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空が夕暮れに染まる頃、真神保育園は少しずつ静かになって行く。
保育園に預けられた子供に迎えが来る時間で、一人、また一人と保育園から家族のいる家へと帰って行く。
一人帰り、二人帰り、三人帰り。
母だったり、父だったり、祖母だったりに迎えられて、子供達は家路に着く。
お泊りで過ごしている子供達は、そんな子供達を、少し羨ましそうに見送る。
中には、帰っちゃイヤ、と泣き出して、帰ろうとする子を引き止めようとして、玄関先でちょっとした騒ぎになったりする。
それをマリア先生や遠野先生が、また会えるから大丈夫よ、と困った顔で宥めていた。
龍麻の母は、いつも決まった時間に迎えに来る。
夕飯の準備を一通り済ませて、後は暖めたり、ちょっと寝かせれば完成と言う所で、コンロの火を止めて龍麻を迎えに行く。
だから龍麻が家に帰ると、いつも色とりどりの料理がテーブルに並んでいて、其処で父が新聞を読んでいるのがいつもの光景。
保育園で過ごす時間も楽しいけれど、家に帰ると龍麻はとても安心する。
だから龍麻は、朝は保育園に行く時間が待ち遠しくてそわそわして、夕方の帰る時間が近付く頃、母がもうすぐ来るんだと思ってそわそわする。
でも龍麻がそわそわし始めると、別の理由でそわそわし始める子もいる。
いつも龍麻の後ろをついて来てくれる、マリィがそうだった。
マリィは、自分が知らない間に龍麻が帰ってしまうと、後でとても泣くのだと言う。
龍麻が大好きで大好きで仕方がないマリィは、自分も龍麻の家に一緒に買えると言って、よくマリア先生達を困らせているらしい。
そんな風に言ってもらえるのは龍麻も嬉しいから、母にお願いして一緒に帰れるように出来ないかな、と思う。
マリィはとっても可愛いから、きっと父も母も可愛がってくれる。
マリィは、どうしてだか判らないけれど、お迎えの人が来ないらしい。
そういう子はマリィだけではなくて、雨紋や亮一もそうで、壬生もお迎えがない日の方が多い。
迎えがないって、どんな気持ちになるのだろう。
龍麻は、寂しそうに自分を見送るマリィや、羨ましそうに他の子達を見送る雨紋達を見て、自分が同じ立場だったらどう思うだろう、と一度だけ考えた。
想像して思ったのは────とても寂しい、悲しい、という事。
毎日迎えにきてくれる母がいない、いつも待っていてくれる父がいない。
迎えに来てくれる人がいなくて、待っていてくれる人がいないなんて、まるで世界に一人ぼっちになったみたいだった。
マリィや雨紋や亮一や壬生は、毎日そんな気持ちなんだろうか。
龍麻は、そんなのは耐えられない。
それから、もう一人。
いつも仲良しの筈の龍麻を見送る事もしない、男の子がいる。
「緋勇くーん」
呼ぶ声に顔を上げれば、遠野先生が遊戯室の入り口にいた。
それから時計を見れば、短い針が5と6の間。
いつも通り、迎えが来る時間だ。
龍麻は開いていた本を閉じて、立ち上がった。
その理由を判っているのは傍らにいたマリィで、龍麻の靴下をぎゅっと摘む。
立ち上がった龍麻が下を向けば、ぷくうと頬を膨らませたマリィがじっと見上げている。
「だぁめー」
帰っちゃ駄目、帰っちゃ寂しい。
真っ直ぐに見上げるマリィの大きな目が、一心にそう告げている。
そう言ってくれるマリィの気持ちは嬉しいけれど、帰らないと言ったら迎えに来てくれた母を困らせる。
龍麻はマリィの頭を撫でて、さっきまで自分が読んでいた本を拾って、マリィに差し出す。
マリィはやっぱり頬を膨らませたまま、龍麻の代わりに、絵本を受け取った。
ぎゅうと抱き締めたマリィに笑いかけて、龍麻はロッカーに入れていた自分の鞄を引っ張り出す。
母手作りの苺のワッペンが縫い付けられた鞄を背負って、龍麻は遠野先生の待つ部屋の出入り口へ向かう。
「お迎え来たよー、緋勇君」
「ぁい」
手を上げて返事をする龍麻に、遠野先生はいい子いい子、と龍麻の頭を撫でる。
遠野先生に背中を押されながら、龍麻は園舎の玄関へ向かう。
それと擦れ違うように、雨紋と亮一が追いかけっこをしていた。
二人とも逃げているようで、追いかけているのはまた別の子供らしい。
それは多分、と思っていたら予想通り、
「まてコラ! にがさねェぞ!」
「ほら亮一、はやくしろって!」
「まってよ~」
ドタバタと賑やかな足音を立てて、雨紋と亮一を追い駆けて来たのは、京一だった。
三人は突き当りまで走りきった後、Uターンして今度は龍麻を追い越した。
玄関口まで走りきると、またUターンで、龍麻の方へと向かって来る。
のんびりと歩く龍麻と遠野先生の下まで来ると、三人は二人の周りをぐるぐると走り回りだしてしまった。
「あ、あ、」
「こら、アンタ達ーッ!」
前に行くに行けなくて、オロオロする龍麻を庇いながら、遠野先生が三人を叱り付ける。
「やべッ、にげろー!」
「らいと、まってー!」
怒鳴られて一目散に逃げたのは、雨紋だった。
それを慌てて追い駆けて行ったのは亮一だけ。
ぽつん、と京一だけが龍麻の前に足を止めていた。
「きょーいち」
龍麻は、京一が一等好きだ。
保育園で一緒に過ごす子たちは皆好きだけれど、京一が一番好きだった。
そんな京一と帰る前に会えたので、嬉しくて名前を呼んだ。
─────けれども、京一の表情はなんだか酷く不機嫌そうで。
「……かえんのか」
「うん。またね」
ひらひらと手を振ってバイバイの挨拶をすると、京一はぷいっとそっぽを向いてしまう。
そんな京一の頭を遠野先生が小突いたが、京一はそのまま歩き出した。
京一があまり返事をしてくれないのは、最初の頃からだ。
いや、会ったばかりの時の方がもう少し反応してくれていたかも知れない。
でも返って来るのは怒った声や不機嫌な顔ばかりで、小蒔や雪乃とはそれが原因でいつもケンカになっていた。
京一が返事をしないと言うのは、必ずしも、相手を嫌っているからではない。
ただ単純に面倒だから、と言う所だろう。
でも、何故だろうか。
龍麻がバイバイの挨拶をした時だけ、前と同じ位に、機嫌が悪くなるのだ。
龍麻は、歩き出した京一の背中を目で追いかけた。
その足取りはしっかりとしているのに、見える姿が酷く寂しそうに見えるのは、なんとなくだが────確かだった。
けれども廊下の角から雨紋が顔を出すと、
「おい、きょういち! はやくこいよ、ずーっとおまえがオニだぜ!」
「るせェ、バーカ! いますぐ、とっつかまえてやる!」
雨紋の無邪気な声に、直ぐに京一もまた走り出す。
バタバタと賑やかな足音に、遠野先生が静かにしなさいと怒る声が上がった。
勿論、二人が聞く訳もなく、人気の少なくなった園舎に、また賑やかな声が響く。
怒っても聞かない子供達の姿に、遠野先生は腰に手を当てて、怒った顔をしてみせる。
「全くもう! ……元気よねぇ、あの二人。ねー?」
「ねぇー」
怒った顔をしていたのに、ね、と言う遠野先生は笑っている。
龍麻が言葉を真似してみれば、遠野先生はクスクスと楽しそうな顔をしていた。
改めて玄関へと向かうと、其処にはいつもと同じように、母が柔らかな笑みを浮かべて待っていた。
嬉しくて駆け出して行くと、母はしゃがんで両手を広げて迎えてくれた。
「おかあさん!」
「はい、ひーちゃん。お帰りなさい」
抱き締める腕の温かさで、心の奥までぽかぽかとしてくるような気がする。
いや、気がするのではなくて、本当にそうなのだ。
落ち着いた色合いのケープに顔を埋めると、きっと今日の夕飯なのだろう、美味しそうな匂いがする。
多分また父の手伝いをしていたのだろう、漆器作りの工房の匂いもほんの少し香る。
でも何よりも龍麻が安心するのは、母自身の温もりによく似た、お日様の匂いだった。
よく仕事をする皺のある手が、頭を撫でてくれる。
嬉しくて、龍麻は母の肩に頬を摺り寄せた。
ぎゅっと強く抱き締めてもらった後で、龍麻は見守ってくれている遠野先生へ振り返る。
「おせわになりました!」
「うん。またね、緋勇君」
ひらひらと手を振る龍麻に、遠野先生も同じように手を振り返してくれる。
母もぺこりと頭を下げてくれるのが、毎日のバイバイの挨拶だった。
靴を履いて、鞄を少し背負い直して、母に手を伸ばす。
何も言わなくても母は判ってくれて、手を繋いでくれた。
そうしていつものように玄関を潜ろうとして─────ふと、後ろを振り返る。
いつものように見送ってくれる遠野先生。
その向こうで追いかけっこをしている雨紋と亮一と、京一。
その京一の足が止まって、龍麻を見て────目が合う。
……帰るのか、と。
そう言った時、あの子はどんな顔をしていただろう。
不機嫌そうに見えたけど、それはきっと怒っているからではなく。
前にもよく見られたその顔は、どんな時、どんな風にして浮かんだ表情だったのか。
思い返して直ぐに気付くのは、あれは何かを我慢している時に見せる顔だと言う事で。
マリィだったら手を伸ばして、帰っちゃ駄目、と言ってくれる。
葵だったら手を振って、また明日ね、と言ってくれる。
壬生だったら、手も振らないし何も言わないけれど、少しだけ笑ってみせてくれる。
京一は手も振らないし、何も言わないし、笑うこともしない。
怒ることもしなくて、ただ見ているだけ。
そう言えば、龍麻はいつもこの時間に帰るけれど、京一はいつになったら帰っているのだろう。
真神保育園に集まる子供達の帰る時間は、勿論それぞれバラバラで、固定している子供の方が少ない。
龍麻より早く帰る事が多い子も、時には龍麻より遅い日もあるし、逆もあった。
そんな中で、京一だけがいつも龍麻より遅くはないだろうか。
龍麻は一度も京一を見送ったことがないし、龍麻より早く京一が玄関を出て行くのを見た事はない。
龍麻が京一にまたねを言って、先に保育園を出て行くのがいつもの光景だった。
京一はいつ帰っているのだろう。
いつになったら、迎えの人が来るのだろう。
足を止めた京一の表情に、色はない。
無表情でじっと龍麻を見詰めていて、その内に、ふいとまた視線を逸らしてしまった。
それを見詰める龍麻の足が動かないから、母が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたの、ひーちゃん」
「……あ」
心配そうな母に気付いて、龍麻も我に返る。
龍麻は、母と京一が入っていった遊戯室とを繰り返し交互に見る。
もう帰らなければいけないのだけれど、あの気難しい男の子が気になって仕方がない。
放って置いたら、以前のような寂しい気配ばかりをまとうようになるような気がして。
「おかあさん、ぼく、もうちょっといたい」
「あらあら。どうしたの?」
珍しい龍麻のお願いに、母は驚いた表情で問い掛ける。
龍麻は母と繋いでいた手を離し、靴を脱いで下駄箱に戻す。
そこに鞄も半ば無理やりに押し込んだ。
「もうちょっとだけ。いい?」
「構わないけど……どうしたの? 忘れ物?」
「ううん。でも、きょういち、しんぱいだから」
一番大好きな友達だから、もうあんな悲しい顔をして欲しくない。
最近になってやっと照れ臭そうに笑ってくれることが増えて、あの困った笑顔も見なくなった。
怒る事もあるけれど、前のように周りを怒らせて自分から遠ざける事はない。
取っ組み合いのケンカだってするけれど、ちゃんと謝って仲直りが出来る。
でも京一はまだ他の子供達との距離を計り兼ねているようで、時々、皆の輪から外れている。
葵や雨紋が遊びに誘っても、其処にいるのが沢山の子供達だと気付いた時、二の足を踏んでしまっている。
少しずつ、少しずつ。
子供達の間で、蟠りは解けつつある。
けれどもあの子自身は、まだその意味に気付けていない。
いつでも、一人ぼっちに戻れる覚悟を、ずっとしたまま。
遊戯室のドアを開けると、一番にぐずり出したマリィと、それを宥める高見沢先生を見つけた。
カーペットの隅では遊び疲れて座り込んだ亮一と、そんな亮一の為に本棚から絵本を持ってきた雨紋。
壬生と如月は、三人分並んだ椅子の真ん中を本置き場にして、それぞれ好きに本を読んでいる。
龍麻と特に仲の良い葵、小蒔、醍醐は今日は先に帰っている。
雛乃と雪乃の姉妹もおじいちゃんが迎えに来て、姉妹仲良く手を繋いで帰って行った。
京一は─────遊戯室の壁に寄り掛かって、いつも見ている動物図鑑を開いている。
その傍らに、マリィがメフィストを抱き締めて丸くなっている。
「きょーいち」
呼ぶと、京一が顔を上げた。
マリィも目を開ける。
「たつま」
「たぅあ!」
目を丸くした京一と、ぱっと嬉しそうな顔になったマリィ。
龍麻が駆け寄れば、マリィは両手を伸ばして抱っこをねだった。
龍麻が京一の隣に座ると、マリィが一所懸命に這って来た。
それを抱いて膝上に下ろしてあげると、マリィはにこにこと上機嫌だ。
京一は眉と眉の間にくっきりとした谷が出来ていて、龍麻が遊戯室に戻ってきたのが不思議でならないらしい。
「おめェ、何してんだ」
「うん」
「うんじゃねェよ」
「うん」
京一が心配だったから、まだもうちょっと帰らない。
なんて言ったら怒り出しそうだったから、龍麻は笑って誤魔化した。
遊戯室に遠野先生と母が入ってきて、ドア横にあるお客さん用の椅子に座る。
遠野先生は少し困った顔をしていたけれど、母は微笑んでいた。
少し悪いことをしているような気はしたけれど、後で怒られるのは仕方がないと思う。
夕飯が遅れる訳だから、父はちょっと待ち惚けさせてしまう事になるし、龍麻もお腹が減る。
だから、ほんのちょっとの間だけ。
龍麻はそのつもりでいたのだけれど、戻ってきた龍麻を見た京一は、そうは思わなかったらしい。
「かえれよ。かあちゃん、まってんじゃねェか」
「だいじょうぶ」
「…じゃねえよ」
呆れた顔で溜め息を吐く京一に、龍麻は少し口の先を尖らせる。
「もうちょっとだけ、へいきなの」
「………」
「うー、うー」
「ね、マリィ」
京一にばかり話しかけるのが不満だったのだろう。
ぐいぐいと服を引っ張るマリィに笑いかけると、マリィはきゃっきゃと嬉しそうに笑った。
しばらく険しい顔をしていた京一だが、龍麻が其処から動かないのと、母が笑顔で待っているのを見て、それ以上言うのを止めた。
言っても聞かないのなら、言うだけ無駄だと踏んだようだ。
手に持っていた図鑑にまた視線を落とす。
龍麻の膝上に乗ったマリィが、床に置いてある本に手を伸ばす。
それは、先程まで龍麻が読んでいた絵本だった。
龍麻が本を取って開くと、マリィは龍麻に抱きついたまま、首だけを巡らせて本を覗き込む。
マリィはまだ字が読めないが、龍麻が声に出して本を読むと、夢中になって絵本の世界に入り込んだ。
京一は隣から聞こえる声に時折目を向けていたけれど、その内、それもしなくなった。
あと少し、もう少し。
この子が不安にならないように。
この子を迎えに来てくれる人が現れるまで、もう少しだけ。
龍麻と、京一と、如月と。
今日は壬生は泊まりになっているらしいから、残った子供達の中で帰るのは、後はこの三人だけだった。
如月が帰ったのは時計の短い針が6を過ぎた頃。
迎えに来たのは着物を着た女の人で、とても綺麗な人だった。
雰囲気が如月によく似ていて、仕草も丁寧で、ちょっと厳しそうな印象の女の人だった。
如月も帰ってしまって、後に残ったのは泊まりの子供達の他には、龍麻と京一だけ。
龍麻は母が迎えに来ているから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。
迎えが来ていないのは、京一だけになってしまった。
窓から覗く外の世界は、夕焼け空も段々と見えなくなってきている。
周囲の家々からは灯りが零れ始め、暗くなる世界を照らし出していた。
もうすぐ空は真っ暗になってしまうだろう。
中々陽が沈まない季節ではあるけれど、沈み始めると早いのは季節関係なく同じ事だ。
こんな時間になっても、京一のお迎えはまだ来ない。
ひょっとして何かあったのかな、と龍麻は顔も知らない京一の親を心配していた。
京一の方は気にした様子はなくて、図鑑を読むのに飽きたのか、お絵かき帳を取り出して、床に寝転がって絵を描いている。
偶に時計を気にするように顔を上げるけれど、確認すると直ぐに意識を絵に戻してしまった。
マリィ同様に、遊び疲れた亮一も、雨紋の横でカーペットの上に寝転んで眠っている。
雨紋はまだまだ遊びたそうにしていたが、幼馴染が眠ってしまったので、賑やかにしようとは思っていないらしい。
亮一と一緒に読んでいた本を本棚に戻して、子供向けのマンガ雑誌を持ってきてまた広げている。
壬生はマリア先生のお手伝いをすると言って、マリア先生と一緒に遊戯室を出て行った。
京一がこんな時間まで残っているのは、いつもの事なのだろう。
誰も京一がいる事を特別気にしていない、京一自身もそうだ。
龍麻の膝上に乗ったマリィが、何度も身動ぎして、膝の上から落ちそうになる。
出来ればマリィが落ち着けるような姿勢を取らせてあげたいけれど、その度、今度は龍麻が辛い姿勢になる。
難しいなぁ、と思いながら、龍麻はああでもないこうでもないと、何度も姿勢を変えて模索していた。
その様子を見た遠野先生が、小さく苦笑して、歩み寄って来た。
「緋勇君、マリィちゃん預かるわ」
「……はい」
龍麻のシャツを掴むマリィの姿は、離れてしまうことに少しばかり寂しさを感じさせた。
けれど、今のまま何度も何度も姿勢を変えていたら、いつかはマリィが起きてしまうだろう。
遠野先生がマリィを抱き上げる。
離れる直前、遠ざかる気配を夢ながらに感じたのか、マリィがいやいやと小さく首を横に振った。
そのまま泣き出しそうなマリィに、遠野先生は慌てず、よしよしとあやしてやった。
遠野先生に抱かれるマリィに、龍麻が手を伸ばし、金色の髪を撫でてやる。
それからマリィの小さな手に自分の手を寄せれば、きゅっと小さな手が龍麻の指を握った。
可愛いな。
一心に慕ってくれるマリィに、龍麻はいつも思う。
「マリィちゃん、ホントに緋勇君のこと好きなのねー」
「ぼくもマリィ、すきです」
「うんうん」
仲の良い保育園の子供達に、遠野先生は嬉しそうに頷いた。
眼鏡の奥の目が意地悪っぽくきらりと光って、
「京一ももうちょっとねェ。緋勇君みたいな事言えたら可愛いのに」
「べつにおまえにかわいいとか思われてもうれしかねェよ」
「そういうのが可愛くないって言ってんのッ」
ぴしッ、と遠野先生の指が京一の額をデコピンする。
京一が少し赤くなった額を押えて顔をあげ、ムスッとした顔で遠野先生を睨む。
遠野先生はそれを気にした様子はなく、寝息を立て始めたマリィを抱え直している。
京一と遠野先生のこんな遣り取りは、いつもの事だ。
遠野先生だけではなく、マリア先生も京一に対しては似たようなスキンシップを取っていた。
遠野先生がマリィの為の毛布を取りに言っている間に、京一はまたお絵かき帳にクレヨンを乗せている。
龍麻もその隣に横になって、頬杖で京一の絵を覗き込む。
京一のお絵かき帳を埋めているのは、殆どパンダの絵だ。
時々他の動物も描いているけれど、一番数が多いのは、やっぱりパンダだった。
描いているのがお絵かき帳じゃなくて地面でも、これは変わらない。
「きょういち、ぼくもおえかきしたい」
「………ん」
龍麻の言葉に、京一は端的に答えて、クレヨンケースを寄せて来る。
折り畳んでいたお絵かき帳も見開きにして、こっちを使って良いと無言の許可。
京一のクレヨンケースの中は、色の順番はバラバラになっている。
減っているのは京一が今使っている黒が一番で、それから白、赤、黄色、橙色。
緑や空色は少し減っていて、後はあまり使っていなかった。
黒が一番減っているのは、京一がいつもパンダを描いているからだ。
他の色よりもダントツの減り方で、もう半分以下の長さになっている。
龍麻は赤のクレヨンを取って、三角形を描く。
三角の中を綺麗に塗ってから、緑色で三角形の一片にトゲトゲを描いた。
緑色も綺麗に塗りきると、次の色を手に取ろうとして、それがケースの中にない事に気付く。
次に必要な色は、黒。
でも黒は、まだ京一が使っている。
龍麻は少し考えた後で、橙色を手にとって、三角の横に橙色の丸を描いた。
次は茶色で丸の橙色の上半分と、下の外側を塗って、赤色で丸の中にお椀を描く。
白だと描いた色が見えないから、代わりに赤色を使って線を描いていく。
「…………」
隣で身動ぎする気配があって、龍麻は隣の友達を見る。
京一は顔を上げて、遊戯室の壁にかけられている時計を見詰めていた。
時計の短い針は6を過ぎて、長い針は3を過ぎている。
─────迎えは、まだ来ない。
「おそいね」
「……べつに」
ぽつりと呟いた龍麻に、京一は素っ気無い言葉。
けれども隣を見れば、お絵かき帳を見る目が、なんだか頼りなさそうで。
「……おむかえ、こないのかな」
まだ来ないのかな、と。
龍麻は、そう呟いたつもりだった。
けれども、僅かに言葉が足りなくて。
「―――――きょういち?」
黒いクレヨンを握った京一の手が、小さく震えていた。
どうしたんだろう、と龍麻が京一の横顔を見れば、何かを耐えるように口を一文字に噤む京一の顔があった。
その顔は、なんだか泣き出しそうに見えて、けれどそれを堪えていて、だから余計に見ていて苦しくなる気がした。
何か、悪いことを言っただろうか。
龍麻は、自分の先の言葉に足りないものがある事に気付けなかった。
それでもきっと自分の所為だという事はぼんやりとだが理解できて、どうしよう、と眉の端が下がる。
「……きょーいち」
泣き出しそうな顔を見ているのが辛くて、龍麻は手を伸ばした。
茶色の髪を撫でると、大きな瞳が此方を見た。
京一はしばらく、じっと龍麻を見詰めた後で、お絵かき帳に視線を戻し、
「……もうおまえもかえれよ」
その言葉が、龍麻には酷く冷たい、さよならの言葉に聞こえた。
どうしよう、怒らせた────そんな思考に囚われて、今度は龍麻が泣きそうになる。
京一の頭を撫でていた手を下ろして俯いていると、また京一が顔を上げた。
少し驚いたように目を丸く見開いた後で、京一が困ったように眉毛を下げて小さく笑う。
それから、今度は京一の方が手を伸ばして、龍麻の頭を撫でた。
「かあちゃん、まってんじゃねェか。かえったらメシなんだろ」
「……うん」
「はらへってんなら、もうかえれ」
マリア先生や遠野先生や葵のような、決して柔らかい言葉ではない。
けれど、困ったように笑った顔で言う京一の声は、とても優しい音を紡いでいた。
京一が言うように、確かに、お腹は空いていた。
いつもなら既に家に帰っていて、夕飯も食べ終えて、父と一緒にテレビを見ている頃だ。
それが大幅にずれ込んでしまっているのだから、食べ盛りの龍麻は勿論、ずっと待っている母も、家で待ち惚けになっているだろう父も、当然空腹なのは想像に難くはない。
龍麻の方が京一を心配して帰るのを遅くさせて貰っているのに、龍麻が京一に心配されてしまった。
これでは意味がない。
同時に────やっぱりこの子は凄く優しい、と思う。
龍麻の目に、じわりと水が浮かんで来た。
京一がまた驚いた顔になって、頭を撫でていた手を引っ込める。
龍麻は、引っ込んだ手を掴まえて握った。
「きょういち、ひとりぼっちになっちゃうよ」
「なんねェよ。マリアちゃんいるし、とおのセンセいるし」
「いるけど、ひとりぼっちになっちゃうよ」
マリィと亮一は眠ってしまったし、雨紋もマンガ雑誌を下敷きにして床で寝てしまった。
壬生はまだ職員室から帰って来ない。
遠野先生は遊戯室にいるけれど、ずっと京一に構っていられる訳ではない。
龍麻が帰ってしまったら、京一はまだ来ない迎えの人を一人でずっと待たなければならない。
自分だったら寂しくて耐えられないから、龍麻は京一を放って置けなかった。
けれど、京一は困った顔で笑うだけ。
「べつに、おそかねェよ。いつもだし」
いつも────いつも、こんなに遅いのか。
いつも一人でずっと待っているのか。
「なれてるよ」
そんな言葉は嘘だ。
龍麻には判る。
だって、嘘だったらあんなにも泣きそうな顔はしない。
けれども京一は、なんでもない顔をしてクレヨンをケースに戻し、蓋をする。
お絵かき帳も閉じてしまい、立ち上がると、横になったままの龍麻の手を引っ張って強引に立たせた。
「ほら、もうかえれよ。とうちゃん、いえでまってんだろ」
「……うん」
夕方になると母が迎えに来てくれて、家に帰れば父が待っている。
それが龍麻にとっては日常。
でも、この保育園には、その日常が日常ではない子供達もいる。
立ち上がった龍麻の手を引っ張って、京一は龍麻を母の下まで連れて行く。
椅子から腰を上げた母に龍麻が抱きつくと、京一は頭の後ろで手を組んで、いつもと同じ仏頂面。
そんな京一に母が笑いかける。
「ひーちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうね」
「……べ、つに」
母の言葉に京一は素っ気無い返事だったが、顔が赤くなっていた。
むず痒さを誤魔化すように鼻の下を掻いたりして、母が微笑ましそうに笑みを深める。
「大丈夫よ。きっともう直ぐ、お迎え来てくれるから」
「知ってる」
「そう。良かったわねえ」
母の皺のある手が、優しく京一を撫でる。
遠野先生や高見沢先生に撫でられると、頭を振って振り払うのに、今日はそれをしなかった。
京一は赤い顔のまま、何処を見ていいのか判らないようで、あちこち視線を彷徨わせている。
それでも龍麻は心配だった。
こんな時間になってもお迎えが来ない京一は、いつになったら寂しくなくなるのだろうかと。
龍麻の胸中は判り易く顔に出ていて、京一もそれに気付いた。
京一はそれ以上何かを言うことはなく、母の手が離れると、くるりと背中を向けて、積み木が置かれている部屋の一角へ。
此方に背を向けて座ってしまったから、もう龍麻にあの子の表情は見えない。
見えないから、龍麻は余計に、京一が本当はどんな顔をしたいのか、考えてしまう。
泣き出しそうな横顔が頭から離れなくて、龍麻は自分まで泣きそうになっている事に気付いた。
泣いたら母を困らせるし、優しいあの子はまた無理をして笑うだろう。
龍麻は泣きたいのを誤魔化すように、母の脚に顔を埋めてしがみついた。
しがみついてきた龍麻を、母はあらあら、と苦笑して抱き上げた。
今度は母の肩に顔を埋めていたら、ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる。
「ありがとうね、えぇっと……京一君」
「きょーいち、またあした」
母と龍麻のバイバイに、京一は返事をしなかった。
代わりに、右手をひらひら振っている。
それだけを肩越しに見て、龍麻はまた、母の肩に顔を埋めた。
遊戯室のドアを開けると、外側から開けようとしたのだろう、マリア先生の姿があった。
「まあまあ、マリア先生」
「お迎えご苦労様です、緋勇さん」
「いいえ。此方こそ、お世話になっております」
「ありがとうございます。あら、緋勇君、どうしたの?」
母の肩に顔を埋める龍麻に、マリア先生が心配そうに覗き込んでくる。
龍麻は泣きそうな顔を隠して、マリア先生の視線から逃げた。
「お友達とバイバイするのが、寂しかったみたいで。ねぇ、ひーちゃん」
「……ああ、京一君ね。大丈夫よ、明日になったらまた遊べるわ。ね?」
母とマリア先生の言葉に、龍麻はなんとか、小さく頷いた。
もう一度お互いにぺこりと小さく頭を下げると、母は廊下へ、マリア先生は遊戯室へと入れ違いになる。
それから、閉まりかけたドアの隙間から、マリア先生の声が聞こえて来た。
「京一君、お迎えよ」
声が聞こえて直ぐにドアが閉まってしまったから、その後の遊戯室の事は知らない。
母は龍麻を抱き上げたまま、真っ直ぐに園舎の玄関口へ歩いて行く。
龍麻はの首に抱きついていて、遠くなっていく遊戯室で、ようやく帰る準備を始めているだろう友達を思う。
良かった。
良かった。
一人ぼっちにしなくて良かった。
本当はもっと一緒にいたかったし、一緒に遊戯室を出たかった。
一緒に靴を履き替えて、一緒に玄関を出て、一緒に歩いて帰りたい。
でも良かった。
自分の方がほんのちょっと早く部屋を出る事になったけれど、あの子ももう帰れる、お迎えが来た。
もうあの子は一人ぼっちじゃない。
寂しいのを誤魔化すように、困った顔で笑わなくていい。
下駄箱の前で母の腕から下ろしてもらって、下駄箱に入れていた鞄と靴を出す。
靴を履いて、鞄を背負って、もう一度母に抱き上げて貰った。
その傍らに、壁に背中を押し付けて立っている男の人がいる。
さっきはいなかったし、マリア先生が「お迎え」と言っていたから、きっとこの人が京一のお迎えなのだろう。
龍麻の父よりずっと若くて、父と言うより、兄ではないかと言う表現の方が似合う。
母はその男の人に小さく会釈した。
男の人も口元に笑みを浮かべて、同じように頭を下げる。
園舎を出ると、外は大分暗くなっていた。
星こそまだ見えないし、空の一部は燃えているように赤く光っていたけれど、殆どが黒で塗り潰されている。
あの子は毎日、こんな時間まで、ずっと迎えを待っている。
遠ざかっていく、毎日を過ごす、龍麻のもう一つの家。
沢山の友達と一緒に過ごす、家。
遊戯室から出てきたあの子が、男の人に抱き上げられるのを見て、ほんの少しホッとした。
でも、もう少しだけ早く、迎えに来てくれたらいいのにな。
あの子が寂しい顔をしなくて済むように。
久しぶりの執筆……(汗)。
京一のお絵かき帳は殆どパンダばっかりです。ページを捲っても捲ってもパンダ。
気が向いたら他のも描きます。
龍麻のお母さんはのんびりしている人なので、息子のちょっとしたワガママもあまり怒りません。
怒っても多分「仕方ないわね」って笑顔でちょっと注意かな。龍麻自身が滅多に聞き分けない事がないし。
お父さんにはちゃんと連絡入れてあります。龍麻視点なので書かず仕舞いでしたが……
平日の朝は忙しい。
大学に行く時間は日によりけりだが、八剣には他にやる事がある。
目を覚まして身だしなみを整えたら、夜の内に済ませて置いた洗濯物を取り出し、風呂場に干す。
出来れば毎日天日干しで日光による殺菌消毒を行いたいが、家を出ると日が落ちるまで帰る事がない為、天候を気にせず干そうとすると、どうしても部屋干しを余儀なくされてしまう。
これが済むと、朝食の準備だ。
育ち盛りの幼い預かり子にひもじい思いをさせる訳にはいかないから、八剣はいつも急ぎ足でこれの準備をする。
献立は、炊き立ての白飯に吸い物、漬物、それから何か一品二品、と言う和風の朝食が多い。
慣れた手付きでそれらを仕込む八剣の手付きは、男子大学生と言うには卓越していた。
食事に用意を済ませたら、一度寝室に戻り、預かり子の様子を見に行く。
大抵、この頃になると子供は眠気眼を擦りながら起き上がっていた。
それを確かめたら、子供が着替えてリビングに来るまでに、大学で使用する教材に忘れ物がないか確認する。
子供と二人で食事を終えたら、食器を片付けなければならず、それが済んだ後は子供を保育園に送らなければならない。
こうしていると、朝の数時間と言う時間は、あっという間に過ぎていってしまうのである。
ある水曜日の朝、八剣はいつも通りに目を覚ました。
瞼を開けて最初に見たのは、隣で丸くなって眠っている預かり子――――京一だ。
京一は八剣の右腕を枕にして、お気に入りのパンダのぬいぐるみを抱き締めて、寝息を立てている。
子供にしては普段仏頂面でいる事が多い京一だが、寝顔はやはり子供らしく愛らしい。
しかし今日の京一は、寝苦しいのか、眉を寄せて眠っていた。
京一の前髪を少し持ち上げてやると、薄らと汗が滲んでおり、そんなに暑いかな、と八剣は首を傾げた。
起こさないように気を付けながら、枕になっていた腕を引き抜く。
むずがるように身動ぎする京一の頭を撫でると、無意識だと言うのに、いやいやするように首を振って、最後にはうつ伏せになってシーツに顔を埋めてしまった。
眠っている時ぐらいは、もう少し甘えても良いのに。
八剣は苦笑が漏れるのを誤魔化せない。
ベッドを降りて、カーペットを敷いた床の上を、音を立てないようにゆっくりと通り過ぎて、リビングと続きになっているドアを開ける。
カチャリと言うドアノブの音一つにも気を遣うのは、眠る子供を邪魔しないようにと言う配慮から。
リビングの隅のコンセントに差し込んでいた、携帯電話の充電器。
其方を見ると携帯のイルミネーションが点滅しており、手にとって確認すると、京一の父からのメールがあった。
時刻は深夜、八剣が京一と一緒に眠って随分と経った頃だ。
内容は『来週末は迎えに行けそうだ』と言うもの。
これも絶対とは言えないので、京一に伝える事あまだ出来ないが、それでも八剣はほっとした。
月に一度位は本当の親子で過ごした方が京一の為になる。
親子揃って素直な性格ではないから、ケンカをしてしまう事も多いけれど。
(全く逢わないよりは、よっぽど良いだろう)
来週末か――――と、然程遠くは無い日に思いを馳せつつ。
八剣は洗濯物を干し、朝食の準備に取り掛かった。
今朝のメニューは白飯とワカメの味噌汁に、アジの開き、胡瓜の浅漬けだ。
アジは昨日の晩に一夜干ししておいたアジを使う。
これだけでは少々寂しかったので、作り置きのひじき煮を冷蔵庫から取り出して追加した。
調理に使ったまな板や包丁を水に浸け、八剣は火元を確認し、一旦キッチンを離れる。
最早癖になってしまったこのタイミングで、京一を呼びに行くのだ。
寝室のドアを開けると、ブラインドの隙間から滑り込んだ陽光に照らされる部屋の中、ベッドの上で京一が起き上がって目を擦っていた。
寝起きの子猫が顔を洗うような仕草に、八剣は和やかさを感じて笑みを漏らす。
「京ちゃん、ご飯だよ」
「……んぅ……」
ぼんやりとした反応が返る。
もう少ししたら着替え始めるだろうと踏んで、八剣はまたリビングに戻った。
この合間に、いつものように、八剣は大学で使用する教材の確認をする。
使用するテキストや、昨日の晩に済ませた課題を鞄に入れ忘れていないか、間違えていないか。
一頻り確認を終えた所で、丁度良く寝室と続くドアが開けられる。
「……京ちゃん?」
出てきた子供の名を呼んだのは、思わずの事であった。
京一は、食事の前にはきちんと着替えて寝室を出てくる。
だと言うのに、今日に限って京一はパジャマ代わりのシャツと短パンの格好のままだった。
癖っ毛の髪を跳ねさせて、右手にパンダのぬいぐるみを持ったまま、ぼんやりとした目を擦る。
ぺたぺたと此方へ近付いて来る足元が何処か覚束無い印象で、八剣の方から歩み寄る。
小さい体を抱き上げてみると、珍しく京一は八剣に抱き付いて来た。
その頬が、ほんのりと紅い。
「どうしたの? 調子が悪い?」
「……うー……」
八剣の問いに、京一はふるふると首を横に振る。
……とてもそんな風には見えない。
京一は意地っ張りだ。
それは、周りに迷惑をかけまいとしての行動だったり、生来の天邪鬼の所為だったりする。
後者ならば宥めれば良いのだが、前者だと一歩間違うと大変な事になってしまう。
なまじ周囲への観察眼が秀でているばっかりに、自分の不調や本心を隠してしまい、無茶をしてしまうからだ。
今回はどう考えても前者に当て嵌まると、誰が見ても取れる。
紅潮し、額にじんわりと汗を滲ませる京一の身体は、子供故の体温の高さを差し引いても、明らかな熱を持っていた。
八剣は、京一の額と、自身の額とを合わせてみた。
京一は大人しくそれを受けている。
―――――やはり熱がある。
「風邪かな。ご飯は食べれる?」
「……んー……」
「ふむ………」
京一の返事には意味がなく、亡羊と熱に浮かされているだけのようだ。
これでは食事は無理だろう。
見た所、咳やくしゃみと言う風邪ならばありがちの症状は見られない。
喉が痛んでガラガラ声になっている訳でもなさそうだし、あるのは発熱だけ。
ぼんやりしているのは寝起きだからか、少なくとも自分で歩き回る程度の元気はあるらしい。
子供の急な発熱と言うのは珍しい事ではない。
疲れが溜まった所為で一日だけ熱を出す事もあり、その場合はゆっくり休ませて眠らせるのが一番の手だ。
他にも、発熱の症状は見られるものの、本人は至って元気だったりする場合もある。
今の京一はどうかと考えると、少々微妙な所だった。
京一を抱いたまま、八剣は食卓の並んだテーブルへと移動した。
椅子に座ると、京一を膝に下ろしてやる。
コップに冷えた茶を注いで京一に見せると、京一はのろのろと手を伸ばして、コップを受け取った。
食欲はなさそうでも、喉は渇いていたらしく、コップの中身は直ぐに空になった。
次に漬物を差し出してみるが、此方は案の定、手で押しやられてしまった。
「熱、測ろうか」
言って、八剣は棚の中にある体温計を取り出そうと、一度京一を膝から下ろした。
椅子に下ろされた京一は、起きているのが辛いのか、その椅子の上でころりと丸くなって転がってしまう。
取り出した体温計を手に、八剣は京一の腕を少し持ち上げる。
シャツの襟元から体温計を入れて、脇に挟ませた。
「京ちゃん、喉が痛いとかはない?」
「……ん……」
「頭は平気?」
「……ん……」
意地っ張りな子なので、返事一つを安易に受け取ることは出来ない。
じっと様子を見守りながら問い掛けて、八剣は京一の仕草を見逃さないように勤めた。
問い掛けに否定で答えた京一であったが、嘘はないらしい。
ぐずる様子もないし、くしゃみや咳を意図的に我慢している訳でもない。
電子音が鳴って体温計を取り出すと、其処には“38.2”の数字。
「岩山先生に診せた方が良いかな?」
体温計を見下ろして呟く。
ぴく、と京一の身体が揺れた。
のそのそ、京一が起き上がる。
「ぜってーヤだ…いらない……」
「そう?」
「いらない……」
テーブルに頭を乗せて嫌がる京一。
八剣は、行った方が良いと思うけどねェ、と思いつつ、それは口に出さなかった。
京一は真神保育園の保健室を預かる、岩山たか子と言う人物が大の苦手だ。
それは彼女が医者だからとか、予防接種の時に彼女が注射をするからと言うのではなく、単純に岩山たか子と言う人物が苦手なのだ。
理由は、恰幅が良いと言うには足りない、迫力のある彼女の容姿と、他の大人達のように京一が威嚇しても対して応えた様子を見せないから――――と言った所だろうか。
他にも―――八剣は詳しくは知らないが―――岩山はどうやら、京一の父と昔からの知り合いであるらしく。
その父も岩山には中々頭が上がらない所があるようで、そう言った影響も尾を引いているのだろう。
京一は、岩山に対してすっかり苦手意識を植え付けられていたのだ。
しかし、中々大人に対して心を開かない京一にしては珍しく、彼女には少なからず気を赦しているようだった。
他の病院にはもっと行きたがらないし、岩山が相手なら診察中も大人しい(単に怯えているだけかも知れないが)。
それは京一が真神保育園に入る以前からの事だ。
―――――ともかく。
行かないよりは行ったほうが良いとは思うが、子供の急な発熱は珍しい事ではないのだ。
風邪かどうかはまだ判らないし、熱以外の症状もない事だし、今日一日は様子を見て、明日も長引くようなら連れて行こう。
そう決めて、八剣は京一を抱き上げて、赤子をあやすように背中を撫でてやった。
「――――ああ、そうだ。京ちゃん、リンゴ食べる?」
「……あ?」
「昨日、果物屋さんで買い物した時におまけで貰ってね」
「……いい……」
「そう?」
ふるふると首を横に振った京一は、今度はどうも遠慮しているようだった。
リンゴを剥いて切り分ける程度の一手間位、八剣には大した事ではないのだけれど。
本心で要らないと言うのならともかく、遠慮で要らないと言われてしまっては、困る。
いつから熱を出していたのか―――ひょっとしたら夜半の内から熱を出して、ずっと我慢していたのかも知れない。
八剣が気付かぬ間から発熱で汗を掻いていたのなら、このまま放っておいたら脱水症状の危険もある。
こう言う時は麦茶や湯冷まし、イオン水が良いのだが、やはり子供なので多少の甘味はあった方が飲んでくれ易い。
そうなるとリンゴ果汁が一番無難ではあるのだが。
恐らく、要らないという言葉を聞かなかったことにして差し出せば、食べてくれるだろうとは思う。
だが意地になって、欲しいものも要らないと言い出す可能性もあった。
「じゃあ、リンゴジュース飲もうか。俺もちょっと喉が渇いてね」
そのついでに、と誘ってみれば、京一は眉毛をハの時にして、
「……じゃあのむ」
―――――と小さな声で呟いた。
やっぱり欲しいものは欲しいのだ。
天邪鬼とは、本人にとっても大変な癖である。
京一をリビングのソファに運ぶと、座布団を枕に寝かせる。
京一はパンダを抱き締めて、大人しく丸くなった。
京一の分であった朝食にラップを被せて冷蔵庫に仕舞うと、代わりにリンゴを一つ取り出す。
水に浸けていたまな板と包丁を取って拭き、リンゴを八つ切りに切る。
芯の部分を取ってから、キッチンに置いていたジューサーに入れてスイッチを押した。
搾り出されたジュースと氷をコップに入れて、リビングへ持って行く。
京一はソファの上でさっきと同じ格好のままだった。
「起きれる?」
「……ん」
「はい、京ちゃんの分」
「…ん……」
起き上がった京一は、差し出したコップを受け取って、ちびちびと飲み始めた。
よく冷えたリンゴジュースは、熱の篭った喉には心地良かったらしく、京一の頬の赤みも少しだが薄れたようだった。
そうすると、発熱でぼんやりとしていた京一の意識も、幾らかクリアになったようで。
「……やつるぎ、」
「うん?」
「……おめェ、ガッコは……?」
気分と熱が落ち着いたら、八剣もいつもにしては随分と落ち着いてしまっている事に気付いたらしい。
気遣ってくれた事は八剣にとっては嬉しいが、それによってまたこの子の遠慮が始まってしまったとも言える。
眉をハの字にして伺うように此方を見る京一に、八剣は柔らかく微笑み、
「今日は良いんだ。休校なんだよ」
「………」
「創立記念日…学校が出来た日らしくてね」
いぶかしむように半目になる京一に、八剣は後押しするように言う。
それでも京一は胡乱な瞳をしていたが、これ以上何か言った所で、八剣が促されるとも思えなかったのだろう。
半分になったリンゴジュースを飲みながら、まぁいいけどよ、と呟いた。
リンゴジュースのグラスが空になると、京一はソファの上でぼんやりし始めた。
八剣のグラスはまだ残っていたが、構わず、空のグラスと一緒にキッチンに持って行く。
残りのジュースは冷蔵庫に入れ、空のグラスは流し台の水に浸して置いた。
リビングに戻ると、京一は子猫のように目を擦っていた。
そんな京一の隣に座り、膝上に乗せてやると、珍しく体重を預けて来る。
「寝ても良いよ」
「………」
ふるふる。
京一は頭を横に振る。
「…おめェもガッコいけよ」
「だから、休校だから良いんだよ」
「…うそつけ」
「本当だよ」
繰り返す京一は、自分の所為で八剣が学校に行かないのではないかと疑っているようだ。
実際、それは当たっていて、既に八剣は今日は休もうと思っていて、その為の嘘だ。
幼い預かり子の体調不良だと言うのに、大学など行ってはいられない。
幸い、昨晩片付けた課題の提出期限はまだ先である事だし、テストが近い訳でもなく、単位も十分。
八剣自身は学校を休む事に特に抵抗はないのである。
しかし、八剣自身に休む理由はないのに、自分が調子を崩した為に、その世話で休学する――――京一にとってはそれが嫌なのだろう。
自分の所為で他人に迷惑をかけている事になるから。
八剣はそんな風には思っていないのに。
八剣に寄り掛かったままの京一は、だるさからだろう、眠そうに何度も目を擦っている。
身体が休息を欲しているのは明らかだ。
しかし、このままリビングにいると、京一はいつまでも意地を張っているだろう。
早めにベッドに戻さないと、ずっとこうして過ごすかも知れない。
そんな事になっては、益々治りが遅くなる。
京一を抱いてソファを立つと、京一はぼんやりとした瞳で八剣を見上げた。
「やつるぎ……?」
「ソファは寝辛いだろう。ベッドに戻ろうか」
「……いい」
ふるふる、首を横に振る京一。
けれども八剣の腕を振り払って床に下りる気もないようだ。
むずがるような声が聞こえたけれど、八剣は気付かなかった振りをして、寝室へのドアを開ける。
ブラインドを閉めたままの部屋の中は、そのブラインドの隙間しか光が滑り込む場所がなく、薄暗い。
そんな部屋の中で京一をベッドに下ろすと、子供はころりと布団の上に転がった。
それを横目に窓を少しだけ開ければ、涼しい澄んだ風が吹き込む。
子供を休ませるにはこの程度で丁度良いだろう。
京一はしばらくベッドの上でころころとしていたのだが、数分すると起き上がる。
また猫のように目元を擦り、ベッドシーツを手繰り寄せて、ダマになったそれを抱き締める。
その仕草を見てから、八剣は、京一お気に入りのぬいぐるみがない事に気付いた。
「パンダさん持って来るから、其処にいてね」
「……いい」
「直ぐ戻るよ」
八剣の言葉に、京一は明らかな遠慮を示したが、八剣は気にしなかった。
体調不良の時は心細くなるものだから、何か手元に安心できる物が欲しくなる、それはごく自然なことだ。
それをこんな時にまで我慢しようとなんてしなくて良い。
お気に入りのぬいぐるみは、予想通り、ソファの足元に落ちていた。
拾って、言葉通り直ぐに寝室に戻る。
京一はベッドヘッドに寄り掛かって、ベッドシーツを抱えたままで蹲っている。
とろとろと眠りかけているのを見て、八剣はあまり刺激しないようにと足音を殺して歩み寄る。
目を擦る京一の視界にパンダを見せると、小さな手がシーツを手放し、其方へと伸びた。
寝室には、ベッド以外に本棚と簡素なデスクと椅子がある。
京一が寝入ってからも、様子を見ながら課題が出来るようにと言う配慮からだ。
パンダを抱き締めた京一に笑みを漏らし、八剣は椅子に腰掛け、デスクに置いていた本を手に取った。
三日前に買ったばかりの文学本は、まだ半分も読み終わっていない。
そのまま、其処に落ち着いて本を開いた八剣に、京一が気付く。
「……やつるぎ…?」
「何かな」
「……なんでもねェ」
「そう」
保護者の男の名を呼んだ子供が、何を言おうとしたのか。
八剣には判らないけれど、今は深く気にしない事にする。
ただ、時折此方を見る度、京一の瞳に微かに安堵の色が灯る事には気付いていた。
寝室に寝かされてから、京一と八剣の間に、これと言った出来事はなかった。
京一はベッドの上でうとうと、ころころとしていて、八剣はその傍で本を読んでいる。
部屋の電気を点けずに本を読む事に、京一が何度か渋い顔をした。
ブラインドを閉めた窓から滑り込んでくる僅かな光は、子供を休ませるには丁度良いが、読書には明らかに向かない。
京一はそれに気付いており、また気を遣わせているのだと思っているようだった。
確かに京一を慮っての事ではあったが、八剣にとって、それは“気遣い”とは言わない。
ごくごく自然な事であり、京一がわざわざ気負うような事でもないのだ。
ころりころりと身動ぎしていた京一が眠ったのは、一時間も経ってからの事だ。
転がったり起き上がったり、用はないけれど八剣に話しかけたりとしている内に、それ程の時間が経った。
恐らく、眠らないようにと頑張っていたのだろう。
本を置いてデスクを離れ、ベッドに歩み寄る。
眠る京一の顔を覗き込んでみると、夢を見ているのか、むにゃむにゃと寝言を呟いている。
京一の頭を撫でて、八剣は一時間ぶりに京一の傍を離れ、リビングへと出た。
リビングに置いたままだった携帯電話を取ると、リダイヤルで“真神保育園”を選ぶ。
数回のコールの後、聞き慣れた女性の声が聞こえて来た。
チーフ保育士のマリア・アルカードだ。
『はい、真神保育園です』
「どうも。お世話になっています、蓬莱寺京一の保護者の八剣です」
名乗れば、あら、こんにちは、と挨拶。
「京ちゃんが熱を出してしまってね。今日の保育は休ませて頂こうかと」
『あら、そうなんですか。判りました。最近は涼しくなって来ましたから、冷やさないようにお気をつけて」
「ええ。それでは、失礼します」
通話を切ると、今度は“岩山先生”へ。
先程と同じく、数回のコールの後、通話に繋がる。
『もしもし』
「どうも。八剣です」
『ああ、京一の』
先程、京一は病院には行きたくない、行かなくて良いと言った。
しかし、状態だけでも伝えて、簡単な診断はして貰った方が良いだろう。
『京一に何かあったのかい?』
「何か、と言うほどでもないとは思うんだけど。今朝から熱が出てね」
『熱だけかい? くしゃみや咳は?』
「我慢してる様子もないから、恐らく熱だけ。今日一日は様子を見るけど」
測った熱と、今朝からの様子と、今現在は寝ている事。
伝え終わると、岩山は知恵熱かもねェと言った。
『昨日は何か考え込んでいるようだったからね。何を悩んでいたのか、あたしは知らないけど……大した事じゃないだろうさ。それ以外は遊び回っていたし』
考え込んでいる――――と聞いて、八剣が最初に思ったのは、京一の父親の事だ。
京一は幼いながらに自分の状況を判っているから、時折、その事を思い悩んでいる時がある。
また、それを周りに感じさせないように振舞ってみせる時も。
八剣が京一を預かるようになって三ヶ月が経ち、少しずつ心を開いてくれてはいるけれど、やはり京一が求めているのは“家族の肖像”なのだろう。
そして八剣の存在は京一にとってあくまで“借宿”の範疇を越えてはいないのだ。
京一が一番求めているものを与えることが出来ないのも、京一が未だにそれを表に出さないようにしているのも。
甘えて良いのに、甘えると他人に迷惑をかけると、幼さに不似合いな自制が働いている事も。
仕方がない事ではあるけれど、やはり、八剣は歯痒かった。
小さな子供の肩に、そんな重荷を乗せてしまった事に八剣自身は関係はないけれど――――
保育園の子供達と遊ぶようになって来たのは、良い傾向だ。
少し前まではケンカばかりが絶えなかったと言うし、保育士の言う事もまるで聞かなかった。
それが近頃は、ケンカもあるけれど、大人数のゲーム遊びに参加するようになった。
ゆっくりではあるけれど、京一は子供らしさを取り戻しつつある。
八剣は少し嬉しかった。
『多分、大事にはならないよ。ひきつけが起きたり、明日になっても様子が変わらないようなら、連れて来な』
「ああ。その時は宜しく」
最後に「お大事に」と医者らしい言葉を投げかけて、通信は切れた。
八剣も電源ボタンを押し、携帯の液晶が待ち受け画面に戻ったのを確認して、それをポケットに入れた。
――――かちゃり、とドアの開いた音がしたのはその時だ。
「京ちゃん」
見ると、京一が寝室からひょっこりと出て来た所だった。
よく眠っていたから、まだしばらくは起きないだろうと思っていたのに。
「どうしたの? 喉が渇いた?」
「……うー……」
キッチンに行って乾いたグラスを取って、冷蔵庫に入れていたペットボトルの水を注ぐ。
それを片手にリビングに戻ると、京一はきょろきょろと辺りを見渡していた。
「ほら、お水」
目の前にしゃがんでグラスを差し出す。
小さな手が伸ばされた。
――――が、その手はグラスではなく、八剣の服を握る。
「京ちゃん?」
「…………」
呼びかけてみるが、返事はない。
京一は唇を尖らせて、八剣の服端をぎゅうと強く掴んでいた。
さっきまでお気に入りのパンダを抱いていたのだろう、小さな手。
振り払う訳にも行かず、どうしたものかと八剣が悩んでいると、今度は逆の手が八剣の顔に伸ばされた。
掴まれたのは髪の毛で、少し強く引っ張られる。
正面から見た子供の表情は、拗ねたように唇を尖らせていて、瞳の光はゆらゆらと揺れていた。
その目がどんな時に見せられるものか、八剣は確りと覚えている。
「ああ、ごめんね」
片腕で京一を抱き上げると、髪を掴んでいた手が離れ、代わりに首に廻される。
まるで離れないようにしがみついているようだ。
――――――寂しかったのだ。
ふと目を覚ました時、傍にいる筈の存在の姿が見えなかったのが。
しがみ付いてくる京一の天邪鬼は、今ばかりは形を潜めている。
一人でも平気だと片意地を張る気力もなく、寂しさを寂しさとして純粋に捉え、不安になっているようだ。
父が来ないのは判っている、母や姉が此処にいないのも判っている。
それでも八剣は、学校にも行かず、傍にいてくれる筈だと思っていて。
なのに一度眠って目覚めてみたら、さっきまでいた筈の場所にいないから、こうして探しに出て来たのだ。
そうして、ようやく見つけた保護者の姿に安堵して――――同時に、また不安になったのだろう。
傍にいてくれる筈なのに、一時とは言え、傍にいてくれなかったから。
しがみ付いてくる小さな手が必死になっているように思えるのは、気の所為ではない。
グラスをテーブルに置いて、京一を抱いて寝室へ。
ベッドへと京一を下ろし、一度身を離そうとすると、それに気付いた小さな手がより強く八剣の服を握った。
不安そうに見上げてくる京一の額に、触れるだけの柔らかなキスを落とす。
「大丈夫。俺は此処にいるから」
「………」
「本当だよ」
信じたいけど、信じれない。
服を握る手がそんな思いを如実に表す。
「何処にも行かない。京ちゃんと一緒にいるよ」
「………」
京一の隣に横になって囁くと、京一は珍しく、自分の方から八剣へと擦り寄った。
服の胸元を掴んだまま、頭を寄せて丸くなる。
そんな京一の背中を抱いて、宥めるように何度か摩ってやると、ようやく安心したような吐息が漏れる。
「京ちゃん、何か食べたいものはあるかな?」
「……う…?」
「調子が戻ったら、回復祝いでもしようかと思ってね」
「……おーげさ……」
「そう? まぁ、なんでもいいんだよ。好きなもの作ってあげるからね」
明るい色の髪を撫でて、とろりと再び寝入り始めた瞳を見つめながら話す。
頬に手を当ててみれば、今朝よりは熱は引いたようだった。
触れる大人の手が冷たくて気持ち良いのか、京一は猫のようにすりすりと頬を寄せる。
「ラーメンはちょっと重いかな?」
「………」
「パンプティング作ろうか。好きだろう」
「……なんでもい……」
「じゃあ決まりだね。ラーメンは明日にしようか」
「………」
こくり、胸に寄せられた京一の頭が縦に揺れる。
背中を摩り続けると、京一はまた寝入り始めたようだった。
声をかけてもあまり返事がないし、してもぼんやりとしたものが続く。
しがみ付いていた手からも少しずつ力が抜けて行っていた。
けれども、寝落ちるかと思えば、そうではない。
ぎゅうと八剣の服を握り直して、胸に鼻頭を埋め、うぅとむずがるような声を漏らすばかりだ。
普段どんなに意地を張っても、平気な振りをしていても、小さな子供の心は、人が思う以上に傷だらけなのだ。
それだけの思いをしたのだから、泣いても良い筈なのに、京一は泣かない。
泣けば周りを困らせてしまうし、ワガママを言ってもそれは同じだと思うから、いつもへの字に口を噤む。
大人が思う以上に、京一は周囲に対して聡い。
まだ気付かなくて良い事を気にしてしまう位に。
だから泣かないし、ワガママもごくごく小さな事しか言わないし、天邪鬼ばかりが顔を出す。
大人が自分に関わる時間を減らそうとして。
小さな子供が精一杯の背伸びをしている様が、八剣はなんだか酷く痛々しく見えた。
ワガママを言わない、言えない京一。
甘えない、甘えられない京一。
自分の事は、全部自分で済ませてしまおうとする京一。
他の同じ年頃の子供達を見れば、ワガママを言って泣いたり、抱っこして欲しいと親に強請ってまとわりついたり。
周りの事なんてまだまだ二の次で、自分の欲求に真っ直ぐなのに―――――この子だけは、それが出来ない。
だから――――ほんの数分、傍を離れてしまった事が、こんなにも傷付ける結果になってしまう。
無条件に愛をくれる人がいると思えない。
ただ只管に守ってくれる人がいると思えない。
信じた人が裏切る事なんてないと、信じる事が出来ない。
そんな子供にとっては、たった一時の裏切りであったとしても、心に深い傷になる。
優しい嘘は残酷な優しさと同じで、嘘だと知った瞬間、何よりも酷い裏切りになる。
京一はそれを繰り返し繰り返し感じて、誰にも心を開けなくなってしまった。
……それでも、愛されたいと思う気持ちまで誤魔化せる訳ではなく。
「大丈夫だよ、京ちゃん。俺はずっと此処にいるから」
抱き締めて囁いた言葉に。
うん、と小さな返事が聞こえた気がした。
繋いだ頼りない糸が、ふとした瞬間に零れ落ちてしまわないように縋る、小さな手。
震えるその手が、いつか、もっと真っ直ぐに、愛して欲しい人へと伸ばされるように。
いつもより少しだけ熱い体を抱き締めて、眠りについた。
----------------------------------------
京ちゃん体調不良。
意地っ張りと寂しがりの間で行ったり来たり。
この日の八剣は本当に京一に付きっ切りになると思います。
京一もこの日だけは、八剣にいつもよりもちょっとだけ甘えてる。
それは、嵐の如く現れた。
「ヘーイ! お久しぶりネー、My little friends!!」
前触れもなく――――いや、あるにはあった。
ドタバタと騒がしい足音と、それを追い駆ける遠野先生の声があったのだ。
だが子供達が皆集まる遊戯室は、そんな音など聞こえないほどに賑やかだったのだ。
とにかく、そんな(子供達は気付かなかった)騒がしさの後、その台風は遊戯室へと上陸した。
これでもかと言うほどに明るい声と共に、力一杯ドアを開けて。
外の騒がしさが解らないほどに賑やかだった遊戯室は、皆揃って、大きなボードゲームで遊んでいた所だった。
それを中断させて、一体何がやって来たのかと、子供達は振り返り。
「Why? 元気がないデスねー、どうしましたカー?」
「……アラン、皆驚いているわ……」
耳に手を当てて子供達の反応を待つ、片言の男。
その傍らからひょいっと顔を出したのは、コギャル風の少女だった。
またその後ろから、疲れた表情の遠野先生が見える。
龍麻は、この二人に見覚えがない。
きょとんとして首を傾げ、自分の隣に座っている京一に聞こうと、目を向けた。
そうすると、苦いものを食べた後のような顔をしている京一がいた。
「皆サン、Hello!! さ、ご一緒に!」
「「「「…………」」」」
「O~h……」
男は両手を上げて子供達に反応を促すが、子供達は皆ぽかんとしている。
すると男は酷く残念そうに目元に手を当て、大袈裟に溜息を吐いて見せた。
一番最初に我に返ったのは、子供達と同様に呆然としていたマリア先生だった。
マリア先生は眉毛をハの字にして、乱入者に少々引き攣った笑みを浮かべる。
「あ、アランさん……また突然ですね」
「Oh、ミス・マリア! 今日もオキレイね~。ミーもアナタのようなティーチャーが欲しいデース!」
「それはどうも。あの…今日、此方へ来られるとは、私は聞いていなかったのですが」
マリア先生の手を握りながら、男の口はよく動く。
マリア先生はその内容をさらりと交わして、何故此処にいるのかと問うた。
彼女の質問に答えたのは、男ではなく、彼の傍らで物静かに佇んでいる少女だった。
「商店街の方から、新しい子が入ったと聞いて…アランが、その子に逢いたいって」
「ミーの新しいおトモダチになる子だヨ。ちゃんと覚えておかないとネ~。勿論、セラもトモダチになるよ!」
言いながら、さてどの子だろう、と男は遊戯室を見回す。
子供達のボードゲームは、止まったままになっていた。
そのボードゲームで遊んでいたのは、龍麻、京一、葵、小蒔、醍醐、雨紋、亮一、雪乃、雛乃。
如月と壬生は遊戯室の隅で本を読んでおり、マリィは龍麻の背中に何をするでもなく、くっついている。
男の視線は一度ぐるりと教室内を見回した後、直ぐに龍麻へとロックオンされる。
「Youは初めて見る顔デスね。Youもミーの事知りませんか?」
「……うん」
「Bingo!」
親指を立てて自分の勘が当たったことを自賛する男。
龍麻はそのテンションに付いて行けず、問いに頷きはしたものの、表情はまだきょとんとしていた。
そのテンションに水を差すように、龍麻の隣からボソリと小さな声が漏れる。
「おめェが知らねェんだから、たつまが知るワケねーだろ……」
普通に考えたら聞かなくても判るだろ、と。
呟いたのは、京一である。
この小さな呟きは、隣に座っている龍麻には聞こえており、そしてこの乱入者にも聞こえたようだ。
男の人は視線を京一に移すと、おぉ、とまた大袈裟な程に驚きの声をあげ、嬉しそうな顔をする。
そしてあろう事か、京一を力一杯抱き締めたのである。
「Oh、キョーイチ久しぶりネ~! イイ子してたかな~?」
「だああああッ! うぜえーッ!!」
抱き締めた上に頬擦りする男の人に、京一はじたばた暴れて逃げようとする。
しかし子供の小さな体はあっさりと持ち上げられ、男は確りと京一を胸に抱き寄せてしまった。
「おろせ、はなせッ! かおくっつけんなー!」
「相変わらずのシャイボーイね~」
京一は男の髪を引っ張ったり、頬を抓ったり、とにかくありとあらゆる方法で暴れた。
普通の相手だったら、例えそれが大人でも、流石に手を離すだろうと思う程。
だが、この男は決して京一を離そうとしなかった。
何故だか知らないが、この大袈裟な男の人が京一を随分と気に入っている事は、龍麻にも理解できた。
同時に、京一がこの大袈裟な男の人を好いていない事も。
京一はあまり抱き締められたりと言う行為をされる事が好きではないようだが、こんなにも暴れて嫌がる事は少ない。
龍麻が初めて京一と逢った時、京一はアン子先生に抱っこされて暴れていたけれど、あれも本気ではなかった。
その後はちゃんと大人しく収まって、お風呂まで連れていかれていたし。
好きではないけど、嫌いではない、そんな感じ。
しかしこの男の人に抱き締められて頬を摺り寄せられている今は、全力で嫌がっているのが龍麻にも判る。
相手が嫌がっている事は、やっちゃいけない。
龍麻は父と母にそう教わったし、同じ事をこの保育園でもマリア先生は言う。
嫌なことをされている人を見たら、そのままにしておくのも良くない。
龍麻は慣れない男の人に少し緊張しながら、それでも京一の為に頑張った。
「あの」
「ンン?」
「きょういち、いやがってるから、やめてあげてください」
龍麻は男の人の服裾を引っ張って、精一杯に訴えた。
男の人はぱちりと瞬きして、龍麻を見下ろす。
そのまま男の人は停止していて、その間に、京一は男の人から解放された。
男の人と一緒に来ていた、少女の手によって。
「セラぁ~……」
「…本当に嫌がっているから」
京一を少女に奪われて、男の人は情けない声を漏らす。
が、少女は屹然とした態度で男の人を見て呟き、京一を床に降ろしてやった。
足が地面に着いた途端、京一はぱっと走り出して、遊戯室を出て行ってしまう。
逃げたのは誰の目にも明らかであった。
―――――その頃には、遊戯室は元の賑やかさを取り戻しており、現状に置いてけぼりになっているのは龍麻だけとなっていた。
龍麻は遊戯室を出て行ってしまった京一を追い駆けようとしたが、出来なかった。
男の人が、今度は龍麻を抱き上げたからだ。
結局、京一は、遊戯室のドア横で様子を見守っていた遠野先生が追い駆けていった。
急に目線が高くなって、見上げていた男の人の顔が同じ目の高さにあった。
男の人は龍麻の両脇に手を差し入れて、軽々と持ち上げている。
お陰で龍麻の足元は宙ぶらりんだ。
男の人はにこにこと、さっき京一を取り上げられた時の情けない顔は何処へやら、もう笑っている。
その隣では少女が変わらぬ表情で立っていたが、こちらは小蒔に促されてボードゲームの前に座った。
「はい、せらさんのカード」
「……ありがとう」
小蒔が渡したボードゲームに使用するカードを、少女は受け取った。
その表情は、此処に来た時からずっと変わらないのだが、決して冷たい印象はない。
「きょーいち、どっかいっちゃったよ」
「しょーがねーよ、アランがいるし」
「しばらくもどってこないな」
「マリィちゃんもゲームする?」
「うー」
「ひな、そっちのそれとって」
「はい、ねえさま」
止まっていたボードゲームは、リセットして最初からやり直しになった。
いつの間にか龍麻も不参加が決まっていて、龍麻の分のカードも片付けられる。
葵、小蒔、醍醐、雨紋、亮一、雪乃、雛乃のメンバーに、京一と龍麻に代わって少女とマリィが参加した。
部屋の隅にいた壬生と如月は、何事もなかったように本を読むのを再開させた。
男の人は龍麻を抱えたまま、ボードゲームで遊ぶ子供達の横に座った。
龍麻もようやく足に地面が着く高さになる。
男の人はじーっと龍麻を見詰めて来た。
龍麻は人に注目される事が苦手だから、なんだか酷く居心地が悪くて、目線を逸らしてしまう。
男の人は怒ることはなかったから、龍麻は男の人の気が済むまで、そのまま固まっていた。
マリア先生が怒ったりしないから、この男の人は多分怖い人ではないのだろうけれど、それでも龍麻は緊張する。
京一が隣にいてくれたら、もう少し平気だったのだろうけど――――残念ながら、彼はまだ帰って来なかった。
男の人はしばらく龍麻を見詰めてから、にーっと笑い、
「My name is アラン蔵人。ヨロシク~」
「ひゆぅたつまです」
「Good、Good。タツマはエライ子ねー」
ぐりぐり、頭を撫でられる。
少し荒っぽい、と言うよりは雑っぽい手付きに、龍麻の頭はぐいぐい揺れた。
アラン蔵人と言う名のこの男の人は、龍麻が知っている大人の中で、一番テンションが高い。
言葉が英語交じりなのはマリア先生で慣れているけれど、このテンションには龍麻は不慣れだ。
にこにこ笑顔はとても明るくて、見ていてこっちも楽しくなるのだけれど、この笑顔であれこれと身振り手振り話をされても、龍麻はどう反応して良いか判らない。
京一が此処にいないのも、この人が来てからいなくなってしまったのも気になる。
……多分、良い人なんだろうけど。
アランは良い子良い子と、しばらく龍麻の頭を撫で続けた。
丁寧ではないその手付きのお陰で、今朝母が梳いてくれた髪があちこち跳ねてしまう。
別に怒るような事ではないけど、ちょっとどうしよう、と思ってしまった。
龍麻の心中に気付かず、アランはにこにこ笑いながら、ボードゲームに参加している少女を指差す。
「彼女はセラ。セラ・リクドウ。セラ~」
間延びした声で名前を呼ぶアランに、少女はゆっくり振り向いて龍麻を見、
「…六道世羅。宜しく」
「ひゆぅたつまです」
小さく頭を下げた世羅に、龍麻もぺこりと頭を下げて挨拶する。
頭を上げると、彼女は小さく、本当に小さく、笑みを浮かべて頷いた。
世羅はとても静かだった。
アランとはまるで正反対に。
隣で小蒔や雨紋が賑やかにしていても、世羅はあまり喋らない。
話しかけられても小さく頷いたりする程度で、言葉で応える事はあまりなかった。
小蒔達は彼女のそんな反応にも慣れているのだろう、返って来る反応が小さくても怒らない。
どうして二人が一緒に此処に来たのか、不思議になる位、彼女はアランと真逆だった。
小さな笑みを浮かべた世羅に、アランは嬉しそうに笑う。
「セラは笑うとベリーキュートね~。オット! いつものセラもカワイイよ~。でも、女の子はスマイルが一番イイね」
ね? とアランは龍麻にウィンクしてみせる。
龍麻は一瞬返事に困ったが、笑った世羅が可愛かったのは確かで、この保育園にいる女の子達も可愛いと思う。
葵は柔らかく笑って、小蒔は元気に笑って、雪乃は男の子みたいに大きく口を開けて笑って、雛乃はちょっと首を傾げて笑う。
皆それぞれ違う笑い方で、皆それぞれ可愛かったから、アランの言葉に龍麻はこくりと頷いた。
頷いた龍麻に、アランは満足そうにうんうんと大きく何度も首を縦に振った。
その仕草がやけに大袈裟だ。
「女の子だけじゃない。笑えば皆シアワセ、Happy! 笑うカドにはCome come happyだヨ」
ふぅん。
アランの言葉は半分意味が判らなかったが、龍麻は覚えておこうと思った。
多分、良い言葉なんだろうなと思ったから。
けれど、そんな言葉を教えてくれたアランは、一転して天井を仰ぐ。
龍麻と同じ目線の高さになっていたアランだったが、そうなると龍麻から彼の顔を見る事は出来ない。
アランは天井を見詰めたまま、寂しそうな声で呟いた。
「……だから、ミーは皆の笑顔が見たいんだ。タツマの笑顔も、キョーイチの笑顔もね」
連なった名前に、龍麻の頭が揺れた。
知ってるんだ。
龍麻は思った。
彼は、京一がいつも一人でいた事を知っている。
だから、あんなにも京一が嫌がっても抱き締めて離さず、頬を摺り寄せていたのだ。
いつも眉毛を寄せて怖い顔をしている京一の、笑った顔が見たいから。
龍麻は京一が笑ったのを見た事がある。
あるけれど、それは仕方がないなと言うみたいに、少し困ったように笑ったもの。
葵や小蒔、雨紋のような笑顔じゃなく、皆のように楽しくて笑うものじゃない。
怖い顔はすぐに見せる。
小蒔や如月とケンカをする時、マリィが京一にちょっかいを出した時、直ぐにそれは出て来る。
それ以外は拗ねたみたいに口を尖らせていたりするのが殆どだ。
笑った顔は、あまり直ぐには出て来ないらしいと、龍麻は知った。
しばらく変な顔をした後で、ようやく、困った笑顔が出てくるのが、京一の笑顔の精一杯だった。
……アランはそれが寂しかった。
「ミーが笑えばミーはHappy、ミーのフレンズも皆Happyになる。Happyは広がるよ。だから皆笑えば、世界もHappy!」
「うん」
殊更明るい声で言ったアランに、龍麻は頷いた。
龍麻は、母と父の優しい笑顔が好きだ。
二人が笑うと、ああ嬉しいんだなと思って、龍麻も嬉しくなる。
嬉しさと言うのは人に伝わって、広がって行くものなのだ。
龍麻はイイ子ネ、とまたアランがぐいぐい龍麻の頭を撫でる。
大人しくそれを受けているからだろうか、アランは嬉しそうに笑った。
「タツマはHappy?」
「うん」
「ならスマイル! Don't forget、忘れちゃ駄目デスヨ~」
「うん」
アランは自分の頬を引っ張って、笑顔になる。
もともと笑顔だったのが、ちょっと可笑しな笑顔になって、龍麻はそれが可笑しくてクスクス笑った。
龍麻がボードゲームにもう一度参加したのを期に、アランもゲームに参加した。
一々大きなリアクションをしてくれるので、子供達はゲームよりそっちの方が面白くて仕方がない。
部屋の隅にいる壬生と如月は、アランを殆ど見ようとしなかった。
時々アランが一緒にやろうと声をかけるが、如月は丁寧に、壬生は無言で断った。
アランは残念がったが、世羅に「本を読んでいるのだから邪魔は駄目」と言われ、項垂れる。
これで二人のバランスは取れているのだと、龍麻は知った。
その間に―――――京一が戻ってくる気配はなく。
京一を追い駆けて行った筈の遠野先生は、一度戻ってきてマリア先生と話をした後、遊戯室を出て行った。
多分、京一の所へ戻ったのだろう。
雨紋が言っていた通り、アランが此処にいると、京一はいつも遊戯室からいなくなるらしい。
アランが何かと構いつけてくるのが嫌で逃げているのだろう。
一緒にいると楽しいのに、と龍麻は思ったが、反面、京一の気持ちが判らないでもない。
アランのテンションの高さについて行けないからだ。
だが子供のそんな心中を知ってか知らずか、アランは終始ハイテンションで子供達と遊び倒した。
昼を過ぎ、おやつがそろそろ用意される頃になって、アランと世羅は帰る事になった。
保育園の出入り口の門に立つアランと世羅を、皆でお見送りする。
門の側まで見送りに来ているのは、龍麻、葵、小蒔、醍醐、雨紋、雪乃で、他の子供たちは軒下で遠巻きに見ている。
壬生に至っては見送っているのか、日向ぼっこに出てきたのか判らない位だったりした。
アランはそんな子供達の名前を一人一人呼びながら、またネ、と手を振る。
世羅は細い指で女の子の髪を梳いたりしながら、また来てねと言う葵達に小さく頷いていた。
其処にはまたやはり、京一の姿はなかった―――――のだが。
「やだよ、はなせよ、アン子!」
「ダーメ。ほら、お見送りくらいしなさいッ」
「やだ! なんであんなの、見おくんなきゃいけねーんだよ!」
先生達の過ごす職員室の方から、京一とアン子先生の声が聞こえて来た。
龍麻がそちらを見ると、嫌がって廊下の柱にしがみついている京一と、柱から引っ張り剥がそうとしているアン子先生の姿があった。
やはり京一は、ずっと職員室で過ごしていたようだ。
見送りさえも嫌がる京一は、とことんアランの事が好きではないらしい。
あの過剰なスキンシップの所為である事は、誰の目にも明らかだ。
そちらをじっと見ていると、トントン、と肩を叩かれた。
振り返ると、しゃがんで同じ目線になったアランがいる。
「タツマはキョーイチと仲良しデスか?」
「うん」
アランの質問に、龍麻は迷わず、こっくりと頷いた。
すると、アランはにっこりと笑う。
―――――ふ、と。
龍麻は気になった事があった事を思い出し、アランの服袖を引く。
「みんなが笑うと、みんな笑うの?」
「Yes。タツマが笑うと、タツマのダディとマミィも笑う。タツマの側にいるヒト、皆スマイルになるヨ」
「じゃあ、ぼくが笑ったら、きょういちも笑ってくれる?」
龍麻の問いに、アランは一度きょとんとした。
その表情に、何か可笑しい事を言っただろうかと龍麻は首を傾げる。
次の時には、アランはそれまでとは違う、とても優しい柔らかい笑顔を浮かべていた。
「タツマは、キョーイチのこと好きデスか?」
「すき」
龍麻は、また迷わずにこっくりと頷いた。
「それならOK。キョーイチ、絶対に笑ってくれマース!」
「うん」
其処に大人が言う根拠などと言うものはない。
けれども、アランの笑顔が何よりの自信だった。
今は無理でも、きっといつかは笑った顔を見せてくれる。
皆の輪の中で、きっと眩しいくらいの笑顔を見せてくれる。
だからそれまで、いやその後も、ずっとずっと笑っていようと心をに決めた。
嫌だ嫌だと言う声が近付いて、京一がアン子先生に引き摺られて来た。
庭の半分を過ぎた所で暴れるのを諦めた京一は、ぶすっとした顔でアン子先生に手を引かれながら近付いてくる。
子供達とアランと世羅の集まる門まで来た京一は、アランをちらりと見ただけで、直ぐにアン子先生の影に隠れた。
アン子先生は怒ってみせたが、仕方がないと思っている部分もあるのだろう。
此処まで連れてくるだけでも大変だったのだから、これ以上の無理はしない事にしていた。
アランは、ひらひらと手を振っても反応しない京一に残念そうにはしたが、此処まで来てくれただけでも嬉しいのか。
にっこりと笑顔を浮かべて京一を見詰め、またネ、とぐいぐいと京一の頭を撫でた。
京一は、その手も振り払ってしまったけれど。
「O~h……」
「…やりすぎ」
「セラもヒドイ~」
大袈裟に肩を落として見せるアランに、世羅はくすりと微笑む。
仕方ないなぁ、と言う表情で。
アランはしばらく泣き真似をしていたが、子供たちに声をかけられるとケロリと笑顔になった。
龍麻は、彼がこんな遣り取りも楽しんでいるのだと感じた。
が、龍麻の隣の京一は、いつもの少し怖い顔でアランをじっと見ている。
怒ってはいないようだけれど、かと言ってアランのように楽しんでいる訳でもなさそうだった。
世羅が京一と龍麻の前でしゃがむ。
同じ目線の高さになった。
「……ごめんね」
「………」
「彼なりのスキンシップだから」
大袈裟な身振り手振りも、相手が嫌がるくらいの頬擦りも、テンションも。
全て彼が回りの人に楽しんで欲しいから。
京一がそれを嫌がって彼を敬遠しているのを、世羅もよく理解していた。
だが同時に、京一にもアランの事を理解して欲しいから、助け舟は出せても彼を止める事はない。
今の所、全力で彼のスキンシップから逃げている京一にしてみれば、中途半端にしか見えないだろうけれど。
京一は拗ねた顔になって、世羅を見る。
龍麻から見たその目は、もう怖くなかった。
そんなことわかってる、と。
小さく呟いた京一に、龍麻は嬉しくなって笑った。
アランと龍麻が見たいものは、そう遠くない日に見れるかも知れない。
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アランの口調が難しい! そして世羅、若干捏造気味……
私の中でアランと世羅はニコイチ、セットです。
一度で良いから、この二人を書いてみたかった。
アランは保育園の近くにある外国人向けの安アパートに住んでて、世羅は家出少女で居候してます。
このアパートの住人達は、時々国際交流と言う形で保育園に遊びに来て貰ってます。
逢った時から殆ど感情を表に出さなくなっていた世羅。彼女に笑って欲しいから、アランは色んな刺激になればと、一緒に保育園に行くのです。
一人、また一人。
夕刻頃を始まりにして、この真神保育園で預かっている子供達は、家に帰って行く。
全員で11人と言う、決して大規模ではないけれど、勤める保育士の人数を考えると少なくはない預かり子達。
その中で雨紋雷人、来栖亮一、マリィ・クレアの三人は家に帰す事が良く思えない環境である為、保育園で保護児童となっている。
保護児童として保育園が引き取り、保護者代わりとなっているので、彼らは基本的に寝食全て保育園で過ごす。
保育園がこの子供達にとっては家となっているのである。
他にも壬生紅葉もそうなのだが、彼の場合は他三名とは少し違う。
壬生の家は、子供と母親の二人だけの家庭であるが、母は体調を崩して桜ヶ丘中央病院に入院している。
時折、医者の許可を貰えた時だけ、迎えに来てくれる事になり、一晩を親子で過ごすようになっていた。
今日は壬生の母の調子が良かったようで、陽が西に沈み始めた頃に息子を迎えに来た。
いつも物静かな壬生であるが、母の事はやはり大好きなようで、迎えが来たわよと言うと小走りで玄関に向かった。
他の子供達に比べて少し大人びた感のある壬生だけれど、この時ばかりは歳相応に子供らしく、マリアの微笑みを誘った。
母と一緒に行儀良くマリアに頭を下げてさようならの挨拶をして、壬生は二週間振りに母に手を引かれて、我が家へと帰って行った。
保育園の門を潜って二人の姿が見えなくなってから、マリアは遊戯室へと戻る。
其処には保護預かりの三人の子供と、もう一人――――京一がそれぞれ自由に過ごしていた。
雨紋と亮一は二人で積み木遊び、マリィは眠たくなってきたようで布団の上で舟をこいでいる。
京一は自分の落書き帳にクレヨンでお絵描きしていて、いつものようにパンダを描いていた。
四人を見守っているのは、高見沢舞子だ。
マリアの視線は、この四人の中で唯一、保護児童としての預かりではない子供へと向けられる。
お絵描きに熱中している京一だ。
京一はいつも遅くまで残る。
ほぼ毎日だ。
早い日の方が珍しく、一番最後まで残っているのが常だ。
真神保育園では、一日の保育時間が10時間を越すと延長保育扱いとなる。
京一は朝8時前に入園し、帰るのは大抵、夜8時を過ぎた頃で、いつも延長保育になっていた。
時には子供が眠る時間まで残っている事もあった。
そんな時間まで残る子供の面倒を見るのは、チーフのマリアか、犬神だけで、他の保育士達は家に帰る。
そうなると、他の子供達が眠ってしまうと、いつもは賑やかな園内はとても静かで寂しさを感じさせた。
今日もまた、京一は一番最後。
これは京一が真神保育園に来るようになってから、ずっとだ。
土日を除けば、ほぼ毎日預かるのに、この三ヶ月の間に京一が早く帰ったのは、たったの一度か二度。
この子も壬生同様、特殊な事情があるのは聞いている。
迎えに来るのが彼の父母ではなく、預かっていると言う懇意にしている青年である事も。
青年は大学生でアルバイトもしているから、迎えが遅くなる理由も判らない訳ではない、寧ろ仕方がないとも思う。
しかし、それでも静まり返った園舎で一人迎えを待つ子供を見ると、胸が痛む。
来ない訳ではないけれど、いつ来るか判らない迎えを待ち続ける彼の心は何を思うのだろうかと。
マリアは一つ溜息を吐いて、遊戯室を出た。
向かうのは職員室だ。
遅くまで残る子供や保護児童の為に、真神保育園では午後7時頃に補食を出す。
日と季節によって変わるが、大抵は小さな果物やラスク等である事が多い。
職員室の扉を開けると、其処には犬神杜人が残ってパソコンに向かっていた。
他の保育士は既に帰宅しているようで、残っているのはこの場にいるマリアと犬神、遊戯室にいる高見沢のみらしい。
―――――こうなると、園舎はどんどん静かになって行く。
棚に保管していたラスクの入った袋を取り出し、封を開ける。
用意した三枚の皿にそれぞれ二つずつ出す。
マリィに用意するのは、牛乳で柔らかくしたパンである事が覆いのだが、彼女はそろそろ寝入る頃だろう。
途中で目覚めるかも知れないので、念には念を入れて準備をしておく事にする。
冷蔵庫から取り出した牛乳パックを開けながら、マリアは呟いた。
「今日も京一君が最後ですよ」
「……いつも通りです」
「まぁ、そうなんですけど」
淡々とした口調で返す犬神に、マリアは判り易く大きな溜息を吐いた。
「連絡なしで延長保育は、金額的にもきついものがあると思いますよ」
「そうですね」
「連絡があってもほぼ毎日となると……」
一日の延長ならば、こんなにも気にする事はなかっただろう。
しかし京一の延長保育は、この三ヶ月間で毎日になっている。
時に夜半にまで及ぶのではないかと思う程、迎えが遅れた事もあった。
それによって保護者にかかる金額的負担は、普通の保育時間よりも倍額以上になる。
また、仕事を終えて迎えに来る保護者への体力の負担も、やはり見逃せるものではない。
「やっぱり、宿泊保育の方も考えてみた方が良さそうですね」
それならば、毎日必ず迎えに来なければいけないと言う事もない。
時間と都合の折を見て、壬生の母親のように隔週に一回でも良いから、迎えに来てくれれば良い。
雨紋達のような保護児童と決定的に違う点は、其処にかかる費用だ。
保護児童は彼らの背景事情から無償若しくは格安になるが、宿泊児童はそれよりも少し高い。
しかし、通常保育に加えて毎日の延長保育との差を考えれば、随分と荷が軽くなる筈だ。
あちらの事情を聞かなければならないので、今すぐにと言う訳にはいかないだろうが、悪い話ではない筈だ。
―――――マリアはそう思っていたのだが。
「さて、どうかな………―――――」
ぽつりと零れた犬神の言葉に、マリアは一度、瞬きした。
時刻は午後8時半。
昼間によく遊んだ子供などは、そろそろ睡魔に誘われる頃合だった。
その例に漏れず、マリィは勿論、雨紋と亮一もマリアに促されて布団に入った。
布団に包まった雨紋は直ぐに寝付き、続いて亮一も幼馴染に寄り添って瞼を閉じた。
マリィは二人よりも先に眠りについている。
保護児童の中で一番賑やかな雨紋が眠ると、園内は一層静けさを増した。
そうして遊戯室で唯一起きているのが、京一だ。
眠った子供達の様子を時折覗きに行きながら、マリアは京一の傍で彼の迎えを待った。
マリアと京一の間に会話らしい会話はない。
時折マリアがかける声に小さな反応をするだけで、京一は基本的に喋らなかった。
京一は無口な訳ではないけれど、抱える特殊な事情の所為か、中々周りに心を開かない。
ついこの間までは、子供達には怒鳴るか威嚇するかで、大人には反抗ばかりだった。
最近になってようやく馴染んで来たようだが、まだ特定の子供以外とはケンカを繰り返している。
同じ年頃の子供にも心を開かない京一は、大人に対しては更に頑なだった。
それは今も変わらないようで、京一が話をする大人は真神保育園の保育士だけでも限られる。
そんな子供相手に無理に話をしようとすれば、子供は此方を鬱陶しがってしまうだろう。
だからマリアは、出来るだけ京一が落ち着いていられるように、必要以上に話しかける事をしなかった。
園内は静かだ。
京一と一番よく喋る雨紋が眠ったから、京一は益々喋る事がなくなった。
無言でクレヨンを画用紙に押し付ける横顔は、真剣そのもの。
目の前の真っ白な紙を埋める事に一所懸命になっている。
……が、その瞳が僅かながら眠そうに緩んでいるのは否めない。
京一は活発な性質だから、日中はやはり外遊びをしている事が多い。
だからこの時間になって来ると、雨紋同様に眠気を感じるのも無理はなかった。
かくん、と京一の頭が揺れた。
クレヨンを握る手が止まっていて、絵もそれ以上進まない。
マリアは苦笑して、京一の頭を撫でた。
「お迎え来るまで、お休みしましょうか」
迎えが来たらちゃんと起こしてあげるからと。
言ったのだが、京一はぶんぶんと頭を横に振ってそれを拒否した。
眠気眼をごしごしと擦り、またクレヨンをぐりぐりと動かし始める。
―――――いつもこうだ。
この時間になれば眠っても無理はないのに、京一は迎えが来るまでずっと起きている。
時々耐え切れなくなる事もあるのだが、数分すると飛び起きてしまうのだ。
無理やり寝かしつける訳にもいかない、そうすると抱き上げた途端にじたばたと暴れて嫌がるのだ。
意地でもこの遊戯室から出ようとはしないのである。
本人が嫌がるのなら無理強いは出来ないと、マリアは一つ息を吐いて、早くこの子の待ち人が来ないものかと一人ごちる。
ぱたぱたと廊下で足音がして、遊戯室のドアが開く。
顔を覗かせたのは高見沢だ。
「お疲れ様です、マリア先生」
「お疲れ様」
「私、お先に失礼しますね。京一君、また明日ね~」
ひらひらと手を振る高見沢。
呼ばれた京一は顔を上げて彼女を見たが、特にこれと言った反応はしなかった。
しかし此方を見てくれただけでも上出来と、高見沢は嬉しそうに微笑む。
マリアに軽く頭を下げてから、高見沢は遊戯室のドアを閉める。
そのまま彼女は玄関へと向かって行った。
これで園舎に残ったのは、保護児童の子供達と、マリアと京一だけになる。
犬神は30分程前に仕事を終えて上がっており、保健室を受け持って貰っている岩山は元より非常勤が多い。
チーフとして夜勤を受け持つのはマリアか犬神のどちらか一人のみだから、益々園内は人気がなくなって静かになった。
――――と、思ったのだが。
玄関を出たとばかり思っていた高見沢が早足で戻って来た。
「京一君、お迎え来たわよ~ッ」
弾む高見沢の声に、京一が顔を上げる。
遊戯室に顔を見せた高見沢に続いて、一人の青年がひょいっと顔を出す。
薄い金の入った髪色に、恐らく画材や教材を詰め込んだ鞄を持った彼が、京一を現在預かっている人物――――八剣右近であった。
「や、京ちゃん。遅くなって悪かったね」
「……別に」
遅い迎えを詫びる八剣に、京一は素っ気無い言葉。
それでも手元はクレヨンを片付け、落書き帳を閉じている辺り、待ち続けていた彼の心を表しているようにも見えて、微笑ましさを誘う。
ロッカーから引っ張り出した鞄に、順番はバラバラだがきちんと収められたクレヨンと、落書き帳を入れる京一。
其処までしてから、京一は思い出したように鞄を床に置いて、とたとた駆け足で遊戯室を出て行った。
何処に行くのかと慌てて高見沢が追いかける。
「京一君!」
「しょんべん!」
鞄を用意してから尿意に気付く辺りが子供らしいと言うか。
トイレへ駆けて行く京一と、それを追う高見沢を見送る八剣は、くすくすと面白そうに笑っていた。
マリアはそんな八剣へ、京一の鞄を持って歩み寄る。
「お迎えご苦労様です」
「いやいや。此方こそ遅くまでありがとう」
互いに頭を下げてから、マリアは鞄を八剣に手渡す。
赤色を基調にしたその鞄には、パンダのキーホルダーが取り付けられている。
いつから付けているのかは知らないが、随分長いのだろう、もうかなり汚れている。
鞄の中には落書き帳とクレヨン以外に、パンダ柄のハンカチとケースに入れられたティッシュがある。
その程度のもので、ゲームやオモチャの類を持って来た事はなかった。
時々マンガが入っている位で、鞄は他の子供達に比べると随分と軽い。
軽い小さな鞄を手に、預かり子が戻るのを待つ八剣の瞳は、何処までも穏やかで優しい。
だから彼が子供へと向ける愛情は本物で、迎えに来るのも吝かでないのは判るのだけれど。
「―――――あの、少し宜しいですか?」
「うん?」
常に子供に見せている笑顔を潜めたマリアに、八剣は何かと此方を見る。
「その……、いつもこの時間までお仕事なさって、お迎えも大変だと思うんですけれど」
「いや、そんな事は。寧ろ其方に申し訳ないかな、遅くまで面倒を見て貰う訳だから」
「いえ、それは構いません。保護の子達もいる事ですから」
京一が遅くまで残っていても、早くに帰っても、これは変わらない。
マリアか犬神のどちらかが残り、雨紋、亮一、マリィ、壬生を見守る事になるのだ。
それでも仕事が一つ増える事に変わりはないと詫びる八剣に、マリアは気遣いを感じて眉尻を下げて笑う。
「それでですね。出過ぎた事かとも思うんですが、京一君、宿泊保育にしては如何かと思うのですが……」
「宿泊保育……となると、一晩此処に預けることに?」
「はい。毎日お仕事の後にお迎えに来られるのが大変なようでしたら…」
マリアの言葉に、八剣は苦笑した。
八剣はいつも笑顔で京一を迎えに来るけれど、そんな彼も暇な訳ではないのだ。
大学の授業に課題をこなし、一人暮らしである為に就学後にはアルバイトがある。
家庭教師の派遣アルバイトだそうだが、嬉しい悲鳴で人気があるので、受け持っているのは一人二人ではない。
一箇所に二時間近く、それを一日で二箇所から三箇所は回る事が多いので、終わる頃にはとうに月が昇っている。
都内に住んでいるので移動手段に問題はないが、それでも体力の限界はある。
毎日詰まったスケジュールで生活している上、その後に更に子供の迎えと言うのは、言葉で言うほど単純な事ではない筈だ。
だから八剣の苦笑は、マリアの心配が決して外れていない事を教えている。
「……確かに、遅くまで迎えを待たせるよりは、その方が良いかな」
八剣の呟きに、それじゃあ、とマリアは紡いだ。
けれども、直ぐに遮られる。
「けど、それじゃあ京ちゃんとの約束を破る事になる」
告げた言葉に、マリアは八剣を見遣る。
彼は此方を見ることはなく、京一が戻って来るだろう廊下の向こうを見詰めたまま、動かなかった。
振り返らずに八剣は続ける。
「京ちゃんの事情は複雑でしてね。あの子はそれに振り回される形になってしまった」
「ええ、聞いています。前に一度、お父さんが迎えに来られた時に、ご本人から」
京一の迎えはいつも八剣が来るのだが、この三ヶ月の間に、たった一度だけ。
彼の父だと言う初老の男性が迎えに来ており、その時の京一は表情こそいつもと同じだったけれど、足取りは軽かった。
何より男性の差し出した手を恥ずかしそうに握った時、彼の瞳は確かに悦びを滲ませていた。
その時、マリアは踏み込んだ話になると判っていても、聞かずにはいられなかったのだ。
どうして息子の世話をほぼ八剣に一任する形になっているのかと。
真神保育園は、保育士と子供の家族揃って子供に接したいと言うのが基本方針だ。
だから出来るだけ子供の環境を把握して置きたかった。
父は少しの間言い澱んだが、全てを話してくれた。
息子を巻き込んだ事を悔いているとも言っていたし、普段ろくに顔を合わせる事すら出来ないのも心苦しい。
そして――――京一自身がその事について何も言わないのが、また父には苦しかった。
「京ちゃんはその事には何も言わないけど、声に出さないだけで、酷く心に傷を残しているのは間違いない」
………それが、先日までの京一の態度の原因。
誰にも心を開かず、仲良くしたいと子供達が声をかけても威嚇とケンカばかり。
唯一雨紋とはシンパシーがあるのか話をして遊ぶ事もあったけれど、それ以上はない。
雨紋も何処かでそれを感じているようで、何より雨紋の優先順位はあくまで亮一が上だった。
大人に対してはもっと頑なで、最初は口も聞いてくれない、目も合わせてくれない、触れようとすれば嫌がる。
一ヶ月、二ヶ月と経つ間に少しずつ軟化し、今では反抗は憎まれ口、素直になれない感情表現になったけれど、それでも何処かで壁を作っているようにも見えた。
けれども愛情を欲しがる気持ちは他の子供と同じで、伸ばされた手を絶対に拒否すると言う事はなかった。
池に落ちてびしょ濡れになったのを見つけた遠野が、捕まえて風呂に入れようとすると、最初はやはり暴れるけれど最後はいつも大人しい。
柔らかなタオルに包まれている時は、暴れていた事など忘れさせる位に静かだった。
その際、京一は相手の大人を見る事はないけれど、瞳の奥の光は頼りなさげに揺れている。
何かを必死に堪えているような、そんな表情を浮かべて――――きっと本人はそれに気付いていないけれど。
大人の勝手な事情に振り回されて。
父は息子に構うことが出来ず、彼はいつも一人だった。
「本当は父上殿も京ちゃんを放っておけなかった。けれど、現実は残酷で、結局一人で待たせるしかない。いつ頃帰るなんて言っても、守れない事が多かった。迎えに来ると言って置いて、待ち惚けにさせてしまう事もあった」
大人の所為で、京一の日常は壊れた。
一番好きな筈で、一番構って欲しい筈の親に、その所為で構って貰えない。
でも聡い子供は、子供なりに現状を理解してしまっていた。
寂しさにも、約束を守って貰えない悲しさにも、耐える事に慣れてしまった。
約束を反故にされても、仕方がないからと思うようになってしまった。
それは彼なりに周囲を慮っての事であるのだけれど、同時にやはり、周囲を悲しませる行動でもある。
遊んで鎌ってと子供らしい我侭を言えなくなった京一は、素直に人に甘える事が出来ない。
本当ならばもっと甘えて我侭を言って良い筈なのに。
そんな様が、八剣には見るに耐え兼ねるものだったのだ。
「だから俺は、京ちゃんを預かるようになってから約束したんだよ。俺は絶対に迎えに来るよって」
生憎、その時間までは決める事が出来ない。
目処は立てても、その時間通りに来れるかは判らなかった。
だからせめて、“迎えに来る”と言う約束だけは、破れない。
「俺の自己満足だとも思うけど。それでも、この約束を破ったら、あの子は本当に何も信じられなくなる」
大人の事情に振り回されて、京一は色んなものを見た。
その所為で、他人に気持ちを委ねることが出来ない。
自分の事は自分でしなければならないのだと、そんな意識が植え付けられた。
まだ、たった4才の小さな子供なのに。
八剣は少しずつ、その意識を取り払いたかった。
京一が思うほどに大人は決して冷たくなくて、京一は絶対に一人じゃない。
そう知って貰う為には、迎えに行くと言った約束は果たさなければならないのだ。
「宿泊保育の話は有り難いけど、辞退させて頂くよ」
「―――――判りました」
のっぴきならない事情にならない限り、八剣が今日のこの話を撤回させることはないだろう。
八剣自身が誓った想いに従って。
ならば、マリアに言える事はもうなかった。
宿泊保育にしたからと言って、もう迎えに来ないと言う訳ではない。
けれども迎えに来る日の数がずっと減る事は確かで、そうなると、結局迎えに来ないんだと京一は思うようになる。
京一は何処かで八剣を信じながら、信じ切れずにいる。
絶対に迎えに来ると言ったけれど、本当に迎えに来てくれるのか、本当に見捨てないでいてくれるのか。
大人は簡単に嘘を吐くと知ってしまったから、彼は八剣にも甘える事が出来ない。
それを、京一を慮っての事だとしても反故にしたら、それは絶望に叩き落すのと同じことだ。
それは駄目だ。
絶対にあってはならない。
京一が握り続けている細く頼りない糸。
八剣へ、父へ、そして沢山の大人と未来へ繋がる糸を手放させるような真似は、絶対にしてはいけない。
二つ足音がして、角から京一と高見沢が戻って来た。
京一は真っ直ぐ此方へと向かう。
「はい、鞄」
「ん」
差し出された鞄を受け取って、背負う。
その背中はまだ小さくて、守ってあげたいとマリアに思わせる。
「では、お世話にまりました」
「じゃーな、マリアちゃん」
頭を下げる八剣と、ひょいっと手を上げて挨拶する京一。
八剣が頭を上げるよりも早く、京一はくるっと方向転換して玄関に向かう。
早足で下駄箱に行く京一を八剣はのんびりとした歩調で追った。
倣って高見沢もマリアに一つ挨拶してから、今度こそ帰路へとついた。
―――――最後の子供が帰宅の途に着き、マリアの仕事はこれで一つ段落を迎えた。
しかしマリアの仕事がこれで終わりになる訳ではなく、今晩はずっと起きて雨紋、亮一、マリィを見守らなければならない。
マリアは玄関外の明かりは残したまま、他の外灯のスイッチを切りながら、子供たちの就寝室へと向かった。
こうして保護児童を見ていられるのはマリアと犬神だけなので、時々体力的にも精神的にも辛くなる事がある。
せめてもう一人か二人は増やした方が良いかと、犬神と岩山を交えて相談する事も増えた。
候補の保育士は何人か上がっているが、子供との適正を考えると迂闊に決められない。
何せ子供達はマリアと犬神が残るものだと思っているから、途端に他の人間が来ると、雨紋はともかく亮一やマリィは緊張しそうだった。
子供達が今の所一番慣れている保育士は遠野だが、彼女は新人だ。
規則正しい生活を送っているのもあって、急にそれを崩すと彼女の方がダウンし兼ねない。
何せ夜勤は何事が起きなくとも、気を張って子供達を見守らなければならないのだ。
最近、富に睡眠時間が短くなった。
肌が荒れてきて、スキンケアの時間もろくにないのが悔やまれる。
今度の休みには久しぶりにエステに行きたい。
ああ、でもその前に新しい服が欲しい。
保育に向く動き易い服ばかりを買うので、一着ぐらいはブランドの新品を買いたい。
………そんな事を、つらつらと考えてはいるのだけれど。
就寝室のドアをそっと開けて、音を立てないようにゆっくり入る。
一番小さなベッドにマリィが眠っていた。
うつ伏せになっていたので、気を付けながら仰向けに直す。
雨紋と亮一は一緒のベッドに眠っている。
大の字で寝ている雨紋に対して、亮一はこじんまりと丸くなっていた。
掛け布団が蹴飛ばされていたので、肩まで掛け直しておく。
いつも壬生が使っているベッドは、今日は久しぶりに無人だ。
眠る子供達の顔が夜の星明りに照らされる。
三人三様に楽しい夢を見ているようで、子供達の寝顔は穏やかなものだった。
それを見ているだけで、さっきまであれこれ考えていた自分の事は、もうどうでも良くなって。
(守らなきゃね)
この寝顔を。
この安らぎの眠りを。
母に、父に、手を引かれて帰る子供達の笑顔を。
愛して欲しいと全身で訴える、子供達の心を。
夢の中まで、悲しい思いをする事がないように。
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今回は大人サイドなので、ちょっとシリアスめ。
犬神先生からマリア先生への口調が判りません(汗)……
京一の家庭事情については、小出しに小出しにしたいと思ってます。
葵はこの数日間、とても嬉しいことが続いていた。
葵の通う真神保育園には、色んな子が集まる。
家族皆が仕事をしている子もいれば、ちょっと難しい事情の子もいて、家に帰らないで保育園に泊まる子もいる。
保育園に泊まる子は、時々泊まる子と、毎日泊まる子といた。
その色んな子の中で、ちょっと難しい事情の子は、結構気難しい子が多い。
雨紋の後をついて行く亮一や、皆と中々話をしない壬生がそうだ。
この子達は自分から積極的に話す事もない所為か、最初の頃は皆に中々馴染めなかった。
けれど今では、皆それぞれの形で仲良く過ごせるようになった。
でも、一人だけ。
二ヶ月前に入った男の子は、皆と仲良くするのが嫌みたいだった。
京一と言う名前のその子は、葵が幾ら話しかけても返事をしてくれなかった。
怒った小蒔が「へんじしなきゃダメなんだよ」と言っても、何も言わないでそっぽを向いてしまう。
男の子達とは時々遊んでいるようだったけど、それもずっとじゃない。
皆で一緒にと言うこともなくて、雨紋と亮一だったり、醍醐だったりと、二人か三人で遊んでいるばかりだった。
京一はケンカもする。
織部姉妹の姉の雪乃や小蒔がしょっちゅうで、時々醍醐ともケンカをする。
京一がケンカを始めると雨紋もやってきて、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
こうなると、マリア先生か犬神先生じゃないと止められない。
皆とわいわい遊ぶのが苦手な子もいるのは知っている。
亮一は雨紋の傍から離れないし、壬生や如月は遊び回るより本を読んでいる方が楽しいらしい。
それでも、挨拶をすれば返事をしてくれるし、気が向いたらほんのちょっとだけ付き合ってくれる。
京一は本を読むのはあまり好きではないみたいで、外で遊んでいる方が好きみたいだった。
けんけんぱをしていたり、池の飛び石を渡ったり、―――― 一人でそうやって遊んでいる。
そんな京一が、葵はなんだか放っておけなかった。
怒っている事が多いけれど、本当は優しい子なんだと葵は思っていた。
だって、ケンカはするけど、誰かをいじめたりしないし、公園に行った時に誰かがいじめられて泣いていたら、それが知らない子でも助けに行く。
怖い顔をして大きな声で皆を怖がらせるけれど、地面にお絵かきをしている時の背中は、なんだかいつも寂しそうだった。
わざと嫌われるようにしているみたいで、葵はそれが悲しかった。
葵は、京一と仲良くしたかった。
公園に行った時にも、追いかけっこをしようと誘った。
でも京一は「いやだ」ばっかりで、いつも一人で遊んでいた。
そんな京一が、最近少しずつ、皆と遊ぶようになってきた。
保育園の園舎の玄関横に、葵はいた。
京一と一緒に。
二人の間に会話はなくて、京一はずっと黙って地面に絵を描いている。
葵は玄関の段差にちょこんと座って、お絵かきをする京一をじっと見ていた。
そのまた傍では、舞子先生がお昼寝用の布団を干している。
布団と並んでお泊りする子のパジャマや着替えも竿にかけてある。
ぽかぽかとした春の陽気の今日は、最高の洗濯日和だ。
風が吹く度にパタパタと踊るシーツは綺麗な真っ白で、これで寝たらとても気持ちが良さそうだった。
今日のお昼寝の時間が、今から少し楽しみになる。
葵は立ち上がって、そうっと京一に近付いた。
影が重なった事に気付いて京一が振り返れば、ばっちり目が合う。
「……なんだよ」
言葉は少し尖っていたけれど、葵を見る目は怖くなかった。
最近、京一はこんな事が多くなってきた。
変わりに大きな声を出して皆を怖がらせる事が少なくなって来て、ケンカも減った(始まるとやっぱり凄いけれど)。
ずっと一人で遊んでばかりいたのが、少しずつ皆の輪の中に入って来てくれるようになった。
それもこれも、新しい子のお陰だ。
京一の後に入って来た子と仲良くなってから、皆とも仲良くしてくれるようになったのだ。
思い出したら嬉しくなって、葵は笑っていた。
にこにこ笑う葵に、京一は眉と眉の間に皺を作ったけれど、怒ることはしなかった。
しばらく葵の顔を見つめた後、また地面に向き直ってお絵描きを再開した。
葵が隣にしゃがんで絵を覗き込んでも、京一は何も言わない。
以前は傍に行くだけで怖い顔でこっちを見て来たけれど、最近はそれもなくなった。
お喋りをする事はあまりなかったけど、これもかなりの変化だ。
京一と一番仲の良い子は、今日はいない。
京一の隣はずっとその子の専用になっていたのだけれど、今日だけは葵が其処にいられる。
それに京一は怒らなかった。
ギィと玄関のドアの開く音がして、振り返ると園舎から遠野先生が出て来た所だった。
洗濯物を一通り干し終えた舞子先生が、アン子先生を呼び止める。
「お買い物ですか?」
「はい。明日のお遊戯で使う折り紙がなくなっちゃってて……あと、冷蔵庫の中身も少なくて」
「あら、そうなんですか」
「商店街の方に行くんで、他に要るものあったら買ってきますよ。何かあります?」
「えーっと……先生に確認して来るので、少し待っていて貰えますか?」
舞子先生が“先生”と呼ぶのは、保健室を預かっている岩山先生の事だ。
アン子先生が頷くと、舞子先生は空になった洗濯籠を抱えて保健室へ駆けて行った。
待ち人が戻るまでどうしようと、アン子先生は辺りを見回す。
其処で、ふわりとシーツが翻った横に、地面にしゃがむ葵と京一の姿を見つける。
「京一、美里ちゃん、何してるの?」
「きょういちくん、おえかきしてるんです」
黙ったままの京一の代わりに葵が答えると、アン子先生はひょいっと絵を覗き込んできた。
京一の足元には、小さなパンダが沢山いた。
それぞれ、少しずつ顔が違っていて、どうやら皆別人(別パンダ?)らしい。
「結構上手よねー、京一」
くしゃくしゃ、アン子先生が京一の頭を撫でる。
と、京一はぶんぶんと頭を振ってそれを払ってしまった。
優しく頭を撫でると、京一は嫌がる。
慣れていないらしかった。
「何よ。可愛くないッ」
アン子先生はそう言って京一の耳を軽く抓ったが、京一は今度は特に嫌がる素振りはしなかった。
抓られた耳はちっとも痛くなかったようで、それは傍で見ている葵にも判った。
だって怒った風な言葉を使ったアン子先生は、決して本当に怒っている訳ではなかったから。
葵はそんな様子を隣で見ていて、やっぱり嬉しくて笑っていた。
「――――遠野さん、先生にメモ貰ってきました」
舞子先生が戻って来て、アン子先生に小さな紙を渡した。
アン子先生は買い物リストのそれを確認して、判りましたと返事をしてから、メモを上着のポケットに仕舞った。
舞子先生は、アン子先生に一度頭を下げてから、また保健室へと戻って行く。
その後姿を見送った後で、アン子先生はさっき仕舞ったメモと、もう一枚メモを取り出した。
もう一枚も恐らく買い物リストだろう、折り紙の他にもまだ買うものがあったらしい。
葵がアン子先生の顔を見上げると、アン子先生は少し難しい顔。
「アン子せんせい、どうしたんですか?」
「うん、ちょっとね。数が多くなっちゃいそうだなあって思って」
メモをひらひら揺らしながら、アン子先生は笑う。
真神保育園の規模は小さいもので、常勤の保育氏はマリア先生と犬神先生ぐらいのものだった。
保健室には岩山先生と舞子先生がいるけれど、時々どちらかが日もある。
アン子先生は一週間の内、どれか一日が休みだったりして、代わりに夜遅くまでいる事もあった。
他にも数人の大人がいるけれど、その人達の殆どはお昼ご飯を作っていたり、お遊戯の準備をしていたりして、葵はあまりゆっくり話した事がない。
他の子供達も恐らくそうだろう。
子供達の相手をしているのは、専らマリア先生、犬神先生、アン子先生と、舞子先生ぐらいのものだ。
大きな保育園ではないのだから無理もないけれど、全体の人数として、真神学園はいつも人手不足なのが困る所であった。
そんな訳だから、買い物などをする時は、その時必要な物と一緒に他諸々も纏めて買い揃える事が多い。
これが犬神先生のような男手ならば問題ないのだが、女の人は中々苦労する。
折り紙、色鉛筆、ティッシュ箱、掃除洗濯用の洗剤、朝昼晩の食材―――――これがかなり重い。
慢性的に人手不足なものだから、買出しに廻せる人数も限られて、手が空いている人が時間の折を見て走るのが常。
結局、一人で重い買い物袋を抱えて、よろよろと帰って来るのである。
葵は、マリア先生やアン子先生が買い物に行って帰って来た時、疲れた顔をして帰って来るのを知っている。
犬神先生はいつもと同じ顔をして帰って来るけれど、両手に抱えた荷物はいつも重そうだった。
それを見つけると、葵はお手伝いしなきゃ、と思うのだ。
「アン子せんせい、わたしも、おかいもの行きたいです」
葵がそれを言い出すのは、これが初めての事ではない。
葵は誰かの為に何かをするのが好きだった。
そうして相手が喜んでくれたら、自分も嬉しくなって、胸の辺りがぽかぽかする。
それが好きだった。
アン子先生は本当? と嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、悪いんだけど、ちょっとだけ荷物持ってくれる?」
「はい」
「ありがとう! 美里ちゃんはいい子よね~ッ」
ぎゅう、とアン子先生が葵を抱き締める。
ごほーびにアイス買ってあげるね、と頭を撫でながら言われた。
一頻り葵の頭を撫でてから、アン子先生は京一を見た。
地面にパンダを描いていた京一の手は、いつの間にか止まっている。
葵はなんとなく、自分達の方を気にしているんだと判った。
「京一は来てくれないのかな~?」
「……なんでオレが」
アン子先生が言ってみれば、素っ気無い言葉が返ってくる。
けれど、アン子先生は怒らなかった。
「女の子だけに重い荷物持たせるなんて、男じゃないわよ」
「アン子はオトナだろ。オレより力あるじゃんか」
「なーんだ、京一ってあたしより力ないんだ。男の子なのに。でも来てくれると助かるんだけどなー」
京一が顔を上げてこっちを見る。
口がちょっと尖っていた。
京一はあんまり素直になれない。
手伝ってと言われても、中々それに「うん」と言ってくれない。
そんな京一がどうしたら「うん」を言ってくれるのか、アン子先生はよく知っていた。
言ったら少し腹が立つような事を言って(勿論、そう思っている訳でもないのだけれど)、ちょっとだけ彼を怒らせる。
素直じゃないこの男の子は、「出来ないんだ」と言われたら、「出来る」と反論してくるのである。
更に駄目押しに、これ。
「一緒に買い物行ってくれたら、パンダさんのお菓子買ってあげようと思ったのになー」
「………………いく」
――――――食べ物の誘惑こそ、子供にとって最大の魅力なのだ。
実は、葵に限らず、買出しの際に子供がついて来る事は珍しくない――――この真神保育園に置いては。
殆どの場合は子供の自主性であるが、時折、マリア先生達の方針で、買い物に同行させる事がある。
真神保育園には複雑な事情を持つ子供がいる。
そんな子供は、中々環境に溶け込む事が出来ず、また保育園の外界へも心を閉ざしてしまう。
そうなってしまう事のないように、真神保育園の保育士達は、子供を箱庭の世界へ閉じ込めまいと試行錯誤しているのだ。
買い物の荷物持ち等の手伝いをして、ご褒美を貰うことで、“誰かの助けになること”“褒められる、喜んでもらえる喜び”を学んで欲しかった。
織部神社での境内の掃除等も、その一環だ。
幸運な事に、想いは奏して、保育園の子供達は周辺近所の人達にも評判の良い、良い子達に育っている。
そんな訳で、真神保育園の子供達は、ご近所でちょっとしたアイドルみたいなものだった。
いつも買出しに利用させて貰っている商店街でも同じ。
「こんにちはー」
「こんにちは」
「はいはい、いらっしゃい」
八百屋の暖簾を潜って挨拶するアン子先生と、葵が続いて挨拶すると、奥からおばあちゃんが顔を出した。
腰の曲がったおばあちゃんだけれど、足元はしっかりしていて、目元は柔らかく笑っている。
このおばあちゃんは、保育園の子供達を孫みたいだと言って可愛がってくれる。
「今日は葵ちゃんと京ちゃんかい」
おばあちゃんのこの呼び方が、京一はあまり好きではないらしい。
む、と顔が少し嫌そうなものになる。
「……京ちゃんちがう」
「そうそう。京一ちゃんだったね」
また京一の顔がむぅとなる。
けれど、それ以上は言わなかった。
言っても止めてくれないと思ったのだ――――“ちゃん”付けで呼ぶ事を。
京一が拗ねた顔で暖簾の外に出て行く。
アン子先生が呼び止めたけれど、京一は戻って来なかった。
「しょーがないなァ。美里ちゃん、外で京一見ててくれる?」
「はい」
「何かあったら直ぐ呼んでね。あたしも、早めに買い物終わらせて出るからね」
「はい」
一度拗ねると、京一は中々機嫌を直さない。
少し前に比べると随分柔らかくなった彼だけれど、それは変わらなかった。
無理に引っ張って連れ戻せば余計に拗ねてしまって、一人で保育園まで歩いて帰ってしまい兼ねない。
それを考えると、店の直ぐ外で待っていてくれている方が良い。
幸い、商店街の人達は葵の事も京一の事も、勿論保育園の事も知っている。
知らない大人が声をかけてきたら、周りの大人の方が気を付けてくれるだろう。
とは言え、何よりも一番良いのは、アン子先生が早く買い物を済ませる事だ。
葵が店の外に出ると、京一は店の入り口横に立っていた。
隣に並ぶと、ちらりと目がこっちを見て、また前に戻される。
二人の間に、やっぱり会話はなかった。
買い物に行く前とそっくり同じシチュエーションだ。
でも、これが葵にとって待ちに待ち望んだ事。
まだまだお喋りは出来ないけれど、一緒にいたいとずっとずっと願っていたのが、ようやく実った。
―――――店の中から、アン子先生とおばあちゃんの会話が聞こえてくる。
「ピーマン嫌いな子が多くって」
「ああ、そうだろうねェ。栄養たくさんあるのにね」
「あとグリンピースとか、人参とか。なんとか食べさせてるけど、泣いちゃう子もいて大変で…」
「葵ちゃんや京一ちゃんも、嫌いなものあるかい?」
「美里ちゃんはなんでも食べてくれるの。でも、京一は凄い好き嫌い激しくて」
その声は、葵に聞こえている訳だから、当然隣にいる京一にも聞こえていて。
京一の拗ねていた顔が益々拗ねて、足元に転がっていた石をこつんと蹴飛ばした。
「でも一応、全部食べてくれるの。時間はかかっちゃうけど」
「うんうん、それがいいよ。ああ、そっちの大根は辛いから、こっちの方が良いよ」
「ありがとう~!」
「そう言えば、この間初めて来た子…なんて言ったかねェ……歳だねェ、やだよ、物覚え悪くなっちゃって」
「緋勇龍麻君って言うの」
「そうそう、そうだったね。あの子は苺が好きって言ってたねェ」
物覚えが悪くなったと言ったけれど、葵はそんな事はないと思う。
だって此処のおばあちゃんは、保育園の子供達の名前を皆覚えてくれているのだ。
葵は、いつか自分もおばちゃんになるなら、あんなおばあちゃんがいいと思った。
にこにこ優しい顔で笑っていて、近所の子供達に好かれるおばあちゃんがいい。
皆の名前をちゃんと間違えないで覚えていて、色んな事も知っていて、子供達から凄いなぁと言われるおばあちゃんになりたい。
そう思っていた矢先の事だった。
飛んできたサッカーボールが、京一に当たったのは。
「――――きょういちくん!」
見ていない方から飛んできたボールは、京一の頭に当たって跳ねて、地面を転がって行った。
ボールが当たった瞬間にバンッと大きな音がしたものだから、葵は目を白黒させて京一の名前を呼ぶ。
京一は一度ぐらっとしたけれど、転んだりはしなかった。
けれども当たった頭は痛みを訴えて、頭を抱えて蹲る。
「きょういちくん、だいじょうぶ?」
「………ん…」
じんじんと痛む頭を抱えながら、心配する葵の声に、京一はなんとか頷いた。
しかし痩せ我慢である事は葵の目にも明らかだ。
どうしよう、と葵は焦った。
とにかくアン子先生に言った方が良い、と言うかそれしか思い付かない。
慌てて八百屋の店の中に入ろうとして―――――聞こえた声に葵の足が止まる。
「やーりィ、この間のおかえしだッ」
葵が声のした方向へと振り返れば、ほんの少しだけ見覚えのある男の子が立っていた。
手にはサッカーボールを持っていて、この子が京一に向かってボールを蹴ったのだ。
男の子は、少し前に保育園の子供達が公園で遊んでいた時、京一が泣かせた男の子だった。
同時に、葵の幼馴染の男の子を苛めて泣かせた子でもある。
公園での出来事と、今の出来事で、葵は腹が立った。
あの時も今も、幼馴染の子も、京一も何も悪い事はしていない。
アン子先生は泣かせたのは良くない事だと言っていたけれど、先に幼馴染を泣かせたのはこの男の子の方で、京一は幼馴染の子を助けてくれた。
京一がボールをぶつけられて痛い思いをする必要なんて、絶対になかった筈だ。
「何するの!」
葵が怒って言うと、男の子は葵をちらりと見て、べーっと舌を出す。
「おかえしだよ、おかえしッ。だいたい、そいつナマイキでムカつくんだッ」
京一を指差して、男の子は言う。
「オレのかーちゃんが言ってたぜ。そいつのかーちゃん、いないんだって。オヤジがロクデナシで、シャッキン作ったから、出てったんだって。ロクデナシのオヤジのこどもは、ロクデナシなんだってさ。なのにナマイキでムカつくッ」
男の子が何を言っているのか、葵にはよく判らない。
男の子の方も、どんな意味が其処にあるのか、きっと判っていない。
母親の言葉をそのまま繰り返しているに過ぎない。
でも意味がどんなものであれ、きっと京一が嫌がる事だと言う事は、葵にも判った。
京一は葵の隣で黙ったままだったけれど、ぎゅうと手を握っている。
今にも殴り掛かりそうだった。
「ロクデナシのこどもが、えらそーにするな!」
「あなたにかんけいないじゃないッ」
「かんけいある。ココは、オレのナワバリなんだッ」
―――――男の子は、典型的なガキ大将だった。
同じ年頃の子供よりも体が一回り以上大きくて、ケンカをすれば負ける事は滅多にない。
他の子供が持っているオモチャを力付くで取り上げてしまう事も少なくなかった。
大人達もほとほと手を焼く問題児である。
対格差が明らかに違う男の子に向かって行く子供は、殆どいなかった。
いても負けてしまう事が殆どで、気付けば彼は、子供達の王様のようなポジションになっていた。
それが当たり前になってきた頃に、京一が現れた。
男の子と京一が会うのは、児童公園で。
男の子が誰かを泣かせたら現れて、飛び掛ってくる。
こんなチビなら楽勝だと思っていたら、京一は強かった。
殴れば殴り返すし、押し倒して揉み合いになっても泣かないし、全力で抵抗してくる。
終いには、男の子の方が泣かされた。
ガキ大将で王様気分だった男の子には、それが酷く屈辱的な事だった。
けれども、京一にとってはそんな事はどうでも良い。
「……べつにテメーなんかどうでもいい。ナワバリなんかきょうみねェし」
「だったらなんででしゃばるんだよ。ロクデナシのくせに」
何度も繰り返す単語。
京一がイライラとしているのが葵にも判る。
いや、葵もイライラしていた。
意味は判らないけれど、それでも酷い事を平気で繰り返して言う男の子に。
京一は何も悪くなんかないのに。
「……ろくでなしって言うな」
なんにもしらねェガキのクセに……!
苦しそうな、消えそうな声で京一が言った。
何かを我慢しているような声だった。
男の子はそれに気付かない。
寧ろ、京一がその単語に反応したのに気付いて、余計に繰り返して来る。
ろくでなし。
ろくでなし。
何度繰り返されても、葵にはなんの事かさっぱり判らない。
でも一番大事な事は判る。
京一はそんなものじゃないって事。
葵が京一の顔を見ると、怒った顔と、泣きそうな顔がごちゃ混ぜになったみたいだった。
――――――ばちん、と大きな音が響いた。
手がじんじんと痛みを訴える。
葵の手が。
生まれて初めて、人を叩いた手が痛い。
でもきっと、絶対、それ以上に、京一の方が痛い筈だと思う。
男の子の言っている意味は殆ど判らなかったし、男の子もきっと判っていなかった。
けれど、言って良い言葉と悪い言葉の区別ぐらい、葵にだって判る。
言えば京一を傷付ける事になると男の子も判っていて、なのに何度も繰り返すなんて最低だと思う。
相手を泣かせる言葉なら、京一も言った事がある。
二月に初めて真神保育園に来てから、京一はずっと、葵や小蒔が傷付く事をわざと言っていた。
その時は冷たい子だと思ったけれど、今なら判る――――あれは本気で言ったんじゃないと。
京一の事情を、葵は知らない。
でもあんな風にわざと人を遠ざけるような事を言わなきゃいけなかった位、何かを抱え込んでいたんだと今なら判る。
葵や小蒔を傷付ける言葉を言いながら、彼も傷付いていたんだと。
でも、この男の子の言葉はそういうものじゃなくて、単純に人を傷付ける為のものだ。
そうと判っていて繰り返す言葉は、とても鋭く尖っていて、痛い。
「きょういちくんのこと、しらないのに、ひどいこと言わないで」
ひっく。
葵の喉が引きつった。
じわり。
目の前がぐにゃぐにゃになる。
「しら、ないのにッ…しらないのにッ……ひどいことッ……」
服の裾をぎゅうと握って、葵は座り込んでしまいたいのを必死で我慢した。
男の子は、まさか女の子の葵に打たれるとは思っていなかったのだろう。
打たれた頬を押さえて、目を白黒させている。
京一もまた同様に、驚いた顔で葵を見ていた。
「ひッ…ひどッ……う、ふぇッ……」
じわじわと浮かんできた涙が、ぽろぽろ零れ落ちる。
泣き出した葵を前にして、男の子はオロオロとうろたえ始めた。
八百屋の暖簾が捲られて、買い物を終えたアン子先生が出てくる。
「美里ちゃん!?」
「せ、んせぇ……えっ、ふぇ……」
「京一、何、どうしたの? 何があったの?」
以前なら、京一がまた葵を泣かせたものと思っただろう。
だが最近の京一は、まだ少し素っ気無い所はあるものの、ケンカにならない限りは相手を泣かせてしまう事はしなくなった。
時々不可抗力で泣かせてしまう事はあったけれど、直ぐに謝れるようにもなった。
アン子先生の問いに、京一はあいつ、とだけ言って、男の子を指差した。
頬を腫らせた男の子を見て、アン子先生も思い出す。
その男の子が近所で有名なガキ大将で、児童公園で顔を会わせる度に誰かを泣かせていた事を。
「あんたはまたッ!!」
「やべッ…!」
大人のアン子先生が来た事で危機を感じた男の子は、くるりと背中を向けると、一目散に走り出した。
アン子先生は一瞬追い駆けようとしたが、泣いている少女の事を直ぐに思い出す。
出掛けた足を引っ込めて、泣きじゃくる葵と、傍に黙ったまま佇む京一に向き直る。
外での子供たちのケンカに気付けなかった事を、アン子先生は後悔していた。
勘定を終えて外に出ようと思ったら、奥間に戻ろうとしたおばあちゃんが転んでしまい、腰を打ってしまった。
年齢で言えば八十を超えたおばあちゃんを、そんな状態で一人に出来る訳もない。
直に息子が帰って来ると言われたけれど、それまで店先に座らせて置くのも良くないと思い、奥間に運んでいる間に子供達はケンカを始めてしまったのである。
戻ってみれば葵が泣いていて、京一は呆然としていて、ガキ大将の男の子がいて。
致し方のない事だったとは言え、やはり目を離すべきではなかったと思ってしまうのは無理もない。
アン子先生は、葵と京一を二人一緒に抱き締めた。
葵はぎゅうとしがみついて来て、京一は少しじたばたとしたけれど、直ぐに大人しくなる。
葵が落ち着いてまた笑えるまで、三人はそのままじっとしていた。
必要な買い物を全て終えてみれば、予想通り。
アン子先生一人で抱えるには重くなった荷物に、葵はついて来て良かったと思う。
京一もご褒美に約束のパンダのお菓子を買って貰って満足していた。
人参やピーマンやトマト、お肉や牛乳やジュースの入った重い荷物は、大人のアン子先生が持っている。
「おとこなんだからオレがもつ」と京一は言ったけれど、袋を引き摺ってしまう為、結局アン子先生になった。
京一は色鉛筆や画用紙やマジックペンの箱の入った袋と、お菓子の入った袋を持っていた。
葵は一番軽い、色紙や絆創膏の入った袋。
京一は葵の分も持つと言ったけれど、それじゃ自分がついて来た意味がなかったから、葵は自分も持ちたいと言って譲らなかった。
保育園への帰り道を、三人並んで歩く。
一番車道に近い側にアン子先生がいて、葵がいて、京一がいる。
葵はアン子先生と手を繋いでいた。
「アン子せんせい、おもくない?」
「へーきへーき。ありがとね、美里ちゃん」
一番重い荷物を持っているアン子先生を葵が気遣うと、アン子先生は荷物を持ち上げながら言う。
本当は少し肩が痛いくらい重かったりするのだけれど、言わない。
「美里ちゃんと京一が来てくれて助かっちゃった。あたし一人じゃ、全部は持てなかったもん」
ありがとね。
もう一度そう言って、アン子先生は葵の頭を撫でた。
葵は嬉しくて、胸の奥がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。
赤信号に引っかかって、三人並んで止まる。
真っ直ぐ進む先に、真神保育園の玄関が見えた。
葵は、なんだか少しほっとしたような気がした。
それは多分、今日一日で色々なことが起きたからだろう。
京一とずっと一緒にいて、一緒に買い物に出て。
何か特別な会話をした訳ではなかったけれど、それでもやっぱり嬉しかった。
少し前までは、話どころか一緒にいることさえも出来なかったのだから。
そして初めて誰かとケンカをして、相手の子を叩いた。
後で少し後悔したけれど、あのまま黙って聞いている事も、あの男の子に京一を傷付けられるのも嫌だった。
友達を守りたくて初めて振り上げた手は、じんと痛みはしたけれど、いつまでも後悔する事はなかった。
――――――今日はいつもと同じ一日のようで、いつもと違う一日だった。
…ただ少し不安なのは、あれから京一が一度も口を利いてくれないことだ。
元々葵と京一はお喋りが出来る仲ではなかったけれど、目を合わせたら何かアクションをしてくれた。
でも今日は、あの出来事から目を合わせることもしてくれない。
こっちを見ているような気はするのだけれど、葵が振り返ると、急にそっぽを向いてしまうのである。
何か良くない事をしてしまっただろうかと、不安になるのも無理はない。
葵は以前よりも京一の事を知っているけれど、全部を知っている訳じゃない。
また、京一の方から葵に歩み寄ってくれる事も、今のところなかったから。
あの男の子が言っていた事を気にしているのかも知れない。
あの言葉を、葵も思っているんじゃないかと、思われているのかも知れない。
思ってなんかいない。
そう言いたかったけれど、言ったら思っていたように見られそうで、迷ってしまう。
何を言えばまたこっちを見てくれるのか、まだ判らない。
赤信号の待ち時間が残り僅かになった。
曲がり道行きの横断歩道の信号がチカチカ点滅し始める。
そんな時、
「――――――………きょういちくん?」
荷物を持っていない方の手に、京一の手が重なった。
名前を呼んでそちらを見れば、京一は明後日の方向を向いている。
でも、重なった手は離れない。
葵は、そっと、重なった手を握ってみた。
すると、柔らかな力で握り返される。
信号が青に変わる。
行こう、とアン子先生に促された。
京一が先に歩き始める。
葵は京一に引っ張られながら横断歩道を渡った。
それからも手は離れなくて、葵はずっと京一に手を引かれていた。
突然の思わぬ出来事に、葵はしばらく、瞬きを繰り返し、
――――――――……ありがとな。
聞こえた言葉に、初めて京一から手を繋いでくれた事を思い出した。
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うちのサイトでは珍しく、葵メインの話でした。
思った以上に長くなってしまいました(汗)。毎度の事ながら…
京一の事情をちらり。
でも子供の口からこんな台詞出て来たら嫌ですねι書いてて残酷な気分でした…
京一の家庭事情については、追々書いて行きたいと思います。
ただほのぼの傾向ではないので、いつ滑り込ませていいかと迷ってます……