[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「左之助、どうだ?」
「あー……いい湯加減だぜ」
風呂の外で湯炊きをしていた弥彦の言葉に、左之助は気のない返事。
いささか疲れた声に聞こえるのは、弥彦の気の所為ではないだろう。
風呂に入らせて貰えることは有り難いが、薫にすっかり子供扱いされているのが応えているようだ。
追いかけっこの様子を思い出し、弥彦は確かにあれは大変だった、と思う。
弥彦だって廻りにしてみれば十の子供であるが、それでも男だ。
薫が年頃の娘で在る事は判っているつもりだし、一緒に風呂に入るなんて言語道断。
左之助に至っては十九歳で、恋仲でもない女と二人風呂に入る男はいないだろう。
これが湯屋ならまだしも。
なのに小さくなった左之助に、薫はすっかり母性本能を擽られ、構いたくて仕方がないらしい。
中身は十九歳のままの左之助にとって、それは屈辱的な話だ。
午後には、小国診療所に剣心が連れて行くと言っていた。
それで原因と治療法なりが判れば良いが、医者に見せて片付くものか甚だ疑問が残る。
そして、仮に原因と治療法が判ったとして。
すぐに元に戻れるのかと言ったら、そう簡単な話ではないと思うのだ。
恐らく、元の姿に戻るまで、左之助はこの神谷道場に居候する事になるだろう。
破落戸長屋に子供が一人暮らしなんて、弥彦にしても物騒だと思う。
言えば左之助は怒るかも知れないが、こればっかりは如何にもなるまい。
ぱちぱちと爆ぜる火に薪を投げ入れ、こんなもんかと弥彦は湯炊きを終えた。
足元の埃を払うと、弥彦は風呂場の格子窓に手を引っ掛け、壁に足をかけて中を覗き込む。
風呂桶の中にいたのは、やはり子供。
何度見ても信じられない光景だが、確かに此処にいるのは左之助だ。
言葉遣いも何気ない仕種も、よく知る男をそのまま映している。
視線に気付いた左之助が顔を上げた。
「なんでェ、なんか用か?」
「ん? いや、別に用はねえけど」
風呂の底に足が着かない左之助は、湯船の縁にしがみついている。
そんな左之助を見る事があろうとは、夢にも思っていなかった……思えるものでもない。
つくづく、弥彦は不思議な気分だった。
「……本当に左之助なんだよな」
「だから、そう言ってんだろ」
「だってよ、オレの知ってる左之助はもっとデカイ奴だし」
弥彦が知っている左之助は、十九歳の姿だけ。
誰にでも過去はあるものだけれど、弥彦はあまり想像することが出来ない。
剣心の過去も、薫の過去も、勿論あるけれど、弥彦にとっては遠い時代の事のようだった。
あの大きな背中にも、こんなに小さかった時代があったのだ。
「意外と小さかったんだな、左之助って」
剣心のように小柄ならば、想像できた。
けれど左之助は一等背が高く、蒼紫や斎藤と並んでも然程の差はないだろう。
だから自然と弥彦は、昔から大きかったのではないかと思っていた。
弥彦が想像していた事は、言葉なくとも左之助には伝わったらしい。
湯船の縁に腕を引っ掛け、沈まないように保って、左之助は自分の右手を見つめた。
「そうだな……この頃は、まだ小さかった」
「いつからあんなにデカくなったんだ?」
「あんまりはっきり覚えちゃいねェが、十三、四の頃だったか。赤報隊にいた時は、隊長も見上げねえと顔見えなかったし」
「…赤報隊にいた時って、オレと同じ年ぐらいだったんだっけ」
「ああ、そんくらいだな」
拳ダコすら消えた右手を、握ったり開いたり。
しながら左之助が何を考えているのか、弥彦にはよく判らない。
過ぎた日を振り返るほど、弥彦はまだ、成長していない。
成長の真っ只中にいる今、過去を振り返るほどの猶予と時間はなく、それほど大きな出来事もない。
両親を失ったことは今でも思い返せば寂しいし、菱卍愚連隊の事だって強烈な記憶だ。
だが、それにも勝る激烈な日々を駆け抜けている今、過去よりも前に進むことの方が弥彦にとって大切だった。
「……オレも、でっかくなれるよな」
「なんでェ、急に」
「…いや、なんとなく」
自分よりも小さかった左之助が、あんなにも大きくなれたのなら。
いつか自分も大きくなれるのだろうかと、弥彦は思う。
視覚的な話だけではなく。
剣心も、左之助も、弥彦よりもずっとずっと前を走っている。
薫はそれで普通なのだと、十歳という年齢を考えれば無理はないと言うけれど。
いつか大きくなれたら。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、不意に、ばしゃんと派手に水飛沫が上がった。
「――――左之助?」
音の出所など、其処しか在るまい。
弥彦はそろそろ辛くなってきた姿勢に少しだけ無理を強いて、今一度、格子窓から風呂場を覗き込む。
――――先程まで、湯船の縁に掴まっていた子供の姿はなく。
湯場から上がった訳でもない様子に、弥彦はまさか、と思い。
「左之助!!」
いつだって心配無用の男に対して、こんな切羽詰った声をかけるとは思わなかった。
返事はなく、弥彦は格子窓から飛び降りると、急いで風呂の入り口に回る。
戸を開けると立ち込める湯気に一瞬視界を奪われた。
着物の袖を捲り上げ、腰掛け椅子に上り、濡れるのも構わず湯船に腕を突っ込んだ。
掴まえた肩を思い切り引っ張り上げる。
「―――――っは……! ぜ、はぁっ…!」
「左之助、大丈夫かよ!?」
縁を掴むのに疲れたのか、それとも湯当たりか。
自分がすぐ外にいて良かったと、弥彦は心底安堵した。
風呂炊きを終えて稽古にでも行っていたら、こんな事態になっても気付かなかった。
最近ちらほらと聞く、銭湯で溺れる子供を思い出し、弥彦はゾッとする。
幾らなんでもそれはないだろうと思っていた薫の心配事が、本当に起きるなんて思ってもいなかった。
真っ赤な顔の小さな左之助を、弥彦は腕の力だけでなんとか持ち上げ、湯船から外に出してやる。
「げほっ、っぷ……はーっ……し、死ぬかと、思ったぜ……」
弥彦に支えられて、左之助はぐったりと項垂れる。
「まさか、お前ェに助けて貰う日が来るとはな…」
「しかも風呂場だぜ。なんか間抜け……」
「言うな」
弥彦の呟きに、苦々しげな顔をして左之助は言う。
「薫が聞いたらホラ見ろってとこだろうな」
「…言うんじゃねえぞ。こんなの知られてたまるか」
「言う気はねえけど、危ないのは確かだろ」
「元に戻っちまえば問題ねえよ。ちょっと手ェ滑っただけだし、もう二度とねぇから」
濡れて張り付く前髪を掻き揚げ、左之助はきっぱりと言い切った。
「で、どうするんだ? まだ入るのか?」
「あー……いや、いいわ。上がる」
ちらりと湯船を見遣って出た答えは、弥彦も予想通りだった。
あんな目にあった後ですぐにもう一度浸かりたいなんて、其処まで風呂好きではない左之助だ。
薫が散々言っていた埃も十分落ちた事だし、と左之助は手拭で身体を拭いていく。
なんとなくその背中を見ながら、やっぱり小っちぇな、と弥彦はぼんやりと思った。
右手が包帯に覆われていないのも、晒しもないのも、なんだか目の前の子供の全てが不思議でならない。
中身がそのままで、身体はすっかり子供になってしまっているのだから、まずその事態そのものが不思議だらけだが。
小さな左之助の身体は、まだ発展途上と言うにも足りない。
歳相応の肉はついているが、鍛えられた筋肉はなく、さっき掴んだ肩も酷く薄かった。
長身の割りに細身なのは確かだったが、ケンカで鍛えられた身体は伊達ではないのだ。
飛天御剣流を持ってしても倒れることのなかった頑丈さを、弥彦はまだ覚えている。
しかし目の前にある子供の背中は、記憶にあるものよりとても小さく、頼りない。
筋金入りの意地っ張りと負けず嫌いは、恐らく生来からのものだろうが、身体付きは後天的なものだったか。
打たれ強さは天性のものらしいけれど。
壊れかけていた右手は、今は弥彦よりも小さく、柔らかい。
子供らしく大きな瞳は成長後の面影を今から宿しているが、睨み付けられても、子供の生意気程度にしか見られまい。
何もかもが自分の知っている男とは程遠くて、弥彦は首を傾げる。
何度も確認したけれど、これが本当に左之助なのかと。
そうしている間に、左之助はさっさと弥彦の襦袢を羽織っていた。
柄のない真っ白な襦袢はやはり今の左之助には大きいらしく、裾合わせに梃子摺っている。
「なぁ、悪ィが持っててくんねぇか?」
「いいぜ」
合わせた襟元を持ってやると、左之助は帯を手早く結ぶ。
左之助が襦袢を着ているというのも、また変わった風体のような気がする。
いつも半纏に細袴だから、なんでも珍しく見えてしまうのだろう。
これでよし、と左之助が息を吐いて、弥彦も支えていた襟を放す。
その時見えた帯の結び目に、弥彦は笑った。
「お前、結ぶの下手だな」
「煩ェ、解けなきゃいいんだよ、こんなモンは」
真ん中から曲がった位置にある結び目。
左之助はこれで十分だと弥彦の横を通り過ぎる。
いつもの半纏が乾くまでで良いのだから。
「それより、剣心何処だ? まだ洗濯してんのか?」
「多分な。多分庭にいると思うけど、まだ半纏乾いてないと思うぞ」
弥彦の言葉を最後まで聞かず、左之助はさっさと言ってしまう。
その小さな手が頭を何度も触っているのを見て、ああそうかと弥彦は気付いた。
いつも其処にある鉢巻がない。
それが落ち着かなくて、それだけでも早く手元に取り戻したのだろう。
庭に向かう小さな背中を追い駆ければ、あっさりと追いつくことが出来て。
やっぱり不思議な、奇妙な感じに、弥彦は偶にはこんな日もあっていいかと思う事にした。
次
弥彦と仔左之。なんだか真面目な話になりました。
明治の初めはまだ自宅に風呂というのは少なかったようですが、話の都合上書いてしまいました(←風呂場で溺れる左之が書きたかった…)。
弥彦は色んな意味で難しい……
しげしげと眺める不躾な程強い二対の視線。
そろそろ止めて貰えないものかと思うが、無理もないと思う気持ちがないでもない。
自分だって見知った知人が急に縮んだりすれば、同じ行動を取るだろうから。
剣心は縮んだ左之助と、それを眺める(観察すると言った方が正しい)薫と弥彦に、眉尻を下げる。
左之助は長身であったから、いつも皆、見上げていた。
座しても自分が座っていればやはり頭は高い位置にあって、いつも見上げる一方だった。
それが今だけは、見下ろさなければその顔が見えない。
周りが大人ばかりで、見上げる姿勢が段々と癖になっていた弥彦などは、尚更不思議な感覚だろう。
また、左之助も同じく、弥彦に見下ろされるという不慣れな状況に違和感を覚えているに違いない。
すっかり左之助の観察に夢中になっている二人に、剣心は声をかける。
「二人とも、朝餉の用意が出来たでござるよ。左之も」
「おう……」
「うん…」
返事はするものの、二人の視線は左之助に釘付けになったまま。
左之助の方は、促す剣心の声に素直に従い、立ち上がる。
あまりにじろじろと見られるのが嫌になったのだろう、現状打破できるのならなんでも良かったのだ。
用意された朝餉の席に座ろうと移動する後姿を、また二人は目で追い駆ける。
しっくり来るのに、“着ている”と言うより“着せられている”感の強い悪一文字が、いつも以上に目を引いた。
子供の小柄な背中にその悪一文字は大きく見えて仕方がない。
いつからこれを背負っていたのか、本人以外は誰も知らないが、こんな幼い時期ではないだろう。
この年頃はまだ家族の下にいたに違いない。
額の鉢巻がゆらゆらと揺れて、其処に並ぶ悪一文字に、ああ左之助だと感じる事はあるものの。
見遣る小さな身体はいつもの大きな背中とは並べるべくもなく小さくて、薫と弥彦は顔を見合わせ、首を傾げた。
二人の疑問は左之助も判っているのだろう。
少し居心地悪そうに顔を顰めると、剣心の隣に腰を下ろした。
頂きますの挨拶も言わず、左之助は食事にありついた。
ガツガツとやけ食いにも見える勢いに、内心複雑な様がありありと予想できる。
やや時間を置いてから薫と弥彦も席に着き、遅れて朝食となった。
弥彦も勢いよく食べるが、今の左之助ほどではない。
寧ろ時々左之助をちらちらと見遣るので、いつもより食事のペースが遅いほど。
聞きたい事は色々あるのだろうが、何から聞いて良いものやら。
時折視線を彷徨わせる薫の心境は、そんな所だろう。
左之助は完全に食事に意識を持っていっているようで、周りの視線は黙殺している。
代わって剣心が――先に自分から話すとも言ったし――説明する。
「見ての通り、この童は正真正銘、左之助でござる」
「はぁ………」
「……って言われてもよ…なんだってそんなになってんだ?」
「原因は今の所判らぬが、こんな状態では色々と困るだろうし、今日は此処にいさせても良いでござろう?」
「それは別に良いけど。でも……本当に左之助なのね……」
「だから、そう言っただろうが」
むすっとした表情で言う左之助に、薫はうん、と頷く。
が、やっぱりしげしげと左之助を観察してしまう。
「妙なものでも食べたの?」
「道端に生えてる変な草とか」
「……テメェら……」
「あー、昨日はそういった事はないと」
よく草っ葉を口に含んでいる左之助だが、別に食べている訳ではないだろう。
野草などアク抜きしなければ食べれたものではない。
弥彦の言葉に怒りを滲ませる左之助の変わりに、剣心が否定する。
「午後には小国診療所で診て貰うつもりでござる」
「医者に見せてどうにかなるもんか?」
「何もせぬよりは遥かに良いでござるよ。左之助も行く気になったし」
女狐には見られたくないけどな――……とブツブツ呟く声を聞いたのは、剣心だけだった。
食後、剣心が食器を洗っていると、俄かに屋内が騒がしくなった。
薫と弥彦がど突き合いでも始めたか、と思ったが、どうもそうではなさそうだ。
薫の声と一緒に聞こえてくるのは、確かに少年のものであったが、弥彦ではない。
まだ変声期さえも迎えていない、幼い子供の声。
布巾で濡れた手を拭い、ひょいと廊下に顔を出す。
丁度その時、突き当りの角を曲がって子供が飛び出してきた。
続いて、薫も。
「剣心、左之助を捕まえて!」
「おろ?」
どちらも必死の形相で走ってくるが、薫の方は鬼気迫るものがあった。
左之助は剣心がいる事すら頭にないのか(逃げるのに必死)、一直線にこちらに向かって来る。
それに手を伸ばすと、後ろの気配のみに気を取られていた左之助は、あっさり剣心の手に捕まえられた。
「てめェ剣心! 離しやがれ!」
「絶対離しちゃダメよ、剣心!」
「…一体なんの騒ぎでござるか?」
散々逃げ回ったのだろう、そして散々追い駆けたのだろう。
左之助の方はまだ逃げる気満々であったが、薫の方は肩で息をして随分と疲労している。
いつもは弥彦と稽古をしている時間だというのに、薫が左之助にかかずらわるなど珍しい。
逃げようとする左之助を片腕でひょいと持ち上げ(これには剣心も少し驚いた。軽過ぎる)、宙ぶらりんにする。
それでも諦めず暴れる左之助だったが、猫のように持ち上げられていてはどうにもならない。
ようやく追いつけた薫は、きつと強い目線で左之助にずいっと顔を近づけた。
「こんな格好でウロウロされたら、埃が立って大変なのよ! だからお風呂に入れようと思ったの」
「朝から風呂とは、贅沢でござるなぁ、左之」
「暢気な事言ってんじゃねえ!」
「良いではござらんか。風呂嫌いではないでござろう?」
宙ぶらりんの左之助を目線の高さまで持ち上げて問うと、左之助は真っ赤になり、
「オレぁ一人で入れるってのに、嬢ちゃんが聞かねぇんだよ!!」
……左之助のその言葉は、確かに年頃の男であったら嫌がるであろうと剣心も思った。
「だって溺れちゃうじゃない!」
「そんな間抜けするか!」
「背中だって届かないでしょ」
「届く届かないの問題じゃねェ! 一人でいい!」
「足滑らせたりしたらどうするの!」
「しねェっつってんだろー!!」
見た目は五つ六つの子供だが、中身はつい最近まで一緒に行動を共にしていた十九歳の左之助のままだ。
子供好きの薫は世話心を擽られ、親切心で言っているのだろうが、左之助にしては大きなお世話。
薫はどうやら、左之助を完全に小さな子供として見ているらしい。
確かに、見た目がこれ位幼いと、粗暴さはやんちゃとして取られ、可愛く見えるものである。
弥彦とは違う生意気盛りに、母性本能を擽られたのかも知れない。
でも、やっぱり左之助は左之助だ。
自分達がよく知る、一人前の男なのだ。
……見た目はこんな状態だけど。
「薫殿、何も其処までせずとも……」
「ほら見ろ、剣心だってこう言ってんだろが」
「だって危ないじゃない」
「薫殿が気にかけるほど、左之は子供ではござらんよ。中身はそのままなのだから、心配無用でござる」
「でも………」
じっと薫に見つめられ、左之助は居心地悪そうに目を逸らす。
もう逃げないだろうと床に下ろしてやると、腕を組んで大人しく其処に立っていた。
「薫殿の好意を嫌と言っているのではないが、何せ左之も男だから……」
「でも子供だし……」
「それは見た目だけでござるよ」
また手を出されてはたまらないと、左之助はちゃっかり剣心の影に隠れている。
それを見た薫は、これ以上嫌われてしまうのが嫌だったのだろう。
小さく溜め息を吐くと、判った……と少しガッカリした様子で呟いた。
落ち着いて風呂に入れるとあってか、左之助がホッと肩を撫で下ろす。
「今、弥彦にお湯沸かして貰ってるから」
「別に水で構わねェぜ、オレは」
「だーめ。子供って免疫力ないんだから、冷えたら風邪引いちゃうわよ」
「……薫殿……」
子供を叱る母親のように、腰に両手を当てて言う薫に、左之助は思いっきり顔を顰めていた。
これには剣心も最早苦笑するしかなく、助けを求めるように睨む左之助にも応えられない。
気の済む程度に合わせておくしかなさそうだ。
短気に見えて気の知れた人物に対しては、左之助は大抵寛容である。
風呂にのんびり入れるのは嬉しい事だし、と薫の言葉に鷹揚に頷いた。
それに薫は満足したようで、にっこりと笑う。
それから、左之助の半纏に手をかける。
「これも随分埃だらけよね」
「ん? ああ、まぁな」
「泥もついてるし……」
「長屋から来る間に、ちょいと引き摺ったしな…」
背中の悪一文字も心なしか薄汚れてしまっているように見える。
「うん。お風呂に入ってる間に洗ってあげるわ」
「はぁ?」
「折角の一張羅でしょ。洗えるうちに洗わなきゃ。綻びのあるし、繕っておくわよ。あ、鉢巻も洗った方が良いかしら」
「い、いい! そんなの自分でやる!」
「好意はちゃんと受け取る!!」
ずいっとまたしても顔を近づけて言われ、左之助は後ずさる。
悪一文字の半纏は、赤い鉢巻と同じく、左之助のトレードマーク。
白地に黒で染め抜いたその一文字には、左之助の沢山の想いが詰まっている。
左之助は、大抵この半纏の着たきり雀だ。
何処に行くにも悪一文字の半纏と細袴、初めて逢った時も、京都に行った時も同じ。
折を見て洗濯してはいるのだろうが、長屋で水洗いをして着れる程度まで干しているのが精々だろう。
糊付けなんてしていないだろう、と薫は踏んでいた。
だが、やはり左之助もそう簡単に一張羅を人の手に委ねたくないらしい。
額の赤い鉢巻に至っては尚の事。
剣心の影に隠れる左之助を捕まえようと、再び追いかけっこが始まる。
今度は屋内全体ではなく、剣心の周りをぐるぐると。
「か、薫殿」
「こら、待ちなさい!」
「だからいらねぇっつってんだろ!」
「薫殿、其処までせずとも」
「剣心、どうにかしてくれよ!」
「どうにかと拙者に言われても…」
「剣心、退いてよ!」
「いや、拙者も退きたいのだが……」
いたちごっこの如くぐるぐると回る子供と少女に、剣心は目が回る気がした。
左之助を捕まえれば、左之助が怒るだろうし。
薫を止めれば、薫が怒る。
誰か助けてくれないものかと思った所に、風呂を沸かし終えた弥彦が戻って来た。
「………何やってんだよ、お前ら………」
剣心を真ん中に置いてぐるぐると回りを廻る左之助と薫に、弥彦は呆れた顔。
遊んでいる訳ではないのは彼等の表情を見れば判るだろうが、間の抜けた光景である事には変わりあるまい。
「薫殿、弥彦が」
「あ、うん。ほら左之助、お風呂!」
腕を伸ばして、すらりとした手が遂に左之助を捕まえる。
襟首を捕まれて猫のように宙ぶらりんになって、左之助も遂に諦めた。
「入るけどよ……嬢ちゃん、オレ着替え持ってねぇぜ」
「弥彦の寝巻き、左之助に貸しても良いわよね」
「いいけど、今の左之助だと、それもデカイんじゃねえの?」
今の左之助の身長は、弥彦の胸の高さが精々。
弥彦も小柄だが、それはかなりの身長差がある。
薫は特に気にした様子はなく、乾くまでだから、と言う。
「剣心、左之助の半纏、洗ってあげてね」
「……拙者は構わぬが…左之、良いか?」
「……じゃねェと嬢ちゃんが納得しねえんだろ……もう好きにしろよ」
抗う気力をなくした左之助は、がっくりと頭を垂れてしまった。
弥彦にぽんぽんと慰めるように肩を叩かれるが、それも今の左之助には酷だったのか。
盛大に溜め息を吐くと、過去にも何度か入らせて貰った風呂へと向かう。
その背中を見送りつつ、剣心は隣で楽しそうにしている薫を見遣る。
実に楽しそうなその顔は、左之助をすっかり小さな子供として扱っている。
当人に悪気はないのは判るが、十九歳の男にとって、それは結構痛手だ。
おまけに見た目が幼くなっている今、左之助が何を言っても、薫にとっては子供の意地っ張りでしかない。
思ったよりも早く薫が今の左之助に慣れてくれたのは有り難いが、これは想定の範囲外。
しばらく左之助は大変な思いをしそうだと、剣心は他人事のようにぼんやりと考えていた。
うきうきと楽しそうな薫に、早く元に戻る手立てを探さねばと思う剣心だった。
次
逃げ回る左之助を書いてみたかったのです。
女の子書くのは苦手です……
ドンドンと荒く叩かれる門戸に、目を覚ましたのは剣心であった。
薫と弥彦は、昨日は随分と修練に熱が入っていたらしく、すっかり爆睡していた。
朝餉の準備もあるので、この時間に目が覚めるのは珍しいことではない。
しかし門戸を叩く音に起こされるというのは、普通に目覚めるのに比べて落ち着かないものだ。
朝早くから一体誰がなんの用事なのか――――、剣心は欠伸を堪えながら手早く着替えを済ませた。
顔を洗って寝起きの頭を覚ましたい所だが、門戸を叩く音は止まず、急かしているようであったから、
仕方なく剣心はこれまた欠伸を堪えながら、神谷道場の門戸へと向かった。
門戸が荒々しく叩かれる事には、良い思い出がない。
何某かの騒動が起きている事が常であるので、剣心は少しだけ、門を開けるのが億劫だった。
とはいえ放って置くわけにも行くまい、この叩く音の大きさは立派な騒音だ。
「はいはい、どちら様でござるか――――――………」
しかし、開けてびっくり玉手箱(いや、門か)。
この日ほど驚いたことはなかったと、剣心は後に語るに自信を持った。
【相楽少年記 神谷道場編】
「………これは、また…………」
随分と下に位置する子供の頭を見下ろす剣心の目は、正に点状態。
開いた門の向こうに立っていたのは、白い薄汚れた半纏を着た小さな子供。
齢は五つか六つの頃と言った所で、弥彦よりもずっと小さい。
だがその面立ちは、剣心が無二の友人と呼ぶ青年にそっくりであった。
負けん気の強いぎらりと光る眼力と、鶏冠を思わせるツンツンに立った髪。
生意気盛りの子供らしく、真一文字に噤んだ口の変わりに、見下ろされるのは不本意だとありありと顔に描かれている。
だからと言って剣心がしゃがんで目線を合わせるなんてした日には、足か拳が飛んでくるに違いない。
更に決定打となりうるのは、額に巻かれた赤い鉢巻。
それこそ、剣心の友人が常に肌身離さず身につけている代物であった。
そう。
この子供は、相楽左之助そっくりで。
「………左之に子供がいたとは、知らなかったでござる」
「お決まりのボケやってんじゃねえよ! 本人だッ!!」
案の定、剣心の言葉に蹴りが飛んできた。
向う脛を遠慮なく蹴飛ばされて、剣心は足を抱えて蹲る。
「言われるだろーと思ってたが、やっぱ言われっと腹立つぜ!」
「おろ〜………」
腕を組んで憤慨する子供に、剣心は眉尻を下げる。
確かに、そうして怒る様は、自分のよく知る青年と綺麗に重なる。
だが面立ちが似てはいても、其処にあるのはやはり幼い横顔であった。
だから思わずもう一度確認したくなるのも、無理はない。
「お主……本当に左之助でござるか?」
「だからそうだっつってんだろ。……まぁ、そう言われても無理ねェたぁ思うけどよ」
むすっとした顔で言う子供―――――左之助は、見下ろす剣心をまた不満そうに見上げた。
長身に育った筈の左之助に見上げられるとは、なんとも奇妙な気分だ。
弥彦曰く“剣心組”の中では、華奢に見られても一番立派な体躯をしていたと言うのに。
……此処にいるのは左之助でありながら、弥彦よりも更に小さな左之助であった。
取り合えず中にと促せば、小さな左之助は遠慮なく神谷道場の敷居を跨ぐ。
出逢って一緒に行動を共にするようになってから、左之助はいつでも遠慮なく此処に来る。
全く気負いのない足並みは、やはり剣心のよく知る左之助と同様のものだ。
更には、背中に悪一文字が翻り。
子供には大きすぎる文字であったけれど、しっくりと嵌る背中に、これは左之助以外の何者でもない。
「しかし、一体何故そのような状態に……」
「そりゃ俺もよく判らねェんだがな。家で一人で考えてても埒開かねェんで、こっちに来てみたんでェ」
大きさの合わない靴―――いつも左之助の履いていた靴だ―――を脱ぎ、左之助は道場の縁側に上がる。
いつも晒しで覆われていた足は、今は外気に晒されて、子供らしく柔らかそうだった。
同じく無骨な大人の形を象っていた手の平も小さくなっており、触れればぷにぷにと反動がありそうだ。
拳ダコも、二重の極みの後遺症すらない、まっさらな手だった。
落ち着いて見れば、左之助の格好は不浮児と言われても文句の言えない身形だった。
着ているのは悪一文字の半纏一つ、いつも開いていた前襟を合わせて、腰の位置で紐で括っていた。
成長したからこそ履けていた細袴などなく、東京の街中ではもうあまり見ない風体だ。
おまけに道中どうしていたのか、左之助は埃塗れ。
怪我こそしていないものの、乞食と間違われても仕方があるまい。
こんな格好で、朝早くの街中を子供一人で歩いてきたのか。
破落戸長屋を出る時でさえよく無事でいられたものだと、剣心は眉尻を下げる。
「何か得体の知れぬものでも食べたとか」
「昨日は修のトコで飯食ったからな。妙なもんは口に入れてねぇよ」
「昨夜は長屋に?」
「おう。飯ついでに酒飲んで帰ったが、ちゃんと床について寝たぜ」
左之助はザルだ。
酒に酔って、何か妙なものを食べたという事はないだろう。
腕を組んで隣に腰掛ける剣心を、左之助は見上げた。
「うーん……拙者もこれはなぁ…初めて見るものだし」
「やっぱ知らねェか。そりゃそうだよな、ガキになっちまうなんてよ」
「小国診療所に行ってみてはどうでござるか? 身体の異常は、医者の領分でござるよ」
「……って、あの女狐のトコじゃねえか。こんなので言ったら、何言われっか判ったもんじゃねえよ」
「しかし、何か奇病かも知れぬでござる。放って置いては、何が起こるか判らぬよ」
懇意にしている医者の名を上げれば、其処で働いている女性を思い出し、左之助はあからさまに顔を歪める。
整った面立ちであった筈の凄み顔はそれなりに効力のあるものだったが、今はまるで皆無。
医者にかかるのを嫌がる子供のように見えて、剣心はどうしたものかと首を捻った。
剣心の危惧が判らぬでもない左之助は、むうと押し黙って腕を組む。
子供になってしまった自身の身体の変調は気になるものの、左之助と恵は顔を合わせれば憎まれ口を叩く仲。
決して悪い仲ではないのだが、こんな情けない姿を見せる気にはならぬもの。
それでも剣心のもとにあっさりと来たのは、自分が認めた男だから、という意識の違いか。
意地っ張りな左之助のこと。
一人ではどうあっても、診療所には行かないだろう。
「拙者も同行するでござるから、話だけでも聞いて見るでござるよ」
「……………わーったよ………」
渋々という表情で頷く左之助に、一先ずこれで良し、と剣心は息を吐く。
「これから拙者は朝餉を作るが、左之も食べるか?」
「おう。起きてからずっとこんなだからな、腹減っちまった」
「薫殿と弥彦には拙者から話そう」
「おう」
台所に向かう剣心の後ろをついて歩く、小さな子供。
ちょこちょことついて来る様がなんだか雛のようで、剣心はこっそりと笑った。
小柄とは言え、剣心は大人だ。
普通の歩幅で歩いては、今の小さな左之助を置いていってしまう形になる。
かといって今の左之助に合わせて歩けば、それに気付いた左之助が怒り出すのは容易に想像できた。
身形は小さな子供のようでも、頭の方は剣心達がよく知る左之助なのだ。
小走りになる左之助が追いつくことが出来る程度の歩幅で、剣心は台所へ入っていった。
米を砥ぐ剣心の横で、左之助は落ち着かない様子で、半纏の裾を捲り上げたり戻したりしていた。
十九歳の時はしっかりと肌身に合っていたのに、今は腕を下ろすと手が袖の中に隠れてしまう。
未発達の肩にも半纏は乗り切らず、ずるりと容易く落ちてしまった。
幼児期と比べ、自分が如何に成長していたか、逆の形で認識させられるとは思わなかっただろう。
なんとも微妙な表情をしている左之助を尻目に、剣心は米を釜に入れた。
「左之助」
「あ? ……おう、なんだ?」
半纏の前を合わせていた紐を結びなおしている左之助に、剣心は声をかける。
「すまぬが、米を炊いておいてくれるか? 拙者は魚を焼くから」
「ああ、いいぜ。暇だしな」
鞴を手渡すと、左之助は嫌な顔一つせずに竃の前に屈む。
最近はすっかり他人に集る事の多い左之助だが、もともとは一人暮らしで、出身は農家だ。
意外と様になっているおさんどん姿に、また剣心はこっそりと笑う。
釜土の火を左之助に任せ、剣心は七輪を取り出す。
戸口の外に運んで、火をつけて魚を四尾乗せた。
パチパチと小気味の良い音を立て、魚に火が通っていく。
時折、左之助が煙に噎せ返るのが聞こえた。
気付かぬ振りをしていると、左之助は咽た涙目を擦りながら、また鞴を吹く。
「今日は左之助がいてくれるから助かるでござるよ」
「嬢ちゃんなんかは……ゲホッ、やらねえのかい」
「たまには作る事もあるでござるよ。でも、昨日は弥彦を随分扱いていたようだし、お疲れのようでござるから」
そういう理由で、大抵朝夕の準備は剣心の役目になっている。
他にこれと言って目立ってする事もないから、剣心にとっては気の楽なものであった。
「ふーん……そうか…ゲホッ、けほ、うっぷ……」
「左之? 大丈夫でござるか?」
風向きの所為で、煙が少し土間に入り込んでいた。
常であれば気にならない程度のものであったが、左之助のムセ具合が気になった。
しかし、中から聞こえてきたのは気丈な声。
「ああ、ヘーキヘーキ。気にしねぇでくれ」
「……あまり無理は良くないでござるよ」
「ヘーキだって。米ももう直ぐ炊けるからよ」
風向きを考えれば良かったな、と今更になって剣心は考える。
せめてもと、少し七輪を移動させ、煙が土間に入らないようにする。
焼き魚の香ばしい匂いに、頃合かと七輪を火消し壷へと運んだ。
丁度その時、土間の方から足音が聞こえ。
「剣心、おはよう」
「朝飯なんだー?」
町評判の剣術小町と、神谷活心流門下生の子供が揃って土間に顔を出し。
そして、固まる。
二人の視線は、揃って剣心の横にいる見慣れたような、見慣れぬ少年に釘付けになっていた。
「「………左之助って、子供(ガキ)いたんだ(のか)………」」
「本人だッッッ!!!」
剣心と同じ感想を述べる二人に、左之助は噛み付く勢いで吼えた。
次
やっちまった!!
左之助、ちっこくしてしまいました。
とにかく、皆に構われまくる話です。
左之助が初めてケンカをしたのは、まだ物心付かぬ頃の事だった。
原因はなんでもない、ささやかな子供の遊び道具の取り合いだ。
最初は左之助が弄って玩具にしていた物を、一緒に遊んでいた近所の子供が欲しがった。
それを気に入っていた左之助は当然拒否し、そうなれば相手はムキになって余計に欲しがる。
伸びてくる手を払い除けた左之助に、癇癪を起こした相手は挑みかかった。
やられればやられた分だけ、やり返す。
既に父親相手にケンカ(らしいものにしては、当時はまだ可愛いものだった)をしていた左之助である。
自分とそう体躯の代わらない子供相手に負ける筈もなく、殴り返して相手を泣かせた。
これに困ったのは専ら母親の菜々芽で、上下エ門の方は大したガキだと笑い飛ばしていた。
成長していくうちに、左之助はよくケンカをするようになった。
近所の子供と遊んでいるうちに些細な言い合いを初め、大抵左之助の方が先に手を出す。
とは言え、左之助ばかりが悪い訳ではなく、相手が左之助の神経を逆撫でしたのも確か。
時には年上とまでケンカをするようになった時には、菜々芽は多いに溜め息を吐いた。
負けて泣いて帰って来るなら慰めようもあるものだが、左之助は一度も負けた事はない。
腕っ節や力では叶わずとも、生来打たれ強く出来上がっている所為か、
また「負けたと思ってないから負けてない」と鼻血を啜りながら胸を張る。
叱るに叱れぬ堂々っぷりに、菜々芽は頭を痛めたものである。
妹の右喜が歩けるようになると、左之助のケンカっ早さは心なしか落ち着いたように見えた。
売られたケンカは片っ端から買ってしまうものの、無茶なケンカはしなくなった。
隣にいる右喜が泣き出すからだ。
だから右喜が傍にいる時は、少しだけ、左之助の父親譲りのケンカ好きも少し形を潜めていた。
父親が父親であるから、ケンカをするなと言うのは無理な話だと、菜々芽も早々に諦めた。
しかし、愛する我が子に怪我をさせたくないのは、母親の心情としては当然のもの。
このまま少し落ち着いてくれれば良いのだけど――――、と思っていた。
が。
それでも左之助のケンカっ早さは早々なくなるものではなく。
時に、右喜が傍にいても後に語り草になるぐらいの大ゲンカをして来る事があった。
菜々芽が一番頭を痛めたのは、左之助がちっとも懲りないからでも、
大なり小なり問わずに怪我をして帰って来る事でもなかった。
叱られても、左之助は言い訳の一つもせずに黙って聞いていた。
普通の子供なら、「あっちが悪いんだ」と言い訳でも始めそうな程に怒ってみても。
ただ黙って、怒る母の顔を見つめ、じっと叱られること受け入れていた。
【喧嘩両成敗】
「おとぅさぁああぁああん!!」
兄と一緒に外で土遊びをしていた筈の右喜が、泣きながら家の戸を開けた。
今から丁度大根畑に行こうとしていた上下エ門は、その声に顔をあげる。
母の菜々芽によく似た娘は、その可愛らしい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
負けん気の強い兄と違ってよく泣く娘だ。
思いながら上下エ門が草履を履いていると、奥間から菜々芽が顔を出した。
「右喜、どうしたの」
「おかあさああぁああん……」
あーん、あーん、と泣きじゃくる娘に、菜々芽が駆け寄る。
右喜はぽろぽろ零れる涙を拭こうともしない。
声だけ張り上げて棒立ちになって泣く娘に、上下エ門は、ははあ、と見当がついた。
「なんでェ、左之助はまたケンカか?」
「うああああぁあああん……」
「弦トコの悪ガキか? 昇ントコか?」
上下エ門が連ねたのは、左之助とよく吊るんで遊んでいる近所の子供の名。
一緒に遊ぶがケンカもする、生意気盛りの子供達である。
しかし右喜は違う、と首を横に振る。
「お、おにーちゃ…おにーちゃんがああぁ……」
「ほらほら右喜、落ち着いて。お兄ちゃんがどうしたの」
「どうもこうも、ケンカに決まってんだろうよ」
最近また増えてきたなァ、と暢気に言う上下エ門を、菜々芽がきつと睨む。
だが取り合えずは娘を落ち着かせるのを優先させたらしく、それは一瞬だけだった。
泣きじゃくる右喜の涙を手拭で優しく拭き取ってやる。
「おにーちゃん、おにーちゃんが…おにいちゃんがあ……」
「だから、お兄ちゃんがどうしたの?」
しゃっくり上げながら、右喜が一所懸命に次に続けた言葉は、物騒なもので。
「おにいちゃんが、しんじゃううぅぅぅ………」
「そらまた大袈裟なこったな」
娘の言葉にも、上下エ門はやっぱり暢気なものだった。
むしろ物騒な言葉を言った右喜の混乱具合の方が、息子の無事よりも心配になる。
右喜の言葉に上下エ門が思い浮かべたのは、息子よりも四つほど年上の子供。
ガキ大将の気質で、最近特に幅を利かせているところがあって、親もほとほと困っているらしい。
何かと左之助とよくケンカをするのだが、負けん気の強い左之助も、その子供には梃子摺る。
この年頃の四歳さと言ったらかなりの差だ。
今年の二月に七歳になった左之助に比べ、その子供は一回りも二回りも体躯が大きい。
左之助がどんなに打たれ強くても、身長差にものを言わせると中々勝てない。
だからと言って、左之助が彼に負けたなんて話を、上下エ門は一度も聞いた事はなかったが。
一杯一杯だった右喜が喋れたのは其処までで、後はわんわん泣く一方。
菜々芽に頭を撫でられているが、兄が帰って来るまでは泣き止まないだろう。
「あなた、左之助……」
「おう、一応見てくらぁ」
右喜の言葉を真に受けた訳ではないだろうが、菜々芽は心配そうな顔をしていた。
上下エ門は、息子がケンカをするという事は、寧ろ良い事だと思っている。
自分の息子なのだから、それぐらい活きの良い方が良い、と。
ケンカの傷は男の勲章、勝ったケンカなら尚の事。
自分だってあれ位の年の頃は近所の子供とよくケンカをしたし、それも悪い思い出ではない。
……それを言うと愛する妻は烈火の如く怒るので、言わないようにはしているけれど。
さて今日は何処でやりあっているのか――――と、立ち上がった時。
「ただいま」
抑揚のない声で、息子が帰りを告げた。
出て行った時とは全く違う、ボロボロの格好で。
引っ張り合い殴りあいだけじゃ飽き足らなかったのか。
投げられたのか、どうされたのかは判らないが、左之助は泥まみれの埃塗れになっている。
つい先日菜々芽が服の綻びを縫った筈だったのに、もう新しい穴が開いていた。
顔には青痣も引っ掻き傷もあって、口端が切れて血が流れ、襟元に染み込んでいる。
腕にも顔と同じくらいに青痣があり、足は膝小僧が擦り剥けこちらも血が出ている。
こりゃ随分派手にやられたもんだと、上下エ門は感心する。
それだけやられても、痛そうな顔一つせずに帰って来た息子に。
とは言え、菜々芽の方の怒りは一発二発では収まらないだろう。
左之助がこれだけやられたのだから、相手も同じぐらいやられた筈だ。
左之助は屁でもないような顔をしているが、普通、これだけやられたら泣いて逃げ帰るものである。
そうなって親御に謝りに行くのは大抵菜々芽であった。
ちらりと上下エ門が菜々芽を見遣れば、あんまりな息子の姿に開いた口が塞がらない。
兄が帰って来た事に気付いた右喜は、じわりとまた更に涙を浮かべている。
息子はそんな母と妹の様子を気にする事もなく、父の横で草履を脱いでいた。
癖っ毛のツンツン頭が、いつもより余計に立っている。
散々引っ張られたのだろう事は予想に違わない。
上下エ門は煙管を吹かし、息子を見下ろす。
「なんでェ、随分派手にやられたな」
「ケッ。こんなの、屁でもねェや」
「で、負けたのか?」
「あんな奴らに負けるかよ。オレが勝ったに決まってらぁ」
フンと鼻息荒く言う左之助に、そりゃ良かった、と上下エ門は笑う。
負けちまってたらもう一回行かせるトコだ、と。
左之助はべっと舌を出すと、妹と母のいる居間に上がる。
「右喜」
それから、ずっと右手に握っていたものを妹に差し出した。
「ほれ、お前のだ。今度はちゃんと持ってろよ」
それは、母が娘に譲った赤い巾着袋だった。
母から手当てと一緒に説教を喰らっている間、左之助は終始無言を貫いた。
かと言って話を聞いていないと言う訳ではなく、ただ黙して、叱る菜々芽の言葉を聞いていた。
言い訳をするでもない、ケンカの理由を言うでもない。
隣で縋り付いて泣き止まない妹の頭を撫でる時も、左之助は何も言わなかった。
ごめんね、ごめんね、と謝る右喜の言葉にも、左之助は答えなかった。
お説教の終わりに一発拳骨を頭に喰らって、それは流石に応えたらしい。
頭を抑えて蹲る左之助に、上下エ門は笑い飛ばしてやった。
母の愛の拳ばかりは、石頭の左之助でも痛いものか、と。
負けず嫌いの左之助は痛ェもんかと言い出し、上下エ門を蹴り飛ばす。
今日は其処から先の親子ゲンカにはならなかった。
菜々芽から激が飛んのだ。
「左之助、今日はもうケンカは禁止! 奥で大人しくしてな! あんたも左之助を揶揄わない! そんな事してるなら、畑行って!」
親子揃って、彼女にだけは本当に頭が上がらない。
その隣で右喜がまた泣きそうな顔をしているから、二人ともそれ以上は暴れなかった。
言われた通り、左之助は家の奥間に消え、上下エ門は自分の畑へと向かう事となった。
畑仕事を終えた上下エ門が戻って来た時、家にいたのは左之助一人。
奥間で寝転がっていた左之助の横に腰を下ろし、問い掛ける。
「右喜と菜々芽はどうしてェ」
「カジのトコ行って来るってよ」
カジは、今日左之助がケンカをした相手。
上下エ門が予想した通りの、左之助より四つ年上のガキ大将である。
「オレの事、謝りに行くんだと」
「お前ェも行くのが筋ってもんだろが」
「言ったけど、オレが行ったらまたケンカすっだろって。大人しくしてろってよ」
「ハハ、だろォな。しかし、なんだって右喜までついてった?」
「知らね」
ごろりと寝返りを打ち、左之助は上下エ門に背中を向けた。
小さなその背中は、人が思うよりずっと強情っ張りだ。
実に父によく似た息子である。
近所でも評判でよく聞く言葉だったが、こういう時、上下エ門もそう思わずにはいられない。
曲ったことが大嫌い、そんな性根をそのまま表すかのように真っ直ぐな背中。
気に入らないことは気に入らないと、徹底的に言える子供。
そして、無作為に乱暴を振るうような子供でもないと、上下エ門はよく知っていた。
「そんで、今日は何が原因だ?」
背中に問い掛ければ、肩越しに吊り上がり気味の目がこちらを見遣った。
それを受け止め、上下エ門は無言で見返す。
なんの理由もなく、左之助はケンカをしない。
手を出すのは早いが、だからと言って節操なしの暴れん坊ではないのだ。
手を出したことには、必ず理由と原因が存在する。
それが左之助の所為であるなら、それは左之助自身の責任で、菜々芽に叱られるのも仕方がない。
だが、今日は右喜が傍にいた。
右喜が一緒にいる時は、あそこまで派手なケンカはしないようになった。
今日に限って右喜がいるのに大ゲンカをして、それから。
帰って来た時、左之助が差し出した赤い巾着。
あれはつい先日、右喜が強請って強請って母に譲ってもらった宝物だった。
いつも肌身離さず持ち歩いていて、今日も大事そうに持って外に遊びに行った。
――――――それだけで十分な情報だ。
敢えて尋ねる父親に、左之助は億劫そうに視線を逸らす。
「………カジの野郎が、右喜の巾着取ったんだ」
欲しいと思ったら、人の物でも取り上げてしまう子供であった。
親は散々注意しているが、やっぱり欲しくて手を出した。
右喜が母から貰った赤い巾着は、綺麗な刺繍が施してあり、右喜はそれを大層気に入っていた。
他人が自慢げに持っているものを見ると、あの手の子供は欲しくて堪らなくなるのだ。
隣の芝は青い、まさにそれ。
右喜は当然嫌だと言った。
いつも左之助の後ろをついて歩いて気弱に見られがちだが、それでも上下エ門と菜々芽の娘、そして左之助の妹。
嫌な事は嫌だとはっきり言うし、何より母に貰った巾着を他人に渡したくなんかないだろう。
嫌だと言われると、あの子供は余計に欲しがる。
遂には強引に奪い取り、泣き出した右喜に、左之助が手を出す結果になったのだ。
「あの野郎、あれは右喜のだってのに、返しやがらねえから」
「んで、取っ組み合いになったってェ訳か。妹の為に体張ったってか」
「そんなじゃねェや。あの野郎がいけ好かなかったんでェ」
ふいっとそっぽを向いて呟く左之助に、上下エ門は煙管を吹かす。
ぽっと輪を描いた煙が空気を燻らせ、消えていった。
「……そんで」
上下エ門が息子に聞きたい事はもう一つあった。
寧ろ、こっちの方が真に聞きたいこと。
「なんでお前ェは、そいつを母ちゃんに言わねェんだ」
泣きじゃくる右喜を撫でて慰めながら、叱られている間中、左之助はずっと無言だった。
手当ての薬が染みるとも、わざと少し乱暴に包帯を巻く母にも、文句の一つも言わない。
それはケンカの後の左之助の行動としては、いつもの光景であった。
これには上下エ門も疑問が湧く。
普通の子供は言い訳の一つ二つはするものだし、でなくても泣いたりするものではないか。
菜々芽は頭ごなしに叱る母親ではないが、理由を聞いても左之助が答えないので、結局は同じ。
左之助はのそりと起き上がると、がりがりと頭を掻いた。
ちらりと外を見遣って、どうやら母と妹が帰って来ないか気にしているようだ。
しばしの沈黙の後、左之助は口を開く。
「……なんでも何も、殴ったのは本当だしよ」
「先にカジが右喜の巾着取り上げたんだろ。お前ェが手ェ出すのも無理はねぇよ。正当な理由だ」
「そんでも泣かしたし、母ちゃんはケンカは良くねェって言ってるし」
母が心配するような事をしたのだが、説教ぐらいはちゃんと受けるべきで。
右喜も不安にして泣かせたし、また服も破ってしまったし。
相手に怪我を負わせたのだって、変えようのない事実であって。
左之助は、其処にあれこれ理由や因縁をつけて正当な事にはしたくなかった。
相手を傷つけるのは決して良い事ではないのだから、どんな理由があるにせよ、悪い事をしたなら罰は受けなければ。
「巾着取り上げたカジの野郎は、当然、拳骨喰らってるだろうし。
だけどブン殴ったのはオレの方が先だし。
手ェ出す前に口で言えって母ちゃん言ったじゃねェか。だけどオレはそうしなかった。
言いつけ破ったんだから、怒られるぐれェ、当たり前だと思ったんだ。
母ちゃんの言ってる事がてんで判らねェ訳でもねえし……良くねぇ事したのは、確かだしよ。
あいつが悪くて、オレが悪くないってモンでもねェだろ」
妹の右喜が泣いていた。
カジが右喜の巾着を取り上げた。
取り返す為に、拳を振るった。
でも、それをケンカの正当な理由にして、自分は悪くないなんて言いたくはない。
言えば、菜々芽は仕方がないという顔をしながら、怒るのを止めるだろう。
母はそれで安心してくれるけれど、左之助がそれでは納得できなかった。
言いつけだって破ったし、服だって破いたし、ケガもした。
ケンカ相手も泣かせたし――――……だったら怒られるのは当然だと。
嘘を吐くのが、左之助は苦手だった。
何処までも真っ直ぐで、真正直で、真っ直ぐ前に走っていく事しか考えていない。
だから理由を問われても黙っているしか出来なかった。
母親相手にすら、体の良い嘘すら言えない。
父親にだけ話すのは、やはり男同士という違いがあるからだろう。
煙を吹かして黙って聞いている父親に、左之助は視線を合わせなかった。
爪先を擦り合わせて、上手い言葉が見付からないらしく、どう言や良いのかな……と一人ごちる。
「母ちゃんが怒るの、一応判ってるつもりだしよ。なのにオレは悪くねェなんざ言えるかよ」
言えばこちらは正義になる。
でも、左之助はそんな気持ちで手を出したんじゃない。
赦せないから相手を殴った。
理由がなんでも、殴った事実は変わらない。
自分を正当化させるような事は言いたくない。
「そんで、いつもだんまりか」
「母ちゃんと右喜に言うんじゃねぇぞ」
「言わねえよ、ガキの自惚れ事なんざ」
「誰がガキだ、自惚れだ!」
飛んできた拳を受け止めて、ぐいっと横に引っ張る。
体勢を崩した左之助は、どてっと音を立てて床に転がった。
左之助は起き上がらなかったが、痛いと呻くこともない。
起き上がるのが面倒臭くなったのだろう、床に突っ伏したままになった。
上下エ門はその隣で煙を吹かし、未だ帰らぬ娘と妻の事を考える。
恐らく、右喜は兄は悪くないのだと母に訴えているだろう。
左之助がケンカをしたのは、自分が泣いた所為で、兄は自分を助けてくれたのだと。
菜々芽が左之助のケンカの理由を聞くのは、大抵相手方に謝りに行った時か、後になって右喜から聞かされてのこと。
左之助は母になんと言われようと、己の口からケンカの理由を答えたことはなかった。
そしてこれからも左之助は母にケンカの理由を言わないだろうし、菜々芽がその理由を知ることもないだろう。
こればっかりは女には判らん事かもなァ、と揺らめき消える煙草の煙を見ながら思う。
意地っ張りの左之助は、自分を正当化して、己は正しい立場なのだと示すのを嫌う。
正しいか正しくないかは左之助にとって意識の範疇外の事。
是非を問うて答えを欲しがるのは専ら周りのする事で、自分にとってはどちらでも良い事。
自分が赦せないと思ったから赦せなくて、だから一発殴った、それだけ。
良くない事だと後から周りに言われたって構わない。
あそこで右喜の巾着を取り返そうとしなかったら、そっちの方が左之助にとって自分自身が赦せなくなっただろう。
その時、自分が一番やりたいようにやっただけ。
寝転がる左之助の頭をくしゃりと撫でる。
ぱしんと音がして、負けん気の強い息子は父親の手を跳ね除けた。
「あーあ、下らねェ話したら腹減っちまったぜ。母ちゃんまだかよ」
「……たまにゃ野郎二人で飯作ってみるか?」
「やなこった。おェの飯なんざ食えるかよ」
「魚の捌き方も知らねェで偉そうな口叩くんじゃねえよ、ガキが」
誰がガキだ、と今度は足が飛んできた。
避けずに受け止めて離すと、その足はぱたんぱたんと床を叩き出す。
生意気盛りの息子だが、こういう所は歳相応に子供らしい。
腹減ったなぁ、と呟くと、左之助の腹が盛大な音を立てる。
吊られて上下エ門も空腹感を感じて、そうだな、とだけ返した。
後は、会話らしい会話はなく。
腹を空かした男二人は、母の言いつけどおり、大人しく家族の帰りを待つのだった。
好きです、東谷一家。菜々芽は捏造ですけど。央太もそのうち書いてみたい。
しかし、親父に随分夢見てるなぁ、私……
書きたかったのは、幼児期からケンカばっかりの左之助。
そして、ケンカをするのはどんな理由があるにせよ、宜しい事ではないと判っているという事。
相手を傷つければ、その相手に関わる誰かが傷付くのもちゃんと理解していて、だけどやっぱり黙ってられなかったから、叱られるぐらいの罰は当たり前の事としてちゃんと受け止める。
……玉砕した感オオアリ。
掠れた音と、小さな笑い声が鼓膜を揺らす。
それが無性に悔しくて、左之助はむっと頬を膨らませた。
「オイ克! いつまで笑ってんだ、いい加減にしろよ!」
「だってお前、何回吹いてもへったくそじゃねえか!」
普段暗い暗いと回りに言われてばかりの克浩が、左之助の前でだけは歳相応に笑う。
実際、彼の性格は暗いと言うよりも内気だという方が正しいだろう。
少なくとも、左之助はそう思っていた。
左之助の前でだけ、克浩がこうして表情豊かでいる事を、厭うたことは一度もない。
なんだか唯一の親友のようで、幼心は嬉しかったのだ。
しかし、だからと言ってこうまで笑われると腹が立つものである。
「なんだと、このバ克!!」
「なんだとー!!」
飛び掛ってきた左之助に、克浩が応戦する。
左之助は小柄とは言えなかったが、克浩の方が少し分があった。
しかし二人が取っ組み合うと、勝つのは大抵左之助の方。
幼い頃から父親と取っ組み合いをする事が多く、負けん気も人一倍だ。
対する克浩は、身体を動かすよりも、からくりの類を弄っている方が性に合っている。
ぶつかりあってどちらが勝つかは、誰が見ても明らかだった。
つんつん立った左之助の髪を克浩が引っ張ると、負けじと左之助が克浩の頬を抓る。
風の心地良い川原で響き渡る子供二人の喧騒に、遠巻きに見ていた大人達が笑っている。
左之助が何をしていたのか、克浩が何を見て笑っていたのか。
遠くで眺めているだけの大人達には判らなかったが、その光景には微笑ましさが浮かぶ。
行軍途中の小休止にまで元気な子供達に、呆れと羨ましさが募る。
そんな視線を一身に受ける子供達は、取っ組み合いに夢中で周りに気付いていない。
「ケッ、こんなの出来なくたって別に困りゃしねぇよ!」
「だったらなんでそんなに何度も練習してるんだよ。上手くなりたいんだろ。自分だけ下手なのが悔しいんだろ」
「下手って言うな!!」
「いててっ! 引っ張るなよ!」
本気になり始めた左之助に、克浩が敵う訳もなく。
逃げに回った克浩を、左之助は追い掛け回す。
けれども、それも長続きしない。
信州の田舎の農家に育った左之助は、足腰の鍛え方が克浩とは違う。
険しい山道も文句も弱音も言わずに乗り越える程、左之助は体力も気力も満ち満ちていた。
後ろ襟を左之助に引っつかまれて、克浩は遂に捕まった。
「どーせオレはお前と違って不器用だよ!」
「誰もそんな事まで言ってないだろ…あててっ」
「お前みてぇに、なんでも器用にゃ出来ねーよ!」
「だからそんな事は……いてぇ、もう悪かった、悪かったよ!」
沸騰した左之助の言っている事はメチャクチャだ。
拗ねた子供のように自分は何も出来ない、なんて大きな声で喚く。
耳元で大声を上げられた克浩は、それに随分と辟易していた。
遠巻きに見ていた大人達の中から、一人が立ち上がる。
赤報隊一番隊隊長の相楽総三であった。
刀持ちを任せている子供と、その唯一の友人と。
もみ合うのを見ているのも楽しいことは楽しいのだが、此処は石の多い川原だ。
怪我でもされたら大変だと、保護者のような心境で相楽は二人に歩み寄る。
「左之助、その辺にしておいてやれ」
「あ、隊長……」
敬愛する師の言葉に、左之助はぱっと克浩を解放する。
ケンカをしていた割にいつも仲の良い二人は、そんな事になっても並んで立っていた。
謝る訳でもない、本気で怒る訳でもない。
性格は水と油のように正反対の性質なのに―――――だからこそか、本当に仲が良い。
ケンカはじゃれ合い、遊びの延長、相手が本気で怒るような事なんてしない。
言葉なくとも繋がっている二人に、相楽はいつも笑みが浮かぶ。
やっぱり保護者のような心境で二人を見下ろしていると、ふっと左之助が視線を逸らした。
いつも真っ直ぐに見つめ、見返してくる左之助には珍しい行動だ。
それから後ろ手で何か隠している事にも、相楽は気付いた。
「左之助、何をしている?」
「えっ……」
「何か隠していないか?」
「い、いえ、なんにもないっス!」
なんでもないと言いながら、思いっきり視線が泳いでいる。
うろたえているのが丸判りだ。
膝を折って目線の高さを合わせると、左之助が僅かに後ずさる。
後ろ手に隠し物をしたままで。
そんな左之助の視界に、よこからひょいっと克浩が顔を出す。
「別に隊長に内緒にするような事でもないだろ、左之」
「べべべべ別にっ! な、な内緒なんかじゃっ」
「左之、どもり過ぎだぞ……」
ぶんぶんと首を横に振る左之助に、克浩はしらけた目になっていた。
それでも頑なな左之助の態度に、相楽は少しだけ悪戯心をくすぐられてしまう。
「そうか、私に隠し事か」
「ち、違いますっ! 言う程の事じゃないってか、その…」
「だから、それが隠し事だろう?」
「え!? え、そ、そうなるのか…いや……ほ、ホントに言う程の事じゃ……」
「私は聞きたいけどな、左之助が何を隠したがっているのか」
詰め寄ってみると、左之助は益々慌てる。
顔が赤い事には気付いていたが、相楽は止めなかった。
「な、なんでもないです! ホントになんにもないです!」
「じゃあ、手を見せてごらん」
「えっ!!!」
其処でのらりくらりとかわす事が出来ない左之助である。
頭の中は、隊士としての隊長への報告義務と、羞恥心に苛まれている状態。
相楽は、左之助が何を其処まで隠したがっているのかが気になって仕方がない。
隣にいる克浩に聞けば早いとは思うが、恐らく克浩が口に仕掛けた瞬間、左之助の拳が克浩に飛ぶだろう。
今の左之助は、理性なんて頭から綺麗にすっぽ抜けているに違いない。
背中に隠した手を差し出せばそれで済む。
左之助もそれは判っていたし、克浩の言うとおり、内緒にするような事でもない。
けれども、隠した手は頑なに前に出ることを拒んでいる。
そうさせているのは他でもない左之助の中に渦巻く、子供染みた羞恥心と意地であった。
真っ赤になって固まってしまった左之助と、左之助が動くのを気長に待っている相楽。
そんな二人を交互に見て、克浩が溜め息を吐いた。
「左之、言わないんならオレが言うぞ」
「いっ!?」
「隊長、こいつ―――――」
「うっわ―――――――ッッッ!!!!」
バキィッ、と。
それまで微笑ましかった爽やかな小川の光景に、鈍い拳の音。
相楽の想像したとおり、沸騰しきった左之助の拳は見事に克浩を殴り飛ばしていた。
「言うんじゃねえ! ぜーってぇ言うんじゃねえ、このバカヤロ―――――ッ!!!」
真っ赤な顔でそう大声を上げると、左之助は走り出した。
相楽の横をすり抜けて、休憩中達の大人の話も通り抜けて。
「左之助?」
「こら、左之助!」
「いってて……左之、待てよ!」
急に暴走し始めた子供に、隊士達が目を剥いた。
土地勘などまるでない場所だ。
一番隊の準隊士といえど、左之助はまだ十になって間もない子供である。
そんな子供が単独行動なんて危険極まりない。
相楽も他の大人達もすぐに追い駆けようとしたが、小さくても脚が早い左之助だ。
あっという間に近くの雑木林の中に見えなくなってしまった。
それに続いて、克浩までもが走り出す。
「左之!!」
「克浩、お前まで……待て、二人とも!!」
左之助に次いで、克浩も雑木林の中に消える。
小さな二人は鬱蒼とした茂みにあっさりと埋もれて見えなくなってしまった。
「全く、あの二人は………」
「隊長、早く探しに行かないと」
「ああ」
状況について行けていないながらも、子供だけの行動は他の隊士も感心するところではない。
隊士の言葉に相楽は頷く。
「二人ともそう遠くには行かないだろうから、私の他に二名――――…長四郎、秋之助、すまんが手伝ってくれ」
左之助が相楽以外で一等懐いていた隊士二人を指名する。
克浩の方は少し探せばすぐに見付かるだろうが、左之助は何せ暴走している。
相楽一人で探していては、どれほど時間がかかるか。
指名された二人は頷いて直ぐに立ち上がり、子供達の消えた雑木林に入る。
同じく相楽も、他の隊士には待機を命じ、雑木林に消えて行った。
全く、手のかかる子供だ。
だから尚更愛しく思ってしまうのだけど。
【草笛】幕間(過去編)。
本編の合間合間に挟んで書きます。