。
――――なんだか無性に抱き締めたくなる。
嫌がられるのは判っていたけれど、八剣は小さな体を掬い上げた。
急なことにひっくり返った声が上がる。
「なんだよ、おろせよ!」
「良いから良いから」
「なにがいいんだよ、おろせってば!」
「俺がこうしていたいんだよ」
軽々と、いとも簡単に抱き上げられる、小さな体。
すっぽりと腕の中に収まってしまう、小さな体。
まだまだ、守られていて良い、甘えて良い筈の、小さな体。
かぷり。
頬をくすぐっていたら、その手に噛み付かれた。
そのまま、あぐあぐ口が動く。
八剣は好きにさせていた。
これが八剣と京一の間では普通の風景。
「晩御飯、何にしようか」
「はーひぇん」
「ラーメン好きだね、京ちゃん」
「………」
「いたた」
手を噛む歯が少し食い込んだ。
天邪鬼な子供だから、物事について好きか嫌いか問われると、大抵嫌いと答えてしまう。
でもラーメンの事は嘘でも嫌いと言えないから、せめてもの抵抗でこんな事をして来る。
八剣は怒らなかった。
本当は怒った方が良いのかも知れないけれど、ちゃんと加減も出来るようになっている。
それに、そういう躾は父親がきちんとしていてくれただろう。
「でもラーメンは昨日も食べたよね」
「………」
「同じものばっかり食べると病気になっちゃうよ。今日は別のもの食べようね」
「………」
「その代わり、明日は美味しいラーメン屋さんに食べに行こうか」
見下ろして微笑み、言うと、噛んでいた手が離される。
小さな手が八剣のジャケットを掴んで、こてんと頭が胸に乗せられた。
どうやら納得してくれたらしい。
頭を撫でると、いやいやとぶんぶん頭を振られる。
これは赦してはくれないんだなぁと、八剣は苦笑した。
小さな体。
小さな手。
一所懸命背伸びして。
転んでも泣かないで、何も言わずに一人で立って。
淋しいなんて思っちゃ駄目だと、いつもヘの字に口を閉じて。
それが良くないなんて、言うつもりはないけれど。
もっと甘えて欲しいから、一杯一杯、甘やかしてあげる。
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このシリーズを思いついて、一番書きたかった八剣&チビ京一。
八剣の手に噛み付いてる京ちゃん可愛いなぁとか阿呆なこと考えてしまったんです。
所で、八剣が美大生ってなんか変ですね。ごく普通の一般人の職業で選ぶには、一番無難かなーと思ったんですけど……何故かしら。もうこの人は暗殺者しか自然な道はないのかしら(それはちょっと…!)
どて。
転ぶ音がして、マリア先生は振り返る。
すると、部屋の出入り口と廊下の敷居につまずいた子供が一人。
駆け寄る前に起き上がった子供は、緋勇龍麻だった。
起き上がると、龍麻はそのまま部屋を出て行く。
緋勇龍麻は大人しい。
誘われれば応じるけれど、基本的に活発な子供ではないので、部屋の中で本読みやお絵かきをする事が多い。
それがこの間、三日に一度の公園遊びの日から、何かと外に出ようとするようになった。
だが、園外に出て遊んでいる訳ではないようで、いつも園内の何処かへ姿を消す。
何処で何をしているからは犬神先生が確りと把握しているようだが、マリア先生は知らされていなかった。
気にはなるのだが、犬神先生が好きにさせろと言うので、複雑ながらも見守ることにしている。
ただ怪我をするような場所には行っていない、と言う事だけはきちんと確認させてもらった。
今日は何処に行くのだろう――――と言うマリア先生の心情を、当の子供は知らない。
転んでいる間に遅れてしまって、龍麻は廊下を走った。
その向こうには、ここ数日、いつも追い駆けている背中がある。
「まって」
言っても待ってくれないのは判っている。
だっていつも待ってはくれないから。
でも、今度は待ってくれるかも知れないから、待ってと繰り返し声をかける。
「ね、どこ行くの?」
龍麻が追い駆けているのは、“きょういち”だ。
毎日毎日、この背中を追い駆けて、龍麻は声をかけている。
いつか、返事が返ってくるのを期待しながら。
“きょういち”は部屋にいる事が少ない。
朝はちゃんといるのだけれど、皆が遊ぶ時間になるといつもいなくなる。
お昼の時も時々帰って来なくて、後の時間になって先生達の部屋で食べている事がある。
雨紋が遊びに誘うと一緒に行くけど、終わると直ぐに何処かに行ってしまう。
そして、四日に一度は庭にある池に落ちて、びしょ濡れになっているようだった。
追い駆けている内に、“きょういち”が何処で何をしているのか、龍麻も覚えた。
風の気持ちの良い日は園舎の屋上にいて、雨の日は廊下のガラス戸を開けて、其処に座って外を眺めている。
日差しが強い時や、表で遊んでいる子供が多い時は、日陰になっている庭の隅の池で過ごす。
日差しも風も丁度良い時は、庭にある一番大きな木に登っていた。
今日は何処だろう。
昨日は屋上だった。
思い出しながら、龍麻は“きょういち”の後ろをついて行く。
“きょういち”が外に出て、靴を履いた。
龍麻も靴を履いていると、“きょういち”が振り返る。
「なんなんだよ、おまえ」
「ぼく?」
「おまえしかいねーじゃん」
返って来た言葉に、確かに、と思う。
此処には今、子供たちも先生もいなくて、龍麻と“きょういち”しかいない。
「あのね、」
「いい。しらね」
言おうとした龍麻の言葉を遮って、“きょういち”はくるりと背中を向けた。
言いたかったのに。
龍麻の眉毛がへにゃりと下がった。
でもめげずに、龍麻は歩き出した“きょういち”を追い駆ける。
今は誰も遊ぶ子のいない庭を横切っていく“きょういち”。
とことこ後ろをついて歩きながら、龍麻はなんとなくウサギ小屋へと目を向けた。
「あ、いぬがみせんせい」
呟くと、ぴくっと“きょういち”の肩が跳ねた。
“きょういち”は犬神先生が苦手らしい。
姿を見つけると、走って逃げてしまう。
今回も同じく、走り出してしまった。
龍麻は慌ててそれを追い駆ける。
「まって」
「ついてくんなッ」
そう言った途端、“きょういち”がぐらりと傾いた。
後ろ向きに走ったりするからだ。
ざあっと音がして、土の地面に“きょういち”が転ぶ。
龍麻は急いで駆け寄った。
「だいじょうぶ?」
「さわんなッ」
起こそうとした手から、パシンと音がして、じんとした痛みが残った。
ずきり、胸の奥が痛む。
でもそれ以上に、何もなかったように一人で立ち上がった“きょういち”の顔を見た時の方が、胸の奥がぐしゃぐしゃになってしまうような気がした。
転んだ時に擦り剥いたのか、“きょういち”は少し足を庇って歩いた。
龍麻はその少し後ろをついて歩く。
本当は並んで歩きたいのだけど、並ぶと“きょういち”は怒るから、今は後ろをついて行く。
これも何度も怒られたけれど、ついて行くのも止めてしまったら、もう仲良くなれない気がした。
だから何回怒られても、龍麻は“きょういち”の後ろをついて歩いて行く。
到着したのは池の傍。
子供の目線では大きな池は、足場に出来る飛び石が点在している。
ひょいっと“きょういち”が飛んで、小さな足場に着地した。
“きょういち”はいつもこうして、一人で遊んでいる。
それで時々バランスを崩して、池の中に落ちてしまうのだ。
龍麻は少し勢いをつけて、“きょういち”と同じように飛び石目掛けて飛ぼうとした―――――が。
「やめろよ」
「なんで?」
三つ向こうの飛び石に片足で立って、“きょういち”が言う。
それに龍麻がきょとりと首を傾げると、
「おまえ、昨日おちただろ」
「うん」
「マリアちゃんにおこられんの、オレなんだぞ」
“きょういち”はマリア先生の事を「マリア先生」と呼ばない。
どうして呼ばないのかは知らないけれど、それで怒られても、“きょういち”はその呼び方を止めなかった。
昨日も龍麻は、今日と同じように“きょういち”の後ろをついて歩いて、この池にも来た。
“きょういち”はぴょんぴょんと飛び石の上を渡って、龍麻もそれについて行きたかったのだ。
それで少し頑張って、ジャンプしてみた。
してみたら、見事に池の中に落ちた。
小さな子供にしてみれば深い池だ。
泳げない龍麻はパニックになって、水の中でバシャバシャ暴れた。
それを引っ張って岸に上げてくれたのは、他にいる筈がない、“きょういち”だったのだ。
その出来事を思い出して、龍麻はふにゃーっと笑う。
「……なんでわらってんだよ」
真ん中にある大きな石に乗って、“きょういち”は怖い顔をして言った。
「だって助けてくれたもん」
マリア先生か犬神先生か、呼んでくれたって良かった筈だ。
でも“きょういち”は、龍麻が落ちて直ぐに、迷わずに助けに来てくれた。
それが嬉しかったと言ったら、“きょういち”の顔が赤くなる。
「やさしいね」
どんどん赤くなる。
龍麻はせぇの、と勢いをつけて、今度こそジャンプした。
昨日より強く飛んだら、今日はちゃんと飛び石の上に届いた。
もう一回飛んで、それから飛んで、また飛んで。
時々落ちそうになったけれど、なんとか真ん中の大きな石に辿り着く。
其処には真っ赤になった子がいて。
龍麻は、上着のポケットに入れていた苺チョコを取り出した。
「あげる。ともだちのしるし」
苺は、龍麻の大好きな食べ物だ。
甘い苺のチョコレートも、勿論大好き。
これを分けっこするのは、龍麻にとって仲良しの証みたいなものだった。
でも“きょういち”はそっぽを向いて、次の飛び石に移ってしまった。
「まって」
受け取って貰えなかった苺チョコをポケットに戻して、龍麻は“きょういち”を追った。
ひょいひょい、“きょういち”はウサギみたいに飛んで渡る。
龍麻は一回一回立ち止まって、せぇの、と勢いをつけて飛んだ。
“きょういち”がちゃんとした足場に辿り着いた時、龍麻はまだその半分も行っていなかった。
そのまま“きょういち”は立ち止まっていて、少しだけ振り返って此方を見ている。
小さな足場で龍麻がぐらりと揺れると、あ、と小さな声が“きょういち”から漏れた。
それでもどうにか、龍麻も無事に地面に辿り着く。
と、“きょういち”はくるっと背中を向けて、歩き出した。
待っていてくれた。
落ちたら助けようと思っていたんだと思う。
やっぱり優しいなぁ、と背中を追い駆けながら思う。
「ついてくんな」
「うん」
「じゃあついてくんな」
「うん」
「ついてくんなってば」
同じ言葉のやり取りばかりが繰り返される。
“きょういち”が睨んだ。
その時の目は、今でもちょっと怖い。
でも、最初にそれを見た時程じゃない。
だって本当は優しい子だって判ったし、単に何も言わないだけなんだ。
怒ったふりで大きな声を出したり、物を投げたりするけど、それで龍麻は怪我をした事がない。
いつもちゃんと手加減されていた。
“きょういち”が向かう先には、大きな木がある。
それを見て、龍麻は少しだけ眉毛を八の字にした。
木の上は“きょういち”のお気に入りの場所だった。
子供でも乗れる枝でも随分高い場所にあるのだけれど、“きょういち”は其処まで簡単に登れる。
反対に、龍麻は木登りが出来ない。
でこぼこでくねくね曲がった低い松の木のようなものならともかく、此処にある木は真っ直ぐ上に伸びている。
表面もそれほどでこぼこしていなくて、何処を持って何処に足をかければいいのか判らない。
足を地面から離した途端に、ズリズリ下に落ちてしまう。
“きょういち”はそれを判っているようで、龍麻が追い駆けて来れないのを判っていて、此処に登る。
龍麻が一所懸命登ろうとしても辿り着けないその上で、“きょういち”はじっと、龍麻が諦めるのを待つのだ。
最も、龍麻が諦めることはなくて、マリア先生が呼びに来ないと二人とも其処から動かないのだが。
「木のぼりするの?」
聞かれた事に答えずに、“きょういち”は木に足を引っ掛けた。
そのまま、スイスイ登っていく。
「まって」
龍麻も登ろうと、木に片足を引っ掛ける。
“きょういち”がしていたように、幹に手をついてもう片方の足を地面から離す。
………ずりり、落ちた。
上を見ると、“きょういち”はもういつもの高さまで登っていた。
「まって、」
手を服の裾でゴシゴシ擦って、もう一回。
………ずりり、また落ちた。
何度も何度も、同じことの繰り返し。
何回やっても登れない。
時々、落ちずにちょっとだけ上まで登れることがある。
高さは、自分の身長の頭一つ上、程度のものだけれど。
そのまま登れればいいのに、やっぱりずり落ちてしまう。
「……むぅ」
木にしがみついた姿勢のまま、龍麻は上を見上げた。
辿り着きたい場所は、ずっと遠い。
あそこまで行きたいのに。
ずり。
ずり。
ずり。
段々泣きそうになってくる。
見上げると、“きょういち”が顔を出していた。
龍麻の方を見下ろしていて、多分、早く龍麻がいなくならないかと見ているのだろう。
龍麻は泣きそうになるのを我慢して、もう一回、木に登る。
「うー……」
どうしてこんな高い木に登れるんだろう。
どうやったら登れるんだろう。
仲良くなったら、教えてくれるだろうか。
地面から足を離す。
木の幹にしっかりしがみついた。
此処からどうすればいいんだろう。
ちょっとだけ右手を上に持っていって、左手もちょっとだけ上に。
足は―――――どうしたらいいんだろう。
考えている間に手が痛くなって、ずるずる下に落ちていった。
こてん、と木に掴まった姿勢のまま、龍麻のお尻が地面についた。
「……おまえさ、」
頭の上から声が降って来た。
見上げると、ちっとも揺れないで、枝の上に立っていた。
怒った声以外で“きょういち”から声をかけられたのは、多分、これが初めてだった。
「なに?」
「……なんで、」
高いところと低いところで距離があるのに、“きょういち”の声はストンと龍麻の下まで降りてきた。
龍麻は木に虫みたいに捕まったまま、上にいる“きょういち”を見上げる。
首が少し痛くなったけれど、お構いなしだ。
見下ろしてくる“きょういち”の目は、いつもと違って怖くない。
「なんでいつもついてくんだよ」
「?」
「オレといたって、おもしろかねェだろ」
「なんで?」
質問を質問で返して、龍麻は首を傾げる。
面白くないと、一緒にいたらいけないんだろうか。
“きょういち”はそう思っているのだろうか。
龍麻は、面白いと思うから一緒にいたいと思うんじゃない。
一緒にいると楽しいとか、嬉しいとか思うから、一緒にいたい。
「いっしょにいたいもん」
「………なんで」
「だってぼく、キミとなかよくしたいよ」
木から手を離して、龍麻は立ち上がって“きょういち”を見上げて言う。
真っ直ぐ落ちてくる視線を受け止めて、真っ直ぐ見詰め返して。
「ヘンだろ。おまえ」
「ヘンじゃないよ」
「ヘンだろ」
ずばっと言った“きょういち”に、龍麻はむぅと頬を膨らませる。
「ヘンじゃないよ。ふつうだもん」
変わったものが好きなのね、とか、そういう事はよく言われる。
自分でもそれは少し判っている。
でも、それだけで、別にそんなに変じゃないと思う―――――多分。
龍麻にしてみれば、“きょういち”の方が変だ。
わざと怒ってるふりをして大きい声を出して怖がらせようとしたり、皆と一緒に遊ばないで一人でいたり。
一人で平気なふりをして、自分から皆と遠ざかる。
……本当は寂しいクセに。
「ぼく、キミといっしょにいたいよ」
「……オレは、」
「キミのこと好きだから、いっしょにいたいよ」
“きょういち”が何を言おうとしたのか、龍麻は知らない。
でも、何を言われたってきっと龍麻は気にしなかった。
高い高い場所からこっちを見下ろす“きょういち”に、龍麻は手を伸ばした。
「だから、ぼくとともだちになってください」
大好きだから、もっと一緒にいたいから。
一緒に遊んで、一緒に怒られたりもして、一緒に泣いたりもして、一緒に沢山のものを見たい。
大好きだから、自分の事を知って欲しいし、“きょういち”の事も教えて欲しい。
何が好きで何が嫌いなのか、なんでもいい、教えて欲しい。
木登りの仕方も、飛び石の渡り方も、全部全部教えて欲しい。
この伸ばした手で、君と手を繋いで歩きたい。
見下ろす目が、泣き出しそうに揺れた。
でもその揺れ方は、いつもの寂しい目とは違っていた。
それをじっと見上げながら、龍麻は空へ、“きょういち”へ伸ばした手を下ろさない。
「ぼく、ひゆぅたつま」
「………」
「おなまえ、おしえてください」
龍麻は、あの子の名前を知っている。
でも、あの子から聞いた訳じゃない。
龍麻が初めて真神保育園に入った日、他の子供達はそれぞれ挨拶してくれた。
名前を教えてくれて、好きなものとか、見ているテレビとか、色々教えてくれた。
でも、“きょういち”だけは皆の話を聞いただけで、ちゃんと挨拶していない。
好きな食べ物は?
好きな動物は?
好きなテレビは?
何して遊ぶのが好き?
あの時描いてたパンダ、やっぱり好きなの?
聞きたいことは一杯ある。
だからその為にも、先ずは仲良くなる第一歩。
質問の前に、きちんとはじめましてのご挨拶。
“きょういち”が枝の上でしゃがんだ。
それを見て、やっぱりダメかなぁ、と龍麻は思った。
思った後で、わぁと目を見開く。
枝の上から、“きょういち”が飛んだ。
何もない宙に。
小さな体はそのまま落ちてきて、龍麻は思わず顔を手で覆った。
どうなるのか怖くて、見ていられなくて。
けれども、聞こえた音は転ぶとか打つとか言うものじゃなくて、とんっと軽いもので。
「きょういち」
聞こえた声に、そっと顔から手を離す。
すると、直ぐ目の前に、いつも背中を追い駆けていた男の子が、こっちを向いて立っていた。
「ほうらいじきょういち」
―――――それは、男の子の名前。
“京一”の名前。
初めて真正面から見た顔は、やっぱりまだ、少しだけ眉毛を吊り上げていたりしたけれど。
頬がちょっと赤くなっていて、照れているのが龍麻にも判る。
そんな京一が、龍麻に向かって手を伸ばした。
さっき、木の下から空に、京一に向かって手を伸ばしていた龍麻のように。
だから龍麻は嬉しくなって、笑ってその手を握った。
「…………ヘンなやつ」
ぽつりと呟いた京一の声は、龍麻に聞こえていたけれど、龍麻は気にしなかった。
呟いた頬がやっぱり赤くて、京一は龍麻から眼を逸らしている。
でも怒っているような雰囲気はちっともなくて、照れ屋さんなんだなぁと思う。
手が離れると、京一は木の幹に手を当てて、
「おまえ、こんなののぼれねェの?」
「うん」
「じゃあおしえてやる」
「ほんと?」
思わず龍麻の声が弾む。
京一はそれに頷いた。
取り敢えず登ってみろよ、と京一が言うから、さっきと同じように登り始める。
それで早速、そうじゃねえよと怒られた。
あの大きな声じゃなくて、優しい声で。
上まで登って行けたら、
今度こそ、二人で苺のチョコをわけっこしよう。
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やっぱり二人は仲良くしてるのがいいですね(一、二話書いといて何抜かす)。
木の高さは、そんなに言うほどないですよ。高校生なら普通にひょいひょいっと登れるくらいです。
でも4才の子供にはやっぱり大きい木なのです。
龍麻が“真神保育園”に通うようになって、一週間。
最初はドキドキしていた龍麻も、もう随分慣れた。
その最初の日も、家に帰って両親に一日の事を楽しく話すことが出来た。
良い感触を嬉しそうに報告してくれた息子に、両親も一安心だ。
よくお喋りをするのが、葵、小蒔、醍醐の三人だ。
この三人は同じ頃に真神保育園に入って、それからずっと一緒に遊んでいるらしい。
葵の隣には如月がいる事が多いのだけど、この子は滅多に喋らない。
でも龍麻がテレビの話をすると、ちゃんと相槌を打って聞いてくれる。
段々向こうの方からも、前の日に見たテレビのことで話しかけてくれるようになった。
他にも積極的に話しかけてくれる子がいる。
雨紋と、双子姉妹の姉の雪乃だ。
時々龍麻を取り合ってケンカを始めてしまったりする。
それから、一番小さなマリィ。
マリィは龍麻のことを随分気に入ってくれたようで、部屋の中で過ごしていると、いつも後ろをついて来る。
頭を撫でてあげると、とても嬉しそうな顔をして、すりすりと龍麻に頬を寄せてくるのである。
雪乃の妹の雛乃は、いつもお絵かきをしていて、龍麻も一緒に描くようになった。
忍者の絵を描いたら、雛乃はそれが忍者と判ったようで、龍麻はそれが嬉しかった。
朝の挨拶ぐらいしか会話をしないのが、亮一と壬生だ。
二人は元々、あんまり喋る子ではないので、龍麻はそれで良いと思っている。
読んでいる本のことを聞いたら、それはちゃんと教えてくれるのだし。
マリア先生は怒る時は怖いけれど、普段はとても優しい。
時々英語で話し掛けてくることがあって、ハローとかグッモーニンとか、龍麻は真似だけれど同じ言葉で返すようになった。
そうするとマリア先生は嬉しそうに笑って、龍麻の頭を撫でてくれる。
無口な犬神先生は、何を考えているのか判らない。
でも子供達の事はよく見てくれていて、お腹が痛いとか、座りっぱなしでお尻が痛いとか、すぐに気付いてくれる。
おしっこを我慢していても判るのだ、だからおもらしする子は殆どいない。
ちなみに、子供達の前にいない時は、大抵庭にあるウサギ小屋の前にいる。
眼鏡をかけたお姉さんは、遠野杏子と言う名前で、子供達は皆アン子先生と呼んでいた。
どうしてアン子なのと龍麻が聞いたら、子供の頃からそういうあだ名だったらしい。
去年に入ったばかりの新人の彼女は、時々おっちょこちょいをするが、それがまた子供達に親しみ易さを与えていた。
それから、怪我をすると看てくれるのが、岩山たか子先生。
その外見に龍麻はびっくりしたけれど、怪我を治してくれる手付きはとても優しい。
だから子供達は遠慮なく外で遊べるのだ。
岩山先生がいない日には、高見沢舞子と言う女の人が看てくれる。
岩山先生とは正反対のおっとりした外見で、舞子先生と呼ばれている。
此方もとても優しい手付きで怪我を治してくれるから、皆とても懐いていた。
皆、龍麻に優しくしてくれる。
龍麻だけじゃない、皆が皆に優しい。
ケンカが起きる事もあるけれど、それは「主張が出来るからだ」と犬神先生が言っていた。
言いたいことも言えなかったらケンカは起きない、と。
龍麻にはなんだか難しくてよく判らなかったけれど、良い事なんだと言う事は判った。
前の保育園ではケンカは駄目だと言われてたから、ちょっと不思議でもあったけれど。
でも、龍麻には一つだけ、まだ気になることがある。
龍麻は、あの寂しそうな目が笑ったところを、まだ一度も見ていなかった。
真神保育園の近くに、児童公園がある。
晴れていれば三日に一回の頻度で、保育園の子供達は其処で遊ぶのが習慣だった。
子供達を外に連れて行く時、保育園には犬神先生が一人で残る。
寂しくないのと龍麻が聞いたら、いつものことだと先生はなんでもない事のように言っていた。
自分だったら寂しいな、と龍麻は思う。
でも犬神先生は大人だから、平気なのだろう。
保育園から公園までは、いつも皆で手を繋いでいく。
一番小さなマリィは舞子先生が抱っこしていた。
―――――それから、一番後ろで、皆と繋がずアン子先生とだけ手を繋いでいる“きょういち”。
龍麻が保育園に入園してから一週間、既に二回児童公園で遊ぶ機会があった。
その際、“きょういち”はいつも一番後ろを歩いていて、手を繋ぐのはアン子先生とだけだった。
一度手を繋ごうと思って手を出したら、“きょういち”は怒った顔をした。
そんな“きょういち”をアン子先生が怒ったけれど、龍麻はしょうがないと思う。
嫌がっていることをしては駄目だと。
公園に着くと、他の保育園の子供達も来ていたりして、皆めいめい遊び出す。
雪乃と雛乃は、他の保育園の子にも友達が沢山いるようだった。
壬生や亮一は外に出てもじっとしている事が多いけれど、ベンチに座ってのんびり本を読んでいる。
だから、この公園へのお散歩が嫌いではないことが判った。
龍麻も楽しい。
他の保育園の子たちとはあまり喋れないけれど、葵達と追いかけっこするのは楽しかった。
そして今日はかくれんぼだ。
小蒔が鬼の番になって、龍麻は隠れられる場所を探して、公園を見回した。
「あ」
見付けたのは、隠れられる場所ではなくて――――こんな時でも一人でいる“きょういち”。
保育園でも公園でも、その間の道でも、“きょういち”は一人で過ごしている。
他の子供達と遊ぶこともしないで、皆の輪から外れた所にいた。
―――――それも、多分、わざと。
皆に仲間外れにされているとかじゃなくて、“きょういち”は自分で一人でいるようだった。
前の保育園での自分と少し似ていたから、龍麻には判る。
寂しくないんだろうか。
犬神先生が一人で保育園に残るのが平気なのは、犬神先生が大人だからだ。
だって自分だったら絶対に寂しいと思う。
“きょういち”は、寂しくないんだろうか。
時々マリア先生やアン子先生が声をかけているけど、先生達があんまり傍にいると怒り出すから、やっぱり一人で過ごしている。
葵が時々話しかけても、そっぽを向くばっかりで、皆の所に行こうとしない。
寂しくないんだろうか。
……寂しくない訳がない。
だって龍麻は、“きょういち”がいつも寂しそうにしているのを知っている。
龍麻は、とてとて、“きょういち”の下へ走った。
近付いて行くと“きょういち”も気付いたようで、地面にお絵かきしていた手を止めて、顔を上げる。
龍麻を見つけると、眉毛の端っこがぎゅうと近付いた。
「ね、あそぼう」
「……」
傍にしゃがむと、“きょういち”はまた下を向いて絵を描き始めた。
“きょういち”が描いているのは、いつもパンダだ。
結構上手だった。
「あそぼうよ。かくれんぼ」
「やだ」
きっぱり言って、“きょういち”はがりがり地面にお絵かきを続ける。
こんなやり取りは、龍麻が“きょういち”に話しかけるようになってしょっちゅうだ。
と言うより、ほぼこんな会話しか“きょういち”相手には成立しない。
龍麻はむぅと唇を尖らせて、地面に増えて行くパンダを見る。
「ぱんだ、すき?」
ぴたり。
龍麻の言葉に、“きょういち”の手が止まった。
“きょういち”が立ち上がって、パンダの顔を足でぐしゃぐしゃにしてしまう。
あ、と龍麻が呟いた時にはもう遅くて、パンダは一匹もいなくなっていた。
勿体無い。
そう思っていたら、こつんと何かが龍麻の頭に当たった。
ころりと落ちたものを見たら、“きょういち”がお絵かきに使っていた木の枝だ。
「いたい」
「しらねェ」
ヒリヒリ、小さな痛みを訴える頭を抑えていったら、“きょういち”はぷいっとそっぽを向いた。
そのまますたすた歩き出した“きょういち”を、龍麻は直ぐに追い駆けた。
「どこいくの」
「かんけーねェだろ」
「あそぼ」
「やだ」
「かくれんぼ、たのしいよ」
「あっそ」
公園の端の芝生をすたすた歩いて行く“きょういち”。
早足のそれに置いていかれないように、龍麻は一所懸命追い駆ける。
「ついてくんなよ」
「あそぼ」
「やだっつってんだろ」
“きょういち”がどんどん怖い顔になって行く。
少し怖かったけれど、龍麻は頑張って“きょういち”を追い駆けた。
手を繋ぐのは嫌かも知れないけれど、遊ぶのが嫌だなんて思っていないと、龍麻は思った。
だって誰かと一緒にいるのも嫌なら、一人でいる時にあんな寂しい顔はしないはずだ。
一人で過ごす方が楽しいと言う子もいる。
壬生なんかはそうだろう、今も彼は一人でベンチに座って本を読んでいる。
その横顔は、本に夢中のようで、楽しそうだった。
でも“きょういち”はそうじゃなくて、絵を描いている時も寂しそうな顔をする。
皆に声をかけられても突っぱねるのに、一人でいると、泣き出しそうな顔をするのだ。
だから龍麻は、彼を放っておけなかった。
でも、大きな声で怒られると、やっぱり体はびくっとする。
「しつけェな! ついてくんなよ、おまえッ!!」
その声は広い公園に響いて、子供たちが皆振り返る。
顔を歪めた“きょういち”と、その前で立ち尽くす龍麻と。
それを見て最初に駆け寄ってきたのは、マリア先生だった。
「どうしたの、二人とも。大きな声出したら、皆がびっくりするでしょう」
二人の間にしゃがんで、顔を顰めた“きょういち”を宥める。
が、“きょういち”はそんなマリア先生も睨んだだけで、直ぐに背中を向けて走り出した。
龍麻は、それを追い駆けられない。
マリア先生が龍麻を抱き上げる。
高くなった視界の隅で、アン子先生が“きょういち”を追い駆けていった。
静まり返った公園の空気を振り払うように、舞子先生が真神保育園の子供達に声をかける。
鬼ごっこしましょうと言う先生に、何人かはさっきの出来事を気にしていたけれど、はぁい、と声が上がった。
マリア先生に抱き締められて、龍麻は先生の肩に顔を埋めた。
ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。
仲良くなりたい。
お話したい。
ただそれだけなのに。
あの子は、どうして笑ってくれないんだろう。
どうしていつも、寂しい顔をしてるんだろう。
怒ったふりして、大きな声で皆を怖がらせようとするんだろう。
龍麻は見た。
皆が庭で遊んでいる時に、一人で地面に座って絵を描いている“きょういち”を。
時々こっちを見て、寂しそうな顔でまた俯いてしまう横顔を。
だからきっと、あの子も皆と遊びたいんだと思う。
でもどうしてか、いつもそれを我慢して、一人で過ごしている。
………もっと笑った顔が見たいのに。
いつも一人で、寂しそうに怒ったふりばっかりを続けている。
龍麻をベンチに座らせて、マリア先生はしばらく隣にいてくれた。
その間に、葵や小蒔、醍醐が傍に来て、頭を撫でたりしてくれた。
小蒔はまた“きょういち”に怒っていたけれど、龍麻は僕の所為だからと言った。
“きょういち”は悪くない。
龍麻のその思いは、揺るがなかった。
しばらくすると雪乃がマリア先生を遊びに誘った。
その時には龍麻は随分落ち着いていたから、マリア先生も「大丈夫ね?」と一つ言って、雪乃達と遊びに加わった。
―――――それと入れ違いで龍麻の下に来たのは、雨紋と亮一だった。
「おまえ、きょーいちとあそびてェの?」
背中にくっついた亮一と手を繋いで、雨紋が言った。
龍麻は頷く。
「なんで?」
「さみしそう」
「そんだけ?」
「なかよくなりたい」
「………」
龍麻の答えに、雨紋は少し驚いたようだった。
ぱちりと一つ瞬きする。
何か変な事を言ったかな―――と龍麻は首を傾げる。
少しの間沈黙があって、その後、雨紋は笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあいいや。がんばれよ」
そう言うと、雨紋は亮一の手を引いて、遊びの輪の中へと歩いていった。
そう言えば。
時々だけれど、雨紋は“きょういち”と話をしている事がある。
それから亮一も加えて、三人でなら遊んでいる事もあった。
雨紋は、“きょういち”が一人で寂しそうな顔のままで過ごしている理由を、知っているのだろうか。
だから“きょういち”も、時々ああやって一緒に遊んだりするのだろうか。
でも毎日じゃない、それもちゃんと理由があるのだろうか。
―――――龍麻は、“きょういち”のことを、あまりよく知らない。
もっと知れたら、仲良くなれるだろうか。
一杯知れたら、“きょういち”は笑ってくれるだろうか。
龍麻は、ベンチを降りた。
“きょういち”はどっちに行っただろう、辺りをきょろきょろ見回してみる。
取り敢えず、目に届く場所にはいないようで、
「うわぁあぁあああああん……!」
子供の大きな泣き声がした。
遊びに夢中の子供達は聞こえていなかったけれど、大人達は慌しくなった。
何処の子が泣いているのか探している。
龍麻も探した。
“きょういち”かも、と思ったのだ。
泣き声がする方へ行ってみると、鉄棒の傍で泣いている子供が二人。
一人はしゃがみこんで俯いていて、もう一人は地面に転んだまま大きな声で泣いていた。
その二人の間に、“きょういち”が立っている。
「京一、あんた何したの!」
アン子先生が怒った。
怒られた“きょういち”は、黙ったままだ。
泣いている子にもそれぞれ大人が駆け寄る。
俯いていた子は腕が蒼くなっていたり、土がついていたり。
転んでいた子は足を擦り剥いて、血が出ていた。
“きょういち”は転んでいた子の方を、ずっと睨んでいる。
「さがやくん!」
龍麻を追い抜いて、葵が俯いていた子の方に駆け寄った。
俯いていた子は男の子で、他の保育園の子だった。
男の子は葵の顔を見て少し安心したようで、泣き顔をごしごし拭っている。
「なんでアンタは目を離したらすぐケンカしちゃうのよ! ほら、ちゃんと謝って」
「…………」
ぷいっと“きょういち”はそっぽを向く。
岩山先生と舞子先生が走って来た。
怪我をしている子供達を看る。
転んでいた子は、まだ泣いていた。
“きょういち”に怒るアン子先生の方が、なんだか泣き出しそうに見えるのはどうしてだろう。
怒っている筈なのに、龍麻には泣いているようにも見えたのだ。
「京一!」
鋭い声で怒るアン子先生を、“きょういち”は見なかった。
ずっと違う方向を見ていて、わざと目を合わせない。
其処に割り込んできたのは、葵だった。
「ちがうの、アン子せんせい、ちがうの!」
「美里ちゃん?」
「きょういちくん、さがやくんを助けてくれたの」
一所懸命に手を引いて、アン子先生を見上げながら葵は言う。
“きょういち”はその間も、ずっと違う方向を見ている。
龍麻は“きょういち”の顔の前に回ってみた。
俯いていたから、下から覗き込んで見ると、赤くなった頬が見えた。
それを見つけた龍麻の口元が緩む。
覗き込んでいる龍麻に気付いて、“きょういち”は顔を顰めて、また違う方向を向いた。
また前に回ろうとしたら、ぱっと背中を向けて走って行ってしまった。
「あ、コラ京一!」
「アン子せんせい、きょういちくん、おこらないであげて」
「うん、判った。判ったけどね、美里ちゃん、」
泣かせた事まで何も言わないままは駄目なのよ、と。
そう言うアン子先生に、葵は泣きそうな顔で怒らないでと繰り返す。
興奮気味の葵を抱いて、アン子先生は小さな背中をぽんぽんと叩いた。
その傍らから、転んでいた子の保護者がやって来て、すみませんと頭を下げる。
アン子先生も同じように頭を下げていた。
彼女らの様子をしばらく見詰めた後で、龍麻も彼女達に背を向ける。
人目につかない、茂みの中。
がさがさと分け入って、龍麻はその向こうに足を踏み入れた。
沢山の木々の葉っぱで空は見えなくて、でもその隙間からきらきらした光が零れてくる。
茂みの中に入っただけなのに、なんだか随分違う世界に迷い込んだみたいだった。
皆の遊ぶ声が少し遠くなったから、余計にそんな気がしてくる。
時々茂みの緑が動いて、ひょっこり猫が顔を出す。
その猫は首輪の跡があって、龍麻が知っている猫より随分細い。
マリィがいつも抱っこしているメフィストだって、もっともっと丸いのに。
猫は龍麻を見つけると、ミャアと一回鳴いた。
それから警戒する様子もなく、とことこ龍麻の目の前をのんびり歩いて行く。
それを目線で追い駆けて。
その不思議な空間の中に、“きょういち”はいた。
「………おめェ、またかよ」
“きょういち”が呟いたのは、龍麻に対してではなく。
足元に擦り寄ってきた、痩せっぽちの猫に対してだった。
猫はミャアミャア鳴いて、“きょういち”の足にすりすり擦り寄っている。
“きょういち”はしばらくそれを見下ろして、ズボンのポケットから何かを取り出した。
握っていた手のひらを開くと、其処にあったのは、細かく千切ったパンくず。
「……おめェ、またくってねェんだろ。じぶんでエサとれよ」
地面に置いたパンくずを食べる猫を見下ろして、“きょういち”は呟いた。
「じぶんでとれねーと、しんじまうぞ」
「だれも助けてくれねェんだぞ」
「……じぶんでやんなきゃ、だれも……」
消えていきそうな声は、多分、此処に龍麻がいることを知らないからだ。
だから、泣き出す一歩手前で踏み止まった声が零れて落ちていく。
それを受け止めることが赦されているのは、痩せっぽちの猫だけ。
何を言ってくる訳でもないし、誰かに言い触らすでもない。
だから“きょういち”も、独り言のように零して。
――――――龍麻は、茂みを出た。
それだけで、子供たちの遊ぶ声がクリアになって、空から降ってくる太陽はきらきら全てを照らすようになる。
壁に阻まれている訳でもないのに、どうしてこんなに違うのか、少しだけ不思議。
やっぱり。
やっぱり、あの子は寂しいんだ。
そして――――やっぱりあの子は、優しいんだ。
仲良くなりたい。
ずっとそう思っていた。
もっと仲良くなりたい。
今、そう思う。
だって、笑わせてあげたいと思うから。
----------------------------------------
雨紋が意外と出張る(笑)。
よく考えたら、如月より出番多いですよね、うちのサイトの彼は。
龍麻はひたすら京一好き好きvv