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――――――それは、人が最も無防備になる場所である。
【STATUS : Enchanting 10】
それじゃあ、また明日。
そう言って、葵、小蒔、醍醐の三人は『女優』を後にした。
常ならば其処に龍麻の存在もあるのだが、その当人は、現在京一と並んで三人を見送っている。
ネオンが灯り始めた歌舞伎町の街並みに、三人の姿が消えて、ようやく京一と龍麻は『女優』店内へと戻った。
12月の外気は、酷く冷えて肌に突き刺さる。
然程厚着をしていない京一には、少々堪えるものがあった。
暖房器具によって温められた店内の室温に、京一はほっと息を吐く。
龍麻も京一よりは着込んでいるが、それでも寒さに強い訳でもない。
悴んだ指先を擦り合わせ、そんな互いに顔を見合わせ、小さく笑みを漏らした。
「寒くなったね」
「ま、そりゃ12月だからな」
当たり前の事だと返す京一の表情は、数時間前の苛立ったものでも、疲れ切ったものでもない。
戯れの些細な会話を楽しむだけの余裕が戻っていた。
カウンターでグラスを拭きながらその様子を見ていたビッグママが、口を開く。
「京ちゃん、お風呂入るかい?」
「おう」
「背中流してあげるわよ♪」
「……遠慮する」
ビッグママの台詞に肯定の意を返す京一に、アンジーが楽しそうに告げる。
胡乱げな目をしてきっぱりと断わる京一だったが、アンジーは気を害した様子もない。
寧ろ昔は一緒に入ったのにね、と言うものだから、京一は耳が熱くなるのを感じた。
それを確りと龍麻に気付かれているのが判るから、余計に恥ずかしい。
クスクスと笑う龍麻の顔を、腹いせ交じりに掌で押し退けてやる。
店奥に設けられている風呂場に向かう京一を、龍麻はすぐに追い駆ける。
「京一」
「あ?」
「お風呂、僕も入っていい?」
突然の申し出に京一はしばしきょとんとしていたが、何も不思議な台詞ではない。
「ああ……別にいいけどよ、狭いぞ」
店に泊まる従業員は少なくない。
美容を気にする彼女達の為に、化粧室等と一緒に風呂場も小さいながら設置されている。
京一が子供の頃は、彼女達と一緒に入る事もあって、それ位なら充分なスペースがあったが、既に京一も高校三年生である。
大人と言う程出来上がった体ではないが、身長は平均よりも上だし、龍麻もそれと同じぐらいある。
大の男が二人入って余裕を保つ程、此処の風呂は大きくはない。
窮屈になるが、それでも良いかと問えば、龍麻は迷う様子もなく頷いた。
「でもお前、着替えとかどうすんだ」
「別にいいんじゃない? この格好でも。京一もそうでしょ」
「まぁな」
風呂が終われば、布団に入ってしまえば後は寝るだけ。
制服の上着を脱いで、アンダーシャツだけでもあれば十分だ。
女子供じゃあるまいし、夜着を気にするような性格でもない。
他に気にする事もないので、さっさと行くかと風呂場へ向かうべく方向を変えた。
と、その先に一人、立っている男を見付ける。
渋面になったのは最早条件反射であった。
「……なんだよ」
無視すれば良いと、思ってはいる。
思ってはいるのだが、無視したらしたで後に何が起こるか判ったものじゃない。
考え過ぎと言われるかも知れないが、それほどに京一の警戒心は育っていたのである。
憮然と睨まれた八剣は、クスリと口元に笑みを浮かべた。
毛の逆立った猫宜しくの京一の態度にも、この男は気を咎めた様子を見せなかった。
「風呂、俺も一緒に入っていいかな?」
「絶対嫌だね」
きっぱりと言い切った京一の返答は、恐らく最初から予想していたのだろう。
やっぱりね、という呟きが聞こえ、じゃあ聞くんじゃねェよと京一の顔は顰められた。
そのまましばし睨み合い(睨んでいるのは京一だけだったが)が続くかと思ったが、あっさりとそれは終止符を打たれた。
「京一、早く行こう」
手を引いたのは勿論、龍麻である。
先に視線を逸らすのは負けたような気がするので、あまり良い気分ではなかったが、促されたのだから仕方がない。
このまま延々睨み合って事態が変わる訳でもないし、また八剣の方が何某か妙な事を言い出し兼ねない。
訳の判らない問答の相手をするのは疲れるだけで、おまけに八剣はそれさえ楽しむ節を見せるから尚更腹が立つ。
そんな事にいつまでも付き合っているような暇があるなら、さっさと風呂に入って寝てしまうのが一番だ。
ぐいぐいと、おいちょっと痛ェんだけど、と言いたくなる強さで、手を引っ張られる。
半歩前を歩く相棒に文句の一つでも言おうかと思ったが、面倒だったので結局止めた。
その背中が聊か棘立ったように見えたのも、理由の一つであるが。
今度は何処で失敗したんだと思いつつ、京一は龍麻の半歩後ろをついて行くのだった。
そこそこ体躯の出来上がった男二人が入るには、狭いだろうと思った風呂。
案の定揃って湯船に入るなんて広さはなく、一人がシャワー、一人が浴槽となった。
浴槽の縁に頭を乗せ、龍麻は何故か上機嫌だった。
表情筋が活発に動く事は少ないので、あまり表情に変化は見られなかったが、やはりそこそこ長い付き合いだ。
風呂に向かう間の若干の刺々しさを思うと、今は随分と機嫌良く見える。
実際、龍麻は機嫌が良かった。
これまた広くはない脱衣所には、ご丁寧に龍麻の分のタオルも用意されていた。
そのタオルは、現在龍麻の頭の上に綺麗に折りたたまれて乗せられている。
にこにこという擬音が聞こえてきそうな位、京一にとっては判り易い程、龍麻の機嫌は右肩上がりだ。
……さっきの不機嫌はなんだったんだ?
思ったが、その疑問は口にしない事にする。
何某かの不機嫌の理由があの場にあって、今はそれを忘れているのなら、忘れてくれていた方が、正直ありがたい。
少々考えてみると、ひょっとしてアイツか? と八剣の顔が脳裏に浮かんでくる。
拳武館との一件は一先ず片付いたけれど、綺麗サッパリ、と言う訳ではないのだ。
互いが利用された末の闘いであったとはいえ、争い、傷付けあった事は事実。
京一に至っては生死の境を彷徨った程(あまり思い出したくはない)で、龍麻もそれを知らない訳ではないのだ。
八剣によって断ち切られた木刀の一端を持っていたのは龍麻だったから、京一も言われなくてもそれは感じられた。
龍麻は、例え見ず知らずの人間だとしても、人が傷付くのを嫌う。
友人知人と言うなら尚更で、くすぐったいが、京一自身もその一人なのである。
八剣が京一に重傷を負わせた事を思うと、今でも八剣に対して憤りに似た感情が湧くのかも知れない。
―――――考えてから、京一は無性にむず痒くなって、シャワーのコックを思い切り捻った。
勢い良く飛び出した飛沫に頭を突っ込んで、がしがしと乱暴に撫ぜる。
京一の急と言えば急な行動に、龍麻はふっと視線を向けたが、首を傾げただけで何も言わなかった。
友達だとか。
親友だとか。
相棒だとか。
言われる事は増えたし、そう呼べるだろう人間も増えた。
醍醐は中学の時から知っているが、話をするようになったのは真神に入学してからで、つるむようになったのは今年の春――――龍麻が転校して来て、力に目覚めてからだ。
葵や小蒔ともちゃんと話をするようになって、遠野ともスクープだのなんだの抜きで普通に話をするようになった。
彼等は間違いなく友人と呼べる類で、如月や雨紋、織部姉妹も友人知人と言える。
龍麻とは言わずもがな。
妙な噂を立て回される位に、長い時間を一緒に過ごしている。
出逢ったのはほんの数ヶ月前の事だと言うのに、だ。
だけど、未だに慣れなかった。
そういう相手がいて、そういう相手に“そう”呼ばれる事が無性にくすぐったい。
(……なんだかな)
何年前だっただろう。
ビッグママに「友達いないでしょ?」と言われたのは。
あの時、自分はなんと答えたのだったか。
ああ、気持ち悪ィって言ったんだ。
事実、あの時は本当にそう思っていたし、一人でいるのが楽だった。
『女優』は別に考えるとして。
あの時は顔を顰めて「気持ち悪い」と言った関係が、いつの間にかこんなに増えて、広がって。
(…こいつの所為だな。どう考えても)
湯船の中で、タオルを膨らませて遊んでいる龍麻を見遣って、一人ごちる。
≪力≫だの、猟奇事件だの、鬼だの。
色々あったけれど、京一にとってはそれ程鮮明に記憶に残る事はすくなかった。
あの桜の木の上で、初めて龍麻の姿を見つけた時に比べれば。
シャワーを出しっぱなしのまま、立てた膝に頬杖を付いて、龍麻の横顔を眺めてみる。
しばしそうしていれば、やはり気配に敏感な龍麻は、京一のその視線に気付いた。
何? と言いたそうな目で龍麻が此方を見るが、何も言わずに、京一はその顔を観察してみる。
………間の抜けた面してんな。
何処が、という訳ではない。
眺めた末に思いついたのが、そんな感想だった。
見慣れた顔だったから、そう思ったのかも知れない。
だって今年の春から、毎日のように見ている顔なのだから仕方がない。
今更改めて感想を述べる方が無理だった。
目を窄めてそのまま眺めていると、今度は龍麻が動いた。
膨らませたタオルを見せて、にっこりと笑う。
「京一もやる?」
「やらねェ」
「あ」
タオルの膨らみを、掌で上から思い切り叩いてやった。
空気を逃したタオルは、龍麻の手の中でペッタリと無残な形に潰れている。
龍麻はしばし唇を尖らせるような顔をしていたが、別段、気に障った様子はなく、綺麗に畳み直すと、京一に向き直り、
「京一、背中流してあげよっか」
「は? いらねェよ」
「でも、ちゃんと洗ってないでしょ」
「女子供じゃあるまいし……」
「いいから、いいから」
言って浴槽から出ると、龍麻はさっさと京一の背中に回った。
人の話を聞けよ。
思いながら、結局は好きにさせる事にした。
何か言った所で、同じ終着点に行き着く押し問答が延々続くだけなのだ。
泡を含んだタオルが背中に押し当てられる。
ごしごしと擦られるのは気持ちが良かった。
(……そういや、こんなのガキの時以来だな)
『女優』に来て、此処にも幾許か慣れた頃。
修行の疲れもあって、一人で入ると湯船の中でうたた寝してしまう事が何度かあった。
溺れはしなかったものの、逆上せてしまう事が増え、万が一があっては大変と、誰かが一緒に入るようになった。
大抵はアンジーで、彼女は何かと世話を焼いて、出来るという京一をやんわり諭して、背中を洗ってくれた。
成長に伴って回数は減り、身長がそれなりに伸びた頃には、体格も理由に再び一人で入るようになった。
―――――それ以来だ、誰かに背中を流されるなんて。
そもそも、背中を向けて無防備になれる程、気を赦せるような人間が極端に少なかった。
(………まただ)
むず痒さが再発して、京一は頭を掻いた。
後ろの龍麻からは顔が見えないのが幸いだった。
そう思った時、脇腹をやんわりと擦られて。
「―――――!」
「あ、熱かった?」
「じゃねェよ!」
のんびりとした龍麻の台詞に、京一は肩越しに振り返って言い放つ。
「背中だけだろ。ンなトコまでしなくていい」
「いいから、いいから」
「よくねーよ! いらねェからすんなッ!」
龍麻の手からタオルを引っ手繰る。
空っぽになった自分の手を見つめて、龍麻はしばし思案していた。
京一は、そんな相棒から視線を外すと、シャワーを出して背中の泡を流した。
泡を含んだ龍麻のタオルは、桶に引っ掛けて、自分は湯船に入る事にする。
が、それは阻まれた。
両脇を悪戯に刺激する指によって。
「ひっ、ちょ、龍ッ」
「まだ洗い終わってないよ」
「じゃなくて! お前ッ…やめろ、バカ! 離せ!」
「だーめ」
肩越しに見た龍麻は、にっこり笑顔。
面白がっているのがよく判る。
「ひ、龍麻ッ、やめ…ははッ、バカ、くすぐってェッ」
「ちゃんと洗わなきゃ駄目だよ」
「わかった、わかった! 判ったからやめろーッ!」
「だめー」
「何がしてェんだ、お前はッ!」
クスクスと楽しそうな笑い声が鼓膜に届く。
機嫌が良いのは、悪いよりもずっと良いが、急に始まるこの悪戯はなんなのか。
如何に身体を鍛えていようと、こんな刺激にまで耐性はつけられない。
一度笑い出したら後はもう堪えようがなく、風呂場には暫く京一の笑い声が反響した。
後で解放された京一が、報復と称して龍麻に冷水シャワーを浴びせたり、石鹸の泡で滑りやすくなった床で足を縺れさせ、二人揃って浴槽にダイブしたりと、色々騒がしくなり。
散々じゃれ合って、風呂を出た時には、互いが逆上せかける寸前であった。
次
少々間が開いてしまいました……。
ラブラブお風呂でじゃれあい。くすぐりっこでえっちぃ想像した人、挙手ッ!(←ホントはちょっと書きたかった(書いたら八剣の立場がないのでカット(笑))
――――――波紋は静かに、広がっていく
【STATUS : Enchanting 9】
お帰りなさいと、最早耳慣れた言葉である筈なのに、涙声に聞こえるのは気の所為ではないのだろう。
「もう京ちゃんたら! 心配したのよォ~!」
「……判った、判ったから」
「浮気しちゃイヤ~!」
「…なんでそんな台詞が出てくるんだよ…」
次々と浴びせられる抱擁と言葉に、京一は今日ばかりは大人しくしていようと決めていた。
抱き寄せられるブ厚く硬い胸板は心底遠慮願いたい所だが、それだけ彼女達に寂しい思いをさせたと言う事だ。
一応、世話になっている身であるのだから、これぐらいは寛容するべきだと。
背骨が時々嫌な軋みを上げているが、それもどうにか堪える事が出来た。
…ただ一つ、ジョリジョリと髭の生えた頬を摺り寄せられるのだけは、断固拒否を示したが。
「京ちゃァ~~~ん!!」
「だーッ! 悪かったって!!」
尚も熱い(息苦しい)抱擁に、堪えるべきだと思いつつも、我慢が限界になって来た。
このままでは際限なく続けられような気もする。
多少申し訳ないと思いつつも、京一はごっくんクラブの面々を押しのけ、ビッグママの待つカウンター席へ移動した。
其処にはビッグママだけでなく、なんの興味からか、真神のクラスメイト達もいる。
龍麻は時々京一と一緒に此処に来ていたが、葵、小蒔、醍醐まで来たのは珍しかった。
小蒔はいつであったかも見た店員達の抱擁に、若干顔を引き攣らせている。
「相変わらずだね、此処の人達は……」
「…まァな。ママ、茶」
「ハイハイ」
小蒔の言葉に一言だけ返し、ビッグママに催促する。
ビッグママは仕方がないねという苦笑を漏らして、グラスにウーロン茶を注いだ。
テーブルに突っ伏して溜め息を吐いた京一の隣に、アンジーが座る。
「だって仕方がないわよ。み~んな京ちゃんが来るのを楽しみにしてるんだから」
「……へいへい。判ってるよ、悪かったよ」
唇を尖らせ、京一はばつが悪そうに拗ねて見せる。
その表情さえ彼女達は久しぶりのものだったから、微笑ましそうに眺めるだけだ。
京一の前にウーロン茶を置くと、ビッグママは龍麻たちへと目線を配らせ、
「アンタ達も何か飲むかい?」
「いいんですか?」
「折角来てくれたんだからね。お金は貰うけど」
「まぁ、安くしてあげるから」
ビッグママの言葉に一瞬小蒔が顔を引き攣らせたが、すかさずアンジーがフォローに入った。
「それじゃあ、私もウーロン茶頂けますか?」
「俺も、それで」
「ボクも」
「…僕は―――――」
「苺ちゃんは苺牛乳ね」
葵、醍醐、小蒔に続いて同じものを注文しようとした龍麻を、遮るようにアンジーが言った。
龍麻はきょとんとしてビッグママとアンジーを見た後、京一へと視線を移す。
京一は話は聞こえているのだろうに、気に留める事無く、ウーロン茶を飲み干していた。
他の三人に比べて、龍麻は京一と一緒に此処に訪れる事が多い。
その都度、龍麻はメニューにない苺牛乳を特別に作って貰っていた。
でもそれは京一と二人で此処に来た時の事だ。
他の面々がウーロン茶なのに、自分ばかり図々しいことは言えない、と思っていたのだが、
ビッグママ達も京一も一切気にした様子はなく、ママに至ってはさっさとミキサーに苺を詰めていた。
龍麻が苺牛乳に限らず、苺製品が好きだというのは、今更説明するまでもない事だ。
京一にすれば何を今更遠慮することがあるのか、と言う気分だった。
事実、葵達も気にした様子はなかった。
「ハイ、京ちゃん」
やはり、最初に手渡されたのは京一だ。
「京ちゃん、ご飯はどうするの? もう食べて来ちゃった?」
「いいや。今日はそれ所じゃなかったからよ……」
アンジーの言葉にいささかうんざりとした表情で、京一は呟いた。
「…そうだな。コニーさんの所に行く暇なんてなかったな…」
独り言のように漏れた醍醐の台詞が、想いの他、店内に響く。
不思議そうな女優達の視線が学生一同に向けられる。
京一はそれからすら逃れようとでもするかのように、カウンターテーブルに突っ伏した。
龍麻は唯一、常と変わらぬ様子で差し出された苺牛乳を受け取り、嬉しそうに飲んでいる。
醍醐、小蒔、葵の視線が、とある一点へと寄せられた。
それに倣って、アンジー、キャサリン、サヨリの視線も同じ場所へと方向を変える。
「そんなに急かしたつもりはなかったんだけどねェ」
六対の視線を一心に浴びて、飄々と言ってのけたのは、八剣右近である。
この人物に言いたいことは多々あれど、この状況でそれらをぶち撒けるのは抵抗がある。
先日の拳武館との闘いは既に幕が引かれ、人それぞれに遺恨は残れど、取り敢えずは解決したのだ。
それを此処で、あの闘いとは全く関係のないこの平和な場所で、蒸し返す訳にはいかない。
よって学生達に出来る事は、この場に恐らく最も不似合いと思しき人物へ、白い目を向ける事だけだった。
「馴染みのラーメン屋なんだって? 今度俺にも紹介してよ、京ちゃん」
「絶対断わる」
八剣の言葉に、京一は低い声音ではっきりきっぱりと答えた。
けんもほろろな京一の態度に、八剣は特に気に障った様子もなく、肩を竦めて見せるだけ。
京一の反応など最初から予想済みだったのだろう。
「京ちゃんが気に入ってるなら、美味しいんだろうね」
「美味いぜ。美味ェけどお前にゃ絶対教えねェ」
「いいよ、勝手について行くからさ」
ミシ、と京一の手の中でグラスが軋んだ音を立てた。
此処で破壊行動は流石に慎みたいのだろう(以前、ソファと銅像を真っ二つにしたが)、グラスが割れる事はなかった。
しかし京一の心情の荒れ具合が如何程のものか、醍醐達は重々承知している。
わなわなと肩を震わせる京一に、学校での爆発再来かと醍醐が危惧した時だ。
いつの間にか京一の隣の席に腰を落ち着かせていた龍麻が、くしゃりと京一の頭を撫でた。
「……何してんだ、龍麻」
「なんとなく?」
「疑問系で言うな」
マイペースに京一の頭を撫でる龍麻に、一先ず醍醐達は安心した。
龍麻の唐突な行動には毎回意味を察し兼ねるが、京一の暴走行動を止められるのも龍麻だけだ。
軋んだ音を立てていた京一のグラスは、もう彼の手の中で何事もなかったかのように鎮座している。
カウンターに立てかけられた木刀も、太刀袋に入ったままで変わらず其処に置かれていた。
動いたのは龍麻だけで、他は誰一人として、変化していない。
京一は胡乱げに龍麻を見遣ったものの、撫でる手を好きにさせた。
一週間前の学校でも、同じような事をしていた気がする。
「ねぇ、京一」
「あん?」
撫でる手をそのままに呼んだ親友に、京一は振り返らずに返事をする。
「今日は此処に泊まるの?」
「……ああ、そうだな」
約10日振りに此処に戻って来たのだ。
心配もかけたし、彼女たちも寂しかったと言うし、今日は此処に泊まった方が良い。
京一が泊まると聞いてか、アンジー達が嬉しそうな声を上げた。
其処まで自分の来訪を心待ちにされていた事が、照れ臭いような、恥ずかしいような――――。
頭をがしがしと掻いて、京一はグラスのウーロン茶を飲み干した。
それから、龍麻が少しだけ寂しげな表情を浮かべている事に気付く。
学校を出る時、昨日・一昨日と同じように、龍麻は今日も家に泊まるだろうと聞いてきた。
自分はそれに頷いて、それがすっかり当たり前になっていた。
龍麻は人と一緒にいるのが好きらしいから、10日振りに一人の家に帰るのが寂しいのだろうか。
寂しげな親友に何かを言おうとして、京一は結局何も言わなかった。
優しいだけの慰めの言葉なんて持ち合わせていないし、クラブに泊まるのを撤回できる空気でもない。
差し出された苺牛乳に口をつけて、龍麻は小さく微笑んだ。
大丈夫だよ、と言っているような表情に、なんだか余計にバツが悪くなる気がする京一だ。
何も言わずに笑っているから、真意を量り兼ねてしまう。
京一はまた頭を掻いた。
「あー……龍麻」
「なに?」
呼べばいつもと同じトーンで返事をする。
「お前も、泊ま」
「心配しなくても、京ちゃんは俺が面倒見るから大丈夫だよ?」
「何当たり前の面して割り込んでんだ、てめェッ!!」
台詞の途中で割り込んできた八剣に、京一は即座に木刀を振った。
しかし、腕の力だけで振り下ろされた木刀は、力が足りずに八剣の腕に止められる。
呆気なく受け止められたのが余計に腹が立って、京一は力任せに八剣の腕を押し返した。
その間にも八剣は平然とした様子で、龍麻に顔を向ける。
龍麻は京一を前にしていた時の寂しげな表情などすっかり消え、無言で八剣を見返していた。
特筆するような感情の浮かんでいない瞳は、逆に空恐ろしさを感じさせる。
「八剣君も此処に泊まってるの?」
「二週間ほど前からね」
「この前、京一が泊まった時も此処にいたの?」
「ああ」
「ふーん……」
「おいコラ、無視すんなッ!!」
木刀を止められていた京一が、椅子に座ったまま八剣に蹴りを放つ。
八剣はスイと身を引いてそれを避けると、緩やかな笑みを浮かべて京一に向かい合う。
「ああ、ごめんね、京ちゃん。寂しかったのかな?」
「……マジに頭カチ割るぞ、てめェ……」
忌々しげに呟く京一は、殆ど椅子から腰を浮かせている。
完全な臨戦態勢に入っていた。
遠巻きに見ている葵達は、今にも京一がキレそうなのを心配そうに見ている。
「大丈夫かしら、京一君……」
「思い切り挑発されてるね」
「また暴れ兼ねないな…」
世話になっているクラブに迷惑をかけたくないと思っていても、何せ京一だ。
我慢の限界が来れば、此処が何処だろうと木刀を振うだろう。
「――――あの、皆さんは心配じゃないんですか?」
場違いなほどに微笑ましげに京一を見守るアンジー達に、葵は問い掛ける。
「アラ、心配なんてしてないわよ。前もこんな感じだったし」
「京ちゃんが素直じゃないのは、昔からだしねェ」
「……そんな問題かなァ、これ……」
小蒔の呟きは、誰にも聞こえていない。
アンジー達は京一を微笑ましげに見守り、京一は八剣を睨み、八剣はそんな京一を楽しそうに見つめ返す。
ビッグママは忙しげにグラスを片付け、龍麻は苺牛乳を飲みながら成り行きを見守っている。
葵、小蒔、醍醐が何を言ったところで、誰も気にする事はないと言う事だ。
いつ破裂するかも判らない空気が続く。
八剣が一言でも何か言えば、確実にそれは京一の神経を逆撫でするだろう。
その瞬間に京一の木刀が、あらん限りの力を持って振われるのは想像に難くない。
しかし、それを打破したのは八剣でも京一でもなく、苺牛乳を飲み干して満足そうに笑う龍麻だった。
「京一」
「――――あ!?」
刺々しい雰囲気を纏ったまま、京一は龍麻を睨む。
いや、見ただけだったのだが、苛立ちで目が釣りあがって睨んでいる形になってしまっただけだ。
龍麻はそれを気にする事無く、京一を見て微笑み、
「今日、僕も此処に泊まっていいかな?」
穏やかに告げられた言葉に、一瞬、店内が静かになる。
張り詰めた空気には全くそぐわぬ声色であったからだろう。
この状況でそれを言うのか、と言うような。
周囲の視線も気にせず、龍麻は京一だけを見つめて、皆が見慣れたいつもの笑みを浮かべている。
ふわふわとした、何処か掴み所のない、見ていると安心できる気がする笑顔。
この10日間、京一が毎日見ていた、龍麻の笑顔。
寂しげな笑顔よりも、ずっと気に入っている表情。
気が削がれた。
京一は木刀を下ろすと、椅子に座りなおした。
「そういうのは、オレじゃなくてビッグママに聞けよ」
嫌なら嫌とはっきり言うのが京一だ。
言わなかったと言う事は、許容されていると言う事。
それまでピリピリとささくれ立っていた京一の纏う空気が、僅かであるが緩む。
一触即発かと思われていた店内に、常の穏やかさが戻って来た。
ホッと息を吐いたのは葵、小蒔、醍醐の三人で、アンジー達は龍麻の宿泊希望を諸手で喜んでいる。
その傍ら。
「ずるいねェ」
「そう?」
八剣の呟きに、龍麻は笑みを浮かべるだけだった。
次
お互い牽制しあいで、ゆっくり話も出来やしない。
――――――今一番欲しいもの? ……平穏って奴だな。
【STATUS : Enchanting 8】
どういう事、と仲間達の視線が背中に―――若しくは頬に―――突き刺さる。
自分だって逆の立場ならば同じ事をしただろうから、その不躾な視線を振り払おうとは思わない。
けれども。
眼前をゆっくりと近付いてくる男について問われたとて、京一は返す言葉を持たなかった。
ゆらゆらと、掴み難い足取りで近付いてくるのは、最初の邂逅から変わらない。
変わらないが、何故それをそうと認識するほどに何度も見なければならないのか。
京一には、その事の方が理解不能であった。
何故この男が学校の校門にいるのかという事よりも、何故この男の顔をまた見なければならないのか。
己とこの男の間に何があるというのだ、何もないなら何故この男の顔を何度も目にしなければならないのか。
そして何故この男に、こんな台詞を言われなければならないのか。
「京ちゃんが来なくなって寂しくてねぇ。迎えに来ちゃったよ」
「ンな謂れはこれっぽっちもねェッ!!」
間合いに入った八剣に向かって、躊躇う事無く、太刀袋から引き抜いた木刀を振った。
予想していたのか見切られているのか、難無くかわされる。
「近寄んな! つーかなんでテメェが此処にいんだよ!?」
「言ったでしょ。迎えに来たんだよ」
「だからなんで……待てやっぱ言うなッ!」
問うた直後に八剣が浮かべた笑みに怖気を感じ、京一は質問を撤回した。
木刀を構えて戦闘態勢で睨み叫ぶ京一に、八剣は何故か残念そうな顔をして見せる。
嫌な予感しかしなかったのは絶対に気の所為ではない、と京一は確信する。
八剣が何をどう言おうとしたのか(それが真実であっても虚偽であっても)判らないが、良い予感はしなかったのは確か。
知人から散々野生の勘だとか言われている己の直感だが、この時ばかりは感謝する。
尻尾を膨らませた猫宜しく、威嚇する京一に、八剣はやはり平然として言った。
「俺に逢いたくないのは、まぁ仕方ないけどね。でも、彼女達にまで寂しい思いさせちゃ可哀想だろう」
「お前が消えりゃ即解決すんだよ!」
校門手前で物騒な遣り取りをしている面々を、生徒達は皆遠巻きにして見ている。
その視線に気付いて、ギラリと尖った京一の眼光が生徒達を射抜いた。
「見せモンじゃねェぞ、コラ!!」
校内一の不良と名高い京一の怒声である。
生徒達はぱっと身を翻して、思い思いに校門の外へ、グラウンドへと散って行く。
蜘蛛の子を散らすという言葉がよく似合う風景を一頻り睨んで、京一は苛々と木刀を振り下ろした。
触れば噛み付きそうな京一に、それでも平静と声をかけたのは龍麻である。
「京一、どうどう」
「オレは馬か!」
「取り合えず落ち付きなよ」
今はなんでも癪に障る様子の京一を、龍麻はいつもの笑顔で宥める。
目の前にある見慣れた親友の笑顔に、ささくれ立った感情は少しずつ沈下する。
それでも刺々しさは残るが、今にも木刀を振り回しそうな状態よりはずっとマシになった。
それを見た葵、小薪、醍醐も二人に近付く。
―――――それから、面白そうに京一を見ている八剣へと、視線が向けられた。
龍麻達と八剣との関係は、なんと言っても微妙なものである。
拳武館の人々と戦ったのはそれほど前の話ではなく、まだ記憶に鮮やかに残る。
八剣と京一が刃を交えた所は、誰一人として見ていない。
その現場にいたのは、京一の舎弟である吾妻橋一人だけだった。
だが、八剣が京一の木刀を真っ二つに断ち切った事、
戦いの場に一人遅い到着となった京一の体が包帯で覆われていた事を思えば、彼の実力は想像するに難くない。
あの場では八剣が自ら敗北を認め、一時休戦―――共闘となったが。
八剣を捉えた醍醐の目が、剣呑な色を帯びる。
「貴様……一体何をしに来たんだ?」
「…だから何度も言ってるだろう。京ちゃんを迎えに来たんだよ」
「京ちゃん言うな! いらねぇっての!!」
何度も同じ台詞を言わされてか、それとも相手が醍醐であるからか。
聊かうんざりしたように八剣が言うと、京一も何度目か知れず拒絶の台詞。
そのまま噛み付いて行きそうな京一を小薪が押し退けた。
「要するに、京一ともう一度闘おうってつもりなの?」
小薪の言葉に、八剣は判り易く溜め息を吐く。
それが癪に障った小薪は青筋を立てた。
「一体なんなんだよ。京一! なんなのさ、コイツ!?」
「ンなもんオレが一番聞きてェよ!」
矛先を向けられた京一が、小薪に怒鳴り返す。
何故自分がそんな風に責められなければならないのかと、泣きたい気分にもなってくる。
自分だって最初に八剣が再度目の前に現われた時には、それ目当てだと思った。
事情を知っている者が見れば、きっと誰もが思うであろう事だ。
だが八剣はそうではないのだと、ずっと否定している。
そして続く言葉は、京一にとって意味不明であるとしか思えないもので。
「俺は京ちゃんに逢いたかっただけだよ」
その整った面に笑みを浮かべて、京一を見つめながら八剣は言う。
向けられた眼差しに京一が怖気を覚えたのは、無理もないと言えるだろう。
「気色の悪い事言ってんじゃねェッ!」
「そうは言っても、本気だからね」
「尚更止めろッ!!」
狙い寸分違わずに振り下ろされた木刀は、八剣には当たらなかった。
敵意どころか、殺気を振りまきまくっている京一だ。
暗殺者として洗練されている八剣に、その剣撃が届く筈もない。
ないが、そうせずにはいられなかった。
葵がおろおろと止めるタイミングを探しているように見えるが、京一は止まらない。
小薪は最早意味の判らない八剣の言動に付き合うのに疲れたらしく、もう知ったことかと溜め息を吐いた。
割り込めるような状況ではないと、醍醐も早々に見抜いたらしく、京一が疲れるのを待つ事にする。
そんな調子だから、校門の前で続く物騒な遣り取りを、止められるものは誰もいない。
――――かのように見えたが、唐突にそれは終わりを告げた。
「京ちゃん、ちょっとストップ」
「するか!」
「仕方ないな……」
言葉でいなされて止まれる筈もなく、もう一度京一が木刀を振り被った時。
スッと目の前にいた八剣の姿が消えて、京一は瞠目する。
――――同じ感覚は前にもあった。
初めて八剣と相対し、一方的に攻撃を避けられ、莫迦にされているような気分だった、あの瞬間。
振り下ろした木刀の先に標的の姿はなく、その気配を再び感じた時には、背後にいて。
二度も同じ手を食わされて溜まるかと、転身、愛用の獲物を強く握り直した。
が、その木刀を振り切るよりも、先に。
項を這った細い感覚に、ぞわりと背筋が凍る。
「~~~~~~~~ッッ!!!!」
声にならない悲鳴が上がる。
喉が引き攣って、呼吸が詰まった。
お陰で校内一の不良生徒と謳われる、歌舞伎町の用心棒の矜持は(辛うじて)保たれた訳だが、
ぴたりとフリーズしてしまった京一に、葵達は顔を見合わせる。
数秒前の怒りの勢いは何処へやら、京一は完全に固まっていた。
そんな京一の顔を見た八剣は、可愛いねぇ、などとのたまい、楽しそうに笑う。
「もうちょっと可愛がってあげたいけど、ちょっと待っててね?」
言って、八剣はするりと京一の横を通り過ぎる。
京一の肩がわなわなと震える。
それに真っ先に危険を察知したのは醍醐で、慌てて京一に駆け寄った。
「――――――ブッ殺す!!!!」
予測に違わず、振り返って木刀を振り上げた京一を、醍醐が羽交い絞めに押さえつける。
京一とて細身であっても鍛えているし、剣に通じる武道家だ。
しかしレスリング部主将であり、体格差のある醍醐に抑えられては逃げようがない。
にも関わらず、京一はそれを振り払おうと暴れる。
「放せ醍醐! あの野郎、いっぺんシメてやる!!」
「止めとけ京一! 洒落にならん!」
「誰が洒落で済ましてやるか!」
「気持ちは判らんでもないが、とにかく落ち着け!」
身長差にものを言わせて持ち上げられて、足元が地面から離れる。
上半身の力だけで京一が醍醐に叶う訳もない。
それを肩越しに見遣って、八剣は後でね、とでも言うようにひらひらと手を振る。
益々それが京一の神経を煽り――確実に判ってやっているだけに、余計に――、ブチッと言う音が醍醐に聞こえた気がした。
言わずもがな、京一の血管である。
吼えるように声を上げて遮二無二暴れ出した京一に、醍醐だけでなく、小薪も止めにかかる。
「離しやがれぇえええ! あの野郎――――ッ!!」
「京一、待て! お前、殺しそうな勢いだぞ…!」
「ったりめーだろーが!!」
「幾らなんでも殺人はヤバいだろ! ああもう!」
「京一君、落ち着いて! 此処、学校だから!」
「構うか、そんなモン!!」
「いいねぇ、若い子達は元気で」
「アンタの所為だろッ!!」
散々煽っておいて、他人事のような八剣の台詞に、小薪が噛み付くように怒鳴る。
が、八剣は小薪の台詞など気に止めず。
この場にずっと存在していながら、静かに佇んでいた人物へと目を向けた。
―――――緋勇龍麻である。
龍麻の表情は、一見、常どおりの何処かぼんやりとしたもののように見えた。
十人が見れば九人がつも通りであり、何か変わったことがあるかと思うような表情。
しかし、八剣は確かに、それが表面上のものである事を見抜いていた。
京一が判り易い程に敵意を振り翳し、木刀を振り回し、派手に大立ち回りしていたからだろう。
ひっそりと目立たない場所にいた彼の目に、気付けた人間は一体どれだけいるだろうか。
「怖いねェ」
「なんのこと?」
呟いてみれば、不思議そうに首を傾げて返される言葉。
学校指定の学生鞄を持つ手が、必要以上に力が入っているだとか。
ふわりと口元に笑みのような形を浮かべながら、その目が酷く冷め切っているとか。
恐らく、見抜けたのは八剣だけだろう。
「龍麻ァ!」
醍醐に抑えられて身動きが取れない京一が叫ぶ。
その瞬間、龍麻の冷たい瞳が僅かに和らいだ。
それを見て、今度は八剣の目が冷えてゆく。
「ふぅん………」
八卦の袂に手を突っ込んで腕を組み、龍麻を眺める八剣と。
京一には一つ笑顔を見せて、次の瞬間には冷めた目をして八剣を見る龍麻と。
忌々しげに八剣を睨む京一と。
只ならぬ事態が起こっていると正確に把握できたのは、残念な事に、当事者達以外の人々であった。
次
遂に(つーかようやく(汗))龍麻vs八剣です。
――――――だって君がいないと、始まらないだろう
【STATUS : Enchanting 7】
ふゥ……と異口同音に判り易い溜め息を吐いたのは、オカマバー“ごっくんクラブ”の従業員達である。
営業時間にはまだまだ余裕のある午後4時半、開店準備も終えた従業員達は、只管暇を持て余していた。
大抵この時間は各々お喋りなり、ちょっとキャッチをしてみるなりと、それぞれ行動しているものらしいが、
此処二日間ほど、ごっくんクラブではこのような光景が見られるようになっていた。
その大きな要因としては、彼女達のお気に入りの少年が、今週未だ一度も顔を見せていないからだ。
少年が最も長く付き合いがあるらしい此処に、彼は頻繁に訪れていた。
理由は誰も聞かないが、家に帰る事を良しとしていない彼は、食事をしたり寝泊りしたりと、此処の世話になっていた。
“歌舞伎町の用心棒”として顔の広い彼の事、此処意外にも行く場所は幾らでもあるのだが、
やはり長年の付き合いであるこのクラブが最も居心地が良いらしく、三日に一度は顔を見せてくれていた。
それが今日で一週間、彼は未だ此処にやって来る気配がない。
少年が何処で何をしようと、それは少年の自由。
誰も過去のことなど詮索しないのが暗黙の了解であるこの空間で、何処で何をしているか、聞くのは野暮な話だ。
増して彼は一介の高校生であり、日中は学生生活、それ以外は至ってフリーの身。
だがやはり顔を出してくれないとなると、彼が来るのを楽しみにしている従業員一同は、溜め息も出ようというものであった。
それを眺めているのは、十日程前からこのクラブに住み込ませて貰っている、八剣右近。
(―――――ふぅん………)
窓の外を見ては、少年の来訪を待ち侘びる従業員達。
なんともいじらしい面々を眺めつつ、八剣は口角を上げる。
(随分、好かれてるんだねぇ)
少年の噂は幾らでも聞いた八剣だったが、此処までとは思っていなかった。
性根は曲がっていないのだろうが、一見して彼の良さを理解できるものは少ないだろう。
世辞も何も言うまでもなく、彼は口は悪いし、あの年頃特有の生意気さがある。
だが、此処にいた時の彼を、八剣はほんの僅かしか見ていないけれど――――確かに、彼は愛されていた。
(しかし………)
一週間前に見た時の、あの時の店の華やかさを思い出す。
店の内装は何も変わっていないのだが、あの時に比べ、今は随分寂れてしまった雰囲気だ。
三日前はまだ幾らか遜色なかったように思うのだが、たった二日でこうまで変わってしまうとは、八剣も意外だった。
それほどまでに、あの少年の来訪は、此処に居場所を持つ人々にとって渇望して止まないものだったのだ。
頻度としては三日に一度の割合でやって来るのを、彼女達は今日か明日かといつも待ち侘びていた。
それが今日になって一週間、彼の足は遠退いたまま、やって来る気配はない。
流石に仕事にその影響は見せないが、ふとした瞬間に持て余す時間が、今は無性に寂しく堪えるようだ。
(これは、俺の所為なのかな?)
また溜め息を漏らす従業員の面々を眺めながら、八剣は思う。
彼の足を此処から遠退かせた要因を探すとしたら、間違いなく、八剣自身だ。
ごっくんクラブの中で変わった事と言ったら、それ位の事。
そして、一週間前の己の言動を、八剣はきちんと覚えている。
(よっぽど嫌われたかな)
彼が八剣の言葉を何処まで本気で受け止めたか、八剣には判然としない。
世間一般で普通に育った若者であれば、それは普通の反応だろう。
彼はオカマバーと言う一種特異な場所へ現れる事は多くても、中身は至って普通の高校三年生なのだ。
…………男に告白なんてされて、真摯に対応する訳がない。
更に言えば、彼が最後に此処に泊まった日、散々構い倒したのが悪かったのだろう。
先の八剣の言動と相俟って、彼は一晩中警戒して、全く眠ることがなかった。
眠ったら何をされるか判らないと思っていたのだろう――――実際、それは彼にとって正解だった。
夜が明けても彼は警戒を解かず、学校に行く時は脇目も振らずに猛ダッシュして行った。
いつもなら見送りのアンジやビッグママには、照れ臭そうに手を振るらしいのだが、それさえもせずに。
健全な高校生男子には、少々刺激が強過ぎたか。
あれでも控えていた方だったんだけど、意外と純情なのかな、等と思う八剣である。
それならば。
彼女達が待ち侘びる少年を遠ざけてしまったのは、世話になっている以上、やはり多少は申し訳なくも思う。
第一、八剣が此処に来たのは―――――他でもない、彼に逢う為なのだから。
ならば、迎えに行くとしようか。
放課後のチャイムが空に響く。
がやがやと、生徒達は皆帰宅の準備をしていた。
そんな中で、
「京一、今日も泊まるよね?」
「あ? ああ、そうだな」
先日、遠野から聞かされた噂について気にする事なく、京一は龍麻の問いに頷いた。
それに嬉しそうに笑う龍麻に、京一は気恥ずかしさを覚えて頭を掻く。
何をそれしきの事で、と思う気持ちはあるが、こんな事でも喜ばれるなら悪い気はしない。
会話を聞いた小蒔が、ひょいっと二人の間に割り込んできた。
「本当に仲が良いねェ、お二人さん」
「ンだよ、その含みのある言い方は……」
「別に。ただ、噂は知らないのかと思ってさ」
「それなら、この間遠野さんから聞いたよ」
龍麻の言葉に、小蒔がそうなの? と瞠目した。
「あんな事になってて、気にならないの? 緋勇君は」
「じゃあ桜井さんは美里さんと仲が良いけど、ああいう噂を気にする?」
逆に質問を返されて、小蒔はきょとんとして、後ろの葵を見遣る。
会話が聞こえていなかった葵は、こちらも不思議そうにして小蒔を見つめ返した。
しばし考えた後、小蒔は首を横に振る。
「噂なんて、ただの噂だしねェ……」
「ね?」
一緒にいるのは仲が良いから、ごく普通の事であって。
仲が良いのは一緒にいるのが居心地が良いから、別になんの不自然もある事ではなく。
念押しするように笑う龍麻に、小蒔も納得した。
「しかし、京一……お前の方は本当に気にしていないのか?」
中学生の頃から付き合いのある醍醐だ。
京一の性質は理解しているもので、普段の彼なら「ふざけんな!」と怒りそうなものだと思ったのだろう。
問い掛けられて、京一はがしがしと後頭部を掻く。
「…気にならねェって訳じゃないが…気にしたからって、どうなるもんでもなァ」
人の口に戸は立てられない。
既に学校中で噂になっているなら、京一一人が怒った所で、容易く沈静化する事はないだろう。
龍麻との付き合い方を変えるつもりはないし、そんな噂を一々気にするほど神経質でもない。
噂の中身には色々突っ込みどころはあるが、龍麻が気にしないと言うなら、それに倣う事にした京一であった。
家に泊まりに行くのも前々からあった事で、揃って授業をサボるのも買い食いも、龍麻が転校してきた当初からずっと同じ。
今更態度を変える方が可笑しいだろう。
噂を聞いて最初は泊まりに行くのも控えようかと思ったが、一晩立てばもう開き直った。
だからなんだ、別に何をしている訳でもないし、後ろめたい事なんて何一つ無いのだからと。
大体、学校中で広まった噂が、京一が龍麻への態度一つ変えた所で収まる訳でもないのだ。
京一が龍麻の家に泊まることで再燃したという、この噂。
どうせこのまま、何も変化がなければ、また消えて行くだけに決まっている。
「でも、そういう噂は仲が良いからなのよね。そう思えば、大した事でもないんじゃないかしら」
「そうだよねぇ……周りが勝手に肥大化させてるだけだもんね」
葵の言葉に、小蒔が頷いた。
そんなものかと呟く醍醐に、京一がニヤリと口角を上げ、
「お前もそんな噂が流れる位になってみろよ、醍醐」
「なッ…な、なんの話だッ!」
「なんのってそりゃーなァ?」
クツクツ笑いながら、京一が小蒔に目を向ける。
にやにやとした京一の笑い方が癪に障ったのだろう、小蒔の表情が険しくなった。
「なんだよ、なんの話?」
「い、いえ、なんでもないです桜井さんッ!」
「? なんで醍醐君が謝るの?」
睨んだのは京一に対してなのに、醍醐に謝られて、小蒔はきょとんとして首を傾げる。
京一はさっさと二人の会話から退散し、龍麻の方へと収まっていた。
醍醐と小蒔の上滑り気味の会話を耳にしつつ、龍麻と京一はグラウンドに出た。
「ったく、鈍いんだからよ、アイツも……」
「京一ほどじゃないと思うよ」
「あ? なんでオレだよ?」
龍麻の言葉の意味が判らず、京一は顔を顰めた。
意味を問おうとしても龍麻はいつもの笑顔で、なんだかタイミングを外された京一だ。
問い掛けたところで、「僕何か言った?」と返されそうな気がする。
コイツのこの笑顔はずるくないか、と思うのはこんな時だった。
結局その言葉の真意を問う事無く、京一は龍麻と伴って校門へと足を向けさせた。
―――――と、その校門の方が俄かに騒がしいことに気付き、龍麻と揃って足を止める。
追いついてきた葵、小蒔、醍醐もその後ろで立ち止まり、顔を見合わせている。
生徒達の流れは校門の向こうへと進んでいるが、その足取りは少々留まり気味だった。
女子が黄色い声を上げているから、何処か他校の男子でもいるのだろうか。
「なんだろう……」
「…さァな。野郎じゃ、俺達にゃ関係ねェよ」
言って、京一はまた歩き出す。
諸々の事情のお陰で他校の生徒に知り合いは多いけれど、彼等とは電話やメールで遣り取りしている。
いきなり学校に現れる、なんて事は早々ないだろう。
龍麻もそれに続いて歩き出し、そうなれば後ろの三人も並んでくる。
都内でも特に有名な真神学園。
何某かの用事で部外者が出入りする事も少なくないのだ。
校門周辺が騒がしいからと言って、今更気にする事でもない。
筈、だったのだけど。
「あら? あの人………」
「………あれ?」
「……ん……?」
校門に寄りかかる人物の陰影に見覚えがあって、一同はまた立ち止まった。
夕暮れが訪れるのが早くなってきたこの時期。
大きな校門が落とす影も色濃いもので、其処に立つ人物の横顔は、はっきりとは見えなかった。
けれども身にまとう紅梅色や緋色は遜色する事無く、何よりもその人物の場違いな格好が浮き出て見えて。
邂逅はただの一度きりで、それ程長い時間、その人物の成り立ちを確認した者は少ないだろう。
だがそれでも、印象を残すには十分過ぎた、そのパーツ。
「京一、あの人って」
見覚えのあるその人物について、傍らの相棒に声をかけようとして、龍麻は気付いた。
顔面蒼白になっている京一に。
どうしたの、と問う前に、校門に立つ人物が動いた。
校門の大きな影から、陽の当たる場所に出たその人の姿形が、今度ははっきりと映し出される。
紅梅色の着物に、緋色の八掛、足元は草履。
現代の高等学校には酷く不似合いな出で立ちを、その当人はまるで気にしていない。
いや、自分自身が今この瞬間、無駄に目立っている事さえどうでも良いのだ。
その人物―――――八剣右近の視線は、ただ一点に向けられていて。
「迎えに来たよ、京ちゃん」
にこやかな、実にフレンドリーさを装っての言葉に、京一は一瞬気が遠くなった。
次
逃げられるのなら、追い駆けます。そして逃げ道塞ぎます。
――――――繋ぎ止めたい、ずっと
【STATUS : Enchanting 6】
京一が龍麻の家に泊まるようになって、五日。
もともと細かいことを気にしない京一は、その生活にも早々と馴染んでいた。
龍麻と寝起きし、龍麻の作る簡素な朝食を食べて、平日は登校、休日は二人で適当にブラブラしたり。
登校から放課後までの時間を共に過ごす事は今までも多かったが、此処数日はそれの比ではない。
朝から晩までずっと一緒、それこそ寝ている間も一緒にいるのである。
もともと仲の良かった二人がそんな事になると、邪推する者達も出て来て――――――
「で、何処まで進んじゃってるの!?」
真っ先にそれを、真正面切って問うて来たのは、新聞部部長・遠野杏子であった。
放課後の夕陽差し込む教室で、投げかけられた質問に、京一はしばしフリーズ。
胡乱な目で遠野を見て、それから隣に座っている龍麻へと目を向ける。
コイツは何を言ってんだ――――、と。
龍麻の方は、遠野がどういう返事を期待しているかはともかく、質問の意味は瞬時に理解した。
そして、本当に進んじゃうならいいんだけどなぁ、と思いつつ、
「遠野さん、楽しそうだね」
「そりゃもう! 学校中でも噂なのよッ!」
「だから、何がだよ……」
空きっ腹の腹を慰めるように撫でつつ、京一が呟く。
今日も授業が終わった後はラーメン屋に直行する予定だったのだ。
それを遠野に呼び止められ、聞きたいことがあるからと他生徒が全員いなくなるまで待たされた。
京一の胃袋の空き具合は既に限界を通り越している。
面倒なことはさっさと済ませて、ラーメンが喰いたい、というのが京一の隠されることなき本音である。
遠野は京一の言葉に、キラリと眼鏡を光らせる。
陽光を反射させて、レンズの向こうの見えない目が、どんな色をしているのか、京一には判らない。
龍麻はやっぱり、楽しそうだなぁ、と思って見ていた。
バン、と盛大な音と共に、京一の机に数枚の写真。
それは、遠野が取り出したものであり、間違いなく彼女自身が撮影したものだろう。
龍麻と京一、揃って覗き込んだその写真には、見紛う事無く自分達が写り込んでいた。
「……お前、いつの間に……」
全然気付かなかった、と言う京一に、龍麻も頷く。
そう言えば、吾妻橋達と乱闘していた時には、地面の中に埋もれていたのだ。
お互いに気配には敏感な方だと言うのに、遠野のジャーナリズム根性には全く頭が下がる。
「あ、これ昨日の朝の奴だ」
「いい角度で撮れてるでしょ」
「最近のデジカメって凄いんだねぇ」
「そうなのよ。デジタルズームでも、画質落ちないの!」
「つーかコレ全部隠し撮りじゃねえか。一歩間違えば犯罪だぞ…」
今更言うだけ無駄だろうとも判っているのだろう、京一の言葉は覇気がない。
全く気付かなかった、自分達の日常風景の撮影写真。
カメラの性能さ云々よりも、やはり遠野自身の情熱にかかるものが大きいだろう。
角度もタイミングもばっちりで、龍麻は暢気にそれを褒めている。
見せられた写真は六枚程度のものだったが、探れば確実に、まだまだ湧いてくるのだろう。
別に見たくもないので、京一は目の前のそれらだけにざっと目を通して、遠野に視線を移す。
「で? コレがなんだってんだ。あと噂ってなんだよ」
「知らないの? ……まぁ、本人に知られたら、何されるか判んないし、無理もないか」
「………ットにどういう噂だ、そりゃあ……」
龍麻の家に泊まるようになってから、京一の生活は平穏無事である。
昼間は学校に行って、授業をサボって、それが終われば街に出て、夜になれば鬼と戦う。
それらが終わると龍麻の家に行って、遅い夕飯を食べて、風呂に入って寝る。
多少世間一般の日常生活とズレはあっても、京一にとっては普通の日常生活だった。
――――ほんの数日前の災難を思えば、尚更。
そんな中で今度は一体何事だ、と京一は顔を顰める。
ギリギリとあからさまに不機嫌になっていく京一に、龍麻が手を伸ばし、頭を撫でる。
此処数日の間で、龍麻のこの行動にも慣れてしまった。
何度振り払ったところでまた撫でようとするから、好きにさせる事にしたのである。
遠野は眼鏡のズレを指先で直し、またキラリ、眼鏡を光らせる。
ニヤリと笑う口元に、京一は数日振りの嫌な予感。
「アンタ達が出来ちゃってるんじゃないかって!!」
「――――――はぁあ!!??」
高らかに宣言された“噂”に、京一が素っ頓狂な声を上げる。
無理もない。
「なんだそりゃ!? おいアン子、どっからどう見りゃそんな噂が出て来るんだよ!?」
「だって毎日毎日、朝から晩まで一緒なんでしょ。怪しむわよ、それじゃ」
「オレが女だとか、龍麻が女だったりすりゃ、そんな話も出てくるだろうけどな。野郎同士でなんでそうなる!」
噛み付く勢いで猛反論する京一に、相変わらず遠野の度胸は据わっていた。
デジカメを取り出し、保存されている画像を操作しながら、“噂”の内容を思い出し、話す。
「京一と緋勇君って、緋勇君が転校して来た時からずっと一緒でしょ。授業サボるのもケンカするのも、買い食いするのも。だから、前からそういう噂はあったのよ。、随分下火になってたけどね。
でも京一って変な人達によく好かれるけど、女子更衣室覗いたりとか普通にするし、緋勇君は誰とでも仲良いし。一緒にいる時間は長いけど、美里ちゃんや桜井ちゃんだっているのに、男に走る訳ないよねーっていうのに行き着いてたんだけど……
此処数日、京一が緋勇君の家に泊まるようになって、それからあのクラブにも舎弟のトコにも行ってないって聞いてね。調べてみたら、他の所にも最近京一はちっとも顔出してないって言うし。それってつまり、緋勇君の所にしか泊まってないんでしょ。朝晩一緒で、学校でも一緒で、放課後も一緒で……
―――――――それで、噂が再燃したのよ」
―――― 一気にまくし立てられた“噂”の内容。
ご丁寧に前後関係まで語られて、龍麻と京一はぽかんとしてそれを聞いていた。
「で、真相は?」
確実にこれを記事にする気満々である。
キラキラと輝く遠野の瞳に、京一はがっくりと机に突っ伏した。
「何処の暇人だよ、そんな噂信じる奴……」
「信じる信じないは別にしても、もう学校中で有名な話よ」
「…………最悪だ……」
頭を抱えた京一に、龍麻は椅子ごと近付いて、頭を撫でる。
「僕は別にいいけどな」
「は!? 何言ってんだよ、龍麻!」
「え、どういう事どういう事ッ!?」
龍麻の発言に、冗談じゃないと京一が勢いよく顔を上げた。
遠野が更に目を輝かせ、カメラを構えて龍麻に詰め寄る。
ガタリと京一が立ち上がり、龍麻の襟首を掴む。
「お前な、意味判ってるか!? オレと、お前が、デキてるってんだぞ!?」
「判ってるよ。うん、でも僕はいいよ。京一となら」
「ちょっと待て! アン子がいるのに妙な事言うな、お前も録音すんなッ!!」
「いいじゃない、これでいつ一緒にいても変じゃないだろ?」
「えーッ! これって、これって、超々スクープぅ! あ、でも“ミステリアス”のイメージが…! あ〜ん、どうしよう〜!」
「止めろっつってんだよ! 龍麻! お前も煽るんじゃねぇッ!!」
相棒のとんでもない発言と、ジャーナリスト志望の友人と。
味方のいない状況に、京一は頭痛を覚えつつ、此処で黙ったら負けだと自分を発奮させる。
「アン子! その録音した奴は今直ぐ消去しろ! ついでに写真も全部捨てろッ!」
「あ、捨てるぐらいなら僕に頂戴。勿体無いし」
「貰うな! いらねぇだろ、あんな写真!」
「京一が写ってるなら、全部貰うよ」
「その手の発言を止めろって言ってんだろぉぉおお!!」
がくがくと揺さぶられつつも、龍麻はいつもと変わらぬ笑顔。
会話の内容は、全て遠野のデジタルカメラに録音という形で収容されている。
並びに、うっかりすれば痴話ゲンカに見えてしまいそうな風景も。
ちゃっかり記録している遠野だが、まさかこんな事になるとは、本音、思っても見なかった。
噂に対して真相を追究しようなんて、確かに余りに広まった噂についてジャーナリズム精神が疼いたのは否定しないが、龍麻とも京一とも付き合いの深い仲、彼等が理屈なし掛け値なしに信頼しあう“相棒”であるとは重々判っていた。
かと言って同性愛疑惑なんて、モラルに厳しい国日本の健全な高校生男子、ある訳ないと思ったのだ。
京一は様々な人間に好かれてはいるが、根っからの女好きである。
龍麻は一向に色の話を聞かないけれど、男が好きだなんて節は片鱗も見えない。
第一、二人とも顔はいいのだ、素行不良の問題児と言えど、女に不自由する事はないだろう。
それで幾ら身近にいる気の置けない友人相手だとしても、男に走るなんて考えられない。
京一が龍麻の家に寝泊りしているのも、“相棒”同士の気安さからだと言える。
京一が家に帰らず、歌舞伎町の知り合いの所をあちこち巡っているのは、以前聞いた。
だから、遠野は噂の再燃とその要因を知っても、なんだそんな事か、と思ったものだ。
ただちょっと、新聞のネタになるぐらいであればと―――――それだけだ。
一面を大々的に飾るとまでは言わない、噂の真相はこんなものでした、というだけの。
実際、京一からは予想通りの反応だった。
だから龍麻からも、いつもの笑みで「そんなのただの噂だよ」と言われるだろうと思っていた。
それにちょっと残念そうな顔をして見せて、それで終わりだと。
思って、いたのだけれど。
(………コレ……あたしの所為かしら……?)
いつもの笑顔と、完全に激昂した顔で、噛み合わない会話をしている友人二人を眺め、思う。
「龍麻、テンパっての発言なら、今直ぐ忘れてやる。だから妙な発言はもう止めろ」
「別にテンパってはないよ。至って普通」
「お前の今の発言の何処が普通なんだよ!!」
「京一の方こそ落ち着きなって」
「これが落ち着けるか! 畜生、なんでこんな事ばっかり……!!」
がっくりと頭を落とし、苦悩するように椅子に座り込む京一。
抱えた頭を龍麻に撫でられて、余計に沈み込んでしまった。
それを見ながら、龍麻はぼんやりと胸中で呟く。
(―――――そんなに嫌かなぁ……)
僕と噂になるの。
目の前の親友がそれを聞けば、当たり前だろうと即返答があっただろう。
僕はこんなに嬉しいのに――――と言ったら、また先ほどのように「そういう事を言うな」と言われるのだ。
全て龍麻の本音なのだが、京一には一向に伝わらない。
でも噂とは言え、好きな相手とそんな風に見られる事に、嫌な感情は湧かなくて。
「京一」
「………ンだよ」
ふざけた事言い出したらブッ飛ばすぞ、と。
見るからに凶暴な顔で睨む京一に、龍麻は視線の高さを合わせ、
「いいじゃん、どうせ噂なんだからさ」
「……あのなァ……」
「本当のことは僕達が判っていれば十分だし」
「………まァ、そうだけどよ…」
野郎とってのがなァ……と呟く京一。
京一にとって、この噂の一番の着眼点は其処なのだ。
“誰と”ではなく、“男と”という部分。
がしがし頭を掻いて、京一は自分を見つめる龍麻を見返す。
いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている龍麻に、自分の反応の方が過剰なのではないかと思えてくる。
龍麻の言う通り、所詮、噂はただの噂。
人の口に戸は立てられないから、あれこれ鰭をつけて出回るけれど、いつかは沈静化するもの。
遠野も言ったように、以前にも噂はあり、次第に落ち着いて聞かなくなっていたというから、今回も時間の問題だろう。
こういうものは当事者達が慌てて見せたりすると、余計に煽ってしまうものなのだ。
第一、これ以上平穏な生活を脅かされるのは御免だ。
「ちっ………」
言い出した最初の人間を思う様ブッ飛ばしたい。
が、もう今となっては出所なんて判然としないだろう。
判り易く舌打ちして、京一は立ち上がる。
「アン子、そーいう訳だからな。新聞にするなら、噂はただの噂って書けよ。それ以外の事実なんてねェんだからな」
それだけ言って、京一は教室を後にした。
昨日と何も変わらぬ帰宅路なのに、無性に疲れた気がする京一だ。
数日前にも似たような倦怠感に見舞われたのを思い出し、げんなりと顔を手のひらで覆う。
やっぱり疫病神か何かに取り憑かれているのだ。
織部の神社にでも言って祓って貰うか……バカバカしい話のような気もするけれど。
そうでも思わなければ、正直やってられない。
少し後ろをついて歩く龍麻は、至っていつも通り。
遠野に聞かされた噂の内容も、まるで気にしていない。
その方がこの場合は良いのだろう。
どんなに不満のない学校生活でも、誰もがささやかでもいい、刺激を求めているのだ。
下らない噂は幾らでも出回るもので、特にこんな噂なら誰もが面白半分に飛びつく。
下手に騒ぐのは相手を煽るだけだから、龍麻のように大人の対応をするのが一番だ。
けれども、数日前の出来事と相俟って、京一はダブルパンチを食らった気分だ。
(なんだって野郎とばっかり………)
葵や小薪というなら、まだ判る。
三年生になってからよくつるむようになったし。
それなのに、どうしてよりによって龍麻なのか。
中学の頃から付き合いのある醍醐とだってそんな噂はなかったのに―――いや、あっても嫌だが。
この五日間、龍麻の家に寝泊りした。
龍麻もそうして良いと言ったし、京一も面倒が省けて助かるしと、甘受して。
その前にも何度か泊まった事はあったけれど、こんな事にはならなかった。
連泊した所為か? と原因を探し、だったら今日は行かない方がいいか、と思った時。
「京一」
呼ぶ声がして歩調を落とすと、龍麻が隣に並んだ。
「京一、今日も泊まってくよね」
それは、この数日間、帰宅路に着くと投げかけられる問いだった。
昨日も一昨日も、それには直ぐに頷いた。
けれども、今日は。
「あー……っと……」
親友の好意を無碍にする気にもなれず、かと言って中々頷く気にもなれず。
返事を濁らせた京一に、龍麻の表情が曇る。
「ダメなの?」
「いや、ダメっつーか……あんな噂があるとなァ…」
泊まればまた噂を煽ってしまうかも、と言う考えが京一を迷わせる。
行く宛ならばない訳ではないけれど――――目の前の、残念そうな顔をを放っておく事も出来ない。
こんなに自分は優柔不断だったかと頭を掻いて、息を吐く。
「噂があるなら尚の事、うちに泊まった方がいいと思うよ」
「…どういう理屈でそんな結論に行き着くんだよ」
「うーん…ほら、逆にって奴。ああいう噂って、本当だったら、気にして別々に行動するようになりそうだし。だから、逆に」
「……なんでもないなら、そのまま泊まってればいいって?」
親友が親友を自宅に招き入れる事に、なんの不自然があろうか。
宿無し状態の親友を泊まらせることに、なんの不思議があろうか。
勘繰られても何もないんだと。
いっそ堂々としていれば良いんだと言い切る龍麻に、それもそうか……と京一も思えて来た。
それに、寂しそうな“相棒”を一人家に帰らせるのも、なんだか。
「しゃーねェな。んじゃ、帰るか! 晩飯はお前のオゴリだぜ」
「うん」
嬉しそうに笑って頷く龍麻に、京一も笑った。
間もなく、更なる災難が降りかかるとも知らず。
次
八→京←龍と言いつつ、すっかり八剣の出番が……(汗)
次は出ます、次はちゃんと出ますから! ホント!