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空の蒼を反射させたその瞳は、酷く透明で、酷く儚かった。
それが目の前の男の内側に眠る、子供のような寂しさから来るものだと、直ぐ判った。
すぅと目を細めてその横顔を見つめる剣心に、意外に目敏い左之助は気付かなかった。
顔を上げて空を仰ぐのは、溢れそうな感情を流すまいと耐えているから。
それが耐えているだけだというのなら、まだ良いのだけれど。
耐える事に慣れてしまえば、いつしか流し方まで忘れてしまう事になる。
目の前の男がどちらであるのか、剣心は掴み兼ねた。
京都の激しい戦いの後、右手は白い包帯に覆われるようになった。
既に大人の骨格を完成させつつある体である。
その手も骨格と同様に節が目立つようになり、無骨な無頼者の形を成そうとしていた。
だが不思議と大人になり切れずにいるように見えるのは、彼がまだもう一つ、成長することを拒んでいるからか。
人の成長は肉体の変化と年月によるものだけではない。
限界を自らが超えようとした時、自身の手で一歩前に進むように、その体も成長を刻む。
心身共にあってこそ、人は“成長”していくのだと、剣心は何処かで聞いた話を思い出した。
もともと、左之助の性格は、どちらかと言えば子供染みた部分が目立つ。
理屈っぽいことは嫌いだし、善悪云々よりも自分がやりたいようにやる。
時折、辛辣な言葉を投げることもあるが、性根はいつまでも子供のように真っ直ぐで正直だった。
その子供染みた部分は、きっと生涯変わらない。
左之助が“左之助”である由縁なのだから。
だから、その手を幼くさせているのは、きっともっと別の部分。
空を仰ぐ剣心に、左之助は気付かない。
やはり心は何処か遠くに在るようで、つい先程まで話をしていた相手が今も隣にいるという事すら、忘れたように見える。
思い出の中に余所者は不要―――――……
それが温かな思い出であるというのなら、剣心もこうまで気に留めなかっただろう。
以前、左之助と幼馴染の月岡津南が再会を果たした時のように。
だが今左之助が思い出しているのは、もっと別の思い出。
同じ引き出しの中にありながら、取り出す時、その色は酷く儚い色を持つ。
無粋であろうと思いながら、剣心は左之助の隣に腰を下ろした。
刀の唾鳴りが僅かに聞こえて、その音に左之助の瞳が現実に還る。
「やっぱオレぁ、こういうもんは駄目だわ」
「さようでござるか?」
「どうもガキん時から不器用だからな。こういうもんは向いてねぇ」
手の中の小さな葉をひらひらと振りながら、左之助は笑う。
「拙者は吹いたこともござらんなぁ……」
「やってみっか? お前なら楽勝だろ」
「いや、拙者は口笛も吹けぬから……」
「だったっけか? そいや、お前が口笛吹くトコなんざ見ねぇな」
顎に手を当て、思い出す風な仕種を取る左之助に、剣心は頷いた。
吹けても、左之助ほど器用に吹く事は出来ないだろう。
「お主が教えてくれるなら、多少はやってみても良いか」
「おいおい、オレが教えんのかよ。オレぁ下手くそだっつったろ?」
「良いではござらんか、下手くそ同士で練習と言うのも」
「ぜってーお前直ぐに吹けるようになんだろ」
幾ら吹いてもオレは駄目なんだから、と。
呟く左之助は、見つめる剣心から逃げるように目を逸らす。
おろ? と剣心は一瞬瞠目する。
いつでも真っ直ぐ受け止めて、勝気に睨み返してくる彼にしては本当に珍しい。
これは重症か……と剣心は気付かれぬ程に浅く溜め息を漏らしていた。
そんな時、左之助は剣心の足元に置かれている野菜の存在に気付く。
「なんでぇ、買出し中だったのか?」
「ん? ああ」
「今日は嬢ちゃんと弥彦はどうしたんでェ」
「二人は出稽古でござるよ」
現在の神谷道場の唯一と言って良い収入源だ。
ふーん、とそれで左之助は納得し、勝手に買出しした品をチェックしている。
「で、今日の晩飯はなんだ?」
思いっきりタダ飯目当てなのが明け透けで、剣心は怒る気にもならない。
もとより、左之助が道場に飯目当てにやってくるのを、形だけでも拒んでいるのは薫ぐらいのものであったが。
その薫もなんだかんだ言って本気で嫌がってはいない。
昨日のスキヤキも良かったが、やはり三人で食べるより四人で食べた方が楽しいものだ。
カラカラと笑う左之助に、剣心は眉尻を下げるしかない。
チェックした品から夕飯の想像がついたのか、左之助は「今日はショボいな」と呟く。
昨日が豪勢だったのだから、これで丁度良いくらいだと剣心は言った。
「ついでに酒とか買ってかねえのか?」
「其処までの余裕はないでござるよ」
いけしゃあしゃあと追加注文をする左之助。
これ以上は無理と剣心に言われると、そうか、と特に表情を変えずに引き下がった。
薫が聞いたら血管が切れてしまいそうな台詞だった。
今日はいなくて正解だったかも知れない、と剣心は一人ごちる。
買出しの品を見下ろしながら、左之助が小さく呟いた。
「酒もあんなら、行こうかと思ったんだけどな―――――………」
左之助の言葉に引っ掛かりを感じて、剣心は左之助の顔を見る。
今度ばかりはその視線に気付いて、左之助が顔を上げる。
覗き込む剣心の瞳と、光の揺れた左之助の瞳とがぶつかった。
「…………お主、今日も来るつもりでござったのか?」
剣心の口から出た言葉は、呆れの混じったものだった。
……真に問い掛けたいことは、また音にならずに。
「おうよ。ショボいっつったって、長屋で食う飯よりゃ良いしな。嬢ちゃんが出稽古って事ぁ、今日はお前が作るんだろ」
「一応そのつもりではござるが………」
「お前の飯も結構美味いからな。そんで酒がありゃ言う事なしだったんだが」
残念だ、とばかりに息を吐く左之助だったが、その溜め息が果たして酒の有無によるものか。
判然としかねて、剣心は黙したまま、左之助の言葉を聞いていた。
「安酒でもいいから、無性に飲みたくなってよ。此処んトコ乾いてしょうがねェ」
むしゃくしゃしている――――という様子ではなかった。
何かを持て余した風ではあるけれど、苛立ちの感情は其処にはない。
遣り切れない感情の吐き出し口を彷徨って、結局一人で飲み込もうとしているような……――――――
その為の、酒。
束の間の夢を見、そして忘れる為の。
「それは……間が悪かったでござるかな」
「いんや、別に」
呟いた剣心の言葉に、左之助は頭を掻きながら素っ気無く応えた。
有るなら有るで、来なかったのではないだろうか。
剣心はそう思った。
人と騒ぐ酒を好む左之助だ。
一人で飲むより、宴会でも何にでも乗じて飲む方が美味い事を知っている。
静かに飲む酒の美味さも知っているけれど、左之助は専らそちらを好いていた。
気心の知れた者と一緒だからこそ、来なかったのではないかと……――――剣心は、思う。
「しからば、今日の夕餉はどうするのでござる?」
「さぁな。修辺りにでも集るか……」
此方も気の良い舎弟の一人の名があがる。
けれども、その瞳は何処か遠くを彷徨っていた。
“いつも通り”を振る舞いながら、
“いつも通り”でいられない。
見えない壁を張っていたようだと、左之助は剣心に言ったことがある。
流浪人としていつ此処を離れても良いように、出来るだけ誰の心にも己の軌跡を残さぬように。
薫に対しても、弥彦に対しても、恵に対しても……一番背中を預けられる、左之助に対しても。
それが京都から東京に帰ってから、少しずつ緩和している。
京都での死闘を経て、東京に戻り、いつであったか。
薫と話をしていた時か、それとも弥彦の稽古に付き合っていた時だっただろうか。
判然としないのは、そのどちらにも言われた覚えがあるからだろう。
だが、その薄い薄い、透明な壁が、今。
変化に最も早く気付いた己が張っている事を、左之助は果たして気付いているのだろうか。
人との関わりを拒絶している訳ではない。
こうして話をするのだから。
此処から去って行こうとしないのだから。
だけれど、踏み込まれることを拒んでいる。
―――――――その日、
草笛の音は、二度と響くことはなかった。
キャラ違いすぎて怒られそう……
薫が弥彦を連れて出稽古に赴くと、剣心も道場を後にした。
人気のなくなった道場の門の鍵をしっかりとかけて、街へと繰り出す。
流浪人をしていた時には想像もしていなかった程に、すっかり馴染んだ八百屋に顔を出す。
昨日はスキヤキと豪勢だったから、今日は反対に質素になってしまった。
食べ盛りの弥彦は物足りないと言い出しそうだが、家計については仕方のない話。
白飯で我慢してもらおうか。
道すがら、酒屋の主人に声をかけられた。
昨日は友人等と酒盛りをしていたらしく、今でもまだ二日酔いが抜けないのだと言う。
主人は奥方に耳を引っ張られ、剣心は苦笑した。
風車を持った子供達が街道を駆け抜ける。
夏が近付き、湿度が上がって随分暑くなったと言うのに、子供達は変わらず元気だ。
子供の無邪気さだけは、いつの時代も変わらない。
汗で張り付いた前髪を掻き上げる。
駆ける子供達の一番後ろを走っていた子供が転ぶ。
二番目に後ろにいた子供がそれに気付いて、すぐに戻って転んだ子の手を取った。
転んだ子供は泣きそうな顔をしていたが、ぐっと堪えて口を噤む。
手を差し伸べた子はそれに笑い、取った手をそのまま引っ張って走り出す。
他の子供達は随分遠くに走って行ったが、二人はそれでも楽しそうに駆けて行った。
転んだ子が、置いて行かれまいと一所懸命足を動かして走っている。
何処か痛めたのかぎこちない走り方ではあったが、それを他の子供に言った様子はなかった。
強い子だ。
沢山の元気な小さな背中は、人波の中にすぐに埋もれて見えなくなった。
見送って気が済んだ剣心は、くるりと踵を返して前へと向き直る。
その時、周りから一つ飛び出た長身を見つけた。
白半纏と翻る鉢巻。
何処にいても目立つ出で立ちだと剣心は思う。
その目立つ彼に言わせれば、「お前の方がよっぽど目立つ」となるのだろうが。
「左――――――………」
奇遇な出会いに顔が綻び名を呼ぼうとした剣心だったが、それは最後まで音にならなかった。
剣心から真横に真っ直ぐに歩く背中は、しゃんと伸びて天に向かっている。
袖珍に手を突っ込んで、左之助は空を見上げながら足を進めている。
人にぶつかる事はなかったが、その瞳は何処かぼんやりとして見えた。
昨日の彼の様子を、勿論剣心ははっきりと記憶している。
一瞬足を止めた間に遠退いた背中を、我に返ると直ぐに追った。
草笛の音がする。
それは、昨日と同じ川原の傍だった。
街中で珍しくも彼を見失ってしまい、もしやと思って来てみた所だった。
買出しした野菜も手に持ったまま、剣心は左之助を追って来ていた。
そして見つけた背中は、昨日と寸分違わぬ形で其処に存在していた。
…………何があった? 左之…………
聞こえる草笛の音は、やはりこれも昨日と同じく途切れがちで、時折風に浚われる。
川辺の岩に浅く腰掛けて、鳴らす草笛。
温もりと寂しさが入り混じるのは、奏者の心が其処にあるからだろうか。
土手を降りて砂利を踏むと、草の音が止んだ。
柔らかな風に遊ばれる鉢巻が翻り、勝気な瞳が剣心を捉えた。
「なんでぇ、お前か」
「誰だと思ったのでござるか?」
「いんや、別に」
勝気な瞳が一瞬瞠目していたのを、剣心は見逃さない――――否、見逃せなかった。
右手が何かを隠すように、それでも中のものを潰さぬように丸められている。
いつも強く握られる拳が今は猫のように柔らかくて、剣心は気付かれぬ程度の笑みを零す。
岩に腰掛けている左之助の横に立つと、いつも見上げる顔が今だけはほんの少し下にある。
「先程の音、あれは草笛でござるな」
「……ああ、聞かれちまったか。へったくそだろ」
右手を解いて、左之助は其処に隠していたものを見せる。
左之助の手の平の半分もない、小さな葉が其処にはあった。
咄嗟に隠そうとしたのは恥ずかしさからか。
他者の知る自分らしくないと思ったのだろうか。
何れにしても、剣心には通用しなかったと思うけれど。
笑って下手だと自己申告する左之助に、剣心は小さく笑う。
確かに、お世辞でも上手いとは言えない音色だった。
流れる音は途切れがちだし、その音も随分と掠れて聞こえてきた。
洗練された楽器と比べるでもなく、上手いか下手かと問われれば、下手だと言われてしまうだろう。
「何回吹いても、ちぃとも上手くなりゃしねぇ」
「それよりも拙者は、左之と草笛というのが意外でござったな」
昨日も聞いていた事は言わずに、初めて見た時の感想を告げる。
左之助はその言葉は予想できていたようで、はは、と笑ってから、
「だろうな。オレもそう思うぜ」
手の中で小さな葉を弄びながら、左之助は言った。
「しかし、何ゆえ左之が草笛を?」
「長屋のガキ共の間で最近流行ってんだよ。それで、ちょっとな」
興味が湧いたんだ、と続ける左之助に、そうか、と剣心は呟く。
それ以上の追求はしなかった。
「草笛は案外と難しいと聞いたが」
「おう。オレはまともに吹けた例(ためし)がねぇな」
「音が出るだけでも上等ではござらんか?」
「掠れてばっかの見苦しい音だぜ。上手い奴は上手く吹けるのになァ」
口笛だったら幾らでも出来るんだが、と言う左之助に、剣心は確かに、と頷いた。
左之助が口笛を吹く場面を何度か見たことがあるが、実に見事に吹き渡るものであった。
挑発であったり感歎であったり、様々なものを言葉なくして伝えてくれるのだ。
口笛一つに器用な男だと、いつしか思ったこともあった。
だが草笛の音は掠れがちなばかりで、其処にはただただ温もりと寂しさが入り混じる。
左之助自身はそれを判っているのか………
「克のヤロウは上手く吹けてたってのにな………」
零れた名前は、左之助の幼馴染のもの。
十年と言う歳月を経て、偶然か必然か、再会を果たした、もう一人の赤報隊の生き残り。
左之助と共通の思い出を持つ、今となっては唯一の人物。
指で摘んだ小さな木の葉を天に翳せば、丸く欠けた部分から光が差し込んでいた。
零れた陽光は左之助の瞳に反射し、ゆらゆらと揺らめく。
剣心は黙したまま、その揺らめく光を見つめていた。
「何回も何回も吹いたのに……まともに鳴った事なんざ一度もねぇ」
左之助の言葉は、独り言だった。
隣に剣心が在る事さえ、今は頭の中に残っているのか判らない。
自分の世界に浸ってしまう事の少ない彼が、本当に珍しい姿だった。
その瞳がまた、迷子になった子供のようで。
「“あの人”みてぇに、吹けねぇんだ―――――――…………」
置いて行かれた子供の影を、見た気がした。
左之、鬱気味……(汗)?
健康的な生活を送る弥彦が寝入った頃、左之助は道場を後にした。
それを見送ったのは剣心一人であったが、薫もその気配が遠退くことには気付いていた。
門で挨拶程度の言葉を交わした後、左之助は振り返る事無く去っていった。
その背中が破落戸長屋に帰るとはそう思えず、剣心は小さく溜め息を吐く。
最後の最後まで結局、何があったのかと問いかけることは憚られてしまった。
また左之助も、最後の最後まで“いつも通り”だった。
角を曲がって背中が見えなくなると、剣心もくるりと踵を返す。
門の後ろに薫が立っていた。
お気に入りのリボンは既に解かれて、髪は下ろされて風に流れていた。
言葉を探るような表情をする薫に、剣心はすぐに合点が行った。
左之助の様子が常と違う事に、彼女も気付いていたのだろう。
昼間に見た風景と合わせて、気の知れた友人の事が気にかかったのか。
いつも勝気で噛み付いているけれど、優しい彼女に剣心は小さく微笑んだ。
「左之の事、でござるか?」
言いあぐねているらしい薫に代わり、剣心自らが投げかける。
薫は少しの間瞳を彷徨わせた後、頷く。
「左之助の事だから、賭博に負けたとか、そんな事かなとは思ったんだけど…」
その日その日暮らしの生活をしている左之助である。
豪放磊落な性格で、彼が本気で落ち込んだ場面を自分達は見た事がなかった。
どうあっても弱気な姿を見せたくない彼だから。
右手が使えなくなった時だって、左之助は一つも悔やんだ様子を見せなかった。
その壊れた右手に何が詰まっていたのか、彼自身が何よりもよく知っている。
そんな彼が束の間落ち込んだ風な溜め息を吐いた時、大概は日々の生活の愚痴零しが付属する。
だが、今日はそれとも様子が違った。
「どうでござろうな……少々、気掛かりと言えば気掛かりか……」
左之助は強い。
闘いに置いては勿論、その心も。
だがその根まで芯まで打たれ強いのかと言われれば、それは否。
人は誰でも脆い部分を持っていて、だからこそ強くなろうと生きて足掻く。
左之助は人一倍足掻いて足掻いて生き抜いているから、強く見えるけれど。
子供の頃に一番大切だったものを失ったから、二度とその悲しみを繰り返したくないから。
……其処が左之助の、一番強くて、脆い部分。
「とは言え、真っ向切って問う訳にもいかないでござるなぁ…。左之には左之の思うところもあるだろうし…」
「思い過ごしならいいんだけど………」
薫の言葉が真実となるか否か、それは明日になってもう一度顔を合わせた時に判るだろう。
だがその日暮の左之助が毎日道場に来るかと言えば、今ではそうではなくなっていた。
幼馴染との再会を果たしてからはそちらに行っている事も増え、舎弟達と街に繰り出している事も多い。
右手の為に定期的に小国診療所に赴いてはいるが、時間は判らなかった。
明日、左之助と逢えるか否かは、左之助の気分次第。
「明日、様子が変わらぬようなら、それとなく聞いてみるでござるよ」
薫や弥彦が問うたのでは、のらりくらりとかわすだろう。
剣心相手であれば、左之の気も応える方向へと向くかも知れない。
左之助の根性を叩き直したのは、他でもない剣心だ。
だから知らないが、左之助は剣心を他の者とは違う意味で信頼している。
剣心もまた、左之助に抱く思いは他の者ともまた違う。
巣立ったばかりで危なっかしい若鳥を遠目に見守るような、保護者のような気分。
無為に手を差し出すことはないし、信じているけれど、束の間その手が必要とあらば差し伸べる。
左之助がその手を拒む事があっても、剣心の彼への瞳は常に温かな色を持っていた。
剣心の言葉に安心したのか、薫は小さく頷いた。
「さ、もう寝なきゃ。明日は出稽古だから、留守番お願いね」
「あい、判った」
「門の戸締りしておいてね」
くるりと踵を返した薫は、少しばかり軽くなった足取りで寝所へ向かう。
その背を見送った後で、剣心は神谷道場の門を閉ざす為に向き直る。
が、扉を閉めようとした直前、手を止める。
門扉の小さな隙間から、道が見える。
見慣れた道風景だった。
この闇色の向こう側に、あの青年は消えて行った。
破落戸長屋に戻るのか、飲みに行くのか。
どちらにしても、きっとその背中は独りでいるのだろう。
夏の始まりの風が吹く中で、独り全てを拒絶して。
それが束の間の事であれば良いのだけれど。
あの強がりな背中が、本当は酷く淋しがり屋だと知る者は、少ない。
彼ならば大丈夫、彼ならば心配はいらない……それは信じられているからこそ向けられる安堵の言葉。
そして彼もその言葉通り、常に気丈に振る舞い、小さな不安程度は笑って吹き飛ばす。
凪の似合わぬ男らしく、豪快に笑って。
けれども大切なものを失い、道を彷徨い続けた時間は酷く長い。
誰に心を許すことも出来ず、自分自身を赦す事もなく、周りも自分自身も責め続けた、十年間という月日。
それが容易く薄れないことは、何よりも剣心自身がよく知り、感じていた。
消えない傷を抱き続けて生きていくのは、とても窮屈で、苦しいものだ。
例え新たに温かい場所を見つけても。
もう殆ど骨格の出来上がった体躯に、まだ成長し切らぬ心を抱く、その命。
―――――――――相楽隊長
時折、その名を口にする時、彼はとても幼く笑う。
一番大切な思い出を取り出す時、彼は小さな子供に戻ったようだった。
…………それでも、左之―――――……
彼がどんなに昔を懐かしみ、浮かぶ顔に思いを馳せても。
………時代(とき)はさかしまには流れぬよ―――――………
それでも人は、思い出さずにはいられない。
一番優しく、穏やかで、一番悲しかったその記憶を。
愛され左之が好きなもんで……
剣心、微妙に保護者な心境。
賑やかな夕餉を終え、闇色の滲んだ空の下を、左之助は見上げていた。
それを見つけたのは薫で、つと首を傾げる。
食事時はあれだけ騒がしく弥彦と争っていた彼が、すとんと何か零れたように静かだったのだ。
次いで思い出したのが昼間の風景であったのだが、かと言って何があったと問えるような雰囲気でもない。
問うた所で「なんの話しでェ?」と問い返されそうな気もする。
夏間近になってすっかり陽が長くなった。
けれどもそろそろ夜と言って良い時分である。
遠くの東空には、既にちらりほらりと星の光が覗くようになっていた。
そんな時間に、この青年は何をしているのだろうか。
道場と門の丁度真ん中辺りで、左之助は一人、空を仰いでいる。
夕闇に染まっていく空を見上げる瞳は、いつもと変わらず釣りあがった勝気なもの。
しかし其処に薄らと滲んだ色が何処か寂しそうに見えた。
確か薫よりも一つ年上であった筈だが、何故かその時ばかりは、薫にはそうは思えなかった。
道端で迷子になって立ち尽くす小さな子供が不意に脳裏を掠め、薫はぶんぶんと頭を振る。
それからもう一度左之助を見ると、左之助は寸分違わぬ姿勢で其処に立ち尽くしていた。
白半纏に染め抜いた悪一文字が柔らかな風に揺れている。
(……何かしら)
感じた違和感は、なんだったのだろう。
昼間見た光景を薫は忘れていなかった。
その所為だろうか。
いつも真っ直ぐで、猪突猛進という言葉がよく似合う男だ。
何かと莫迦呼ばわりされている(薫も時々する)が、勝負事においてはかなり頭が切れる。
時に辛辣に物事を判断する彼は、確かに酸いも甘いも知っているのだろう。
それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、前を見据えて突き進んでいく。
左之助は生粋の兄貴肌だ。
破落戸の中に左之助を慕う者は多く、皆一様に左之助の男気に惚れている。
女子供から怖がられることも滅多にないようだった。
面倒見は、良い方だろう。
左之助を堂々と子供扱いするような節を見せるのは、薫が知る限り、ごく少数だ。
薫は左之助をそんな風に見たことはない―――筈、だ(何せ言動が言動なので)。
弱味を見せることを、左之助は極端に嫌う。
それは自身の持つプライドの所為もあるだろうし、生来の負けん気と聞かん気の所為もあるだろう。
それが今、何故か。
(………食事の時は、普通だった筈だけど……―――――)
弥彦と肉の取り合いをしていた時の様子を思い出しながら、薫は思った。
良い歳をして十歳の弥彦と同じレベルで張り合う左之助に、薫は何度怒鳴ったか判らない。
毎日のように集りに来る―――来なければ来ないで、他所で集っているらしい―――左之助に一時は迷惑したものだが、
今となっては賑やかしが増えたようで、気の良い仲間の来訪を、薫も快く思っていた。
食費の足しだけでも出してくれるのなら、それこそ本当に文句なしなのだが……
プータロー状態の左之助に言った所で無駄だろう。
力仕事を頼めば渋面になりながらも引き受けてくれるし。
薫とて賑やかな夕餉は嫌いではないし、事情も何もかも知って傍にいてくれる仲間がいるのは嬉しい事だ。
だからそれなりに、左之助のことは知っているつもりだった。
必要以上に自分の事を話そうとしない彼だが、それは教えたくないからではなく、話す必要がないから。
過去がどうあれ今を生きているから、無理に昔の詮索をしようとは思わず、また彼も言わないのだ。
彼の、きっと一番の要になっている部分は、会った頃に聞いたから。
けれど、この青年のこんな背中は、見た事がなかった。
(…やっぱり、何かあったのかしら)
そう考えると、鼓膜の奥で草笛の音が聞こえたような気がした。
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、左之助はただ空を仰ぐ。
吹く風が赤い鉢巻を揺らしていた。
まるで何かを探すように、左之助は空を見上げている。
今日は新月の日だったか、夜闇を照らす金色は顔を出さなかった。
少し汚れの目立つ白半纏が、そのまま闇色に消えて行きそうに見えた。
真っ直ぐに伸びている筈の背は、今日だけは何かを耐えようとしているような気がして。
空を見上げているのは、零れ落ちそうな何かを誤魔化す為のもののようで。
宵闇の中、翻る悪一文字は酷く頼りなく見えた。
薫視点。
女の子は苦手です。
今日も今日とて、神谷道場は騒がしい。
弥彦の修行の声、薫の怒鳴る声があるので絶えず賑やかな道場ではあるが、今日は其処に一人プラスされている。
薫の出稽古の稼ぎで臨時収入があったので、今日はスキヤキという豪華な夕食となり、
こりゃ良い時に来たと左之助は遠慮なく(最初からしていたか怪しいが)箸を伸ばし、弥彦と取り合いになっていた。
時折行儀が悪いと薫が注意したが、食べ盛りの子供と図体のでかい子供のような男はちっとも取り合わない。
それを見つめているのは剣心で、薫から「剣心も何か言って!」と二人を指差され、苦笑する。
言った所で聞かないと判っているのは薫も同じだろうが、言わずにはいられないのだろう。
また薫に、それらを放っておけと言うのも無理な話であった。
今も大きな肉を左之助と弥彦が取り合い、箸先で取り合う二人に薫の激が飛ぶ。
「てめぇ左之助! オレは育ち盛りなんだぞ、譲りやがれ!」
「へっ、甘ぇ事言ってんじゃねえよ。お前こそ年上を敬いやがれ!」
「あー煩い! 行儀悪いって言ってるでしょ、やめなさーい!」
「まぁまぁ、薫殿……お主も落ち着くでござるよ」
宥める剣心の声など、まるで三人には聞こえていない。
少年期特有の弥彦の声はよく響き、左之助はそれに負けじと大きな声を出す。
薫がそれに負けまいと更に声を上げて怒鳴るものだから、剣心の声はそれの五分の一にもならない。
よって、穏やかに宥めようとする剣心の声は、他三名の声に完全に埋もれてしまうのだった。
左之助と弥彦の端で両端を摘まれ、二人に引っ張られていた肉。
大岡越前宜しくの強さで彼等は引っ張り合っている。
あれは先に手を離した方の勝ちだった、しかしこれは決してそのような勝負ではない。
それの通りに、引っ張られる肉を哀れんだりして箸を離せば、あっという間に相手の胃袋の中。
目をつけていた肉を簡単に相手に許してなるものかと、二人は顔を突き合わせ、箸を握る手にも力が篭る。
結果、先に根を上げたのは奪い合う二人ではなく、引っ張られている肉の方。
二人の力にもう勘弁してくれとばかりに、肉は丁度真ん中から真っ二つに裂けてしまった。
「うおっ」
「あてっ」
真ん中で力の拮抗を司っていたそれが役目を放棄し、二人は後ろ向きに倒れた。
頭を床に打ちつける音がする。
「いって〜」
「あー! 千切れちまった!」
「当たり前でしょ! 全く、意地汚いんだから」
打った頭を擦る左之助、半分になった肉に嘆く弥彦に、呆れた薫が言った。
「左之、大丈夫でござるか?」
「あー、問題ねえよ」
のろのろと起き上がる左之助に、剣心が問い掛ければ、いつもの返事。
しかし打ち所が少々悪かったのか、左之助は軽く目を回していた。
生来の自慢できる打たれ強さを誇る左之助にしては、実に珍しいことである。
それでも二、三度頭を振ればスッキリしたらしく、そんなになっても箸に掴んでいた肉をタレに浸して口に運ぶ。
手に入れたのは狙っていた本来の大きさの半分となったが、獲物が手に入った事は満足らしい。
弥彦の方は心底残念がっていたが、薫が次の肉を足すとコロリと機嫌を直してぱくついた。
気持ちが良い程の勢いで食べる弥彦に、剣心は小さく笑みを浮かべた。
だが、ふと感じた隣の気配に心中で首を傾げる。
ちらりと横目で隣の青年を見遣ると、左之助がいる。
左之助はコロリと機嫌を直した弥彦に、現金だなんだと言いながら、自分もまた鍋に箸を伸ばしていた。
いつも通り。
いつも通りの左之助だ。
……剣心以外が見れば。
―――――――左之……
喉を詰まらせて、苦しがる弥彦に腹を抱えて笑う左之助。
呆れて叱る口調になりながら水を探す薫に、冷えた自分の茶を差し出す左之助。
受け取った茶を飲み干す弥彦の背中を叩く薫を、母のようだと揶揄う左之助。
いつも通りの左之助だ。
“いつも通り”の。
“いつも通り”で“いようとする”左之助だ。
こんな賑やかな情景の中に、左之助は確かに溶け込んでいた。
けれども、気の良い仲間を見つめるその瞳に、あのぎらぎらとした強い光がない。
「嬢ちゃん、この肉固くなるぞ。食って良いな」
「弥彦! あんたはもっと落ち着いて食べなさい!」
「だって左之助が全部食っちまうだろ!」
「おいコラ、そりゃオレが狙ってた肉じゃねえか!」
「オレが先だ!」
「いーや、オレだぜ」
「弥彦! 行儀悪いから止めなさい! 左之助もいちいち揶揄わないでよ」
早くも第二戦となっている弥彦と左之助。
いい加減にしなさいと薫は言うが、二人はまるでお構いなし。
と、今度は早く決着がついた。
左之助がぱっと箸を離し、その肉は弥彦のものとなる。
喜ぶ弥彦を尻目に、左之助は鍋の下に潜っていた大き目の肉を取った。
「へっ、オレの勝ちだな」
「あっ、ずりぃ!!」
「そっちのはやるよ。感謝しな」
「くっそー!!」
地団駄踏みそうな弥彦を、薫が押さえつけて留めた。
肉と一緒に白飯のお代わりを催促する弥彦に、薫が溜め息を吐きながら応じた。
もう負けてなるかと、弥彦の食事のペースが上がる。
がつがつと食べる弥彦に一同は呆れ、苦笑を浮かべていた。
それは見つめていた剣心も例外ではない。
生意気なぐらいが丁度良い年頃だ。
ムキになって意地になって、一所懸命になって、そんな弥彦に剣心は笑む。
―――――と、そんな時だった。
「どうしてェ、剣心」
「む?」
茶を飲んでいる所に、左之助が声をかける。
湯飲みを床に置いて隣を見遣れば、勝気な眼差しが剣心を見ている。
「どう、とは…?」
「いや。いつにも増して静かにしてやがっから」
「そうでござるか? 拙者はいつも通りでござるよ」
そうか? と問う左之助に、剣心は頷く。
「寧ろ、周りの方がいつにも増して騒がしいと言うか……」
「あぁ、嬢ちゃん声がデケェからな」
「それだけではないと思うが」
あくまで自分の騒がしさは蚊帳の外でいるつもりの左之助に、剣心は眉尻を下げた。
だが左之助は構う事無く、クツクツと面白そうに笑っている。
十九歳にしてはまだ幼さの目立つ笑い顔だった。
そして剣心が思い出すのは、あの川原で見た景色。
……………どうかしているのは、お主の方ではござらんか……?
思ったことを剣心が口に出すことは最後までなかったが、剣心にはそう思えてならない。
出逢ってから、左之助はずっと真っ直ぐに背中を伸ばしていた。
喧嘩屋として初めて逢った時も、相対した時も、左之助の性根は何処までも真っ直ぐで正直で。
確かにほんの少し歪んだ部分はあったかも知れないけれど、それは人として当たり前の部分。
幼心に抱いた傷を、流した涙の悔しさを拭おうとして、必死になっていた結果。
剣心が一人京都に赴き、警察署で再会を果たした時も、左之助は真っ直ぐ背中を伸ばしていた。
問答無用で殴られた後、清々しそうに笑った左之助の顔を、剣心は今でも鮮やかに思い出すことが出来る。
負けず嫌いの左之助は、いつも背筋を真っ直ぐ伸ばす。
自分自身を誇れるように、何より自分に負けない為に、強い自分になる為に。
でも。
――――――あの時、お主は………―――――――
彷徨った右手を、剣心は忘れられなかった。
風に吹かれて飛んだ草笛を、左之助は掴もうとして止めた。
一瞬、確かに届く距離にあった筈なのに。
伸ばした手が下ろされる時、僅かに揺れたことに気付いたのは剣心だけだろう。
お世辞にも上手いとは言えなかったけれど、あの草笛の音は何処か優しく、切なかった。
それは左之助の、きっと今でも癒えない傷を、ほんの少し垣間見せたような気がしてならない。
左之助にとって一番大切で、一番穏やかで、一番悲しかった、思い出を。
けれど、なんでもなく振る舞う左之助にそれを問うことは、剣心には出来なかった。
無理にでも暴いて吐き出してしまえと左之助ならば言えたかも知れないけれど、自分は彼ではない。
笑顔の裏にそっくりそのまま隠してしまった傷跡を、相手を傷付けずに表に引き出す術を、剣心は知らなかった。
―――――左之助――――――………
絶えない笑い声。
消えない笑顔。
その裏に、何を押し隠そうとしているのだろう。
てんでバラバラな長さの話。
場面転換毎に一話…かな?