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八剣が家庭教師のアルバイトを終えて、保育園に着いたのは、午後8時。
早い方だ――――待っている幼子には酷く申し訳なく思う早さではあるけれど。
保育園の門を潜って園舎玄関へ向かうと、其処に大きな笹を見つけた。
飾られた色とりどりの短冊を見て、ああ今日は七夕だったかと空を仰ぐ。
幸い好天に恵まれた今日は、この時間になっても雲はなく、大きな天の川が夜空を彩っていた。
短冊には子供達の、ささやかだったり、大きかったりと様々な願い事が書かれている。
一部は何も浮かばなかったのか、まだ字が描けないのか、大人の目にはシュールに見える絵が描かれていた。
さて、それでは八剣の預かり子の短冊は何処にあるのか。
一通り見渡してから、子供の目には届かない高さに飾られているのを見つけた。
風に揺れて裏返っていたそれに手を伸ばし、引っくり返してみると。
(京ちゃんらしいね)
ただ一言、“ラーメン”と書かれた短冊。
書かれているのはそれだけで、絵も何もない。
多分、願い事が浮かばなかったのだろうと思う。
幼いながらに達観している節のある子供だから。
それが少しだけ寂しい。
短冊から手を離し、八剣は玄関の扉を開けた。
丁度、保育士の遠野が玄関先の掃除をしようとしていた所だったようで、下駄箱で目が合う。
直ぐに呼んで来ますと、遠野は慌しく遊戯室へと向かった。
数分の時間が経ってから、京一は遠野に手を引かれて玄関へとやって来る。
「じゃ、また明日ね、京一」
「ん」
愛想のない返事に、可愛くないなあと呟きながら、遠野は京一の頬を緩く抓る。
京一はそれにもぶすっとしていたが、嫌がる様子はない。
遠野の手が離れてから、八剣は京一の背を押して園舎を出た。
玄関扉を開けると、涼しい風が吹き抜けて行った。
隣で笹がさわさわと音を立てて揺れる。
京一がその音で笹がある事を思い出したように、脚を止めて笹を見上げた。
子供の身長で届くのは、下までしな垂れている葉っぱの一部ぐらい。
後は誰かに抱き上げて貰わなければならなくて、京一は飾られた短冊にすら手が届かなかった。
少しの間彷徨った京一の目線は、ある一箇所で止まる。
八剣はそんな京一の傍らに膝を折ってしゃがみ、京一と同じ高さから笹を見上げた。
「京ちゃんの短冊って、どれかな」
既に見付けているのだけれど、聞いた。
教えて欲しかったのだ、この子供から。
けれども、予想はしていたけれど、京一はぷいっとそっぽを向いて。
「しらね。かざったの、オレじゃねェし」
すたすたと、京一は園舎から離れて行く。
赤い鞄を背負ったその背中に苦笑を漏らし、八剣もまた、園舎を後にした。
街灯に照らされた道すがら、隣を歩く子供を見下ろしながら思う。
些細な願い事さえ、中々教えてくれない京一。
きっと、一番の願い事はもっと他にあるのだ。
でもそれを願うことを、子供が先に拒否している。
それは願っちゃいけないことだと、思って。
決してそんな事はないのに、傍らを歩く小さな子供は、ブレーキをかける事を覚えていた。
そうさせている現実が、八剣は少し恨めしい。
(だったらせめて、あの願い事は叶えてあげないと、ね)
たった一言書かれた願い事は、本当に一番願いたい事ではないけれど、嘘でもないのだ。
そう言えば前に食べたのはいつだったかなと思ったら、一週間前だったと気付く。
栄養バランスを考えて暫く作らなかったのだけど、大好物をお預けにされたのは、口に出さなくてもやはり不満だったか。
このお願い事を叶えても、多分この子は、あまり笑ってくれないと思うけど。
いつかは、一番のお願い事を、素直にお願い出来るようになる筈だ。
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子供のささやかなお願いの為に、大人が必死になるのって大好きです。
七夕の日と言う事で、保育園には大きな笹が運び込まれてきた。
その全長はマリア先生や犬神先生を抜いて、園舎の屋根に届きそうなほど。
登園して来た子供達は、皆揃ってその笹に驚き、目を奪われていた。
「そっかあ、たばなたなんだァ」
呟いたのは小蒔だ。
葵もそうねと頷いて、それじゃあお願い事を考えなくちゃと胸を弾ませる。
京一はそれを横目に見ながら、ちらりと笹を見遣っただけで、さっさと園舎に入って行った。
遊戯室に入ると、遠野先生がドアの横で待っていて、一枚の紙を渡す。
色紙よりもちょっと硬い細長い髪で、上に穴が開いてリボンが通してある。
紙には金色がちらちらと散らばってあった。
遊戯室を見渡してみれば、雨紋、亮一、壬生も同じものを持っている。
何かの目的で渡されたのは判ったが――――その目的が判らなくて、京一は眉の間にシワを作る。
「これなんだ?」
質問した京一に、遠野先生は一度ぱちりと瞬きする。
が、直ぐに笑みを浮かべて、
「短冊よ。お願い事を書く紙なの」
「おねがいごと?」
「今日は七夕だから。なんでもいいの。好きなこと書いて、マリア先生に渡してね」
タナバタだからどうしてお願い事を書くのか、京一には判らない。
でも取り敢えずやらなければならないのは感じたので、お願い事を考える事にする。
鞄をロッカーに置いて、クレヨンだけ取り出した。
適当に床に座って短冊を眺める。
なんでも良い、と言うのは、結構困る。
こういう時、実はなんでも良くなかったりする、と言うのもあるのだ。
書いた後になってから、もっとこういう事を書きなさい、と言われたりとか。
「ボク、おとうとほしいなァ」
「もういるんじゃないの?」
「もっとほしいの。いっぱいいると、やっぱりたのしいし」
「わたしはワンちゃん」
「あおい、ワンちゃんいっぱいいるじゃん」
「うん。でも、もっといっぱい、いてほしいの」
遊戯室に入ってきた小蒔と葵が楽しそうに話をしながら、短冊のお願い事を考えている。
二人のお願い事は直ぐに決まりそうだった。
その後に入ってきた醍醐は、なんだか随分と考え込んでいる。
視線は時々、葵と話をしている小蒔に向けられて、直ぐに逸らされる。
京一はなんとなく、醍醐が考えているお願い事が解った。
そして多分、そのお願い事を短冊に書くことはないだろうと――――見られたら恥ずかしいから。
京一よりも先に短冊を渡されただろう、雨紋と亮一を見てみる。
「らいとと、ずっといっしょ」
「そんなことより、もっとでっかいことかけよ」
「おっきいよ。らいとは?」
「オレはしょーらい、ビッグになって大成功するんだ!」
「すごいなあ……」
「お前もいっしょだぞ、亮一!」
「……いいの?」
「ああ!」
なんだか随分アバウトなお願い事のような気がする。
が、それをわざわざ本人に言う必要はないだろうと、京一は疑問は飲み込むことにした。
壬生はどうかと覗きに近付いてみると、既に此方は書き終わっていた。
近付いた京一に気付いて、壬生が顔をあげる。
京一は壬生の顔を見ることなく、子供にしては綺麗な字で書かれた短冊を見た。
其処には、“おかあさんがげんきになりますように”と書かれていて。
「……何?」
「べつに」
静かな声で問い掛けてきた壬生に、京一はツンとそっぽを向いた。
壬生の短冊を見て、京一はもう随分と顔を見ていない父親と母親、姉を思い出す。
でも、それとお願い事は繋がらなかった。
普通だったら此処で――――と思ってから、それを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。
とん、と背中に何かが乗って、京一は床に倒れそうになる。
なんとか踏ん張ってから振り返ると、其処には龍麻がにこにこと笑って、京一に乗っかっていた。
「重てェよ」
「うん」
苦情一つに頷いて、龍麻は京一の上から退く。
彼の手には、やはり短冊があった。
「きょういち、おねがい書いた?」
「まだ。っつか、おねがいなんかねェし」
「ぼくはあるよ」
にこにこ笑って言う龍麻が、京一はちょっとだけ羨ましくなる。
「おなかいっぱい、イチゴたべたいな」
「…そんなの、母ちゃんにおねがいしろよ」
龍麻のお願い事は、今更お願いするようなものではない。
京一はそう思ったが、龍麻はもうこれに決めているようで、クレヨンで早速書き出した。
そうだ。
お願い事はなんでも良い。
遠野先生がそう言った。
そして多分、本当に何でも良いのだ、此処でなら。
マリア先生や犬神先生も、書き直せなんて言わない。
だから龍麻みたいなお願い事でも、誰も駄目だなんて言わない。
“ない”と書くのは、流石に駄目だろう。
先生達は何も言わないかも知れないけれど、きっと良くは思わない。
「……ラーメンくいてェ」
「イチゴの方がおいしいよ」
「おまえといっしょにすんな」
京一の素っ気無い言葉に、龍麻はむぅと眉毛をハの字にした。
けれど、ようやく短冊にクレヨンを乗せた京一を見て、またにこにこと笑い出す。
子供達の書いた短冊は、その日の内に犬神先生が笹に飾ってくれた。
子供を迎えに来た親達は、其処に書かれたささやかだったり、大きかったりするお願い事に笑みを漏らす。
そして――――――その日の京一の晩ご飯は、八剣特製のラーメンだった。
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京一の短冊は、シンプルに“ラーメン”とだけ書いてありました。
京一は甘い物は然程好きなようではなかったが、それでも全く食べない訳ではない。
誕生日にビッグママが作ったケーキも喜ぶし、量が少ないだけで、貰えばやはり嬉しいのだ。
甘いホットココアも気紛れにだが飲みたがる事もあった。
スナック菓子なら基本的にはどれでも好んでおり、辛い物もよく食べる。
飴やガムはちょっと小腹が空いた時、これもやはり味を気にせず口にする。
何処か背伸びしたがる感があっても、やはりまだ子供なのだ。
食べ物の誘惑にコロッと負けてしまうのだから。
―――――そんな子供がある日から、一切の菓子類を口にしなくなった。
数日前から妙に静かな小さな居候を、アンジーはどうしたのかと心配していた。
怪我でもしたのかと思ったが、見れる限りで気になるような傷はない。
修行で打たれた痕はあるものの、数日経てば消えるものが殆どだ。
京一自身もそう言った傷は気にしないし、その程度で大人しくなるような事もないだろう。
考えられるのは師から剣術について痛手の一言を喰らった――――とか。
だが良くも悪くも反骨精神の塊である京一だ、悔しさから更に高みを目指すことはあっても、落ち込む事はないと言える。
京一が何も言おうとしないので、『女優』の面々からは何も言えない。
逐一様子を見てはいるが、其処から先に踏み込まないのが、此処での暗黙の了解だった。
店の真ん中のソファで膝を抱えて蹲る京一。
その表情は沈み気味で、アンジー達の心配を更に煽る。
せめて少しでも元気になって貰いたいと、彼女たちが選んだ方法は、判り易く且つ子供には効果的なもので。
「京ちゃん、おやつよォ~」
ビッグママから受け取った手作りアイスを持って、キャメロンがソファに腰を下ろす。
今日のおやつはチョコレートアイス。
京一の好みをよく知るビッグママの手作りなので、市販の物より甘さも控えめにされている。
三角形のスコーンを付け合せに添えて、綺麗に盛り付けされていた。
夏前の梅雨となり、最近はすっかり暑くなった。
晴れれば太陽の熱気、雨の日もじめじめとした湿気で蒸し暑さがある。
食欲も減退するような不快指数の高さが続き、京一が最近殆ど菓子類を口にしないのはこの為ではないかと、アンジー達も思うようになっていた。
そんな日に、ひんやりと冷えたアイス。
子供が飛びつかない訳がない。
――――――の、だが。
「…………………」
京一は、テーブルに置かれた自分の為のアイスをちらりと見遣ってから、
「………いい。いらね」
消え入りそうな小さな声でそれだけ言って、抱えた膝に頬を乗せた。
これも食欲減退の所為と、思えなくもない。
しかしそれにしては京一の瞳がそれを裏切っており、アイスを見詰める京一の目は、物欲しそうな色を浮かべている。
だから全く食べたくない訳ではないのだろうに、京一の手は一切アイスへと伸ばされない。
「どうしたの? 京ちゃん。お腹痛いのかしら?」
「……別に」
これなら食べてくれるのではと思っていただけに、驚きが大きい。
アンジーが思わず尋ねるが、京一は素っ気無い態度だった。
思わぬ展開に店内がシンと静まり返る。
それを打ち破ったのは、ビッグママが愛用の煙管を置いた音だった。
ヒールの音を立てて、ビッグママはカウンターから表へと出て来た。
ゆっくりとした足取りでソファに近付くと、蹲って俯く京一の顔をじっと見詰め、
「京ちゃん、口開けてみな」
「!」
ぎくッ。
ビッグママの言葉に、そんな擬音が聞こえてくるかのように京一が固まる。
だらだらと汗が流れ出し、動揺しているのは誰の目にも明らかだった。
「どうしたんだい?」
「……べ、別に……」
「じゃあ出来るだろう? ほら、開けてみな」
「…………」
大量の汗を流しながら、京一は見詰めるビッグママから目を逸らす。
やばいやばいやばいやばい……ビッグママから逃れた彼の瞳は、そんな言葉で一杯だった。
このままでは埒が明かないと判断すると、ビッグママの行動は早かった。
ビッグママが手を伸ばすと、京一は咄嗟にそれから逃げようとソファを立ち上がる。
が、その場を離れるよりも早く、京一はビッグママの手に捕まっていた。
「………!!」
小さな子供はジタバタと暴れた。
口を真一文字に噤んだままで。
ビッグママは暴れる子供の顔を捕まえると、下顎を捉えて強引に口を開かせようとする。
京一は抵抗したが、まだ幼い子供の力で、ビッグママに敵う筈もなく。
あが、と開けられた口の中をじっと覗き込まれて、小さな体は何かに帯びえるように固まった。
ビッグママはしばらく京一の口の中を見詰めた後、はっきりと溜息を吐く。
その後に解放された子供は、口に手を当てて半目になって俯いた。
「明らかに虫歯だね」
「あらま」
「歯磨きサボっちゃったのねェ~」
ビッグママの言葉に、アンジーはぱちりと瞬きし、キャメロンとサユリは眉尻を下げて笑う。
京一の頬に朱が上る。
バレた――――と判る表情だった。
ビッグママが見た京一の歯は、素人目にも虫歯と判る程の進行が進んでいた。
冷たいもの、熱いもの等、刺激物を食べれば当然沁みる。
道理でお菓子を、今日のアイスまで食べなくなる筈だ。
だが意地っ張りな子供は、むぅと膨れっ面になり。
「別に…なんともねーし、これ位」
呟いた京一であったが、ビッグママは呆れたと息を吐く。
「またそんな事言って。痛いんだろう? この分じゃ、当分おやつは無しだねェ」
「うえッ! マジで!?」
「当然だろう、今日のアイスも勿論撤収さ」
言うとさっさとアイスを取り上げ、アンジーに渡す。
アンジーはごめんねェと京一に微笑んで、アイスを冷蔵庫へと締まってしまった。
京一は恨めしげにアンジーとビッグママを見るが、歯が痛いのは事実であって。
無理やり奪い返しても食べられないのは確かで、京一はソファにまた腰を落とした。
虫歯の所為で腫れて来た頬に手を当てて、うぅ、と小さく唸る。
「取り敢えず、歯医者に行かないとね。京ちゃん」
「でぇッ! 絶対ェやだッ!!」
アンジーの言葉に、京一は躯を竦ませて叫んだ。
歯医者が嫌いとは、こんな所もまた子供らしい。
虫歯の治療の為に歯を削る機械の、チュイーンだのガガガだのと言う音は、子供にとって凶器の音だ。
口の中で道路工事が行われているような音を嫌うのは、この背伸びしたがる子供も同じなのだ。
しかし残念ながら、虫歯をこのままにしておく訳には行かない。
何をするにも歯は命、剣を振るうのも歯をしっかりと食いしばらなければならない訳で。
虫歯は自然治癒するものではないから、子供が嫌だという歯医者は避けては通れない。
イヤだイヤだと喚く子供を、キャメロンが抱き上げる。
確りとした腕に抱え上げられた京一は、逃げようと暴れるも、叶わない。
「離せよ、兄さん! キャメロン兄さんの鬼! 悪魔!」
「あん、京ちゃんったら酷ォい」
「兄さんの方が酷ェッ! 離せー! 歯医者なんか行きたくねェーッ!」
「じゃあ岩山先生の所に行くかい?」
「もっとイヤだ~ッ!!」
キャンキャンと助けを求めて子犬のように叫ぶ子供に、大人達は揃って苦笑を浮かべる。
今から泣いてしまっている京一に、可哀想と思わなくもないが、このまま放って置けばもっと可哀想な事になるのだ。
そして見つけた今の内に連れて行かないと、京一はもっと逃げ回ろうとするだろう。
こういうものは早い内の対処が大事なのだ。
―――――結局、他にも虫歯が見付かって、数日間泣きながらの通院を余儀なくされた京一であった。
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………私が今通院している真っ最中です(爆)。
本当に口の中で道路工事の音がするよ!!
妄想して別の事考えてないとやってられないっス……。
雨の日は憂鬱になる。
長雨になると尚更だ。
傘を差しても、足元で跳ねる水玉までは防げなくて、制服のズボンはびしょびしょの泥塗れ。
風が酷くなれば傘も大した役目を果たさず、鞄の中の教科書はふにゃふにゃのびしょ濡れ。
何よりジメジメとした湿気が鬱陶しくて、ただ暑いだけの日以上に不快指数は半端なく高く。
けれどもこれが日本の夏前の風物詩である以上、避けて通れるものでもなく。
寧ろこの時期に降ってくれないと、夏真っ盛りに入って水不足に喘ぐ事となるのだ。
それは勘弁願いたい。
「…降るんだったら、授業中だけ降ってりゃいいのによ」
机に頬杖を突いて呟いたのは、京一だ。
時分の机ではなく、龍麻の机にて。
決して大きくはない机の面積の半分を侵入された龍麻であるが、特に気にする事もなく、数学ノートに落書き中。
「取り敢えず、行き帰りに降るのは勘弁だな」
「うん」
それには同調したので、龍麻はノートの落書きを続けながら頷いた。
学校の登下校中の大雨は、学生にとっては辛い。
絶対に濡れなければならないからだ。
車で出勤する教師陣が恨みがましくなる位に濡れる事も少なくない。
その時間に限らず、外を出歩く時間の雨は面倒だ。
だから京一は、外に出る必要のない授業中にのみ降っていれば良いと言う。
「あと休憩時間もだな」
「うーん…?」
それには同調できなかった。
し辛かったと言うのが正しいか。
休憩時間に入ると、京一は大抵、屋上か中庭の木の上に行く。
お気に入りのスポットはそれぞれ天気が良ければ心地の良いもので、確かに魅力的ではあるのだけれども、其処にやたらと固執しているのは京一だけだろう。
龍麻は教室にいてものんびりと過ごせるので、彼のお気に入りスポットへの愛着は判るものの、完全に同意は出来ずにいた。
教室の中はいつもより人が多い。
休憩時間になるとあちらこちらへ散らばる生徒達が、何処にも行かずにいるからだ。
今日は廊下も水浸しになっている。
教室移動で濡れた渡り廊下を通った生徒達の足元は、外を歩いた後と同様に濡れていた。
それで廊下を歩かなければならないから、フローリングの床は薄らと水で濡れ、滑り易くなっている。
皆、それを嫌い、また雨も止まないしで、教室で落ち合ったり、グループで固まったりしているのだ。
人口密度が高くなるのも無理はない。
常よりも人が多くなった教室内は、その所為だろうか、いつもより少し暑い。
密集した人間と、降り続く雨の湿気によって、教室内の不快指数はまた上がって行く。
ああ、確かに休憩時間も出来れば止んで欲しいかも知れない。
雨が止んでくれれば、この人口密度も少しは解消されるのだ。
じとじととした嫌な湿気も、薄くなってくれるだろう。
だが、希望も空しく雨は降り続く。
「あーだりィ」
頬杖をぱたりと倒し、京一は腕に頭を乗せて突っ伏した。
癖毛の髪が龍麻の机に散らばる。
チャイムが鳴った。
教室内にいた生徒の何人かが、バラバラと教室を出て行く。
自分のクラスの教室に戻る為に。
出て行った生徒と入れ替わりに、3-Bの生徒が教室へと戻って来る。
チャイムが鳴り終わる頃には、殆どの生徒が自分の席へと落ち着いていた。
それから、教室の前のドアが開いて、―――――入って来たのは生物教師の犬神だ。
「龍麻」
「何?」
「やっぱ授業中も雨止んだ方がいいな」
……暗にサボる事を言っていると気付いて、龍麻は眉尻を下げて笑った。
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梅雨なので雨ネタを。
特になんでもない日常の中で。
龍京はこういう“どーでもいい話”が一番書き易いかも知れない。
ダラダラ中身があるんだか無いんだか判らない話。
まがみのお山の梅雨は、麓の村より雨が多い。
おまけに、山の中だから天候も変わり易い為、いつ頃雨が降るのか動物達にも判らない。
突然、ばけつを引っくり返したような大雨が降ったと思ったら、急に雲が晴れて、かと思ったら――――その繰り返し。
そんな時期、山の中の動物達は、皆棲家で静かに過ごす。
遊び盛りの子供達は不満で外に出ようとするけれど、親に捉まって穴の中へと引っ張り戻された。
雨が止んだら出ても良い? と子供達は聞いたけれど、親は梅雨が明けるまで待ちなさい、とばかり。
今降っている雨が止んでも、次の雨はまたすぐ降るから、そうしたら子供達は雨に濡れて冷えてしまう。
子供達を大事に思うから、親は外で遊んで良いよと、送り出してあげる事が出来ない。
けれども、親心子知らずとは言うもので、子供たちは巣穴の中で遊びたいよ外に出たいよと鳴いていた。
―――――そして此処にも、外に出たがっている仔狐が一匹。
「ヒマ」
切り株の椅子に座って、ぷらぷらと足を遊ばせている京一。
その足には葉っぱの包帯が巻かれていた。
たった二文字の言葉を聞いた八剣は、苦笑して京一の方へ振り返る。
「そうだね」
「まだ止まねェの」
「そうだね」
同じ言葉を繰り返し返事に使う八剣に、京一は唇を尖らせる。
雨が止まないのも詰まらない、八剣の返事に変化がないのも詰まらない。
京一はそんなイライラをぶつけるように、傍にあった切り株のテーブルを蹴った。
「なあ、ヒマ」
「そうだね」
「ヒマなんだよ」
「そうだね」
「………」
京一は眉間に皺を寄せて、椅子から降りた。
包帯を巻いた足をずるずる引き摺って、にこやかな笑顔で自分を見ている八剣に近付いて、
「このッ」
包帯を巻いている足を振り回す形で、八剣の足を蹴る。
判り易い八つ当たりだ。
蹴った痛みに蹲ったのは八剣ではなく、京一の方で、京一は包帯を巻いた部分を押さえてしゃがみこむ。
尻尾がまるまってぷるぷる震える小さな姿に、八剣は漏れそうになる笑いをどうにか堪えた。
堪えて一つ息を吐いた後、蹲って動けない京一を抱き上げる。
「無理したら駄目だよ。治りが遅くなるだろう?」
布団の上に下ろして、まだ痛むらしい患部を尻尾で優しく撫でてやる。
京一のこの傷は、人間が仕掛けたまま忘れた古い罠に引っ掛かって出来たものだ。
子供の力では外せなかったそれと奮闘している間に、時間が経って傷も広がった。
回復力の強い子供でも、まだまだ治らない位、其処は酷い有り様になっていた。
八剣が京一を拾ったのはその時で、それから約一ヶ月、京一は八剣の世話になっている。
家はどうやら遠いようだから、せめて京一の怪我が治るまで、此処に留まる事になったのだ。
だから、きっと早く帰りたいだろうと、八剣は思うのだけれども。
何故だか―――子供故にじっとしていられないのか―――京一は直ぐに無茶をして、折角塞がり始めていた傷をまた開いてしまう。
その度に痛くて泣き出しそうに蹲るのに、京一は何度も何度も繰り返した。
尻尾で患部を撫でていると、小さな手が尻尾の毛を一房掴んだ。
少し引っ張られる感覚があったが、八剣は何も言わずに好きにさせる。
京一は八剣の尻尾を気に入ってくれたようで、寝る時は抱き付くようにしがみ付いて離れない。
平時もこうして触れて来て、ふわふわとした毛の中に顔を埋める。
その時の仕草が、八剣には可愛くて可愛くて堪らない。
「……ヒマ」
「そうだね」
「………」
かぷ。
京一が八剣の尻尾に噛み付いた。
痛くはない。
寧ろ八剣には、自分の尻尾の痛みより、京一の傷の方が心配だった。
「京ちゃん、足はまだ痛む?」
さっき無理をしたからではなく。
雨の所為で疼いたりはしないかと、問いかける。
京一は尻尾に顔を埋めたまま、しばらく考えるように視線を彷徨わせた。
それの意味を察して、八剣は京一を自分の膝の上に乗せてやる。
小さな体はちょこんと其処に収まって、八剣は京一を左手で抱きながら、右手で京一の足を撫でてやった。
家族のものではないからか、居候と言う身分を気にしてだろうか(構わないと言うのに)。
京一は甘えるのが下手なようで、痛いと思っても痛いと伝えてくれない事が多い。
自主性だけでなく、八剣が聞いても中々答えようとしないのはこの為だ。
でも、退屈を訴える位には気を許してくれていて、八剣から触れる分には甘えてくれる。
お気に入りの八剣の尻尾を離してくれない位には、気に入られているのである。
「雨が降ると、傷は痛むものだよ」
「…知ってる」
「ああ。だから、痛くなったらすぐおいで。おまじないしてあげるから」
「……インチキまじないなんかいらねェ」
京一がインチキだと言うまじない。
それが今、八剣が京一に対して行っていること。
包帯の上から、未だに癒えない傷を撫でる行為。
それで実際、痛みがなくなる訳ではないだろうけど、京一はこの行為を嫌がらなかった。
多分、気持ちだけでも少し落ち着くのだろうと、八剣は勝手に思う事にした。
だから、雨が降ると疼く傷の事は心配だけれど、
この意地っ張りの仔狐が甘えてくれるのは嬉しいから、雨は時々降ればいいと思う。
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ただでさえ京一に対しては、何処までも寛容するうちの八剣。
チビ京相手だと、更に際限がありませんね。