例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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はじめまして







桜が咲いて花吹雪く四月。

今日から此処で過ごすのよ、と。
母に連れてこられた場所は、とてもきれいで、温かそうだったのだけれど。
新しい環境に慣れていない龍麻には、まだまだ不安で一杯の場所だった。



でも、手を繋いだ母を見上げれば、あるのは温かくてふわふわした、大好きな笑顔。
母がそんな顔をしている時は、いつだって先にあるのは母みたいに温かくてふわふわしたものだ。
だから大丈夫なんだろうと思う。

思うのだけど、繋いだ手を離すのはやっぱりまだ怖くて、きゅうと繋ぐ手を握る。
母はふわりと笑ってくれて、大丈夫よ、と言ってくれた。




大きな入り口で、二人しばらく立っていると、建物の入り口から人が走ってきた。
きらきらと光る金色の長い髪のその女の人は、門の前まで来ると、からりと門を開けて初めましてと頭を下げた。






「この真神保育園でチーフをしております、マリア・アルカードと申します」
「まぁまぁ、ご丁寧にどうも。緋勇と申します」






ぺこりと母が頭を下げる。
それを見て、龍麻もぴょこっと頭を下げた。

頭を上げると女の人がしゃがんで、龍麻と同じ目線になった。






「初めまして」
「……はじめまして」






小さな声ではあったが、返事が出来た。
女の人がにこりと笑う。






「お名前言えるかな」
「………ひゆぅたつまです」
「何歳ですか?」
「…よっつ」






繋いだ母の手を引っ張って、その影に隠れようとしながら、それでもなんとか答えられた。


Good! よく出来ました。
そう言って、女の人は龍麻の頭を撫でた。


いつも頭を撫でてくれる母とも、父とも違う手だ。
でも優しい手なんだと判る、だって頭を撫でる手はとても温かいんだ。






「私はマリア・アルカード。マリア先生って呼んでね」
「まりあせんせい」
「OK!」






また撫でられた。


手が離れて、撫でられた場所に手を持っていってみる。
なんだか、ほこほこしているような気がした。



今日から宜しくお願いします。
はい、此方こそどうぞ宜しく。

ぺこり、ぺこり、母とマリア先生が頭を下げている。


母がしゃがんで、龍麻と同じ目線になった。






「それじゃあ、お母さんはお仕事に行って来るわね」
「うん」






龍麻は、此処がどういう場所なのか、ちゃんと判っていた。


龍麻の父は陶芸家で、最近注目を浴びるようになり、色々な所から仕事のお願いが来るようになった。
その前から工房に篭ると篭りっきりになる事が多かった父は、益々篭るようになった。
それでもちゃんと、龍麻が晩御飯だよと呼びに行くと、手を止めて家に帰って来る。
だから龍麻は、普段は父の仕事の邪魔にならないよう、日中の工房には近付かないようにしていた。

ようやく芽が出始めた父の陶芸だけでは、一家は食べて行けない。
だから母はパートで朝から夕方まで仕事が入っていて、その間、龍麻は保育園に預けられていた。


昨日の夜にも母から説明をして貰っていたし、此処に引っ越してくる前も同じような場所に通っていた。
龍麻にとっては、保育園という場所は、それほど遠いものではなかった。



でも、新しい場所はやっぱり少し緊張する。

と、思っていたのだけれど。





離れて行く母に手を振って、角に曲がって見えなくなるまで見送って。
手を下ろしたら、マリア先生が隣でしゃがんで、






「じゃあ、行きましょうか。まず皆にご挨拶しましょうね」
「はい」






ドキドキする。



前の保育園では、引っ込み思案な龍麻は、あんまり友達が出来なかった。
段々それが当たり前になって、自分からも皆の輪に入らなくなった。

でも、此処は新しい場所だ。


ドキドキする。
でも、同じくらいわくわくする。








手を引くマリア先生の後をついて、龍麻は新しいドアを潜った。






































広い部屋の中は、龍麻と同じくらいの子供で一杯だった。

その人数の十人かけることの二。
二十のまん丸な瞳が、龍麻とマリア先生に真っ直ぐ向かう。


じっと見つめられるのが恥ずかしくて、龍麻はマリア先生の後ろに隠れたくなった。
でも、此処では沢山友達を作りたいと思ったから、頑張って皆の前に立っている。






「今日から皆のお友達になります。はい、お名前は?」
「ひゆぅたつまです」
「Good、よく出来ました。皆、仲良くね」






はーい。
十個の声が広い部屋に反響する。






「それでは、仲良くなる為の第一歩。QuestionTimeー!」
「くぇ……??」






高々と右手に人差し指を掲げて言ったマリア先生に、龍麻はきょとんと首を傾げる。
しかし判らなかったのは龍麻だけだったようで、他の子供達ははいはいと声を出して手を上げる。

マリア先生はくるりと子供達を見回して、一人の子供を指名した。






「それでは美里さん。自分の名前もちゃんと教えてあげてね」
「はい」






呼ばれて立ち上がったのは、長い黒髪で、耳の横の髪に飾りをつけた女の子。
ふんわりとした雰囲気で、きちんと両足を揃えて立っている。






「みさとあおいです。ひゆうくんの、好きなたべものはなんですか?」
「いちご、です」
「あ、ボクもすきー!」






葵の隣にいた、セミロングの髪の女の子が手を上げた。


龍麻は、少しほっとした。
前に、女の子みたいで変、と言われた事がある。

言った子は先生に怒られていたけれど、その後もしょっちゅう龍麻をからかって来た。
その子は悪気はなくて、単純にそう思って、それが口から出てしまっただけだろう。
でも龍麻は少しショックだったから、また言われないかと少し心配していたのだが――――此処では、大丈夫のようだ。



他に聞きたいことはある? とマリア先生が言った。
さっきのセミロングの女の子が手を上げる。






「はい、桜井さん」
「さくらいこまきです! 好きなどうぶつさんはなんですかー?」






元気な声で、小蒔はきらきらした瞳で龍麻を見詰めた。

龍麻は少し考えた。
考えて、最初に浮かんで来たのは、この間父と一緒にテレビで見たもの。






「どうぶつさん…えっと………てんぐさん?」
「てんぐ?」
「てんぐってなにー?」






父が時代物が好きだから、龍麻も一緒に見ている。
この間見た“天狗”と言う生き物が動物かは判らなかったが、人間ではなかった事だけはちゃんと覚えていた。
だから言ったのだが、子供達は皆顔を見合わせて、「てんぐってなに?」と首を傾げている。

間違ったことを言っただろうか。
オロオロして龍麻がマリア先生を見ると、マリア先生は笑っていて、






「変わったものが好きなのね、緋勇君は。うん、教えてくれてありがとうね」






ぽんぽんと頭を撫でられる。
ほっとした。

子供達は“てんぐ”が何かを話し合っていたが、マリア先生が手を叩くとお喋りを止めて前を向く。






「じゃあ、次の質問。はい、手を上げて」
「はーい」
「はい!」






マリアが名前を呼んだのは、前髪で片目を隠した男の子。
今までの子と違って、少し近付きにくい雰囲気だ。






「…きさらぎひすい、です。好きなテレビはなんですか?」
「えっと……えっと…」






龍麻が見るテレビは、時代物が殆ど。
それも父と一緒に見始めたものばかりだ。

龍麻は戦隊ヒーローも見なかったし、アニメも見ていない。
でも時代物のタイトルを言っても、さっき天狗が判らなかったから、皆判らないだろう。


オロオロしていると、マリア先生がしゃがんで龍麻を見つめ、






「隠すことないのよ、緋勇君。皆が判らなかったら、アナタが教えてあげればいいの」
「………」
「なんでもいいのよ。皆に、アナタをちゃんと教えてあげてね」






微笑むマリア先生に、龍麻も頷く。






「えっと……いがにんじゃって言うの、今、見てます」
「あ、きさらぎくんも見てるのよね」






葵が言うと、質問した子―――如月が小さく頷いた。

龍麻は少し驚いたが、嬉しかった。
同じテレビの話が出来る相手は、今までいなかったからだ。


次の質問。
また何人かが手を上げる。

呼ばれた子は、帽子を前後ろ逆に被った、頬に絆創膏を貼った男の子だった。






「うもんらいと。…聞きたいことじゃないんだけど」
「うん? どうしたの?」






男の子―――雨紋はマリア先生を見た。






「きょーいちがいねェよ」
「…あら。またあの子……誰か知ってる?」






マリア先生は溜息交じりで聞いたが、子供達は皆首を横に振る。

またあいつ、と小蒔が言って、隣の葵が少し寂しそうに俯いた。
俯いた葵を慰めるように、如月が葵の頭を撫でる。



マリア先生は部屋を何度か見回して、廊下の窓へと目を留めた。
ぱたぱたと其方に駆け寄ると、丁度外を通りかかっていた眼鏡のお姉さんを呼び止める。






「遠野さん、蓬莱寺君見なかった?」
「え? あの子またいないんですか?」
「ええ。私が此処に戻った時はいたと思うんだけど……新しい子が来たから、皆に紹介したら、いつの間にか」
「じゃあ、この荷物置いたら探しに行きます」
「お願いね」






ぱたぱた、眼鏡のお姉さんは廊下を駆け足で通り過ぎて行った。
それを見送って、マリア先生は下の位置に戻る。






「京一君には、また後で逢いましょうか」
「きょういちくん…?」
「いいよ、きょういちなんか気にしなくって」






小蒔が声を上げた。
其方を見ると、小蒔は怒ったような顔をしている。

マリア先生が小蒔の傍にしゃがむと、眉尻を下げて小蒔のおでこをピンッと弾く。
小さな悲鳴が上がって小蒔の額は少し赤くなっていたが、泣き出すほどではない。






「桜井さん、そういう事は言っちゃ駄目よ」
「だってマリアせんせー、きょういち、いっつもかってにしてるんだもん」
「京一君もまだ此処に慣れていないのよ」
「そんなことないよ。きょういち、二月からここに来てるのに」






唇を尖らせる小蒔に、マリア先生は頬杖で考え込む仕草をした。

葵が小蒔の肩を叩く。
せんせいこまらせたらダメよ、と葵が言って、小蒔はまた拗ねた顔をしたが、それ以上は何も言わなくなった。



楽しそうだった空気から一転、部屋の中は静かになってしまった。
帽子の男の子の隣で本を読む子の、ページを捲る音くらいしか聞こえて来ない。



マリア先生はそれを払拭するように、明るい声で、






「――――それじゃあ、QuestionTimeは此処までにして、皆で遊びましょうか」
「はーい!」






マリア先生の言葉に、皆が大きな声で返事をする。


葵が立ち上がって、早速龍麻の傍に駆け寄ってきた。

龍麻は少し緊張してマリア先生の影に隠れたが、葵は気にせずに微笑んでいる。
にっこりと笑うのが可愛くて、龍麻は少し頬が赤くなる。






「よろしくね、ひゆうくん」
「うん」
「ね、こっちにきて」






葵が龍麻の手を取って、小蒔ともう一人男の子が座っている。
龍麻より一回りも体の大きな男の子だった。






「よろしく、ひゆうくん」
「うん」
「だいごゆうや。よろしく」
「うん」






葵が小蒔の隣に座ったので、龍麻は葵の隣に座った。
反対隣には醍醐が座っている。



三人は、他の子供達の事を教えてくれた。


龍麻と同じテレビを見ていると言うのが、如月翡翠。
家は古い道具を沢山売っている店で、彼と葵の親はずっとずっと昔からの知り合いだ。

帽子を反対に被っている子が雨紋雷人。
彼の傍で静かに本を読んでいるのが唐栖亮一。
二人は家が近いので、いつも一緒にいるのだが、活発な雨紋に対し、亮一はあまり他の子供と遊ばない。
外に遊びに行くのも雨紋が誘ってようやく、と言う手合いだった。

二人、そっくりの女の子がいる。
一人はストレートで、もう一人はポニーテール。
双子の姉妹で、ストレートの方が妹の雛乃、ポニーテルの方が姉の雪乃だ。

部屋の隅で、一人椅子に座って本を開いている眼鏡の子は、壬生紅葉。
あまり喋らない大人しい子で、頭が良い。
この保育園にいる子供達の中で、一番色々な事を知っている。

マリア先生と同じ、金色の髪を持った子がいる。
一番小さな女の子で、名前はマリィ。
黒猫のぬいぐるみがお気に入りで、メフィストと言う名前をつけていつも抱きかかえている。


それから―――――






「あとね、きょういちくんがいるの」
「さっき言ってた子?」
「うん」






その名前が出ると、小蒔がむぅとまた唇を尖らせた。
それに首を傾げると、醍醐が言う。






「あんまり、みんなとあそばないんだ。きょういちは」
「どうして?」
「さぁ……」
「かってだからだよッ」
「こまき、しーっ」






大きな声を出した小蒔に、葵が人差し指を立てて「静かに」の合図。
それを叱るマリア先生は今いなかったけれど、小蒔は慌てて口を手で塞いだ。






「きょういちくんはね、二月にここに入ったの。まだなれてなくって、あんまりあそんでくれないの」
「それだけじゃないよ。あおい、いっぱいヒドいこと言われたじゃん」






きっぱりと言い切る小蒔に、葵は表情を曇らせる。


大人であれば、もう少し判っていれば。
小蒔もこんな言い方をしなかっただろうけれど、此処にいるのはまだ小さな子供達ばかり。
思ったことをどうやって丸く包んで収めるかなんて、判らなかった。

そして葵も、そんな事ないよ、とフォローが出来ない。
小蒔が言う事が真実であるからだ。



怖い子――――なのかな。
二人の会話を聞いていて、龍麻は思った。

が。






「きょーいちがカッテなんじゃねェよ」






聞こえた声に龍麻が振り返ると、雨紋が立っていた。
隣に亮一もいて、亮一は雨紋の影から龍麻をじっと伺っている。






「きょーいちがカッテなモンかよ。カッテなのはお前らだろッ」
「なんでそういうコト言うのさ!」
「だってそうだろ。なんにも知らねェクセして」






雨紋の言葉も、小蒔を見る目も、酷く刺々しい。

どうやら、雨紋は“きょういち”に対して、小蒔とは違う思いがあるらしい。
どちらが正しいのか判らなくて、間に挟まれた龍麻はオロオロしてしまう。


二人の間に割って入ったのは、醍醐だった。
今にも飛び掛りそうな小蒔の肩を抑えて、雨紋は亮一が服をグイグイ引っ張っている。

龍麻が葵を見ると、“きょういちがいない”と聞いた時と同じ、寂しそうな顔をしていた。




部屋のドアが開いて、一人の男性が入ってきた。
喧々とした部屋の真ん中の子供達を見て、ゆっくり歩み寄ると、子供二人の襟首を掴んで持ち上げる。






「ケンカをするなら、外でやれ」
「げッ、いぬがみッ」
「先生をつけろ」






すとん。
小蒔も雨紋も床に下ろされる。


誰だろう――――そう思って見上げていた龍麻に、葵が教えてくれた。
名前は犬神杜人、マリアと同じくらい長く保育園に勤めている人だと言う。

小蒔と雨紋は渋い顔で犬神先生を見ていたが、龍麻は不思議な人だなぁと思って彼を見上げた。
怖いようなそうでもないような雰囲気で、今は小蒔と雨紋を起こっている筈なのに、怒られているような気がしない。
でも小蒔も雨紋も大人しくしていて、じっと見下ろしてくる視線をただ受け止めていた。



……そんな時である。
龍麻がトイレに行きたくなったのは。




なんとなく言い出し辛い雰囲気に、龍麻はどうしよう、ともじもじした。
此処にいるのがマリア先生だったら言えただろうけれど、目の前にいるのは犬神先生だ。
怖くはないけれど、ちょっと近寄りにくそうな感じがした。

そんな調子でもぞもぞしていると、ふと、眼鏡の奥の細い目が此方を見た。






「……緋勇龍麻だったな」






呼ばれて、こくりと頷く。






「俺は犬神だ。トイレに行きたいなら言え。此処ではちゃんと主張しろ」
「しゅちょう?」
「言いたいことは言って良い。そういう事だ」






言われて、龍麻は少し恥ずかしかったが、







「……………おしっこ」







呟くと、くしゃりとごつごつした大きな手が龍麻の頭を撫でる。
そのまま後ろ頭を押す手に従って、龍麻は部屋を出た。



大きな手は、父のものよりずっとずっと、ごつごつしている。
手が持ち上がったのを見た時、その大きさとゆっくりした動きで、ちょっと怖かった。
でも頭を撫でるのは、父や母、マリア先生とやっぱり同じだ。

此処にいる人達は皆柔らかくて優しくて、温かい。
声をかけてくれた葵も、小蒔も、醍醐も、他の子供たちも、誰も龍麻を遠巻きにしたりしなかった。


此処はすごく温かい。
大好きになりそうだ。




でも今は取り敢えず――――早くトイレに行かなくちゃ。
































連れてこられたトイレでおしっこをして、洗面台できちんと手を洗う。
その間、犬神先生はトイレの入り口にじっと立っていた。

濡れた手をハンカチで拭いて、犬神先生の下に戻ると、犬神先生は何も言わずにトイレから出て行く。
龍麻もそれを追い駆けて、トイレを後にした。




と、その時。






「いてッ」
「あう」






どんっと誰かとぶつかって、龍麻は床にころりと転んだ。
相手も同じように尻餅をついて、ぶつけた頭を手で押さえている。

ぶつかった相手は男の子で、さっき部屋にいなかった子だった。






「きィつけろッ!」
「ごめん」






怒られて、思わず龍麻が謝る。
男の子は、怖い目をしていた。


この子が、さっき部屋で皆が話をしていた“きょういち”だろうか。

“きょういち”と思しき男の子は、首や袖口に赤いラインの入ったシャツを着ていた。
それはあちこち泥だらけに汚れていて、“きょういち”の顔や手や腕、膝なんかも泥がついている。
靴下はどうしてか濡れていて、其処にも泥がついて茶色になり、床に足跡を作っていた。
いや、足だけではない、よくよく見たらシャツもズボンも、髪の毛も、水を吸って体に張り付いている。



―――――そんな“きょういち”を、犬神先生がひょいと持ち上げる。






「気を付けるのはお前だろう。また池に落ちたのか」
「るせェ、はなせッ! この犬ッ」
「犬神だ」






宙ぶらりんのまま、“きょういち”はじたばた暴れた。
けれど、犬神先生は“きょういち”を床に下ろさない。


ぱたぱた、廊下の向こうから人が走ってきた。
龍麻が部屋で見た、眼鏡のお姉さんだ。






「あッ! 犬神先生ごめんなさいッ、ありがとうございます!」
「早く風呂に入れてやれ」
「はい。ほら、行くわよッ」
「いーらーねーえーッッ!」
「だーめ!」






尚も暴れる“きょういち”を、眼鏡のお姉さんが抱っこする。
髪を引っ張られたり、腕を抓られたりして悲鳴が上がったが、お姉さんは“きょういち”を落とさなかった。
やめなさいと怒る声があったけれど、だからと言って手を離したりはしなかった。


遠くなっていく眼鏡のお姉さんの背中と、その肩口から覗く“きょういち”と。
じっとそれらを見送って、龍麻は傍らで同じように見送っている犬神先生の手を引っ張った。

無言で見下ろしてきた犬神先生と、見上げる龍麻の視線が交わる。






「いぬがみせんせー、いまの子が“きょういち”?」
「ああ」






やっぱり。
あの子が、皆が言っていた“きょういち”なんだ。

どうしてあの時、あの子は部屋にいなかったのだろう。
最初はいたとマリア先生は言っていたけれど、龍麻はそれを見てはいなかった。
そして今の今まで、何処で何をして、あんなにびしょ濡れになったんだろう。


葵は“きょういち”の話が出ると、寂しそうな顔をする。
小蒔は“きょういち”の話が出ると、どうしてか怒り出す。
でも雨紋は“きょういち”は勝手じゃない、と言っていた。

龍麻には、“きょういち”がどんな子なのか、さっぱり判らない。
さっきは怒られて怖い子だと思ったけど――――――




この保育園の園舎はコの字型に作られていて、廊下は庭に面していて壁がない。
透明な大きな窓ガラスとカーテンしかなく、そのカーテンは今は開けられている。

角を曲がって、『おふろ』のプレートがかけられた部屋の扉を、お姉さんが開ける。
その時、龍麻には“きょういち”の横顔が、ほんの一瞬だけど見えた。







お姉さんの腕の中。
大人しくなった“きょういち”に、お姉さんが何か話しかけた。
“きょういち”はぷいっとそっぽを向いてしまった。

その時、確かに―――――“きょういち”は寂しそうな目をしていたのだ。















桜が咲いて花吹雪く四月。


それが、二人が初めて出会った日だった。
















----------------------------------------


ノリと勢いって凄い(笑)。

やっちゃいました、保育園パラレル。
取り敢えずはやっぱり、龍麻と京一の出会いから……って、二人まともな会話してねェよ。


ちなみに私は保育園ではなく幼稚園で育ったので、保育園がどういう場所か具体的には判りません(汗)…
色々間違ってる箇所や、都合良くしてる箇所もあると思いますが、大目に見てやって下さい。

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summer memory 7











届かない


遠くて遠くて

見えない君に届かない




だからもう少しだけ立ち止まる

忘れないように、もう少しだけ立ち止まる


























summer memory
- 休み明け -





























ダン。
ダン。

パァン。
パシン。






床を踏む力強い音と、唸り撓る竹刀の音が夏の空に響く。

暦は既に九月になり、社会人は勿論、学生も夏休みをとうに終えた。
けれども空は相変わらず高く、照り付ける太陽の日差しはぎらぎらと暑く、秋になった等とは到底思えない日が続く。
残暑見舞いの葉書が届いたのを見て、そういえばもう暑中ではないんだと認識するのが精々である。


その夏休みであろうと、暑中であろうと残暑であろうと、この道場で響く音は変わらない。
盆前から明けの間は流石に静かな一時があったが、それでも無音が此処に訪れた事はなかった。
何処に行く訳でもない大学生や行けない社会人門下生は、時期問わず此処に来るからだ。

それから、もう一人――――いや全員を含めれば三人になる。
必ず一日に一度は道場に顔を出す者達がいる。




八剣右近は、その一人だった。




高校生の時に何気なく始めた剣道が、不思議と性に合った。
大学に入っても止める事はなく、住んでいた場所の近くにあったこの道場へ通う事にした。

高校生の時分に、八剣は都大会のみならず全国大会でも賞を総なめにした。
それ程に実力があると周囲からも、また自分も少なからず自負していた八剣であるが、それでも無敵とは自惚れなかった。
この道場の主であり、師範である人物に敗北した時、それを尚更痛感したものだ。


剣道を始めてから、一度も敗北しなかった――――等と言う訳ではない。
ないが、あれ程までに悔しく、また清々しいほどの敗北は味わったことがなかった。

以来、八剣はその人物を越えるべく、その下で剣の腕を磨く日々が続いている。







ダン。
ダン。

パァン。







日曜日の午後は、この道場が最も賑やかになる時間だ。
大人も子供も一緒になって竹刀を打ち合っている。

八剣もつい先程までそれに参加していたのだが、残暑の続く日々である。
噴出して止まらない汗と、酷使した集中力を休める為に、少々席を外させてもらった。



数年の間、ほぼ毎日通い続けている道場である。
何処に何があるかも知っているし、女将――道場主の妻――とも随分気の知れた間柄になれた。
お陰で、今では多少勝手にあちこち歩き回っても、特に気に留められる事がない。
此処の門下生は数が多いが、其処まで殆ど身内扱いになっている者は八剣以外にいなかった。


―――――そんな訳で、こういう事もあったりする。







「………うん?」







道場の敷地内で、この時間、一番涼しい場所。
道場横にある住宅の、山水の庭の傍。

ちょろりちょろりと音を鳴らす小川に接する岩の上、膝を抱えている子供が一人。



それが此処の道場主の息子、蓬莱寺京一。

一日一度は道場に顔を出す、もう一人の人物だ。







(珍しいね、この時間に此処にいるのは)







此処は京一の家だから、日曜日の午後に彼が何処にいようと、それは彼の自由だ。
けれども日頃の行動パターンを考えると、実に珍しい事だった。


常ならば、この時間は他の門下生たちに混じって道場で竹刀を振るっている。
そうでなくとも、道場横で誰に言われるでもなく木刀で素振りをしている頃だ。

京一がこの枯山水の庭に来るのは、大抵、夕刻頃になってから。
春は小川の傍の桜の樹の上に、夏は岩の上に、秋はまた木の上で、冬になったら焚き火の傍にいて――――八剣が此処に来ると、京一は一日の出来事や学校で起きた事などを一頻り話してくれる。
そうして陽が随分下へ下へと落ちた頃になって、八剣が帰るのを見送ってくれるのだ。



……そう言えば、此処数日の間、そんな夕方の時間がすっかり抜け落ちていたような気がする。







パシン。
パシン。

パシィーン。






見慣れた子供が、見慣れない表情で蹲っているから、八剣は少し驚いた。



京一は、はっきり言って明朗快活だ。

良くも悪くも元気で正直で、真っ直ぐで、時々考えなしに行動する事があったりするが、それも本人は楽しそうだった。
怒られた時も、凹むよりも拗ねて怒っている事の方が多くて、落ち込んだ姿を八剣は見た事がない。
最も、意地っ張りな性格の子だから、見せるもんかと虚勢を張っている事も多々あったりするのだけれど。


そんな子が膝を抱えて蹲っているのだから、驚かない訳がない。



確かに此処数日で八剣が声をかけた時、上の空のような返事がした事もあった。
けれども残暑厳しい日々が続いているから、遅めの夏バテかなと八剣は思っていた。
ぼんやりしている所を父が揶揄えば拗ねた顔をするし、夏休みが終わって、学校が始まって面倒だとか、そんなものなんだろうと。


…思っていたのだけれど。








(そうでもないのかな)








通い始めて数年。
殆ど毎日此処に来て、だから勿論、この少年とも何度も顔を合わせている。

懐いてくれるまで少々時間がかかった事はあったけれど、今では「飯食ってけよ」と言われる事も増えた。
時間がかかった分だけ、八剣も京一の事が判ったから、行動パターンの奥底に付随する意味もよく知っている。


でも、このパターンは初めてだ。





……気になる。
はっきり言って、かなり気になる。




八剣は京一が気に入っていた。
子供らしく背伸びしたがる所も、少し生意気な所も、全部。


だから修練の後で疲れていても、京一から打ち込みの相手をしろと言われたら引き受ける。
学校で嫌な事があったとか、姉に揶揄われたとか、愚痴を零したいなら全部聞く。
宿題が判らなくて終わらないなら、手伝ってやる事もあった。

八剣のその様子に、彼の父である師範からは、「つけあがるから甘やかすんじゃねェ」とお達しが来た程だった。



そんなものだから、京一がこんなにも落ち込んでいる理由が気にならない訳がない。







「京―――――、」

「おう、八剣。何してんだ」







呼ぼうとした声を、遮られる。

振り返って見れば、此処の道場主であり、師範であり、八剣が敗北した人物であり。
目の前で蹲る小さな少年の父が立っていた。


この人物が毎日道場に顔を出す三人の内の、最後の一人だ。


この人はいつも和装を好んで着ているのだが、今日この時は剣道着だった。
肩に竹刀を担いで、恐らく、これから道場の方に赴くつもりなのだろう。







「師範、京ちゃんが――――」
「あん?」






八剣の陰になって見えなくなっていた息子を、首を伸ばして父は見つけた。






「少し元気がないみたいで」
「……ああ、」






その一言で、父は全て合点が行ったらしい。

多分、この人は事情を全て知っていて、京一がそれに囚われている事も気付いているのだろう。
けれども優しい言葉をかける事はなく、本人の気が済むまで好きにさせている。
無骨な父親らしい愛情だった。



暫く息子を眺めた後で、父親はガリガリ頭を掻いて、道場に向かって歩き出した。







「夏休みボケだ。ほっとけ、ほっとけ」







ったく、バカ息子が。
ま、たまには良い事だけどよ。



ひらひらと手を振って去っていく間際、そんな呟きが八剣の耳に届いたような気がした。
が、その真意を問うまで待ってくれる訳もなく、さっさと角を曲がって見えなくなってしまう。






(夏休みボケ、ね……)






ちらりと見遣れば、やはり子供は此方に気付かず、じっと蹲ったまま。
長く放っておいたら、そのまま其処で石になってしまうんじゃないかと思うくらい。
……その前に、京一の事だから、腹が減って母の下に行くだろうけれど。



取り敢えず、このまま見つめているだけで何が起こる訳でもない。



庭に敷き詰められた小石を踏めば、じゃりと言う音がする。
それをわざと少し大きめの音で鳴らすと、子供の頭がぴくりと揺れた。

京一が振り返る前に、八剣の方から声をかけた。






「隣、いいかな?」






くるりと大きな瞳が此方を向いた。

その瞳がいつものように爛々とではなく、寂しさの色を湛えていた事に気付く。
ああ重症だな、と八剣は胸中で一人ごちた。



京一は返事をしなかったが、座っていた岩の真ん中か少しずれて、スペースを作ってくれた。

其処に腰掛けると、それまで強く照り付けていた日差しが木の葉に遮られる。
少し風が吹いて樹がざわざわと音を立て、仕舞い兼ねている縁側の風鈴がちりんと音を鳴らす。
足元では、幅一メートルもない小さな川がさらさら流れていた。


此処は京一のお気に入りの場所、だから自然と八剣もこの場所の事が気に入っていた。


春は桜が綺麗だし、夏は葉桜が陽光を和らげてくれて、秋の彩りの変化も見せてくれるし、冬は焚き火が出来る。
そして、其処にはいつも京一がいて、夏の太陽みたいに笑っている。

時々元気が良過ぎて、木の上から落ちたり、小川に落ちて水浸しになったりもするけど、それも可愛いものだった。





隣に座った八剣を、京一は見なかった。
何をするでもなく、また片膝を抱えて俯いてしまう。






「……元気がないね」






頭をくしゃりと撫でると、小さな手がぺしっと八剣の手を叩く。
この反応は、子供扱いされるのを嫌う京一にはいつもの事だから、八剣は気に留めなかった。






「学校で何かあった?」
「なにもねーよ」






俯いたままで京一は応える。
受け答えはしてくれるから、少し安心した。






「じゃあ、誰かと仕合して負けちゃったかな」
「オレが負ける訳ねーだろ」
「そうか。それもそうだね」





京一はまだ小学生だが、高校生や大人と勝負しても殆ど負ける事がない。
八剣が知っている限り、京一が道場内で今のところ敵わないのは、自分の父親と八剣だけだ。

夏休みの前に八剣は京一と一度本気の仕合をしたが、結果は八剣の勝利で、京一は心底悔しそうだった。
それから今日に至るまで、八剣は京一と剣を交えた記憶がない。
師範である父の方はと言えば、指導の為に向き合うことはあるものの、仕合をしている事はなかったと思う。
だから誰かと勝負して負けて、此処で凹んでいる――――という訳ではないようだ。






「夏休みの宿題、終わらなくて先生に怒られた?」
「終わった。全部出した」





それも知っている。



夏休みの終わり頃、いつも父親に言われてから溜めていた宿題に追われ始めていた京一。
休みが終わってしまうのに片付かない宿題に、八剣に泣きついてきた事も少なくない。

けれど、今年の夏休みの終わる前に、宿題について聞いて見たら、もう終わった、と返ってきた。
八月の初めから祖母のいる田舎に行っていた京一は、その間に終わらせたと言う。
理由を聞いたら、父ちゃんが煩ェ、と言われたが、それは毎年の事だ。
そして言われているのに放ったらかしにして泣きを見る、と言うのが通例だったのに。


今年はなんだか、ちょっと違うな。
夏休みの終わり頃、一心不乱に素振りをする京一を見て、八剣はそう思っていた。







パシン。
パシィーン。







…今思えば。
今思えば、あの時一心不乱に素振りをしていたのは、何かを耐えようとしていたのではないだろうか。

手に豆が出来て、それが潰れた痛みの他に、時々ぎゅうと唇を噛み結んでいる事があった。
汗と一緒に胴着の袖で顔を拭った時、一緒に何か誤魔化してはいなかったか。
蝉の声が聞こえた時、随分遠くを見ていなかったか―――――………





ずり、と音がして。
京一を見ると、此方に背中を向けて丸くなっていた。

その小さな背中に問いかける。






「おばあちゃんの家に行ったんだってね。楽しかった?」






答える声はなく、京一の頭がこっくり縦に揺れる。






「そう。良かったね」
「…………ん」






同じようにまた揺れる。




……ぐす。
…すん。




その傍ら、聞こえた音を、八剣は聞こえない振りをする。
背中を向けた京一に合わせて、八剣も小さな背中すら見えないように背を向けた。

意地っ張りで背伸びしたがる子だから、そうするのが一番良い。






「……あのな、」






少し鼻声で、京一が言った。

背中に軽い重みがとんと乗せられる。






「ばあちゃんちな、」
「うん」
「ガキの頃に何回か行ったらしいけど、オレあんまり覚えてなくてよ。そんで行ったら、すっげー田舎だった」
「此処と比べちゃあね。仕方がないよ」






此処は東京、日本の首都。
ビルが沢山あって、物が溢れていて、人があちこちて衝突しそうな位にごった返している。
この東京で生まれ育った京一にとっては、それがごく当たり前の光景だった。

勿論、都心を離れて行けば山もあるし畑もあったりするけれど、小学生の京一の行動範囲はまだ広くない。
だから一面田畑が広がっていたり、直ぐ目の前に山があったりなんて、中々見られない景色だった。


彼の祖母はそういう場所に住んでいる。
もう随分な歳だと言うのに、祖父が死んで十数年、一人きりで。






「すげーな。カブト虫とか、クワガタとか、あっちこっちにいやがんの」
「緑が多いからね。此処と違って、手付かずの場所が」






この辺りだと、自然公園にでも行かないと、虫を追いかけることも難しい。
蝉なら街頭の樹に留まっている事もあるけれど、虫取り網で追いかけることは中々出来そうにない。


夏になると、京一はよく一人で自然公園に遊びに行く。
小さい頃は父も一緒で、虫の特徴や捕まえるコツを色々教えて貰ったらしい。

実際、よく捕まえてくるのを八剣も見ている。

朝から昼まで道場で汗を流すと、午後から外に遊びに行って、友達と遊んだり虫を追いかけたり。
都会の子供にしては珍しいんじゃないかと思うほど、京一は木登りや虫取りが得意だった。
それを存分に生かして、友達が登れない木は自分が登って、虫を捕まえてやる。
途中で転んだり、木から落ちたりして怪我をしても、帰って来た時はいつも嬉しそうに虫かごを見せてくれたものだ。



でも、都会と田舎では、根本から環境が違う。
動植物や昆虫が住むには、その性質に適応した環境が整っていなければいけない。
それはやはり、都会よりも田舎の方が向いている。






「ちょっと茂みの中入ったらさ、カマキリがいてさ。オレ、足ケガするとこだった」
「大丈夫だった?」
「ん。つーか捕まえてやったし」






さすがだね。
褒めると、背中越しに笑うのが伝わった。






「川もすっげーキレイでさ。魚がいると直ぐ見えるんだよ」
「いいね。釣りでもした?」
「それはしてねェけど。でもザリガニは捕まえた」
「挟まれたりしなかった?」
「……一回やられた」






拗ねた口調になった。
それが可笑しくて笑うと、背中を肘で突かれる。






「あと、スイカうまかった」
「こっちで食べるスイカと違う?」
「ん」






同じモンなのになァ。
なんでだろ。

首を傾げる京一に、さてどうしてだろうね、と呟いた。



背中の重みが少し増した。
体重を、そっくりそのまま預けられている。

珍しい。
人に寄りかかったり、甘えたりするのが嫌いな子なのに。
ああ、そうだ、重症なんだから仕方がない。


本当は振り返って抱き締めて、撫でてあげたいくらいだけど。
絶対に嫌がるだろうから、このまま、背中合わせのまま。







「あと………」






声が小さくなる。


風が吹いて、また樹がさわさわと音を立てて、また静まる。
竹刀の鳴る音は聞こえなくない。

だから、小さな子供の小さな声を遮るものは何もない。











「友達、できた」











嬉しそうに。
少し寂しそうに。

呟かれた言の葉に、ああ成る程と理解した。



此処から随分遠い田舎で、出来た友達。
一緒に遊んで楽しかっただろうに、それでも別れの刻が来て。

来年はもう、田舎に行く予定は無いらしい。
田舎に住んでいた年老いた祖母は、此処から近くにある病院に入ることになった。
だから、友達に逢いたくなっても、もう祖母の家のある田舎まで行く事はない。


小さな子供がもう少し大きくなって、一人旅が出来るようになった頃。
その友達がまだ其処にいるかは、判らない。

だからもしかしたら、もう逢えなくなる可能性もあって。






「そう。良かったね」
「ん」






……ぐす。






「一緒に虫取ったし、」
「うん」
「一緒に夏祭り行ったし、」
「うん」
「…一緒にスイカ食ったし、」
「うん」
「…………、」
「うん」






……ぐす。
…すん。




背伸びしたがりでも。
生意気盛りでも。
こういう所は、まだまだ小さな子供だと思う。






「本当に、随分仲良くなったんだね」
「……ん」






だから今年の京一の夏休みは、多分、その子一色だ。
祖父の家に遊びに行って、都会にないものを沢山見たのも勿論思い出の一つだけれど、それ以上にその子が一杯溢れている。






「また逢えるといいね」
「逢える」






半分は心から、半分は慰めで。
呟いた八剣の言葉に、はっきりとした声が返ってきた。
少し驚いて振り返りかけて、どうにか留める。

…てっきり、もう逢えないと思っているから、こんなに落ち込んでいるものだと思っていたのだけれど。














「今度は、あいつがオレに逢いに来るって、そう言った」















それまでの泣きそうな声なんて、気の所為だったと思わせる位に、強い声。
言い切る音に迷いはなくて、今ならきっと、見慣れた光が大きな瞳に宿っている。



どれ程離れているとか、いつ逢いに来れるようになるとか。
そういう理屈は全部後回しにして、いつか逢う為の約束をした。

だから。

だから時々、泣きそうになっても、絶対に泣いたりしない。
手を繋ぐ事が出来ないのが寂しくても、泣いたりなんてしたくない。
いつかまた逢う約束をしたから、もう逢えない訳じゃないんだから。





……ぐす。





此処でこうして蹲っているのは、嬉しかった事も楽しかった事も、別れ際の寂しさも、全部ひっくるめて大事な思い出だから。
その時少しだけ泣きそうになって、意地っ張りな子供はそれを人に見られてしまうのが嫌だから、限られた人しか来ない場所で一人になって、小さな体で全部全部受け止める。





…ぐす。
……ずずっ。





鼻を啜って、一呼吸するのが背中越しに伝わる。
はあ、と大きく息を吐いて、張っていた小さな肩の力が少し抜けた。











「……ばぁか」











零れた言葉は、見えない未来へ約束をした友達へか。
それとも、それを疑いもしない自分へか。

多分どっちでも良くて、それもどちらも悪い気はしないのだろう。





どうやら、この子はとても良い夏を送れたらしい。
少し元気がない事への心配は、もう八剣の中に残っていなかった。

寄りかかる重みが心地良くて、八剣はもう暫く此処にいる事にする。






「京ちゃん」
「……あ?」






呼びかけた時の返事の仕方が、段々父親に似て来ている。
それを言ったら、天邪鬼なこの子はいつも顰め面になって、父から拳骨を食らっていた。









「その友達のこと、好き?」









ぴくり。
背中の重みが少し揺れる。


これは背中合わせじゃないと、本音が聞けない。
素直じゃない子だから、好きか嫌いか問われたら、好きなものでも嫌いだと言ってしまう。
好きなものを好きだと認めて口に出すのが、恥ずかしくて仕方ないらしい。

でも、今なら背中合わせだ。
お互い顔を見ていないから、天邪鬼な子ももう少しだけ素直になれる筈。








カレンダーが捲られて、数字は8から9に変わった。
だけれど空の色は相変わらず夏色一色で、街頭の植物たちもまだまだ青く茂っている。
ファッションは秋物が出回るけれど、残暑は強く、暦は既に秋だなんて到底思えない日が続く。

此処から遠く離れた田舎の方はどうだろう。
この街よりも、季節の変化は早く訪れるのだろうか。



夏が過ぎて一生を終えた蝉達が、地面の上で眠っているのをよく見付ける。
あれだけ煩かった蝉の声は、もう此処では聞こえない。



街を歩く高校生達は、まだ半袖で、夏休み気分が抜け切らない。
市営プールも賑やかなもので、やっぱりまだ夏なんだろうと思ってしまう。

だけれど季節は確かに移ろい変わりつつあって、陽が落ちるのも早くなる。
人が気付かない速さで時間は過ぎて、少しずつ人も変わって行く。





一夏の間に、見知った子供が随分大きくなったように。
気付いた頃には、背中の重みもまた少し重くなっているのだろう。

そしていつかは、見上げる瞳が同じ位の高さにまで成長している日が来て――――――、
















「好きだよ、好き。じゃなきゃ、また逢おうなんて思うかよ」



















その時、是非とも見てみたい。

大好きな友達と笑う、太陽のような眩しい笑顔を。

























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多分、色々後悔している事もあるんです。
でもそれ以上に、嬉しくて楽しかった事も溢れてるんです。
だから、思い出したら楽しかった気持ちにもなるけど、やっぱりちょっと寂しくもなる。

まさかの全編八剣視点です。
チビ京と八剣、いいなぁ。寄っかかられちゃって、いいなァ……

summer memory 6











届かない


遠くて遠くて

見えない君に届かない




だけどもう少しだけ待っていて

きっと君の所に行けるから


























summer memory
- 新学期 -





























夏休みが終わった。
また学校が始まった。


夏休みの間に山々を駆け回った子供達は、めいめいそれぞれの思い出話をしている。




あの虫、捕まえたよ。
あの魚、釣ったぞ。
あの木、登れたよ。




此処では、男の子も女の子も、皆よく山に登る。
そんな中で、龍麻だけがいつも麓で地面にお絵描きしていた。

だからいつも、休み明けは教室の隅で皆の話を聞いているだけ。
その時も龍麻は自由帳に絵を描いていて、皆は龍麻に話しかけなかった。
それはないがしろにしている訳ではなくて、お互いが自然にそんな距離になってしまったのだ。





だけど、今年は少し違う。





夏休み前よりもずっと日焼けした龍麻に、クラスの女の子が聞いた。








「ひーちゃん、何処かに行ったの?」








龍麻の父は陶芸家で、時々、この田舎から遠く離れた場所で個展を開く。
母も龍麻も、それについて行く事はあって、だから日焼けしたのはその所為だろうと女の子は思っていた。

子供達の世界は狭い。
心は何処までも自由に飛んで行くけれど、足はそれに追い付かない。
そんな狭い世界を飛び出して行った子がいたら、外にどんなものがあるのか、好奇心が止まない。
何処で何を見てきたのか、何処にどんなものがあったのか、聞いてみたかった。


だけれど、龍麻は何処にも行ってないよと首を横に振る。






「そうなの?」






なぁんだ。

女の子は少し残念そうに言った。
その顔に、行ったって言った方が良かったのかな、と龍麻は思う。
でも、何処にも行っていないのに、行ったなんて言えなかった。


女の子は、友達の所に戻って行った。





夏休み前と変わらない自分の席に座って、龍麻は自由帳を開いた。


毎年、夏休みの間に丸々一冊分は埋まってしまうのに、今年は夏休み前から殆ど進んでいない。
一番最後に描いていたページの絵は、描きかけのままになっていた。
いつ描いたんだろうと考えて、夏休みに入って間もない頃だったと思い出す。

―――――どうしてその絵が完成しなかったのかなんて、直ぐ判った。








日焼けしたのも、この絵が完成しなかったのも。
あの麦わら帽子の笑顔に出会ったからだ。








思い出すと、なんだか胸の中がぽかぽかする。
それから、ほんの少し、きゅうと締め付けられる感じがする。


麦わら帽子の笑顔の記憶は、夏休みの最初の方から、終わりの方まで、ずっと続いて途切れない。

山の麓に川のほとり、まだ続いている蝉の声、夕方に飛ぶナツアカネ。
一つ思い出せば溢れるように次から次へと浮かんできて、一番最後に、泣きそうに笑う顔。
その顔で、胸がきゅうと締め付けられる。






(でも、笑ってくれた)






笑って手を振ってくれた。
泣きそうだったけど、笑ってくれたのは本当。


あの時、もしも間に合っていなかったら、笑顔も泣き顔も見れなかった。
何も言えずにさよならになったら、こんな風に夏の終わりを迎えられなかった気がする。
夏の終わり、久しぶりに一人で過ごす日々に、自分の方が泣いていたと思う。

あの笑顔を見れたから、やっぱり時々寂しくて泣きそうになったけど、泣かなかった。
最後の言葉をちゃんと言えたから、ちゃんと聞くことが出来たから、寂しいけれど悲しくなかった。





描きかけだった絵が完成して、龍麻はページを捲った。
真っ白な二ページ。


思いつくままに絵を描いた。

龍麻が描くのは、いつも大抵、忍者の絵。
だけどなんとなく、この時は違っていた。



男の子が龍麻の席の前を通りかかった。
その目が龍麻の絵に留まって、男の子の足が止まる。






「ひーちゃん、それカブトムシ?」






いつもはよく判らない(少なくとも、この男の子にとってはそうだった)ものばかりを書いているクラスメイトが、今日は違うものを描いている。
常と違うものを見つけると、なんだか興味が湧いてくるもので、男の子は龍麻に聞いてみた。

龍麻の頭が少し揺れた。
そろそろ顔を上げると、いつも話しかけて来ない男の子だったから、びっくりした。
男の子はそんな龍麻に気付かずに、自由帳に釘付けになっている。






「ひーちゃん、カブトムシ?」






同じことを聞いてきた。
龍麻は頷く。






「うん」
「ひーちゃん、絵上手だね」






隣から声がして、其処には女の子がいた。
絵が上手だと先生にも褒められていた子だった。

上手だと言われた。
なんだか顔がぽかぽかしてくる。
嬉しかった。



しげしげ絵を眺めて、男の子が言った。






「なあ、クワガタ描ける?」
「……判んない」






龍麻は首を傾げた。
描いたことがない。

このカブトムシだって、龍麻は初めて描いたのだ。
麦わら帽子の笑顔と一緒に浮かんできた、夏休みの思い出。
あの子が捕まえて見せてくれた、夏の宝物の記憶。


あの子はクワガムシも捕まえて、見せてくれた。
蝉もトンボも、チョウチョも捕まえて、一匹一匹種類と特徴も教えてくれた。

お陰で、夏休み前はちっとも判らなかった虫の種類や特徴に、龍麻は随分詳しくなった。



描いて描いてと男の子が言うから、描いてみた。






「おーッ、すげぇ!」
「なに、なに?」
「どうしたの?」
「何がすげぇの?」






男の子が大きな声で言うものだから、他の子達が集まってきた。



龍麻が皆に囲まれるのは、随分久しぶりのことだった。


人数が少ない田舎の小学校でクラス変えなんてものはなく、毎年児童は持ち上がりのクラス編成。
今よりもっと少なくなれば、学年の枠もなくなって、皆同じ教室で過ごす事にもなるだろう。
つまりは、それ位の人数しかこの学校にはいないのだ。

だから、一年生の頃から一人で過ごす事の多い龍麻を、今になって改めて輪の中に誘う子はいなかった。
ひーちゃんはお絵描きが好きだから、邪魔しちゃ駄目だよ。
そう言って、龍麻を一人残して、皆外で遊ぶようになって行った。


それがいつの間にか、こんなに沢山の子に囲まれている。






「すごーい、ひーちゃん上手!」
「ひーちゃん、ちょうちょ描ける?」
「…たぶん」
「描いて描いて!」






女の子が飛び跳ねて言った。

龍麻が思い出すチョウチョは、麦わら帽子の男の子が、一番最初に捕まえてくれた青いチョウチョ。
鞄の中から色鉛筆も取り出して、龍麻は自由帳に記憶の形を描いていった。






「ひーちゃん、セミは? セミ描ける?」
「わかんない。でも、描けるかも」
「じゃ、後で描いて!」






蝉は難しい。
でも、特徴は覚えてる。


チョウチョの羽に青い筋を入れる。
男の子が、見た事ある、と言った。






「これ、山で見たぞ」
「名前は?」
「知らねえ」






友達の問い掛けに男の子が首を横に振ると、龍麻が代わりに答えた。







「アオスジアゲハって言うんだって」







青い筋以外の所を黒く塗る。
黒い羽の中、青が綺麗に光っていたのを龍麻は今も覚えている。






「ひーちゃん、虫好き?」






隣の女の子が聞いた。
龍麻は、首を傾げる。



好きか嫌いかと言われても、直ぐに答えは出て来なかった。
夏休みを過ごす前は、どちらかと言えば苦手だった方で、チョウチョはともかく、他の虫は殆ど触れない。
カマキリなんて近付くのも怖いくらい。

だけれど、今はカマキリだって触れるし、蝉の鳴き方だって判るし、飛んでるトンボの種類も判る。
その楽しさを教えてくれたのは、全部全部、あの麦わら帽子の笑顔で。


あの子は、虫が好きなんだろうか。
だから、あんなに沢山知っていて、楽しそうに教えてくれたのか。



だったら、好き、かも知れない。






こっくり頷く龍麻に、だったら早く教えてくれよ、と男の子が言った。






「夏休み、皆で虫取り合戦したんだぜ」
「ひーちゃんも一緒に来れば良かったのに」
「クマゼミ一杯取れたんだよ」






口々に言う男の子達に、龍麻は小さな声でごめんね、と言った。







行きたかったかも知れない。
でも、行かなくて良かったとも思う。

だって一緒に行っていたら、あの麦わら帽子に逢えなかった。




あの麦わら帽子と何度も一緒に山に登ったけれど、その時、クラスの子とは一度も会わなかった。
多分、登る山が違っていたんだろう。

龍麻があの山の麓で地面にお絵描きしていなかったら、麦わら帽子があの道を通っても、龍麻はあの子と出会っていない。
毎日のようにあそこで絵を描いていたから、毎日通るあの子に会えた。
虫を殆ど知らずにいたから、あの子は楽しそうに教えてくれて、龍麻はその笑った顔が好きだった。






「今度、一緒にトンボ捕まえに行こう」
「ひーちゃん、一度も一緒に言った事ないよね」
「この子、凄く上手なんだよ」






女の子が、男の子の一人を指差した。
指された男の子は、照れ臭そうに鼻柱を掻きながら胸を張ってみせる。


上手って、どの位だろう。
麦わら帽子のあの子と同じ位?

あの子は、空を飛んでるナツアカネを、あっと言う間に捕まえた。
木の上にいる蝉も、自分で登って、自分の手で捕まえられるし、チョウチョもそうだった。

それと同じ位、上手なんだろうか。







キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。

ガラガラガラ。








チャイムが鳴って、教室のドアが開いた。
先生が入って来る。

ガタガタ音を鳴らしながら、皆自分の席に散らばった。



はい皆、おはようございます。
夏休みはどうでしたか?
宿題、ちゃんとやって来た?



黒板の前に立って、先生がにっこり笑顔を浮かべる。
夏休みの間、龍麻は一度も学校に行かなかったから、この笑顔を見たのは随分久しぶりだった。


後で先生に絵を見せよう。
皆が上手って言ってくれたから、きっと先生も上手って言ってくれる。
…でも、先生に見せていたのは忍者の絵ばっかりだったから、初めて描いた虫の絵は、ひょっとしたら下手なのかも。

少しドキドキしたけれど、やっぱり見せよう、と龍麻は決めた。
だって上手だねって言われたら、やっぱりぽかぽか温かくなって嬉しいから。
上手じゃないねって言われたら、どうしたら上手に描けるか聞いてみよう。






「それじゃあ、宿題を集めます」






先生のその言葉を合図にして、教室の廊下側の席、一番前に座っている子から順番に。
黒板の前に置いてある長い机に、端から国語、算数、理科、社会の宿題ノートを並べて行く。
次の子はその上に、同じように宿題ノートを置いて行った。

国語の宿題ノートの反対側の一番端は、自由研究。
龍麻も同じようにノートを出して、アサガオの観察日記を提出した。






「あら、緋勇君。今年は随分日焼けしたわね」






席に戻ろうとした龍麻に、先生がそう言った。






「僕、日焼けした?」
「そうね。なんだか、ちょっと見違えちゃった」
「変?」
「ううん。格好イイよ」






なでなで、頭を撫でられた。
柔らかくって、優しい手。



席に戻って、撫でられた頭に、なんとなく手を置いた。

ぐしゃぐしゃ頭を撫でてくれた人を思い出す。
頭が一緒にぐらぐら揺れるくらい、強い力で撫でられる事もあった。


その隣で、麦わら帽子の男の子は、いつも拗ねたような顔をしていたけれど。
手を繋いだら絶対離さないのを龍麻は知っていた。




宿題を忘れた子は一人もいなくて、先生が良く出来ましたと拍手する。
子供達も、友達が誰も怒られなくて済んで、良かった良かったと拍手した。

龍麻も一緒に拍手する。




先生が黒板にチョークで字を書いた。


“夏休みの思い出”。


皆で手を上げて発表しましょう、と先生が言った。
いつも元気な男の子が、一番最初に大きな声ではいと言って手を上げる。





山で大きなカブトムシを採りました。
川で大きなコイを釣ったよ。
おばあちゃんのお手伝いをして、大きなスイカが採れました。
畑で取れたキュウリがおいしかったです。
夏祭りの盆踊りが上手に踊れて嬉しかった。





あれも、これも。
あの話も、この話も。

皆楽しそうに先生に発表する。


嬉しかった事、楽しかったこと―――――龍麻も勿論ある。
あるけれど、なんて言っていいのか判らなくて、手を上げられなかった。





頭に被った麦わら帽子と、真っ青な空と白い雲。
虫取り網と虫かごと、右手に持った木の刀。
土だらけのシャツと短パンと、足元はいつも雪駄。


毎朝同じ時間に同じ場所に言って、麦わら帽子が来るのを待って。
一緒に地面に絵を描いたり、一緒に山に登って虫を採ったり、探検したり。
夕暮れ空にヒグラシが鳴いたら、本当はもっともっと遊びたいけど、バイバイの合図。

山の中で迷子になって不安になって、帰れなくって泣いたりもした。
祭囃子と提灯の中で、出店のゲームで勝負して、金魚は二人で分け合った。
縁側で一緒に食べたスイカはおいしくて、母のスイカジュースもおいしかった。




頭に浮かんでくる夏休みの思い出は、あれもこれも全部が楽しくて、どれから話そうか迷ってしまう。


……そうしている内に、チャイムが鳴ってしまった。







「遊ぼー!」
「ドッジボールしよう!」
「外行こう、外!」







先生が終わりの挨拶をする前に、男の子達は皆廊下に飛び出した。
いつもの事だったから、先生は怒らなかった。

女の子達と龍麻だけ、終わりの挨拶をすると、先生は教室を出て行った。






「ひーちゃんは行かない?」






髪の短い女の子が聞いて来た。
いつも男の子達に混じって遊んでいる子だ。
多分、今日も男の子達と一緒にドッジボールをするんだろう。




皆と一緒にドッジボール。
今まで一度もした事がない。





外を駆け回るのが嫌いだった訳じゃない。
だけれど、どうしてか、皆の中にいることが出来なくて、気付いた時には一人だった。
どうしたら皆と一緒に遊べるようになれるのかが判らなくて、判らないままずっと一人で過ごしていた。


晴れた日の学校の休憩時間も、一人だけ教室に残って自由帳に絵を描いていた。
休みの日に誰かの家に遊びに行ったりする事もなくて、家で毎日絵を描いていた。
毎年の夏休みは、山の麓の木陰で地面に絵を描いて。

その内それが当たり前になって、皆も誘って来なくなって、龍麻もそれが普通だった。
時々声をかけられても、迷った返事も最後は「行かない」。



どうしていいのか判らなかった。
どうすれば良いのか知らなくて。

どうしたら、どうなるのかも、判らなくて。






校庭の方から、もう皆の遊ぶ声が聞こえて来た。
なんとなくそっちを見たら、真っ青な空と白い雲が一緒にあって。










みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。










カレンダーは九月になったのに、蝉はまだ鳴いている。
八月の真ん中よりも小さな声ではあったけれど、山から声は止まなかった。






思い出す。

蝉の声と、水の音と。
時々大人の人が通る山の麓。



麦わら帽子の、夏の太陽みたいな笑顔。
ちょっと強引に、でも楽しそうに龍麻を引っ張った、手。

手と手を繋いで歩いた、夏の空の下。






探してみても、どんなに手を伸ばしても、もうあの手は此処にはない。
あんなに繋いでいた手だったのに、此処にはないから、もう繋げない。

…………まだ、今は。










少し強引に引っ張ってくれた手は、今はもう此処にはないから。



此処から先は、自分で歩いて行くしかない。

自分で見たいものを探さなきゃ。
自分で、見つけたいものを探せる足を持たなくちゃ。


遠い遠い所にいるあの子を、いつか迎えに行けるようにならなくちゃ。












女の子が覗き込んできた。



どうする?
やっぱり、行かない?



問いかけてくる瞳はそんな風に言っていて、このまま龍麻が黙っていたら、女の子は一人で校庭に行くんだろう。
夏休みの前は、ずっとそういう風だったから。

龍麻も、そういうものだと思っていたから。




グラウンドから聞こえてくる声は、皆めいめい楽しそうだ。
夏休みの前、龍麻はそれを見ないで、一人で教室で自由帳と睨めっこしていた。
楽しそうにしているのも、見ていなかった。

多分それも、悪いことじゃないだろうし、外で遊ぶのが苦手な子もいるだろう。
でも龍麻は、外で遊ぶことが嫌いな訳じゃなかった。







「後からでも、いい?」







ちょっとだけ。
ちょっとだけ時間が欲しくて、そう言った。

女の子は少しびっくりした顔をして、でも直ぐに笑った。
じゃあ後でねと言って、女の子は走って教室を出て行った。



笑ってくれた。
そう思ったら、少し胸の中がぽかぽかした。

それを一番最初に教えてくれたのは、やっぱり今でも大好きな、麦わら帽子の笑顔だった。





自由帳を取り出して、色鉛筆を取り出した。







ぱらぱら、ぱらり。

かりかり。








そうしている間もドキドキが止まらなくて、それは女の子に後から行くと言った時からそうだった。
そう言おうと決めた時から、何かが口から飛び出てしまいそうな位ドキドキしていた。

皆の所に行く事に、少しだけ緊張する。
いつも誘われて断ってばかりだったから、後から追いかけてでも、自分で行くのなんか初めてだ。
夏休みの前の自分だったら、きっと考えられないことだった。
皆と一緒にドッジボールをするなんて。



真っ白だった一ページを埋めていく。
頭の中に浮かんだものを、夢中になって描き綴った。








かりかり。
かりかり。



かりかり。
かりかり。









楽しかった夏休み。
言葉じゃ言い切れないものが沢山あった。

嬉しいことも、楽しいことも一杯あって、ほんの少し、寂しいことがあった。


其処には全部、大好きな笑顔があって。








かりかり。
かりかり。



かりかり…
かり…









「できた」










真っ白だった自由帳は、色んな色に埋められた。



空の青、雲の白。
蝉、チョウチョ、トンボ、カマキリ。
山の緑と、川の青。

花火と金魚とスイカ。
遠くの山と山の間に、つり橋が一本。


それから。




………それから。










――――――校庭から、クラスメイトの呼ぶ声がした。
席を離れて窓辺から校庭を見てみると、皆がこっちを見て龍麻を待っていた。








「今行くー!」








皆の前で大きな声を出したのは、ひょっとしたらこれが初めてかも知れない。

くるりと方向転換して、急いで教室を出て行った。

















誰もいなくなった教室で、開いたままのノートの中。


麦わら帽子の元気な笑顔が咲いていた。




















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京一と会って、さよならして、ちょっとだけ成長した龍麻。

この話の龍麻は、その気になれば結構前向きで積極的なのかも。
それまでに時間がかかるみたいですが。

summer memory 5











蒼と茜

金と緑


麦わら帽子と君の笑顔




止まってくれない時間が少し寂しくて

見えない約束だけを握り締めて、僕らは未来(あした)へ歩き出す


























summer memory
- 夏の終わり -




























夏休みが終わるまで、あと一週間を切った。


蝉はまだ煩いくらいに鳴いていて、夕暮れにはアカトンボが飛び交う。
小学校のプールは解放されていて、毎日、何処かの家族連れが遊んでいる。
夏山の木々は青々と茂り、川の中ではすいすいと魚が涼しげに泳いでいた。

あと数日もすれば、暦の上の季節は夏から秋へと移り変わる。
それにしては相変わらず暑い日々が続いて、子供達は夏休みが終わるなんて少しも思えなかった。
親に言われて、ほったらかしの真っ白な宿題を急いで片付ける子は、少し違ったかも知れないけれど。



龍麻は、今年の夏が随分早く終わってしまっていくような気がした。
夏休みの日取りは何も変わっていないのに、どうしてだろう。

考えてから、麦わら帽子の笑顔が頭に浮かんだ。


あの男の子が龍麻の前に現れてから、なんだか、何もかもが新鮮だ。



山の麓で一人で絵を描いていたのが、二人になった。
山中に入って虫取りもするようになって、今まで知らなかった虫の色や形も覚えた。

夏祭りも、親子三人だけだったのが、今年は友達と友達のお父さんが一緒だった。
父とは滅多にしないゲーム勝負もやったし、手持ち花火で一緒に騒いだ。
その帰り道、皆手を繋いで家路についた。


家に友達を連れてくることなんてなかったのに、麦わら帽子の男の子は連れて行った。
二人並んで縁側に座って、母が切ってくれたスイカや、カキ氷を食べた。
美味しかった、楽しかった。








夏休みが終わるなんて思えない。
終わってしまうなんて、勿体ない。


もっと長かったら良いのに、ずーっと夏休みだったら良いのに。



もっとずっと、毎日、ずーっと。
麦わら帽子の笑顔が見れたら、良いのに。







子供らしい、ささやかな願いだった。














































かなかなかな。
かなかなかな。






ヒグラシが鳴き始めたのを聞いて、京一が水辺から顔を上げた。
龍麻も同じく、空を見上げる。

遠く澄んだ蒼が茜になって、もう帰らなくちゃ、と龍麻は思った。
ふくらはぎまでの深さの川の水は、茜の陽光を反射させ、透けた砂利がほんのりオレンジ色に映っていた。
それでも、本音はまだまだ遊びたくて、龍麻は川の中から上がりたくなくて動けない。


京一と遊んでいると、あっと言う間に時間が過ぎる。
絵を描いていても、山の中でも、こうして川の中で遊んでいても、気がついたらもう夕暮れだ。

一人で地面にお絵描きしていた時は、こんなに早く空が茜にならなかったのに。




でも、仕方がない。
そろそろ帰る準備をしないと、両親が心配するし、京一の父も迎えに来る。




龍麻が先に川を上がった。

今年の夏、京一と一緒に遊ぶようになってから買って貰ったサンダルを履く。
買って間もない新品の筈なのに、そのサンダルは、もう少し草臥れ始めていた。
毎日のように、山を歩き回って、そのまま水に浸したりしたからだ。
京一と一緒に過ごした日々の証のようで、龍麻は少し嬉しかった。


京一も川を上がる。
龍麻のサンダルと並べていた雪駄を履いた。






「あーあ。もう直ぐ終わっちまうな、夏休み」
「うん」






小石詰めの川原を歩いて、土手に向かう。
その途中の京一の呟きに、龍麻は改めて、夏休みが終わってしまうことを感じた。






「京一、宿題やった?」
「ん。父ちゃんが煩ェから、とっとと片付けた」
「僕も終わった」






朝起きて、父と一緒にラジオ体操をして、それから少しの間勉強をした。
一時間ほどで勉強時間は終わりにして、家を出て地面にお絵描きをして、京一が来るのを待つ。
木陰で母に貰ったおにぎりを食べて、昼時が少し過ぎた頃、やってきた京一と一緒に夕方まで遊ぶ。
家に帰ったら、ご飯を食べて、また少し勉強をして、お風呂に入って眠る。

それが龍麻の一日のスケジュール。
宿題は順調に進んでいって、夏休みが半分を過ぎた頃には、殆ど片付いた。


時々、母の手伝いもしようと思ったけれど、それを言ったら母は京一君と遊んでおいで、と笑っていた。
苺味の飴玉やおにぎりを二つ持たせて、暑い日差しの中で、母はいつも笑顔で息子を見送った。



京一は、いつもギリギリまで放っとくんだ、と言った。
でもそうすると、父から遊んでばっかいないで宿題しろ、と怒られる。
龍麻と何も気にせず遊びたかったから、今年は早く片付けた。


朝起きたら、手早く食事を済ませて、父と昼間で剣術稽古。
稽古が済んだら、外に出て、夕方まで龍麻と一緒に遊ぶ。
家に帰ったら、夕飯の準備が出来るまで宿題をして、食事が済んでも宿題をする。

そうしていつもなら手付かずのままの宿題を、今年だけはきちんと済ませた。
やりゃあ出来るんだから、言われる前にやりやがれ、と父には小突かれた。






「なーんか、一杯間違ってる気ィするけどな」






言いながら、まァいいかと京一は笑う。
済ませるものは済ませたんだから、と。






「京一、自由研究とかした?」
「おう。セミの脱皮の観察やった」
「あ、僕もそれにすれば良かったなあ」
「龍麻は何やったんだ?」
「アサガオの観察」
「いいじゃねえか、それでも」
「だって去年もやったもん」






他にやりたい事が見付からなかったから、去年と同じものを選んだ。
選んだ時、一緒でいいのかなあと呟いたら、母は毎年少しずつ違うものよ、と言ってくれた。
確かに、少しずつではあるけれど、去年とは違ったと思う。

でも、セミの脱皮も見てみたかった。
山の中で抜け殻は見た事があったけど、其処から蝉がどうやって出てくるのかは見た事がない。


来年の自由研究は、セミの観察にしよう。
龍麻は決めた。



京一が見た事があるなら、自分も見たい。
京一が知っている事なら、自分も知りたい。

同じ学校のクラスの子達が相手でも、龍麻はこんなに強く思ったことはなかった。
それぐらい、龍麻にとって、この一夏で出会ったこの友達は、特別なものになっていて。









「京一、大好き」









告げた言葉に、京一がぽかんと口を開く。
なんだ急に、そんな顔で。






「大好き」
「…お、う?」
「大好き」
「判ったって」






言う度に、京一の顔が赤くなる。

京一は、結構照れ屋だった。
褒められるとそっぽを向いてなんでもない風を装うけれど、顔を見たらいつも真っ赤。
前に麦わら帽子で直ぐに顔を隠したりしていたのも、やっぱり恥ずかしいからだった。


その赤い顔を見られないように、京一はそっぽを向いた。
龍麻は反対側に回り込んで、京一と向き合う。
すると、また京一は反対側を向いてしまった。

めげずに、龍麻はくるくる京一の周りを回る。






「京一は?」
「なんだよ」
「京一、僕のこと好き?」
「…なんでェ、いきなり…」






嫌いだなんて言わないのは判っている。
だから龍麻が求めている答えは一つしかなくて、出てくる答えも多分一つしかない。

それでも、龍麻は言って欲しかった。







「僕ね、お父さんとお母さんと京一が、世界で一番大好き」







また京一の顔が赤くなる。
空の茜の所為だけじゃない。






「……バカ。一番ってのは、一つだけだろ」
「なんで?」
「だって一番だろ。かけっこだって、一等賞は一人だけだろ」
「でも一番だもん。お父さんとお母さんと京一、皆一番好きだよ」






暖かいお母さん。
優しいお父さん。
眩しい京一。

順番なんて決められない。
皆それぞれ大好きで、其処に違いはなかった。



赤くなった京一の顔を見ようとすると、今度は麦わら帽子の縁を引っ張って顔を隠してしまった。
下から覗き込むことも出来るけど、そうすると次は多分怒り出すだろう。
答えを聞けなくなるのは嫌だったから、龍麻は覗く込むのをやめた。






「ねえ、京一は?」
「あーッ……判れよ、判ンだろ」
「ねえってば」
「だーかーらァ……」






顔を隠したままで、足早に歩く京一を追いかける。






かなかなかな。
かなかなかな。






ヒグラシの鳴く隙間、龍麻はねえねえ、と京一に問いかける。
シャツの裾を引っ張って、龍麻は何度も聞いた。

その内、そんなに長くはない京一の我慢の方が、先に限界が来て。









「好きだよ、好き! じゃなきゃ、一緒に遊ぶかよッ。これでいいかッ」









少しやけっぱち気味の台詞と、帽子に隠れ損なった真っ赤な耳と。

嬉しくなって、龍麻は京一の左手を掴まえて、ぎゅっと握った。
京一は嫌がるような素振りはなくて、またそっぽを向いてしまったけれど、同じくらいの力で握り返した。







「京一」
「ンだよ」
「明日も一緒に遊ぼうね」







それは、いつも別れ際に交わされる、些細だけれど大切な約束。
そんな約束しない日でも、次の日はまるで習慣になったように二人並んで遊ぶのだけど。
約束が出来るのが嬉しくて、龍麻はいつも言っていた。

大抵、京一はおう、とか、気が向いたらな、なんて少し素っ気無い返事をする。
でも気が向いたら―――と言いながら、一度もこの約束を破ったことはない。


だから返事がなくても、気にしなかった。
真っ赤な耳に、照れているんだと思ったから。










この繋いだ手が、麦わら帽子の笑顔が。

ずっとずっと傍にあると、信じて疑わなかった。



















































目が覚めて、父と一緒にラジオ体操をして。
母の手製のご飯を食べて、食器洗いのお手伝い。

それから、障子戸を開け放った部屋の中で、朝のテレビ番組を少しの間眺めてから。


いつものように外に向かおうと思った所で、電話が鳴った。



母はまだ水仕事をしていて、父はもう焼き場に行っていた。
電話機は玄関にあって、どの道そこに向かうから、ついでに出ようと思った。

少し背伸びをして、古びた黒電話の受話器を取る。






「もしもし、ひゆうです」
『ああ、坊主か』






受話器の向こうから聞こえた声は、少ししゃがれた男の人。






『京一ンとこの親父だが、おふくろさんいるか?』
「お皿洗ってます」
『そうか。少し急ぎなんだがな、替われるか?』






聞こえる声は至って落ち着いていて、急いでいるようには聞こえない。
でも急ぎと言うから、急ぎなんだろう。

龍麻は受話器を持って、台所にいるだろう母を呼んだ。






「お母さん、電話」
「はいはい」






ぱたぱたと足音を立てて、エプロンで手を拭きながら母が出てくる。
持っていた受話器を、京一のお父さん、と説明して渡す。


もしもし、緋勇です。
おはようございます。
ええ、ええ、此方こそ。

見えない電話向こうの人に頭を下げている母。
それを少しの間見つめてから、そうだそろそろ行かなくちゃ、と龍麻は思い出した。





今日はどんな遊びをしよう。
山の中に行くのもいいし、麓で絵を描いていてもいいし、川辺で遊ぶのもいい。

虫取りも、魚取りも、木登りも、なんでも楽しいから、龍麻はいつも迷う。
前はそんなに楽しいと思ったことのない遊びでも、京一と一緒だったらなんでも楽しい。
きっと、大好きな麦わら帽子の笑顔があるからだ。



そうだ。
あのつり橋。



ふと思い出した。
初めて二人一緒に山に入ったあの日、見つけられなかった遠くのつり橋。
あの日は結局迷子になってしまったけれど、今度は見つけられるかも知れない。

前回ギブアップしてしまった冒険に、もう一度挑戦してみるのも悪くない。
あの時よりは龍麻も山に慣れたし、ちゃんと目印をつけながら歩けば、帰る時だって迷わない。




それから―――――








「ああ、ひーちゃん、ちょっと待って」








下駄箱から出したサンダルを履き掛けたところで、母に呼び止められる。
母はまだ電話で話をしていた。


別段、龍麻に急ぐ理由はない。
京一がやって来るのは、いつだって昼を過ぎた頃だった。

それでも朝早くから家を出るのは、待っている時間も楽しいからだ。
何をしよう、何で遊ぼう、なんの話をしよう――――そう思っている時間が、とても。




サンダルを履いて、龍麻は電話が終わるのを待った。



まあ、まぁ。
そうですか、それは…
判りました、伝えておきます。

此方こそ、本当にありがとうございました。



チン。
小さなベルの音がして、受話器は戻された。

電話を終えた母は、一つ小さな息を吐いてから、土間に立ち尽くす息子に振り返る。
その表情が心なしか寂しそうに見えて、龍麻はどうしたんだろうと首を傾げた。






「あのね、ひーちゃん」






膝を曲げ、息子と同じ目線の高さになって、母は話し始めた。
落ち着いて聞いてね、と。






「京一君ね、もう遊べないんですって」
「……なんで?」






告げられた言葉の意味と、そんな言葉を告げられる意味と。
判らなくて問いかければ、母はまた寂しそうに眉を下げる。






「京一君、今日、東京に帰っちゃうの」
「…とうきょう?」






聞き覚えはあった、その単語。
テレビで時々見た事がある、高い高い建物が沢山ある場所。
車が沢山走っていて、電車が一杯あって、人が沢山いる場所。

でもそれが何処にあるのか、龍麻は判らない。
外国のような気さえする。
それぐらい、龍麻にとって“東京”とは遠い遠い地だった。






「京一君のおうちは、東京にあるの。こっちには、おばあちゃんが住んでてね。夏休みの間、遊びに来ていたんですって」






だから、龍麻は最初、京一の顔を知らなかった。
児童の少ない小さな村の、小さな小学校で、同じ頃の年なのに、顔を見た事がなかった。
夏休みの間だけ、此処に来るから。






「もう直ぐ、夏休みも終わりでしょう。新学期の準備もあるし…もう帰らなくちゃいけないんですって」







…そんなこと。
そんなこと、京一は一度も言わなかった。
昨日もなんにも言わなかった。

いつものように遊んで、いつものように水や砂やホコリまみれになって。
龍麻の好きな麦わら帽子の笑顔は、いつものように、きらきら輝いて。





さよならなんて、一度も。






「本当は、昨日言おうと思っていたらしいんだけど」
「……」
「結局言えなくて、さっき、お父さんから、伝言貰ったの」
「伝言……?」
「そう。京一君から。自分じゃ、言えないからって…」






頭が追いついていないのが判った。
何が、どうなって―――京一が遊べないのかが、判らない。



浮かんで来るのは、龍麻を引っ張っていく、剣ダコのある、日焼けをした手。
生傷が絶えないのも、勲章みたいに見せて歩く、膝小僧。

案外照れ屋で、直ぐ耳の先っぽまで真っ赤になる。
それでも、大きな声で好きだよと言ってくれて。


きらきら輝く太陽みたいな、麦わら帽子のあの笑顔。






「約束破ってごめんねって。言えなくてごめんねって…」






きらきら輝く笑顔の内側で。

さようならを言えるタイミングを探してた?
ごめんを言える場所を探してた?



好きだよと言ったその声で、さよならの言葉を言おうとして、いた?






「楽しかったって。面白かったって。ひーちゃんと一緒に遊べて、嬉しかったって」






母の言葉と。
告げられなかった京一の声。

頭の中で重なって、繰り返される。










約束破って、ごめん。
言えなくてごめん。


楽しかった。
面白かった。
嬉しかった。

龍麻と一緒に遊べて、凄く。



だけどごめん。
もう帰んなきゃ。

さよならなんだ。




ごめん。
約束破ってごめん。
言えなくて、ごめん。



もう一緒に遊べなくて、ごめん―――――………













「もう直ぐ、電車に乗っちゃうって。だから、京一君のお父さん、急いでかけてきてくれたの」







立ち尽くす息子は、果たして判ってくれるだろうか。
判ってくれたとして、それは我慢ではないだろうか。

滅多にわがままを言わない息子に、母は心配になった。


龍麻が、あんなに友達と一緒に楽しそうに過ごしているのは、随分久しぶりだった。
波長が中々合わないのか、あまり他の子と遊びたがらない息子が、この夏はとても楽しそうで。
そんな夏を一緒に過ごした友達が、もう会えなくなるなんて知ったら、この子はどんなに悲しむだろう。




水槽の中の金魚が、泳ぐ。
あの日友達と分け合った、二匹の金魚が。




少しの間、龍麻は立ち尽くした。
告げられた言葉の意味を、何度も何度も、頭の中で繰り返して。

手を繋いでいた、昨日の温もりを思い出して。


温もりを逃がさないように、強く強く握り締めて、顔を上げる。








ごめん、なんて。
そんな言葉、いらない。

謝らなくたっていい、怒ったりなんかしないから。









「お母さん、駅ってどこ?」













だから、さよならなんて言わないで。















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summer memory 3






赤ぁい提灯

しゃんしゃん、しゃんしゃん、祭囃子

ふわふわ白い、綿の飴


きらり、きらきら、光の雫



隣にいるのは、お父さんと、お母さんと

手を繋いでる、君の笑顔



みーんな僕の、たからもの


























summer memory
- 夏と浴衣と線香花火 -




























しゃんしゃん。
しゃんしゃん。

ちんとんしゃん。








遠くで祭囃子が鳴っている。
今年も祭りの日がやって来た。



祭りはいつも、隣村で開かれる。
その日だけは、夜になっても山道を歩く人が絶えなくて、そんな人達の為に篝火が焚かれる。
篝火に照らされる人々は、皆様々にめかしこんで、手に手に団扇を持っていた。

行く人々は今日の出店はなんだろなとか、踊りは忘れちゃいないだろうかと話をして。
帰る人々はその手に水風船や綿飴、焼きもろこしを持っていて、めいめい楽しそうに笑っていた。



そんな人達と擦れ違いながら、龍麻も隣村へと歩いていた。



普段は焼き場に篭りっぱなしのことが多い父も、この日は絶対に忘れない。
幼い龍麻の手を引いて、母も一緒に祭りに行くのが、毎年恒例。

渋めの色の着物を着た父は、いつも穏やかに笑っていて、この日は殊更嬉しそうだった。
母も綺麗な浴衣を着ていて、きれいきれいと言ったら、照れたように嬉しそうに笑っていた。
龍麻も青地にとんぼ柄の浴衣を着せてもらって、草鞋を履いて外に出た。


篝火に照らされた山の道は、いつもは真っ暗なのに、それを忘れさせるくらいに明るい。
毎日蝉の声が止まない雑木林は、今日ばかりはしぃんと静まり返っていた。







しゃんしゃん。
しゃんしゃん。






祭囃子が段々近くなって来て、篝火の数が増えて来て。
遠くに太鼓を鳴らす櫓が見えた頃、龍麻は道の向こうに知っている顔を見付けた。







「きょーいちー」






手を振って呼んだら、振り返って向こうも手を振り替えしてくれた。
繋いだ父の手を引っ張って走ったら、おいおい、ひーちゃん、危ないよと父が笑った。

目の前まで来て、立ち止まる。



京一が着ていたのは黒に白でトンボ柄を描いた浴衣で、足元はいつもの雪駄履き、腰に団扇を挿している。
いつも右手にある筈の木刀は、今は左手の方にあって、右手は隣に立つ人と繋がれていた。


京一の隣の男の人は、擦れ違う大人達よりも一つ背が高い。
数日前に、龍麻はその背中に乗せて貰った。
父よりずっと広くてがっしりした背中は、見える高さもやっぱり父とは違っていて、少し高かった。

見上げれば少し怖い顔をしているけれど、目尻が京一と似ていて、龍麻は少しも怖くない。
背中に乗せて貰った時の温かさも、まだはっきりと思い出せる。






「よう、龍麻」
「おう、坊主か」
「こんにちわ」






ぺこっと頭を下げると、いい子だ、と頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。
父や母に比べて豪快で、手はごつごつと節張っていて硬かった。
京一も大人になったら、こんな手になるんだろうか。






「先日は、どうもお世話になりました」






父が頭を下げる。
男の人は、いやいや、こっちの方こそ倅が迷惑かけて、と頭を下げる。

自分たちの話をしている事は判ったけれど、内容について龍麻は聞いていなかった。






「とんぼ、おそろい」
「だな」
「京一、お祭り好き?」
「おう!」
「僕も好き」






龍麻の言葉に、京一がにーっと笑う。
龍麻も笑った。







しゃんしゃん。
しゃんしゃん。

ちんとんしゃん。






追いついた母と、父と自分と、京一と京一の父と。
五人並んで祭りの中へと加わった。

そんなに人がいる村でもないのだけれど、この日だけは近くの村々からも人が来る。
いつもに比べればずっと人が多くなっていて、龍麻は流されないように父の手を強く握った。
父は母と楽しそうに話をしていて、なんだか幸せそうだった。


進む度に、色んな匂いがして腹が減る。
焼き蕎麦のソースの香りや、とうもろこしの醤油の香り、焼きおにぎりの香ばしい匂いもする。
隣でぷしゅぅっと音が聞こえて、見るとラムネを飲んでいる子がいた。

カキ氷を食べている子、アイスキャンデーを舐めている子。
どら焼き、焼き鳥、いか焼き……とにかく、沢山あった。



金魚すくいの前を通り掛かる。







「龍麻、勝負しようぜ!」







京一の突然の言葉に、龍麻は少しの間きょとんとした。
そうしている間に、京一は父にねだって100円玉を一枚貰って、金魚すくいのおじさんにそれを渡していた。

ポイを貰って、京一が振り返る。






「龍麻、早くしろよ」






すっかりやる気満々だ。


断る理由もないし、金魚すくいが嫌いな訳でもない。
今まで率先して遊ぶことはなかったけれど。

母が持っていた巾着袋から、100円玉を出してくれた。
それ一枚を握って、龍麻も金魚すくいの前にしゃがむ。
おじさんに100円玉を渡して、ポイを貰った。






「一杯取った方の勝ちな」
「うん」
「おっちゃん、よーいどん言って」






京一に言われて、おじさんはよぉーい、どん、と言った。



京一は、大きな金魚を取ろうと頑張った。
隅っこに逃げた金魚を追い駆けて、金魚のプールに乗り出す。
危ねェぞ、と後ろで父親が言ったけれど、京一は聞いちゃいなかった。

龍麻は、近くを泳ぐ小さな金魚を取った。
一匹、二匹、順調に椀に金魚を移す。


一分経つ頃に、京一の紙が破れた。
結局、一匹も取れなかった。

龍麻も、四匹取った所で紙が破れた。






「お前ェの負けだ、京一」
「言われなくたって判ってらァ」






あははと笑って言う父に、京一は唇を尖らせた。


一匹も釣れなかったのがつまらなかったのだろう。
京一はむーっと膨れていて、龍麻はおじさんに金魚の入った椀を渡しながら、それを見ていた。

虫を取るのはあんなに上手いのに、金魚が取れないなんて、なんだか不思議だった。
とは言え、龍麻も金魚はなんとか取れたけど、虫は捕まえられないのだけど。



少し考えてから、龍麻はプールの向こう側にいるおじさんの傍に行った。






「おじさん、あのね、」






こしょこしょ耳打ちすると、おじさんは笑っていいよと言ってくれた。

四匹の金魚を、二匹ずつに分けてビニール袋に入れて貰う。
それぞれを右手と左手に受け取って、龍麻は揶揄う父に言い返している京一の肩を叩いた。









「京一、あげる」









二匹ずつ金魚の入った袋の一つを差し出した。
京一はしばらくきょとんとして、龍麻の顔と、金魚とを交互に見比べた。

いいのか? と言うように、京一の瞳が龍麻を見る。
それに笑って応えると、手が持ち上がって、金魚を受け取った。






「いいのか? 坊主。引き分けになっちまうぞ」
「父ちゃん黙ってろよッ」






京一の頭に手を乗せて言った父親に、龍麻は首を傾げた。
それから、ああ勝負していたんだと思い出す。


龍麻にとっては、勝ち負けなんてどっちでも良くて、ただ京一が楽しそうにしているのを見るのが楽しかった。
京一に金魚すくいに誘って貰えて嬉しかったし、一緒に出来たことが嬉しい。

それに、何より。






「僕、京一と一緒がいい」






言うと、京一は耳を赤くして、照れくさそうに鼻をかく。
さんきゅな、と言うのが聞こえて、龍麻もなんだか照れくさくなった。

それを振り切るように、京一は手首にビニール袋を引っ掛けて、その手で龍麻の手を掴まえる。






「次、射的やろうぜ」
「うん」





そのまま京一が走り出したから、龍麻も走った。
人ごみをするする擦り抜けて、色んな景品が飾られている射的の店に行く。

迷子になっちまうぞ、と京一の父の声が背中にかけられた。







しゃんしゃん。
しゃんしゃん。

どん、どん、どん。






そんなに広い訳でもないから、射的の店はすぐ見付かった。
店を預かっていたのは、龍麻の家の近くに住んでいた若い男の人だった。


おう、ひーちゃんか。
今日は友達と一緒かァ。
よしよし、100円で一回5発だぞ。


追いついて来た両親へ振り返る。






「とーちゃん、100円!」
「やるんだったら、何か取れよ」
「お母さん、いい?」
「はいはい。頑張ってね」






直ぐに100円玉が二人の手に渡される。




小さな子供の体には合わない、大きな銃。
構える為に台に乗せてもらっても、狙いなんてちっとも合わなくて、見かねた父が後ろから支えてくれた。

その隣では京一が同じように父に支えて貰っていたけど、自分で出来ると言ってごねている。
でも既に3発を使っていた京一は、結局、拗ねた顔をしながら、父に手伝って貰った。
4発目は景品の近くに当たって、ほれ見ろ、と父に言われて煩ェ、とまた拗ねた。



当たりそうで当たらない、そんな感じ。
背中で父が、もうちょっとこっちだよと、教えてくれる。

結局、龍麻は何も取れなかった。
残念賞に飴玉を貰った。
龍麻の好きな苺味だったから、これはこれで嬉しい。


京一は背中に父親とケンカのような会話をしながら、最後の一発の狙いを慎重に定める。
そっちじゃねェ、こっちだ、と言われて、京一はムーッとしながらそれに従った。
息を詰めているのが龍麻にも伝わって、知らず、龍麻も息を飲む。




どきどきする。


当たると良いな。
当たって欲しい。

なんでもいい、狙っているものに当たったらいい。




ぱんっと音がして、コルクの弾が飛び出した。
それは真っ直ぐ飛んでいって、景品の番号に当たって、番号札は台の後ろに落ちて行った。

お見事、と若い男の人が手を叩く。






「やった!」
「俺のお陰だ、感謝しろ」
「判ってるよッ」






ぐしゃぐしゃ頭を撫でる父親に、京一はやっぱり拗ねた顔で言い返す。
でも頭を撫でられるのを嫌がらないから、多分、心の中はありがとうで一杯なんだろう。



手に入れた景品は、子供用の花火グッズ。
手持ち花火が数種類、ねずみ花火が三つ、それから線香花火が二本。

それを受け取って、京一は龍麻の前に駆け寄る。






「龍麻、龍麻」
「なに?」
「後でやろうぜ。父ちゃんライター持ってるから、すぐ出来るぞ」






嬉しそうに言う京一に、龍麻は頷いた。



友達と一緒に花火なんて。
いつも、家族三人で遠くの打ち上げ花火を見るだけだったから、なんだか新鮮な気分だ。

勿論、打ち上げ花火も嫌いじゃないし、とてもキレイだと思うけど、それとこれとは別の話。
きらきらキレイな花火が自分の手の中にある、それがとても楽しいのだ。
そして、京一が貰った花火を、京一と一緒に楽しめるのが、また一層嬉しくて堪らない。


でも、今はまだ祭りの真っ最中。
立ち並ぶ出店は、まだ半分も通過していない。







「次、アレやろうぜ!」
「勝負する?」
「とーぜん!」







しゃんしゃん。
しゃんしゃん。

ちんとんしゃん。







駆け出す子供達を、やぁれやれ、と親三人が追って行った。








































しゃん、しゃん、しゃん……
しゃん、しゃん、しゃん……







祭囃子が遠くで響く。



今は人気の少ない、広い場所で、きらりきらりと煌くものがあった。

それらは二人の子供の手元から放たれていて、地面に落ちて吸い込まれるように消えていく。
その消える瞬間までもとてもキレイで、子供達はすっかりそれに目を奪われた。


使い終わった手持ち花火は、屋台で貰った、水を張ったバケツの中。
火が消えて、水の中に入れる時、じゅっと音がするのが面白い。


バケツと同じく貰ったろうそくに、京一の父が火をつけた。
吹く風で消えないように石で囲んで、ブロックを作った。
其処に花火の口を近付けていれば、やがてしゅぅっと音を立てて光を吹く。

白い光、緑の光、青い光。
くるりくるりと表情を変えて、細い棒から沢山の光が吹き出して、暗い世界を照らし出す。






キレイだった。
吹き出す光が、光に照らされた世界が。

光に照らされた、きらきら笑う友達が。






手持ち花火がなくなって、京一がねずみ花火を取り出した。
地面に置いたそれを、京一の父がライターで火をつけてくれた。

ドキドキしながら見ていると、しゅーっと音を立てて、ねずみ花火がくるくる地面の上で回り出す。
危ない危ないときゃあきゃあ逃げながら、それも龍麻も京一も楽しんだ。


面白いモン見せてやると京一の父が言った。
落ちていた長い枝を拾って、その先端に、何処に持っていたのか糸を括り付ける。
枝と反対側の糸の先端に、ねずみ花火を取り付けて、点火。

さっき地面を這っていたねずみ花火が、今度は空中をぐるんぐるんと廻る。
それは確かに面白かったけれど、あっちこっちに火花が散って、京一が危ねェじゃんかと怒鳴った。
父は豪快に笑っていた。
龍麻も、龍麻の両親も笑っていて、最後は京一も笑っていた。





いつもの麦わら帽子はないけれど、それでも、京一の笑顔が龍麻は好きだった。




父の笑顔も好きだ。
にっこりと、頬と目尻に皺が出来て、優しい笑顔。

母の笑顔も好きだ。
ふんわり、見ていて心がぽかぽかする、温かい笑顔。


京一は、まるで夏の太陽のような眩しい笑顔。



どれも龍麻にとっては宝物だ。
その宝物が、きらきら花火に照らされて、まるで此処は宝石箱のよう。








ぱん。

最後のねずみ花火が破裂した。
動かなくなったねずみ花火を京一の父が拾って、バケツの水につけた。


後に残ったのは、線香花火。






「ほら、龍麻」
「うん、ありがとう」





二つしかない線香花火。
一つずつ持って、ろうそくの火に近付ける。

程なく、点火は成功した。


二人向き合う形にしゃがむ。
小さな小さな線香花火が、風で揺れて消えてしまわないように、自分の体で壁を作る。





―――――さっきまでの賑やかさが嘘のように、辺りは静けさに包まれた。

知らず知らず、龍麻と京一は口を噤んで、じっと線香花火に見入っていた。
龍麻の父も母も、京一の父も、しんと黙って二人の子供を見つめている。







しゅっ。
しゅっ。
ぱち。
ぱち。






小さな小さな音がして、丸くなった赤い灯火から小さな光が生まれて来る。
それは次第に連続し、ぱちりぱちりと音を立てた。








「きれい」
「うん」







龍麻の呟きに、京一が小さく呟いて返した。



キレイだ。


沢山の光が吹き出る手持ち花火もキレイだった。
くるくる回るねずみ花火も楽しかった。

線香花火は、そのどちらよりも光も音も小さいけれど、負けないくらいにキレイだった。







ぱち、ぱち、ぱち。
ぱち、ぱち。






このまま時間が止まればいい。
夏休みが終わらなければいい。


此処には、龍麻の大好きなものが全部ある。
父がいて、母がいて、友達がいて、きらきらの光があって。
このまま時間が止まれば、ずっとずっとキレイな世界にいられる気がする。

でも時間が止まっちゃったら、花火はきらきらしないんだなぁ。
そう思うと、それも勿体ない気がする。



ちらり、京一を覗いてみる。

京一はじっと線香花火を見ている。
其処にあるのはいつもの麦わら帽子の笑顔ではないけど、線香花火に照らされた顔は、やっぱり大好きな友達のもの。
大きな瞳の中で、線香花火がぱちぱち閃いて、きらきら輝いているように見えた。


目の前の線香花火もキレイで、京一の瞳の中の光もキレイで。
それをじっと見ていたら、京一の目が此方を見た。






「なんだ?」
「ううん」






首を横に振る龍麻に、京一は不思議そうに首を傾げる。
しばらく見つめあう形になって、先に京一が目をそらした。
瞳はまた線香花火の光を映す。







ぱち、ぱち、ぱち。
ぱち、ぱち。

ひらひら、ひら。
きら、きら。







手元で揺れる、小さな光。
瞳の中で閃く、光。

キレイなキレイな、きらきらの光。




夏だなぁ。
夏ですねぇ。


二人の父の会話が聞こえる。
でも、それも何処か遠くに思えた。


先日はどうも。
いえいえ、此方こそ。

うちの子がいつも世話になりまして。
いやいや、こっちの方こそ。

最近、とても楽しそうなんですよ。
京一君が大好きだって言ってました。
この間も、大きなカブトムシを見せてもらったって。

いやぁ、悪ガキでね。
お宅の息子さんはいい子ですな。
爪の垢ァ煎じて飲ませてやりたいくらいです。





吹き抜ける風が、涼しくて気持ち良い。









ぱち、ぱち。
ひらひら、ひら。

きらり。









線香花火が、光を吹き出すのをやめた。
でも、まだ丸い灯火が先端に残っている。

それは、少しの間明滅して、










………ぽと。









二つ同時に、音もなく、地面に落ちた。


終わっちゃった。

少し勿体ない気持ちで、龍麻は役目を終えた線香花火を見つめた。
ろうそくの火もいつの間にか消えていて、光を失った世界は、本来の色を取り戻す。
それでも、龍麻はこの暗い世界を怖いとは思わない。






「終わっちまった」
「うん」






線香花火をバケツの水に落とす。
沢山の終わった花火の入ったバケツを、京一の父が持ち上げた。


終わっちゃった。
終わっちまった。

楽しい時間は、過ぎてしまうのが本当に早い。




誰が促した訳でもないけれど、自然と足は家路へ向かった。
龍麻は右手で京一の左手と手を繋いで、左手は母の右手を握り締めた。
龍麻の父と、京一の父は、三人を挟んで歩く。







「またしようね」
「おう」







祭りの終わりが近い。
道々を照らす篝火の灯は、来る時に比べると随分小さくなっていた。
それでも、帰る道を照らす分には十分足りる。


お喋りしながらゆっくり歩く子供達を、大人達は急かさなかった。
子供達が焦らなくていいよに、子供達と同じ速さでゆっくり歩く。

金魚すくいも、射的ゲームも、スーパーボールすくいも、全部楽しかった。
焼き蕎麦も、いか焼きも、たこ焼きも、カキ氷もラムネも美味しかった。
花火はきらきらキレイで、眩しくて。














またしようね、と。
その約束が本当になるかは、今は知らない。

今はただ、その約束を交わせることが嬉しい。



















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(夏休みで5題 / 3.夏と浴衣と線香花火)


線香花火って不思議ですね。
直前までどんなにわいわい騒いでても、線香花火になると皆静かになって見入っちゃう。

意外に出張った京一の父ちゃん(笑)。