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数日前に、愛用している三味線の弦が切れた。
好きで愛用しているものでもないが、商売道具である。
古ぼけた三味線であるが、良い音を鳴らすもので、客には評判が良い。
禿達もこの音は好きだと言うし、京一もそれ自体は嫌いではなかったから、ずっと同じものを使っている。
そうして長く使っているという事もあるから、多少の愛着――のようなもの――は湧いていた。
新しいものを買おうと言う楼主の言葉を、京一は毎回断っている。
大体、弦が切れたぐらいならば張り直せば良いのだから、新品を買う程大袈裟な事ではないと思う。
どの道、弦を張り直すついでに調弦もした方が良いかと思う頃合であった。
時期が良いと言えば良かったので、京一は長袋に三味線を包んで、それ一つ抱えて伎楼を出た。
伎楼の中では女物の着物を着ている京一だが、外に出る時は普通に男の着物を着る。
その方が奇妙な目に遭う事も少ないし、女の格好で外に出るよりは好きに歩き回る事が出来る。
とは言え、特に気紛れで寄るような道がある訳でもない。
伎楼に来る客はあれこれと廓の中の話も外の話もよくするが、京一は基本的に聞き流している。
だから何が流行っているかなど京一の頭には残っておらず、そんなものだから、外に関する情報が何も無い。
外に出たらあれが見てみたい――――等と思う事もないのである。
向かうのはいつも決まっている。
伎楼の場所から四半刻も歩いた先にある茶屋だ。
廓の女を引き連れた男が集まる場所だったが、一人で出入りする客も少なくない。
その雑多な客の出入りに混じって、京一も茶屋の奥へと足を運んだ。
少し奥まで行くと、途中で茶屋の親父に止められた。
が、京一は何度となく此処に来ているし、親父とも馴染みである。
それどころか、京一が太夫になる以前、この親父は数回に渡って京一の伎楼に足を運んでいた。
顔を確認すると、親父はどうぞと言って奥を示した。
それを見ることなく、京一はさっさと足を進ませる。
表口の喧騒から離れた店の奥。
表と違って個別に仕切られた座敷の一室の戸を、京一は躊躇わずに開けた。
「よォ、ムッツリ」
それは其処にいた人物の名前ではなく、けれども京一にとっては彼を形容する呼び名。
呼ばれた相手はいつも眉間に皺を寄せるが、何も言ってくることはなかった――――言っても無駄だからだ。
「弦が切れた」
座敷に上がりながら言うと、相手――――如月翡翠はまた更に顔を顰める。
「…もう少し大事に扱え。月に一度でも持って来れば、まだ暫くは長持ちするんだぞ」
「ンなこたァオレの勝手だ」
長袋から三味線を取り出す京一の手付きに、如月は溜息を漏らす。
如月は廓の外にある骨董品屋の若い主だ。
京一はその店を見た事もないし、骨董がどういうものか知らないが、どうせ暇な店なんだろうと思う。
何故なら、京一がこうして調弦を頼みに此処へ来る時、一度も擦れ違うことなく彼は此処にいるのだ。
つまり、如月は毎日のように店を開けてこの茶屋へ通っていると言う事になる。
骨董品屋の主が、どうして三味線を調弦する事が出来るのか。
京一は知らないし、聞こうとも思わないから、如月が自らそれを語ることもない。
取り敢えず、見た目は出来て可笑しくなさそうだなと思うから、昔取った杵柄か何かだろうと勝手に予想を立てている。
まぁ真実がどうであるとしても、京一にとっては、調弦をしてくれさえすれば問題ない。
如月の腕は他のどの調弦師よりも良かったから、こうして彼を頼っているだけの事だし、店が暇であろうと暇でなかろうと、如月が毎日此処に通っているなら、他の宛てを探さなくても済む。
受け取った三味線の残った二弦を鳴らして、酷いな、と如月が小さく呟いた。
「全く、とんだ主に気に入られたな。この三味線も」
「そりゃァお互い様だ」
座敷奥の壁に背中を押しつけて、京一は机に置かれていた徳利の酒を猪口に注ぐと口をつける。
「こんな所で、とんだ奴に気に入られねェ事の方が珍しいだろ」
まともな奴の方が少ねェんだからよ――――と。
零す京一の表情は嘲笑を含み、それは自分自身にも向けられていた。
此処に、この街にいる限り、そんなものはいつまでも纏わり付いてくる。
妙な趣味をした客だったり、他者を貶めることしか考えていない女だったり、労咳だったり、呪いや祟りの類だったり。
人が溢れかえって零れて堕ちる場所だから、此処にはそんなものがつき物だ。
妙なものに取り付かれない訳がない。
更に言うならとんでない奴の方が少ない、と京一は思っている程だった。
そして自分自身も、“まとも”と言える人間ではないだろうと。
「此処にいるだけで、色んなモンが麻痺して来やがる」
「女侍らせてだらしねェ面してる野郎の横で、金なくした男が女に袖振られてる」
「今日まで男の下で何十両って稼いでた奴が、明日になったら血ィ吐いて死んでる―――――」
「………そんな所で、いつまでもまともな頭してらんねェよ」
極楽浄土のように華やかで。
地の底のようにくすんでいて。
一人の人間の間で、その色は一瞬の間で言ったり来たりを繰り返す。
そんな場所で京一の記憶は始まり――――きっと終わる時も同じなんだろうと思うから。
如月はそれを黙って聞いていて、時折調弦を確かめる音だけが二人の間に響く。
「ま、オレは最初からまともな頭してなかったけどな」
空になった徳利を放り投げる。
ころりと床に転がったそれは、京一の足に当たって止まった。
調弦の音が止んで、如月が三味線を差し出す。
受け取って長袋で包み、座敷を立つ。
通路に下りて草鞋を履いた所で、如月が声をかけて来た。
「おい」
「ンだよ」
首だけをめぐらして肩越しに見遣ると、如月は既に京一に背を向けていた。
そのままの姿勢で、如月は続ける。
「次は弦が切れる前に持って来い」
「なんでェ、急に。今までンな事――――」
「いいから来い」
急かされた事などなかったと、言おうとして。
遮った如月の声は、低く強い音で、拒否する事を先に拒絶していた。
抱えた三味線は商売道具で、愛着―――のようなもの―――は確かにある。
あるけれど、それと大事にするか否かは、京一の中で全く別の話だった。
少しでも三味線が面白いと感じる事があったなら、如月が言うように、月一でも皮張りや、弦や駒に気を配るだろう。
けれども京一が三味線を覚えたのは、楼主の教育によるもので、本人が好きで覚えた訳ではない。
客が音を聞いて喜ぶことも、京一の喜びに繋がるには程遠く、客の叩く囃子の音も乾いた音にしか聞こえなかった。
返事をせずに立ち尽くしている京一に、如月はやはり振り向かないままで、
「……良い三味線なんだ。もっと大事にしてやれば、今よりもっと良い音が出る」
そうかよ、と。
一言だけ呟くと、京一は外へと足を向ける。
奥から出て来た京一に、茶屋の主が頭を下げる。
今は愛想の良い膨らんだ顔が、夜は酷く卑下た構えになるのを京一は覚えていた。
……さっさと忘れてしまいたいのに、この男の顔を見る度に何故か思い出す。
ガヤガヤと煩い表口を出ると、今度は別の煩い音が京一の鼓膜に届く。
それらから早く解放されたくて、京一は戻りたくもない―――けれども他にない―――場所へと足を速めた。
此処には雑多な音が有り触れていて、酷い時には耳鳴りもする。
耳鳴りがするのは近くに霊がいるからだとか、何処かで誰かが言っていた。
じゃあ女に溺れて死んだ莫迦な男か、足抜け損ねて投げ込み寺に放られた女か。
そういう輩は同業や男だけでなく、陰間にも祟るのか、と何もない空を眺めて思う。
まぁ――――どうせ碌なのがいない街なんだ、何がいても可笑しくはない、と。
女に袖を振られて泣く男と擦れ違いながら一人ごちた。
先程の如月の言葉が、脳裏で蘇る。
どんなに良い音を鳴らす三味線でも、乱暴に扱えば弦が切れて、皮が破れ、棹も折れる。
だから大事にしてやれば、勿論逆で、もっと良い音が出る。
けれども、京一にはどうしても、腕に抱えた商売道具を特別大切には思えない。
碌でもない奴が弾いてるんだから、碌でもない音しか出ないのは当たり前だろうとしか考えられなかった。
此処は碌でもない街だから。
この碌でもない街を、もう少し愛することが出来たなら、何か変わる事があったのかも知れないけれど――――……
もっと大事にしてやれば、今よりもっと良い音が出る。
(――――――………人も、な。)
別れ際。
言葉の後に呟かれた音は、京一の耳には聞こえなかった。
聞こうと思えば聞けた言葉は、向けられた京一自身の意識によって掴む者なく流れて消えた。
大事にされた事がないから、
大事にしたいものがない。
だってこの街は、碌でもないもので溢れている。
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如月の台詞は深読み希望。
っつか、な が い … … !
しかも内容が内容なので、これ拍手御礼でいいんだろうかと(滝汗)…
毎回こんな拍手が一つは混じってるような気はしますけども。
如月を出したい出したいと思っても、中々本編に登場予定がなくて…
パラレルにすると毎回役所に困ると言うのも理由の一つだったり(爆)。
あと、未だに私の中でこの二人はケンカしてるイメージが強くて、中々喋ってくれないのですι
プレ版にお付き合いありがとう御座いました。
イメージも固まりましたので、そろそろ本腰入れて書こうと思います。
宜しければ、またお付き合い下さいませ。
―――――――機嫌がいいねと言われた。
「………そうか?」
問い返すと、うん、と龍麻は頷く。
それから手に持っていた杯を傾けて、其処に浪波としていた酒を飲み干す。
京一の手にも同じ杯はあったが、中身は既に空だった。
徳利を取って自分で注いで、また空にする。
龍麻の土産話を聞いている間、京一は専らそうしていた。
土産話に京一が質問や相槌を打つ事は少ない。
他の客の対応と、龍麻への態度で言えば確かに違いはあるが。
今日も、聞いているのかいないのか、端から見ればそんな態度を取っていた京一である。
何か違う事などしたかと思っていると、龍麻はそんな京一の胸中を汲んだようで、
「笑ってるね」
京一の顔を指差して、口元に笑みを浮かべながら龍麻は言った。
杯を置いて、京一は口元に手を遣った。
言われて見れば、確かに頬の角度が僅かに上がっているような気がする。
「酒が美味ェからだろ」
「そう?」
「何処の酒だ?」
普段の味と違うと言ったら、龍麻は小さく笑んだ。
どうやら、また旅先からの土産物だったようだ。
口当たりが良く、けれども甘ったるくはない、京一好みの辛めの酒。
喉を通り、液体が胃に入った瞬間から、焼けるような熱さが腹の奥から湧いてくる。
酔いが回るのも早いだろうが、京一は気にせず、また徳利を傾けた。
此処の伎楼が用意する酒も決して不味いものではないが、京一は座敷に上がると大抵飲んでいる。
いい加減に飽きが来ていたものだから、龍麻のこの土産はありがたかった。
また杯を空けた所で、ねえ、と龍麻が声をかけた。
「さっき、」
「あん?」
「……伎楼(みせ)に入った時、見た事ある子がいたんだ」
それはそうだろう、と京一は思いつつ、また酒に手を伸ばす。
龍麻は放浪癖があるから、一度街を離れると、一月は戻って来ない。
しかし街にいる間は頻繁に此処へ来るから、その間に顔だけ覚えた男娼や色子もいるだろう。
「あの子って、京一の禿だった子だよね」
ぴくり、と。
徳利に触れた手が、一瞬揺れた。
………京一の自覚のないままに。
肩よりも少し下まで伸ばした髪を、項で結った色子。
まだ幼い顔立ちをして、左目の泣き黒子が印象的な少年。
それは確かに、昨日まで京一付きの禿として、京一の身の回りの世話をしていた少年である。
「……十二になったからな。今日から水揚げだ」
少年が伎楼に売られてきたのは、三年前の事。
両親の借金苦に泣く泣く売られて来たが、当人はそれを判って、自ら受け入れて此処に来たと言う。
十年程働いて年季が明ければ自由になるのだから、それまでの辛抱だと。
その十年と言う歳月が、此処で生きる人間にとってどれ程長いか―――――京一は歯に衣着せずに教えた。
それで此処に来た事を後悔しようと今更遅いのだから、それならば最初に現実を教えた方が良いと。
だが、それでも少年は笑っていた。
読み書きも、琴も三味線も、京一よりもよっぽど熱心にこなしていた。
他の禿への世話も焼いて、器量の良い、京一にしてみれば人の良過ぎる性格をした少年だった。
……けれど、疲れた京一を労わる時に見せる笑みは、少なからず気に入っていた。
この伎楼の陰間の多くは、十二になると客を取るようになる。
例に漏れず、少年も今日から客の相手をする事になった。
「そう」
「ああ」
短い、意味のない言の葉を交わしてから、京一は杯に酒を注いだ。
酒の減りはいつもよりずっと早かったが、京一はそんな事は気に留めなかった。
杯に酒があれば飲んで、なければ注ぎを繰り返す。
そんなものだから、元々真摯に聞いてはいなかった龍麻の土産話の内容は、既に頭から失せていた。
だが注いだばかりのそれを口につけようとして、腕を掴まれて阻まれる。
「龍――――――」
他にいない男の名を呼ぼうとすると、塞がれた。
ぬるりと熱いものが咥内に滑り込んできて、呼吸と理性を奪おうとする。
手の中で持て余していた杯を取り上げられた。
少し勿体なかったが、零した訳でもなく、膳に置かれたから後ででも飲めるだろうと思う事にした。
その時になって、酒の事まで記憶しているかどうかは、知らないが。
水音が交じり合って音を鳴らし、鼓膜を犯す。
着物の帯が解かれて袂が開き、当人の印象よりは少し無骨さのある龍麻の手が、布の内側に侵入する。
「ん、ん……ふ………ッ」
用意された床になど入る余裕も与えられず、畳の上に押し倒される。
暫くの間、龍麻は口付けを繰り返した。
京一もそれに応える。
ゆっくりと離れて行って、見上げた龍麻の顔は、灯りの影になっていて京一からは見えなかった。
「やっぱり――――機嫌、いいね」
「……ん……?」
「だって嫌がらないから」
言われてから、そういや畳だったか、と背中に当たる固さを感じて思い出す。
普段だったら、幾ら相手が龍麻でも、こんな所でなんか御免だと蹴飛ばしている所だ。
「いいの?」
このまましても――――、と。
問う龍麻に、溜まってんのかと下世話な事をふと考える。
月に二、三度来るなんとかのお偉いと違って、龍麻は京一に無理を強いることはない。
此処で嫌だと言えば褥に移動するだろうし、京一としてもその方が良い。
固い畳の上での行為は、勿論躯の負担になって、最中も決して楽な事はなかった。
けど溜まってんじゃァな……等と、ぼんやりと考えて。
結局京一は考えるのが面倒臭くなって、思考するのを止めて龍麻の首に腕を絡めた。
「してェんだろ?」
「……畳だよ」
「いいからやれよ。気が変わるぜ?」
美味い酒もありつけて。
相手は龍麻だから、明日に支える事もあるまい。
仕事の事なんて滅多に心配しないのにそんな事を考えて、ああ酔ってんな、と他人事のように思う。
……頬に龍麻の手が触れた。
「また、笑ってるね」
呟いて、落ちてきた口付けに身を任せて。
目を閉じる間際、浮かんだ幼い笑顔は、きっともうこの世に咲くことはないんだろう。
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深読み希望の話(爆)。
昨日傍で笑っていた子が、次に逢った時には焦点も合ってない。
守りたいけど守れない、助けたいけど助けられない。
……そんな話でした。
…………重ッ……(滝汗)ι
どうしたって好きになれない物や事柄はある。
人それぞれに人格があって、相手によって合う合わないの相性があるのだから仕方がない。
けれども、此処ではそんな理屈はただの言い訳や我侭でしかない。
立場がそうさせていて、そして自分は面倒臭い言は全て飲み込み、伸ばされる腕は全て受け入れなければならない。
袖振り合うも多少の縁とは言うが、それも自分である程度選べられたらの話だと思うのは、こんな時だった。
座敷の襖を開けて、下げていた面を上げれば、案の定。
「やぁ、京ちゃん」
胡散臭い程ににこやかな笑みを浮かべて、男―――――八剣右近は言った。
京一は、この男が苦手だった。
嫌いでないのかと問われれば、出てくる答えは迷いなく“嫌い”だが、それよりも苦手の部類に入る。
見た所、年の頃は二十の半ば程で、城に仕える高官お抱えの侍であると言う。
元は浪人をやっていたと言うが、なんの因果か今の位置に納まり、七日に一度(多い時は日を開けずに)此処に来る。
腰に携えた刀は無銘であるらしいが本人は気に入っているようで、妙に綺麗な細工の入った刀に比べると酷く地味であった。
お陰で良い賃金を貰っているようには見えないのだが、太夫の京一の馴染みになる程だから、所得は高いのだろう。
顔立ちは整っている方で、普通に女の所に行けば引く手数多である筈だ。
京一は女がどんな顔を好きかなど興味もないし知らないが、こういう顔が好きなんじゃないかとは思う。
だれだって不細工より整った方が好きだろうし、京一も(選びたい訳でも、選べる訳でもなかったが)脂ぎった腹の肥えた狸親父よりも、こっちの方が随分マシに思えた。
廓に来る客の中では、珍しいほど身奇麗な男であった。
さて、京一が何故この男を苦手としているかと言うと。
「お酌、してくれる?」
「…………」
これだ。
先ずこれだ。
それが仕事なのだから、言われなくともする。
言う男もいて、それらは大抵命令口調で、あまりに態度が酷いと京一は躊躇わずに股間を蹴飛ばしてやる事もあった。
だが、こうして柔らかな物腰で―――裏もありそうにない―――頼まれることは、滅多にない。
言われた通り、京一は八剣の傍に寄って、徳利を手に取った。
差し出された猪口に注ぐと、八剣は一息に煽る。
この後、大抵の客は性急に事に及ぼうとする。
一般的にはどうだか知らないが、少なくとも、京一の客は殆どがそうだった。
だから最初にこの男と会って、あっと言う間に馴染みになった時も、床入れだけが目当てなのだろうと思っていたのだが、
「最近、夜になるとめっきり冷え込むね。北の方じゃ、もう雪が降ったってさ」
「…………」
「此処で雪は降らないな。雪見酒も良いんだが、降らないのじゃあどうしようもないか」
「…………」
空になる事に猪口に酒を注ぐも、その間、京一は無言だった。
相槌も打たないのは昔からで、この態度を崩してやろうと男達が躍起になったのが京一の人気の由縁だ。
だから馴染みになった男達は、高慢な顔を打ち壊そうと性急に床入れしようとするのである。
が、何故かこの男だけはそれをしない。
聞いているか否かも確認することなく、酒を飲んでいる間は好きに喋っているばかりだ。
京一が本当に聞いていなくても、この男は気を咎めた様子もない。
詰まらない話だったね、次はもう少し面白そうな話を仕入れておくよ。
そんな事まで言ってくるのだ。
「眠る時、寒くはないかな。うちの屋敷は見た目は良いが、隙間風が酷いんだ」
主殿が守銭奴でね、中々直して貰えない。
笑い混じりのその言葉は、深読みすれば、熱を欲しているという意味にも取れる。
徳利を置いて、杯を取り上げる。
八剣は何も言わず、京一の好きにさせていた。
腕を首に絡めて、触れ合いそうな程に顔を近付ける。
形の良い唇に舌を這わせ、八剣の首の後ろで指を滑らせた。
「寒いんだったら、温まりゃいいだろ」
「京ちゃんが温めてくれるのかい?」
「…………」
どうせそれが目当てだろう。
だから、此処に来るんだろう。
睨む京一の瞳は口ほどに物を言うもので、八剣もそれをしっかりと知っていた。
けれど、八剣は動かない。
だから苦手なのだ。
嫌いなのだ。
此処は“そういう”場所なのに、此処にいるから自分は“そういう”ものなのに。
どうしてかこの男はそうであれとは言わず、京一から誘いをかけないと床にも入らない。
ただ酒を飲むだけで店で一夜を明かし、酒代には吊り合わない揚代金を置いていく。
単純に客として相手をするなら、こんなに楽な客は早々いないが、京一には返ってそれが苦手意識に繋がった。
抱くことがない日もあれば、酌すら求めることがない日もあって、本当に京一が隣にいるだけの事もある。
それで何が楽しいのだか、コイツは此処に何しに来てんだと思うのだ。
京一が抱けと言えば、抱く。
激しくしろと言えば激しくするし、さっさと済ませろ言えば本当にさっさと済ませる。
京一が自分の好きに動けば受け入れて、主導しろと言えば主導した。
けれども、前の客のお陰で京一が疲れている事があると、自分の相手は良いから寝ろと言う。
本当に寝ていても寝込みを襲ってくる事はなく、そういう日はお陰で助かるが、やっぱり困惑した。
時々、どちらが客か判らなくなる程、八剣は京一の要望に答えてみせる。
こんな妙な客は他にいない。
「……お前は、オレをどうしてェんだよ」
「好きにしてくれていいよ」
問うてみれば、毎回そんな答えが返ってくる。
番頭や楼主は、良い客だ、上客だと言うが、京一は冗談じゃないと思う。
こんなに性質の悪い客はいない、と。
同じような事を言って置きながら、京一の主導を赦さない男もいる。
好きにしろと言って、好きにしてやれば、罵詈雑言をはき掛けてくる輩もいる。
……腹は立つが、そっちの方が判り易いので良いと京一は思う。
「じゃあ、お前はどんなオレがお望みだ?」
帯を解いて、着物を肌蹴させて。
さぁお前はどんな趣向が好きなんだと、意地の悪い質問を投げかける。
その薄ら笑いの裏側を見せてみろと、囁いてやる。
自分に何か幻想を見ているのなら、いっそ打ち砕いてやる。
甘美な夢を見せるのは、この穢れた躯なんだと教えてやる。
―――――――なのに。
「そのままでいいよ」
そう言って、背中に回った腕は、何をするでもなく閉じ込めるだけで。
少し大きな手のひらは、拗ねた子供を宥めるように頭を撫でる。
言葉も行為も、いつも意味が判らない。
結局お前は、オレの何が見たいんだ――――――?
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長い。
拍手なのに長い。
プレなのに長い。
ごめんなさいいいいい!!
京一が荒んでれば荒んでるほど、八剣が寛容になって行く気がします。
でもこのシリーズの八京は、終始こんな感じになりそうです。
あと、うちの八剣はいつも言葉が足りなすぎるんじゃないかと思います。
……だって言っても京ちゃんが信じないからさぁ……
一月ぶりに見た顔に、京一の表情が思わず晴れる。
三週間前に京一付きの禿(かむろ)になったばかりの少年は、初めて見た太夫の笑顔に驚いた。
彼は自分と話をする時にも、何処か傷ましげな顔をして、笑った顔も見せた事がない。
そんな太夫に、心からの笑顔をさせる人物がいるなんて、とてもじゃないが想像できていなかった。
「龍麻じゃねェか。久しぶりだな」
「うん。これ、お土産」
店にやって来て京一を指名したのは、京一とまだ歳の変わらぬ青年――――いや、少年だろうか。
元服はしているだろうが、齢を重ねた大人達と並ぶと、まだ垢抜けぬ雰囲気を纏っている。
そんな人物がどうして太夫と親しく出来るのか、傍目には理解できないだろう。
龍麻と呼ばれた少年が差し出したのは、東の都で今流行の饅頭。
それを、京一は躊躇わずに受け取った。
後で食わせて貰うと言う京一に、少年は嬉しそうに頷いた。
禿の少年がその場にいられたのは其処までで、京一に言われて土産の饅頭を京一の寝所に持って行く事になった。
その時龍麻と目が合って、澄んだ瞳がこの店にはなんだか不似合いなような気がして、どうして彼のような人物が廓に―――それも陰間茶屋に―――来るのかが不思議でたまらなかった。
座敷を後にする間際、禿の少年は、少しだけ座敷の様子を伺っていた。
その間、二人は客と太夫と言うよりも、まるで長年の友人のような気安さで会話を交わしていた。
「今回は何処行ってたんでェ? 東の都だけか?」
「北にも行ったよ。東の都から、仕事でだけど」
「北はもう冬か」
「うん。僕が行った時は雪は降ってなかったけど、今はもう降ってる時期かな」
用意されていた酒を、龍麻は手酌で注いだ。
本来ならば京一の仕事であろうに、しかし京一は龍麻の手を止めず、自らの分も手酌で注ぐ。
乾杯の音頭もなく、二人は、まるで其処が町の安宿であるかのように酒を飲む。
太夫が珍しく、客を気に入っているようであると、少年にも判った。
誰に対しても気を赦さない人だと思っていたのに、こんな顔をする事もあるのか―――――そう思いながら、少年は座敷を後にした。
………禿の少年が座敷を離れて。
足音が遠退き、気配も消えたのを確認してから、京一は銚子と猪口を捨て、手を伸ばした。
親しい友の表情から、艶を宿した太夫の顔に変えて。
「雪ってェのは、冷てェんだろ?」
「京一は、雪を見た事ないの?」
「さァてね。忘れた」
首に腕を絡めて、顔を近付ける。
目を閉じた龍麻に、京一は躊躇わずに口付けた。
数度舌が触れ合って、離れる。
「オレと雪と、どっちが冷てェんだろうな」
龍麻の手を捕まえて、京一はその手を着物の袷の中へと誘う。
女と違う平らな胸―――――龍麻は直ぐに答えて、其処に掌を滑らせた。
左側に触れてみれば、心臓の鼓動が感じられて。
「京一は温かいよ」
「………ふぅん」
呟いた龍麻に、京一はなんとも気のない返事をする。
「どうかねェ。オレぁそうは思わねェな」
「大丈夫。本当だから」
「口じゃなんとでも言えらァな」
口端を吊り上げて漏れた言葉を、龍麻は確りと受け止めた。
受け止めたことに龍麻の表情が歪むことはなく、ただほんの一瞬、寂しそうに眉尻が下げられて。
―――――龍麻のそんな顔にさえ、京一は同じように笑んで見せただけで。
「好きだよ、京一」
廓で囁かれる愛の言葉こそ、薄っぺらいものはないだろう。
不確かな言葉を注ぐくらいなら、明確な証を寄越してみろと、切れ長の瞳が嗤う。
そら見ろ出来ないじゃねェかと、出来た所でなァんにも返すモンなんかねェけどな、と。
伸ばされた腕を捕まえて、褥に横たえる。
じっと見下ろす先にある表情は、笑っているようで、嘲笑っているようで。
見上げてくる瞳は、艶を灯しているのに、目の前にいる人間から素通りしているようで何も映す事はなく。
「好きだよ」
「ああ」
繰り返された言の葉に、京一の表情は変わらない。
囁かれる愛も受け入れて、何も拒むことはない。
そして、返事を望むのならば、臨む言葉を紡いでみせる。
「オレも好きだぜ、龍麻……―――――――」
囁かれた愛の言葉は、龍麻が呟いた言葉以上に中身がない。
それが当たり前だ。
京一にとっては、相手の言葉も、自分の言葉も、価値を持たない。
だって差し出すものは、単なる言の葉だけだから。
囁かれるだけ、囁いてやろう。
中身の要らない愛なら、幾らでも。
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龍麻に対してこんな態度の京一と言うのは、うちのサイトじゃ珍しいですね。
こうなっちゃうと相当荒んでる事になります。
このまま行ったら、雛○○症○群とかになるんじゃないですかね(えぇぇぇ)。
他の客よりは気に入ってるので友好的ですが、だからって受け入れてる訳でもない感じ。
お前の要望には応えてやるよ、みたいな。
夜は蝶。
昼は蜘蛛。
その言葉を聞く度に、褒められているようで貶されている気分になる。
何が良いのか知らないが、幸か不幸か、自分は人気があった。
お陰で最初の頃はあちこち引き回されて疲労ばかりが溜まったが、太夫になると随分楽になった。
太夫になると、此方が相手を選べるようになる。
無論、自分だけの一存で決められる訳でもなかったが、それでも相手にする数は随分減った。
以前は眠りたい時に眠れずに、それでも目の下に隈でもあれば打たれるので、その心配がなくなったのは助かった。
愛想も何もない自分の何処に気に入る要素があるのか、京一には判らない。
オレだったら座敷持の時点でブン殴ってるがな、と常々思う。
それが一部の男達の色心を煽るとは、知らなかった。
眠い目を擦りながら、昨日の客を見送る。
この廓につれて来られた頃から、京一のこんな態度は変わらない。
上位の遊女になる素質があるとされ、引込禿(かむろ)として楼主から英才教育を施されたにも関わらず、だ。
挙句、その楼主に反抗する事も多く、躾直しと言って手を上げた楼主を返り討ちにしたりして、その出来事は前代未聞として今でも語り草になっている。
いつの間にか、その話は客層にも広まっており、強気なその性格を己が挫かせてやろうと言い出す者が出て来た。
しかし結局、京一の性格も態度も、今の今まで変化を見せていない。
起こすんじゃねえよと言わんばかりに客を睨み、愛想もなく見送る京一。
整えていない胸元から、赤い華が覗いている。
隠しもしなければ恥ずかしがることもしない、憮然とした態度で京一は其処に立っていた。
「また来るよ」
引き締まった腰を男の手が抱き寄せる。
それを甘受し、京一は一度だけ、男の胸に顔を寄せた。
鉄錆の匂いがして、京一は一瞬眉根を顰める。
それは男の目には見えなかったようで、ちらりと上目で伺うと、鼻の下を伸ばしきっていた。
何をした訳でも、言った訳でもないのに、これだけで勘違いをしてくれるのだから、男とは単純なものだ。
自分も一応、男なのだけれど。
名残を惜しむ素振りでも見せるように、男の手に力が篭る。
しかし京一はそれをあっさりと振り払い、踵を返した。
欠伸を一つ漏らして、戻ったらさっさと寝ようと決める。
部屋に戻るその背中に、聞こえる声があった。
「おい、どうだった? 太夫を抱いたんだろ?」
「ああ、最高だぜ」
連れの男と顔を合わせて、京一の客が色めいた声で言った。
あの男はもともとは男色に興味がなかったらしいが、京一にはそうは思えない。
慣れているようにも思えなかったが、全く経験がないようには見えなかった。
第一、初回から馴染みまでの間が短く、逢う度に男は好色な目をして京一を見ていたように思う。
単なる勘であるが。
「噂に聞いてた通りだったよ」
「どっちがだ?」
「どっちもさ」
性格のことか、具合のことか。
問いかける連れに、男は肩を揺らせて応える。
外で自分がどんな噂をされているのか、京一は知らない。
興味がないし、聞いても大抵それは下らないもので、記憶の片隅にも残らない。
時折ご親切に教えてくれる客がいるが、それもまともに取り合っていなかった。
けれどもなんとなく、この時だけは。
眠い頭が何を思ったのか、足を止めさせた。
「あれだけ強気なのが、床入れしちまうと大人しいんだよ」
「へェ」
「その差がいいな。うん。気紛れに甘えるのも」
長々喋って夜の様子を言いふらす男。
はっきり言って、気が悪くなった。
初回と裏では特に問題がなさそうだったので、そのまま馴染みにしたが、失敗だったなと思う。
何が失敗であるかは、この場合、京一の気分を害した事に因る。
床入れするのも、大人しくするのも、本当は御免だ。
それでも、此処はそういう場だから、好きにさせてさっさと終わらせるのが負担も少なくて助かると思って、そうするようになった。
気紛れに甘えて見せるのは、そうした方が効果的だからだ。
相手に出すものがあるなら、たった一度で切れてしまうよりも、繰り返し来てくれた方が良い。
その為の手段の一つとして、甘えてみせる仕種は、十分効果を齎してくれた。
「いい躯してる。抱いてる時なんか、蝶みてェに色っぽくてよ」
「男だろ、その喩えは無理があるんじゃねえか?」
「お前も会ってみろ、そう思うぜ」
どうかなァ、と連れが呟く。
所作がどうの、眼差しがどうの、褥の中はどうの――――男はまだ延々と喋っている。
連れの男は段々と興味が湧いてきているようで、ほうほうと相槌を打ちながら聞いていた。
「その癖、床入れするまで隙がねェのよ」
「ほォ」
「気を抜きゃ、こっちが食われそうなぐらいさ」
危険はないと見せかけて、獲物を捕らえて雁字搦めにする。
その後、獲物を食うか殺すかは、京一の気分次第。
男は、その瀬戸際のやり取りも楽しいのだと語った。
喋り続ける男と、聞き続ける連れは、そのまま店を離れていった。
京一はがりがりと頭を掻いて、そういや眠かったんだと今更ながら思い出す。
思い出すと、また眠くなって来た。
でも、さっきの男と共にした気配の残る床は使いたくない。
禿を呼び付けて、寝所に床を敷いて置くように言い付けた。
まだ八つ程の禿の少年は、太夫直々に指示されたからか、何処か嬉しそうに頷いて駆けて行った。
自分が、あの少年のように笑っていたのはいつ迄だったか。
最早思い出すことは出来ず、笑うこともないだろうと思う。
愛想笑いも浮かべられない自分に、どうすれば笑えるのかなど判らない。
これが蝶?
笑えてくる。
そんなに綺麗な色じゃない。
これが蜘蛛?
罠なんて張ってない。
勝手に周りが糸を作って、糸に引っ掛かる間抜けがいるだけだ。
だけど、他者から見ればそうなのだろう。
だって、そういう風にしか生きれない。
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遊廓パラレル、お試し版です。
ダークサイドで連載考えてますが、雰囲気とちょこちょことした設定を小出しに…
……と言うか、私の中でもイメージがはっきり固まってないのです(オイ)。
荒んでる京一で、龍京と八京の同時進行の予定。
エロシーンは……まだ書く予定はありません。