例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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幼心に、棘一つ 後編







翌日、隊士の半分以上は復帰したが、もう半分は伏せたまま。
調子は大分戻りはしたものの、出発するには至らない。
また東の空に暗雲が立ち込めており、このまま出れば数日前の二の舞になる。

数日間の滞在はこれで決定付けられ、隊士達もつかの間の急速に羽を伸ばす事となった。


しかし、左之助は相変わらず相楽の傍から離れる事はない。
今は刀持ちという役目もあって、堂々と一番近い場所にいられることが嬉しいのだ。




そんな左之助に、克浩が外に行こうと誘いをかけた。






「昨日の饅頭の他に、美味そうなもの見繕っておいたからな。一緒に買いに行こうぜ」
「いいけどよ、オレ金持ってねぇぞ」
「そんなの期待してないから安心しろ」





オレのおごりにしてやるよ、と胸を張る克浩。
タダで飯にありつけるというなら、断わる理由はない左之助だ。

昨日の饅頭は美味かったし、克浩と一緒に町に出るのも久しぶりだ。
刀持ちを任されてから、隊長の傍にいる時間が圧倒的に増え、当然外を出歩く機会も減った。
けれど常に傍にいなければならないという義務を課せられた訳でもない。
役目の名前と、自分が一緒にいたいという気持ちから、左之助は隊長と一緒にいたのだ。


そうしようかな、と気持ちは傾いた。



丁度その時、隊士の様子を見回りに行っていた相楽が部屋に戻って来た。






「うん? 二人とも、何処かに行くのか?」
「はい」
「そうか……それなら序に、頼みがあるんだが、良いか?」
「はい、なんですか?」






問うたのは克浩であった。
相楽は克浩に向き直り、懐から財布を取り出し、






「一人、こじらせた者がいてな。薬を買って来てもらいたいんだが、いいか?」
「はい!」






差し出された金銭を、克浩は両手で受け取り、しっかりと握った。














「頼んだぞ」






















………それを見た瞬間、左之助の中で何かが弾けた。




















「オレ、やっぱいい」
「左之助?」










俯いて呟かれた言葉に、相楽と克浩が瞠目する。






「オレ、寝てる!!」
「おい左之!」






言うなり踵を翻し、部屋の奥間へと引っ込んでしまう。
慌てて手を伸ばした克浩だったが、左之助の姿はすぐに障子戸に阻まれ見えなくなった。

障子戸の向こう側からは、どたばたと慌しい音がする。
朝餉の合間に仲居が綺麗に片付けてくれた蒲団を引っ張り出しているのだろう。
敷くなんて上等な事はきっとしていない、麻布に包まっているのが簡単に想像できた。


脱兎宜しく迅速な行動を取った左之助に、克浩はぽかんとしてしまう。
相楽もその隣で立ち尽くし、子供の消えた障子戸を見て呆然としていた。









「何か……気に障ることでもしたか…?」








一変した左之助の態度に、相楽が呟く。
すぐさま、克浩は首を横に振った。






「隊長の所為じゃありませんよ。なんか…その……気紛れですよ、きっと」
「………そんな子でもないと思うが……」






相楽の言葉に、克浩もそうは思うものの、それでは隊長に対して失礼だ。
それならばまだ猫の気紛れのようなものだと思った方が良い。
第一、誰よりも相楽に心酔している左之助が、その人物の行いに腹を立てる筈がない。



理由も告げずに約束を反故にした左之助に、克浩は小さく溜め息を吐く。
きっと刀持ちだから、隊長から離れる訳にはいかないとか……そんな所だ、多分。
いつもの隊長一直線の、延長みたいなものなんだと、克浩はそう思う事にした。

そうでも思っていないと、やっていられなかった。
そう思っていれば、左之助が自分と行動するのを嫌がったのではないと考えられる。
左之助の隊長への心酔振りは、克浩が赤報隊に入った頃からずっとだし、今更自分が越えられるものでもない。
一緒に出掛けられないのは残念だけど、何も今日がなかったら次がないとまで言う訳ではないのだし……。


隣に立つ隊長を見上げ、克浩は少しだけ、この人物が羨ましくて疎ましかった。
この人の事は尊敬しているし、大好きだけれど――――好きだと言う気持ちは、左之助に向かう気持ちの方が大きい。

克浩がどんなに左之助と一緒にいたいと望んでも、左之助の一番になりたいと思っても。
出逢った時から左之助は隊長を追い駆けていて、それ以上の存在なんていなかった。
そしてこれからもずっと、それは変わらないのだろうと、幼くても判り切ってしまっていたから。





手渡されていた金銭を握り締めて、外に向かう事にする。







「克浩?」
「オレは町に行ってきます。今日は隊長の分も買ってきますね」
「……そうか」







だから、左之はお願いします。


見上げる瞳にその言葉を確りと汲み取って、相楽は小さく頷いた。
それに克浩は珍しく、にっこりと笑って、その場を後にした。




走っていくその背中を見送り、相楽はさてどうしたものか―――、と嘆息一つ。





相楽が部屋に戻って来た時、左之助はいつも通りだった筈だ。



克浩と左之助が仲が良いのは喜ばしいことだし、二人が一緒に町に出ることも良いことだ。
特に左之助の方は、活発で外遊びを好むように見えるものの、中々相楽から離れようとしない。
慕われることに悪い気はしないのだが、左之助の世界が狭くなってしまわないか、相楽はそれが心配だった。

だから左之助が外に出掛けようとしていたのなら、喜んで送り出す。
ちょっとした頼み事を理由につけて、お駄賃を持たせて町に出す。
その時、克浩が一緒にいるなら、相楽としても安心できた。
口より先に手が出る左之助が突っ走ってしまわないよう、引き止める者がちゃんといるから。


最近は特に離れようとしない左之助が、久しぶりに外に行こうとしていたから、
いつものように頼み事をして、今回は二人分という事で少し多めに駄賃を手渡して―――――

それから、左之助が急に行かないと言い出した。





頭を掻いて、相楽は部屋に入る。
障子戸に近付くと、その向こうで小さな気配はまるで存在を殺すように静かだった。

また、左之助らしくない。







「左之助、少し良いか」







戸を開けてみれば予想通り、敷きもしていない布に包まった子供。
頭は覆い被さって、いつものツンツンのトリ頭も見えないのに、足は丸出し。
見事な頭隠して尻隠さず。


呼んで返事がなかったのも珍しい。
いつも元気良く返ってきたのに。


この数日、左之助は少し様子が可笑しかった。
此処で溜まりに溜まったものが爆発したのかも知れない。

負けん気が強いのは良い事だし、打たれ強いのだって悪い事ではない。
しかし、辛いことまで黙って飲み込んでしまおうとするのには、少々困りものである。




蹲る左之助の隣に腰を下ろすと、もぞもぞと布の塊が動く。
のっそりと起き上がった左之助は俯いていて、相楽からは表情が窺えなかった。







「良かったのか? 克浩と一緒に行かなくて」
「………すんませ……」
「謝るのなら私じゃなくて、克浩にだろう?」
「……………」







叱ったつもりはなかったのだが、今の左之助にはそう聞こえたらしく。
頭に被った布を手繰り寄せて、益々小さくなってしまった。







「別に怒っている訳じゃない。ただ、どうしてあんな事をしたのか聞きたいんだ」







なるべく優しい声音で言うと、左之助はそっと顔を持ち上げた。







「一度は行くって言ったんだろう。それを、何故行かないなんて言い出したんだ?」
「……………」







窺うように見上げてくる瞳を怯えさせないように。
少し屈んで、目線の高さを合わせて問い掛ける。


しかし、左之助は真一文字に口を噤んでいた。

どう言えば良いのか判らない、言って良いものかも判らない。
その言葉を代弁するかのように、大きな瞳の端に透明な水が浮かび上がる。







「…お前、最近何か考え込んでいるだろう」
「……………」
「判らない程、私はお前に無関心じゃないぞ」
「……たいちょ……」







布を取り払うと、縋るものをなくした手が不安げに彷徨った。
それを掴まえて、相楽は小さな身体を抱き寄せる。

子供の幼い体躯は、すっぽりと腕の中に収まった。
けれどもその体温はとても温かく、心地良く、相楽の芯まで染み渡っていく。
同じように、自分の体温が、この子供に伝わるのなら良いと思った。



突然抱き締められた左之助は、腕の中で硬直していた。
何が起きたのか、自分がどういう状況にいるのか、咄嗟に判断できずにいる。


少しの間を置いてから、自分が敬愛して止まない隊長に抱き締められている事に気付いた。
恐れ多いと慌てたのが相楽にも判ったが、遮二無二暴れようとはしなかった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう―――――……

腕の中で混乱状態の子供に相楽はこっそりと笑む。
沈んだ顔を見ているより、こっちの方がずっと良い。












「怒らないから、言ってごらん」












十にもなった子供に言うには、あまりに幼稚な言い方だったかも知れない。
けれども、張り詰めた左之助には、それが一番効いたらしかった。


ぽろ、と大粒の涙が零れて落ちる。
まだ柔らかい子供の手が相楽の服を掴み、皺を作った。
こんな大胆な事を相楽が赦すのは、この子供だけだ。

しゃくり上げ始めた背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。



ひく、と喉を引き攣らせながら、左之助が口を開いた。







「た、いちょ……が……」






最初の第一声に、やはり自分が何かしたか、と相楽は考えた。
あの時自分が何をしたのか……行動は一つだけ。






「隊長、が…克……克にっ……」
「頼み事をしたのが厭だったのか?」
「違……そ、じゃなくて……ただ…っオレ……っ…!」






震える肩は一所懸命に言葉を探しているようで。
しゃくり上げて跳ねる肩を堪えようと、左之助はぎゅっと相楽の服を強く掴む。







「克…克、ばっかり…っ……頼んでて…オレ…」
「うん」
「オレだって…たいちょ、…っう、…うーっ……」
「うん」
「克ばっか…、役ン立ってて…っ……オレっ……」








口を開けばその分だけ、大粒の涙が零れ落ちる。
相楽の上掛けに水滴が落ちて染み込んでいったが、今の左之助にそれを気にする余裕はなかった。
引き攣って詰まりそうになる言葉を、一所懸命繋げていく。

相楽はそれを、頷きながら聞いていた。







「頼んだって…たいちょ…克にっ……」
「うん」
「オレ…オレだって……隊長の、役に…っ……」








詰まり詰まりに訴えられる言葉は、あまりに幼く、けれど必死な色を持っていた。






刀持ちになってから、隊長は克浩にばかり頼み事をしていて。
自分は刀持ちと言う役目を貰って、それはとても嬉しい事なのに。
誰より近くにいられるのに、その日以来、隊長から何か頼まれごとをされる事がなくなった。

傍にいさせて貰えるのは、何より嬉しいはずなのに、何より誇れる事なのに。
僅かばかりの駄賃を貰って、ほんのちょっと先にある店まで走る友達が羨ましくて。


一番近くで、刀持ちになって、一番傍にいられるのに。
これ以上を望むなんて図々しいと思うのに、気持ちばかりが募っていく。



隊長が、克浩に“頼んだ”と言った。

其処に他意はないし、特別深い意味がある訳でもない。
ほんの少し前までは、自分にも向けられていた言葉だった。


でも、左之助にとってはささやかでも、誇りになる言葉だった。


その言葉と一緒に頭を撫でて貰って、頼まれたものを忘れないように繰り返して、渡された小銭を握り締めて――――、
言われたものをきちんと買って、余った銭でほんの少し買い食いをして。
帰った時に、“ありがとう”と“よく出来たな”と頭を撫でて貰った時が、ささやかだけれど嬉しくて嬉しくて。
頼まれた事と、それがちゃんと出来た事と、褒めて貰えた事が嬉しくて。















『頼んだぞ』


















その、言葉が。

一番の誇りだったのに。


















(……まったく……この子は――――――……)








限界点を越えたのか、声を上げて泣き始めた左之助に、相楽は苦笑するしかない。


聞けば聞くほど幼くて。
聞けば聞くほど、必死になるから。





刀持ちの役目の重要さは判っている。
それを任せられるという意味も。

何より誰より信じているから任せた役目。
愛刀を任せてもいいと思う意味。
……でも。


言葉一つに一喜一憂するのが子供らしくて、愛しい。







「………左之助」







泣きじゃくる子供の名を呼ぶ。
しゃっくり上げながら、左之助は涙に濡れた瞳で見上げて来た。







「…オレ…オレ……オレもっ…オレも、隊長の…役にっ……う……!」
「ああ、判った。判ったから、もう泣くな」







刀持ちは、ずっと傍にいる。
けれどその分、克浩のように頼まれ事をする事はなくなった。

それはまだ幼い左之助にとって、敬愛する隊長の為に、刀持ち以外の役に立つ事がなくなってしまったように思えたのだ。
一緒に要る事しか出来なくて、他に何も出来なくなってしまったような気がして。
預けられた刀だけでは、自分を支えるには物足りなくなってしまった。



役に立ちたい。
役に立ちたい。

でも、刀持ちだって任された。



預けられた役目の重みと、子供心の幼い嫉妬。





左之助の頬を、大粒の涙が零れて行く。
それを親指の腹で拭い去ると、大きな瞳が見つめてくる。

何日振りかの、真っ直ぐな瞳だった。
これを曇らせていたのが自分だったと思うと、相楽は居た堪れない気持ちになる。
口に出せば左之助は首を横に振るのだろうが、それでも相楽は申し訳なく思う。

課した役目に喜んでばかりいるものだと思っていた。
こんな些細な事を気にして、繊細な子だとは思っていなかった。








「大丈夫だよ、左之助」
「……たいちょ……」








ぎゅっと抱き締めて、囁く。









「言葉にしないと不安なら、幾らでも言おう」
「隊長……」
「行動もないと不安なら、幾らでも」
「……う………」









預けて以来、いつも大事そうに刀を抱える、小さな手。


大丈夫、大丈夫。
もうこんなに我慢させたりしないから。
不安にさせたりしないから。

ささやかでも、この子が笑ってくれるなら。
言葉でも行動でも、心でも、全部あげよう。




まだ幼い子供に、音にしない言葉の意味を汲めと言うのは難しい話だ。
目の前の情景をあるがまま、そのままに受け止めてるのが精一杯。
まして左之助は何処までも真っ直ぐなのだから。


だらかもう、この陽だまりの子が泣かないように。













どんな小さなことでも、この子が笑ってくれるように――――――――………























































「ほら、左之の分」








帰って来た克浩から差し出されたのは、昨日と同じ茶饅頭と、栗饅頭。
出掛けに言った通り、買ってきたのはそれぞれ三人分だった。



克浩は左之助の目元が赤い事には気付いていたが、何も言わなかった。
泣いたことを指摘されるのは誰でも厭だし、増して負けん気の強い左之助だ。
言った途端に誰が泣くかと言って取っ組み合いになるのは目に見えている。

だから克浩は、出掛け前の左之助の行動にも何も言わなかった。
思うところは幾つかあったけれど、腹を立てる理由にはならなかった。


しかし、左之助の方はバツが悪そうな顔をして。






「……克……」
「なんだ?」
「いや…その………悪ィ……」






一度は行く気になっていたのは、克浩も判っていた。
それを急に、理由も言わずに行かないと言って、あの行動。
自分がされたら気を悪くするに違いない、と今の左之助にも判る。

けれども克浩は小さく息を吐いた後、







「なんだよ。俺が怒るってるとでも思ってたのか?」







左之助が隊長と一緒にいたいと言う理由から、克浩の誘いを断ることは少なくない。
克浩は少しだけ悔しかったりするけれど、それを左之助に言った事はないし、これからも知らせるつもりはない。
もう慣れたし―――――克浩が好きになったのは、もう隊長を追い駆けている左之助だった。
これ位のことで目鯨を立てていたらキリがない。



克浩の言葉に、左之助はようやく安堵したらしい。
少し照れ臭そうに頬を掻いて、差し出された饅頭を受け取った。

相変わらず仲の良い子供達を見て、相楽は笑みを零し。









「それじゃ、左之助――――茶を頼んでいいか?」









甘い菓子にあったお茶。
子供はあまり普段は飲みたがらない、渋めのお茶。

其処まで言わずに尋ねれば、左之助は嬉しそうに笑って。











「うぃっス!」


























いつもの笑顔が、其処に花咲いていた。
































やきもち仔左之です。ちゅーか子供達そろってやきもち。
左之は隊長から“任せた”と言ってもらえる克浩に。克浩は、左之が傾倒しきってる隊長に。

思い切り隊仔左之に書いても良かったんですが、何せ“隊長”なので…
立場があったら、幾ら相手が子供でも、露骨な贔屓染みた言葉を言わせてよいものか……もとよりこの人、口調がはっきり判らないんですけど(滝汗)。


隊左之は、仔左之が隊長スキスキなのがいいですね。
克、不憫……ごめん……
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幼心に、棘一つ 前編







唯一の同い年の準隊士の手に、相楽の手から僅かばかりの小銭が渡される。
しかし、僅かではあったが、それが頼まれた買い物の額をほんの少し上回ることは、左之助にも判った。

克浩はそれを落とさないようにとしっかり握り締め、頼まれた買い物の品を忘れないよう反芻する。


ほんの少し前までは左之助も一緒になっていたのだが、数日前にその日は終わりを告げた。
敬愛する相楽総三の刀持ちを任されてから、左之助は常に相楽の傍にいるようになった。
その事はとても嬉しく、誇らしかったのだけれど――――代わりに、克浩と以前のように買い物には行かなくなった。
隊長の刀持ちが傍についていなくてどうする――――……それは、判っているのだけれど。

隊長からちょっとした買出しを頼まれる時、お駄賃代わりにいつも多めに渡される金銭。
他の者ならされない事だから、これは子供扱いであるとは思うけれど、やっぱり嬉しい事に変わりはない。
行軍の途中に立ち寄った町の名産品やら、買い食いするのを楽しみにしていたのは確かだったし。

刀持ちになってからそんな日々がなくなり、それを不満に思っているとは言わない。
だから、左之助が寂しく思うのは、友人と一緒に町を回れなくなったこと…そればかりではなく。




金銭を預けられると、信頼してくれているような気がして嬉しかった。
ささやかなお駄賃は、隊長自らのご褒美。

そして何より、相楽隊長から“頼まれごとを任される”事が嬉しくて嬉しくて。












抱えた刀の重みは、厭ではない筈なのに。


傍にいるのに、誰より近い場所で隣にいるのに。







………これは―――――子供の我がままだ………


































【幼心に、棘一つ】
































克浩が頼まれた買い物に向かう背中を、左之助はじっと見ていた。
左之助と違い、中々感情を表に出さない克浩だったが、やはり隊長からの頼まれ事というのは嬉しいものらしく、
駆ける足がこころなしか浮ついて弾んでいることは、誰が見ても明らかだった。

赤報隊の証でもある赤い鉢巻を翻し、真っ直ぐの大路の向こう、遠ざかっていく背中。
その背中がとても誇らしそうで、左之助は羨ましいと思ってしまった。
……思ってしまった後で、後悔する。


左之助の手には、敬愛する恩師である相楽隊長の愛刀。
他の誰でもない自分に是を持たせてくれる意味を判らぬ程、子供ではないつもりだった。

数日前に預けられた時は、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うほどに驚いた。
準隊士でも大人は沢山いて―――左之助の年頃は、自身と後は克浩だけだ―――、腕に覚えのあるものだって多い。
それなのにまだ十歳を迎えて間もない自分に、刀持ちという役目を任せてくれるなんて。
誰が見たって、羨ましいに決まっている……少なくとも、左之助だったらそう思う。



なのに、克浩の方が羨ましいだなんて。
そんなのは図々しいにも程がある話だ。


















じっと友達の後姿を見送る左之助を、相楽総三は見下ろした。
預けた刀を大事そうに抱えながら、いつも爛々と輝く瞳がほんの少し揺れている。



数日前から刀持ちを任せるようになってから、左之助はこんな表情をするようになった。
最初は役目の重要さから、幼い身には早かったかと思ったのだが、そういう訳でもないらしい。
刀持ちを任された事には左之助は酷く喜んで、大袈裟ではと言える程だった。
役目の重さもちゃんと受け止めているようにも見えた。

ちょっとした贔屓目もあるのは、自覚しているつもりだが。

任せてから数日の間は、本当に嬉しそうに、刀を見て相楽を見て、にーっと笑ったものだった。
その笑顔がまた愛しさを募らせて、任せて良かった……と相楽も思ったものである。


けれども、今度は翳りが垣間見えるようになった。




未だ友人の背中を見送り――――いや、見つめ続ける左之助に、相楽は声をかける。









「戻ろうか、左之助」
「あ………はい」








昨日到着したこの宿場町には、しばらく滞在する予定だ。
先日の行軍で、突然の土砂降りにあい、体調を崩すものが多く出た為である。

一番免疫力の弱そうな子供達はと言えば、あれだけズブ濡れになったにも関わらず、ケロリとした顔。
無理をしている訳でもなく、免疫力云々よりも子供特有の元気印が効いているらしい。
他の隊士達も見習って欲しいものだと、こっそり思った相楽であった。


だが今の左之助には、体調不良で動けなかった大人達よりも、重いものが圧し掛かっているように思う。



宿の部屋に戻ろうとする後ろを、左之助がついてくる。
これから成長期を迎える子供の足音は、軽い筈なのに、何処か浮かない様子で。







「どうした、左之助」
「…え……」
「何か考え事か?」







真っ直ぐ見つめてくるのが常だったのに、僅かに俯いている左之助。
刀持ちを任せて以来、子供の左之助に向かう僻みはちらほらと聞いている。
そんなものがなんだと胸を張る左之助だったが、やはり気になるのだろうか。
殊更気にしている事を言われたりしたのか――――……

意地っ張りで負けん気の強い左之助のこと。
気にしているとしても、自分からそれを誰かに訴えたりはしないだろう。
ならばこちらから聞き出してやるのも手の一つ。

そう思って保護者のような気持ちで問い掛けた相楽だったが、左之助は首を横に振った。







「いえ、なんでもないっス」







にっと笑って左之助は言った。
その笑顔がほんの少し曇っていた事は、きっと気付いていないのだろう。









「………そうか」








くしゃりと特徴的なツンツン頭を撫でる。
左之助は猫のように目を細めて、それに甘えた。









































克浩が帰って来たのはそれから半刻程のこと。
隊長に頼まれた品は勿論揃え、余った金銭で団子を買って懐にこっそりと忍ばせていた。

左之助が一緒に買い物に行かなくなってから、克浩は買い食いではなく、持って帰るようになった。
唯一の同い年の友達と食べる楽しみは、どうしたって変えられない。






「ほら左之助、饅頭買って来たぞ」






他の隊士達には内緒のことだったが、隊長自ら駄賃を渡されているのである。
隠した所で意味はないし、おまけに多めに買えた時などは、三人で食べることもあった。

帰って来て隊長に買った物を渡した後、克浩はその横に控えていた左之助に歩み寄り、懐から饅頭を取り出す。
きちんと葉に包まれた茶饅頭に、昼餉から時間が経っていた左之助の腹は、見事に鳴った。





「そんなに腹減ってたのか、お前…」
「うううう煩ェ! そんなじゃねえや!」





燃費の悪さに呆れる克浩に、左之助は吼える。
その向こうで隊長にクツクツと笑われて、左之助の顔が真っ赤になった。





「ほら、食おうぜ。町で評判だったんだ、この饅頭」
「へぇ」





差し出された茶饅頭を受け取り、左之助がぱくついた。
口当たりの良いこし餡の味に、左之助の目が輝く。

左之助のそんな反応を克浩は嬉しく思い、笑みが零れる。
同じように饅頭を食んで、顔を見合わせて笑った。






「な、美味いだろ」
「おう!」






二つの饅頭は、食べ盛りの子供の腹にあっという間に収まった。

先程盛大に鳴ってくれた左之助の腹が、それだけで満たされよう筈もない。
しかし時間外のおやつはそれだけでも気持ちに嬉しいもので、左之助は満足そうに腹を擦る。


隊長の前であるにも関わらず、二人は崩した形で座している。
厳粛な場であれば合わせて正座するが、何分、まだ幼い子供であった。
それに、隊長からそういう事で注意を受けたこともない。

行軍で疲れた大人達にしてみれば、子供達のそんな生意気な場面も、癒しになるのだ。
だから相楽は彼等の立ち居振る舞いについて目くじらを立てる事はない。



空になった包み葉を片付けて、克浩が隊長へ顔を向ける。







「今度は、隊長の分も買ってきますね」
「ありがとう。でも、二人で食べていいぞ」
「そんな! オレ達だけなんて駄目っスよ! 美味いもんは食わなきゃ損っス!」







克浩の言葉に隊長がやんわりと辞退しようとすると、左之助が直ぐに言い募る。
嬉しかった事はなんでも共用したいもので、克浩もまたそれは同じだった。

それに、二人で食べるのも嬉しいのだが、隊長がいると左之助が一層喜ぶ。
克浩にとってはその方がよっぽど嬉しかった。





「それじゃあ、今度は私が買ってやろう」
「え!? 隊長が!?」
「なんだ左之助、いけないか?」
「い、いや、そんなじゃないっスけど……」





恐れ多い、なんて。
こんな時ばかり殊勝な態度になる左之助に、克浩は笑い、





「そんなのだったらオレが買いますよ。左之助と違って、ちゃんと考えて使ってるから」
「どーいう意味だ、克!」
「すぐ使い切るか落とすかするお前と違うってこと」
「何を!」





克浩の言葉にカチンときた左之助が飛び掛る。
もみ合いになれば大抵勝つのは左之助の方だったが、克浩とて大人しく負ける筈もない。

どたばたと取っ組み合いを始めた二人に、隊長は微笑ましそうに目を窄め、








「あまり騒がしくするなよ。中居さんに怒られるぞ」








他の部屋には体調を崩した赤報隊の隊士は勿論、一般客もいるのだ。
だが言った所で頭に血が上った左之助と、応戦している克浩には聞こえていない。

派手に発展する前に納まればいいが、とのんびり構える相楽であった。















未来へ












隊長、隊長、と。
まるで雛が刷り込みでもしたかのように、後をついて来る子供がいる。










まだ幼い身体は一切の穢れを知らず、見上げてくる瞳はいつも綺麗で、輝いていた。
周りの大人に置いて行かれまいと、一所懸命に足を動かす姿さえも愛らしい。
生意気盛りの子供独特の我がままは、行軍に疲れた大人達の心を癒してくれた。

預けた刀を大事そうに、まるで自分の宝物のように抱える腕。
初めてそれを預けた時は、とてもとても驚いた顔をして、嬉しそうに笑っていた。
刀持ちという役目故に、常に子供は傍にいて、そんな自分が子供はとても誇らしかったようで、
周りの大人に揶揄されようが、ひっそりと陰口を叩かれようが、真実は此処に在ると言うように、自信に満ちていたものだ。




赤報隊に入りたいと、その身一つで目の前に現われた時は、大丈夫だろうかと危惧もした。
信州のとある地方を行軍していた時、最中に子供は現れて、真っ直ぐこちらを射抜いた瞳を、今でもはっきり覚えている。

幼い故の、無知であるが故の、真っ直ぐさだと思っていた。
赤報隊が“赤報隊”と成す以前の所業を知らないからだと。
年貢半減を唱え、四民平等を訴える姿は、小さな田舎で日々を過ごしていた少年にとって、
心に燻っていた冒険心や、情景の念を向けるには、これ以上ない対象であっただろうから。

綺麗毎だけでは何も変えられない事を知らないから、だからこそ、真っ直ぐ見つめてくるのだと。


しかし信州の片田舎で暮らしていた少年の瞳は、それ以上のものがあった。
帰れと言った所で聞かず、無理に外に追い出そうとすれば暴れ、しがみ付いて離れない。
一緒に行くんだ、オレも戦うんだ―――――そう言って、訴えてきた瞳のなんと眩しかった事か。

だから、この少年の入隊を許可した。
これから先を託してみたいと、思ったから。





以来、子供は常に後ろをついて回る。

急な山道だろうと、流されそうな土砂降りだろうと、文句も言わずに、隣について一生懸命歩いて行く。
まだ幼い身に辛いか、寒くはないかと、何度となく問い掛けた。
その度に子供は「平気です」「村はもっと寒かったから」と言って笑う。
頭の天辺から、足の爪先までズブ濡れになっても、雪に霜焼けになっても、子供はいつも笑っていた。


預けた刀を大事に大事にその腕に抱え、隊長、隊長と後ろをついて来る。
つんつんに立った髪の毛のお陰で、トリ頭と揶揄される事が多かった。
そうして怒る子供を見ながら、それなら本当に雛だなぁ、とこっそり思ったものである。




危なっかしい場面は多々あるものの、確かにその子供は、自分達にとって希望であった。
赤報隊の唱える四民平等が叶っても、それで自分達の役目は終わりではない。
それはあくまで先駆けでしかなく、その後どうなっていくのか担うのは、この子供達の世代なのだから。
意志を継いでくれる者が在る事を厭に思う者など、いる筈もなかった。

言葉が、願いが現実への第一歩を踏み出し、形だけでも整えられたなら、
今度はこの子供が大人になり、その世の中を繋いでいかねばならない。

それを、この子供に託した。
雛のように後ろをついて歩く子供に、未来の希望を。
まだ小さなその手に。













隊長、隊長、と。

その子供がこれからもずっと、笑っていてくれたら。
きっと目指した未来が其処にあるのだと、信じている。


























【未来へ】




























伝令からの言葉に、隊員達からどよめきが起こる。
相楽総三は黙ってそれを聞き入れていたが、顔に出さないだけで、胸中は同じだ。





此処まで走って来て……最後の最後でこれか――――――……





こういう事態を予測していなかった訳ではない。

維新政府の財政難を知らなかったとは言わない。
だがこうもあっさりと、しかも黒となって立場を一転させられるとは。


赤報隊の隊員の殆どは、農民や商人の出である。
相楽は江戸で生まれた郷士の出であり、公家出身の者も皆無ではない。
しかし実働隊のなり得た者達は、半分以上が地位の低い立場の者だった。

お上が斬り捨てるには十分、いなくなって困るものではない―――……



そうして傷付いてきた人達がいたから、これ以上そんな人達が傷付くことがないように、この赤報隊は立ち上がったのに。





握り締めた拳の震えには、誰も気付いていないように見えた。
皆、伝令の言葉に憤り、平静となっていられるのは自分だけらしい。

だがそんな中に一つの視線を感じて、相楽は顔を上げた。
無遠慮なほどにまじまじと見つめて来る者は、隊長と言う立場からか、そう多くはない。


巡らせれば直ぐに視線の持ち主と目があった。




預けた刀を抱いて、不安そうに見つめる子供―――左之助。
話の内容を何処まで理解できたのか、相楽には判らない。
だがただならぬ事態である事は、場の空気で感じられる。

不安げに見つめてくる瞳が、いつもの笑顔と程遠くて、胸が痛んだ。
毎日のように後ろをついて来た雛は、降って湧いた事態について行けていない。



抱き締めて、大丈夫だよと言って頭を撫でてやりたかった。
そうすれば笑ってくれるような気がして。


しかし相楽は無理矢理に交わった視線を引き剥がし、ざわめく隊員達に向き直る。







「ニセ官軍だなんて、とんだ言いがかりだ…!」
「俺達がどれだけ苦労していたかも知らないで……」
「こんなの、あんまりだ!」







隊員達の吐き出す言葉は、そのまま、相楽の心のうちでもある。
立場がなければ、同じように口に出していただろう。

だが、自分は隊長だ。
取り乱すわけには行かない。
そんな事をすれば、見つめる子供が余計に不安になってしまうから。


ともすれば全てを吐き出してしまいそうになる。
それを、ぐっと唇を噛み締めることで堪えた。






「隊長……!」






相楽を見て、戸惑う表情で呼んだのは、江戸を出た時から共に歩んできた男。
そちらを見遣れば、こちらを見つめる瞳は一対ではない。

昔から見知った者、道中で出逢った者、まだ真新しい者―――――其処にいるのは様々だが、目指したものは皆同じ。


出来る事なら、間違いであると。
出来る事なら、嘘だと。

言いたかった、けれど。






「相楽隊長、どうします!?」
「隊長…!」
「相楽隊長……」






呼びかける者達に、相楽は一度目を伏せた。








「…総督府に楯突く訳にはいかん……ひとまず、下諏訪の本陣に出頭しよう」







真っ向切って嘘だと言った所で、聞いてくれる者は既にいない。
碓氷峠の分隊は既に攻撃を受け壊滅し、下諏訪の本陣も今どうなっているか。

……簡単に予想がついてしまう。


それでも、此処で何もせずにいる訳には行かない。




傷付き、疲労し切った伝令に休むように命じる。
控えていた救護役の隊士の一人が直ぐに駆け寄り、奥へと連れて行った。


伝令の背中が小さく震えている。
頭の切れる人物であったから、今後、自分達がどうなるのか、きっと気付いたに違いない。
必死に此処まで伝えてくれた事に、相楽は小さく頭を下げた。

だが、感謝の言葉も浮かばない。
彼の背中に何を言っても、これから先が変わるとは思えない。




ただ、願わくば。










「左之助」










不安げな面持ちで立ち尽くしていた子供を呼ぶ。
はっと上げられた顔は、いつもの向日葵のような笑顔が嘘のように曇っている。



刀を持つ腕が小さく震えていた。

行軍の最中に襲撃を受けても、決して怯えることのなかった小さな魂。
真っ直ぐに前を見つめて、見えない未来に向かって走っていた、光。


………守りたいと願うのは、傲慢だろうか。











「お前は、此処で待て」


「………!!」











刀を取って告げた言葉に、丸い瞳が見開かれた。




いつでも後ろをついて来ていた。
置いて行かれないようにと、一所懸命に。

雛の刷り込みのように、この子供は、いつも全身で自分を追い駆けてきた。
隊長、隊長、と今ではそれがあるのが、相楽にとっても当たり前になった。
ふと背中の子供が静かになると、どうしたのだろうと振り返ってしまうのが、すっかり馴染んで。



でも、此処から先は連れて行けない。








「お前は準隊士、それにまだ若い。此処から先は、連れて行く訳にはいかん」








言外に未熟であるからとでも匂わすように、強い口調で言って背中を向ける。
歩き出せば、いつもついて来るはずの足音は、なく。











「……隊長…………」










置いていかれる事へか。
ついて行けない現実へか。

不安げな声が聞こえて、相楽はいけないと思っていながらも足を止めた。
肩越しに振り返れば、泣き出す一歩手前の瞳が其処にある。



負けん気の強い、生意気盛りの子供。
一所懸命に親鳥の後ろを置いて行かれまいとついて来る、小さな雛鳥。

まだ巣立ちには早い。
家出同然に飛び出して来たことは聞いた。
けれど、まだこの子は守られている筈の歳。
喧嘩別れをした父親に代わって、本来ならば自分が守るべきだ。
今しばらくは、もう少し、温もりの中で。



だけれど、きっと自分は、もう。










「大丈夫」











預けた刀を、いつも大事そうに抱えていた細い腕。
まだ子供子供した、柔らかい小さな手。
意地っ張りで、甘え下手な、可愛い子供。


もう一度抱き締めたい。
抱き締めて、帰って来るよと囁きたい。

そうすればきっと、この瞳の曇りは消え、あの笑顔を見る事が出来るだろう。




でも、もう。













「心配するな」























―――――――“帰って来るよ”とは









…………言えなかった。












































隊長、隊長、と。
まるで雛が刷り込みでもしたかのように、後をついて来る子供がいた。








負けん気の強さと、意地っ張りは隊一だったと思う。
同じ年頃の隊士と言ったら、左之助が入って後に入隊した克弘ぐらいのものだった。
内気な克弘だったが、不思議と左之助にだけは心を開いて、瞬く間に仲良くなり、一緒に駆け回るのを相楽は何度も見た。
釣った魚を左之助が逃がしただの、それは克弘が大きな声を上げるからだの――――、
なんでもない事で揉めて、最後は二人揃ってけらけら笑っているのを、相楽はいつも見ていた。


左之助が笑うと、克弘が笑う。
二人が笑うと、回りの大人達も一緒に笑う。

気付けばそれは、相楽にも伝染して行った。


左之助が入隊したのは、冬が始まる頃だった。
だと言うのに、左之助と一緒にいると、不思議と寒さを感じない。
其処にいるだけで陽だまりが零れているような、不思議な子。





気付けば冬は終わりに差し迫り、左之助は春になったら花見に行ってみたいと言い出した。
今年は行けるかどうか判らないけれど、いつか一緒に行けたら良い。
だから、見えない未来に約束を交わすと、左之助は嬉しそうに頬を染めて頷いた。



いつ来るか判らないその日を、左之助はどんな風に思い描いていたのだろう。



桜の舞う下で、左之助はどんな風にして笑うのだろう。
相楽も、何度となくそれを思い描いていた。

冬とは違う陽射しの下で、桜色に頬を染めているのが脳裏に浮かび上がる。
父親が酒飲みであったと言うことからか、随分早くから酒に興味を持っているようだが、まだそれはお預け。
その代わり、たらふく団子や握り飯に被り付いている事だろう。
隣で克が呆れていて、大人達はそれを囲んで笑うのだ。


そして左之助は、相変わらず、隊長、隊長と言って傍に駆け寄ってくる。
それを、受け止めることが出来たなら、どんなに嬉しいだろう。











陣に準隊士達とごく少数を残して、行く。
追い駆けてくる気配がしたけれど、振り返らない。
同じ歳の子供が止めている声がした。






隊長。

隊長。


相楽隊長。




よせ、左之助。







顔を見る事が出来ない。
顔を見たら、戻ってしまう気がして。

江戸に妻を置いて発った時でも、こんなに痛い思いをした事はなかった。
彼女は出来た女性で、言わずとも判ってくれて……ただ、寂しそうな顔をしているのは覚えているのだけれど……、
こんな風に引き裂かれそうな声で呼ばれたのは初めてで――――…こんなに痛いものだとは思っていなかった。


真っ直ぐな子供は、こんなところでも真っ直ぐで。


……どうかこれからも、その心が何処かで折れてしまわないように。
見守っていられたら、良いのだけれど。
願わくば、その心が、これからの出来事に泣かなければ良いのだけれど。













『ねぇ、隊長』












遠ざかる呼び声に、代わりのように、明るい声が木霊した。













『世直しがさ、上手く行って、その四民平等になったらさ』



『農民の子のオレも、堂々と苗字名乗れるんスか』













何度も何度も言って聞かせた、四民平等への願いと、思いと、道程と。
言葉の続きをそっくり覚えて奪った左之助に、小さな笑みさえ漏れたあの日。

嬉しそうに言った言葉が、蘇る。















『そしたら、オレ』





『“相楽”って名乗っていいスか! 隊長!』














背負うのなら、同じが良いと。
変な名前になってしまうだろう、と言ったら、それでも嬉しそうに笑った。
駄目だと言わなかったのが、子供にとっては先ず大事だった。


手ずから巻いてやった緋色の鉢巻を揺らして、くすぐったそうに笑った子供。

同じ名を背負うという事は、その意志を受け継ぐことのようにも思えて。
左之助にとっては憧れの人の名を継げることを、相楽にとっては目指す未来を託すことを、まるで約束したかのようで。
其処に抱いた喜びの形は違うけれど、そうして受け継がれていく事は、とても嬉しいことだった。




あの時、振る雪の中で見た笑顔は、温かくて愛しかった。














どうかあの笑顔が消えないことを、祈る。






















































―――――――隊長、隊長、と。



雛の刷り込みのように、後ろをついて来る子供がいた。






同じ名を、背負ってくれると言ってくれた子供がいた。













未来を託した、子供がいた。























最後に抱き締めてやれなかったことだけが、酷く心残りで。









だけれど、生きていて欲しかったから。


















笑っていてくれることを、願う。
































ヒヨッコ左之助。つかヒヨコな仔左之。隊長の後をちょこちょこついて回る。

左之助の負けん気の強さは昔からだと思うんですが、やっぱり隊長には甘えて欲しい……
原作二巻の隊左之にフォーリンラヴで書いてみました。
行っちゃう隊長の背中に、不安げな左之が可愛くて大好き!

当時の左之が大人達の話に何処までついて行けるかは判りませんが、あれだけ周りが取り乱してたり、“ニセ官軍”なんて言葉が出てきたら、やっぱりただ事じゃないでしょう。
そんななのに「此処で待て」なんて言われちゃあ……置いて行かれることにも、隊長が行っちゃうのにも不安になりますって。

ちょこっとだけ克も投入。
そして気持ち程度の、隊左之。

兆し








「お兄ちゃん、待ってよぉ」






掘ったばかりの冬大根を抱えて、あぜ道を歩く左之助に、妹の声。
立ち止まって振り返れば、思ったよりも二人の距離が開いていた。

今年で六歳になった妹の右喜は、一所懸命、兄に追いつこうと足を動かした。


左之助の腕には立派な大きな大根が三本、右喜は一本、それぞれお抱えていた。
今年の冬は随分と寒いが、おかげで美味い大根が収穫できる。
金になるのは幾らもないが、それでも自分達が食える分はちゃんとある。
今日明日は空腹を抱えて夜中に目覚めることはないだろう。

生まれ育った地だから、夜の冷え込みの寒さには慣れている。
寒がる妹と寄り添い会って眠れば、それだけで十分温かい。
母と一緒だったら尚更、父親も――――それを、左之助は言おうとはしないけれど。

でも、空腹ばかりは誤魔化せない。
まして左之助は今年で十歳、食べ盛りの時期だった。



追いついてきた右喜の呼吸が整うのを待ってから、また歩き出す。
今度は置いて行かないように、小さな妹の歩幅に合わせて。





「今日はおっきいの獲れたね、お兄ちゃん」
「ああ。これなら母ちゃん喜ぶぞ」
「晩ご飯、何かなぁ」





豪華と言えるほど豪華な食事なんてした事はない。
朝晩の飯に米がない、なんていつもの事。
それでも、少しでも品数が増えれば、嬉しかった。


右喜が冷え込みで悴んだ手に息を吐き当てている。
その手は、土に塗れて汚れているけれど、柔らかくて温かい事を左之助はよく知っていた。

これ以上、その手が冷えてしまわないように、左之助は大根三本を片腕に抱え、空いた手を差し出す。
右喜はしばらくきょとんとしてその手を見つめた後、嬉しそうに手繋ぎ、握り締めた。
それだけで、吹き付けてくる寒さだってへっちゃらになるから不思議なものだ。






「右喜は今日、何食いてェんだ?」
「なんでもいいよ。お母さんのご飯だもん」






まだ幼い妹の可愛い言葉に、左之助も口元が綻んだ。


米が食いたい、なんて今の自分達の生活では贅沢中の贅沢だ。
朝晩の飯をせめて食いっぱぐれないようにするのが背一杯。

そして何より、家族揃って飯が食えるのなら、これ以上幸せな事はないだろう。





我が家が見える所まで来ると、その戸口に女性が立っているのが見えた。
勝気そうな笑みを浮かべて、子供達が戻ってくるのを待っている。


変わらぬ歩調で返ってきた息子と娘に、女性――――菜々芽は微笑んだ。
釣られたように右喜も笑って、左之助も。











ただいま、と言える場所がある事が、とても幸せだった。































【兆し】


























「おい右喜、寝るんなら布団に入ってからにしろよ」







家族の団欒の傍ら、囲炉裏の傍で寝入りかけていた右喜に、左之助が言った。
こくりこくりと舟を漕ぐ右喜からは、いつもの元気の良い返事はない。
殆ど意識が離れてしまっている事に左之助は小さく溜め息を吐き、幼い妹を布団に入れるべく、立ち上がる。

それを母の菜々目は微笑ましそうに見つめ、上下エ門は世話焼きな長男の行動に煙管を吹かして笑う。
父に対しては年頃の反抗期故か、最近は何かと反発する左之助であるが、妹への行動はいつも優しかった。
甘やかしはしなくても、兄として守ってやらねば、という意識があるのだろう。
頼れる長男になろうとする姿は、両親にはとても喜ばしいものだった。


きちんと畳まれていた布団を運び出すと、手際良く寝床の用意を済ませる。
それから小柄な妹をよいせと抱きかかえ、布団に入れてやった。







「優しいお兄ちゃんねぇ」
「あったり前だぜ。兄貴なんだからな」







母の言葉に生意気な風に胸を張って言う。
その小生意気な口調の翳で、頬がほんのりと朱色に染まっていた。

褒められて嬉しいなんて思ってない、これは当たり前の事なんだから。
子供の可愛い意地っ張りに、菜々芽はくすくすと笑った。



ポン、と煙管の灰を落として、上下エ門も笑い、






「そんじゃ、お前もとっとと寝やがれ。ガキはとっくに寝る時間だぜ」
「誰がガキだよ、クソ親父!」
「お前だお前。ネションベンしねぇように、厠行けよ」
「するか!!」





手加減無用の我が子の蹴りを、父は容易く受け止める。






「息子が親父に敵う訳ねぇだろ!」
「うるせー! 今此処で泣かしてやらぁ!!」
「おお、いい度胸じゃねぇか!」


「こら、止めなさい!! 右喜が起きちゃうでしょ!」






本格的に取っ組み合いでも始まろうかと言う所で、妻、そして母の声。
この界隈で腕が立つと評判の上下エ門も、生意気盛りの左之助も、彼女だけには頭が上がらない。
母は強し。



父と息子はしばらく睨み合ったが、二人同時にフンッとそっぽを向いた。

夫も長男も元気なのは良い事だが、こうまで元気が有り余っているのも困り者だと菜々芽は思う。
おまけに左之助は見事に父の性格を受け継いでいるようで、短気で喧嘩っ早かった。
親子同士で手が出るのが早いのには、菜々芽も少々持て余し気味である。


左之助はそれから上下エ門と顔を合わせることはしなかった。
父に言われた通り、右喜の眠る布団に一緒に入り、寝る体勢になる。

古びた家だ。
隙間風が吹き込んで、布団も温まるまでは冷たいだけ。
それより、人とくっついて眠った方がずっとずっと温かい。

妹を抱き込んで、寒さに目が覚めたりしないように、温もりを分け合って眠る。
仲の良い兄妹の寝顔に、菜々芽は幸せを感じていた。




さて、聞かん気の強い頑固な父親、夫はと言えば。
左之助が寝入ってようやく、クツクツと面白そうに笑い出した。






「あんまり左之助を揶揄っちゃ駄目ですよ」
「なぁに、構やしねぇよ。あれぐれぇ威勢がある方が良いってもんだ」
「だからって屋内で喧嘩はよして頂戴ね」





菜々芽は、しっかりとした女性だった。
主立ちはすっきりとしたもので、右喜は母の特徴をよく捉えて生まれていた。

上下エ門も頑固だが、菜々芽にだけは頭が上がらない。
惚れた弱味か、上下エ門を知る者が見たら驚くのではないだろうか。
案外、カカァ天下な家だなんて。

右喜の目鼻立ちは本当に菜々芽によく似ていて、ならば性格も似るのだろうかと上下エ門は思う。
今は左之助の後ろを一所懸命歩いて、不安があるとお兄ちゃんお兄ちゃんと泣く一人娘。
成長した娘と、嫁と、二人に叱られる様が頭を過ぎり、上下エ門はそりゃキツいかもなぁと一人ごちた。
その時はきっと、頼れる筈の長男も、隣で頭を項垂れているのだろう。



上下エ門がらしくもなく、そんな未来図を描いていると、菜々芽が小さく溜め息を吐いた。







「ん? どうしてェ?」






その溜め息が十年連れ添った妻にしては珍しいもので、上下エ門は問い掛けた。

菜々芽は、うん……と少しの間目を伏せる。
瞳がもう一度覗いた時には、寂しげな瞳が其処にあった。







「ちょっと、左之助がね……」
「左之助がどうかしたってんでェ? また何処ぞで喧嘩でもしてやがったか」
「それ位なら、今更気にはしないんだけど」






左之助の喧嘩っ早さには、ほとほと困り果てている菜々芽である。
しかも上下エ門はそれを一つも咎めず、寧ろ喧嘩して帰って来るのを良い事だと言い出す始末。
……どちらかと言うと、後者の方が菜々芽にとっては頭痛の種だ。

しかし、それなら喧嘩相手の親に謝りに行く程度の事で済む話だ。
やんちゃな息子の無鉄砲さに呆れて拳骨を落とす事はあっても、こんな寂しげな瞳を見せることはない。


黙って先を促す夫に、菜々芽は一呼吸置いてから話し出す。






「近頃、遠くを見ている事が多くなってるみたいでね……」
「ああ、そういやぁそうだな。なんか物珍しいもんでも見えてんのか…」
「珍しいものがあるだけなら、良いんだけど」






火箸で囲炉裏を突つく菜々芽の横顔は、なんとも言えない儚さがあった。

ぽっと吹かした煙がふわふわと揺れ、空気に溶けて消える。
隙間風が吹いて、その煙もきっと外へ流れて行っただろう。













「いつか此処から、飛び出して行ってしまいそう………」













菜々芽の言葉は予言染みていた。
腹を痛めて生んだ、母としての直感だったのだろうか。

息子がこの信州の片田舎で収まっている程の男でない事は、よく判る。
これは男親としての、男同士の仲で言える直感だ。
けれども今の左之助はまだ十歳足らず、此処を跳び出て行くには幼過ぎる。
もっと幼い、己を慕って止まない妹がいるというのに、今この瞬間に何処に飛び出していくと言うのだろう。
その時の上下エ門には、菜々芽が其処まで気にする理由がよく判らなかった。






「そう気にする事ぁねぇよ。優しい兄貴は、妹放ってどっか行くなんざしねぇさ」






布団で丸くなる兄妹を見遣り、上下エ門は言った。




布団の中でごそごそと右喜が身動ぎしている。
左之助は気付いていないのか気にならないのか、ぴくりとも動かなかった。

右喜は暖を求めてか、安心できる場所を探しているのか、身動ぎは長かった。
最終的には左之助の腕の中で、その温かい兄の胸に顔を埋め、ようやく落ち着いた。
左之助が動いたのはそれから少し経ってからで、妹の背中に腕を回して抱き寄せる。
お兄ちゃん、と嬉しそうな呟きが静かな家の中に溶けて消えた。


まだ幼い右喜は兄を一心に慕い、一番好きだと言って憚らない。
生意気盛りの左之助は、それを正面から言われると素っ気ない態度を取るが、それでも空気は柔らかかった。
甘えたがりの妹が手を繋ぎたいと言えば、左之助は小さく笑って、成長途中の左手を差し出す。
連れ立って歩く兄妹の姿はこの界隈でもよく知られ、仲の良い兄妹だと評判が良い。

周りの目など気にする子供達ではない。
今目の前にある幸せを、ただ守りたいと思っているだけだ。



だから、左之助はその手を振り払ってまで此処を出て行く事はない。
そんな事をすれば、大事な可愛い妹がどれだけ泣いてしまうかぐらい、ちゃんと判る筈だから。







けれども、菜々芽の表情は晴れなかった。













「それなら、良いけど……――――――」













息子に、何処も行くな、とは言わない。
いつか此処を出て他の地を、他の居場所を探すこともあるだろう。

だが菜々芽は、ざわつく心を抑える事が出来なかった。
遠くを見つめる左之助が、何を求めているのか、菜々芽には判らない。
ただあの瞳を見る度に、言いようのない不安が過ぎるのだ。


まだ発展途上のその魂は、いつか家族以上の何かを見つける事になるだろう。
それが新たな家族なのか、それまでの人生の中で培った生き様か。
家を守る身となった菜々芽にも、その家を支える父となった上下エ門にも判らない。



ただ願うのは、今この時はもうしばらく、息子が“息子”でいてくれる事。





冷たくなった湯飲みの中の茶を見つめ、菜々芽はまた目を伏せた。
その瞼の裏には、近頃見る事の増えた息子の後姿が焼き付いたように映る。

上下エ門は囲炉裏に煙管の灰を落とし、妻のその横顔を見つめていた。



――――――父親と母親は、それぞれ役目が違う。


その腕に抱き、守り、慈しむのは母親の役目。
父親の役目は、それとは正反対。
いつか巣立つ日の為に、生きる術を教えること。

菜々芽が不安に思うのは、その役目の為だろうか。
まだ守られている筈の、守っていて良い筈の息子が、早すぎる巣立ちを感じさせるから。







吹き付ける風が冷たい。
ちらりと外を見遣れば、しんしんと雪が舞い落ちていた。

明日の朝には積もるだろう。
生意気盛りの息子ははしゃいで走り回り、娘はそれを一所懸命追い駆けているに違いない。
ふざけて雪球をぶつけてやれば、左之助は怒りに燃えて投げ返してくるだろう。
菜々芽はそれを見つめていて、殴り合いになりかけた所で止めるのだ。



春が来るまで、その風景は一体何度見られるだろう。




妻の不安げな面差しに、上下エ門はなんと言って良いか、最終的に判らぬままだった。
理屈ではないだろうから、尚の事。

いつものように笑って大丈夫だろうと言ってやる事が出来ない。
それは何処かで、自分もそんな日が近いことを感じているからだろうか。











「…………寝るか」











ようやく漏れたのはそんな言葉で、この会話はお終いとなり。
菜々芽も何も言わずに頷いて、湯飲みと急須を片付けると、自分達の布団を敷いた。
一つの布団で一緒に眠る、二人の子供達を挟む形で。


囲炉裏の火も、煙管の火も消した。
灯りのなくなった家の中は、それだけで酷く寒くなったような気がする。

布団の中で右喜が身動ぎすると、今度は左之助ももぞもぞと動いた。
擦り寄る妹を抱き締めて、ほんの少しすると二人揃って寝息を立てる。






まだ暫くは。


こんな家族の肖像が、此処にある筈。















































毎年の事だが、積もった雪に案の定、左之助がはしゃぎ回る。
歩けば出来る自分の軌跡が面白いらしく、まっさらな雪の上を踏み締めては楽しそうに跳ね、
右喜はその後ろを一所懸命ついて行き、転べばすぐに兄が駆け寄って来て甘えていた。

それを菜々芽が家屋の中から見て微笑み、雪掻きをしていた上下エ門はその手を止めた。






「お兄ちゃん、待ってよぉ」
「右喜、こっちだこっち! 此処、雪深ぇぞ、面白ェ!」
「転んじゃうよー」
「大丈夫だって! ほら、来てみろ!」






こんもりと積もった雪の小山の上で、左之助ははしゃぐ。
右喜はそれを心配そうに見ていたが、左之助にこっちに来いとせかされ、恐々と歩み寄っていった。

子供の体重程度では崩れない雪の山。
おっかなびっくりに登る右喜に、左之助が手を伸ばす。
掴んだ手を引っ張り上げると、揃って小山の頂上到達。






「すごーい、真っ白だぁ」
「こりゃ大根掘るの大変だな」






雪の下に埋もれて隠れた自分達の農作物。
この時期あっての美味い大根だが、やはり大変なものは大変なのだ。

けれども、子供達は楽しそうに笑う。



それを遠目に見ていた上下エ門は、ショベルを雪の上に放り投げ、足元の雪を丸めて固めた。










「おい、バカ息子!」
「あんだよクソ親――――ぶっ!」









真っ直ぐに投げられた雪球は、見事に左之助の顔面に命中した。







「お兄ちゃん!!」






姿勢を崩した小さな身体は、均衡を崩して小山から落下した。
とは言え、雪の深く降り積もった地面だ。
ぽすんと雪の沈んだ身体は大した衝撃もなければ怪我もなく、すぐに起き上がる。








「何しやがんだ、クソ親父!」
「遊んでねーで手伝いやがれ、終わらねぇだろうが」
「口で言え!!」







やられたお返しとばかりに、小さな手が握った雪球が飛んでくる。
真っ直ぐに飛んできたそれをヒョイと避ける。

が、すぐに第二撃が迫っていた。


雪球が上下エ門の頭に当たり、ぱかんと破裂する。








「やりやがったな!」
「先にやったのはテメェだろ!」







静かだった筈の雪山に木霊する、親子の喧騒。
通りがかった村人達はああまた今日もかと笑み、通り過ぎていく。
右喜だけが雪の小山の上にいて、おろおろと兄と父を交互に見ていた。

一人家屋に残る菜々芽はその風景に小さく笑み、昼餉となる鍋を温める。
雪まみれになって寒さに震えて帰ってくるだろう、家族の為に。






















出来る事なら、春が来るまでこのままで。



駆け回る息子の姿を、こうして見守っていられますように。

























捏造左之母。
あの上下エ門の嫁さんだし、左之と右喜の母親だし……結構芯の強い人だったんだと思います。書けてないけど(オイ)。

左之の少年期は赤報隊しか描かれてなかったけど、結構昔から兄貴肌だったんじゃないかと。
妹がいると面倒見良くなりそうだし……私は末っ子なので、これは想像ですが。
再会した時はお互い判らなかったけど、再会時の左之の回想からこんな兄妹妄想。


父親と母親とで、“息子”に対する態度や心配事は違うと思います。
そんなイメージから、飛び出していきそうな長男の将来への不安の違いを書いてみた……つもり。
ただ、まだ十歳足らずだし、もうちょっと家にいて欲しいとは思う親心。

真実となりえた虚構、虚構に消えた真実










―――――――背負い続けていれば








いつか重みに膝を付く日もあるのだから





















【真実となりえた虚構、虚構に消えた真実】

























ぶらりと街を歩いていると、喧騒が聞こえてきた。
その騒がしさに人は様々に興味を惹かれたようで、皆そちらへと駆けて行く。

剣心は一度は通り過ぎようとしたが、不意に聞こえた言葉に足を止めた。







「おい喧嘩だ喧嘩! すげぇ事になってるぞ!」
「やくざ系のが十人に、若造一人だって?」
「ありゃあ喧嘩屋じゃねえのか!?」






“喧嘩屋”と聞いて剣心の脳裏に浮かぶのは、悪一文字に赤い鉢巻。
“喧嘩屋”はというの昔に廃業したと言っていたが、それでもよく名を知られている男である。
風貌からして特徴的なので、一度見たらそう感歎に忘れられるものではない。

その頃から負けなしでいた男は、京都での死闘を経て更に強くなった。
其処らの破落戸相手ならば、心配する事等何もない。


けれどもどうにも放って置けない気がして、剣心はその喧騒へと向かう。




道を数本曲がると、川に面した。
左右を見渡すと、左側に集まった人の塊。

小さな茶屋の前を扇状に囲った人々。
小さな闘技場が其処に出来上がっており、その中から蛙を踏み潰したような声。
時折吹っ飛ぶ男の姿が見えて、これはかなり荒れたものだなと思った。


失礼、と人ごみを潜り抜けると、案の定。








(………かなり、どころではなかったでござるなぁ…)







十人中半分を地に沈めて、青年――――相楽左之助は凛と背筋を伸ばして其処に立っていた。
やくざ系の男達は既に逃げ腰になっていて、左之助を囲んでいるものの、誰も挑みかかろうとはしなかった。
しかし逃げようにも周囲の人垣が壁を作り、数メートル程度しか離れる事が出来ない。



左之助は傷もなければ呼吸も乱れもない。
苛々とした所作で時折爪先で地面を蹴っている。

その横顔は、剣心の見慣れたものとは程遠かった。







「なんでェ、もう来ねえのか?」






恐れ戦く男達を睨み付け、左之助は拳を打ち鳴らす。
低く響くその音に、男達は更に及び腰になる。


相手が其処まで戦力がなくなったと知れば、左之助はそれ以上手を出すことはしない。
弱い者イジメをしているような気分になる、といつだったか言っていた。

左之助が好んでいるのは、あくまで“喧嘩”だ。
打てば響く、打ち返してくるのが好きなのであって、戦意をなくした者にそれを求めることはない。
逃げる者を無為に追い駆ける事もなく、自分の興が削がれた事だけ残念に思う。



それが、今日は。












「だったら、こっちから行かせて貰うぜ………」











鳴る骨音に、昏い瞳。
既に戦意を失った者にまで。


いつか見た、荒れに荒れたその瞳。
我慢ならないと、震えるその拳。

それは、純粋すぎる程に純粋な、憤り。
理屈も体裁も何もない、ただ純然たる透き通るほどの怒り。
赦せぬものをただ赦せぬと、理由はそれだけで十分だと。




やくざかぶれの男達は、この辺りで有名であったのだろうか。
殆ど一方的にやられていると言うのに、衆目達は誰一人同情した様子がない。
やれ、やれ、と煽り立てるような声が湧き上がっていた。

左之助はそんな周りの視線など一つも見えていない。
目の前にいる男達を殴り、投げ飛ばし、容赦しなかった。



決着が着くまでに経過らしい経過はなく、ものの数分足らずで、其処に立っているのは左之助のみとなる。
男達は死屍累々と地面に転がり横たわり、辛うじて意識の残るものは受けた痛みに呻いている。

そうまでしても、左之助の瞳は昏いまま、怒りを滲ませ、冷たくそれらを見下ろしていた。



ジャリ、と砂を踏む音がして、左之助は男達に背を向ける。
怒りはまだ収まらずとも、これ以上は無意味と感じたか。

しかし去ろうにも、群集は未だ壁を作っている。
日頃迷惑を被っていた男達が若い青年に一人残らず伸され、彼等は拍手喝采の大盛り上がり。
そんな中に剣心は黙したまま、ただ左之助を見つめ佇んでいたが、彼は終ぞ此方に気付かなかった。
それよりも、道を塞ぐ群集達にさえ、苛立ち。










「煩ェ、退きやがれ!! 見せモンじゃねぇんだよ!!!」









瞳孔の開いた眼が人々を射る。
響いた声に群集は一瞬ぎくりと体を強張らせ、左之助の前に道が開かれる。
袖珍に手を突っ込んだまま、左之助は周りをちらりとも見ず、其処を通り抜けていった。




剣心は、直ぐに追い駆けた。


未だ散ろうとしない群集を、入って来た時と同様に掻き分け、枠の外に出る。
通りすがりの人々は一様に足を止めていたから、追い駆けるのは容易であった。








「左之!!」







群集から十数メートル離れた場所で、その背中を呼んだ。
ぴたりと足が止まり、剣心は追いつく事が出来た。

剣心が直ぐ傍に来るまで、その背中は前に進むことはしなかった。
呼べば片手を上げて返事をするのが常であったのに、今日はそれがない。



左之助が振り返ったのは、剣心との距離が一歩分にまで縮んでから。








「………………おう、剣心。見てたのか」







いつも“陽”を思わせる眼差し。
今は、光が褪せていた。







「……随分、派手に立ち回っていたな」
「そうかい」







素っ気無い言葉は、まるで他人事のよう。
つい先程まで自分がしていた事さえも、既に記憶の彼方に追いやって。


荒れているどころではない。
これは局地的な嵐だと、剣心は思った。

影響だけを及ぼして、後はただ去り行くだけ。
大気の渦の中に散って行くまで。
握り締めた拳はせめて容易く振り下ろさないよう、重力に従えたままにして。
ただ、己の中で吹き荒れる嵐が通り過ぎていくのを待っている。







「少々、遣り過ぎだったのではござらんか?」
「……そうか」
「あの者達が何をしたのか、拙者は知らぬが……」







左之助の琴線に触れる事は、様々だ。
しかし、ああまで激昂するような事は滅多になかったように思う。

勝負事に置いて、左之助は切れ者である。
よく考えなしだなんだと言われるけれど(確かに未熟な部分は数あれど)、頭の回転は早い。
何を如何すれば相手を煽るのか、何処を狙えば相手の戦意が折れるのか、よく知っている。
相手の力量を量る目も、ちゃんと持ち合わせている。

格の違う相手に、理由もないのに殴り飛ばすほど、左之助は粗忽ではない。


その左之助の逆鱗に触れた男達は、実に運が悪かったとしか言いようがない。
彼等にとっては何気ない一言であったのだろうが、他者にとって大きく重みが異なる事はままある。

…………そして左之助には、何よりも譲れないものがあった。




また歩き始めた左之助の隣を、剣心は並んで歩いた。
今日は特別、是と言った用事もない。

今の左之助を放って置いては、また何処で嵐が勃発するやら。
その内手加減というものを完全に忘れてしまいそうで、剣心は彼を一人にする気になれなかった。







「右手、また痛めたのではござらんか」
「どってことねえよ。あんなの相手に、そんなヘマするか」






右手に巻かれた包帯は、少し解けかかっていた。
今此処に高荷恵が通りかかったら、烈火の如く怒り出すのは容易に想像できる。

痛めてはいないと口では言うが、その手がどうなっているのか、剣心はよく知っている。
医者である恵のように専門的な事ではないが、下手をすれば一生使い物にならなくなるという事。
嘗ては何でもないように打った拳打も、返る反動は以前のように軽いものではなくなっているだろう。


一応、恵に言われるからだろうか。
大した事のない相手との喧嘩なら、左之助は右手の使用を控えるようになっていた。



それを今日は、破ってまで。















「“そんなの”相手に、お主は何を赦せなかったのでござるか?」















昏い瞳を見せるほど。
その光が翳るほど。

純然たる怒りは、一体何が運んできたものか。




横顔を見つめて問えば、ちらりと左之助の眼がこちらを見た。
ほんの一瞬であったが、視線が交じり合う。

左之助の瞳はすぐに逸らされたが、その表情は一転した。
表情筋は動くことはなかったけれど、纏う空気が変わる。
バツが悪い、そんな。




がりがりと頭を掻いて、左之助は明後日の方向を向いた。









「…………“ニセ官軍”」








呟かれたのは、左之助にとって一番大切で、一番悲しくて、一番大事で嫌いな思い出を示すもの。



その一言だけでも、左之助にとっては鬼門だった。
他の誰よりも真実を知り、其処にあった出来事を具に見つめていた過去。
拭い去れない罪ならぬ罪に、一人怒りを抱えて生きた日々。

幼心に突き立てられた刃は、常に左之助の内側で傷を抉る。


突き立てられた刃の名が、その言葉。








「話の前後は…もうあんまり覚えてねェんだ。聞こえちゃいたけど」







興奮のあまりに記憶が飛んでしまったのだろう。
恐らく、その前後の会話も、左之助にとっては不快なものであったのだ。








「赤報隊がどうの――――……その親玉がどうのって―――……」







思い出そうとするだけで、怒りが蘇る。
握り締めた拳が震え、その内側ではきっと爪が皮膚を食い破っているだろう。


左之助は明後日の方向を向いたまま、剣心を見ようとはしなかった。













「聞くからに悪名みてェに言いやがって」


「本当の事なんざ何にも知らねェ癖に」


「隊長達に救われた人だっていたのに」


「あの人は、あの人達は、そんなのじゃねェのに―――――」












真実を知らぬ者の言う事に、真実はない。
人から聞き及んだ話の幾らが完全な真実と合致するだろう。



あった事は確かな事実、今になって消せる過去など何一つとして存在しない。
その過去の中に、確かに罪と呼ばれる行為はあっただろうし、全てが正義であった訳でもないだろう。
鳥羽・伏見の戦いに繋がる彼等の活動の中には、赦されざる行為はあったのだ。
左之助とて、当時幼い子供だったと言えど、何も知らずにいた訳ではないだろう。

だがそれを言うなら、時代の節目に起きた出来事の全ては同じこと。
時に悪に、時に正義と呼ばれる立場にくるくると代わり、評価されるのは全てが終わって後付同然となってから。


左之助が突きつけられたのは、一方的な切捨てだった。
優しかった眼差しも、温かかった手も、きらきらと輝いていた筈の理想と未来も、全てを否定された。





握り締めた拳の震えが、痛い。


慰めの言葉など欲してはいない。
無意味ものだから。

ただ我武者羅に振い続けた拳は、今もまだ解かれることはない。
そしてこれからも、解かれることはないだろう。











「こんな事したって……あの人が笑ってくれるなんざ思ってねェ……けど――――――」











左之助がどんなに声を張り上げても、聞く者はほんの一握り。
沢山の人が信じている嘘の前では、真実さえも嘘になる。
それが、無性に悔しくて堪らない。














「どうにもならねェ。どうしようもねェ。あの人は、あの人達は、偽者なんかじゃねェんだ……!」












まばらになった人の影。
その中に一つ、悲痛な叫び声。
ごく身近な者にしか届かない、叫び声。


声を上げても拳を振っても、何も変わらない現実。
決して覆らない、虚構の“真実”。




誰も知らない“真実”を、一人抱えて生きていくのは、息が詰まる―――――――…………






ともすれば崩折れてしまいそうな慟哭に、その持ち主は背筋を伸ばして立つ。


今此処に、自分以外がいなくて良かった。
剣心は思う。

そして、いないからこそ左之助は吐き出した。
飲み込み続ければいつか溢れる時は来る、その時独りでいれば掬い上げるものさえない。
飽和した感情の痛みは留まる事無く、いつか心は壊れてしまう。



手を伸ばすと、左之助の頬に触れる事が出来た。
左之助はそれを振り払うことはせず、けれども受け入れたというでもない。

不器用な甘え方だ。







「…………悪ィ」
「いや」







剣心にぶつけた所で、どうなる訳でもない……左之助の謝罪の言葉は、そんな意味を持っていた。









「――――――大丈夫」








零れたのは、酷く陳腐な言葉だった。
ただ示したのは、慰めなどではなくて。

これからの、未来への。















「誰も知らぬ真実ならば、二度と覆ることはない……けれど、お主はちゃんと覚えている」


「誰かが覚えているのなら、嘘はいつか嘘に還る」




「いつかは必ず、真実が真実として刻まれる」














それは、いつになるだろう。
あまりにも果てしない未来の話のようで、こんな言葉で実感など湧く筈もない。
その時、願い続けた真実が刻まれる瞬間、自分達が生きているかも判らない。

けれども誰かが覚えている限り、誰かが知っている限り。
真実が消えてしまうことはないから、誰かが希望を繋いでくれるのならば、いつかは。



叫び続けた真実の声は、人々の心に届く筈。





頬に触れる手に、左之助は何を思うだろう。


この手は沢山の命を奪い、沢山の未来を途絶えさせた、人斬りの手だ。
今は沢山の命を守り、沢山の人の未来を望む、元人斬りの。

左之助が一番嫌った、維新志士の。






一番最初に、凍った心を溶かしてくれた、唯一無二の男の、手。






無骨な手がその手に添えられる。
泣き出すのを堪えているように見えた。

泣いたら負けだ、泣いたら駄目だ。
まだ泣く時じゃない、泣くのはもう止めたんだから。
悔しさに泣くのなら、拳を振るうと決めたのだから。



子供の小さな意地張りのよう。
剣心はそれに小さく頭を振ると、ぽんっと背中の悪一文字を軽く叩く。







「飲むか、左之」
「……今からか?」
「拙者はいつでも構わぬよ」







今が嫌なら、今夜でも。
それが嫌なら、明日にでも。


一本気で意地っ張りな背中を、ほんの少し、崩す口実を作ろう。
逃げる為ではなく、前に進む為に。
いつか壊れてしまわぬように。

真実が“真実”となった時、その背が真っ直ぐ伸ばせるように。
記憶の中の人々が、今度は笑ってくれるように。







「…何処で飲むんだよ」
「それも何処でも構わぬよ。左之助の好きにすれば良いでござる」
「……言い出した割にゃ、適当だな」







そう、言い出したのは剣心の方。
左之助は、それに付き合わされただけ。

左之助の言葉に剣心は笑み、ちらりと久しぶりに、横顔が剣心を見た。


優しげな笑みに、ほんの少し、左之助の口元に笑顔が戻る。








「………そうだな」







勝てない男に誘われたんだから、断わるなんて出来やしない。
言い訳めいた理由付けも、今だけは赦されても良いだろう。

























だから今は、ほんの少しだけ。






この強がりな子供が、いつか壊れてしまわぬように――――――――……

























隊長が絡むと不安定になっちゃう左之。
いや、左之はもっと強い子だとは思うんですけど……爆発しちゃう事もあるってことで(滝汗)

剣心、すっかり保護者です。
克について書いてませんが、忘れてた訳ではないんです…ι
書き切れなかった己の未熟。