[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
家に帰ると、見知らぬ少年が蹲っていた。
「……間違いなく、京ちゃんだな……」
見知らぬ、けれどよく知る面影のある少年を見下ろして呟く。
明るい茶系色の髪に、癖っ毛気味の髪質、それに触れればむずがるように頭をふるふる揺らす。
頭には猫の耳、背中の方からは猫の尻尾、色は髪と同じ明るい茶系。
それらは、自分がよく知る子猫が持っているパーツと全く同様の色形をしていた。
しかし、ちょっと背伸びしたがりで生意気盛り、けれども子供らしく丸い頬は、今はシャープな形に輪郭を描く。
日中は尖らせた目尻は、眠っていれば一変して天使の寝顔なのだが、今は天使と言う表現は少々違う。
悪魔だとか見ていて気が悪くなるとかではないけれど、とにかく、いつもと印象が違うのだ。
それもその筈。
今此処で穏やかな寝息を立てているのは、子猫ではなく、猫であった。
「どうしてこうなっているんだか……」
今朝、家を出る時は普通通りだった筈だ。
仕事に出向く八剣を見送る訳でもなく、ベッドの上でシーツに包まって丸くなって眠っていた。
その姿は、人間の子供の五歳か六歳児程度の大きさだった。
だが今、目の前にいるのは、高校生程度の大きさにまで成長している。
単純に巨大化した訳ではなくて、身体全てが、まるで十年の歳月を一気に加速したかのように変化していたのである。
この猫が、八剣が面倒を見ている子猫と他人の空似である、なんて事は考えなかった。
子猫はいつも八剣に対して素っ気無い態度を取って見せるが、それはあの子が素直な性格ではないからだ。
世話になっている当人を前にして、好意と判る態度を取らないだけ。
だから言葉にした事は一度もないけれど、それでも子猫はこの部屋を自分の縄張りと定めている。
部屋のベランダに若い猫が迷い込んできた時、全力で威嚇して追い払っていた。
そんな子猫が、こんな大きな―――それも自分と同じ種と思しき―――猫の侵入を許すだろうか。
あまつさえ、子猫の指定席である座布団の上で丸くなって、すやすやと寝息を立てているなんて。
一先ず、猫を起こしてみよう。
安らかな睡眠を邪魔するのは忍びないが、このままにしておく訳にもいかない。
八剣が数回、猫の頬をぺちぺちと叩いて見ると、猫はいつもよりも低い声で鳴いて目を覚ました。
「にゃ……」
「おはよう、京ちゃん」
瞼を持ち上げた猫に、いつも子猫にしているように挨拶する。
猫はむっくりと起き上がり、ごしごしといつもの子猫のように目を擦る。
「おはよう」
「……ん」
短い返事の声は、やはり鳴き声と同じで、いつもよりも低い。
変声期をとうに終えた、見た目に合う声の低さだった。
子猫と同じ仕草、同じ反応、けれど違う声と違う姿。
これは一体どういう事なのか。
疑問に思っているのはどうやら八剣だけのようで、猫はじっと自分を見詰める八剣の瞳に、訝しげに顔を顰める。
「なんだよ。変な面しやがって」
変なのは俺じゃなくて、君なんだけどね。
思ったが言わなかった、恐らく憤慨すると思ったからだ。
そうなっては、話が先に進まない。
なんでもないよと答えた八剣に対して、猫は不可解そうに眉間に皺を寄せる。
子猫に比べて眦がきつくなったからだろうか、少々の凶暴性が其処に覗いたような気がした。
しかし怒り出す事はなかったので、このまま話を続ける事は可能だ。
―――――だが、その前に。
「取り合えず服を着ようか、京ちゃん」
========================================
別に裸だった訳じゃないですよ(汗)。
ちょっと大きなタンクトップとかTシャツとか着てたので、上半身は問題ありません。
やばいのは下半身です(笑)。
人間とは、特別に鈍感な動物だ。
視覚、嗅覚、味覚、聴覚、そして触覚に加えて第六感と、それらは全て他の動物たちに比べて春かに劣る。
個体別に見れば個─と種類により差異はあるし、ある種には劣るがある種には勝ると言う部分はあるだろう。
しかし結局、人間の五感ブラスアルファの感覚は、やはり他の種類に比べて随分と退化している。
これは脳────知恵・知能が発達した為の代価とも言える。
さて、他の動物に比べて鈍くなったとされる人間の五感プラスアルファであるが、これは一部については逆に幸運だったのかも知れない。
見なくて良いと言われるものを見なくなり、聞かなくて良いとされるものを聞かなくなり、やがては忘れていった。
だが、時にその五感プラスアルファの一部の能力が格段に高いものが現れる。
それらは俗に「動物並」と呼びなわされる感覚を備え、他者には気付かないものの存在を知ることが出来る。
特に第六感、シックスセンスは殊更に特別な面が見られるだろう。
八剣はどうかと言うと、動物並とは言わずとも、普通の人間よりは優れている方だ。
それは後天的に鍛えられたもので、主に視覚、聴覚と、直感────第六感がそうだ。
だが、やはり本物の動物には劣る。
………壁のただ一点をじぃと見つめる子猫を眺めながら、八剣はつらつらとそんな事を考えていた。
「……………………………」
ベッドの真ん中を陣取り、足下の枕に手を置いて、その両手の間にはいつもの人形。
“ちょこん”と言う祇園が似合う様で、京一は八剣の部屋の壁ただ一点を見詰めている。
京一が今の姿勢になってから、彼はずっと無言のままだ。
しかし彼の尻尾は先端だけがピクピクと動いており、同じく耳も小刻みな動きが見られる。
瞳は瞳孔が細く、目尻が釣り、所謂猫目だ。
ヒトと猫の両方の性質を持っている京一の瞳は、平時はヒトに近い特徴が表に出ている。
此処に猫の特徴が表に出る時は、彼の精神が興奮状態にある時だ。
八剣はしばらくそんな京一を眺めた後で、京一の視線をついと追いかけてみた。
そうして、その先に何かがある────と言うわけでもなく、あるのはやはり、白塗りの物言わぬ壁。
「どうしたの、京ちゃん」
「……………………」
問い掛けてみるが、京一からの返答はない。
じぃと、やはり壁の一点を見つめているのみ。
───────と、思ったら。
「フ────────ッッ!!!」
耳と尻尾の毛を一杯に逆立て、眉間に皺を寄せ、尖った牙を見せて威嚇。
じっとひたすらに見詰めていた、白塗りの壁のただ一点へと向けて。
静かだった筈の子猫の突然の行動に、八剣は一瞬瞠目する。
それから、ああ、と気付いた。
この子はヒトに近い姿形をしているが、猫であることに間違いはなく、尚且つ感受性豊かな子供であると言うことに。
「フギャ────ッ!」
益─毛を逆立てて威嚇する子猫に、八剣はクスリと笑う。
なんとも勇ましい子だと。
「フ─ッ!」
「京ちゃん」
「シャ─────ッッ!!」
威嚇に必死になっている京一は、八剣の呼ぶ声に気付かない。
八剣はそんな子猫にまたクスリと笑って、ベッド上で壁を睨み付けている京一を抱き上げた。
「何しやがんでェ!」
「いや、ね」
突然の事に目を白黒させる京一に、八剣は微笑んで。
ベッドに座して小さな体を膝に下ろし、抱き込めば、京一はすっぽりと八剣の腕の中に納まった。
昼間の昼寝の所為だろうか。
うっすらと太陽の臭いがする髪にキスを落とす。
にゃ、と呟きがあって、耳がピクピクと動いた。
「元気だねェ、京ちゃんは」
「お前、邪魔」
「そう? ごめんね」
膝から逃げようとする京一を、苦しくない程度に抱き締めて引き留める。
京一はむぐむぐと身動ぎして抵抗したが、八剣は離そうとしなかった。
離す所か、京一の頭を自分の胸に押し付けてしまう。
「邪魔っつってんだろ」
「ごめんね」
侘びながら、八剣は京一を解放しない。
八剣の胸に抱かれた京一は、もう壁を見ることすら出来ない。
感じることが出来るのは、自分を抱く男の、規則正しい呼吸と鼓動。
京一はしばらくむ─と唇を尖らせていた。
が、時間が経つにつれてその険は少しずつ瞳から薄れ、瞬きがゆっくりとしたものになり、爆発したように膨らんでいた尻尾が縮んで─────………
素直になれない小さな子猫が眠りに着くまで、珍しく然程の時間はかからなかった。
日向の臭いが残る髪。
もう一度口付けて、耳の根本を指で弄る。
耳がピクピクと震えるのが愛らしい。
そんな子猫を一度抱え直して、八剣は京一も一緒にベッドへと寝転がる。
擦り寄ってくる小さな体を受け入れて、その温もりを感じながら、八剣は顔を上げた。
「悪いね。此処はこの子専用だ」
告げた相手は、物言わぬ壁。
──────否。
其処にぼんやりと存在する、黒い猫。
黒猫はしばらくじぃと───少し前の京一と同じように───此方を見つめた後で、ついと踵を返した。
見えないものが見えるのも大変だ。
だって縄張りに勝手に侵入する不届き者が増えるから。
けれども、一所懸命に縄張りを守ろうと尻尾を膨らませる姿は、八剣には嬉しくて仕方ない。
だって誰にも譲れないくらい、この縄張りを気に入ってくれていると言うことだから。
====================================
縄張り争いです。
京一は八剣の傍が気に入ってます。口が裂けてもそれを八剣に言うことはありませんが。
なので侵入者は何であろうと恐れず追っ払います。
そんな京ちゃんを見て、八剣は「可愛いなあ」と(いつもと一緒だな)。
で、頑張った京一を抱っこして頭撫でてあげたらいい。
「ほらよ」
差し出された小さな箱に、龍麻は目を丸くした。
赤と緑のストライプの包装紙に綺麗にラッピングされ、ハートマークのリボンまでつけられている箱。
その正体を数瞬考えてから、リボンに『Happy Valentine』の文字を見つけて、ああそうかと納得する。
納得した後で、それはそれで可笑しい事に気付いた。
箱を差し出しているのは、親友で相棒の蓬莱寺京一だ。
……何故彼がこんなものを差し出しているのか、全く理由が判らない。
箱を受け取らない龍麻に、京一の方が焦れた。
それから、彼が何故受け取らないかと言う事も、表情から読み取ったらしく、
「勘違いすんじゃねーぞ。兄さん達からだ」
「………あ」
ようやく全ての疑問が解決されて、龍麻は箱を受け取った。
バレンタインデーのチョコレート。
女性が男性にチョコレートを渡して、愛を告白する日────と言うのが日本の認識だった。
けれども、最近は世話チョコとか友チョコとか、そう言う理由で色々な人から色々な人へチョコが渡されるようになった。
京一と龍麻は共にれっきとした男なので、基本的には貰う側となる。
実際、バレンタインが日曜と重なった為に、先取りして行われた学校でのバレンタインの光景では、龍麻も京一もそこそこ貰っていたものである。
だと言うのに、当日になって何故京一が自分にチョコレートを贈ろうと言うのか。
だが差し出されたチョコレートが“京一から”でないとなれば、納得できる。
京一が差し出したチョコは、京一が世話になっている『女優』の人々から贈られたものだった。
冬の初め頃に初めて顔を合わせた彼女達には、龍麻も可愛がって貰っている。
彼女達が昔から可愛がっていると言う京一の親友となれば、当人達にしてみれば、贈らない理由はなかった。
「苺チョコだってよ」
「うん。ありがとう」
「礼なら兄さん達に言え」
「うん。だから京一、言っておいてくれる?」
「気が向いたらな」
ぶっきらぼうに言いながら、京一は鞄からもう一つ箱を取り出す。
包装紙もリボンの色も同じだけれど、龍麻に渡したものに比べて少しだけ大きい。
恐らく、女優の人々が京一宛てに渡したものだろう。
京一は乱暴に包装紙を破くと、ぐしゃぐしゃになった紙は鞄にまた乱暴に突っ込む。
箱を開ければ手作りらしいトリュフチョコレートが並んでいた。
一つを摘まんで、京一はポイと口の中に放り込む。
「甘い?」
「いいや」
京一は甘いものが得意ではない。
長い付き合いの『女優』の人々はちゃんとそれを考えていて、甘さ控えめに作ってくれたようだ。
龍麻も包装紙を(綺麗に)取り去り、箱を開けた。
ピンク色のチョコレートの甘い香りが鼻孔をくすぐる。
一つ摘まんで、口の中に放り込む。
「美味しい」
「良かったな」
もごもごと口の中で甘いチョコを転がす。
溶け終わる頃にとろりとしたジャムのようなものが舌に乗った。
甘酸っぱくて、これも美味しい。
とろとろになったチョコレートが更に溶けてなくなって。
龍麻は、隣で三個目のトリュフを食べようとしている京一を見る。
「京一からは?」
ぴたり、京一の動きが止まる。
それから数瞬の間の後で、京一はじろりと龍麻を睨んだ。
「馬鹿かお前」
「違うよ」
「馬鹿だろ。野郎から貰ってどうすんだよ。しかもなんで俺がお前に渡さなきゃなんねェんだ」
それはそうかも知れないけれど。
バレンタインは女性が男性にチョコレートを贈る日であって。
二人はれっきとした男であるから、貰う側であり、渡す側ではないし。
でも。
女の子同士の友チョコもあるし、男性から女性へ贈る逆チョコと言うのもあるらしいから、京一からあっても可笑しくないと思う。
(駄目なのかなあ)
京一からのチョコレートが欲しい。
貰えたら嬉しいのに。
しかし京一の方はまるでそんな気はないらしく、四個目のトリュフを口へと放り込んでいる。
指先についたココアパウダーを舐めて、口端のチョコも舐め取る。
なんとなく、龍麻はそれをじっと見ていた。
欲しいけど、京一にそんなつもりはないようだし(当たり前だけど)。
ねだったら何が貰えるかも知れないけど、京一にそんな余裕はないだろうし。
無理やり貰うのは違う気がするし。
でも欲しいな。
そう思う自分は、案外ワガママな人間らしい。
「これで最後ッ、と」
京一は最後のトリュフを摘まんで、ぽいっと咥内へ。
甘いものは好まない京一だが、世話になっている『女優』の人達から贈られたものなら話は別だ。
ちゃんと自分の好みに合わせて作ってくれるし、何より、京一自身が彼女達に気を許している。
『女優』からの好意であれば、照れ臭そうでも、素直に受け取ることが多かった。
トリュフが納められていた箱は、綺麗に空っぽ。
『女優』の人々もきっと喜ぶに違いない。
もごもごと京一の口元が動いている。
龍麻は苺チョコを食べながら、じっとそれを見つめていて。
「きょーいち」
間延びした呼び方に、京一が振り返る。
その口端にチョコレートがついている。
「ちょっとちょうだい」
言って、返事を待たずに口端のチョコレートを舐め取る。
甘さの中に、ほんのりとした苦味。
龍麻には余り馴染みがない────けれど、嫌いじゃない。
京一が食べたチョコだし。
──────固まった親友に笑いかければ、目一杯力を込めて木刀を落とされた。
=====================
付き合ってるような、そうでもないような。
やっぱりうちの二人は、ぐだぐだやってナチュラルラブが基本だな……
此処しばらく、京一は落ち着いていたと言って良い。
八剣の家で過ごす日々は相変わらずだが、保育園ではケンカをする事がなくなったと言う。
それだけに、この事態は八剣にとって青天の霹靂であった。
「きょーいちー、聞いてるー?」
おーい、と声をかける保育士に対し、ぶすッと膨れ面になっている預かり子。
お気に入りの動物図鑑を持つ手は、何故だかボロボロで、腫れていたり引っ掻き傷があったり。
顔もあちこち傷があって、それは大したものではないだろうとは思うのだが、かと言って心配にならない訳がない。
増して預かっている子供であるのだから、ついつい過保護に見てしまうのも無理はなかった。
遊戯室のカーペットの上に座ったまま、京一は動かなかった。
八剣の隣で、遠野が繰り返し「お迎え来たわよ」と言っているが、まるで効果がない。
聞こえてさえいないようだ。
朝はごくごく普通だった筈だ。
いつも通りに起きて、いつも通りに朝食を食べて、一人でちゃんと保育園へ行く準備も済ませた。
もうちょっと手をかけさせて欲しいな、と八剣が苦笑を漏らすほどに、ちゃんと。
保育園へ預けた時も変わりはなく、保育園の門を潜った途端に、一人でさっさと園舎へ入って行った。
京一より後に入ってきて、最初に仲良くなったと言う子供に朝の挨拶をされて、ぶっきら棒に返事をする様も、同じ。
京一に何某かがあったと言うなら、無論、この園内での出来事だ。
それを遠野に聞こうとして、八剣は止めた。
遠野は不機嫌真っ只中の京一を宥めるのに必死になっている。
ならばと、部屋に散らかったオモチャを片付けているチーフのマリアへと目を向ける。
マリアは直ぐに視線に気付いて振り返り、動く様子のない京一と、無言でその理由を問う八剣を見た。
マリアは片付けの手を止めて此方に歩み寄り、声を潜める。
「他の子とケンカしてしまったんです」
「それを今も怒っていると」
「いえ、それは違います。その子とも仲直りしましたから」
マリアが気付いた時には、派手な取っ組み合いになっていた、京一と他の子供とのケンカ。
しばらくぶりに起きたケンカだっただけに一瞬対処に遅れたマリアだったが、それでもなんとか宥める事には成功した。
お互いにごめんなさいを言って、それから強制ではなく一緒に話をしている所も見られたから、京一の中でケンカそのものがしこりになっている事はないだろう。
「多分、ケンカの原因になった、図鑑の事だと思います」
京一の手にある動物図鑑を指差して、マリアは言った。
あの動物図鑑は、京一にとって一等お気に入りのものだ。
図鑑と言うだけあって分厚くて重いのに、京一はいつも鞄の中に入れて持ち歩き、暇があれば開いている。
開いたページはいつも同じページで、言うまでもない、パンダのページだった。
この図鑑に他の子供が何かしたのだろうか。
そう思っていると、別の方向から答えのヒントが零れて聞こえた。
「ページならくっつけたじゃない。ね?」
遠野のその言葉で、八剣は理解した。
多分、故意ではない出来事とは思うが、他の子供が図鑑のページを破ってしまったのだと。
「他の子が動物図鑑を見たいって言ったんです。京一君はいつも持ってるから、借りようって事になって……でも、京一君は嫌だって言ったんです」
それは京一が意地悪で言ったのではないと、八剣には判る。
京一が図鑑を大事にしているから、他の子供の手に任せたくなかっただけで。
けれども、言葉を受け取った子供にとっては意地悪でしかなく。
貸せ貸さないと言い合いになって、相手の子が京一の図鑑のページを一束掴んで引っ張った。
勿論京一はそれを嫌がり、図鑑を取り返そうと抵抗し────力は拮抗し、最悪の結果になってしまった。
大事な図鑑を破られた京一の我慢の限界は早く、マリアが相手の子にごめんなさいを促す前に、京一は相手の子を殴ってしまった。
相手の子も負けん気が強かったものだから、そのままケンカはエスカレート。
図鑑も京一も相手の子も、ボロボロになってしまったと言う訳だ。
マリアが仲裁に入って場は落ち着き、相手の子が故意ではないと言う事、それでも嫌がる京一から無理やり奪おうとしたのは良くない事をそれぞれに言い聞かせ、二人も十分それは理解してくれて、ちゃんと仲直りは出来た。
破れてしまったページをセロハンテープでくっつけて補修もした。
「……成る程」
京一は賢い子だから、相手がわざとでなかった事も、自分の言い方が良くなかった事も判っているのだろう。
これ以上怒り続けるのも意味がないと、それもちゃんと理解して。
けれど、大事にしていた図鑑が傷ついてしまった事実は、京一にとって耐え難いものだったのだろう。
「ごめんなさい、私達がちゃんと見ていないばっかりに」
「いえ」
眉尻を下げて謝罪するマリアに、八剣は苦笑する。
「何、一晩経てば落ち着きます。それより、こんな遅くまでありがとう」
「いえ、そんな」
謝罪と感謝の混じった八剣の言葉に、今度はマリアが苦笑した。
八剣は、折れ曲がった図鑑の表紙をじっと見詰める京一を抱き上げた。
いつもこうして抱き上げると、じたばたと暴れて嫌がるのに、今日は酷く大人しい。
その理由を、八剣は薄ぼんやりとだが想像する事が出来た。
「さ、帰ろうか、京ちゃん」
「………」
京一は無言だ。
ただ図鑑を見詰めているだけ。
遠野に京一の鞄を取ってきてもらい、八剣は自分の鞄と一緒にそれを肩に担ぐ。
図鑑さえ入っていなければ、京一の鞄に然程重いものは入っていない。
幸い今日は大学での荷物も少なく、この程度なら邪魔にはならない。
京一を腕に抱いて園舎の玄関まで行くと、マリアが京一の靴を小さなポリ袋に入れてくれた。
それを大学の鞄に入れて貰い、八剣は挨拶もそこそこに、ようやく保育園を後にした。
街灯がぽつりぽつりと点在する道を歩く。
擦れ違うのは定時前に上がって家路を急ぐサラリーマンや、夜の街を散策する今時風の若者ばかり。
時刻は午後8時を周り、成る程、子供の姿などあまり見られる時間ではない。
道路を行き交う車の中には、京一と同じ年頃の子供がいるかも知れないが、見えないのではカウントに加わらなかった。
それでも時折、両親に手を繋がれた子供の姿を見る事は出来た。
多分、親子揃っての外食帰りなのだろう、子供はとても嬉しそうに笑っていた。
「…………」
ぎゅ、と。
八剣の服を掴む小さな手。
顔を見られるのを嫌がってか、京一はずっと俯いている。
それでも、八剣には京一が今どんな顔をしているのか判った。
……多分、全部を押し殺した顔をしていると。
動物図鑑は、京一が母と姉と離れた後で、父から渡された物だった。
毎日を追われてろくに息子に構ってやれなくなった父の、精一杯の誠意と謝罪と、思いやり。
だから京一は、いつも図鑑を手放さない。
父がくれたものだから、父がまだ自分と繋がっていると判った瞬間だったから。
それと同じ日、久しぶりに母と姉の声を聞いたから。
破れたページ。
くっつけたページ。
でも、もう元には、破れる前には戻らないページ。
京一は、そのページを自分のページだと思ったのだろう。
離れた家族。
いつかもう一度くっつくかも知れない。
でも、もう元には、離れる前と同じには戻らない。
頭の良い子だ。
だからだろう。
京一は、最悪の場面ばかりを想像する。
それが現実になった時、自分が傷付くことがないように。
自分の所為で、誰かが迷惑になったりしないように。
でも、ふとした瞬間に淋しさや悲しさに押し潰されそうになるのは、子供だから当然の事だ。
大人だって情けないほどに喚き散らすことだってあるのだから、小さな子供なら、尚更。
「ラーメン食べて帰ろうか」
八剣の唐突な言葉に、京一は答えなかった。
行かないとも言わない。
だから八剣は、道を一つ早く曲がって、この間、美味しかったと京一が笑ったラーメン屋へと向かった。
===================================
ケンカしたのは小蒔とか雪乃ではないかと。
京一の家庭事情をまだ出し切ってないので、細かいトコは伏せたままです。
その内、本編で書き直すかも知れない話。
耐える子って好きなんです。
そんな子に、「大丈夫なんだよ」って精一杯愛を注いで大事にしようとする大人が好きです。
そんな大人に、その子が笑ったり泣いたりを我慢しなくなるのが、好きです。
どちらかと言えば――――と言わずとも、京一の運動神経は良い方だ。
子猫であるが故に、見ている側が「何故そんな事を?」と言いたくなる様な突飛な行動や手段はあるものの、基本的には普通の猫並に身のこなしは上手い。
だが、やはり子供であるからだろうか。
突拍子もない事でバランスを崩してしまう事もある訳で。
「――――――うぷッ」
昼食の準備の最中、リビングからどてっと音がしたので、八剣が振り返ってみれば、床に突っ伏した子猫。
その足元には、先程まで昼寝真っ最中であった京一が枕代わりにしていた、折り畳んだ座布団がある。
ああ、躓いたのかと八剣が気付くまで、然程時間はかからなかった。
「京ちゃん、大丈夫かい?」
「………………何が」
心配の声をかけてみれば、そんな言葉が返って来た。
思わぬ反応に八剣は、一回二回と瞬きする。
京一は突っ伏したまま起き上がらない。
見た所では顔面から倒れたように見えたから、顔でも打ったのかと、八剣は益々心配になる。
しかし先刻の声は至っていつも通りで、痛みを堪えている風でもなかった。
京一の尻尾を見てみると、基本的にはじっとしているものの、先端だけがピクピクと動いている。
これは苛立っている時に見られる傾向だ。
「京ちゃん」
手に持っていた包丁を置いて、キッチンからリビングに戻ろうとする。
と、その気配を感じ取ったかのように、京一はひょっこり起き上がった。
京一は立ち上がると、拗ねたように唇を尖らせ、
「………逃げた」
「何が?」
京一の言葉の意味が判らずに問い返すと、京一は益々唇を尖らせて、
「……虫」
「虫? …防虫剤が切れたかな」
「…………」
八剣の言葉に、そうなんじゃねェの、と京一は呟いて、ぷいっとそっぽを向く。
その顔はほんのりと赤くなっており、尻尾は先端だけがピクピクと動いていた。
まだイライラしているらしい。
そんなにも京一は虫に関心を持っていただろうか。
ちょこまかとすばしこく動くものを追いかけるのは、猫と言う生き物の本能と性質上、好きだとは思う。
しかし、かと言って見つけた瞬間に跳び付くほどの執着はなかったと思う。
ついでに言うなら、八剣の部屋には殆ど虫は侵入して来ない。
室内は常に清潔に保っているし、窓やドアの近くは防虫剤があるし、増して油虫の類など以ての外だ。
と言う事で、室内を見渡してみるが、やはり京一が言ったような虫の気配は見受けられず。
「いたんだぞ」
頭を掻いた八剣に、京一が言った。
見下ろせば、じぃと見上げてくる大きな瞳とぶつかる。
その顔はやっぱり赤く、尻尾は先端だけがピクピクと動いて。
「虫」
「ああ」
「いたんだぞ」
「ああ」
「ホントだぞ」
誰も嘘だとは言っていない――――そう思ってから、八剣は気付いた。
「そうだね」
くしゃりと頭を撫でると、子猫はぶんぶんと頭を振ってそれを払ってしまった。
そんな京一に苦笑して、八剣は床に置きっ放しになっていた枕代わりの座布団を拾うと、ベッドに放る。
「お昼ご飯、すぐ出来るからね」
座布団の代わりに、ベッドに鎮座していた人形を差し出す。
京一は、ぷくーっと頬を膨らませはしたものの、結局は人形を受け取るのだった。
====================================
mixiアプリの“おしゃべミックる”で、うちのミックるが「転んだのを必死で隠しています」てな事をしていたので……つい。
妄想してたら、こんな感じになりました。特に中身のない話ですみませんι
人形は拍手でも書いた、壬生お手製の八剣人形です。なんだかんだでお気に入り。