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――――――思えば、随分沢山の背中を見てきたものだ。
一番最初は、父の背中。
十まで見ていた、広くて無骨な熱い背中。
生きる為に畑を耕す事も、家族を守る為に闘う事も。
喧嘩の仕方も、一番最初に父に教わった。
それが、一番最初の基盤。
無我夢中で追い駆けたのは、夢を追う背中。
遠く遠く見えない未来を見つめ、時折後ろを歩く自分の方を振り返る。
ついて来れていることを確認すると、もう少しだぞと言ってまた歩き出す。
その背中を、ただ夢中になって追い駆けた。
そうして、追うことさえも出来なくなる事があると知った。
迷い迷って、彷徨い続けて刻は流れ。
見つけた背中は、罪も迷いも全て背負って歩く背中。
自分よりも小さな背中は、過去の出来事全てを背負い、抱え込んで。
新しいものなど広い上げる事さえ出来ないほど、その罪は時に重く大きくて。
それでも掲げた“不殺”を、最後の最後まで貫いた。
全てを背負って生きる背中と、並ぶことが出来て、こんなに嬉しいことはなかった。
途中、嘗て合わせた背中に再び巡り会えた。
ほんの少しだけ道はずれていたけれど、それでももう一度背中合わせに立つ事が出来た。
刻を経ても、時代が変わっても、同じ背中と背中を合わせられる事があるなんて、正直思ってもいなかった。
一人、孤高に生きる背中にぶつかった。
防御がなっていないとか、足手まといだとか。
的を射ているのが余計に腹立たしくて、絶対従ってやるもんかと心に決めた。
阿呆阿呆と莫迦にするから、忠告なんぞ聞かない上で抜いてやろうと。
それでも、悔しいけれど、きっと一生追いつけない―――――死ぬほど、死ぬほど悔しいけれど。
生と死と。
怒りと悲しみと。
憎しみと涙と。
優しい笑みを殺して生きる、背中に逢って。
背中ではなく、正面から向き合って、同じ拳で撃ち合った。
越えたとか越えられなかったとか、そういう次元とは少し違う。
……何がどう違うかと言われると、正直、少し判らない。
それでも背中ではなく、追い駆けるのではなく、向き合うことが出来たから。
追い駆けて、追い続けて。
見てきた背中で見つけたモノを、この背負って生きていく。
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“師”。
こうしてみると多いですね。
父の上下エ門、相楽隊長、剣心、斉藤、安慈……凄い人達ばっか。
克弘はオマケで(爆)。
お題の“師”とは違うけど、“背中”をテーマにしたら、途中から“背中合わせ”のワードが入り込んできたので。