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電話が切れたのを確認して、八剣は自分も携帯の電源ボタンを押した。
そうして待ち受け画面に現れた小さな子供に、自然と口元が笑みを象る。
画面の右上に表示されている時刻を見ると、まだ18時前と言う時間。
空を見上げれば、其処は夕暮れに染まり、景色は緋色に染まっていたが、いつもの時間を考えれば早い方だろう。
だっていつも、こうやって外を見上げた時には、既に都会の空には星が瞬いているのだから。
八剣右近は、都内の美術大学に通う大学三年生である。
専攻しているのは日本画で、将来の希望としてはそれで食って行けたらと思う。
とは言え、現在の生活の資金源は、家庭教師の派遣アルバイトだ。
主に女子中高生が多く、端正な顔立ちとフェミニストな言動が相俟って、生徒と奥様方には、ありがたい事に評判が良い。
教え方も判り易いと評価が高く、ほぼ連日、何処かの家庭にお邪魔して勉強を教えている。
一箇所に平均して三時間は滞在させて貰うのだが、一つの家庭が終わると次の家庭に移り、一箇所で終わる事は殆どない。
ありがたい事にそこそこ忙しい生活をしているので、仕事が終わると既に夜――――なんて事はザラだった。
―――――数ヶ月前までは、それで八剣も構わなかった。
今日はお休みにさせて下さい、と言う連絡にも、正直特に感慨を覚えることはなかった。
生徒が休むと言う事は、家庭教師としてお邪魔させて貰う八剣も、休憩する時間が出来ると言う事だ。
だからそんな時は、小学生の頃から続けている剣術に身を打ち込むことが多かった。
だが、その剣術の方は、今年三月からぱったり打ち込むことがなくなった。
高校生の頃から通わせて貰った剣術道場が閉鎖することになった為だ。
代わりに、八剣は毎日、就学・就労を終えて向かう場所がある。
都内で人気のある、小さな保育園だった。
其処に預かって貰っている子供を迎えに行くのが、今年の三月から八剣の習慣に加わった事。
迎えに行く子供は、八剣の血縁ではない。
だが、子供が赤ん坊の頃から、八剣はその子の事を見ていた。
子供は剣術道場の師範であった人物の息子で、名前を蓬莱寺京一と言う。
八剣はこの子供のことを京ちゃんと呼んでおり、彼が生まれた頃から知っていた。
門下生達が竹刀を振るう道場の隅で、赤子は母に抱っこされて、皆の修練風景を見ていたのだ。
竹刀が打ち合い撓る大きな音に泣く事もなく、ただ一心に見詰めていた赤子の瞳を、八剣は忘れられない。
家の人以外にはあまり懐かない子で、八剣は、撫でようとするといつも噛み付かれていた始末である。
その子は、今年の一月で4才になった。
それから二ヶ月が経って、紆余曲折を経て、八剣は彼を預かることとなる。
画材と筆記用具の入った鞄を持って、八剣はすっかり習慣になったお迎えへと向かう。
大学から最寄の駅に着くと、丁度滑り込んできた電車に乗って、約二十分。
その間に八剣は携帯電話の画像フォルダを開いて、映った小さな子供の姿に笑みを浮かべていた。
八剣の携帯の画像フォルダは、一人の子供―――京一で一色に埋まっていた。
カメラを向けられた京一は殆どがムスッとした顔をしていたが、八剣はそれでも構わなかった。
時々、ムスッとしていない顔もある。
それは決まって寝ている時にこっそり撮った写真で、特にお気に入りのパンダのぬいぐるみを抱っこしている時の寝顔は、本当に天使のようで愛らしい。
丸っこいほっぺは大福のように膨らんでいて、触るとぷにぷにとするのだ。
可愛くない訳がない。
(いつもこうだといいんだけどねェ)
開かないドアに寄りかかって、眠る子供の写真を眺めながら思う。
京一は、笑うと可愛い。
照れ屋なので、褒めると赤くなる。
それも可愛い。
でも大抵は口をヘの字に噤んでいて、あまり笑うことがない。
(……今は、無理もないか)
今携帯の中に入っている写真は、全部彼を預かるようになってから撮ったものだ。
その以前でさえ、京一はあまり八剣に笑ってくれなかった。
元々天邪鬼がよく顔を出す子で、八剣は特にその顔を見ていて、未だにスキンシップを図ろうとすると噛み付かれたり引っかかれたりするのだ――――随分加減してくれるようにはなったけれども。
……その上、紆余曲折の全貌を思い出せば、この小さな子供が笑わなくなってしまった理由も判る。
電車が止まって駅に降りると、八剣は携帯を閉じた。
するすると無理なくホームを通り抜け、改札口を通り、外へ。
タクシーが使えれば時間は随分短縮できるのだが、生憎苦学生の身である。
ほぼ毎日家庭教師の仕事を回して貰っているとは言え、八剣が過ごしているのは都内の只中にあるアパート。
それもそこそこ綺麗で広い場所を選んだ為に、この家賃が結構バカに出来ないのだ。
最近タクシー代も初乗りから値上がりしているから、削れる出費は削らないと生活が辛い。
―――だったらどうして安いアパートにしなかったのかと言われるだろう。
八剣がこのアパートに引っ越したのは、今年の二月の事。
それまでは苦学生にお似合いと言われるような、築数十年と言うアパートに暮らしていた。
引っ越した理由は他でもない、今から迎えに行く小さな子供に関連する。
八剣が今住んでいるアパートから、子供を預けている保育園までは、大人が歩いて約十分。
小さな子供が歩くには、決して短い距離ではない。
だが、其処が入園を予定していた真神保育園に一番近いアパートで、家賃がギリギリ手の届く範囲だったのだ。
部屋の広さも、子供が遊ぶのに手狭になるのは嫌だったから、恐らく普通は二人でルームシェアでもして住むぐらいの場所を選ぼうと思った。
その結果、今のアパートに住む事になったのである。
現在、八剣の生活の中心は、京一になっている。
アルバイトが終われば、若しくは入っていなければ、何よりも先に彼を迎えに行く。
大学の友人達に付き合いが悪くなったと言われたが、申し訳ないけれども、このリズムを変えるつもりはない。
今の八剣にとって何より大切なのは、赤子の頃から知っている、天邪鬼な可愛い子供なのだ。
この子を置いて何処かに行くなんて、そんな事は絶対に出来ない。
駅から保育園まで、歩いて十分。
途中で親に連れられた子供達と擦れ違う。
いつもは、そんな親子連れと擦れ違うこともない位、此処を通る時間が遅い。
保育時間のギリギリの時間であったり、期せずして延長保育になってしまう事もしょっちゅうだった。
その度に悪いことをしたな、と思わずにはいられない。
今日は本当に珍しく早い時間だ。
驚いてくれるかな、と思いつつ、多分いつもの顔しかしてくれないんだろうなと予想して苦笑が浮かんだ。
『まがみほいくえん』と可愛い絵と一緒に描かれた看板が見えた。
少し早足で門の前まで来ると、楽しそうに会話をしている親子と擦れ違う。
愛する子供があんな風に笑いかけてくれるのは、いつになるのか。
過ぎった暗い考えを振り払って、八剣は茜色に染まる保育園へと入る。
まだ灯りのついていない保育園に入ったのは、初めてのような気がした。
建物の玄関口に近付くと、他の子供を見送っていたのだろう、女性が八剣に気付いた。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は早いですね」
此処でチーフ保育士をしている、マリア・アルカードだった。
京一を此処に預けるようになってから、二ヶ月が経つ。
チーフの彼女はいつも遅くまで残っていて、迎えの遅い京一を最後まで見てくれていた。
「夕方のアルバイトが無しになったんでね。お迎えに」
「それは良かったです。直ぐに呼んで来ますね」
くるりと踵を返して、マリアは子供達の遊ぶ遊戯室に向かった。
その背中を見ながら、果たして来てくれるかなと、八剣は苦笑する。
早い時間に親が迎えに来ると、大抵の子供は喜んで飛び出していく。
でも京一はそうじゃない、遅い迎えでも中々遊戯室から出て来ない事が多いのだ。
迎えに来るのが八剣だから―――という訳でもないだろう。
彼の父や母が迎えに来ても、多分、直ぐには出て来ないと思う。
素直な子ではないから。
八剣のその予想は見事に当たった。
玄関口で五分ほど待ち惚けになったが、子供もマリアも遊戯室から出て来る様子がない。
八剣は失礼する事にして、靴を脱いで上がらせて貰った。
遊戯室を覗くと、まだ数人の子供が残っている。
京一以外の子供が此処にいるのも、八剣はあまり見掛けない。
真神学園は保育園として子供を一時預かりする以外にも、泊りがけの預かりにも応じる。
家庭環境が育児に対して余り良くない家庭の場合、此処で引き取ることもあるそうだ。
今も数人、そんな子供が此処で寝食を過ごしている。
だが八剣が京一を迎えに来た時、それらの子供が遊戯室で遊んでいることは少ない。
遊び疲れて寝てしまったりして、布団の中で眠っている事が殆どだった。
それだけ、いつも待たせてしまっているのだと思うと、胸の奥が痛くなる。
京一は部屋の隅にいた。
大きな本を開いていて、じっとそれを見て動かない。
傍らでマリアが声をかけていたが、京一は其方を見てもいなかった。
マリアが八剣に気付いて、此方に歩み寄ってくる。
「ごめんなさいね、お迎えに来て貰ったのに、まだ帰らないって聞かなくて…」
「いや。いつも俺が遅いからね、その所為でしょう」
いつもの遅い時間でも、しばらくの時間を要して、ようやく帰ろうと言う言葉に応じてくれるのだ。
常とタイミングの違う帰宅時間に、そう簡単に応じては貰えないだろう。
けれど、八剣はどうしたら京一が帰ろうと言う言葉に応じてくれるのか、ちゃんと判っている。
「入っていいかな」
「ええ、どうぞ」
遊戯室に残っている子供は、八剣のことを何度か見ている。
覚えている子もいるのだろう、幾つかの視線が八剣を追い駆けるが、怖がったりする様子はなかった。
部屋の隅で動かない京一の傍らにしゃがむ。
「京ちゃん、迎えに来たよ」
呼ぶと小さな頭が持ち上がって、丸い瞳が八剣を見た。
それは数秒八剣を見詰めた後、ぷいっとまた下へ―――読んでいた図鑑へと向けられる。
「まだ帰らない?」
「………」
ウンともスンとも言わない。
小さな手は、図鑑のページを捲ろうとはしなかった。
ページに書かれた小さな説明文を読んでいる訳ではない。
其処に描かれた動物の絵に釘付けになっている。
開かれているのは、いつもと同じ、パンダのページ。
何回見ても、京一は飽きずにパンダをじっと見ているのだ。
「うん。此処にいたかったら、それでいいんだけど」
「………」
「もう直ぐパンダさんのテレビ始まるよ。見なくていいの?」
毎週、19時から始まる動物番組。
マスコットキャラクターがパンダのその番組を、京一は毎週見ていた。
いつもは録画しないと見れない番組なのだけれど、今日は帰れば直ぐに見れる。
録画予約はちゃんとしているが、やっぱりリアルタイムでも見たかったのだろう。
京一は少しの間無言だったが、ぱたりと図鑑を閉じて本棚に戻した。
京一はロッカーから自分の鞄を引っ張り出して背負うと、そのまま真っ直ぐ廊下へ。
八剣を待とうとしないのはいつもの事だ。
他の子を見ていたマリアが「bye、京一君」と言ったけれど、返事をしないで部屋を出て行く。
それに眉尻を下げて八剣が頭を下げると、マリアも一つ頭を下げる。
傍の子供が直ぐに呼んだので、マリアの視線は其方へと向けられた。
遊戯室を出ると、京一は玄関口で靴を履いている所だった。
隣に並んで自分の靴を履いて、八剣は京一が履き終わるのを待つ。
いつもより履くのが遅い京一は、どうやら靴が小さくなっているようだった。
子供の成長は本当に早い。
「今週の日曜日、新しい靴買いに行こうか」
「……いい」
「転んだら危ないからね」
「…いいっつってる」
八剣の言葉を突っぱねる京一だったが、八剣の頭は既に週末の事で埋まっている。
折角だから京一が気に入ってくれるものを買ってやりたい。
だが子供の成長は早いから、また直ぐに履けなくなってしまう可能性もある。
マジックテープで止めるものじゃなく、紐靴だったら、もう少し長く履いていられるだろうか。
なんとか京一の足は靴に納まったが、爪先が当たるのだろうか。
何歩か歩くと足元を見て、少し落ち着かない。
やっぱり週末に買いに行こう。
京一が要らないと言っても、八剣はもう決めた。
建物を出ると、京一がぴたりと足を止めた。
数歩前に進んでいた八剣も、足を止めて振り返る。
すると、緋色の空を見上げて、ぽかんと口を開けている子供がいた。
―――――この子が夕暮れの空を見たのは、随分久しぶりの事だったのかも知れない。
「……ごめんね、京ちゃん」
八剣が呟くと、京一が此方を見た。
「なにがごめんなんだ?」
「……いつもお迎えが遅くなっちゃうこと、だね」
「なんだ」
そんな事か。
特に気にしていない風で、京一は歩き出した。
……そんな風に振る舞うのが一番良い事なんだと、この小さな子供は思っている。
大人が気にするような事を、自分は何も気に止めてなんていないんだと言うのが良い事なんだと。
顔色を伺っている訳でもないけれど、京一は聡い。
自分の存在が周りの大人にとって、必ずしもプラスでない事を知ってしまっている。
だからマイナスにはならないように、周りに頼らないし、淋しいなんて顔もしない。
重力に従ったままに垂れる、八剣の左手。
背負った鞄を握る、京一の小さな手。
八剣は、この子と手を繋いだ事がない。
暗い夜道を歩く時でも、この子は八剣の手に頼ってくれない。
それが、守りたいと願う大人にとってどれ程淋しい事か、小さな子供はまだ判っていない。
顔色を伺って、ご機嫌を取るような仕草をされるのも嫌だ。
それを考えたら、京一のこの態度は、八剣にとってはまだ幸いと言える。
京一には真っ直ぐでいて欲しい。
天邪鬼でも構わない、根っこは純粋なんだと八剣はちゃんと知っている。
けれどもう少し、甘えて欲しいと思わずにはいられない。
ポケットの中の携帯電話が鳴った。
見ればメールの着信で、ボックスを開くと京一の父からだった。
内容に大体の予想をつけてメールを開いて―――――思った通り。
「京ちゃん」
「ん」
「…師範、今日は帰れないって」
正確には、今日“も”。
八剣が京一を預かるようになった理由は、これだ。
剣術道場を閉め、連日連夜、土建や運送業で働くようになった京一の父は、殆ど息子に構ってやることが出来ない。
京一はそれについて父に泣くような事はなかったけれど、八剣には返ってそれが痛々しかった。
事情を全て知って、八剣は京一を預かる事を彼の父に申し出た。
親子でよく似たこの父親は、元門下生の八剣に頼る事に少々渋い顔はしたが、息子を一人にするより良いと思ったのだろう。
息子の面倒を元門下生に託し、自身はやらなければならない事へと東奔西走している。
だが息子を全く無視している訳ではなくて、こうして必ず、八剣の携帯に連絡を入れてくれる。
そうして、“帰れない”と言う言葉を、何度こうして言伝ただろう。
八剣が京一を預かるようになった時には、京一はもう、父の帰りが遅い―――若しくは帰って来ない事にも慣れてしまっていた。
……いや、慣れてはいない―――けれど、それを我慢する術を覚えていたのだ。
今日もまた。
「……ふぅん」
それだけ呟いて、淀みないリズムで歩いて行く。
いつもの事じゃんか、と小さな声が八剣の鼓膜に届いた。
――――なんだか無性に抱き締めたくなる。
嫌がられるのは判っていたけれど、八剣は小さな体を掬い上げた。
急なことにひっくり返った声が上がる。
「なんだよ、おろせよ!」
「良いから良いから」
「なにがいいんだよ、おろせってば!」
「俺がこうしていたいんだよ」
軽々と、いとも簡単に抱き上げられる、小さな体。
すっぽりと腕の中に収まってしまう、小さな体。
まだまだ、守られていて良い、甘えて良い筈の、小さな体。
かぷり。
頬をくすぐっていたら、その手に噛み付かれた。
そのまま、あぐあぐ口が動く。
八剣は好きにさせていた。
これが八剣と京一の間では普通の風景。
「晩御飯、何にしようか」
「はーひぇん」
「ラーメン好きだね、京ちゃん」
「………」
「いたた」
手を噛む歯が少し食い込んだ。
天邪鬼な子供だから、物事について好きか嫌いか問われると、大抵嫌いと答えてしまう。
でもラーメンの事は嘘でも嫌いと言えないから、せめてもの抵抗でこんな事をして来る。
八剣は怒らなかった。
本当は怒った方が良いのかも知れないけれど、ちゃんと加減も出来るようになっている。
それに、そういう躾は父親がきちんとしていてくれただろう。
「でもラーメンは昨日も食べたよね」
「………」
「同じものばっかり食べると病気になっちゃうよ。今日は別のもの食べようね」
「………」
「その代わり、明日は美味しいラーメン屋さんに食べに行こうか」
見下ろして微笑み、言うと、噛んでいた手が離される。
小さな手が八剣のジャケットを掴んで、こてんと頭が胸に乗せられた。
どうやら納得してくれたらしい。
頭を撫でると、いやいやとぶんぶん頭を振られる。
これは赦してはくれないんだなぁと、八剣は苦笑した。
小さな体。
小さな手。
一所懸命背伸びして。
転んでも泣かないで、何も言わずに一人で立って。
淋しいなんて思っちゃ駄目だと、いつもヘの字に口を閉じて。
それが良くないなんて、言うつもりはないけれど。
もっと甘えて欲しいから、一杯一杯、甘やかしてあげる。
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このシリーズを思いついて、一番書きたかった八剣&チビ京一。
八剣の手に噛み付いてる京ちゃん可愛いなぁとか阿呆なこと考えてしまったんです。
所で、八剣が美大生ってなんか変ですね。ごく普通の一般人の職業で選ぶには、一番無難かなーと思ったんですけど……何故かしら。もうこの人は暗殺者しか自然な道はないのかしら(それはちょっと…!)