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八剣が家庭教師のアルバイトを終えて、保育園に着いたのは、午後8時。
早い方だ――――待っている幼子には酷く申し訳なく思う早さではあるけれど。
保育園の門を潜って園舎玄関へ向かうと、其処に大きな笹を見つけた。
飾られた色とりどりの短冊を見て、ああ今日は七夕だったかと空を仰ぐ。
幸い好天に恵まれた今日は、この時間になっても雲はなく、大きな天の川が夜空を彩っていた。
短冊には子供達の、ささやかだったり、大きかったりと様々な願い事が書かれている。
一部は何も浮かばなかったのか、まだ字が描けないのか、大人の目にはシュールに見える絵が描かれていた。
さて、それでは八剣の預かり子の短冊は何処にあるのか。
一通り見渡してから、子供の目には届かない高さに飾られているのを見つけた。
風に揺れて裏返っていたそれに手を伸ばし、引っくり返してみると。
(京ちゃんらしいね)
ただ一言、“ラーメン”と書かれた短冊。
書かれているのはそれだけで、絵も何もない。
多分、願い事が浮かばなかったのだろうと思う。
幼いながらに達観している節のある子供だから。
それが少しだけ寂しい。
短冊から手を離し、八剣は玄関の扉を開けた。
丁度、保育士の遠野が玄関先の掃除をしようとしていた所だったようで、下駄箱で目が合う。
直ぐに呼んで来ますと、遠野は慌しく遊戯室へと向かった。
数分の時間が経ってから、京一は遠野に手を引かれて玄関へとやって来る。
「じゃ、また明日ね、京一」
「ん」
愛想のない返事に、可愛くないなあと呟きながら、遠野は京一の頬を緩く抓る。
京一はそれにもぶすっとしていたが、嫌がる様子はない。
遠野の手が離れてから、八剣は京一の背を押して園舎を出た。
玄関扉を開けると、涼しい風が吹き抜けて行った。
隣で笹がさわさわと音を立てて揺れる。
京一がその音で笹がある事を思い出したように、脚を止めて笹を見上げた。
子供の身長で届くのは、下までしな垂れている葉っぱの一部ぐらい。
後は誰かに抱き上げて貰わなければならなくて、京一は飾られた短冊にすら手が届かなかった。
少しの間彷徨った京一の目線は、ある一箇所で止まる。
八剣はそんな京一の傍らに膝を折ってしゃがみ、京一と同じ高さから笹を見上げた。
「京ちゃんの短冊って、どれかな」
既に見付けているのだけれど、聞いた。
教えて欲しかったのだ、この子供から。
けれども、予想はしていたけれど、京一はぷいっとそっぽを向いて。
「しらね。かざったの、オレじゃねェし」
すたすたと、京一は園舎から離れて行く。
赤い鞄を背負ったその背中に苦笑を漏らし、八剣もまた、園舎を後にした。
街灯に照らされた道すがら、隣を歩く子供を見下ろしながら思う。
些細な願い事さえ、中々教えてくれない京一。
きっと、一番の願い事はもっと他にあるのだ。
でもそれを願うことを、子供が先に拒否している。
それは願っちゃいけないことだと、思って。
決してそんな事はないのに、傍らを歩く小さな子供は、ブレーキをかける事を覚えていた。
そうさせている現実が、八剣は少し恨めしい。
(だったらせめて、あの願い事は叶えてあげないと、ね)
たった一言書かれた願い事は、本当に一番願いたい事ではないけれど、嘘でもないのだ。
そう言えば前に食べたのはいつだったかなと思ったら、一週間前だったと気付く。
栄養バランスを考えて暫く作らなかったのだけど、大好物をお預けにされたのは、口に出さなくてもやはり不満だったか。
このお願い事を叶えても、多分この子は、あまり笑ってくれないと思うけど。
いつかは、一番のお願い事を、素直にお願い出来るようになる筈だ。
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子供のささやかなお願いの為に、大人が必死になるのって大好きです。