例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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まがみのお山にすむきつね 弐





走って走って。
歩いて歩いて。

進み続けてようやく立ち止まった時には、森の中はすっかり夜闇で暗く溶けて。
月明かりが差さないほどに深い森の只中で、子狐はそうっと後ろを振り返る。
怖いものはもう追い駆けて来ていなくて、ほっとしてぺたりとその場に尻餅をつく。


はぁはぁと小さな口から苦しげな呼吸が繰り返され、額からは玉の様な汗が溢れ出して止まらない。
拭ってくれる人がいなかったから、子狐は自分の腕でそれを強引に拭い取った。




それからぼんやり頭上を仰いで――――見慣れない景色に、辺りをくるりくるりと見回して。






「………やべェ」






子狐は、今まで一人で遠くに行った事がない。
父も母も許さなかったし、行こうとしたら姉に尻尾を捕まえられて止められた。
一番小さな子狐を、親も姉も一人で歩き回らせることはしなかった。

それが今、生まれて初めて、見知らぬ場所に一人でぽつんと存在している。



立ち上がってもう一度辺りを見回した。
やっぱり見覚えのない風景しかない。

無我夢中で周りを見ないで走り続けていた。
怖いものが家に来たらいけないと思ったから、家とは反対方向に向かって真っ直ぐに。
……だから多分、此処は家ととても離れた場所で。






(……どうしよう)






来た道を戻れば良い。
でも、来た道って何処?

子狐は何も判らなかった。


―――――一歩踏み出す。
じっとしていたって、どうせ何も変わらない。
迎えに来てくれる人は、きっといない。

姉が昨日から体調を壊したから、母は姉から離れられない。
だから食べ物を探す父に、自分は付いていったのだ。
その父は、もう。



……じわり、視界がぐにゃぐにゃ歪む。






(ダメだ)






泣いたらダメだ。
泣いたってダメだ。


歩かなきゃ。
歩くんだ。

どっちに向かえば良いのかは判らなかったけれど、とにかく、真っ直ぐ。
方向がどんなに曖昧でも、立ち止まって何もしないよりは良い、だって迎えに来てくれる人はいないから。
だったら、見た事のある景色が見える場所まで、自分で歩いて行くしかない。




ほう、ほう、ほう。
ちちちちち。

きしきしきし。
りりりりり。
がさがさ、がさ。




あちらこちらで鳴る音が、怖くて怖くて仕方がない。
森の中で暮らしているから、夜の森だって当たり前に見てきた筈なのに、今だけ無性に怖くて仕方がない。

鳥が爪や嘴を剥き出しにして降りてきたらどうしよう、自分じゃまだ太刀打ちできない。
草葉の陰から大きな狼が出てきたりしたらどうしよう、そうだ、その狼にさっき自分は追われていたんだ。
じゃあこのまま戻ったりしたら、待ち伏せしている狼達に出くわすかも知れない。
でもこっちに進む以外に、向かう方向もなくて。


守ってくれる人がいないから、いつも守ってくれた人がもういない。
それがこんなにも心細い。

それだけ、父はいつも家族を体を張って守ってくれていたんだと、今になって知る。
庇護の存在が消えたと言う、何者にも変え難い喪失感と引き換えに。




がさり、茂みを押し分けて歩いた。
その時、もっと向こうの茂みの奥で、何かがぎらりと目を光らせた。






(……なんかいる)






狼? 熊? 梟?

なんだっていい。
どれでも怖い、だってそれらは大人を襲うことはないけれど、子供は襲って来るものだから。



そっと音を立てないように、横に横に足を動かせる。
闇の向こうで光る目は、子狐を追っては来なかった。

気付いているのか、いないのか。
どっちにしても、このまま見逃してくれるなら、子狐にとっては有難い。
悔しいけれど、子狐じゃ何が来ても勝てないから。


ずり、ずり、ゆっくり、横に、横に。
草葉に隠れる事が出来たら、しばらくは動かないでじっとしていよう。
朝になるかも知れないけれど、それならそれで、夜に歩き回るよりはもう少し怖いものも減る筈だ。





そっとしゃがんで、そっと足を動かして、体を運んで―――――よかった隠れられた、そう思った瞬間。








――――――バキン!!!








酷い衝撃と痛みが、子狐の右足に食いついた。








====================================

いたたたたたた(泣)!!
いや、痛いの京ちゃんだ!!

京ちゃんに怖い思いと痛い思いばっかさせて御免なさいぃぃ!

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まがみのお山にすむきつね 壱





怖いものなんてない。
ずっとそう思っていた。

失うものなんてない。
ずっとそう思っていた。


……離れる事なんて、ない。
ずっとずっと、そう信じていた。






なのに。






一人で、鬱蒼とした森を走る。
逃げろと父が言ったから。

足がもつれそうになる位、必死になって走った。
前だけを見て、死に物狂いで走り続けた。
父が振り返るなと、立ち止まるなと言ったから。


―――――その意味が判らない位、どうして自分は子供じゃないんだろう。



泣きそうになって、視界がじわりと歪んで、歯を食いしばってそれを拭う。
走る速度が落ちるような真似はしちゃ行けない、そんな事をしたらたちまち追い付かれてしまうから。

背後に迫る、凶暴な爪と牙に。





息が上がる。
膝が震える。

酸素が足りない。


何処まで走れば良いのか、判らない。





強い強い匂いと気配が追い駆けて来るのが、無性に怖かった。
こんなものがこの世に存在している事なんて、ちっとも知らなかった。
どうして知らなかったのかなんて―――――簡単な問いだ、だって父がいつも守ってくれたから。

怖いものからいつも守ってくれたから、自分は怖いものを知らないで生きていられた。
何があっても、どんな奴が現れても、父が前に立って、その怖いものを追い払ってくれたから。


その父がどうなったのか。
考えたくないのに、判ってしまって、涙が出て来る。






逃げて。
逃げて。

走って。
走って。


何処まで走れば良いのだろう。
何処へ走れば良いのだろう。

怖いものは、まだずっと追い駆けて来ている。




家族の所へは戻れない。
怖いものに皆捕まる。
自分の所為で、皆が。

だから家とは反対へと走った。
走って走って、でも、だったら何処へ向かえば良いのか判らない。
だってこっちに、自分が戻る場所はない。






……逃げるしかない自分が酷く惨めだった。
父はあんなに強くて、一度だって逃げたりしなかったのに。


立ち止まって振り返って、迎え撃ったって、勝てっこない。
死んだら駄目だと父が言ったから、そんな莫迦な真似も出来ない。
生きる為に、今は走り続けるしか、ない。



この小さな爪が。
この小さな牙が。
この小さな体が。

父のように、その半分だっていい、大きかったら戦えるのに。
逃げろと言った父の声を振り切ってでも、一緒に戦えるのに。


一番小さいから、いつも守ってもらうしかなくて。
それがいつも歯痒かったけれど、こんなに苦しいと思うことはなかった筈だ。
だって大きくなったら、きっと一緒に戦えると信じていたから。







なのに。
なのに。

なのに!


判ってしまった、そんな願いはもう叶わないんだと。
追い駆けてくる匂いが怖いものだけって、その理由を判ってしまった。
判りたくないのに!









息が続かない。
もう走れない。

でも立ち止まったら追いつかれる。



暗く、深く、鬱蒼とした森の中。
小さな小さな子狐は、ただ前だけを見て、進み続けた。












====================================

以前、ネタ粒にてちょちょいと落書きした子狐京一のお話です。

なんかいきなりシリアスから始まってしまった……
父ちゃんと京一の絆が好きなので、どうしても切り離して考えられないのですが、だからってなんでいつも父ちゃん絡むと京一を可哀想にしてしまうんだろう(滝汗)。
父ちゃんが出演してシリアスになっていないのは、「summer memory]位のような気がする…

猫京 01





ひっく。
ひく。




聞こえてくるしゃっくりの音は、子猫から。
先に言って置こう、決して泣いている訳ではない。

…………酔っ払っているのだ、飼い主の八剣にとっては不本意ながら。






「……誰に貰ったんだい? 京ちゃん……」
「………うぃ?」






ひっく。
首を傾げながら、またしゃっくり。



部屋の中に酒の匂いはない。
日本酒などは冷蔵庫の中に数本入っているが、八剣がたまに飲むだけだ。
子猫の京一には味も匂いも刺激が強いのか、少し匂いがするだけで顔を顰める。

故に酔っ払っているとは言え、決して京一が酒を飲んだと言う事には繋がらない。
繋がらないのだが、猫が酔っ払うと言う現象は、酒以外でも起こるのだ。


そう、マタタビという植物によって。






「にぁ~」
「おっと」





珍しく抱きついてきた京一は、確かに酔っ払っていた。
赤い顔で気持ちの良さそうな表情をして、八剣の膝に擦り寄っている。


見た目こそ尻尾と耳があるだけで、人間の子供と変わらない京一。
八剣が拾った頃から人語を解す事は出来たし、本当に、耳と尻尾がある以外は普通の人間と同じだ。

しかしこういう時には、やっぱりこの子は猫なんだなと改めて認識する。






「マタタビなんて持って帰って来た覚えはないんだけどね」
「うー……にゃ」
「京ちゃん、誰かから何か貰った?」






首の後ろをくすぐりながら訊ねると、京一の尻尾がゆらゆら揺れる。
ある方向を示すように揺れるそれになぞって首を巡らせると、八剣がいつも使っている座布団に何かが散らばっていた。

京一を腕に抱いて近付いて確認すると、封の破られたビニール袋と、其処から零れた中身。
袋には『キャットニップ』と記されていた。


キャットニップは、マタタビと似た成分を持つ植物だ。
マタタビが成熟した大人の猫に効能を示すのに対し、キャットニップは子猫がよく好む。
猫に与える場合、普通はぬいぐるみの中身などに仕込んで、玩具として使う筈なのだが――――直接吸引してしまった事もあるのだろうが、やはり京一は普通の猫とはまた違うのか、マタタビ効果まで出てしまったらしい。




八剣は日本茶の茶葉なら買うが、ハーブはあまり興味がない。
それが此処にあると言う事は――――――






「そう言えば、紅葉が最近、手芸の布を染めるのにハーブを使っていたかな」
「んにゃ」






小さく鳴いて、京一がこくんと頷いた。
正解らしい。


袋に入っているのは乾燥ハーブで、壬生としては紅茶用のつもりだったのだろう。
先刻八剣が不在だった間に渡しに来て、代わりに京一が受け取った。
受け取った後、初めて見るものに興味を引かれた京一は、少しだけ封に穴を開けて匂いを嗅いでみた。

結果、夢中になって袋を破って中身を散らばらせた上、匂いに当てられて酔っ払い状態になってしまった。



ごろごろと喉を鳴らす京一に、八剣は苦笑するしかない。
散らばったキャットニップの片付けだとか、座布団がその匂いになっているとか、今はどうでも良い。
珍しく甘えてくる京一が可愛くて仕方がなかった。






「にぅ~」
「楽しそうだね、京ちゃん」
「んにゅ」






こっくり、素直に頷く。

腕に抱かれた京一は、八剣の胸にすりすりと頬を寄せる。
普段はちっとも甘えてくれないので、中々不思議な気分だが、やはり嬉しい。






「やつるぎ~」
「うん?」






甘えるような声で名前を呼ばれたのは、これが初めてだ。
一緒に暮らすようになってから数ヶ月が経つけれど、少し新鮮だ。

そんな事を考えていると、京一がぐっと体を伸ばして、









ぺろっ










頬を舐められたりなんてしたのも、これが初めての事で。


それから時々、同じハーブを壬生に注文する八剣の姿が見られるようになった。











====================================

一日遅れでしたが、猫の日って事で。
拍手御礼で書いたちび猫京ちゃんと、飼い主の八剣です。珍しくラブ風味。京ちゃん酔っ払ってますけど(笑)。

うちの八剣は、大体どの話でも京一を甘やかしたいんですが、京一は基本的にツンデレなので甘える事をしません。
なので、酔っ払ってでも甘えてくれると嬉しいんです。
増して、京一の方からちゅーなんてされたらv(猫なんで今回は舐めてますけど)

2009-バレンタイン







平日の人気の無い運動公園の一角で稽古をして。
いつもふらりといなくなる師匠は、その日も稽古をした後はふらりといなくなり。
一人で嫌々ながら桜ヶ丘中央病院に向かい、稽古で出来た傷や痣を一通り看て貰って、手当てをされて。

陽が立ち並ぶビルの隙間に落ち行く頃、そろそろ『女優』に戻ろうと、歩き慣れた帰路を進んでいた時。






「兄さん?」






歌舞伎町の通りに入ろうと思った所で、京一は道の端で佇むアンジーを見付けた。


世話になっている『女優』で働く人々の中で、京一は彼女が一等お気に入りだった。

彼女と会話をする前に話をしたキャメロンやサユリの印象が強烈過ぎた事に比べ、アンジーは最初から京一に対してずっと友好的な態度で、京一が『女優』に居候する為にビッグママに口添えしてくれたのも彼女である。
また、キャメロン達ほど過剰なスキンシップがないのも気に入る理由の一因であった。



駆け寄っていくと、アンジーも京一に気付いて手を振った。






「京ちゃん、今お帰りなの?」
「おう」
「京サマは?」
「知らね。どっか行った」
「あら、そうなの。残念ねェ」






頬に手を当て、言葉通り残念そうに眉尻を下げるアンジー。
それでも瞳や口の形は笑みを象っている。

京一の見慣れた顔だった――――――が。






「兄さん、なんかあったのか?」






思ったら直ぐ、思った言葉がそのまま口を突いて出た。
出た事に京一は驚かなかったが、アンジーの方は驚いていて、少し目を丸くしている。






「あら、どうして?」
「なんか変な顔してるぜ」






しゃがんで目線の高さを合わせるアンジー。
倣って京一も見上げていた目をいつもの高さに戻して、目の前に屈んだアンジーの顔を見る。

高い位置にあると少し窺い難かった、アンジーの表情。
同じ高さになるとよく見えるようになって、京一はまじまじと彼女の顔を覗き込んだ。
アンジーはヤダわ恥ずかしい、なんてやっぱり眉尻を下げて微笑む。


その瞳が、いつもよりも少し赤いのを京一は見付けた。






「兄さん、泣いたのか?」
「そんな事ないわよ」
「ウソつけ。目ェ赤ェじゃん」






嘘を吐かれて、京一の顔が剥れる。

可愛がっている子供に拗ねられて、アンジーはまた苦笑した。
その顔はいつもと同じ――――だったように思う。


黙っていては京一が益々拗ねると判ったのだろう。
観念したようにアンジーは目を閉じ、手に持っていた箱を京一の前に差し出した。
綺麗にラッピングまで施されたその箱は、アンジーの手には小さいが、まだ幼い京一の手には両手で抱えても大きかった。

ラッピングの飾り付けに使われているリボンを留める為のシールが目に入る。
其処には、綺麗な印字で「Happy Valentine」の文字が書かれていた。



ああ、今日ってバレンタインなのか。

最近まるで暦を気にしていなかったから、京一はそんな事にはまるで気付いていなかった。
気にしていた所で、家を飛び出してから此処に来て、貰う宛てがある訳でもないが。






「兄さん、誰かにチョコやるのか?」






一瞬、京一の脳裏に師匠の顔が浮かんだ。
が、多分違うだろうと直ぐ否定する。

いつ現れていつ消えるのか判らないような人間を、一々此処で待つ事はしないだろう。
渡すつもりだったら、店の冷蔵庫に入れて置いて、来た時に渡すのが一番確実だ。



目の前の人物が誰かに“貰う”と言う事は、恐らくないだろう。

バレンタインは女性が男性にチョコレートを贈ると言うお菓子会社の陰謀の日(数年前にこれを言ったら姉から「夢がない」と殴られた)だが、アンジーは“男性”ではない。
京一はアンジーも含め、女優の人々の事を「兄さん」と呼んではいるものの、彼女達がその性を捨てて生きている事は判っているつもりだ。
だから、これを持っていると言う事は、これから誰かに渡す予定なのだろうと思った。


しかし、アンジーはゆるゆると首を横に振った。
その時の彼女の表情が酷く淋しそうで、京一は眉間に皺を寄せる。

表情の意味を、アンジーは直ぐに教えてくれた。






「もういいのよ。フラれちゃったから」






淋しそうに、それでも笑うアンジーに、京一は無言だった。






「判ってたのよ、最初から。アタシ達はこんなだもの」
「………」
「もしかしたらって、ちょっとだけ期待してたんだけど……やっぱりね」






やっぱり、と言いながら笑うアンジーに、京一の眉間の皺が益々深くなる。

やっぱりと思いながら、それでもチョコレートを渡したいと思ったのなら、その想いは本物だ。
普通の女だってそう言う事は考えるだろうから、目の前にいる彼女は、間違いなく女性の心を持っていた。




……でも、女じゃねえんだよな。




女みたいに髪を伸ばして、女みたいに化粧をして、口調も女みたいだけれど。
目の前にいるこの人も、世話になっている店で働く人達も、みんな本物の女じゃない。
だからどんなに本気の恋でも、断然、悲しい思いをする事の方が多い。

頭を撫でてくれる手は優しいのに、毎日作って貰う料理だって美味いのに、彼女達はいつも報われない。
相手が振り向いてくれる可能性は、普通の男女が恋をするより、ずっとずっと低い。


今彼女の手の中にあるチョコレートだって、きっと勇気を出して用意したのだろうに。
行き場をなくして、今のアンジーの表情みたいに苦そうに見えた――――甘いチョコの筈なのに。






「ごめんね、京ちゃんに話しても仕方ないわよね」
「……別に」
「うん。聞いて貰ったらちょっとスッキリしたかな。ありがとう、京ちゃん」
「…別に」






アンジーは京一の返事を聞いていない。
事実、殆ど単なる相槌みたいに漏れた言葉だ。

くしゃくしゃ京一の頭を撫でて、アンジーは立ち上がった。






「それじゃ、帰りましょうか。お腹空いたでしょ」






そう言って笑った彼女の顔は、もう京一の見慣れたものに戻っていた。
……戻っていたのだけれど。




京一は、まだ誰かを好きになった事がない。
同じ歳の子の何人かは、誰が好きとか誰が可愛いとか、マセた子なんかはあの子と結婚するとか言っていた。
けれど京一は物心着いた頃には既に剣術一本で、女の子の誰が可愛いとかなんて興味がない。

今もそうだ。
歌舞伎町に来てから、夕暮れ道を歩く時間帯、派手なイルミネーションの前で話をしている綺麗な女の人を見るようになった。
でもだからって興味が沸いた事はなくて、寧ろ高い声で――若しくは酒焼けか煙草かの低い音で――騒ぐのを見ると、思わず眉間に皺が寄ってしまう。


幼い頃から彼の中に強くある想いは、“強くなりたい”と言う事だけ。
その為に何をすればいいか、どんな風に剣を振るえばいいのか、考えていたのはそんな事ばかり。



だから、誰かを好きになって、想いが実らなくて。
それがどれだけ悲しいのか、京一にはまだ漠然としか判らなかった。

でも、さっきのアンジーの顔が頭から離れない。






手を繋ごうと差し伸べられる、アンジーの手。
其処に自分の手を伸ばして――――京一は出された手とは反対の手にあった箱を掴んだ。







「あ、」






もういいと言いながら、手放せずにいた実らなかった想いの形。
それが途端になくなって、アンジーは思わず声を上げていた。

それを聞きながら、京一は勢い良く箱のラッピングを破いていく。
ああ、と嘆きに似た声が隣から聞こえて、もう少しゆっくり破けば良かったかと、少々的外れな事を考える。
無理もない、幼い京一にはまだまだ気遣いなんてものは働かなかったから。


リボンもシールも一緒にして、京一はラッピングの包み紙を全部破いた。
紙切れになったゴミが足元に散らばったが、お構いなしだ。
箱の封となっていたセロハンテープも乱暴に引き千切って、ようやく蓋を開ける。

綺麗な形のチョコレートが一つ一つ分けられて、綺麗に20個並べられて入っていた。
ハートの形なんてものは一つもない代わり、それぞれ色んな形に歪んでいる。
ラッピングこそ綺麗に施されていたけれど、明らかな手作りである事が判った。



一つ摘んで、口の中に放り込む。






「――――――京ちゃん、」






呼ぶ声が聞こえた。
けれど、京一は顔を上げずに、また一つ口の中に放り込む。



甘い。
ちっとも苦くない。

京一は甘いものが苦手だ。
食べられない訳でもないけれど、進んで食べたいとは思わない。
多少苦い方がまだ食べられるかも知れないと時々思う。


アンジーもそれは知っていて、だから余計に京一の行動に驚いていた。


一心不乱に、口の中のものが溶け切らない内に、次のチョコレートを放り込んでいる京一。
明らかに無理な食べ方をしているのは目に見えていたが、それでも京一は食べるのを止めようとしなかった。

そうしている内に、チョコレートはもう半分もなくなっていて。




夢中になってチョコレートを頬張る子供の前に、アンジーはまたしゃがんだ。






「京ちゃん、お口の横についちゃってる」
「む」






ハンカチを取り出して、京一の口の周りを拭いてやる。
それから、同じようにチョコレートがついていた手も綺麗に拭いた。

拭き終わると、京一はまたチョコレートを食べ始める。


拭いた傍からまたチョコレート塗れになりつつある子供の顔を見詰めながら、アンジーは微笑んだ。








「………ありがとう、京ちゃん」








ぽつりと落ちた呟きは、小さなものではあったけれど、子供の耳にはちゃんと届いた。
ぴくり、小さな手が一瞬動きを止めて、しかし直ぐにまたチョコレートを摘む。










来年は、きちんとこの子の分も作らないと。
そろそろ甘さに限界が来ているだろうに、それでも食べる子供を見て、アンジーは決めた。


だって、来年の今頃―――――きっとこの子は、とびきりイイ男になっているだろうから。












====================================

………どんな変化球だと言う話です(爆)。

だってうちの京ちゃんが誰かにチョコあげる訳ないし。
今年は逆チョコと言うネタもあったけど、うちの京一は絶対に喜ばない……だって甘いもの嫌いなんだもん。下手したら突き返します。ラーメン奢るじゃいつもと同じ話だし。
唯一、渋々顔しながらも受け取るだろう相手は、『女優』の兄さん達。特に子供の頃なら、まだ受け取るかなーと。


将来有望な感じのチビ京一が書きたかったんですね。
優しい言葉や慰めなんてものを口にするのは苦手だけど、行動で。子供なので、やる事が突飛な上に極端ですが(うちの京ちゃん、大人になっても極端か…)。

……だからってなんでアンジー兄さん失恋ネタ…?

introduction 5




気紛れに学校に来てみれば、最悪な事にテスト期間中と言う有様。

バックレてやろうかと思っていたら、一時間目がこれまた最悪な事に大嫌いな生物の授業。
HRが終わって直ぐに教室を出ようとしたら、隣クラスの担任である生物教師に捕まり、そのまま教室へと強制Uターン。
そのまま監視でもするかのように教室に居座られては、逃げるに逃げられず。


仕方が無いのでそのまま試験に参加したが、日頃学校をサボり、ろくな勉強などしていない京一である。
埋まる問題があったと言う方が奇跡的な事で、これも選択問題を適当にAだのBだのCだの書いただけだ。
正解かどうかなんて判る訳もないから、読み返してチェックすることもない。

適当に埋めたら、可能ならば静かなだけの教室などさっさと出て行きたい所であったが、生物教師が目を光らせている。
この生物教師は普段はやる気の無い風貌をしている癖に、妙に目敏く、力も強い為に京一は逃げる事が出来ない。
仕方なく机で突っ伏して寝る事にして、残り時間30分以上を夢の中で過ごした。



それから授業の終わり間際、生物教師は教室を出て行く際、京一に釘を刺した。
ただ一言、「サボるなよ」とだけ。

その一言が跳ね除けられないのが無性に悔しい。






「―――――で、結局テストは最後までやったんだ」






愚痴宜しくの勢いと口調で説明してやった相手は、遠野だ。
テスト期間中に来るなんて珍しいなどと言ったから、知ってて来たんじゃないと言ってやった後、怒涛の京一の愚痴が始まったのである。






「まぁ京一だもんねー、そんなモンよねェ」
「けッ」






うんうんと納得したように頷いている遠野に、京一は不機嫌な態度。
それに慣れていると言う真神学園でも稀有な根性を持つ少女は、怯えた様子も無く、木の根元で寝そべる京一をカメラに収めた。

滅多に登校して来ない京一が学校に現れる度、遠野は登校の理由を聞きにやって来る。
面白い事があれば校内新聞に載せる気なのは間違いないだろう。


ちなみに初めて京一が校内新聞に掲載されたのはまだ一年生の時で、しかも遠野が真神学園に入学し、たった一人で新聞部を設立して一発目の新聞だった。
その時は、京一が当時から“歌舞伎町の用心棒”として都内有数の不良であった事と、ベースを握らせれば中学生のアマチュアとしては屈指の腕前を持つ事が有名であったと言う事。
中学生の頃からジャーナリストを目指し駆け回っていた遠野は勿論それを知っていた。

その為、スクープの種になると信じ、この三年間何かと追い掛け回しているのである。

一年生の頃は鬱陶しくて仕方が無かった遠野の取材(盗撮も多い)だったが、流石に三年目になると慣れた。
諦めたと言うのが一番正しい言葉でもあるが。



――――そんな遠野だから、学校が休みの日に京一が何をしているかも、恐ろしい事に筒抜けだったりする。






「あたしはてっきり、この間のライブが良かったから機嫌良かったのかなァと思ったんだけど」






ぴくり。
遠野の言葉に、京一の眉間に皺が寄る。

判り易く不機嫌な顔になった京一に、遠野はあら? と首を傾げる。






「お前また来てやがったのか……」
「だって京一のヘルプ入りで“CROW”のライブよ。行かなきゃ損よ!」
「……どういう理屈でそうなるんだよ」






異常なほどのジャーナリスト根性さえなければ、遠野は普通の可愛い女子高生と言って良い外見だ。
見た目で判断するなら、“CROW”のようなアンダーグラウンドミュージックは似合わない。
テレビでよく見るアイドルやミュージシャンを追い掛け回しているのが普通ではないだろうか。

最も、遠野の事だから、優先されているのは音楽性ではなく、其処にスクープがあるかどうかと言う事だろうが。






「なんか裏は大変だったみたいね。シンセの人が抜けちゃったんでしょ?」
「ああ。いつもの事だけどな」
「亮一君ねー……大変なのは雨紋君よね」
「オレも大変なんだっつーの。ライブで使う曲にギターで打ち込みした後で、ベースでライブ飛び入りだった事あんだぞ。跳んだハードスケジュールだぜ」
「それを引き受けた上にやっちゃうアンタもアンタよね」






寝そべる京一の傍にしゃがんで、遠野は不思議そうに京一の顔を覗き込む。






「頭はからっきしの癖に、音楽だけは凄いわよね、アンタって」
「一言余計なんだよ、テメーは」
「だって本当の事だもん」





学校の授業の成績が宜しくないのは認めよう。
普通に学校に行って普通に勉強している人間と比べても、天と地ほどの差がある事も認めよう。

が、それを改めて他人に言われるとやっぱり腹が立つ。


青筋を立てる京一だったが、遠野はそんな事にはお構いなしだ。
すとんと隣に腰を下ろすと、愛用のデジカメのメモリーを確認している。






「この間のライブと言えばさ、」
「あー……?」
「すっごくビックリした事あったんだけど」






それから少しの間沈黙が続き、デジカメを操作する音だけが響く。
数秒間、極短い電子音だけが鳴り、京一が二度ほど欠伸をした所で、遠野は目当ての写真を見つけ、






「ホラ、これ」






差し出されたデジカメの液晶画面を見て―――――京一は目を細めた。

其処に映っていたのは、ついこの間、一番間近で見た光景。
第一印象“気に入らない”の少年がアルペジオを操っている場面だった。






「緋勇君が“CROW”のライブに参加するなんてねェ。それもすっごいハードな音鳴らして」






感心する遠野は、純粋に驚いているようだった。


ちなみに――――本来、ライブ会場での客の撮影は禁止されている。
しかし遠野は何処にどんな人脈があるのやら、殆どのライブ会場で許可が下りていた。

だからこうして、ライブ会場で公演真っ最中の写真を撮る事が出来るのである。
バンドによっては専属カメラマンにしたいと言っている者もいるそうだが、彼女はそれを全て断っている。
彼女が欲しいのは周囲を圧倒させるようなスクープであり、あくまでジャーナリストで、カメラマン志望ではないのだ。
……やってる事はパパラッチだけどな、と京一は思っているが。



一枚切り取られた画面の中で、彼――――緋勇龍麻は、あの時京一が見たものと変わらぬ表情を浮かべている。
優しい作りと言って良いだろう面立ちで、切り取られたこの瞬間、彼が激しい音をかき鳴らしていた事を誰が予想できるだろう。
間近でそれを体験した京一でさえ、この写真を見て感じる音は、イージーリスニングの柔らかな音だ。

だが彼は“CROW”のハードな音は勿論、バラードからポップスまで、幅広く音を使いこなした。
それは舞台裏での事だから、流石の遠野も知らないことだが。






「あとさ、京一と緋勇君で鳴らしてる所あったでしょ」






ぴくり。
二度目、京一の眉間の皺が更に寄る。






「アンタが音楽だけは凄いのは知ってたけど、緋勇君も凄かったわよね」
「……何が」
「打ち合わせしたのって思うくらい、アンタ凄いリズムで弾いてたでしょ。それに全部合わせてるんだもん。ね、あれってリハ何回やったの?」
「やってねェ」






短い答えに、遠野は一瞬きょとんとした。
意味が判らないと言う顔をする遠野に、京一は一言一句変えずに同じ言葉を告げた。



京一と緋勇龍麻が二人で演奏したパートは、どちらもアドリブだ。
開始前に雨紋から合わせなくて良いのかと言われたが、京一はその時既に彼と二人で音を合わせる気はなかった。
それに対して、普通なら慌てるか怒るかする所だろうに、彼は微笑んで同意しただけ。

その態度が京一には無性に腹が立つもので、本番、不規則にリズムを変えてベースを鳴らした。
彼は見事にそれについて行き、わざと脱線すれば無理なく軌道修正し、下のメロディへと戻して見せた。
―――――その時、舞台上で雨紋雷人が胃痛を起こしていた事は、当人達には知らぬ話である。


リハ無しで本番完全なアドリブと聞いて、遠野がひっくり返った声を上げる。






「ウソォ!? ホントに!? わ、やっぱり緋勇君って凄いんだ!」






急いでメモ帳を取り出し、書き込む遠野。
間違いなく次週の校内新聞のネタになることだろう。

これで彼も彼女に追い回される運命となった訳だ。



――――――と。



草を踏む音がして、京一は其方へと視線を向ける。
同じようにメモを終えた遠野も、京一が見た方向へと倣って首を巡らせた。









立っていたのは、切り取られた一枚画の中ではなく、現実目の前に存在する少年であった。











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そろそろ龍京出会い編を終了させたい所ですが、果たして仲良くなれるのかっつー問題が……(滝汗)

アン子と京一の組み合わせが結構好きです。アニメ二幕第五夜の二人は可愛かった。
あと本編最終話で、京一と撮った写真を見てじたばたしてるアン子が好きです。