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みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん……
……………
……かなかな
かなかな、かなかなかな……
蝉が一度静かになって、次はヒグラシが鳴き出した。
木の枝に覆われた空を見たら、蒼じゃなくて茜で一杯になっていた。
いつもなら、もう家に帰り始める時間だった。
時計など持っていないから、正確な時刻は判らないけれど、空がこの色になったら家路についた。
京一も同じで、これぐらいになったら山を降りてきて、龍麻に捕まえた虫を見せて、二人で帰路に。
でも、京一はどんどん前へと進んでいって、手を繋いだ龍麻も前へ前へと足を進ませる。
少し、帰ろうか、と言おうかと思ったけれど、あのつり橋が頭から離れない。
結局、遠いね、こんなに遠かったっけ、と言うのが精々で、後はひたすら前に歩いた。
分かれ道があった。
綺麗に分断されている道。
其処で、京一が立ち止まって、龍麻も立ち止まった。
二人で顔を見合わせて、どっちだろう、考える。
分かれた道の根元に看板があったけれど、文字は消えていた。
どちらに行けばあのつり橋に辿り付くのか、ちっとも見当がつかない。
そうだ。
思いついて、龍麻は落ちていた枝を拾った。
道の真ん中に真っ直ぐ立たせて、手を離す。
ぱたり。
枝は右に倒れた。
龍麻の手を引っ張って、京一が歩き出す。
それに逆らう事なく、龍麻も歩き出した。
かなかなかな。
かなかなかなかな。
かなかなかな。
かなかなかな。
かなかなかな…
……かなかな……
………かなかな、かな……
……………
……ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう……
歩いても、歩いても。
探すつり橋は見つからない。
時間だけが過ぎて、気付けば茜の空は黒に変わっていた。
木の枝々の隙間から、白く淡い光が零れてくる。
それが月の光だと知って、龍麻は立ち止まった。
京一も立ち止まった。
「京一、」
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
もう、言わなきゃいけない。
繋いだ京一の手が、小さく震えていることに、本当は随分前から気付いていた。
握った手の力が少しずつ強くなっていることも。
多分、此処で立ち止まってもどうにもならないから、京一は歩き続けていたんだ。
気付けば山道も外れていて、気付いた時には辺りは真っ暗。
そんな時に立ち止まってもどうにもならないから、だから、ずっと前を見て。
もう直ぐ着くんじゃねえか?
結構歩いたろ、だから、多分、もう直ぐだ。
そう言って、京一は笑った。
龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔だった。
でも、最後にそう言ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
京一はもう随分と振り返ってくれなくて、ただ前だけを見て歩いている。
「京一、ごめんね」
京一が前を歩くのは、自分の方が山道に慣れているから。
虫を早く見つけられて、捕まえて、龍麻に見せる事が出来るから。
だから真っ直ぐ、前を見て、歩いて。
「ごめんね」
繋いだ手が震えている。
謝ったってどうにもならないけれど、他に何を言えばいいのか判らない。
帰ろう、と言えばいいのだろうけど、こんな所まで来てしまう切欠を作ったのは自分の方で。
あの時、つり橋なんて見付けたから。
「ごめ、」
「謝んな」
背中を向けたままで、京一が龍麻の言葉を遮った。
もう一度ごめんと言いそうになって、なんとか飲み込んだ。
「………帰るか」
「……うん」
繋いだ手を、もう一度しっかり繋いで。
二人で後ろを振り返って、其処に広がる暗い世界に息を飲む。
田舎の灯りは少ないから、夜になればいつだって真っ暗だ。
月のない日はもっともっと真っ暗で、家の灯りも随分遠い。
自転車の小さな光が、凄く明るく見えたりする。
でも、こんなに真っ暗な世界を、龍麻は知らない。
空から落ちてくる月の雫も、照らしてくれない、そんな世界。
京一が歩き出す。
龍麻も歩き出した。
手を引っ張り、引っ張られじゃなくて、二人で。
ほう、ほう、ほう。
真っ直ぐ歩いて来たつもりで、何処をどう歩いたのか思い出せない。
何かに気を取られて真っ直ぐから逸れたのを覚えてる。
其処から前を向いて歩いたけれど、また何かに気を取られたのを覚えてる。
何処をどんな風に歩いたっけ。
何処に何があったっけ。
何処で何を見たんだっけ。
目印なんて何もなくて、それが益々不安になる。
こっちであってる保障が何もなくて、もしかしたら、反対方向なんじゃないかと。
考え始めたらちっとも道が定まらなくて、最初に向いていた方向から逆を向いて歩くのが精一杯。
前を歩く京一は脇目も振らないで、後ろを歩く龍麻は、周りの景色と記憶の景色を照らし合わせて。
だけど似たような景色ばかりが続いているから、やっぱりあっているのか自信がない。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
段々と京一の歩く早さが遅くなって、龍麻も遅くなっていった。
がさり。
傍の茂みが揺れて驚いた。
ざざっ。
頭上の木々がざわめいて、怖くなった。
道はこっちであってる?
こっちに行けば帰れる?
もしかして、帰れない?
見えない何かが、真っ暗な世界へ自分たちを誘い込もうとしているんじゃないかと。
自分で考えたのが怖くなって、龍麻は京一の手を目一杯握り締めた。
痛いくらい。
京一は、同じくらいの力で握り返した。
ほう、ほう、ほう。
その内、立ち止まる間隔が増えていった。
辺りを確認する為じゃなく、もう歩けない、そう思う自分を叱る為に立ち止まった。
段々、歩き出すまでの時間が長くなる。
ひく。
そんな音が聞こえて、龍麻は前を歩く京一を見た。
相変わらず前を見ているから、京一の顔は見えない。
でも、手で顔を擦っているのが見えて、龍麻はじんわり視界がぼやけて行くのを感じた。
京一は、ずっと泣くのを我慢している。
多分、迷ってしまったことを龍麻より早く気付いていて、どうにかしようと一所懸命歩き続けて。
それでもちっとも変わらない景色に、ずっと泣くのを我慢している。
ひっく。
でも、もう限界なんだろう。
立ち止まって、京一の肩が何度も跳ねる。
木刀を持った右手が、白いくらいに力が入っていた。
龍麻は繋いでいた手を解いて、京一の前にまわる。
それに気付いた京一は、麦わら帽子の縁を引っ張り下ろして、顔を隠した。
大好きな麦わら帽子の笑顔は、今は見れない。
龍麻は、それが一番悲しかった。
さらさら、川の流れる音が聞こえた。
龍麻は京一の手を取って、今度は自分が前に立って、音のする方へ歩き出す。
京一は俯いたままで歩き出した。
「川、あったから」
「………」
「ちょっと休もう。僕、ノド乾いた」
京一が小さく頷いた。
辿り着いた岸辺に座って、手で水を掬う。
柔らかな水は、美味しかった。
京一は、川原の石の上に膝を抱いて蹲っていた。
ぎゅうと木刀を握る小さな手が、なんだか酷く心細そうに見える。
龍麻は隣に座って、京一の背中を擦った。
「…っく……ひっ……」
暗い静かな世界の中に、小さく響く声。
座り込んで息を吐いて、もう堪え切れなくなったのだろう。
少しずつそれは大きくなった。
「ひっ…えっ……うぇっ……」
「平気、帰れる。大丈夫」
「うっく……ふ、ふぇっ…」
「大丈夫」
だから、泣かないで。
泣かないで、いつもみたいに笑って。
そうしたら、僕も大丈夫。
まだ歩ける。
歩けたら、家に帰れる。
がさって音も。
ばさって音も。
怖くないから、大丈夫。
だから、泣かないで。
でないと、でないと。
「ひっ…え、うぇ…ふぇっ……」
「…………」
泣いちゃダメ。
泣いちゃダメ。
京一が泣いちゃったから、僕がなぐさめてあげなきゃダメ。
大丈夫だよって、僕が言ってあげなくちゃ。
「う、えっ……ぁ、わ、ぁあ、ああん」
「…ふ、ぇえ、え……」
京一が大きな声で泣き出して。
ぽろり、目から雫が一つ零れるまでが、龍麻の限界だった。
周りの木々の音なんて、水の流れる音なんて、なんにも聞こえなくなるくらい、大きな声で泣いた。
泣いてもどうにもならないと思っていても、もう我慢できなかった。
後から後から涙は出てきて、ぽろぽろ零れて、喉が枯れる位の声で泣いた。
どっちに行けばいいのか判らない。
どっちから来たのか判らない。
帰りたい。
帰りたい。
だけど、帰り方が判らない。
つり橋なんか、もうどうでもいい。
キレイな虫だって、もういい。
お父さんとお母さんが待ってる。
京一のお父さんとお母さんも待ってる。
早く帰らなきゃいけないのに。
帰り方が判らない。
判らなくって、歩けない。
京一が泣いてる。
帰れなくって泣いてる。
龍麻が泣いてる。
帰れなくて泣いてる。
なぐさめなきゃいけないのに。
歩かなきゃいけないのに。
「とーちゃ…とーちゃぁ……わぁああああん…」
「おとぉさぁん…ふえ、え、えぇえん……」
守ってくれる大人はいない。
だから、この子は自分が守ってあげなくちゃ。
だけど、涙が止まらない。
ほう、ほう、ほう。
泣き声が響く。
子供二人分の、大きな大きな泣き声が。
ほう、ほう、ほう。
隙間を塗って、ふくろうが鳴く。
ほう、ほう、ほう。
ああん、わぁん。
うえぇえん。
ほう、ほう、ほう。
がさ。
がさ、がさ。
ほう、ほう、ほう。
がさ、じゃり、ざざっ。
じゃりっ。
「京一!!」
響いた声に、二人の子供の肩が跳ねた。
ぐす、と鼻を啜って、二人で振り返る。
見付けたのは、息を切らして立ち尽くす、見慣れない着物の男の人。
ざんぎり頭に少し強面で、でも今はそれは微塵も感じられない。
不安と焦燥で一杯になった、そんな顔で。
龍麻は少しきょとんとして、誰だろう――――と思ってから、そう言えば京一を呼んだと思い出す。
隣を見れば、少し涙の引っ込んだ京一がいて。
「………とー、ちゃん………」
父ちゃん。
お父さん。
京一の、お父さん。
男の人は走って二人の傍まで駆け寄って来て、京一も立ち上がった。
「父ちゃん!!」
飛び込んできた京一を、男の人はしっかり受け止めた。
京一はそのまま、抱き締められてわぁわぁ泣き出した。
バカ息子。
こんなトコまでガキだけで来る奴があるか。
心配させんな。
あぁ、あぁ、怖かったな。
歩き回ったか、頑張ったな。
くしゃくしゃ京一の頭を撫でて、男の人はほっと息を吐いた。
それから、龍麻へと目を向ける。
目尻の形が京一と似ていた。
「お前ェが龍麻か?」
聞かれて、なんとか頷く事が出来た。
「お前ェの親父さん達も心配してる。ほれ、帰ンぞ」
そう言って、男の人はしゃがんで龍麻に背中を見せた。
少しの間考えて、理解して、龍麻はその背中に乗った。
男の人はひょいっと立ち上がって、龍麻の視界が一気に変わる。
腕に京一を抱いて、背中に龍麻を乗せて、男の人は迷いのない足取りで歩き出す。
「ったく……人様の息子まで迷子にさせやがって」
「…………」
「山にゃあな。おっかないもんがあるんだよ。ガキだけで遠くに行くんじゃねえ」
「……うん」
「お前、コイツに怪我させたらどうすんだ。川ァ落ちたらどうすんだ」
「……オレが、助ける…」
「そんでお前も怪我したらどうすんだ。溺れたらどうすんだ。母ちゃん泣くぞ。そんな親不孝ねェぞ」
「………ごめんなさい」
「全くだ。よーく反省しやがれ」
ぐす、と京一の声がした。
龍麻は、男の人の背中でそれを聞いていた。
「龍麻っつったか」
「……?」
「お前もよーく反省しな。同じ事だ」
「おんなじ……」
反芻して呟くと、おうよ、と男の人は言った。
男の人が京一に言った言葉を、頭の中で繰り返す。
京一が怪我をしたら、川に落ちたら。
あの時、あんなに高い木の上から落ちていたら。
助けることが出来て、京一が無事だったら嬉しいけれど、もしも自分が帰れなくなっていたら。
今も帰りを待ってくれている父と母は、どんなに悲しむだろう。
例えば二人がいつまでも帰って来ない日が来たら――――龍麻は、悲しくて悲しくて、どうしようもない。
そのまま、一人ぼっちになってしまったら…………
ごめんなさい。
心配かけてごめんなさい。
今は此処にいない両親に、心の底から謝った。
帰ったらちゃんと、もっともっと謝らなきゃいけないと思った。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
男の人は迷わずに、真っ直ぐ真っ直ぐ、歩く。
歩いている場所が何処なのか、昼間通った道と一緒なのか、龍麻には判らない。
でも少しずつ、馴染んだ香りが感じられて。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
父と、母の、呼ぶ声が聞こえた。
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(夏休みで5題 / 2.たまには遠出しようよ)
構想段階でいっちばん書きたかった話。
ネタ粒置き場に書き散らした通りですね。
……って言うか、長いね(滝汗)。
こんな話も、ちみっ子ならでは。
でもってやっぱり京一の父ちゃんが大好きです。
君の手を引いて歩いて行く
君に手を引かれて歩いて行く
いつか辿り付く場所へ
其処にあるのが例えば暗闇であるとしても、君と一緒ならきっとなんにも怖くない
- たまには遠出しようよ -
麦わら帽子の男の子の名前は、京一。
龍麻の知らない名前だった。
それでも構わない。
名前はしっかり心の刻んで、消えたりしない。
麦わら帽子の笑顔と一緒に。
京一は毎日、龍麻のいる山道の麓にやって来た。
右手に木刀、左手に虫取り網と虫かごを持って。
ある日は龍麻に一声かけて、じゃあ行って来ると山に入って行った。
空の蒼が茜に変わる頃に降りて来ると、虫かごの中の虫を得意げに見せる。
その度、何処かに怪我が増えていたけれど、京一はちっとも気にしていなかった。
カブトムシやクワガタムシを見せる京一は、なんだかとても楽しそうで、龍麻も見ているだけで楽しくなった。
ある日は砂利道の端っこに座って、龍麻が絵を描くのをじっと見ていた。
時々一緒になって地面に絵を描いて、何かを描くこともある。
テレビで見たキャラクターだと言われても、時代劇や歴史モノしか見ない龍麻は、判らなかった。
知らないと言うと京一は驚いた顔をして、一つ一つを説明してくれた。
ある日は傍らに流れる川に足を浸して、ぱしゃぱしゃ跳ねさせて遊んでいた。
龍麻はそれを見ているだけだったけれど、京一は楽しそうだったから、龍麻も楽しかった。
麦わら帽子の笑顔はいつも眩しくて、龍麻はそれが好きになった。
その内、二人が一緒にいる光景は、通り掛かる大人達にも見慣れてきた。
あれあれ、ひーちゃん、友達かい?
坊、名前はなんてェ?
へえ、京一、京ちゃんかい。
仲が良いねえ。
そんな二人にご褒美だ、飴さんあげよう。
二人でちゃあんと分けっこするんだよ。
そんな風に声をかけられる度、京一は麦わら帽子で顔を隠した。
どうして隠すの、と訊いたら、なんでもねェ、と言った。
その耳が赤かった。
貰った飴やおにぎりを、二人で分ける。
一人で貰った時にも美味しかったけれど、もっと美味しかった。
美味しいね、と言ったら、ん、と京一が頷いた。
嬉しかった。
誰かと一緒に遊ぶのが、凄く楽しい。
京一と一緒にいられるのが、凄く嬉しい。
きらきらの太陽の下、きらきらの麦わら帽子の笑顔を、どんどん好きになっていく。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
今日も暑い。
でも、日陰は涼しい。
絵を描いていた手を止めて、龍麻は道の向こうを見た。
京一、そろそろ来るかなぁ、と。
いつもこれ位の時間になって、麦わら帽子の男の子はやって来る。
龍麻は朝から此処にいるけど、京一は昼になってから。
朝から昼の間は剣術稽古をしているから、出て来れるのがそれが終わった後なのだ。
昨日は腕に大きな青痣があってびっくりした。
でも京一は、母ちゃんが冷やしたからヘーキ、と言って腕を振り回していた。
痛くないのと訊いたら、慣れてる、と笑って言った。
道の向こうに、麦わら帽子を見つけた。
「きょーいちー」
立ち上がって手を振ったら、麦わら帽子が上がって顔が見えた。
京一は直ぐに走り出して、龍麻の傍まで来て止まる。
その手に、いつもの木刀はあるのに、虫取り網と虫かごがなくて、龍麻はあれっと首を傾げる。
「京一、虫取り網、忘れた?」
「今日は置いてきた」
山に行く日も、此処で過ごす日も、いつも虫取り網と虫かごがあったのに。
今日はなんで置いてきたんだろうと、反対側に首を傾げた。
と。
京一の左手が、龍麻の右手を捕まえた。
「今日はお前も山行こうぜ」
「え?」
言われた意味が一瞬よく判らなくて、龍麻はきょとんとする。
京一は直ぐに歩き出していて、龍麻はそれに引っ張られて歩き出した。
「お前、勿体ねェんだよ。此処で絵描いてんのも、いいけどさ」
「何が? 勿体ないって、何が?」
「山には面白ェもん一杯あるんだからさ。龍麻もたまには見に行けよ」
山に行く。
山に登る。
今まで、学校の遠足ぐらいでしか、登った事のない山に。
初めての事に、どうしよう、と龍麻は迷った。
嫌だと思っている訳じゃないけど、あんまり行きたいとも思わない。
それは多分、学校の子達と会うかも知れないから、それを避けたい為で。
でも京一はそんな事は知らなくて、良いこと思いついたみたいに笑っている。
時々、振り返ってついて来るのを見て笑うのを見たら、行きたくないなんて言えない。
初めてなのはそれだけじゃない。
こうやって、手を引っ張られるのも初めてだった。
学校の子達は、無理強いは良くないと先生に言われていて、龍麻が行きたいと言わなかったらもう誘わなかった。
答えを聞く前に手を繋がれて、引っ張って行かれて。
でもそれも嫌じゃなくて、寧ろ嬉しいくらいで。
「カブトムシだろ、クワガタだろ、チョウチョもいるし」
「チョウチョは春だよ」
「夏だって飛んでらァ。知らねえの?」
「白いのしか覚えてない」
「ほらみろ、勿体ねェ」
何が、ほらみろ、なんだろう。
判らなかったけど、京一は楽しそうだった。
「いるのに知らねェなんて勿体ねェよ。キレーなチョウチョ飛んでるんだぞ」
「京一、見たことある?」
「見た見た。昨日も見たんだぜ」
ふぅん。
京一は見てるんだ。
じゃあ、僕も見たいかも。
「オニヤンマも飛んでたぜ。あと、夕方になったらヒグラシが鳴いてる」
「ヒグラシ、僕も知ってる」
「見たか?」
「ううん」
「じゃ、見せてやる!」
京一が知ってることなら、自分も知りたい。
龍麻はそう思った。
京一が見たものは、自分も見たい。
京一が見せてくれると言うのなら、凄く見たい。
「でも、虫取り網、ないよ」
「なくたって取れらァ」
「そうなんだ。京一、すごい」
任せとけ、と笑った京一は、やっぱり眩しい笑顔だった。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
京一は木登りが上手い。
龍麻の知っている人の中で、きっと一番に上手かった。
すいすい登っていって、あっという間に天辺まで行ってしまう。
龍麻も木登りが出来ない訳じゃないけれど、あんなにすいすい登って行けない。
一所懸命置いて行かれないように頑張ってみるけど、やっぱり京一は早かった。
虫を見つけるのも上手い。
龍麻は何処にいるのか見えないのに、京一はすぐに見つけた。
あそこだ、あそこ、と指を指されても、龍麻は中々見つけられない。
目を擦ったりして見るけれど、見付からなくって京一の方が焦れた。
結局京一が藪の中や茂みに入って、手で捕まえて見せてくれた。
最初にカブトムシを捕まえて、見せてくれた。
凄く大きなカブトムシ。
一緒にクワガタムシも見せてくれた。
カブトムシの角と同じくらい、大きなハサミ。
挟まれたら痛そう、と言ったら、痛ェよ、と京一は言った。
山道の途中で見つけたカマキリも、京一は手で捕まえた。
龍麻は鎌が怖くて触れない。
慣れちまえばへっちゃらだ、と京一は笑った。
蜂の巣も見つけた。
そーっとしゃがんで通ろうとしたら、ぶーんと音がして驚いた。
二人で一目散に逃げた。
その後で、青い蝶が目の前を飛んでいった。
京一がやっぱり手で捕まえた。
少しの間手のひらの中に閉じ込めて、二人で息を殺してじっと見た。
黒地に、キレイな青白い筋が一本入った蝶。
そっと手のひらを開いて、ふぅわり飛んでいくのがキレイで、二人でそれを見送った。
山に色んな虫がいるのは知っていたけど、こんなに沢山いるなんて。
見つける度に驚いて、見つけられる京一にも驚いた。
網も使わずに捕まえてしまうから、もっと驚いた。
みぃん、みぃん。
みぃん、みぃん、みんみん、みぃん。
じー、じー、じー。
今もどうやったら見えるのか、京一は木の上の蝉を見つけて、それを捕まえようと登っている。
他の木よりも一際高いのに、なんだか細く見える木に、龍麻は下でハラハラしていた。
京一は平気平気と笑っていたけど、もしも枝が折れたりしたらどうしよう。
足元の地面は、山道に比べると柔らかかったけど、きっと落ちたら痛いに違いない。
落ちないで、落ちないで、と龍麻は祈っていた。
京一はそんな龍麻のことなど気付かずに、もう随分高い位置。
もう少し。
もう少し。
木の幹にしがみついた京一の息が、詰まる。
狙っているのは、背中が緑のミンミンゼミ。
龍麻が近くで見たことがないと言ったから、見せてやろうと木に登った。
そっと手を持ち上げて、狙いを定めて、迷わずに。
ぱしっと手が幹と当たった音を鳴らして、其処に蝉を捕まえた。
「捕まえた!」
言うなり、京一は飛び降りた。
天辺に近い高さから。
わあ、と龍麻が声を上げた後に、京一は地面に降りていた。
「ほら見ろ、龍麻。ミンミンゼミ!」
嬉しそうに差し出されて、龍麻はそれを覗き込む。
案外小さくて、龍麻は少し驚いた。
あんなに大きな声で鳴くから、大きいものだと思っていた。
だけど目の前の蝉は、羽は確かに長いけど、体はとっても小さくて。
じぃっと見ていると、突然、蝉が鳴き出した。
みぃんみぃんみんみんみんみんみん。
「うわッ」
間近で聞いた大きな声に、京一が思わず手を放す。
ぱっと蝉は飛び出して。
「げッ」
「わっ」
ぴしゃり。
何かが降って来て、京一の手に引っかかった。
液体だ。
…おしっこだ。
「げぇ~ッ! ベタベタするッ」
京一は顔を顰めて、ズボンに手を擦り付ける。
京一のズボンはとっくに砂埃やホツレ糸があって、多少汚れても気にならなかった。
それでも匂いが気になるらしく、京一は手を顔に近付けては嫌そうな顔をした。
「洗う?」
傍に流れていた小川を指差すと、京一は頷いた。
木に立てかけていた木刀を左手に持って、直ぐに坂を下って川岸にしゃがむ。
ぱしゃぱしゃ手を洗う音がした。
その傍に歩み寄って、龍麻も川の水に手を浸してみる。
水面は太陽の光をきらきら反射させて眩しいけれど、その下はひんやり冷たくて気持ちが良かった。
アメンボが通り過ぎていった。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら、ぱしゃぱしゃ、さらさら。
さらさらさら、ぱちゃん。
さらさら。
日差しは強くて暑いけれど、そんなに眩しくはなかった。
龍麻は京一のように麦わら帽子を被っていないけど、頭の上の木々の枝が覆ってくれる。
上を見れば、隙間から零れる光が、やっぱり眩しかったけど。
京一は、雪駄を履いている。
サンダルじゃない、雪駄だ。
父親が和装を好んでいて、雪駄を履くから、真似るように履くようになったらしい。
その雪駄履きの足を、京一はそのまま水の中に突っ込んだ。
水の中の足は、涼しそうだった。
それを見て、龍麻は靴も靴下も脱いで、足を水につけた。
手を入れた時も冷たくて気持ち良かった、これはもっと気持ち良い。
楽しい。
山遊びがこんなに楽しいなんて、初めて知った。
ぽかぽか、ぽかぽか。
暖かいのが止まらない。
ふわふわ、きらきら。
嬉しいのが止まらない。
京一が誘ってくれなかったら、知らなかった。
京一が手を引っ張ってくれなかったら、判らなかった。
知らないものを一杯見れることが、楽しくて面白くて仕方ない。
隣で麦わら帽子の笑顔がきらきら光っているのが、嬉しくって仕方ない。
「あっちィなー」
「うん。でも、気持ち良い」
「だな」
京一が水を蹴った。
雫が、きらきら孤を描く。
きらきら。
きらきら。
皆光る。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ふと、龍麻は見つけた。
川の向こうが途切れていて、その向こうに見える二つの山を繋ぐものを。
「京一、京一」
「あ?」
肩を叩いて振り向かせてから、龍麻は立ち上がる。
京一も水から足を上げて、歩いて行く龍麻について来た。
途切れた川は急な下り坂に沿っていて、その下へと流れていた。
その手前で立ち止まって、龍麻は見つけたものを指差した。
一つ向こうの二山を繋ぐ、それは多分、
「あれ、つり橋かな」
「……みたいだな」
遠くを少し眺めて、京一が頷いた。
「何かあるのかな」
「さぁ。オレ、あそこは行ったことねェや」
知らないもの。
見たことのないもの。
知らないものを見付けた時、子供の好奇心はこれでもかと言う程に高鳴って。
つり橋が何を繋いでいるのか。
繋ぐ山には何があるのか。
どんなものが隠されているのか。
山が少し遠いことなんて、子供達にはどうでもいい事だ。
道は、山は、地面は繋がっているんだから、歩いていれば辿り付く。
探していたものに辿り付く。
子供は、自分の限界値なんて知らないし、そんなものがある事すら知らない。
目標が出来たら、後は真っ直ぐ、それに向かって進むだけ。
「行ってみようぜ、あそこまで」
その言葉に、嫌だなんて言う訳もなく。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
坂を下る子供達を、蝉たちが大丈夫かねェ、あの子達、と囁くように鳴いていた。
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≫
----------------------------------------
蝉の声
水の音
きらきら太陽
キレイな世界に現れた、きらきら光る、キミ
- 麦わら帽子に隠れた笑顔 -
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
今年も山の中で、沢山の蝉が鳴いている。
それを聞きながら、山頂へ続く山道の麓で、地面に落書きをするのが龍麻の日常。
時々自転車に乗った大人達が通り掛かって、今日もお絵かきかァ精が出るな、と言う。
“精が出る”の意味が龍麻にはよく判らなかったけれど、上手いなァと褒められるのは嬉しかった。
龍麻は、いつも此処にいる。
晴れた日はいつも。
小学校のクラスメイトは、山に登って蝉を取ったり、川で魚釣りをしたりしている。
けれど龍麻は、いつも此処で、一人で地面にお絵描き。
駆け回るのは嫌いではないけれど、龍麻は人の輪の中に入るのが苦手だった。
色んな子が遊ぼうよと手を伸ばしてくれるのだけど、どうしてか、その手を取るのを躊躇ってしまう。
怖がってばかりじゃ友達が出来ないのは判っているつもりなのだけど。
ずっとそんな調子だから、段々、周りも龍麻を誘わなくなった。
困らせて嫌な思いをさせたくないから、その事には少しだけ安心していたりする。
小学校の登下校も一人で、寂しくない訳じゃない。
だけど、どうやって人の輪の中に入れば良いのか判らないものだから、結局変わらないまま日々は過ぎる。
今日みたいに、一人で地面に絵を描いて。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
蝉の声、トンビの声、川魚の跳ねる音。
かりかり、地面を削る音。
ちりんちりん。
ひーちゃん、今日もお絵描きかい?
暑いねェ、お茶あげよう、美味しいよ。
じゃあね、暗くなる前に帰るんだよ。
冷たいお茶を飲んだら、なんだかすっきりしたような気がする。
明日から持って来れるようにお母さんに頼んでみよう。
でも大変かなぁと思いながら、龍麻はまた地面にお絵描きを始めた。
描くのはいつも、忍者やお城。
父が時代劇が好きで、だから龍麻もよく見るようになった。
お殿様やお姫様は今の日本にはいないけど、忍者はいると信じている。
彼らは人前に姿を見せてはいけないから、自分たちは見つけることが出来なくて、だからいないものだと言われているだけで、本当は今も何処かに忍の里と言うものがあって、其処で修行をしているんだと思う。
そう言ったら、父はそうだねぇ、と言ってくれた。
だから、いると信じている。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
このまま、空が茜色に変わるまで、龍麻は此処でお絵描きをする。
描いては消して、消しては描いて、気に入ったものは消さないで。
だけど明日になったら消えている、少しだけがっかりする。
誰とも一緒に遊ばない。
一緒に遊んでみたいけど。
もう皆との距離の縮め方が判らない。
だから一人で絵を描いて、空が茜になるのを待つ。
夕暮れになって家に帰って、母の作ったご飯を食べて、父と一緒にテレビを見て。
お風呂に入って、三人で寝る。
それが龍麻の日常。
ずっとずっと変わらない風景。
だと、思っていた。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
じゃり、じゃり。
じゃり。
足音。
最初は気にしなかった。
田んぼに行く大人が通りかかったんだろうと。
でも違った。
足音の主の影は、龍麻の前で立ち止まった。
短い影が龍麻の絵に被る。
地面ばかりを見ていた目を、少しだけ上げてみたら、自分と同じ位の大きさの足。
少し迷って、もう少し頭を持ち上げた。
自分と同じ大きさ足、擦り剥いた痕の残った膝小僧。
色落ちした半ズボン、汚れだらけの白いシャツ。
右手に長い棒を持っていて、左の手には虫取り網と虫かご。
龍麻がゆっくりゆっくり頭を上げている間にも、影の主は動かない。
じっとしていて、まるで龍麻が顔を上げるのを待っているみたいだった。
いいかな。
大丈夫かな?
思っても、誰も答えを教えてくれない。
どうしたい? と自分が自分に問いかけてくる。
迷って迷って、顔を上げて。
見下ろしていたのは、麦わら帽子を被った男の子。
見慣れない子だった。
誰だろう、と思い出そうと試みて、結局出来なかった。
この辺りに住んでいる子は少なくて、クラスも一学年で十人にもならない。
だから知らない子なんていない筈なのに、龍麻は目の前の男の子を知らなかった。
じっと見上げていると、麦わら帽子の男の子は口を開いた。
「これ、お前が描いたのか?」
両手が塞がっているからだろう。
手の代わりに、足で地面を鳴らして、これ、と示して男の子は聞いた。
そんな事を聞かれたのは初めてだったから、龍麻は少し、どう答えて良いのか考えた。
考えたところで出てくる答えは、真実以外の何者でもなく。
こっくり龍麻が頷くと、へー、と男の子は感心したように言って、しゃがむ。
「オレ、絵なんかガッコの授業じゃねえと描かねェよ」
絵を覗き込んでくる男の子の顔は、麦わら帽子に隠れてしまって、龍麻からは見えない。
それでも。
「すげーな、上手いじゃん」
その言葉が嬉しくて、龍麻の頬はほんのり赤くなった。
学校の休憩時間、自由帳によく絵を描いている。
連絡帳の隅にも、時々落書きをした。
先生にはよく褒めてもらうけど、クラスの子に褒めてもらったことはない。
お絵描きの授業で、自分より上手な子がいたから、その子に見られるのが恥ずかしかった。
何より、クラスの男の子達は皆外で遊んでいて、教室に残っているのは自分一人。
だから、同じ年の子に褒められた事は、ない。
初めて、同じ年の子に褒められた。
なんだか胸がぽかぽかする。
「……うまい?」
「おう」
問い掛けてみると、男の子は絵を見たまま、頷いた。
また、ぽかぽかする。
照れくさくって、嬉しい。
「なあ、これなんだ?」
絵の一つを指差して、男の子が訊いた。
「こうが忍者」
「コーガ?」
「こうがの忍者」
「ふーん」
龍麻もよく判っていなかったが、昨日、テレビでそんな忍者を見た。
頭に“甲”の字が入っている。
こいつは? と男の子は隣の絵を指差す。
「いが忍者」
「イガ? 栗か?」
「?」
「イガって栗のイガ?」
「…? ……多分」
首を傾げたが、そうかも知れない、と龍麻は頷いた。
ふぅん、と男の子は納得したらしい。
ほっとした。
判らなかったと知ったら、怒るかも知れない、と思ったから。
でも男の子はそうなんだ、と納得してくれたようだった。
「これ手裏剣か?」
「うん」
「これも?」
「それは、マキビシ」
一つ一つ指差して。
男の子の質問に、龍麻は答えた。
こんなに絵の事を聞かれるなんて、初めてだ。
大人達は上手いねェと言ってくれるけど、皆畑仕事で忙しいから、ゆっくり話が出来ない。
学校の先生には、採点はして貰うけど、直接あれがこうで、とは話していない。
クラスメイトの子には見せていないから。
初めてで、少しドキドキする。
「上手いな、お前」
また褒められた。
ぽかぽか、ぽかぽか。
暖かいのが止まらない。
訊かれてばっかりだ。
自分も、何か訊いた方がいいのかな。
でも、何を訊けば良いんだろう。
お絵描きの鉛筆代わりの石を握って、考えて。
「それ、なあに?」
「あ?」
男の子の持っている長い棒を指差して、訊いてみる。
男の子は顔を上げた。
麦わら帽子に隠れていた顔が、やっと見れた。
「何が?」
「これ」
「……ああ、コイツ」
龍麻の示したものを理解して、男の子はよく見えるようにと、棒を差し出してみせる。
「オレの木刀」
「ぼくとう?」
「剣術やってっから」
「…剣道?」
「違う、剣術」
言い直されて、龍麻は首を傾げた。
一緒じゃないの? と。
口にしなくても、男の子もそれを感じたらしい。
「よく知らねェけど、違うって父ちゃんが言ってた」
「ふぅん……」
どう違うんだろう。
龍麻が首を傾げると、男の子も傾げた。
男の子がよく判っていないから、剣術も剣道もしていない龍麻は、もっと判らない。
でも、違うと言うなら違うんだろう。
男の子は自慢げに、それを肩に担いだ。
それが、左手に持った虫捕り網と虫かごと、なんだか不似合いなような、そうでもないような。
でも、麦わら帽子は男の子の笑った顔に似合ってると思った。
棒のことは判った。
次は、何を聞こう。
「……虫、取りに行くの?」
虫取り網と、虫かご。
どちらもまだ新しそうだった。
やっぱり、この辺りの子じゃないのかも。
だってこの辺の男の子は、夏になるといつも虫取りをして遊んでいる。
龍麻と同じ年の子の虫取り網や虫かごは、穴が開いたり、ボロボロだ。
いや、単に新しく買い直して貰ったのかも――――。
考えていたら、男の子も考えていた。
「行く、つもりだったけど……」
「?」
「やっぱ、今日は止めとく」
男の子は虫取り網と虫かごを地面において、自分も座る。
山の麓の道の端っこ、龍麻と向き合う形で。
男の子は、また地面の絵に視線を落とす。
そうすると、麦わら帽子の縁の所為で、男の子の顔は見えない。
「此処でお前の絵見てる方が、面白ェや」
言われて、龍麻のまんまるい目が、零れそうな程開かれて。
だけど男の子は、それを知らない。
龍麻も、男の子の顔を知らない。
今、どんな顔してるの?
どんな顔して、言ってくれたの?
訊いてみたかったけれど、どうやって訊けばいいんだろう。
判らなくって、考えて、まあいいか、と思うことにした。
笑ってたらいいなぁ、と思って。
「ぼく、龍麻」
「京一」
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
かりかり。
かりかり。
きらきら、ふわふわ。
小さな世界が、ゆっくり、ゆっくり、広がり始める。
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(夏休みで5題 / 1.麦わら帽子に隠れた笑顔)
龍京ちみっ子。ほのぼの。
微パラレルだと思います。
季節的にアップ早いかなぁと思ったんですが、最近真夏並みの気温ですので…
夏の気分で読んでやって下さい。
――――――共通点を見つけてしまった、ような。
【STATUS : Enchanting 12】
朝霞が晴れて、昇る陽光が少しずつ都心のビルの高さを追い駆け始めた頃。
京一は『女優』の横を流れる川の土手上で、木刀を振っていた。
日課と言うほど真面目にこなしている訳ではない修行であるが、行わなければ腕も勘も鈍る。
幼少時代に父から叩き込まれた基本の姿勢と、今は何処にいるかも知れない師に叩き込まれた技と。
繰り返し頭の中で反芻させながら、頭の命令どおりに体を動かせる。
見えない敵を頭の中で作って、目を閉じればそれが見える程に強く強くイメージする。
それが鬼であるか、ヒトであるかは関係なく。
上段から下段に袈裟懸けに切りつけ、一歩踏み込んで体を反転させ、返す刀で横一線に薙ぐ。
相手側から迫る刃に、地面を蹴って後ろに跳び、着地、一瞬の停止の後直ぐに距離を詰めて躊躇わずに剣を振う。
右から来たら、左から来たら、後ろから来たら―――――架空の情報を脳はめまぐるしく作り、集め、計算し。
目が動く、腕が動く、足が動く―――――脳から筋肉へと伝わる電気信号を、何よりも早く掴んで処理して、動く。
踏んだ草が朝露を散らす。
昨晩の内に雨でも降ったか、地面は少し柔らかかった。
コンディションは、はっきり言って悪い。
そういう事だってある。
ズルリとぬかるみに脚を取られて、バランスを崩した。
無理に立ち上がろうとはせずに、地面につけた左手を軸に前転して、隙を突こうとした相手を下段から切り上げる。
地面に脚をつけて振り返り、もう一度剣を薙ごうとして―――――京一の動きが止まる。
「おはよう、京ちゃん」
『女優』の壁に寄りかかり、食えない笑みを浮かべ、悠長に朝の挨拶なんぞをして来る男。
朝からコイツの顔を見る事になろうとは。
京一の顔はその心情を判りやすく吐露していた。
が、相手は相変わらず京一のそんな表情を気にする様子はない。
動きを止めてしまえば、呼吸は普段どおりに戻る。
汗が噴出して、張り付いた前髪が邪魔だった。
シャツの袖で汗を拭って、京一は改めて手についた泥を見つける。
じっとりと湿った土を、両手で叩き合わせる事で払った。
そうしている間に、八剣は距離を詰めていて、気付けば後二メートル程の位置。
「……ンだよ」
言外にそれ以上近付くなと言う意味を込めて、問う。
八剣はそれを受けて、歩を止めた。
「熱心だねェ」
「別に」
日課と言うほど真面目にしている訳でもなく。
かと言って、不真面目と言う程にサボっている訳でもなく。
それでも習慣付いている事は否めず。
取り敢えず、褒められる程のものではないので、素っ気無い返事をして、また袖で汗を拭く。
代謝率の上がった体は、冬の寒空の下でもそれを感じさせない。
寧ろ今は熱い位で、火照った体を冷ましたい。
シャツの襟を引っ張り袂を広げれば、滑り込んだ冷えた空気が気持ち良かった。
「大胆―――と言うより、天然だよね。京ちゃんは」
「あァ?」
八剣の言葉に、また何を訳の判らない事を……と京一は眉根を寄せる。
しかしどういう意味であるか、聞きたくはない。
「……フザけた事言いに来ただけなら、もう帰れ」
と言うか、帰れ。
判りやすく拒絶の意を示す京一だったが、相手がそう簡単に聞くとも思えない。
何せ今の今まで、此方の言う事をまるで無視して、こうして『女優』に居座り続けている男だ。
京一が帰れという言葉を今直ぐ聞くのであれば、今日のこの瞬間まで、何度もこの男と顔を合わせる筈がない。
案の定、八剣は帰る様子を見せないので、京一の方が先に背を向けた。
相手をする気がないと判れば、直に離れて行くだろうと予想して。
下ろしていた木刀を持ち上げ、構える。
其処でまた声がかかった。
「京ちゃん」
無視する。
静止したまま、京一は呼吸を整えた。
「京ちゃん」
一つ長く息を吐いて、同じ長さ分吸い込む。
吐き出さずに息を詰め、踏み込みと同時に一度剣を引き、突き出す。
半歩下がって構え直し、左から右へ、柄から右手を離し左手だけで左上へと斜めに振う。
見えない敵はガラ空きになった腹を狙って来る。
腕を振った勢いをそのままに、左足を軸にして反転しながら蹴り倒す。
「京ちゃん」
ぐるりと一転して、浮かした右足を地面に降ろす。
下ろした場所がぬかるんでいたが、体制を崩すことはなかった。
変わりに泥が靴底に纏わりつく。
小さく舌打ちが漏れた。
それでも止まらず、左足に体重を乗せ、反動をつけて跳ぶ。
着地場所目掛けて、大上段に構えて。
「京―――」
「るっせぇぇええッッッ!!!」
繰り返し繰り返し呼びかけられる、呼ばれたくない呼び名。
無視だ無視だと言い聞かせるようにしていた京一だったが、元来、我慢強くはない。
明らかに意図して集中力を折ろうとする八剣に、堪忍袋の緒が切れた。
「なんなんだテメェは! オレの邪魔しに来たってか!?」
「いやいや。まさか、そんな事は」
「だったら帰れっつってんだろーが!! うぜェ!!!」
怒鳴りつける京一だったが、やはり八剣は飄々としている。
目の前でこれでもかと言う程の怒声を浴びせられているのに、おざなりな謝罪だけ口にして、あとはいつもの笑顔。
迫る京一を宥めるように両手を開いて降参のようなポーズを取るが、それも本気ではあるまい。
もう一度噴火するかと思うほどに、怒りで赤くなった京一の顔。
それを正面から受け止めて、八剣はいつもと変わらぬ調子で言った。
「相手しようか」
「あァ!?」
「だから、相手」
何言ってやがる、と云わんばかりに一度吼えた京一であったが、繰り返し告げられた言葉に、沸騰しかかった熱が下がる。
修行の相手。
それを買って出ようというのだ、八剣は。
「……………」
「何もしないよ」
何を考えているのか、探るように窄まった京一の目に、八剣が苦笑した。
疑われるのは仕方がない、そんな顔で。
相手がいる事は有り難い。
イメージトレーニングには限界がある。
しかし、相手が八剣であると言うことが、どうしても京一は引っ掛かるのだ。
真神のメンバーとなら気兼ねしないで良い。
特に龍麻とは、修練でありながら次第に本気になって打ち合った事もある。
だが八剣だ。
目の前にいるのは、馴染んだ相棒ではなく、嘗ての敵。
今となっては、京一の苦手なモノの一つに数えられる。
再会した時から、八剣はずっと敵意を見せない。
此方を油断させようとしている訳でもなく、本当に単純に京一が気に入っているのだろう――――そう思うと背中がやたらと寒気を覚えて、挙句痒くなって仕方がない。
だから今更、修行に託けて何某かしてくるとは思えないのだが………
京一の脳裏を過ぎるのは、先日の八剣の行動。
京一が『女優』に寄り付かなくなった最大の理由であった。
「何もしないよ」
先と同じ言葉を告げる八剣。
眉尻を下げて、本当だよ、と。
「………フザケた真似しやがったら、ブッ殺す」
あらん限りの低い音でそう言えば、八剣は笑む。
それまでの飄々とした顔とは、ほんの少し―――多分―――違う顔で。
向け合う刃に浮かぶ高揚感は、決して嫌いではなかった。
目が覚めてから聞こえた声と、音。
何処から聞こえるのかと探して、外界からである事に気付くと、龍麻は窓辺に近付いた。
ガラス一枚向こうに広がる光景を見つけて―――――……僅かに、龍麻の眉が寄った。
土手の上で動く影が、二つ。
一人は素早く、もう一人はゆらりゆらりと。
(京一と―――――八剣君)
真冬の空の下であるにも関わらず、京一はいつもの薄手の格好。
今はそれで丁度良いのだろう、きっと寒さなんて感じていないから。
振われる木刀に、躊躇いや加減は見られない。
それでも、喧嘩だとか言うものではなく、修行である事は龍麻にも判った。
いつもなら、相手になっているのは自分だ。
一番遠慮も気兼ねも、手加減も要らないから、互いに本気で打ち合える。
勿論、それは修行あるのだが、気を遣わなくて良いという事は非常に大きなものだった。
それが今は、八剣が相手をしている。
(京一、楽しそう)
龍麻とは違う理由で、遠慮も気兼ねも、手加減も要らない。
八剣の実力は京一自身が身に染みて知っているし、八剣もそれに見合った実力がある。
獲物が同じ類だと言う事もあるだろうか。
京一の周りで、京一と同格に打ち合える剣士は殆どいない。
部活で竹刀を鳴らすのとは違う、本気の剣技のぶつかり合い。
ゆらりゆらりと掴み所のない足取りを踏む八剣。
それを追う京一の目は、確かな高揚を覚えているのが見て取れる。
ガラス向こうをじっと見つめる龍麻を、アンジーが目に留めた。
「おはよう、苺ちゃん」
「おはようございます」
「どうかしたの?」
問い掛けるアンジーに、龍麻は窓の外を指差す。
倣って視線を向けて、ああ、とアンジーは納得したようだった。
「京ちゃん、今日も頑張ってるのね」
京一の修行風景は、『女優』の人々にとっては見慣れたものだ。
それでも、相手がいるのは珍しかったらしく、
「嬉しそうねェ、京ちゃん」
「……うん」
気兼ねの要らない相手。
その存在が事の他嬉しいらしい京一に、アンジーが微笑む。
後でそれを言えば、京一はきっと否定するだろう。
だが自覚はしている、恐らくではあるが。
いつから修行を始めているのかは判らないが、短い時間ではないだろう。
勉強事では長く続かない京一の集中力は、剣に関しては別格だ。
それでも、京一の呼吸に乱れはなく、動きも踊るように流麗で、疲労と言う言葉を知らないように見える。
それも日々の修練の賜物であるのだが、それ以上に、京一の今の高揚感がそれを助長させていた。
いつまで続くかと思われた風景は、龍麻がそれを見つけてから5分程で終わった。
数字で見れば短い時間だったが、京一は満足したらしい。
地面に腰を落として、京一は空を仰いで長い呼吸をした。
激しい運動を休憩を挟まずに続けていたのだから、意識はしていなくても、体は疲れている。
動きを止めて一挙に噴出した汗を、京一はシャツの袖で拭っていた。
地面に座る京一に、八剣が手を伸ばす。
しかし、京一はそれを払い除けると、自力で立ち上がった。
京一が八剣に何かを言っていたが、ガラス一枚隔てた場所から眺めているだけの龍麻には、その内容は判らない。
八剣はただそれを聞いていて、時折、いいよ、とでも言うように唇が動いただけだった。
その都度、京一は数瞬口を噤んで、頭をがしがしと掻いている。
しばらく遣り取りが続いて、京一が先に動いた。
此方に戻って来るのだろう、足は『女優』へと向いている。
その途中で、顔を上げた京一と、龍麻の目があった。
気付いた事を知らせるように、挨拶のつもりなのだろう、片手が上がる。
それだけで少し機嫌の直る自分に、単純だなあと内心呟きながら、同じく龍麻も手を上げるのだった。
次
八剣×(→)京一!
龍麻がちょっと劣勢気味?
次は龍麻の押せ押せモードで行こうと思います。
――――――判っている事を改めて人に言わると、やっぱり腹が立つものだ。
【STATUS : Enchanting 11】
……危うく逆上せる所だった。
誰かと一緒に風呂に入るなんて事が久しぶりだったからだろうか。
その程度の事ではしゃぐような幼稚な歳ではない筈だが、やはり気の知れた相手だったからか。
らしくもなく、羽目を外したという自覚はあった。
年甲斐もなく風呂場で騒ぐという行為をしてしまった事に、今更ながら恥ずかしさを感じつつ、京一はシャツに袖を通した。
その隣で、同じように龍麻もインナーを着て、制服のズボンを履く。
「あったまったね」
「そうだな」
にこにこと、火照った頬にタオルを押し付けながら言う龍麻に、京一は頷く。
少々羽目は外したが、お陰で温まった。
大抵カラスの行水宜しく短い入浴で終わるのだが、気兼ねなく長風呂するのもたまには良いものだ。
肩にタオルを引っ掛けて、京一はバーへと向かう。
しかし、カウンター奥から見た店は既に営業を始めていて、客も入っていた。
居?%E:221%#フ身である自分が出て行っても、邪魔になるだけだ。
カウンター内に座るビッグママが此方を見たので、それに言葉なく風呂上りを告げてから、京一は其処から離れた。
龍麻もビッグママに一つ頭を下げて、直ぐに京一について行く。
盛り上がる声が背中越しに届いた。
「んじゃ、もう寝るか」
「うん―――――あ」
する事もないからと告げた言葉に、短い返事をして、龍麻が正面を向いて立ち止まった。
同じように京一も。
見据えた正面、それ程奥行きのない廊下である。
元は従業員用に作られた部屋も、数は然程多くはない。
一見ですぐに全体が見渡せる。
その廊下の突き当たり、一番奥にあるのが、京一がいつも使っている部屋だった。
小さな店とは言え、壁は薄くはないが、初めて京一が此処に来たのは、自身がまだ小学生の頃。
謂わば水商売である店の影響は必ずしも良くはないもので、アンジーが配慮した結果だった。
幼い頃の京一は、よく意味が判らず、店で流れるCDの音楽に眠りが妨げられないなら良いと思った程度だったが。
今となってはそんな配慮も必要なくなったが、染み付いた習慣とでも言うのか。
すっかり、一番奥の部屋は、京一の部屋になっていた。
―――――その部屋の前に、佇む男が一人。
「ちゃんとトリートメントはしたかな?」
「……なんの話だよ」
八剣の言葉に、京一はくっきりと顔を顰めて返した。
「綺麗な髪なんだから。きちんと手入れしないと、勿体無いよ」
「女じゃあるまいし、ンな事誰が気にするか」
「男でも身だしなみには気を遣うものさ」
口元に笑みを浮かべて言う八剣に、京一は益々眉間の皺を深くする。
その反応すら楽しそうにして見せるから、余計に京一の神経は逆撫でされた。
「つーか、其処退けよ。邪魔」
「ああ、ごめんね」
謝っているが、邪魔だと判っていて其処に立っていたのは明らかだ。
ついと塞いでいた部屋への道を避ける八剣。
京一はしばしその顔を無言で睨み付けていたが、それに気付いた八剣が笑みを刻むものだから、また眉間に皺を刻んで視線を逸らし、奥の部屋のドアノブに手をかけた。
そのまま扉を押し開けようとして、京一はまた八剣を睨み、
「入って来んじゃねーぞ」
「勿体無い」
「何が………言うな」
聞きかけて、止める。
確か此処で初めてこの男と対面した時も、同じ遣り取りをした気がする。
聞き返そうとしていながら、嫌な予感が過ぎるのだ。
聞かない方が良い、聞いたってどうせ碌な話ではない―――――と。
返す言葉を遮られた八剣は、またクスリと口元に笑みを浮かべた。
その顔面に一発食らわしてやろうかと物騒な考えが浮かんだ京一だが、結局止めた。
実行した所で、学校のようにかわされてしまうのが容易に想像が付く(甚だ癪ではあるが)。
八剣から視線を剥がして、京一は龍麻を見る。
「龍麻、お前は好きな部屋使えよ」
「何処でも良いの?」
「ああ」
じゃあ……と少し考える声が聞こえ、京一はそれを待たずに部屋に入った。
程無く、扉は少し軋んだ音を立てて、閉じた。
慣れた足取り―――実際慣れている―――で部屋に入った親友を、追って部屋にお邪魔させて貰おうとして、阻まれた。
「何か用?」
「いいや?」
肩を掴んだ相手に向かって問えば、あると思うかい、と言うニュアンスで返される。
ないと思う、と龍麻は迷うことなく首を横に振った。
それで正解だった。
八剣は口元に薄い笑みを浮かべていたが、瞳の奥はそれと矛盾している。
睨むと言う程剣呑でもないのに、全くの隙がない。
八剣の左腕が、腰に挿した刀に引っ掛かる。
食指は鞘にも柄にも触れないが、その気になれば龍麻にさえ知覚できない速度で抜刀することも可能だろう。
いや、正確には相手に知覚されない角度からの攻撃する事が可能なのだ―――この男の得意とする“鬼剄”という技は。
同じ剣技を扱う京一でさえ一度は破れた技である、リーチで劣る龍麻が即座に対応出来るかは少し怪しかった。
……目の前の男の氣は、そう働くつもりはないようだけど。
「駄目だろう、京ちゃんのお休みの邪魔したら」
「しないよ。一緒に寝るだけだから」
瞬間、ピシリと何かの軋む音がした。
が、二人の表情は笑顔のままで動かない。
「どの部屋でも好きに使うと良いって、京ちゃん言ったよね」
「うん。だから、京一と一緒に此処で寝るんだ」
「こう言っちゃ失礼だけど、狭いと思うよ。男二人は辛いんじゃないかな」
「僕、慣れない所だと一人で寝られないんだ。でも京一と一緒だったら寝れると思う」
「そんな風には見えないけどねェ」
「人って見掛けによらないもんね」
ピシリ、ピシリ。
見えない亀裂が広がっていく。
しかし、今此処でそれを追及するような人物は、誰もいない。
扉一枚向こうにいる少年は、さっさと寝る姿勢に入っているだろう。
『女優』の人々は、営業真っ最中だ。
「僕ね、気付いたんだ。京一と一緒だったら、凄くよく眠れるって」
「ああ、そうだね。不思議だねェ、京ちゃんは。寝顔も凄く可愛いし」
「見たの?」
「この間ね」
この間。
いつの事だろう。
ふと、龍麻は一週間程前の事を思い出す。
学校で終始疲れた顔をしていた京一、泊まる? と誘えば頷いた彼。
就寝前の酒盛りで、ハイペースで飲んで、酔っ払っていた京一。
いつもは安心できる筈の場所で、寝れる状況じゃなかったんだとぼやいた京一。
あの時、恐らく彼は言うつもりはなかったのだろう、どうしてと問うた所で真実を口に出すとは思えなかった。
けれどもアルコールに酔って緩んだ意識は、ポロリと答えを漏らしてしまって。
『――――――あの野郎が寝込み襲って来やがるから』
……京一が前に『女優』に泊まった時、目の前の人物は、恐らく既に居たのだろう。
例えば、『女優』の人々が寝ている京一に何某かするとして。
それは恐らく、弟を構いつけている程度のものであるだろうから、京一があそこまで疲弊する事はないだろう。
何より、幼い頃から世話になっている人達を捉まえて、京一が「あの野郎」なんて言う?%E:221%#ェないのだ。
彼女達が京一に何かしたと言うなら、恐らく「兄さん達が……」と言う筈だ。
あの時の京一の口振りは、明らかに親しくない人物を示してのものだった。
仮定の話、如月や雨紋であっても、ああまで苦々しく言う事はないだろう。
第一、隠そうとする事もしないだろうし、笑い話の一つとして日常会話に昇っても可笑しくない事だ。
あの言い方は、親しくない上に苦手意識がある事を暗に感じさせていた。
京一の苦手なもの。
慣れないと言う意味で、好意を示す言葉。
嫌いと言う意味で、勉強だとか、真神学園生物教師など。
そして、ただ一度でも負けた人物。
「…………見たんだ、京一の寝てる顔」
京一は他者の気配に敏感だ。
しかし、気配を絶つ事に長けた人間はいる。
今は休業状態とは言え、八剣が身を置く拳武館は暗殺集団である。
八剣の体技もそれは例外ではなく、気配を殺して人に近付く事は容易な事だ。
「見るついでに、ちょっと味見もしたかな?」
みしっ。
握った拳の骨が悲鳴を上げた音だった。
「真っ赤になって、案外初心なんだね。可愛かったよ」
「…………ふーん」
「お陰で随分嫌われたみたいだけど」
「うん、そうだね」
そもそも、京一は八剣に対して好意を持っていない。
これは龍麻からの見方であるが、拳武館の一件を知る人々は往々にしてそう思うのではないだろうか。
たった一度でも負けた事と、それが完膚ない大敗であった事と。
会う度に繰り返す呼び方に加えて、八剣の言動そのものが恐らく京一の肌に合わないのだ。
其処で更にいらぬ事をすれば、京一の警戒心がMAXになるのも当然の事である。
しかし、八剣はそれをまるで気にしている様子がない。
「京一、八剣君の事凄く苦手みたい」
「そうだな。お風呂も断わられたしねェ」
「僕は一緒に入ったけど」
中身のない争いだ。
言っていることは子供の意地の張り合いと等しい。
………二人の纏う空気がそれを、大きく陵駕していなければ。
「随分楽しそうだったね」
「うん、楽しかったよ。一緒にお風呂」
「羨ましいね」
「そう?」
「さて、そうでもないかも」
自分で言っておいて否定する八剣。
「警戒されないって言うのも、ちょっとね」
壁に寄りかかって、どうやら八剣は此処から動くつもりはないらしい。
恐らく、龍麻がこの場を離れるまで、彼は此処にいるだろう。
同じく龍麻も、動く気はなかった。
京一が使う目の前の部屋の鍵は、かけられていない。
習慣づいていないのか、単純に忘れたか―――――どちらであるかは、ともかく。
今どちらかがこの場を離れたら、残った側がどういう行動に出ようとするか、予想するのは簡単だった。
「されるより、されない方がいいよ」
「まぁ、ね。でも、」
八剣の笑みに、薄らと優越のような色が混じる。
龍麻の表情は変わらない。
「警戒するのは、意識してくれてるからね」
友達じゃあ、何したって気にしてもくれないだろう。
――――――結局、二人は朝になるまで、其処に立ち尽くしていたのだった。
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八剣vs黒龍麻!
ブラックって結構難しいねぇ。今まであんまり書いた事なかったんですよ…
京一は部屋の中で爆眠してると思います(笑)。