[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ふとすれば、聞き逃してしまいそうな位の小さな声で、囁かれた言葉。
嘘だろうと思って顔を上げれば、見下ろす冷たい瞳とぶつかった。
「八、」
名前を呼びかけて、出来なかった。
強く押された肩が床にぶつかって、背中も痛んで、一瞬息が止まった。
それでも見開かれた瞳には、見下ろす冷たい眼差しが映り込んでいる。
ゆっくりと近付いてくる顔から目を逸らす。
見下ろす瞳に宿った冷気が自分に向けられている事を、認めたくなくて。
だってこの男はいつだって――――自分に対して、馬鹿みたいに甘かったから。
「逃げないのか?」
低いトーンと、飄々とした風ではない口調。
そんな声で言葉を紡がれたのは、初めて出逢ったあの時以来ではないだろうか。
いや、あの時よりも今の方がずっと冷たいような気がする。
此方を揶揄うように刃を避けて、京一を挑発するような笑みを浮かべていた時は、こんなにも冷たいと思わなかった。
それとも、この男の温もりを知ってしまった今だから、余計にそう感じるのだろうか。
顔を背けた横顔に口付けが降る。
いつもなら頭を撫でてきたり、頬に手を添えたりするのに、今はない。
それが、今が常と全く違う状況である事を雄弁に語る。
そうでなくとも、この男が京一に対してこんな態度を取ること事態が異常事態とも言えた。
肩を押さえつける手も、もがいても逃げることを赦さない力も、突き刺すように見下ろす瞳も。
何もかもが常と違い過ぎていて、京一はパニックになっている自分を自覚していた。
「震えているようだけど」
「……ッ……」
「怖い……か。だが初めてじゃないだろう?」
ねっとりと男の舌が首筋をなぞる。
京一は身を震わせて、歯を食いしばった。
確かに、初めてじゃない。
だって全部この男に教えられたから。
でも、こんな風に扱われたのは初めてだ。
男に組み敷かれたのは、何もこの男が最初の経験ではなかった。
リンチに遭った事もあったし、本当にそういう意味で京一を征服しようとしている輩もいた。
けれどそれ以上を赦した事はなかった―――――この男以外には。
その目の前の男も、いつもはもっと柔らかい印象で触れて来て、こんなに乱暴にはしない。
征服しようと無理強いを押し通そうとした連中とは、違う生き物だと、思っていたのに。
「……そんなに信じられないか? 泣くほどに?」
「………ッ!」
言われて、京一は初めて、自分が涙を浮かべている事に気付いた。
見開いた眦に滲んだ雫と、音を出す事を拒んで真一文字に噤んだ唇。
泣き出す一歩手前、と言う表現が当て嵌まる。
顔を隠そうと腕を浮かせた途端、肩を抑えていた腕が其方に移動した。
強い力で床に縫い付けられて、京一は涙の滲んだ瞳で、見下ろす男を睨み付ける――――けれど、其処にいつもの強気な光や覇気はない。
震えが止まらない。
躯の温度が急激に下がって行く気がする。
喉の奥がカラカラになって、胃の中が気持ち悪い。
………“あの頃”と同じ衝動が、身の内で再び芽吹き始めている。
(いやだ)
(こわい)
(いやだ)
(いやだ……!)
温もりを知ったから。
熱を知ったから。
冷たささえも感じられない恐怖を知っているから。
あの頃に戻りたくなくて、心が悲鳴を上げている。
けれどカラカラに乾いた喉は音を発することはなく、代わりに目の奥が熱くて仕方がない。
見下ろす冷たい瞳の中に、目を見開いて涙を零す自分がいて。
――――――見下ろして来る冷たい瞳に、少しずつ、柔らかな光が戻って来た。
「………嘘だよ、京ちゃん」
抱き起こされて、腕の中に囲われる。
くしゃりと頭を撫でられて、あやすようにぽんぽんと背中を叩かれた。
「ほんの冗談だったんだけどねェ。そんなに役者かな? 俺は」
「………やつるぎ、……」
「ちょっとおふざけが過ぎたかな」
震える声で名を呼ぶ少年に、男はいつもの優しい手付きで触れて来る。
それが酷く温かく感じてしまって、また涙が溢れて来た。
常の強気な姿など忘れたかのように、京一は子供のように泣いた。
三年前、埋もれた太刀袋を探し出した時のように。
いつものと変わらぬ笑みを浮かべて頭を撫でる男の胸に顔を埋めて、声をあげて泣いた。
まさか其処まで泣かれるとは思っていなかった八剣は、驚きつつも、拒否することはしなかった。
ただもう二度と、冗談でも同じ言葉を言うべきではないだろうと、自分自身に戒めて。
嘘でも二度と聞きたくない。
嘘でも二度と言わない。
だってそれは、互いを傷つける言葉にしかならない。
====================================
最近、極端にドライか、極端に依存度の強い京ちゃんがマイブームです。
八剣が何を言ったかは、ご想像にお任せします。
ただ京一泣かしたら駄目だぞ、八剣ッ! 龍麻と違ってお前は嫌われる可能性大なんだ…!!(書いたのあんただ)
「別れるか」
―――――そう、唐突に告げたのは、京一だった。
ラーメンを食べている時の世間話のように、何かを思い出した時のように、どうでも良い話のように。
平日の昼休憩、いつもの屋上で。
龍麻は飲んでいた苺牛乳を吸うのを止めて、京一を見た。
視線を向けられた当人は、フェンスに背中を預けて手には昼食の焼き蕎麦パン。
いつもと何ら変わりない昼の光景が其処にはあって、それ以前の授業風景も常と同じだった。
更に遡るなら、今日の登校中も、昨日の夜別れる時も、いつもと同じだった。
……だと言うのに、先の発言。
「なんで?」
きょとりと瞬き一つして問えば、京一はんーと唸るでもない声を漏らして空を仰ぐ。
「なんとなく、だな」
なんとも腑に落ちない答えであったが、龍麻は言及しなかった。
そっか、とだけ呟いて、また苺牛乳を飲む。
「なんつーか、よく考えたら……ひさんせい的だしよ」
「非生産的」
「…わーってるよ」
「無理して難しい言葉使わない方がいいよ」
龍麻の言葉に、京一は無言で拳を振り下ろした。
ごちっと威勢の良い音がして、龍麻は頭を抱えて蹲る。
京一はそんな親友の姿など気にせずに、傍らに置いていたコーヒー牛乳に口をつけた。
「あと、告られたんだよ」
「誰が」
「オレが」
「誰に」
「女子の剣道部の一年」
「ふぅん」
「けっこー可愛かったぜ。発育も良さそうだったな」
「ふぅん」
龍麻は終止同じトーンで相槌を打つ。
京一も、常の世間話の調子で話していた。
焼き蕎麦パンを食べ終わって、コーヒー牛乳も一気に煽って。
京一は、ゴミになったパックを空になっていたコンビニのビニール袋に突っ込んだ。
丁度龍麻の苺牛乳も空になったので、ついでに入れさせてもらう。
ゴミ入れになった袋を足元に放置すると、京一は立ち上がって背筋を伸ばす。
先程まで背中を預けていたフェンスに正面から寄り掛かり、人のいないグラウンドを眺める。
「やっぱ可愛い女の子は良いぜ。先輩、お話があるんですけど~っつってよ」
「うん」
「顔真っ赤にしてよ。呼び止められたのが部活の後だったんだけどな。他の部員もいるから、後で体育館の裏に来て下さいってよ」
「うん」
「ま、後は大方の想像通りって奴だな」
「ふぅん」
龍麻の相槌は気のないものだったが、京一はそれを気にする様子はない。
いや、相槌どころか。
龍麻の態度は聞いているか聞いていないのか判らない風にも見える。
また京一の方も、聞かせようと思って喋っているつもりはなく、互いにそれは判っていた。
放課後の部活が終わった後だ。
空は夕暮れ色に染められて、青春漫画のワンシーンのようにも思えた。
おまけで体育館裏に可愛い後輩から呼び出しなんだから、尚更。
大和撫子と言った形容が実によく似合うその後輩は、京一に憧れて剣道部に入部したと言う。
しかしこの一年間の内に京一と話をした事は殆どなく(何せ女子と男子は別々で部活動をしている)、いつも男子部員の部活風景を遠巻きに見ているだけだった。
おまけに京一は万年幽霊部員の部長と言う特異な立場で、滅多に顔を出す事がない。
そんなものだから、時々京一が顔を出して後輩に指導していても、近付く事さえ出来なかった。
それが、三年生が引退になる時期が迫ったからだろう。
部活でしか逢う事がなかった京一が引退すれば、益々逢える機会は減るし、片思いのままで終わってしまう。
その前に勇気を振り絞って、気持ちだけでも伝えようと思ったのだと言う。
そして彼女は、想いを告げた。
「中学生の頃から好きでした、ってな」
ふぅん。
京一の言葉に、龍麻は相変わらずの相槌だ。
それで京一の話は一通り終わった。
フェンスに寄り掛かって黙した京一に対し、龍麻は数秒無言を通した後、
「良かったね」
「あ?」
「可愛い彼女が出来て」
京一が視線を落とすと、笑みを梳いて見上げてくる龍麻の顔がある。
京一は判り易く顔を顰めた。
「誰が付き合ってるっつったよ」
「だって別れるって言うから、そういう事になったんだと思って」
龍麻のその連想は、ごく自然なものだった。
龍麻と京一は一応、恋人同士だ。
それを解消しようと言う話になると言う事は、今の話を踏まえて、その後輩の女の子と付き合うことになったから―――と言う事だろうと、誰もが思う所だろう。
しかし京一の眉間の皺は消えず、あまつさえ「つまんねェな」と言う呟きが零れる始末。
「もう少し面白ェ反応するかと思ったのによ」
期待外れと溜息を吐く京一に、龍麻はごめんねと謝る。
が、謝罪の言葉に殆ど中身が伴っていないのは明らかだ。
いつもの事なので気にしない。
龍麻も龍麻で、面白半分にこの話題を出されたのではと怒る事もしなかった。
午後の授業はまだなのかな、と気にしたのはその程度のことだ。
「どういう反応したら良かった?」
「浮気したとか、そういうリアクション」
「僕がするの?」
「ねェな」
ついでに。
仮に逆の立場だったとしてもしないだろうなと、お互いに思う。
「それでさ、京一」
「あ?」
「告白されたのは本当なんでしょ?」
「ああ」
「別れるのも本気なの?」
問いた龍麻の表情は、いつもと同じ顔。
其処には不安もなければ、期待もない。
そんな親友に、京一はやっぱりつまんねェなと内心で零して、
「お前はどっちがいいんだ?」
====================================
4月1日って事で。完全に忘れかけてましたが……
この二人の言葉遊びに振り回されてるのは私です(爆)。
……………
…………
……にお、い。
いい、におい。
それで、目が覚めた。
ぼんやりと、水の中から浮かび上がるように、目が覚めて。
瞼を開けた瞬間に差し込んだ眩しさに、少しだけ目が痛くなって目を擦る。
くしゃりと頭を撫でられる。
それが心地良くて、ふわふわの尻尾に顔を埋めて、その手にそのまま撫でられていた。
―――――のだけれど。
(いい、におい)
(いい、におい……けど)
(ちがう……?)
尻尾のふわふわが、少し。
頭を撫でるリズムが、ちょっと。
ふわふわからの匂いが、明らかに。
違う。
それに気付いて、慌ててがばっと顔を上げた。
ずると。
「ああ、目が覚めたか」
目の前にあったのは、見慣れた母でも姉でもなくて、見知らぬオスの大人の狐。
父よりもまだ若いだろう、見たことのない、狐。
ぽかんと、子狐はしばらくの間、目の前の狐を見て―――――ハッと我に帰ると、一足飛びで飛び退いた。
「あ」
「いッ………!!」
飛び退いて着地した途端、右足から激痛。
どてっと尻餅をついて、子狐はその場で足を抱えて蹲った。
直ぐに狐が駆け寄ってくる。
「動いたら駄目だよ」
そう言って、狐は子狐に手を伸ばした。
瞬間、子狐の肩がびくっと跳ね、狐を見上げる瞳がゆらゆら不安に揺れた。
狐は、そんな子狐の様子に気付き、伸ばしていた手を中途半端な距離で止めた。
止まっても子狐の体は小さく震え、瞳の端からはじわりと透明な雫が浮かんでいる。
それは痛みの所為だけではないだろう。
狐はしばらく逡巡したが、子狐をこのまま床上に転げさせておく訳にも行かず、もう一度手を伸ばす。
やはり竦んだように身を縮めた子狐を、狐は今度こそ、抱き上げた。
「薬草で消毒と止血はしたけど、まだ塞がってはいないんだ」
「………ッ……」
「少し腫れてもいたし。しばらくは動かず、じっとしている方が良い。体にも障るから」
ふるふると小さく震え、怯えたように見上げる子狐に、狐はそう言って殊更優しく微笑んだ。
子狐を寝床に戻すと、狐はその傍らに腰を下ろした。
萎縮して固まっている子狐の前に、自分の尻尾を差し出す。
子狐はきょとんとして、狐の顔と尻尾を交互に見比べた。
「寝ている間、放してくれなかったからね」
「……ぁ………」
「いいよ。俺も温かかったし。好きなんだねェ、尻尾」
狐の言葉に子狐の顔が赤くなる。
背伸びをしたがる性質の子狐にとって、狐の言葉は完全に子供扱いであった。
これが、相手が姉なら言い返せるのに、今はまともに声が出ず、目の前の狐がまだ少し怖かった。
食われたりする事はないだろうけれど、子狐は、家族以外の狐を見たのはこれが初めてで、戸惑っていたのだ。
子狐の前で、尻尾の先がゆらゆら揺れる。
狐は笑顔のまま、子狐をじっと見詰めていた。
……子狐は、触っていいよと、言われているような気がした。
恐る恐る、子狐は手を伸ばした。
ふわふわに指先が触れる。
すると、ふわふわの方が先に子狐の頬に擦り寄った。
「歩けるようになるまで、此処にいていいよ」
「…………」
「俺は八剣右近。好きに呼んでくれて構わない。君はなんて言うんだい?」
あやすように尻尾の先で頬をくすぐりながら、狐――――八剣は子狐に問うた。
子狐は、八剣の尻尾を抱き枕のようにぎゅうと抱き込んで、しばらく黙って八剣を見た。
その瞳には少しの怖さと、少しの不安と、少しの安心感が宿っていて。
「…………きょう、いち」
擦れた声で告げられた名。
じゃあ京ちゃんだ。
そう言ったら、京一は剥れた顔で八剣の尻尾をぎゅうと強く抱き締めた。
====================================
よし、ちょっと満足した!
月の綺麗な夜に散歩に出るのは、ちょっとした粋だ。
けれども月のない夜に散歩に出たのは、どんな気紛れだったのだか。
ひょっとしたら、召喚(よ)ばれたのかも知れない。
月のない夜、一人ぼっちで泣いている、小さな小さな子供の声に。
鬱蒼とした夜道―――人間にすれば獣道―――を、宛てがある訳でもなくブラブラ歩く。
なのにどうしてだろうか、ふらりふらりと彷徨っている訳でもなく、進む道は不思議と淘汰されて選ばれる。
縦横無尽に交差した道でさえ、八剣は迷わず一本の道を選んで進んで行った。
不可思議な現象が我が身に起きていると思ってはいたが、かと言って何某か害がある訳でもない。
人里へ向かおうとしている訳でなし、ならば何処に辿り着くのか見てみようと、軽く物見遊山感覚になっていた。
――――しかし、ふと鼻腔をくすぐった匂いに気付いた時には、流石に眉根を寄せた。
(……ヒトにやられた奴でもいるのかな?)
明らかな血の匂い。
それと同じく、此方は微かにだけれど、人間の匂い。
この真神のお山は、随分と長い間平和だった。
人が近くに住み始めたのはかなり前の話になるが、お互いに踏み込まずに生活することで、均衡は成り立っていた。
食事に貧窮する冬は、少々畑に入って作物を失敬する者もいるが、それだってちょっとした量だ。
まぁ、ちょっとした量でも追い回される事はあるのだが、それでも真神のお山は平和だったと言って良い。
しかし此処数年から、山の木々が切り開かれるようになり、人間の生活範囲が動物達を追い込み始めた。
それは麓に住んでいる、何百年も生活を営んできた村々の者ではなく、遠い都から来たと言う厳つい人間達の仕業。
何処ぞの誰に何を献上するのだと言って、村の人々が反対するのを押し切り、山を切り崩すようになった。
住処を追われた動物達の中には、自分達の縄張りを取り戻さんとする者もいた。
けれども、それらの殆どは捕らわれ、皮を剥がされ、肉を食われ――――いや、それだけだったらまだ良かったか。
人間達は動物達を邪魔者と見なすや否や、山のあちこちを我が物顔で練り歩き、動物達を殺して周るようになった。
一時期よりは随分落ち着いてきたが、まだ人間達の中には、動物達を邪魔者扱いする者がいる。
そういう輩は、猟銃を持って山を練り歩いたり、酷い罠を仕掛けて行ったりする。
血の匂いと、微かな人間の匂い。
誰かが銃で撃たれて此処まで逃げたか、罠にかかって動けないのか。
どちらか知らないが、なんとなく気になって、八剣は匂いのする方向へと歩いて行った。
(全く不思議な夜だ)
まるで何かに導かれるように、考えるよりも早く足が動く。
これは一体どうした事か。
月夜の晩ならまだ判る、あれは妖しくも美しい輝きだ。
けれども今日は全くの新月、森の中は鬱蒼として昏いばかり。
血の匂いがしたからと言ってわざわざ助けに行こうと思うほど、生憎、八剣は人(?)の良い性格をしていない。
全く見向きがしないとは言わないけれど、そういう理由で動くには、足も腰も重い方だ。
だが足は迷わないし、そんな自分を可笑しいとは思わなかった。
がさりがさりと、幾つか茂みを掻き分けて通り抜け。
少しずつはっきりとしてくる血と人間の匂い。
血の匂いは乾きつつあるものの、相当な出血だったのか、まだ薄れる様子はなさそうだ。
――――それだけ強い匂いがするのに、辺りには狼や梟、山猫の気配がない。
やがて、もう暫く茂みを掻き分けたその先で。
八剣は、小さく蹲る、幼い子狐を見つけた。
「……酷いな」
子狐に歩み寄りながら、八剣の視線は子狐の右足へと釘付けられていた。
其処には人間の仕掛けた鉄の罠が食い込み、まだ細い足から今も血が溢れ出している。
傍らに跪いて覗き込んでみると、見覚えのない顔をしている。
この辺りに住んでいる狐の子ではないだろう、恐らく。
匂いも―――血と鉄と人間の匂いが混ざっているけれど―――此処らの匂いとは少し違う。
目尻は泣いた跡だろう、少し腫れている。
口の端が切れて血が出て、これはもう乾いていた。
子狐の目は閉じられて、それは眠っているというよりも、気を失っていると言うのが正しいのだろう。
だらりと全身の力を失って、子狐は浅い呼吸を繰り返していた。
「…………」
どうしたものか――――八剣は少しの間考えた。
少しの間。
罠を外してやって起こした所で、この足では子狐は帰れないだろう。
足を引き摺って帰れば、道中で間違いなく捕食者に見付かって、一度助かった命を無残に散らせる結果になるだろう。
だが、同じ種に生まれた事と、子狐がまだ幼い事を思うと、放って置くのは夢見が悪い。
八剣は、子狐の足を噛んでいる鉄を掴んで少し力を入れると、意外にあっさりと外れた。
暗がりなのでよく判らないが、螺子かバネが緩んでいたのかも知れない。
鉄に混じって、血の臭い以外で錆の匂いが強い事から考えても、もう忘れられた罠だったのかも。
そうでなければ、幾ら八剣が大人でも、こう簡単には外れない筈だが――――
何にしても。
外れた事は良かったが、罠を作ったまま放置しているのは気に入らない。
子狐の足は酷い有様だ。
時間が経っていないのか、腐ったりしている様子はないが、それでも痛かっただろう。
血は乾き始めているものの、暴れたのだろう、皮膚が引き攣って裂けている。
子狐の体を抱え上げ、八剣は傷付いた足を舐めてやった。
子狐はぴくりとも動かず、ぐったりと八剣に身を預けたまま、浅い呼吸を続けている。
しばらく傷を舐めてやり、暗がりでも見える程度に、傷口の周囲を消毒して。
小さな体を抱いて立ち上がった時、ぷらりと揺れた手が見えた。
………ボロボロの傷付いた、両手が。
「……頑張ったね」
八剣に外せた壊れた罠は、重みの所為か、子供にはまだ固かったようだ。
どうにか外そうと頑張って、結果、足の傷は余計に酷くなっていたけれど、子狐は十分頑張った。
帰ったら先ず、この傷をきちんと手当てしよう。
それから、冷たくなった小さな体を、柔らかな温もりで包み込もう。
そして――――目覚めた時に、怖いものはなくなったよと、頭を撫でて教えてあげよう。
====================================
保護者八剣が怒涛のマイブーム。
ちなみに八剣も狐ですよ。
悲鳴も上がらなかった。
それぐらいの痛み。
ぎちぎちと足に何かが食い込んでいる。
痛い。
痛い!
痛い痛い痛い!!
助けて!
誰か助けて!!
叫びたくても叫べない。
喉が灼けて酷い引き付けを起こしたみたいに、音が其処から出てくれない。
幸いだったのかも知れない、狼や熊や梟が跳んで来なかったから。
でも代わりに誰も気付いてくれないし、何よりさっきの大きな音で近くの気配は皆一気に散らばった。
もう誰も助けてくれない。
暗闇に慣れた目で足を見れば、ギザギザの鉄が足を噛んでいる。
森の中に似合わない色と匂いのそれは、明らかに人間の仕掛けたワナと言う代物だった。
こういうものには気をつけろと、父にいつだった教えて貰ったのを覚えていた。
挟み込むような形になっているそれを外そうと、子狐は足を振った。
ぎっちり食い込んだそれが傷を引っ張って広げて、余計に痛くなる。
押し広げようと手で引っ張ってみる。
子狐の力で外せるような代物ではなく、それはがっちりと子狐の足に食いついて離れなかった。
噛まれた場所が酷く痛くて、どくどくと血が出て来て、それがまた子狐の手を滑らせる。
血の匂いを長い時間振りまくのは良くない。
さっきの大きな音で辺りの気配は散らばったけど、血の匂いなんかいつまでもさせていたら、折角何処かに行ってくれた怖いものが戻ってくる。
こんなものに噛まれていたら、見付かったらもう逃げられない。
守ってくれる人なんか此処にはいないのに。
(外れろ、外れろ!)
挟んでいる鉄と繋がっている鎖を引っ張ってみる、びくともしない。
びくともしなかったから噛んでみる、口の中が痛くなった。
(取れろ! 外れろ! 畜生!)
小さな手が、がつがつと鉄のギザギザを殴った。
まだ柔らかな皮膚は鉄のギザギザに負けてしまって、子狐の手の方がボロボロになって行く。
一番最初の怖かった瞬間から、ずっとずっと我慢していた涙。
泣いたって何も変わらない。
変わらないし、自分はオスだから、泣いてなんていられない。
父がいない間は、自分が母と姉を守らなきゃいけなかったから、ちょっと怖いくらいで泣いてなんていられない。
ずっとずっと、そう思っていて――――事実、父からも母からも、姉からさえも、守られていたのは自分だったけど。
それでも、簡単に泣いちゃいけない事だけは、判っていたつもりだった。
なのに―――――許したつもりはないのに、勝手に目から零れて落ちた。
(外れろ! 帰ンだ! 帰ンだから、外れろッ!)
こんなの引き摺って帰れない、姉ちゃんが泣く。
こんなのでいつまでも此処にいられない、母ちゃんが怒る。
父ちゃんは――――――………
(外れろ、外れろッ! 痛い! 外れろ! 痛い…! 畜生ッ……!!)
過ぎる現実を頭の中から必死になって追い払って、鉄をがつがつ殴る。
右手が先に駄目になって、次に左手が駄目になって、鎖を噛んだ口の中が鉄錆と痛みで血だらけになった。
目から大きな雫がぼろぼろ落ちて、情けなくて悔しくて、怖くて痛くて苦しい。
ギザギザに噛まれた足。
痛みがなくなってきたのは何故だろう、手で触っても足は触った感覚がない。
比例したように、もう足はぴくりとも動いてくれない。
血が止まらなくて、自分の匂いでも、酷い匂いがしている気がした。
暗くてよく見えないけれど、多分、あっちこっちに血が跳んでる。
腹が減った。
あれだけ走ったのに、何も食っていない。
もうネズミだって此処には来ない。
ふと思い出す。
怪我をした時、母が怪我を舐めてくれた事。
体を丸めて、少し苦しい姿勢になったけれど、気にしないでギザギザに噛まれた所を舐めてみる。
凄く不味くて、顔を顰めて、ちっとも痛みがなくならないのがどうしてだろうと思った。
母が舐めてくれた時は、それだけで痛いのがなくなったような気がしたのに。
(痛い。冷たい。寒い。いやだ。帰りたい)
帰らなきゃいけないと思っていた。
母と姉の待つ家に。
だって自分はオスだから、自分が守らなきゃいけないから。
でも今は、帰らなきゃいけないんじゃなくて、帰りたい。
一人ぼっちの暗い森の中から抜け出して、温かい母の尻尾に顔を埋めて眠りたい。
帰りたい。
帰りたい。
痛い。
帰りたい。
痛い。
帰りたい。
帰りたい。
痛い。
帰りたい………
………子狐がその場に蹲り、動かなくなるまで、それ程時間はかからなかった。
====================================
終わりじゃない! 終わりじゃないよ!! まだ続くよ!!