例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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死待ち蝶










羽をもがれた蝶々は、
地を這うのみの蝶々は、


ただ終焉を待つだけの、誰も知らない死待ち蝶。








目指していた未来への道標が、消えてなくなった。
それは、あまりにも唐突に。


泣く暇もなく。
怒る事も赦されず。
まるで子供が蝶の羽を捥ぐように、気付けば跳ぶ術を失った。

其処には仕方のない事情もあり、赦されない筈の現実もあり。
斬り捨てられた事実だけが、ただただ冷酷に突き付けられる。



せめて子供は死なせはしまい。
せめて、未来に繋がる希望は摘ませまい。

摘み取る羽さえ揃わぬ子供を、冷たい土の上で、寒空の下に眠らせはしない。


だから、見付からぬように願って、葉の影にひっそり隠して、置いて行く。







未来が見えない。
未来に跳ぶ為の羽がない。

地の上、近くやって来るのは無念と言う名の終焉。





春を待てずに、終焉を待つだけの、我等は誰も知らない死待ち蝶。











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また崩壊時……!
つ、次はあったかい話を考えます……(土下座)


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さよならが痛いんじゃないの










子供を二人、置いて。
それが一番、心残りだった。





息子があれ位の歳だった。
孫があれ位の歳だった。

笑って駆け寄ってくる姿が、生意気でも愛しくて。
遠い家に残した子供達を思い起こさせる幼さが、愛しくて守りたくて。
いつか理想が現実となって、帰るべき場所に帰った時、この子供達と同じ笑顔で迎えてくれるんじゃないかと、
そんな小さなささやかな、けれども何よりも強い強い願いと希望を持たせてくれる子供が、二人。


大人でも辛い真冬の行軍を、子供二人は大人と同じ速さで歩いた。
時に攘夷志士に襲われようと、彼らは決して恐れなかった。
勇気でもあり、無謀でもあり、それが彼ららしくて愛しくて、彼らに未来を託したいと思った。



だから、子供二人を置いて行く。







「留守を頼むぞ」







子供と一緒に残る、準隊士に隊長から声がかかる。
大人達は既に大方の予想は出来ているのだろう―――――その表情には悲愴が浮かぶ。
それでも一度歯を食い縛ると、はい、とはっきりとした返事があって、隊長は目を窄めた。


それから、大人達に囲まれて、不安げに此方を見ている子供二人に歩み寄る。

膝を折って目線の高さを合わせる隊長に、一人が泣きそうな顔で、それでもぐぅと口を噤んだ。
隣に立っていたもう一人の子供が、握り締められた親友の手を掴んで握り締めた。
繋ぎ合った幼い手は、小さく震えている。








「大丈夫」







心配するな。
そう言って、隊長の手が二人の子供の頭を撫でた。

その手が離れて、一人の子供の肩が揺れた。
立ち上がった隊長を追いかけるように、二対の瞳が敬愛する人の顔を追い駆ける。



歩き出す隊長に従い、残留を命じられた少数の者だけを残して、進み出す。
擦れ違い様、小さな子供二人の頭を撫でて。




繋ぎ合った小さな手は、何度も自分達へも向けられた。
時に笑い、時に怒り、拗ねて、また笑って。
出来る事なら、これからもずっと、理想が現実になって彼らが大人になるまで、それを見ていたかった。


まだ若い。
まだ幼い。

その未来を、摘み取ってしまっては行けない。






遠くなって、隊長、と呼ぶ声が聞こえた。
駄目だと止める、高い声がする。






誰も振り返らなかった、誰も立ち止まらなかった。
先頭を歩く人は何処までも真っ直ぐに、きっと既に心は決めている。

振り返っていはいけない、これは言葉にしない「さよなら」。
子供二人の気持ちを置き去りにした、「さよなら」。
言ってしまえば、子供達は泣いてしまうから、きっと一緒に行くと言うから、だから言わない。


自分達の運命への、腹は決めた。
だがどうあっても、子供二人の事は誰にも話すまい。
言えばきっと残党狩りに遭ってしまう。

彼らは希望。
目指した理想へ向かう、一筋の光。











ただ、願わくば。


現実した理想の世界で生き抜く子供達を、この眼で見たかった。














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……崩壊時の話でごめんなさい。
一応、隊士の誰か視点のつもりです。



壁に耳あり障子に目あり










宿に泊まっている最中の会議の時、子供二人は大抵その場から外された。

一人は素直に従じるが、もう一人は納得行かないと言う顔をする。
それは別に反抗しているとか言う事ではなく、敬愛してやまない隊長の傍から離れるのが嫌なのだ。


大人達からの言い分としては、町宿にいる時ぐらい、子供達には好きに過ごさせてやりたかった。
行軍の間は、周囲の大人を追いかけて歩かなければならない彼らに、その日一日位は遊んで良いぞと。
町で団子でも買って、物見でもしてくれば良いからと。



隊長直々に暇を言い渡されて、子供はようやく町に出て行く。
傍を離れる口実として、隊長から少々の小遣いを渡されて。

二人並んで宿を出て行くのを見届けてから、軍議は始まった。








それから半刻程だろうか。

ふと相楽の頭が揺れて、傍にいた隊士がどうかしましたかと問う。
と、相楽は小さく首を横に振り、なんでもないと言い、地図に視線を落とした。


隊士はしばらくどうしたのかと疑問に思っていたが、やがて気付いた。
じっと向けられている、二対の視線を。



茶を淹れ直す振りをして、廊下へと続く障子を見た。
きっちりと閉じていた筈のそれは、ほんの少し、隙間を開けている。
外は曇り空で光が少ないから、影の形は部屋内にはなかった。

なかったけれど、其処から覗く視線が誰のものであるのかなど、考えなくても直ぐに判る。
時折聞こえる、ひそひそとした少し高めの声を聞かなくても。


そっと横目で窺い見ると、子供二人は手に何かを持っていた。
葉で包まれたもの、恐らく団子か饅頭だろう。
二人でたらふく食べても良いのに、わざわざ土産に買って持って帰ってきたのだ。

特にやんちゃな子供の方は、町を楽しむのも良いけれど、早く此処に戻って来たかったのだろう。
だから宿を出てから、たったの半刻程で帰って来たのだ。
まだ会議中とは判っていても、出来るだけ傍にいたいから。
大人しい子供は、いつものように、やんちゃな子供に付き合っての行動だろう。





子供二人はこそこそと、早く会議が終わらないかと窺っている。
しかし残念、もう暫く長引きそうである。





ややもすると、其処で立っている事に疲れたのだろうか。
一人がその場に座り込んで、此処で座るなともう一人が腕を引っ張った。
座った子供は渋々立ち上がり、そっと障子を閉めて、とたとた向こうへ行ってしまった。

が、その後。
壁越しに隣の部屋からカタリと言う音がして、遂に相楽が噴出した。


隊長である相楽が我慢し切れなかったものだから、他の面々も次々噴出した。
口を押さえて辛うじて耐えはしたものの、クツクツ喉から上がる笑いは抑えられない。




バカ左之、と高い声がした。
なんだと、と続く声。

それから、しんと静かになる。











壁の向こうで、早く終わらないかと待つ子供達。


悪いがもうしばらくだけ、良い子で辛抱していてくれよ。













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どんどん赤報隊時代を捏造してますね、自分(汗)。
ちびっこ大好きなんです。

大声出し合った後で、二人で「しーっ」とかしてればいい。


summer memory 7











届かない


遠くて遠くて

見えない君に届かない




だからもう少しだけ立ち止まる

忘れないように、もう少しだけ立ち止まる


























summer memory
- 休み明け -





























ダン。
ダン。

パァン。
パシン。






床を踏む力強い音と、唸り撓る竹刀の音が夏の空に響く。

暦は既に九月になり、社会人は勿論、学生も夏休みをとうに終えた。
けれども空は相変わらず高く、照り付ける太陽の日差しはぎらぎらと暑く、秋になった等とは到底思えない日が続く。
残暑見舞いの葉書が届いたのを見て、そういえばもう暑中ではないんだと認識するのが精々である。


その夏休みであろうと、暑中であろうと残暑であろうと、この道場で響く音は変わらない。
盆前から明けの間は流石に静かな一時があったが、それでも無音が此処に訪れた事はなかった。
何処に行く訳でもない大学生や行けない社会人門下生は、時期問わず此処に来るからだ。

それから、もう一人――――いや全員を含めれば三人になる。
必ず一日に一度は道場に顔を出す者達がいる。




八剣右近は、その一人だった。




高校生の時に何気なく始めた剣道が、不思議と性に合った。
大学に入っても止める事はなく、住んでいた場所の近くにあったこの道場へ通う事にした。

高校生の時分に、八剣は都大会のみならず全国大会でも賞を総なめにした。
それ程に実力があると周囲からも、また自分も少なからず自負していた八剣であるが、それでも無敵とは自惚れなかった。
この道場の主であり、師範である人物に敗北した時、それを尚更痛感したものだ。


剣道を始めてから、一度も敗北しなかった――――等と言う訳ではない。
ないが、あれ程までに悔しく、また清々しいほどの敗北は味わったことがなかった。

以来、八剣はその人物を越えるべく、その下で剣の腕を磨く日々が続いている。







ダン。
ダン。

パァン。







日曜日の午後は、この道場が最も賑やかになる時間だ。
大人も子供も一緒になって竹刀を打ち合っている。

八剣もつい先程までそれに参加していたのだが、残暑の続く日々である。
噴出して止まらない汗と、酷使した集中力を休める為に、少々席を外させてもらった。



数年の間、ほぼ毎日通い続けている道場である。
何処に何があるかも知っているし、女将――道場主の妻――とも随分気の知れた間柄になれた。
お陰で、今では多少勝手にあちこち歩き回っても、特に気に留められる事がない。
此処の門下生は数が多いが、其処まで殆ど身内扱いになっている者は八剣以外にいなかった。


―――――そんな訳で、こういう事もあったりする。







「………うん?」







道場の敷地内で、この時間、一番涼しい場所。
道場横にある住宅の、山水の庭の傍。

ちょろりちょろりと音を鳴らす小川に接する岩の上、膝を抱えている子供が一人。



それが此処の道場主の息子、蓬莱寺京一。

一日一度は道場に顔を出す、もう一人の人物だ。







(珍しいね、この時間に此処にいるのは)







此処は京一の家だから、日曜日の午後に彼が何処にいようと、それは彼の自由だ。
けれども日頃の行動パターンを考えると、実に珍しい事だった。


常ならば、この時間は他の門下生たちに混じって道場で竹刀を振るっている。
そうでなくとも、道場横で誰に言われるでもなく木刀で素振りをしている頃だ。

京一がこの枯山水の庭に来るのは、大抵、夕刻頃になってから。
春は小川の傍の桜の樹の上に、夏は岩の上に、秋はまた木の上で、冬になったら焚き火の傍にいて――――八剣が此処に来ると、京一は一日の出来事や学校で起きた事などを一頻り話してくれる。
そうして陽が随分下へ下へと落ちた頃になって、八剣が帰るのを見送ってくれるのだ。



……そう言えば、此処数日の間、そんな夕方の時間がすっかり抜け落ちていたような気がする。







パシン。
パシン。

パシィーン。






見慣れた子供が、見慣れない表情で蹲っているから、八剣は少し驚いた。



京一は、はっきり言って明朗快活だ。

良くも悪くも元気で正直で、真っ直ぐで、時々考えなしに行動する事があったりするが、それも本人は楽しそうだった。
怒られた時も、凹むよりも拗ねて怒っている事の方が多くて、落ち込んだ姿を八剣は見た事がない。
最も、意地っ張りな性格の子だから、見せるもんかと虚勢を張っている事も多々あったりするのだけれど。


そんな子が膝を抱えて蹲っているのだから、驚かない訳がない。



確かに此処数日で八剣が声をかけた時、上の空のような返事がした事もあった。
けれども残暑厳しい日々が続いているから、遅めの夏バテかなと八剣は思っていた。
ぼんやりしている所を父が揶揄えば拗ねた顔をするし、夏休みが終わって、学校が始まって面倒だとか、そんなものなんだろうと。


…思っていたのだけれど。








(そうでもないのかな)








通い始めて数年。
殆ど毎日此処に来て、だから勿論、この少年とも何度も顔を合わせている。

懐いてくれるまで少々時間がかかった事はあったけれど、今では「飯食ってけよ」と言われる事も増えた。
時間がかかった分だけ、八剣も京一の事が判ったから、行動パターンの奥底に付随する意味もよく知っている。


でも、このパターンは初めてだ。





……気になる。
はっきり言って、かなり気になる。




八剣は京一が気に入っていた。
子供らしく背伸びしたがる所も、少し生意気な所も、全部。


だから修練の後で疲れていても、京一から打ち込みの相手をしろと言われたら引き受ける。
学校で嫌な事があったとか、姉に揶揄われたとか、愚痴を零したいなら全部聞く。
宿題が判らなくて終わらないなら、手伝ってやる事もあった。

八剣のその様子に、彼の父である師範からは、「つけあがるから甘やかすんじゃねェ」とお達しが来た程だった。



そんなものだから、京一がこんなにも落ち込んでいる理由が気にならない訳がない。







「京―――――、」

「おう、八剣。何してんだ」







呼ぼうとした声を、遮られる。

振り返って見れば、此処の道場主であり、師範であり、八剣が敗北した人物であり。
目の前で蹲る小さな少年の父が立っていた。


この人物が毎日道場に顔を出す三人の内の、最後の一人だ。


この人はいつも和装を好んで着ているのだが、今日この時は剣道着だった。
肩に竹刀を担いで、恐らく、これから道場の方に赴くつもりなのだろう。







「師範、京ちゃんが――――」
「あん?」






八剣の陰になって見えなくなっていた息子を、首を伸ばして父は見つけた。






「少し元気がないみたいで」
「……ああ、」






その一言で、父は全て合点が行ったらしい。

多分、この人は事情を全て知っていて、京一がそれに囚われている事も気付いているのだろう。
けれども優しい言葉をかける事はなく、本人の気が済むまで好きにさせている。
無骨な父親らしい愛情だった。



暫く息子を眺めた後で、父親はガリガリ頭を掻いて、道場に向かって歩き出した。







「夏休みボケだ。ほっとけ、ほっとけ」







ったく、バカ息子が。
ま、たまには良い事だけどよ。



ひらひらと手を振って去っていく間際、そんな呟きが八剣の耳に届いたような気がした。
が、その真意を問うまで待ってくれる訳もなく、さっさと角を曲がって見えなくなってしまう。






(夏休みボケ、ね……)






ちらりと見遣れば、やはり子供は此方に気付かず、じっと蹲ったまま。
長く放っておいたら、そのまま其処で石になってしまうんじゃないかと思うくらい。
……その前に、京一の事だから、腹が減って母の下に行くだろうけれど。



取り敢えず、このまま見つめているだけで何が起こる訳でもない。



庭に敷き詰められた小石を踏めば、じゃりと言う音がする。
それをわざと少し大きめの音で鳴らすと、子供の頭がぴくりと揺れた。

京一が振り返る前に、八剣の方から声をかけた。






「隣、いいかな?」






くるりと大きな瞳が此方を向いた。

その瞳がいつものように爛々とではなく、寂しさの色を湛えていた事に気付く。
ああ重症だな、と八剣は胸中で一人ごちた。



京一は返事をしなかったが、座っていた岩の真ん中か少しずれて、スペースを作ってくれた。

其処に腰掛けると、それまで強く照り付けていた日差しが木の葉に遮られる。
少し風が吹いて樹がざわざわと音を立て、仕舞い兼ねている縁側の風鈴がちりんと音を鳴らす。
足元では、幅一メートルもない小さな川がさらさら流れていた。


此処は京一のお気に入りの場所、だから自然と八剣もこの場所の事が気に入っていた。


春は桜が綺麗だし、夏は葉桜が陽光を和らげてくれて、秋の彩りの変化も見せてくれるし、冬は焚き火が出来る。
そして、其処にはいつも京一がいて、夏の太陽みたいに笑っている。

時々元気が良過ぎて、木の上から落ちたり、小川に落ちて水浸しになったりもするけど、それも可愛いものだった。





隣に座った八剣を、京一は見なかった。
何をするでもなく、また片膝を抱えて俯いてしまう。






「……元気がないね」






頭をくしゃりと撫でると、小さな手がぺしっと八剣の手を叩く。
この反応は、子供扱いされるのを嫌う京一にはいつもの事だから、八剣は気に留めなかった。






「学校で何かあった?」
「なにもねーよ」






俯いたままで京一は応える。
受け答えはしてくれるから、少し安心した。






「じゃあ、誰かと仕合して負けちゃったかな」
「オレが負ける訳ねーだろ」
「そうか。それもそうだね」





京一はまだ小学生だが、高校生や大人と勝負しても殆ど負ける事がない。
八剣が知っている限り、京一が道場内で今のところ敵わないのは、自分の父親と八剣だけだ。

夏休みの前に八剣は京一と一度本気の仕合をしたが、結果は八剣の勝利で、京一は心底悔しそうだった。
それから今日に至るまで、八剣は京一と剣を交えた記憶がない。
師範である父の方はと言えば、指導の為に向き合うことはあるものの、仕合をしている事はなかったと思う。
だから誰かと勝負して負けて、此処で凹んでいる――――という訳ではないようだ。






「夏休みの宿題、終わらなくて先生に怒られた?」
「終わった。全部出した」





それも知っている。



夏休みの終わり頃、いつも父親に言われてから溜めていた宿題に追われ始めていた京一。
休みが終わってしまうのに片付かない宿題に、八剣に泣きついてきた事も少なくない。

けれど、今年の夏休みの終わる前に、宿題について聞いて見たら、もう終わった、と返ってきた。
八月の初めから祖母のいる田舎に行っていた京一は、その間に終わらせたと言う。
理由を聞いたら、父ちゃんが煩ェ、と言われたが、それは毎年の事だ。
そして言われているのに放ったらかしにして泣きを見る、と言うのが通例だったのに。


今年はなんだか、ちょっと違うな。
夏休みの終わり頃、一心不乱に素振りをする京一を見て、八剣はそう思っていた。







パシン。
パシィーン。







…今思えば。
今思えば、あの時一心不乱に素振りをしていたのは、何かを耐えようとしていたのではないだろうか。

手に豆が出来て、それが潰れた痛みの他に、時々ぎゅうと唇を噛み結んでいる事があった。
汗と一緒に胴着の袖で顔を拭った時、一緒に何か誤魔化してはいなかったか。
蝉の声が聞こえた時、随分遠くを見ていなかったか―――――………





ずり、と音がして。
京一を見ると、此方に背中を向けて丸くなっていた。

その小さな背中に問いかける。






「おばあちゃんの家に行ったんだってね。楽しかった?」






答える声はなく、京一の頭がこっくり縦に揺れる。






「そう。良かったね」
「…………ん」






同じようにまた揺れる。




……ぐす。
…すん。




その傍ら、聞こえた音を、八剣は聞こえない振りをする。
背中を向けた京一に合わせて、八剣も小さな背中すら見えないように背を向けた。

意地っ張りで背伸びしたがる子だから、そうするのが一番良い。






「……あのな、」






少し鼻声で、京一が言った。

背中に軽い重みがとんと乗せられる。






「ばあちゃんちな、」
「うん」
「ガキの頃に何回か行ったらしいけど、オレあんまり覚えてなくてよ。そんで行ったら、すっげー田舎だった」
「此処と比べちゃあね。仕方がないよ」






此処は東京、日本の首都。
ビルが沢山あって、物が溢れていて、人があちこちて衝突しそうな位にごった返している。
この東京で生まれ育った京一にとっては、それがごく当たり前の光景だった。

勿論、都心を離れて行けば山もあるし畑もあったりするけれど、小学生の京一の行動範囲はまだ広くない。
だから一面田畑が広がっていたり、直ぐ目の前に山があったりなんて、中々見られない景色だった。


彼の祖母はそういう場所に住んでいる。
もう随分な歳だと言うのに、祖父が死んで十数年、一人きりで。






「すげーな。カブト虫とか、クワガタとか、あっちこっちにいやがんの」
「緑が多いからね。此処と違って、手付かずの場所が」






この辺りだと、自然公園にでも行かないと、虫を追いかけることも難しい。
蝉なら街頭の樹に留まっている事もあるけれど、虫取り網で追いかけることは中々出来そうにない。


夏になると、京一はよく一人で自然公園に遊びに行く。
小さい頃は父も一緒で、虫の特徴や捕まえるコツを色々教えて貰ったらしい。

実際、よく捕まえてくるのを八剣も見ている。

朝から昼まで道場で汗を流すと、午後から外に遊びに行って、友達と遊んだり虫を追いかけたり。
都会の子供にしては珍しいんじゃないかと思うほど、京一は木登りや虫取りが得意だった。
それを存分に生かして、友達が登れない木は自分が登って、虫を捕まえてやる。
途中で転んだり、木から落ちたりして怪我をしても、帰って来た時はいつも嬉しそうに虫かごを見せてくれたものだ。



でも、都会と田舎では、根本から環境が違う。
動植物や昆虫が住むには、その性質に適応した環境が整っていなければいけない。
それはやはり、都会よりも田舎の方が向いている。






「ちょっと茂みの中入ったらさ、カマキリがいてさ。オレ、足ケガするとこだった」
「大丈夫だった?」
「ん。つーか捕まえてやったし」






さすがだね。
褒めると、背中越しに笑うのが伝わった。






「川もすっげーキレイでさ。魚がいると直ぐ見えるんだよ」
「いいね。釣りでもした?」
「それはしてねェけど。でもザリガニは捕まえた」
「挟まれたりしなかった?」
「……一回やられた」






拗ねた口調になった。
それが可笑しくて笑うと、背中を肘で突かれる。






「あと、スイカうまかった」
「こっちで食べるスイカと違う?」
「ん」






同じモンなのになァ。
なんでだろ。

首を傾げる京一に、さてどうしてだろうね、と呟いた。



背中の重みが少し増した。
体重を、そっくりそのまま預けられている。

珍しい。
人に寄りかかったり、甘えたりするのが嫌いな子なのに。
ああ、そうだ、重症なんだから仕方がない。


本当は振り返って抱き締めて、撫でてあげたいくらいだけど。
絶対に嫌がるだろうから、このまま、背中合わせのまま。







「あと………」






声が小さくなる。


風が吹いて、また樹がさわさわと音を立てて、また静まる。
竹刀の鳴る音は聞こえなくない。

だから、小さな子供の小さな声を遮るものは何もない。











「友達、できた」











嬉しそうに。
少し寂しそうに。

呟かれた言の葉に、ああ成る程と理解した。



此処から随分遠い田舎で、出来た友達。
一緒に遊んで楽しかっただろうに、それでも別れの刻が来て。

来年はもう、田舎に行く予定は無いらしい。
田舎に住んでいた年老いた祖母は、此処から近くにある病院に入ることになった。
だから、友達に逢いたくなっても、もう祖母の家のある田舎まで行く事はない。


小さな子供がもう少し大きくなって、一人旅が出来るようになった頃。
その友達がまだ其処にいるかは、判らない。

だからもしかしたら、もう逢えなくなる可能性もあって。






「そう。良かったね」
「ん」






……ぐす。






「一緒に虫取ったし、」
「うん」
「一緒に夏祭り行ったし、」
「うん」
「…一緒にスイカ食ったし、」
「うん」
「…………、」
「うん」






……ぐす。
…すん。




背伸びしたがりでも。
生意気盛りでも。
こういう所は、まだまだ小さな子供だと思う。






「本当に、随分仲良くなったんだね」
「……ん」






だから今年の京一の夏休みは、多分、その子一色だ。
祖父の家に遊びに行って、都会にないものを沢山見たのも勿論思い出の一つだけれど、それ以上にその子が一杯溢れている。






「また逢えるといいね」
「逢える」






半分は心から、半分は慰めで。
呟いた八剣の言葉に、はっきりとした声が返ってきた。
少し驚いて振り返りかけて、どうにか留める。

…てっきり、もう逢えないと思っているから、こんなに落ち込んでいるものだと思っていたのだけれど。














「今度は、あいつがオレに逢いに来るって、そう言った」















それまでの泣きそうな声なんて、気の所為だったと思わせる位に、強い声。
言い切る音に迷いはなくて、今ならきっと、見慣れた光が大きな瞳に宿っている。



どれ程離れているとか、いつ逢いに来れるようになるとか。
そういう理屈は全部後回しにして、いつか逢う為の約束をした。

だから。

だから時々、泣きそうになっても、絶対に泣いたりしない。
手を繋ぐ事が出来ないのが寂しくても、泣いたりなんてしたくない。
いつかまた逢う約束をしたから、もう逢えない訳じゃないんだから。





……ぐす。





此処でこうして蹲っているのは、嬉しかった事も楽しかった事も、別れ際の寂しさも、全部ひっくるめて大事な思い出だから。
その時少しだけ泣きそうになって、意地っ張りな子供はそれを人に見られてしまうのが嫌だから、限られた人しか来ない場所で一人になって、小さな体で全部全部受け止める。





…ぐす。
……ずずっ。





鼻を啜って、一呼吸するのが背中越しに伝わる。
はあ、と大きく息を吐いて、張っていた小さな肩の力が少し抜けた。











「……ばぁか」











零れた言葉は、見えない未来へ約束をした友達へか。
それとも、それを疑いもしない自分へか。

多分どっちでも良くて、それもどちらも悪い気はしないのだろう。





どうやら、この子はとても良い夏を送れたらしい。
少し元気がない事への心配は、もう八剣の中に残っていなかった。

寄りかかる重みが心地良くて、八剣はもう暫く此処にいる事にする。






「京ちゃん」
「……あ?」






呼びかけた時の返事の仕方が、段々父親に似て来ている。
それを言ったら、天邪鬼なこの子はいつも顰め面になって、父から拳骨を食らっていた。









「その友達のこと、好き?」









ぴくり。
背中の重みが少し揺れる。


これは背中合わせじゃないと、本音が聞けない。
素直じゃない子だから、好きか嫌いか問われたら、好きなものでも嫌いだと言ってしまう。
好きなものを好きだと認めて口に出すのが、恥ずかしくて仕方ないらしい。

でも、今なら背中合わせだ。
お互い顔を見ていないから、天邪鬼な子ももう少しだけ素直になれる筈。








カレンダーが捲られて、数字は8から9に変わった。
だけれど空の色は相変わらず夏色一色で、街頭の植物たちもまだまだ青く茂っている。
ファッションは秋物が出回るけれど、残暑は強く、暦は既に秋だなんて到底思えない日が続く。

此処から遠く離れた田舎の方はどうだろう。
この街よりも、季節の変化は早く訪れるのだろうか。



夏が過ぎて一生を終えた蝉達が、地面の上で眠っているのをよく見付ける。
あれだけ煩かった蝉の声は、もう此処では聞こえない。



街を歩く高校生達は、まだ半袖で、夏休み気分が抜け切らない。
市営プールも賑やかなもので、やっぱりまだ夏なんだろうと思ってしまう。

だけれど季節は確かに移ろい変わりつつあって、陽が落ちるのも早くなる。
人が気付かない速さで時間は過ぎて、少しずつ人も変わって行く。





一夏の間に、見知った子供が随分大きくなったように。
気付いた頃には、背中の重みもまた少し重くなっているのだろう。

そしていつかは、見上げる瞳が同じ位の高さにまで成長している日が来て――――――、
















「好きだよ、好き。じゃなきゃ、また逢おうなんて思うかよ」



















その時、是非とも見てみたい。

大好きな友達と笑う、太陽のような眩しい笑顔を。

























----------------------------------------


多分、色々後悔している事もあるんです。
でもそれ以上に、嬉しくて楽しかった事も溢れてるんです。
だから、思い出したら楽しかった気持ちにもなるけど、やっぱりちょっと寂しくもなる。

まさかの全編八剣視点です。
チビ京と八剣、いいなぁ。寄っかかられちゃって、いいなァ……

summer memory 6











届かない


遠くて遠くて

見えない君に届かない




だけどもう少しだけ待っていて

きっと君の所に行けるから


























summer memory
- 新学期 -





























夏休みが終わった。
また学校が始まった。


夏休みの間に山々を駆け回った子供達は、めいめいそれぞれの思い出話をしている。




あの虫、捕まえたよ。
あの魚、釣ったぞ。
あの木、登れたよ。




此処では、男の子も女の子も、皆よく山に登る。
そんな中で、龍麻だけがいつも麓で地面にお絵描きしていた。

だからいつも、休み明けは教室の隅で皆の話を聞いているだけ。
その時も龍麻は自由帳に絵を描いていて、皆は龍麻に話しかけなかった。
それはないがしろにしている訳ではなくて、お互いが自然にそんな距離になってしまったのだ。





だけど、今年は少し違う。





夏休み前よりもずっと日焼けした龍麻に、クラスの女の子が聞いた。








「ひーちゃん、何処かに行ったの?」








龍麻の父は陶芸家で、時々、この田舎から遠く離れた場所で個展を開く。
母も龍麻も、それについて行く事はあって、だから日焼けしたのはその所為だろうと女の子は思っていた。

子供達の世界は狭い。
心は何処までも自由に飛んで行くけれど、足はそれに追い付かない。
そんな狭い世界を飛び出して行った子がいたら、外にどんなものがあるのか、好奇心が止まない。
何処で何を見てきたのか、何処にどんなものがあったのか、聞いてみたかった。


だけれど、龍麻は何処にも行ってないよと首を横に振る。






「そうなの?」






なぁんだ。

女の子は少し残念そうに言った。
その顔に、行ったって言った方が良かったのかな、と龍麻は思う。
でも、何処にも行っていないのに、行ったなんて言えなかった。


女の子は、友達の所に戻って行った。





夏休み前と変わらない自分の席に座って、龍麻は自由帳を開いた。


毎年、夏休みの間に丸々一冊分は埋まってしまうのに、今年は夏休み前から殆ど進んでいない。
一番最後に描いていたページの絵は、描きかけのままになっていた。
いつ描いたんだろうと考えて、夏休みに入って間もない頃だったと思い出す。

―――――どうしてその絵が完成しなかったのかなんて、直ぐ判った。








日焼けしたのも、この絵が完成しなかったのも。
あの麦わら帽子の笑顔に出会ったからだ。








思い出すと、なんだか胸の中がぽかぽかする。
それから、ほんの少し、きゅうと締め付けられる感じがする。


麦わら帽子の笑顔の記憶は、夏休みの最初の方から、終わりの方まで、ずっと続いて途切れない。

山の麓に川のほとり、まだ続いている蝉の声、夕方に飛ぶナツアカネ。
一つ思い出せば溢れるように次から次へと浮かんできて、一番最後に、泣きそうに笑う顔。
その顔で、胸がきゅうと締め付けられる。






(でも、笑ってくれた)






笑って手を振ってくれた。
泣きそうだったけど、笑ってくれたのは本当。


あの時、もしも間に合っていなかったら、笑顔も泣き顔も見れなかった。
何も言えずにさよならになったら、こんな風に夏の終わりを迎えられなかった気がする。
夏の終わり、久しぶりに一人で過ごす日々に、自分の方が泣いていたと思う。

あの笑顔を見れたから、やっぱり時々寂しくて泣きそうになったけど、泣かなかった。
最後の言葉をちゃんと言えたから、ちゃんと聞くことが出来たから、寂しいけれど悲しくなかった。





描きかけだった絵が完成して、龍麻はページを捲った。
真っ白な二ページ。


思いつくままに絵を描いた。

龍麻が描くのは、いつも大抵、忍者の絵。
だけどなんとなく、この時は違っていた。



男の子が龍麻の席の前を通りかかった。
その目が龍麻の絵に留まって、男の子の足が止まる。






「ひーちゃん、それカブトムシ?」






いつもはよく判らない(少なくとも、この男の子にとってはそうだった)ものばかりを書いているクラスメイトが、今日は違うものを描いている。
常と違うものを見つけると、なんだか興味が湧いてくるもので、男の子は龍麻に聞いてみた。

龍麻の頭が少し揺れた。
そろそろ顔を上げると、いつも話しかけて来ない男の子だったから、びっくりした。
男の子はそんな龍麻に気付かずに、自由帳に釘付けになっている。






「ひーちゃん、カブトムシ?」






同じことを聞いてきた。
龍麻は頷く。






「うん」
「ひーちゃん、絵上手だね」






隣から声がして、其処には女の子がいた。
絵が上手だと先生にも褒められていた子だった。

上手だと言われた。
なんだか顔がぽかぽかしてくる。
嬉しかった。



しげしげ絵を眺めて、男の子が言った。






「なあ、クワガタ描ける?」
「……判んない」






龍麻は首を傾げた。
描いたことがない。

このカブトムシだって、龍麻は初めて描いたのだ。
麦わら帽子の笑顔と一緒に浮かんできた、夏休みの思い出。
あの子が捕まえて見せてくれた、夏の宝物の記憶。


あの子はクワガムシも捕まえて、見せてくれた。
蝉もトンボも、チョウチョも捕まえて、一匹一匹種類と特徴も教えてくれた。

お陰で、夏休み前はちっとも判らなかった虫の種類や特徴に、龍麻は随分詳しくなった。



描いて描いてと男の子が言うから、描いてみた。






「おーッ、すげぇ!」
「なに、なに?」
「どうしたの?」
「何がすげぇの?」






男の子が大きな声で言うものだから、他の子達が集まってきた。



龍麻が皆に囲まれるのは、随分久しぶりのことだった。


人数が少ない田舎の小学校でクラス変えなんてものはなく、毎年児童は持ち上がりのクラス編成。
今よりもっと少なくなれば、学年の枠もなくなって、皆同じ教室で過ごす事にもなるだろう。
つまりは、それ位の人数しかこの学校にはいないのだ。

だから、一年生の頃から一人で過ごす事の多い龍麻を、今になって改めて輪の中に誘う子はいなかった。
ひーちゃんはお絵描きが好きだから、邪魔しちゃ駄目だよ。
そう言って、龍麻を一人残して、皆外で遊ぶようになって行った。


それがいつの間にか、こんなに沢山の子に囲まれている。






「すごーい、ひーちゃん上手!」
「ひーちゃん、ちょうちょ描ける?」
「…たぶん」
「描いて描いて!」






女の子が飛び跳ねて言った。

龍麻が思い出すチョウチョは、麦わら帽子の男の子が、一番最初に捕まえてくれた青いチョウチョ。
鞄の中から色鉛筆も取り出して、龍麻は自由帳に記憶の形を描いていった。






「ひーちゃん、セミは? セミ描ける?」
「わかんない。でも、描けるかも」
「じゃ、後で描いて!」






蝉は難しい。
でも、特徴は覚えてる。


チョウチョの羽に青い筋を入れる。
男の子が、見た事ある、と言った。






「これ、山で見たぞ」
「名前は?」
「知らねえ」






友達の問い掛けに男の子が首を横に振ると、龍麻が代わりに答えた。







「アオスジアゲハって言うんだって」







青い筋以外の所を黒く塗る。
黒い羽の中、青が綺麗に光っていたのを龍麻は今も覚えている。






「ひーちゃん、虫好き?」






隣の女の子が聞いた。
龍麻は、首を傾げる。



好きか嫌いかと言われても、直ぐに答えは出て来なかった。
夏休みを過ごす前は、どちらかと言えば苦手だった方で、チョウチョはともかく、他の虫は殆ど触れない。
カマキリなんて近付くのも怖いくらい。

だけれど、今はカマキリだって触れるし、蝉の鳴き方だって判るし、飛んでるトンボの種類も判る。
その楽しさを教えてくれたのは、全部全部、あの麦わら帽子の笑顔で。


あの子は、虫が好きなんだろうか。
だから、あんなに沢山知っていて、楽しそうに教えてくれたのか。



だったら、好き、かも知れない。






こっくり頷く龍麻に、だったら早く教えてくれよ、と男の子が言った。






「夏休み、皆で虫取り合戦したんだぜ」
「ひーちゃんも一緒に来れば良かったのに」
「クマゼミ一杯取れたんだよ」






口々に言う男の子達に、龍麻は小さな声でごめんね、と言った。







行きたかったかも知れない。
でも、行かなくて良かったとも思う。

だって一緒に行っていたら、あの麦わら帽子に逢えなかった。




あの麦わら帽子と何度も一緒に山に登ったけれど、その時、クラスの子とは一度も会わなかった。
多分、登る山が違っていたんだろう。

龍麻があの山の麓で地面にお絵描きしていなかったら、麦わら帽子があの道を通っても、龍麻はあの子と出会っていない。
毎日のようにあそこで絵を描いていたから、毎日通るあの子に会えた。
虫を殆ど知らずにいたから、あの子は楽しそうに教えてくれて、龍麻はその笑った顔が好きだった。






「今度、一緒にトンボ捕まえに行こう」
「ひーちゃん、一度も一緒に言った事ないよね」
「この子、凄く上手なんだよ」






女の子が、男の子の一人を指差した。
指された男の子は、照れ臭そうに鼻柱を掻きながら胸を張ってみせる。


上手って、どの位だろう。
麦わら帽子のあの子と同じ位?

あの子は、空を飛んでるナツアカネを、あっと言う間に捕まえた。
木の上にいる蝉も、自分で登って、自分の手で捕まえられるし、チョウチョもそうだった。

それと同じ位、上手なんだろうか。







キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。

ガラガラガラ。








チャイムが鳴って、教室のドアが開いた。
先生が入って来る。

ガタガタ音を鳴らしながら、皆自分の席に散らばった。



はい皆、おはようございます。
夏休みはどうでしたか?
宿題、ちゃんとやって来た?



黒板の前に立って、先生がにっこり笑顔を浮かべる。
夏休みの間、龍麻は一度も学校に行かなかったから、この笑顔を見たのは随分久しぶりだった。


後で先生に絵を見せよう。
皆が上手って言ってくれたから、きっと先生も上手って言ってくれる。
…でも、先生に見せていたのは忍者の絵ばっかりだったから、初めて描いた虫の絵は、ひょっとしたら下手なのかも。

少しドキドキしたけれど、やっぱり見せよう、と龍麻は決めた。
だって上手だねって言われたら、やっぱりぽかぽか温かくなって嬉しいから。
上手じゃないねって言われたら、どうしたら上手に描けるか聞いてみよう。






「それじゃあ、宿題を集めます」






先生のその言葉を合図にして、教室の廊下側の席、一番前に座っている子から順番に。
黒板の前に置いてある長い机に、端から国語、算数、理科、社会の宿題ノートを並べて行く。
次の子はその上に、同じように宿題ノートを置いて行った。

国語の宿題ノートの反対側の一番端は、自由研究。
龍麻も同じようにノートを出して、アサガオの観察日記を提出した。






「あら、緋勇君。今年は随分日焼けしたわね」






席に戻ろうとした龍麻に、先生がそう言った。






「僕、日焼けした?」
「そうね。なんだか、ちょっと見違えちゃった」
「変?」
「ううん。格好イイよ」






なでなで、頭を撫でられた。
柔らかくって、優しい手。



席に戻って、撫でられた頭に、なんとなく手を置いた。

ぐしゃぐしゃ頭を撫でてくれた人を思い出す。
頭が一緒にぐらぐら揺れるくらい、強い力で撫でられる事もあった。


その隣で、麦わら帽子の男の子は、いつも拗ねたような顔をしていたけれど。
手を繋いだら絶対離さないのを龍麻は知っていた。




宿題を忘れた子は一人もいなくて、先生が良く出来ましたと拍手する。
子供達も、友達が誰も怒られなくて済んで、良かった良かったと拍手した。

龍麻も一緒に拍手する。




先生が黒板にチョークで字を書いた。


“夏休みの思い出”。


皆で手を上げて発表しましょう、と先生が言った。
いつも元気な男の子が、一番最初に大きな声ではいと言って手を上げる。





山で大きなカブトムシを採りました。
川で大きなコイを釣ったよ。
おばあちゃんのお手伝いをして、大きなスイカが採れました。
畑で取れたキュウリがおいしかったです。
夏祭りの盆踊りが上手に踊れて嬉しかった。





あれも、これも。
あの話も、この話も。

皆楽しそうに先生に発表する。


嬉しかった事、楽しかったこと―――――龍麻も勿論ある。
あるけれど、なんて言っていいのか判らなくて、手を上げられなかった。





頭に被った麦わら帽子と、真っ青な空と白い雲。
虫取り網と虫かごと、右手に持った木の刀。
土だらけのシャツと短パンと、足元はいつも雪駄。


毎朝同じ時間に同じ場所に言って、麦わら帽子が来るのを待って。
一緒に地面に絵を描いたり、一緒に山に登って虫を採ったり、探検したり。
夕暮れ空にヒグラシが鳴いたら、本当はもっともっと遊びたいけど、バイバイの合図。

山の中で迷子になって不安になって、帰れなくって泣いたりもした。
祭囃子と提灯の中で、出店のゲームで勝負して、金魚は二人で分け合った。
縁側で一緒に食べたスイカはおいしくて、母のスイカジュースもおいしかった。




頭に浮かんでくる夏休みの思い出は、あれもこれも全部が楽しくて、どれから話そうか迷ってしまう。


……そうしている内に、チャイムが鳴ってしまった。







「遊ぼー!」
「ドッジボールしよう!」
「外行こう、外!」







先生が終わりの挨拶をする前に、男の子達は皆廊下に飛び出した。
いつもの事だったから、先生は怒らなかった。

女の子達と龍麻だけ、終わりの挨拶をすると、先生は教室を出て行った。






「ひーちゃんは行かない?」






髪の短い女の子が聞いて来た。
いつも男の子達に混じって遊んでいる子だ。
多分、今日も男の子達と一緒にドッジボールをするんだろう。




皆と一緒にドッジボール。
今まで一度もした事がない。





外を駆け回るのが嫌いだった訳じゃない。
だけれど、どうしてか、皆の中にいることが出来なくて、気付いた時には一人だった。
どうしたら皆と一緒に遊べるようになれるのかが判らなくて、判らないままずっと一人で過ごしていた。


晴れた日の学校の休憩時間も、一人だけ教室に残って自由帳に絵を描いていた。
休みの日に誰かの家に遊びに行ったりする事もなくて、家で毎日絵を描いていた。
毎年の夏休みは、山の麓の木陰で地面に絵を描いて。

その内それが当たり前になって、皆も誘って来なくなって、龍麻もそれが普通だった。
時々声をかけられても、迷った返事も最後は「行かない」。



どうしていいのか判らなかった。
どうすれば良いのか知らなくて。

どうしたら、どうなるのかも、判らなくて。






校庭の方から、もう皆の遊ぶ声が聞こえて来た。
なんとなくそっちを見たら、真っ青な空と白い雲が一緒にあって。










みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。










カレンダーは九月になったのに、蝉はまだ鳴いている。
八月の真ん中よりも小さな声ではあったけれど、山から声は止まなかった。






思い出す。

蝉の声と、水の音と。
時々大人の人が通る山の麓。



麦わら帽子の、夏の太陽みたいな笑顔。
ちょっと強引に、でも楽しそうに龍麻を引っ張った、手。

手と手を繋いで歩いた、夏の空の下。






探してみても、どんなに手を伸ばしても、もうあの手は此処にはない。
あんなに繋いでいた手だったのに、此処にはないから、もう繋げない。

…………まだ、今は。










少し強引に引っ張ってくれた手は、今はもう此処にはないから。



此処から先は、自分で歩いて行くしかない。

自分で見たいものを探さなきゃ。
自分で、見つけたいものを探せる足を持たなくちゃ。


遠い遠い所にいるあの子を、いつか迎えに行けるようにならなくちゃ。












女の子が覗き込んできた。



どうする?
やっぱり、行かない?



問いかけてくる瞳はそんな風に言っていて、このまま龍麻が黙っていたら、女の子は一人で校庭に行くんだろう。
夏休みの前は、ずっとそういう風だったから。

龍麻も、そういうものだと思っていたから。




グラウンドから聞こえてくる声は、皆めいめい楽しそうだ。
夏休みの前、龍麻はそれを見ないで、一人で教室で自由帳と睨めっこしていた。
楽しそうにしているのも、見ていなかった。

多分それも、悪いことじゃないだろうし、外で遊ぶのが苦手な子もいるだろう。
でも龍麻は、外で遊ぶことが嫌いな訳じゃなかった。







「後からでも、いい?」







ちょっとだけ。
ちょっとだけ時間が欲しくて、そう言った。

女の子は少しびっくりした顔をして、でも直ぐに笑った。
じゃあ後でねと言って、女の子は走って教室を出て行った。



笑ってくれた。
そう思ったら、少し胸の中がぽかぽかした。

それを一番最初に教えてくれたのは、やっぱり今でも大好きな、麦わら帽子の笑顔だった。





自由帳を取り出して、色鉛筆を取り出した。







ぱらぱら、ぱらり。

かりかり。








そうしている間もドキドキが止まらなくて、それは女の子に後から行くと言った時からそうだった。
そう言おうと決めた時から、何かが口から飛び出てしまいそうな位ドキドキしていた。

皆の所に行く事に、少しだけ緊張する。
いつも誘われて断ってばかりだったから、後から追いかけてでも、自分で行くのなんか初めてだ。
夏休みの前の自分だったら、きっと考えられないことだった。
皆と一緒にドッジボールをするなんて。



真っ白だった一ページを埋めていく。
頭の中に浮かんだものを、夢中になって描き綴った。








かりかり。
かりかり。



かりかり。
かりかり。









楽しかった夏休み。
言葉じゃ言い切れないものが沢山あった。

嬉しいことも、楽しいことも一杯あって、ほんの少し、寂しいことがあった。


其処には全部、大好きな笑顔があって。








かりかり。
かりかり。



かりかり…
かり…









「できた」










真っ白だった自由帳は、色んな色に埋められた。



空の青、雲の白。
蝉、チョウチョ、トンボ、カマキリ。
山の緑と、川の青。

花火と金魚とスイカ。
遠くの山と山の間に、つり橋が一本。


それから。




………それから。










――――――校庭から、クラスメイトの呼ぶ声がした。
席を離れて窓辺から校庭を見てみると、皆がこっちを見て龍麻を待っていた。








「今行くー!」








皆の前で大きな声を出したのは、ひょっとしたらこれが初めてかも知れない。

くるりと方向転換して、急いで教室を出て行った。

















誰もいなくなった教室で、開いたままのノートの中。


麦わら帽子の元気な笑顔が咲いていた。




















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京一と会って、さよならして、ちょっとだけ成長した龍麻。

この話の龍麻は、その気になれば結構前向きで積極的なのかも。
それまでに時間がかかるみたいですが。