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迷子の仔猫が、鳴いている
声を上げずに、鳴いている
【Where is this cat's house?】
朝から降り続く雨に辟易する。
それでも生活の為に必要なものを手に入れる為には、外界へ赴かねばならない。
東京という都会の中には少々浮き気味の番傘を差して、降り頻る雨の中、歩く。
バケツを引っくり返したような、という表現がよく似合うような天気だ。
空は暗雲に覆われ、天道など欠片も見えはしない。
アスファルトは既に余すところなく水溜りに隠されていた。
こんな日に着物と草鞋等で外に出るものではない。
それでも相変わらずの紅梅色の着物と、緋色の八掛姿で、八剣は雨の東京を歩いた。
拳武館が閉鎖してから、是と言ってする事がない。
定期的に幾つかの仕事は伝えられるものの、以前ほど凄惨でもなければ、数も少なかった。
生活する分には何も問題はないのだが、持て余す時間が長過ぎるのも困る。
別に、ワーカーホリックのように、仕事に精を出していた訳でもなかったけれど。
ざぁざぁ降り頻る雨は、刻一刻と激しさを増していく。
寮を出た時には此処まで酷くなかったと思うのだが、それも気の所為だろうか。
部屋から見た分にはそれ程激しい印象ではないと思ったから、こうして面倒に思いつつも外に出たのだが。
ガラス窓の向こうで見る景色と、実際に目の前で見る景色とは、必ずしも一致するとは限らないものである。
傾けた番傘の斜面に沿って、水滴が流れ、地面にぽたぽたと落ちる。
足元が冷えてきた。
何処か屋根のある場所で、強雨が収まるのを待った方が得策かも知れない。
……しかし、少々待った所で今日の雨が弱まるとも思えない。
待つか、進むか、何れにしても屋根を探す為にはもう少し進まなければならない。
そうして進んだ先に見つけた存在に、八剣は僅かに瞠目した。
降り頻る雨の中、軒下に逃げている訳でもなければ、傘を持っている様子もない。
ざぁざぁと鼓膜に煩い雨が降る中、歩道の隅の柵に腰掛けている少年がいた。
濡れ鼠、という言葉が的確に当て嵌まる。
頭の天辺から手先、足の爪先まで、彼は余す所なく雨に濡れていた。
その手には、紫色の太刀袋。
―――――――蓬莱寺京一。
人気のない雨降りの都会の真ん中で、一体何をしているのだろうか。
降り頻る雨を見上げる顔は、八剣のいる場所からは伺えなかった。
京一の気配は、酷く稀薄なものだった。
其処にあるのに、ふと目を離した瞬間に消えて行ってしまいそうな。
初めて逢った時も、それ以後も、京一の気配はいつも強烈なものだった。
まるで太陽の灼熱を思わせるような、裂帛の気。
苛立ちに、怒りに、表情を変え、目の前の敵を睨み付ける眼光は鋭く、荒削りだがそれは確かな刃であった。
触れるもの皆傷つけるかと思えば、意外にも優しい剣を持つ、“歌舞伎町の用心棒”。
……それが今は、今にも消えてしまいそうに弱く、儚い。
歩み寄れば、京一は動かなかった。
気付いていないのかも知れない。
すぐ傍らまで来ても、京一は振り返らない。
雨空を見上げる表情は、亡羊としたものだった。
空を見ながら、きっと眺めているのは虚空なのだ。
視界を覆う暗雲さえ、きっと京一の思考には届いていない。
傘を差し出して、少年の体を雨から隠す。
―――――ようやく、京一の瞳が動いた。
「……お前ェ……」
「風邪ひくよ、京ちゃん」
「…京ちゃん言うな」
嫌っていると判っている呼び方で呼べば、億劫そうにお決まりの台詞が返って来る。
「こんな所で、何をしてるのかな?」
「なんでてめェに言わなきゃならねェんだよ」
「別にいいよ、京ちゃんが嫌なら答えなくても。俺が興味があるだけだから」
「………」
京一の双眸が僅かに窄められた。
胡散臭い、と言外に告げられているのが容易に想像出来る。
道横の柵に腰を下ろしている京一の顔は、立っている八剣よりも随分低い位置にある。
見上げる視線は明らかに“鬱陶しい”と言っているのが判ったが、八剣はそれに気付かない振りをした。
このまま睨んでいても八剣が引き下がらないと感じたのだろう。
京一はお決まりの台詞を告げた時と同じように、億劫そうに口を開く。
「……別に、見たまんまだぜ」
道路の柵に腰を下ろし、降り頻る雨に濡れて、空を見上げていた。
ただ、それだけ。
制服の袖を捲り上げ、露になっている両腕。
その左腕に蛇が絡みついたかのような痣があるのを、八剣は見つけた。
東京のあちこちに点在する人ならざる者――――鬼と闘う者達。
恐らく、この痣も鬼との闘いによって残されたものなのだろう。
鬱血のように其処だけが血の気をなくしていた。
付近に、彼の友人達の姿は見られない。
別れた後か、それとも一人で闘って出来た痣なのか。
聞きたい気持ちはあったが、結局、八剣はそれについて問い掛けなかった。
「そう。変わった趣味だね」
「別にそんなじゃねェよ。気分だ、ただの」
厭味のような、冗談のような、そんな八剣の台詞に、京一は淡々とした口調で答えた。
「帰らないのかい?」
「何処に帰れってんだ?」
質問を質問で返されて、八剣は一瞬瞠目した。
家に――――と言い掛けて、この少年は自らが本来持っている筈の“家”には帰っていないのだと思い出す。
暗殺のターゲットとして渡された資料を基に、必要事項を洗っている間に、八剣はそれを知った。
「さて……何処だろうね。でも、此処にいるよりはずっとマシなんじゃないかな?」
こんな場所で、雨に打たれ続けているよりは、ずっと。
何処でもいい、せめて屋根のある場所で、雨風が少しでも凌げるのならば。
例えばそれが川辺にかかる橋の下でも、束の間の寄る辺となるのならば。
「それでも、何処にも行きたくないのなら―――――」
振り続ける雨雫から身を守る、傘の柄を差し出す。
京一はその意図を判じかねてか、一度その傘を見遣った後、眉根を寄せて八剣を見上げた。
雨雫に打たれ続けていた京一の顔は、今でこそその雨粒から守られてはいるものの、既にぐっしょりと濡れそぼっている。
濡れた前髪が京一の顔に張り付き、其処からも雫は滴り落ちていた。
頬を流れ伝う透明な雫が、雨ではなく、別のものを彷彿とさせる。
それは単なる錯覚であり、この少年はそれを流す程に弱い存在ではないだろうと八剣は思い返した。
―――――反面、八剣はよく知っていた。
ただ強いだけでは美しいとは言わない、其処に一片の儚さがあってこそ美しくなるのだと。
京一は、それに合致した。
「俺の所にでも、来てみたらどうかな」
八剣の言葉に、京一が僅かに目を見開いた。
その表情が常よりも幼さを助長させているような気がして、八剣はひっそりと笑う。
ああ、そういう表情もするんだねと。
「……何考えてやがんでェ、テメェは」
「別に何も。ただ、雨の中で鳴いてる仔猫の借宿ぐらいには、なれるかなと思ってね」
「…誰が猫だ」
不愉快そうに、京一はくっきりと眉根を寄せ、皺を作る。
「嫌なら別に構わないよ」
「……」
「変わりに傘をあげるから、後は好きにしたらいい。其処にいるのも、何処かに行くのも、ね」
「……お前が濡れんじゃねえか」
「気にしてくれてるのかな?」
「…………」
誰がお前の事なんか。
京一の瞳がそう言いたげに睨む。
それに構わず傘を持つ手を突き出す。
京一は黙したまま、その手と八剣の顔とを視線だけで交互に見遣った。
頭の天辺から足の爪先までズブ濡れになっているのだから、今更傘があろうとなかろうと、大した変化はない。
これから濡れる事を防いだとしても、既に京一の体温は降り頻る雨が奪い去ってしまっていた。
薄らと紫色になっているように見える唇が、京一の身を覆う冷たさを知らしめている。
差し出す傘を受け取らない限り、目の前の男は去らない。
そう考えた京一の予感は、恐らく、寸分の狂いなく正解であった。
事実、八剣は今この瞬間、この場を去る気は全くの皆無だった。
木刀を握る手とは反対の手が、ようやく動く。
雨に濡れそぼった手が、番傘の柄に触れた。
力を持ってそれが柄を掴んだのを確認して、八剣の手がそれから離れる。
本来の持ち主の手を離れた傘は、しっかりと、京一の手の中に収まっていた。
「……お前は、どうすんだよ」
「濡れて帰るよ。幸い、少しは雨脚も弱まったようだしね」
「だったらいらねェ」
「もう遅い。それは京ちゃんにあげるよ」
返却を断わると、八剣はくるりと踵を返す。
本来の帰路へと戻る為に。
傘が防いでいた雨が、今度は京一ではなく、八剣を濡らしていく。
京一が追ってくる気配はなく、しかし傘が飛んで行く事もなければ、手放されるような気配も感じられなかった。
雨の中に佇む未だ亡羊とした気配は変わらないけれど、八剣はもう振り返らなかった。
振り返らないまま、八剣は、雨の中で暗い空を見上げていた少年の面立ちを思い出す。
見つけた時に、全てを遮断するかのように、泣き出しそうにも見えた少年の表情を。
腕に残った、紅い痣。
温もりを奪われた、冷たい肌。
頬を伝う雫は、ただの雨雫。
帰る場所を忘れ、声を上げずに鳴く、仔猫。
拾って帰る事は出来ない。
だから、せめてその変わりに、
………ほんの少しの間でいい、その冷たい雨から守りたいと思った。
後日談
取り合えず、八京のプロローグ的なものを書いてみようかと……
京一は鬼と闘った後で、なんか色々ショックな事があったとか、そんなんで(アバウト)
途中で大幅に方向転換しました。
最初書いた時、京一がもっと弱ってたもんで(弱らせるの大好き(爆))……
弱ってる京一を八剣が慰める、てのもアリっちゃーアリかなーとは思いましたが。