[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「よう」
神谷道場の夕餉時、やってきた男は常と変わらぬ所作で挨拶をした。
それを出迎えたのは修行をしていた弥彦で、滑り落ちる汗を拭いながら、同じように「おう」と返した。
無沙汰になるのか、左之助はよく何かを口に食んでいる。
それは道端に生えている雑草だったり、飯時に食べた魚の頭だったりする。
今日は草だった。
その草を目にした弥彦は、ふと昼間の情景を思い出す。
川原に一人佇み、草笛を鳴らしていた――鳴らしていたのは見えなかったけれど―――左之助の背中を。
いつもの左之助だよな。
ぷっと草を吐き捨てる左之助を見上げ、弥彦は思った。
あの時寂しげに見えた背中だったけれど、目の前に立つ男は見慣れたままの姿だ。
此処に来た目的だって、最早習慣にもなっている集りである事は間違いないだろう。
今日一日吹き続けていた柔らかな風は今も変わらず、左之助の赤い鉢巻を揺らしている。
腹に巻かれた晒しも相変わらず、汚れが少々目立つ白半纏も相変わらず、
背中を見れば、背負った悪一文字も変わらず其処にあるだろう。
何も変わったことなどない筈だ。
―――――だのに、あの頼りない背中が忘れられない。
「ん? なんでえ、じろじろ見やがって」
上から下まで、観察するように見る弥彦に気付き、左之助は片眉を上げた。
目付きが鋭いのに怖い印象を覚えないのは、弥彦が見慣れてしまったからか、それとも本気を含んでいないからか。
恐らく両方だろう。
「いや、別に」
「そうかよ」
弥彦の言葉に、左之助も然程気になっていた訳ではなかったらしい。
それだけ言うと、勝手知ったる道場の中へと入っていく。
弥彦はそれを追い駆けず、竹刀を持ったまま、道場に上がる左之助の背中を見つめていた。
“悪一文字”は、やはり其処にある。
棚引く赤い鉢巻も。
広い背中も、其処にある。
川辺で見た、頼りない翳は何処にもない。
負けず嫌いで頼れる兄貴分、そんな背中があった。
なのに何故、あの背中が頭から離れないのだろうか。
………物珍しかっただけだよな。
行き着いた答えは、弥彦を納得させるには十分な代物だった。
普段見ないものを見つけた時、それは初めて見たという鮮烈さから頭の中に強く残る。
それがほんの一瞬のものであっても、たった一度のものであっても――――否、だからこそ。
優しい人が怒った時のように、いつも怒っている人に優しくされた時のように、
たった一度だけしか見ていない場面だけれど、焼き付けられたイメージは忘れられなくなるのだ。
料理がてんで駄目(当人は否と言うが)な薫が、時々美味い飯を作れば、やるようになったなと思う。
人に飯を集ってばかりの左之助が、奢ると言えば周りは驚く。
とにかく、そんな風に、ほんの一瞬の出来事ではあるけれど、常と違うものを見るとそうなってしまうものなのだ。
いつも強い背中を見ていた。
弥彦の中で一等強いのはずっと剣心であるけれど、左之助は別の意味で強い。
喧嘩屋をしていた間は負け無しだと言うが、それも嘘ではないだろう。
弥彦が知っている限り、左之助が負けた相手はたった一人だけ。
それも左之助は越えようと、強くなろうとしている。
剣心の隣に並ぶ背中は、いつも自信に満ち溢れて、真っ直ぐ前を見つめていた。
時折肩越しに此方を見遣る瞳もやはり自身に満ち、揶揄いながら弥彦に発破をかける。
優しく諭す事などしないけれど、蹴倒す勢いで背中を押す事を躊躇わない男。
剣心とは違う、ギラギラと強い光を持つ男。
それが明神弥彦がよく知っている、相楽左之助だった。
だから、あの川原で見た情景を忘れることが出来ないのだ。
(大体、迷子みたいだなんてねぇよな。こんな奴に)
土間の方から聞こえてくる薫の怒鳴り声に耳を塞ぎつつ、弥彦は思い、うんうんと頷いた。
草笛なんかを吹いていた。
一人であんな場所にいた。
ほんの少し、寂しそうな背中。
本人曰く、おセンチな性格ではないと言うけれど、時にはそんな気分になる日だってあるだろう。
大方、博打で負けたとか、つまらない喧嘩を買ってしまったとか、そんなものだ。
あの豪放磊落だって、たまには落ち込む事もあるだろう。
夕闇に染まり始めた空に空腹を覚えて、弥彦は夕餉の催促をした。
弥彦視点。
るろ剣のキャラは皆難しいなぁ……
大好きだった。
撫でてくれる手も、見つめる優しい眼差しも。
大好きだった。
繋いでくれた手も、ほんの少し儚く見えた柔らかな笑みも。
大好きだった。
大好きだった。
守りたかった―――――――………
【 草 笛 】
洗練されたのではない音に、剣心はふと立ち止まった。
それに数歩遅れて薫と弥彦が立ち止まり、進んでしまった分後ろにいる剣心を振り返る。
「剣心、どうしたの?」
「いや……」
買ったばかりの味噌を肩に担いで足を止めた剣心に、薫と弥彦は顔を見合わせる。
一陣の風が吹き、それから、風に乗って運ばれた響く音に気付く。
その音は笙や龍笛、篳篥のようなものではない。
時折掠れた音を含ませながら、途切れ途切れに繋いで空気を振動させている、それ。
不器用さを表すような途切れ勝ちの鳴き音は、素朴でいて、懐かしさを感じさせた。
さらさらと川の流れの音のみが聞こえてくるのが常であった川辺に、少しだけ違う色が添えられている。
それは決して川音を邪魔する事はなく、風の音を嫌う事もなく、ほんの少し寄り添うように存在していた。
ともすればこのまま風に乗り、川の流れに乗り、彼方へと流れて行ってしまいそうな。
この、音は。
「草笛………」
呟いたのは、弥彦だった。
それがどうという事ではなかったが、なんとなく剣心は足を止めてしまっていた。
恐らく、この草笛の音が、酷く寂しそうな音に聞こえたからだろう。
途切れ途切れの音は、この草笛の奏者が決して上手ではない事を知らしめている。
けれども寂しさを感じさせるのはそういう所ではなくて、途切れた合間に吹く僅かな風が運ぶもの。
既に暑い夏を迎えようとしているのに、ほんの一瞬、その風は冷たさを感じさせていた。
まるで置き去りにされてしまった冬の名残のように。
……もう、春も終わりに近いのに。
この音が何処から聞こえているのか確かめたくて、剣心は土手下を流れる川原に目をやった。
案外早く、その音の主は見付かった。
一つ大きな岩の上に浅く腰掛けた、白半纏に黒で染め抜いた“悪一文字”。
吹き抜ける柔らかな風に棚引く赤い鉢巻は、自己主張するように揺れる。
遠目に見ても目立つだろう成り立ちは、其処にいるのが誰なのか、はっきりと教えていた。
「………左之……―――――――」
此方の所在には気付いていないのか、いつもの釣りあがった勝気な目が此方を向く事はなかった。
声をかければ、直ぐにあの威勢の良い粋な声で「よう」と片手を上げて気楽な挨拶をしただろう。
しかし如何してか、剣心も薫も、弥彦でさえも、そうする事を憚られてしまった。
他者から見て随分と自堕落と呼ばれるだろう生活を送っている彼だが、いつも背筋は真っ直ぐに伸びていた。
何があろうと何が起ころうと、誰の前だろうと怯まない、曲がった事が大嫌いな彼。
人懐こい大型犬のような、気位の高い猫のような、飄々として見せる彼であるけれど、
長身を天に向けて真っ直ぐに伸ばすその体は、彼の生き様をそのまま映し出しているようだった。
その背中が今日は、少しだけ傾いている。
長身故に周りを見る時は少しだけ見下ろす姿勢を取る彼であるが、今日はそれとは違う。
少しだけ寂しそうな、道に迷った子供のような………頼りない、背中。
「………草笛、あいつが…?」
弥彦が不思議そうに呟けば、薫も首を傾げる。
凡そ“草笛”と“左之助”という像が想像出来なかった。
そして何より、あの寂しそうな背中が見知った青年のものであると、直ぐにはピンと来なかった。
何をするでもなく見つめていると、また草笛の音。
途切れ途切れに、それでも飽きる事無く響く音色。
たった一つの音だけを、繰り返し、繰り返し。
三人はしばらくそれを聞いていたが、何度目か、プツリと草笛の音が切れ。
風が吹き、ふわりと一枚の緑が舞い飛んだ。
「……お…………」
ほんの少し、左之助の右手がそれを追い駆けるように動いた。
けれども右手は緑に届かず、気紛れに泳いだ緑はさらさらと流れる水面に落ちる。
持ち上げられた右手は少しの間彷徨っていたけれど、やがて腰掛けた岩へと下ろされた。
緑はさらさらと水面の上を滑って行き、二度と風に舞うことはなかった。
風は緑を浚おうとはせず、運ぶ水面を後押しするようにほんの少しさんざめく。
左之助は立ち上がりもしなかったし、頭を動かして緑を追おうともしなかった。
顔は此方を振り返る事はなかったから、視線で緑を追い駆けていたかも知れないけれど。
左之助は其処を動くことはなかった。
近付くことを、干渉することを、拒絶した背中だった。
図々しいくらいの人懐こさは其処にはない。
踏み込むことも、踏み込まれることも、その背中は拒んでいる。
“斬左”の時とは違う。
道に迷っていた時とも違う。
我武者羅に、自分の力だけで突き進もうとしていた時とも、違う。
迷子になった子供のような、泣くのを堪えて強がる子供のような。
いつも真正面からぶつかり、怒り、笑う左之助の姿が今だけは、酷く儚い翳に見えた。
流れて行く緑は、既に見えなくなっていた。
掴もうと追い駆けた右手は、何を求めようとしていたのだろうか。
やっちゃった……なるろ剣小説。人生初。左之助ラブで行きます。
左之助メインでイタタな話になる予定。弱り左之で。