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どて。
転ぶ音がして、マリア先生は振り返る。
すると、部屋の出入り口と廊下の敷居につまずいた子供が一人。
駆け寄る前に起き上がった子供は、緋勇龍麻だった。
起き上がると、龍麻はそのまま部屋を出て行く。
緋勇龍麻は大人しい。
誘われれば応じるけれど、基本的に活発な子供ではないので、部屋の中で本読みやお絵かきをする事が多い。
それがこの間、三日に一度の公園遊びの日から、何かと外に出ようとするようになった。
だが、園外に出て遊んでいる訳ではないようで、いつも園内の何処かへ姿を消す。
何処で何をしているからは犬神先生が確りと把握しているようだが、マリア先生は知らされていなかった。
気にはなるのだが、犬神先生が好きにさせろと言うので、複雑ながらも見守ることにしている。
ただ怪我をするような場所には行っていない、と言う事だけはきちんと確認させてもらった。
今日は何処に行くのだろう――――と言うマリア先生の心情を、当の子供は知らない。
転んでいる間に遅れてしまって、龍麻は廊下を走った。
その向こうには、ここ数日、いつも追い駆けている背中がある。
「まって」
言っても待ってくれないのは判っている。
だっていつも待ってはくれないから。
でも、今度は待ってくれるかも知れないから、待ってと繰り返し声をかける。
「ね、どこ行くの?」
龍麻が追い駆けているのは、“きょういち”だ。
毎日毎日、この背中を追い駆けて、龍麻は声をかけている。
いつか、返事が返ってくるのを期待しながら。
“きょういち”は部屋にいる事が少ない。
朝はちゃんといるのだけれど、皆が遊ぶ時間になるといつもいなくなる。
お昼の時も時々帰って来なくて、後の時間になって先生達の部屋で食べている事がある。
雨紋が遊びに誘うと一緒に行くけど、終わると直ぐに何処かに行ってしまう。
そして、四日に一度は庭にある池に落ちて、びしょ濡れになっているようだった。
追い駆けている内に、“きょういち”が何処で何をしているのか、龍麻も覚えた。
風の気持ちの良い日は園舎の屋上にいて、雨の日は廊下のガラス戸を開けて、其処に座って外を眺めている。
日差しが強い時や、表で遊んでいる子供が多い時は、日陰になっている庭の隅の池で過ごす。
日差しも風も丁度良い時は、庭にある一番大きな木に登っていた。
今日は何処だろう。
昨日は屋上だった。
思い出しながら、龍麻は“きょういち”の後ろをついて行く。
“きょういち”が外に出て、靴を履いた。
龍麻も靴を履いていると、“きょういち”が振り返る。
「なんなんだよ、おまえ」
「ぼく?」
「おまえしかいねーじゃん」
返って来た言葉に、確かに、と思う。
此処には今、子供たちも先生もいなくて、龍麻と“きょういち”しかいない。
「あのね、」
「いい。しらね」
言おうとした龍麻の言葉を遮って、“きょういち”はくるりと背中を向けた。
言いたかったのに。
龍麻の眉毛がへにゃりと下がった。
でもめげずに、龍麻は歩き出した“きょういち”を追い駆ける。
今は誰も遊ぶ子のいない庭を横切っていく“きょういち”。
とことこ後ろをついて歩きながら、龍麻はなんとなくウサギ小屋へと目を向けた。
「あ、いぬがみせんせい」
呟くと、ぴくっと“きょういち”の肩が跳ねた。
“きょういち”は犬神先生が苦手らしい。
姿を見つけると、走って逃げてしまう。
今回も同じく、走り出してしまった。
龍麻は慌ててそれを追い駆ける。
「まって」
「ついてくんなッ」
そう言った途端、“きょういち”がぐらりと傾いた。
後ろ向きに走ったりするからだ。
ざあっと音がして、土の地面に“きょういち”が転ぶ。
龍麻は急いで駆け寄った。
「だいじょうぶ?」
「さわんなッ」
起こそうとした手から、パシンと音がして、じんとした痛みが残った。
ずきり、胸の奥が痛む。
でもそれ以上に、何もなかったように一人で立ち上がった“きょういち”の顔を見た時の方が、胸の奥がぐしゃぐしゃになってしまうような気がした。
転んだ時に擦り剥いたのか、“きょういち”は少し足を庇って歩いた。
龍麻はその少し後ろをついて歩く。
本当は並んで歩きたいのだけど、並ぶと“きょういち”は怒るから、今は後ろをついて行く。
これも何度も怒られたけれど、ついて行くのも止めてしまったら、もう仲良くなれない気がした。
だから何回怒られても、龍麻は“きょういち”の後ろをついて歩いて行く。
到着したのは池の傍。
子供の目線では大きな池は、足場に出来る飛び石が点在している。
ひょいっと“きょういち”が飛んで、小さな足場に着地した。
“きょういち”はいつもこうして、一人で遊んでいる。
それで時々バランスを崩して、池の中に落ちてしまうのだ。
龍麻は少し勢いをつけて、“きょういち”と同じように飛び石目掛けて飛ぼうとした―――――が。
「やめろよ」
「なんで?」
三つ向こうの飛び石に片足で立って、“きょういち”が言う。
それに龍麻がきょとりと首を傾げると、
「おまえ、昨日おちただろ」
「うん」
「マリアちゃんにおこられんの、オレなんだぞ」
“きょういち”はマリア先生の事を「マリア先生」と呼ばない。
どうして呼ばないのかは知らないけれど、それで怒られても、“きょういち”はその呼び方を止めなかった。
昨日も龍麻は、今日と同じように“きょういち”の後ろをついて歩いて、この池にも来た。
“きょういち”はぴょんぴょんと飛び石の上を渡って、龍麻もそれについて行きたかったのだ。
それで少し頑張って、ジャンプしてみた。
してみたら、見事に池の中に落ちた。
小さな子供にしてみれば深い池だ。
泳げない龍麻はパニックになって、水の中でバシャバシャ暴れた。
それを引っ張って岸に上げてくれたのは、他にいる筈がない、“きょういち”だったのだ。
その出来事を思い出して、龍麻はふにゃーっと笑う。
「……なんでわらってんだよ」
真ん中にある大きな石に乗って、“きょういち”は怖い顔をして言った。
「だって助けてくれたもん」
マリア先生か犬神先生か、呼んでくれたって良かった筈だ。
でも“きょういち”は、龍麻が落ちて直ぐに、迷わずに助けに来てくれた。
それが嬉しかったと言ったら、“きょういち”の顔が赤くなる。
「やさしいね」
どんどん赤くなる。
龍麻はせぇの、と勢いをつけて、今度こそジャンプした。
昨日より強く飛んだら、今日はちゃんと飛び石の上に届いた。
もう一回飛んで、それから飛んで、また飛んで。
時々落ちそうになったけれど、なんとか真ん中の大きな石に辿り着く。
其処には真っ赤になった子がいて。
龍麻は、上着のポケットに入れていた苺チョコを取り出した。
「あげる。ともだちのしるし」
苺は、龍麻の大好きな食べ物だ。
甘い苺のチョコレートも、勿論大好き。
これを分けっこするのは、龍麻にとって仲良しの証みたいなものだった。
でも“きょういち”はそっぽを向いて、次の飛び石に移ってしまった。
「まって」
受け取って貰えなかった苺チョコをポケットに戻して、龍麻は“きょういち”を追った。
ひょいひょい、“きょういち”はウサギみたいに飛んで渡る。
龍麻は一回一回立ち止まって、せぇの、と勢いをつけて飛んだ。
“きょういち”がちゃんとした足場に辿り着いた時、龍麻はまだその半分も行っていなかった。
そのまま“きょういち”は立ち止まっていて、少しだけ振り返って此方を見ている。
小さな足場で龍麻がぐらりと揺れると、あ、と小さな声が“きょういち”から漏れた。
それでもどうにか、龍麻も無事に地面に辿り着く。
と、“きょういち”はくるっと背中を向けて、歩き出した。
待っていてくれた。
落ちたら助けようと思っていたんだと思う。
やっぱり優しいなぁ、と背中を追い駆けながら思う。
「ついてくんな」
「うん」
「じゃあついてくんな」
「うん」
「ついてくんなってば」
同じ言葉のやり取りばかりが繰り返される。
“きょういち”が睨んだ。
その時の目は、今でもちょっと怖い。
でも、最初にそれを見た時程じゃない。
だって本当は優しい子だって判ったし、単に何も言わないだけなんだ。
怒ったふりで大きな声を出したり、物を投げたりするけど、それで龍麻は怪我をした事がない。
いつもちゃんと手加減されていた。
“きょういち”が向かう先には、大きな木がある。
それを見て、龍麻は少しだけ眉毛を八の字にした。
木の上は“きょういち”のお気に入りの場所だった。
子供でも乗れる枝でも随分高い場所にあるのだけれど、“きょういち”は其処まで簡単に登れる。
反対に、龍麻は木登りが出来ない。
でこぼこでくねくね曲がった低い松の木のようなものならともかく、此処にある木は真っ直ぐ上に伸びている。
表面もそれほどでこぼこしていなくて、何処を持って何処に足をかければいいのか判らない。
足を地面から離した途端に、ズリズリ下に落ちてしまう。
“きょういち”はそれを判っているようで、龍麻が追い駆けて来れないのを判っていて、此処に登る。
龍麻が一所懸命登ろうとしても辿り着けないその上で、“きょういち”はじっと、龍麻が諦めるのを待つのだ。
最も、龍麻が諦めることはなくて、マリア先生が呼びに来ないと二人とも其処から動かないのだが。
「木のぼりするの?」
聞かれた事に答えずに、“きょういち”は木に足を引っ掛けた。
そのまま、スイスイ登っていく。
「まって」
龍麻も登ろうと、木に片足を引っ掛ける。
“きょういち”がしていたように、幹に手をついてもう片方の足を地面から離す。
………ずりり、落ちた。
上を見ると、“きょういち”はもういつもの高さまで登っていた。
「まって、」
手を服の裾でゴシゴシ擦って、もう一回。
………ずりり、また落ちた。
何度も何度も、同じことの繰り返し。
何回やっても登れない。
時々、落ちずにちょっとだけ上まで登れることがある。
高さは、自分の身長の頭一つ上、程度のものだけれど。
そのまま登れればいいのに、やっぱりずり落ちてしまう。
「……むぅ」
木にしがみついた姿勢のまま、龍麻は上を見上げた。
辿り着きたい場所は、ずっと遠い。
あそこまで行きたいのに。
ずり。
ずり。
ずり。
段々泣きそうになってくる。
見上げると、“きょういち”が顔を出していた。
龍麻の方を見下ろしていて、多分、早く龍麻がいなくならないかと見ているのだろう。
龍麻は泣きそうになるのを我慢して、もう一回、木に登る。
「うー……」
どうしてこんな高い木に登れるんだろう。
どうやったら登れるんだろう。
仲良くなったら、教えてくれるだろうか。
地面から足を離す。
木の幹にしっかりしがみついた。
此処からどうすればいいんだろう。
ちょっとだけ右手を上に持っていって、左手もちょっとだけ上に。
足は―――――どうしたらいいんだろう。
考えている間に手が痛くなって、ずるずる下に落ちていった。
こてん、と木に掴まった姿勢のまま、龍麻のお尻が地面についた。
「……おまえさ、」
頭の上から声が降って来た。
見上げると、ちっとも揺れないで、枝の上に立っていた。
怒った声以外で“きょういち”から声をかけられたのは、多分、これが初めてだった。
「なに?」
「……なんで、」
高いところと低いところで距離があるのに、“きょういち”の声はストンと龍麻の下まで降りてきた。
龍麻は木に虫みたいに捕まったまま、上にいる“きょういち”を見上げる。
首が少し痛くなったけれど、お構いなしだ。
見下ろしてくる“きょういち”の目は、いつもと違って怖くない。
「なんでいつもついてくんだよ」
「?」
「オレといたって、おもしろかねェだろ」
「なんで?」
質問を質問で返して、龍麻は首を傾げる。
面白くないと、一緒にいたらいけないんだろうか。
“きょういち”はそう思っているのだろうか。
龍麻は、面白いと思うから一緒にいたいと思うんじゃない。
一緒にいると楽しいとか、嬉しいとか思うから、一緒にいたい。
「いっしょにいたいもん」
「………なんで」
「だってぼく、キミとなかよくしたいよ」
木から手を離して、龍麻は立ち上がって“きょういち”を見上げて言う。
真っ直ぐ落ちてくる視線を受け止めて、真っ直ぐ見詰め返して。
「ヘンだろ。おまえ」
「ヘンじゃないよ」
「ヘンだろ」
ずばっと言った“きょういち”に、龍麻はむぅと頬を膨らませる。
「ヘンじゃないよ。ふつうだもん」
変わったものが好きなのね、とか、そういう事はよく言われる。
自分でもそれは少し判っている。
でも、それだけで、別にそんなに変じゃないと思う―――――多分。
龍麻にしてみれば、“きょういち”の方が変だ。
わざと怒ってるふりをして大きい声を出して怖がらせようとしたり、皆と一緒に遊ばないで一人でいたり。
一人で平気なふりをして、自分から皆と遠ざかる。
……本当は寂しいクセに。
「ぼく、キミといっしょにいたいよ」
「……オレは、」
「キミのこと好きだから、いっしょにいたいよ」
“きょういち”が何を言おうとしたのか、龍麻は知らない。
でも、何を言われたってきっと龍麻は気にしなかった。
高い高い場所からこっちを見下ろす“きょういち”に、龍麻は手を伸ばした。
「だから、ぼくとともだちになってください」
大好きだから、もっと一緒にいたいから。
一緒に遊んで、一緒に怒られたりもして、一緒に泣いたりもして、一緒に沢山のものを見たい。
大好きだから、自分の事を知って欲しいし、“きょういち”の事も教えて欲しい。
何が好きで何が嫌いなのか、なんでもいい、教えて欲しい。
木登りの仕方も、飛び石の渡り方も、全部全部教えて欲しい。
この伸ばした手で、君と手を繋いで歩きたい。
見下ろす目が、泣き出しそうに揺れた。
でもその揺れ方は、いつもの寂しい目とは違っていた。
それをじっと見上げながら、龍麻は空へ、“きょういち”へ伸ばした手を下ろさない。
「ぼく、ひゆぅたつま」
「………」
「おなまえ、おしえてください」
龍麻は、あの子の名前を知っている。
でも、あの子から聞いた訳じゃない。
龍麻が初めて真神保育園に入った日、他の子供達はそれぞれ挨拶してくれた。
名前を教えてくれて、好きなものとか、見ているテレビとか、色々教えてくれた。
でも、“きょういち”だけは皆の話を聞いただけで、ちゃんと挨拶していない。
好きな食べ物は?
好きな動物は?
好きなテレビは?
何して遊ぶのが好き?
あの時描いてたパンダ、やっぱり好きなの?
聞きたいことは一杯ある。
だからその為にも、先ずは仲良くなる第一歩。
質問の前に、きちんとはじめましてのご挨拶。
“きょういち”が枝の上でしゃがんだ。
それを見て、やっぱりダメかなぁ、と龍麻は思った。
思った後で、わぁと目を見開く。
枝の上から、“きょういち”が飛んだ。
何もない宙に。
小さな体はそのまま落ちてきて、龍麻は思わず顔を手で覆った。
どうなるのか怖くて、見ていられなくて。
けれども、聞こえた音は転ぶとか打つとか言うものじゃなくて、とんっと軽いもので。
「きょういち」
聞こえた声に、そっと顔から手を離す。
すると、直ぐ目の前に、いつも背中を追い駆けていた男の子が、こっちを向いて立っていた。
「ほうらいじきょういち」
―――――それは、男の子の名前。
“京一”の名前。
初めて真正面から見た顔は、やっぱりまだ、少しだけ眉毛を吊り上げていたりしたけれど。
頬がちょっと赤くなっていて、照れているのが龍麻にも判る。
そんな京一が、龍麻に向かって手を伸ばした。
さっき、木の下から空に、京一に向かって手を伸ばしていた龍麻のように。
だから龍麻は嬉しくなって、笑ってその手を握った。
「…………ヘンなやつ」
ぽつりと呟いた京一の声は、龍麻に聞こえていたけれど、龍麻は気にしなかった。
呟いた頬がやっぱり赤くて、京一は龍麻から眼を逸らしている。
でも怒っているような雰囲気はちっともなくて、照れ屋さんなんだなぁと思う。
手が離れると、京一は木の幹に手を当てて、
「おまえ、こんなののぼれねェの?」
「うん」
「じゃあおしえてやる」
「ほんと?」
思わず龍麻の声が弾む。
京一はそれに頷いた。
取り敢えず登ってみろよ、と京一が言うから、さっきと同じように登り始める。
それで早速、そうじゃねえよと怒られた。
あの大きな声じゃなくて、優しい声で。
上まで登って行けたら、
今度こそ、二人で苺のチョコをわけっこしよう。
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やっぱり二人は仲良くしてるのがいいですね(一、二話書いといて何抜かす)。
木の高さは、そんなに言うほどないですよ。高校生なら普通にひょいひょいっと登れるくらいです。
でも4才の子供にはやっぱり大きい木なのです。
龍麻が“真神保育園”に通うようになって、一週間。
最初はドキドキしていた龍麻も、もう随分慣れた。
その最初の日も、家に帰って両親に一日の事を楽しく話すことが出来た。
良い感触を嬉しそうに報告してくれた息子に、両親も一安心だ。
よくお喋りをするのが、葵、小蒔、醍醐の三人だ。
この三人は同じ頃に真神保育園に入って、それからずっと一緒に遊んでいるらしい。
葵の隣には如月がいる事が多いのだけど、この子は滅多に喋らない。
でも龍麻がテレビの話をすると、ちゃんと相槌を打って聞いてくれる。
段々向こうの方からも、前の日に見たテレビのことで話しかけてくれるようになった。
他にも積極的に話しかけてくれる子がいる。
雨紋と、双子姉妹の姉の雪乃だ。
時々龍麻を取り合ってケンカを始めてしまったりする。
それから、一番小さなマリィ。
マリィは龍麻のことを随分気に入ってくれたようで、部屋の中で過ごしていると、いつも後ろをついて来る。
頭を撫でてあげると、とても嬉しそうな顔をして、すりすりと龍麻に頬を寄せてくるのである。
雪乃の妹の雛乃は、いつもお絵かきをしていて、龍麻も一緒に描くようになった。
忍者の絵を描いたら、雛乃はそれが忍者と判ったようで、龍麻はそれが嬉しかった。
朝の挨拶ぐらいしか会話をしないのが、亮一と壬生だ。
二人は元々、あんまり喋る子ではないので、龍麻はそれで良いと思っている。
読んでいる本のことを聞いたら、それはちゃんと教えてくれるのだし。
マリア先生は怒る時は怖いけれど、普段はとても優しい。
時々英語で話し掛けてくることがあって、ハローとかグッモーニンとか、龍麻は真似だけれど同じ言葉で返すようになった。
そうするとマリア先生は嬉しそうに笑って、龍麻の頭を撫でてくれる。
無口な犬神先生は、何を考えているのか判らない。
でも子供達の事はよく見てくれていて、お腹が痛いとか、座りっぱなしでお尻が痛いとか、すぐに気付いてくれる。
おしっこを我慢していても判るのだ、だからおもらしする子は殆どいない。
ちなみに、子供達の前にいない時は、大抵庭にあるウサギ小屋の前にいる。
眼鏡をかけたお姉さんは、遠野杏子と言う名前で、子供達は皆アン子先生と呼んでいた。
どうしてアン子なのと龍麻が聞いたら、子供の頃からそういうあだ名だったらしい。
去年に入ったばかりの新人の彼女は、時々おっちょこちょいをするが、それがまた子供達に親しみ易さを与えていた。
それから、怪我をすると看てくれるのが、岩山たか子先生。
その外見に龍麻はびっくりしたけれど、怪我を治してくれる手付きはとても優しい。
だから子供達は遠慮なく外で遊べるのだ。
岩山先生がいない日には、高見沢舞子と言う女の人が看てくれる。
岩山先生とは正反対のおっとりした外見で、舞子先生と呼ばれている。
此方もとても優しい手付きで怪我を治してくれるから、皆とても懐いていた。
皆、龍麻に優しくしてくれる。
龍麻だけじゃない、皆が皆に優しい。
ケンカが起きる事もあるけれど、それは「主張が出来るからだ」と犬神先生が言っていた。
言いたいことも言えなかったらケンカは起きない、と。
龍麻にはなんだか難しくてよく判らなかったけれど、良い事なんだと言う事は判った。
前の保育園ではケンカは駄目だと言われてたから、ちょっと不思議でもあったけれど。
でも、龍麻には一つだけ、まだ気になることがある。
龍麻は、あの寂しそうな目が笑ったところを、まだ一度も見ていなかった。
真神保育園の近くに、児童公園がある。
晴れていれば三日に一回の頻度で、保育園の子供達は其処で遊ぶのが習慣だった。
子供達を外に連れて行く時、保育園には犬神先生が一人で残る。
寂しくないのと龍麻が聞いたら、いつものことだと先生はなんでもない事のように言っていた。
自分だったら寂しいな、と龍麻は思う。
でも犬神先生は大人だから、平気なのだろう。
保育園から公園までは、いつも皆で手を繋いでいく。
一番小さなマリィは舞子先生が抱っこしていた。
―――――それから、一番後ろで、皆と繋がずアン子先生とだけ手を繋いでいる“きょういち”。
龍麻が保育園に入園してから一週間、既に二回児童公園で遊ぶ機会があった。
その際、“きょういち”はいつも一番後ろを歩いていて、手を繋ぐのはアン子先生とだけだった。
一度手を繋ごうと思って手を出したら、“きょういち”は怒った顔をした。
そんな“きょういち”をアン子先生が怒ったけれど、龍麻はしょうがないと思う。
嫌がっていることをしては駄目だと。
公園に着くと、他の保育園の子供達も来ていたりして、皆めいめい遊び出す。
雪乃と雛乃は、他の保育園の子にも友達が沢山いるようだった。
壬生や亮一は外に出てもじっとしている事が多いけれど、ベンチに座ってのんびり本を読んでいる。
だから、この公園へのお散歩が嫌いではないことが判った。
龍麻も楽しい。
他の保育園の子たちとはあまり喋れないけれど、葵達と追いかけっこするのは楽しかった。
そして今日はかくれんぼだ。
小蒔が鬼の番になって、龍麻は隠れられる場所を探して、公園を見回した。
「あ」
見付けたのは、隠れられる場所ではなくて――――こんな時でも一人でいる“きょういち”。
保育園でも公園でも、その間の道でも、“きょういち”は一人で過ごしている。
他の子供達と遊ぶこともしないで、皆の輪から外れた所にいた。
―――――それも、多分、わざと。
皆に仲間外れにされているとかじゃなくて、“きょういち”は自分で一人でいるようだった。
前の保育園での自分と少し似ていたから、龍麻には判る。
寂しくないんだろうか。
犬神先生が一人で保育園に残るのが平気なのは、犬神先生が大人だからだ。
だって自分だったら絶対に寂しいと思う。
“きょういち”は、寂しくないんだろうか。
時々マリア先生やアン子先生が声をかけているけど、先生達があんまり傍にいると怒り出すから、やっぱり一人で過ごしている。
葵が時々話しかけても、そっぽを向くばっかりで、皆の所に行こうとしない。
寂しくないんだろうか。
……寂しくない訳がない。
だって龍麻は、“きょういち”がいつも寂しそうにしているのを知っている。
龍麻は、とてとて、“きょういち”の下へ走った。
近付いて行くと“きょういち”も気付いたようで、地面にお絵かきしていた手を止めて、顔を上げる。
龍麻を見つけると、眉毛の端っこがぎゅうと近付いた。
「ね、あそぼう」
「……」
傍にしゃがむと、“きょういち”はまた下を向いて絵を描き始めた。
“きょういち”が描いているのは、いつもパンダだ。
結構上手だった。
「あそぼうよ。かくれんぼ」
「やだ」
きっぱり言って、“きょういち”はがりがり地面にお絵かきを続ける。
こんなやり取りは、龍麻が“きょういち”に話しかけるようになってしょっちゅうだ。
と言うより、ほぼこんな会話しか“きょういち”相手には成立しない。
龍麻はむぅと唇を尖らせて、地面に増えて行くパンダを見る。
「ぱんだ、すき?」
ぴたり。
龍麻の言葉に、“きょういち”の手が止まった。
“きょういち”が立ち上がって、パンダの顔を足でぐしゃぐしゃにしてしまう。
あ、と龍麻が呟いた時にはもう遅くて、パンダは一匹もいなくなっていた。
勿体無い。
そう思っていたら、こつんと何かが龍麻の頭に当たった。
ころりと落ちたものを見たら、“きょういち”がお絵かきに使っていた木の枝だ。
「いたい」
「しらねェ」
ヒリヒリ、小さな痛みを訴える頭を抑えていったら、“きょういち”はぷいっとそっぽを向いた。
そのまますたすた歩き出した“きょういち”を、龍麻は直ぐに追い駆けた。
「どこいくの」
「かんけーねェだろ」
「あそぼ」
「やだ」
「かくれんぼ、たのしいよ」
「あっそ」
公園の端の芝生をすたすた歩いて行く“きょういち”。
早足のそれに置いていかれないように、龍麻は一所懸命追い駆ける。
「ついてくんなよ」
「あそぼ」
「やだっつってんだろ」
“きょういち”がどんどん怖い顔になって行く。
少し怖かったけれど、龍麻は頑張って“きょういち”を追い駆けた。
手を繋ぐのは嫌かも知れないけれど、遊ぶのが嫌だなんて思っていないと、龍麻は思った。
だって誰かと一緒にいるのも嫌なら、一人でいる時にあんな寂しい顔はしないはずだ。
一人で過ごす方が楽しいと言う子もいる。
壬生なんかはそうだろう、今も彼は一人でベンチに座って本を読んでいる。
その横顔は、本に夢中のようで、楽しそうだった。
でも“きょういち”はそうじゃなくて、絵を描いている時も寂しそうな顔をする。
皆に声をかけられても突っぱねるのに、一人でいると、泣き出しそうな顔をするのだ。
だから龍麻は、彼を放っておけなかった。
でも、大きな声で怒られると、やっぱり体はびくっとする。
「しつけェな! ついてくんなよ、おまえッ!!」
その声は広い公園に響いて、子供たちが皆振り返る。
顔を歪めた“きょういち”と、その前で立ち尽くす龍麻と。
それを見て最初に駆け寄ってきたのは、マリア先生だった。
「どうしたの、二人とも。大きな声出したら、皆がびっくりするでしょう」
二人の間にしゃがんで、顔を顰めた“きょういち”を宥める。
が、“きょういち”はそんなマリア先生も睨んだだけで、直ぐに背中を向けて走り出した。
龍麻は、それを追い駆けられない。
マリア先生が龍麻を抱き上げる。
高くなった視界の隅で、アン子先生が“きょういち”を追い駆けていった。
静まり返った公園の空気を振り払うように、舞子先生が真神保育園の子供達に声をかける。
鬼ごっこしましょうと言う先生に、何人かはさっきの出来事を気にしていたけれど、はぁい、と声が上がった。
マリア先生に抱き締められて、龍麻は先生の肩に顔を埋めた。
ぽんぽんと優しく背中を叩かれる。
仲良くなりたい。
お話したい。
ただそれだけなのに。
あの子は、どうして笑ってくれないんだろう。
どうしていつも、寂しい顔をしてるんだろう。
怒ったふりして、大きな声で皆を怖がらせようとするんだろう。
龍麻は見た。
皆が庭で遊んでいる時に、一人で地面に座って絵を描いている“きょういち”を。
時々こっちを見て、寂しそうな顔でまた俯いてしまう横顔を。
だからきっと、あの子も皆と遊びたいんだと思う。
でもどうしてか、いつもそれを我慢して、一人で過ごしている。
………もっと笑った顔が見たいのに。
いつも一人で、寂しそうに怒ったふりばっかりを続けている。
龍麻をベンチに座らせて、マリア先生はしばらく隣にいてくれた。
その間に、葵や小蒔、醍醐が傍に来て、頭を撫でたりしてくれた。
小蒔はまた“きょういち”に怒っていたけれど、龍麻は僕の所為だからと言った。
“きょういち”は悪くない。
龍麻のその思いは、揺るがなかった。
しばらくすると雪乃がマリア先生を遊びに誘った。
その時には龍麻は随分落ち着いていたから、マリア先生も「大丈夫ね?」と一つ言って、雪乃達と遊びに加わった。
―――――それと入れ違いで龍麻の下に来たのは、雨紋と亮一だった。
「おまえ、きょーいちとあそびてェの?」
背中にくっついた亮一と手を繋いで、雨紋が言った。
龍麻は頷く。
「なんで?」
「さみしそう」
「そんだけ?」
「なかよくなりたい」
「………」
龍麻の答えに、雨紋は少し驚いたようだった。
ぱちりと一つ瞬きする。
何か変な事を言ったかな―――と龍麻は首を傾げる。
少しの間沈黙があって、その後、雨紋は笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあいいや。がんばれよ」
そう言うと、雨紋は亮一の手を引いて、遊びの輪の中へと歩いていった。
そう言えば。
時々だけれど、雨紋は“きょういち”と話をしている事がある。
それから亮一も加えて、三人でなら遊んでいる事もあった。
雨紋は、“きょういち”が一人で寂しそうな顔のままで過ごしている理由を、知っているのだろうか。
だから“きょういち”も、時々ああやって一緒に遊んだりするのだろうか。
でも毎日じゃない、それもちゃんと理由があるのだろうか。
―――――龍麻は、“きょういち”のことを、あまりよく知らない。
もっと知れたら、仲良くなれるだろうか。
一杯知れたら、“きょういち”は笑ってくれるだろうか。
龍麻は、ベンチを降りた。
“きょういち”はどっちに行っただろう、辺りをきょろきょろ見回してみる。
取り敢えず、目に届く場所にはいないようで、
「うわぁあぁあああああん……!」
子供の大きな泣き声がした。
遊びに夢中の子供達は聞こえていなかったけれど、大人達は慌しくなった。
何処の子が泣いているのか探している。
龍麻も探した。
“きょういち”かも、と思ったのだ。
泣き声がする方へ行ってみると、鉄棒の傍で泣いている子供が二人。
一人はしゃがみこんで俯いていて、もう一人は地面に転んだまま大きな声で泣いていた。
その二人の間に、“きょういち”が立っている。
「京一、あんた何したの!」
アン子先生が怒った。
怒られた“きょういち”は、黙ったままだ。
泣いている子にもそれぞれ大人が駆け寄る。
俯いていた子は腕が蒼くなっていたり、土がついていたり。
転んでいた子は足を擦り剥いて、血が出ていた。
“きょういち”は転んでいた子の方を、ずっと睨んでいる。
「さがやくん!」
龍麻を追い抜いて、葵が俯いていた子の方に駆け寄った。
俯いていた子は男の子で、他の保育園の子だった。
男の子は葵の顔を見て少し安心したようで、泣き顔をごしごし拭っている。
「なんでアンタは目を離したらすぐケンカしちゃうのよ! ほら、ちゃんと謝って」
「…………」
ぷいっと“きょういち”はそっぽを向く。
岩山先生と舞子先生が走って来た。
怪我をしている子供達を看る。
転んでいた子は、まだ泣いていた。
“きょういち”に怒るアン子先生の方が、なんだか泣き出しそうに見えるのはどうしてだろう。
怒っている筈なのに、龍麻には泣いているようにも見えたのだ。
「京一!」
鋭い声で怒るアン子先生を、“きょういち”は見なかった。
ずっと違う方向を見ていて、わざと目を合わせない。
其処に割り込んできたのは、葵だった。
「ちがうの、アン子せんせい、ちがうの!」
「美里ちゃん?」
「きょういちくん、さがやくんを助けてくれたの」
一所懸命に手を引いて、アン子先生を見上げながら葵は言う。
“きょういち”はその間も、ずっと違う方向を見ている。
龍麻は“きょういち”の顔の前に回ってみた。
俯いていたから、下から覗き込んで見ると、赤くなった頬が見えた。
それを見つけた龍麻の口元が緩む。
覗き込んでいる龍麻に気付いて、“きょういち”は顔を顰めて、また違う方向を向いた。
また前に回ろうとしたら、ぱっと背中を向けて走って行ってしまった。
「あ、コラ京一!」
「アン子せんせい、きょういちくん、おこらないであげて」
「うん、判った。判ったけどね、美里ちゃん、」
泣かせた事まで何も言わないままは駄目なのよ、と。
そう言うアン子先生に、葵は泣きそうな顔で怒らないでと繰り返す。
興奮気味の葵を抱いて、アン子先生は小さな背中をぽんぽんと叩いた。
その傍らから、転んでいた子の保護者がやって来て、すみませんと頭を下げる。
アン子先生も同じように頭を下げていた。
彼女らの様子をしばらく見詰めた後で、龍麻も彼女達に背を向ける。
人目につかない、茂みの中。
がさがさと分け入って、龍麻はその向こうに足を踏み入れた。
沢山の木々の葉っぱで空は見えなくて、でもその隙間からきらきらした光が零れてくる。
茂みの中に入っただけなのに、なんだか随分違う世界に迷い込んだみたいだった。
皆の遊ぶ声が少し遠くなったから、余計にそんな気がしてくる。
時々茂みの緑が動いて、ひょっこり猫が顔を出す。
その猫は首輪の跡があって、龍麻が知っている猫より随分細い。
マリィがいつも抱っこしているメフィストだって、もっともっと丸いのに。
猫は龍麻を見つけると、ミャアと一回鳴いた。
それから警戒する様子もなく、とことこ龍麻の目の前をのんびり歩いて行く。
それを目線で追い駆けて。
その不思議な空間の中に、“きょういち”はいた。
「………おめェ、またかよ」
“きょういち”が呟いたのは、龍麻に対してではなく。
足元に擦り寄ってきた、痩せっぽちの猫に対してだった。
猫はミャアミャア鳴いて、“きょういち”の足にすりすり擦り寄っている。
“きょういち”はしばらくそれを見下ろして、ズボンのポケットから何かを取り出した。
握っていた手のひらを開くと、其処にあったのは、細かく千切ったパンくず。
「……おめェ、またくってねェんだろ。じぶんでエサとれよ」
地面に置いたパンくずを食べる猫を見下ろして、“きょういち”は呟いた。
「じぶんでとれねーと、しんじまうぞ」
「だれも助けてくれねェんだぞ」
「……じぶんでやんなきゃ、だれも……」
消えていきそうな声は、多分、此処に龍麻がいることを知らないからだ。
だから、泣き出す一歩手前で踏み止まった声が零れて落ちていく。
それを受け止めることが赦されているのは、痩せっぽちの猫だけ。
何を言ってくる訳でもないし、誰かに言い触らすでもない。
だから“きょういち”も、独り言のように零して。
――――――龍麻は、茂みを出た。
それだけで、子供たちの遊ぶ声がクリアになって、空から降ってくる太陽はきらきら全てを照らすようになる。
壁に阻まれている訳でもないのに、どうしてこんなに違うのか、少しだけ不思議。
やっぱり。
やっぱり、あの子は寂しいんだ。
そして――――やっぱりあの子は、優しいんだ。
仲良くなりたい。
ずっとそう思っていた。
もっと仲良くなりたい。
今、そう思う。
だって、笑わせてあげたいと思うから。
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雨紋が意外と出張る(笑)。
よく考えたら、如月より出番多いですよね、うちのサイトの彼は。
龍麻はひたすら京一好き好きvv
それはまるで、空から大地へ落ちてきた太陽に似て。
【Degeneration Sun】
最初の出会いは、いつだったか。
彼がまだ高校二年生の時分だったか。
噂を聞いたのはそれよりもずっと前だ。
多分、話自体は随分古くからあったもので、一番古いもので言えば彼がまだ子供と呼んで良い頃から存在していた。
流石にその頃の事はリアルタイムでは知らないが、とんでもなく強い少年がいる事は、その筋の連中の間では有名だったのだ。
その頃、吾妻橋もまだ若かった――――別に今老け込んでいる訳でもないが。
己の実力の天辺を知らず、正に井の中の蛙だったのである。
自らよりも強い男など幾らでもいる事は判っていたが、まさか未だ高校生の子供に負ける事はないと思っていた。
噂なんてものは単なる“噂”で、どんなものにだって尾びれ背びれがついて回るものである。
だから噂の“歌舞伎町の用心棒”もそんなものなのだと。
だが、逢って一番最初に、吾妻橋は息を呑んだ。
都会のビルが乱立するコンクリートジャングル。
汚れた猫がゴミを漁る、埃まみれの狭い路地。
冷たい光が、其処で刃を閃かせていた。
負けた。
呆気なく。
その時、吾妻橋は感じ取った。
彼が全く本気ではない事、閃かせた刃を振り上げてすらいない事。
いや、それ所か、彼は刃を鞘から抜く事さえしなかったのである。
つまりそれ程までに、彼の実力は吾妻橋と天と地ほどの違いがあったと言う事。
純粋に研ぎ澄まされ、熟練された者が持つ日本刀の切れ味は、ボロボロの屑刀など呆気なく両断する程のものなのだと。
悔しかった、血反吐を吐くかと思うほどに悔しかった。
吾妻橋とてプライドがある、それまでに築いてきた力と肩書きがある。
“墨田の四天王”の名は決して伊達ではないのだと。
だから何度も挑んで、何度も負けた。
毎回毎回、呆気なく。
彼はいつも刀を鞘に納めたままで、まるで子供を相手にするように、ひらりひらりと吾妻橋の攻撃を避ける。
人数に物を言わせて奇襲をかけても、まるで背中に目があるように、彼は簡単に避けた上で返り打つ。
どんな大人数を相手にしても怯まない彼は、泰然と冷たいコンクリートの上に存在し、向って来る敵意を片端から払い除けて行った。
その様を目の当たりにしながら、自分の強さは一体なんだったのかと自問自答するようになった。
―――――そうして初めて、ただ自己を振りかざす為だけに力を求めていた事を知った。
冷たい光をその目に宿した少年。
誰に媚びることもなく、薄汚れた路地裏で、それでも消えない鋭い光。
一体何度、その光に貫かれただろう。
彼の手の刃に触れられることさえない代わりに、その存在に何度灼かれた事だろう。
光の刺さないコンクリートジャングルの中。
彼はまるで、空から追い出された太陽の欠片のように眩しかった。
「暇だな」
ぽつりと呟かれた声に顔を上げれば、敬愛する兄貴分(と吾妻橋が勝手に奉っているのだが)がいて。
いつもの古ぼけた廃ビルの中、いつもの一室、いつもと代わり映えのないメンバーの中。
兄貴分――――蓬莱寺京一は、勝手に持ち込んだ廃棄物であった机の上にどっかりと足を乗せ、後頭部で手を組んで天井を仰いでいる。
部屋の中で意識を持っているのは京一と吾妻橋だけで、他の三人は床なりガラクタの上なり、寝転がって鼾をかいて寝ている。
半分日課と化していた丁半遊びもとうに飽きて、二人会話もなくダラダラと過ごしていた所だった。
そんな訳で、先の京一の言葉も無理はないのだが、だからと言って吾妻橋にはどうにも出来ない。
「へェ……」
「ンだ、そのリアクション」
「…そう言われましても」
つまらんと言わんばかりに京一の眉根がよって、反射的にすんませんと謝った。
面白いことをしろと言われても、生憎、吾妻橋には一発芸などのネタはない。
他のメンバーが起きていれば何某かあったかも知れないが、爆睡中の三名は起きる様子は皆無。
だから、どうにも出来ない。
先の言葉どおり、退屈そうに椅子を傾けてゆらゆら揺らす京一。
傾いたままで器用に足を組み替えたりするが、それで現状の何が変わる訳でもなく。
「なんかねーのかよ、暇潰せるようなモン」
「……勝負しやすか」
「飽きた。」
籠とサイコロを見せて誘ってみるが、ばっさりと切られた。
これが駄目なら此処で暇を潰せるようなものは何もない。
今度トランプでも探して来た方が良いかも知れない、と思った。
暢気にぐーすか寝ている仲間達が恨めしい。
しかし、殴ろうが蹴ろうが顔に落書きしようが起きないのは前例有なので、彼らを頼る事は出来ない。
吾妻橋一人でこの状況を打破しなければならないのである。
だが一人で出来ることと言ったら限界が簡単に見えてくるものだ。
…と言うか、吾妻橋の頭で考えられる事で言ったら、全く浮かばなかったりする。
やべェ。
その一言が頭を占める。
そうしている間にも、暇を持て余した京一の表情は渋いものになって行く。
「あー…………アニキ」
「あ?」
返ってきた声は低いトーン。
機嫌が悪い時の声だ。
この時、京一は完全に理不尽に吾妻橋へと苛立ちをぶつけていた。
他にどうしようもない現状による怒りを発散させる相手がいなかったのである。
激しい京一シンパの吾妻橋は、そんな不条理さなど気にもせず、ただ只管に京一の暇を潰せるような物を考えていた。
結果。
「ちょいと、そのー……ドライブにでも行きやせん?」
「………………」
すぅと京一の双眸が窄められる。
なんでお前なんかと、明らかにそんな瞳をして。
「いや、あの、此処にいたって何にもねェ訳ですし。此処でボケーッとしてるよりは」
「ボケっとしてんのはお前ェだけだ」
「………へい」
京一の木刀がぐりぐりと吾妻橋の頬を押す。
太刀袋に入ったままとは言え、その中身の先端が刀同然に尖りを帯びているのは変わらないわけで、頬骨が若干痛い。
痛いがその文句を言える訳もなく、大人しく肯定の返事をするしか吾妻橋の選択肢はなかった。
数回吾妻橋の頬を押してから、京一は木刀を下ろし。
傾けていた椅子を元に戻して、机の上に乗せていた足も久しぶりに床へと着けられた。
そして立ち上がると、ドアを失った部屋の出入り口へ。
その時になっても動かぬ吾妻橋へと、京一は肩越しに視線を寄越し、
「何してんだ、ボケっとしてんじゃねーよ」
「へ?」
「行くんだろうが、ドライブ。確かに、此処にいるよりゃマシだろうしな」
言われて数秒。
理解に時間を要してから、吾妻橋は慌てて椅子を立った。
そのまま部屋を出て行こうとして、危うくバイクのキーを忘れた事に気付き、戻ってガラクタの上に転がしていたキーを掴む。
部屋を出た時には京一は既に階下への階段を下りていた所で、吾妻橋は駆け足でそれを追い駆けた。
ビルを出て、既に使われていない駐輪場へと向かう。
其処にはポツンと吾妻橋が私用するバイクが置いてあるだけだ。
キーを入れてエンジンをかけ、出発の準備をする間、京一は何をするでもなく傍らに立っている。
ちらりと、エンジンを暖めながら京一を窺い見る。
京一はビルとビルの隙間に覗く、僅かな空を見上げていた。
瞳に映りこんだその色は、時刻に応じて既に夕暮れの緋色に染まっており、雲も橙色に変化していた。
あと数十分もすれば、この緋色は漆の色に変わる事だろう。
吾妻橋には、京一の瞳に移りこんだその緋色がなんだか酷く綺麗で、ぽかんと数秒、それに魅入っていた。
少し引いて、視界をその瞳から彼の横顔へと広げてみれば、何処か憂いを含んだ面立ちが其処にある。
――――――ドクリ、心臓が鐘を打った。
そのまましばし、吾妻橋は時間の経過を忘れていた。
傍らに立つ人の、何処か現実味の欠ける面に意識を吸い込まれたままで。
まるで、空に何かがあるかのように。
其処に何かを求めているかのように。
時折、京一はこんな風に憂いを帯びた顔をする。
出逢った頃に魅せられた冷たい光とは違う。
彼の傍らを取り巻くようになってから見つけた、照れ臭そうに笑う時の、少し幼い光とも違う。
喧嘩の最中に閃く、青い炎のような一瞬の内に燃え上がる光とも違う。
普段は片鱗すら見せない光が、こういう時――――無防備にも見える一瞬に、ちらつく。
それを見つけてしまう度、吾妻橋は呼吸も忘れて魅入ってしまう。
遠い何かに思いを馳せているような、遠い何処かにそのまま消えてしまいそうな。
そんな柔でも儚い人でもない筈なのに、この一瞬だけ、切り取られた絵画のように綺麗で。
カメラのシャッターを切った様に、吾妻橋にはこの風景が、鮮やかに記憶に残るのだ。
まるで、忘れられた記録の断片であるかのように――――――
「――――オイ、暖機もういいんじゃねェか」
聞こえた声に、吾妻橋の意識は現実へと還る。
還って一番最初に見たのは、敬愛するアニキの顔――――それもかなりの至近距離。
「うぉぉおおおうッッッ!!!?」
「うおッ!?」
素っ頓狂な声を上げて飛び退いた吾妻橋に、京一も肩を跳ねさせて数歩後退。
「なんでェ、ビビらすな! 妙な声出しやがって!」
「すいやせん!!」
飛び退いた勢いそのままに、吾妻橋は硬いコンクリートに土下座する。
其処までの謝罪を求めていない京一は、顔を引き攣らせ、地面に額を擦り付ける舎弟を見下ろし、
「……いや、いいけどよ。別にムカついた訳でもねーし」
「すんません…!」
「だからいいっつーの」
ごちん、と吾妻橋の頭に硬いものが落ちてきた。
京一の木刀である。
痛みを訴える後頭部を摩りつつ立ち上がり、バイクに跨る。
後ろに京一が乗り、姿勢を安定させたのを確認して、吾妻橋はエンジンを吹かした。
京一が吾妻橋のバイクに乗るのは、初めての事ではない。
夜通し歌舞伎町をぶらついた翌日、学校に遅刻しそうな彼を乗せて近辺まで走った事もある。
それから京一が親友と憚らない緋勇龍麻が行方不明になった時にも、どういった経緯か吾妻橋はその時聞かなかったが、彼を探す際の足として求められ、吾妻橋は躊躇わずにそれに応じた。
その時ヘルメットと言う安全の為の代物は、一度として被った事がない。
二人乗りでノーヘルと言う、危険である事を、気にするものは此処にはいなかった。
ちなみに警察に追われる時もあるのだが、これは無視するに限る。
薄暗い人通りのない道を通り抜け、大通りへ。
車が行き交う道路の端を、風を受けながら走る。
「で、何処まで行くんでェ?」
「あー……そうっスねェ……」
赤信号で止まった所で問われて、吾妻橋は特に決めていなかった事に気付く。
「東京湾でも行きやすかい?」
「行ってどうすんだ。何もねェだろうが」
「今の時間なら夕陽見れますぜ」
「だからンなもん見てどーすんだよ」
背中で文句を言われても、バイクを運転しているのは吾妻橋だ。
そして京一も何処に行きたい訳でもなかったので、結局は「好きにしろよ」と呟く。
誘う文句に夕陽を選んだが、別段、夕陽が好きな訳ではない。
他に今思い着くものがなかっただけだ。
実際、自分も東京湾も港も見たいと思っていない。
けれど何処かに食べに行くでは金がかかり、懐の淋しい自分達には辛いものがある。
同じ理由でゲーセン等も却下で、後残っているのは、ただただ走って何処かに辿り着くのみ。
―――――とは言え。
緋色に染まった空には、千切れ千切れた雲が点在するのみで、曇天は欠片もない。
綺麗な夕陽が見れるのは、恐らく間違いないだろう。
「夕陽なんて間に合うのか? 沈んじまうんじゃねーの」
「渋滞でなきゃ間に合いますよ、多分…」
「ま、どっちでもいいけどよ」
とす。
背中に重みがあって、一瞬硬直した。
危ない、事故に繋がる所だった。
赤信号に止まって、ミラーの角度を調整する振りをして、背後の存在を見た。
背中を伸ばしているのに疲れたのか、京一は吾妻橋に寄りかかっていた。
振り落とされないように片腕が吾妻橋の腹に回されており、もう片方はいつものように木刀を肩へ。
何度か京一をバイクに乗せたが、未だに吾妻橋は緊張する。
敬愛する人物が直ぐ後ろに、それもゼロ距離にいて、吾妻橋に身を任せているのだから無理もない。
そんな事を京一は知らないけれど。
京一は親友の龍麻に対してはよくスキンシップをしているが、吾妻橋達にそれはない。
京一と“墨田の四天王”の間のスキンシップと行ったら、木刀で小突かれたり蹴飛ばされたり。
とてもじゃないが穏やかな遣り取りは存在せず、少々バイオレンスなのが日常だ。
だから京一が吾妻橋に触れる事は滅多にない。
吾妻橋自身もそんな事はおこがましいと言う意識があり、自身からもあまり触れない。
その所為だろう、吾妻橋は京一に触れられる事に慣れていないのだ。
けれども、バイクに乗っている時はそうも行かない。
落ちない為にはどうしても京一は吾妻橋に掴まらなければならないし、吾妻橋もそれを受け止めなければならない。
そして緊張なんてしていたら事故を起こしてしまうから、意地でも平静を保たねば。
回数をこなして、どうにか掴まれる事には慣れた吾妻橋だが、無防備に身を委ねられるとまだ緊張する。
……別に、それで何が起こる訳でもないのだけれども。
「寒ィな」
「…そっスね」
「後で上着寄越せよ」
「俺が風邪引きますよ!」
「問題ねェだろ。引いとけ」
とんだジャイアニズム。
背中で笑う気配があるので、勿論冗談だろうが。
「お、デケェ船」
見えた港に停泊している船を見て、京一が呟いた。
その前を横切るように、海岸線に沿ってバイクは走り抜けていく。
先の言葉の通り、寒さを感じたのだろう。
京一の吾妻橋に掴まる腕に力が篭り、ひたりと体が密着する。
頼むから動揺するな、俺。
跳ね上がる心臓に対して胸中で叫んでも、鼓動は一向に休まる気配がない。
かと言って、当然、背中の存在に離れてくれなどと言える訳もなく。
ドライブに行く事を提案した時点で、こういう事になるのは判っていた筈だ。
だと言うのに、今になって何を意識しているのか。
「……おい吾妻橋」
「へい」
「お前ェ今、信号赤だったぞ」
「………マジすか」
「いいけど事故ンなよ。殺すからな」
「……へい」
自分の動揺に気を取られている場合ではなかった。
自分が少しでも運転を謝れば、ノーヘルで二人乗りなんてしている自分達の命は無い。
敬愛する京一の命を握っているのは、今現在、吾妻橋なのである。
海岸線を進むと、東京湾が見えた。
その向こうの西方に、ビルの隙間に沈み行く緋色の太陽。
ビルの隙間で光る陽光は、その閃光を十字に切り、穏やかな波に揺れる水面を照らす。
本来なら深いグリーンの色をしているだろう東京湾の水面は、今だけは夕暮れの空を映し出すように紅い。
きらりきらりと水面で煌く陽光の反射が眩しい。
「へェ」
ボォ、と近くの埠頭からだろう、汽笛の大きな音がする。
それに埋もれることなく、不思議と京一の感嘆の呟きは、吾妻橋の耳に届いた。
「悪かねェな」
「そっスね」
コンクリートを打ちっ放しにした、海に面した駐車場を見付けて、吾妻橋は方向を変えた。
今は誰もいない、停まった車もない其処へ滑り込むと、バイクを停める。
先に京一がバイクを降りて、柵も何もない波打ち際に歩み寄る。
「東京湾なんざ汚ェモンだと思ってたけどなァ。こうして見るとそうでもねェな」
確かに、汚染問題がどうのと騒がれている割に、此処から見える景色は綺麗なものだ。
その汚染問題についても、かなり改善が育まれているのだが、京一はそんな事には興味がない。
今は目の前に広がる景色だけが、彼の意識を占めている。
ビルの隙間に沈んでいく太陽と、京一は向き合っていた。
その後ろで佇む吾妻橋に、彼の表情を見ることは出来ない。
けれど、
「―――――そっスね。キレイなモンすよ」
呟いた吾妻橋の言葉の真意を、向けられた少年が知る事はないだろう。
此処から見える景色が、吾妻橋が見る景色が、綺麗だと言う事。
眩しい陽光の中で佇む少年の後姿が、最も美しく映るのだと言う事を。
「…ちょいと前まで、薄汚ェモンばっかだと思ってたのになァ」
「……そっスね」
この海も。
この街も。
ろくでもないものばかりが溢れている。
だけれどその中で、キレイな光が存在しているのは間違いない。
…こうして、束の間綺麗な景色を見る事が出来るように。
目の前の少年が、薄汚れた路地裏で、まるで太陽のように光を失わないように。
普段、汚いものばかりを見るからだろうか。
いやそれよりも、自分自身がこんなに汚いからだろうか。
吾妻橋は、闇の中に置いて光を失わず、凛と立ち尽くす目の前の少年に憧れずにはいられない。
汚泥の中にいながらにして、光の中にも存在することが出来るその強さに。
眩しい光のように行きながら、地の底を這いずる者に不器用ながら手を伸ばす、その優しさに―――――手を伸ばさずにはいられないのだ。
「キレイっスよ」
「何度も言うなよ。有り難味薄れて来るじゃねェか」
「でもまぁ、事実っスから」
「まぁな」
そう言って振り返った京一の向こうで、ビルの隙間の太陽が十字に光る。
光に照らされた少年の面影が、また一枚、切り取られて見るものの記憶に刻まれる。
眩しい太陽にも、水面で反射する光にも、劣らない。
霞むことさえ有り得ない、佇む少年が放つ、強烈な光。
時に冷たく、時に温かく、時に激しく。
幾度と無く変化する光の色は、吾妻橋を囚えて離そうとしない。
他に何にも心移りをさせる事なく、雁字搦めにして。
「オーイ、またボケーっとしてんじゃねーぞ」
「へ? へいッ」
また間近に京一の顔があった。
呆れたように細められた双眸に、吾妻橋の顔がそっくりそのまま映り込んでいる。
本日二度目の奇声が上がりかけたが、どうにか飲み込む。
その代わりに気をつけの姿勢になった吾妻橋に、京一はクスリと笑い、
「だからって別に畏まる必要もねェけどな」
木刀を肩に担ぎ直して、片手をポケットに突っ込んで。
立ち尽くす少年の笑った顔は、その向こうで輝く緋色の太陽よりも眩しくて。
―――――だから、吾妻橋は何処まででもついて行く。
少年が望もうと望むまいと、彼が向かうと言うのなら、同じ場所に向かうと決めた。
その先に待っているのが、例え異形の者共であろうとも。
其処にあるのは、空から堕ちた太陽の欠片。
地面を這い蹲って生きる者達が、
光の中で生きる事の出来ない者達が、
ただ一つ追い駆けることを赦された、小さな太陽の一欠片。
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吾妻橋→京一。
うちの二人はこんな感じ。
当サイトの京一は、鈍い上に変な所で無防備。
吾妻橋の京一シンパは、どうも神がかったフィルターが貼られているようです(笑)。
そして私は何処まで京一に夢見てるんでしょーか(爆)。
桜が咲いて花吹雪く四月。
今日から此処で過ごすのよ、と。
母に連れてこられた場所は、とてもきれいで、温かそうだったのだけれど。
新しい環境に慣れていない龍麻には、まだまだ不安で一杯の場所だった。
でも、手を繋いだ母を見上げれば、あるのは温かくてふわふわした、大好きな笑顔。
母がそんな顔をしている時は、いつだって先にあるのは母みたいに温かくてふわふわしたものだ。
だから大丈夫なんだろうと思う。
思うのだけど、繋いだ手を離すのはやっぱりまだ怖くて、きゅうと繋ぐ手を握る。
母はふわりと笑ってくれて、大丈夫よ、と言ってくれた。
大きな入り口で、二人しばらく立っていると、建物の入り口から人が走ってきた。
きらきらと光る金色の長い髪のその女の人は、門の前まで来ると、からりと門を開けて初めましてと頭を下げた。
「この真神保育園でチーフをしております、マリア・アルカードと申します」
「まぁまぁ、ご丁寧にどうも。緋勇と申します」
ぺこりと母が頭を下げる。
それを見て、龍麻もぴょこっと頭を下げた。
頭を上げると女の人がしゃがんで、龍麻と同じ目線になった。
「初めまして」
「……はじめまして」
小さな声ではあったが、返事が出来た。
女の人がにこりと笑う。
「お名前言えるかな」
「………ひゆぅたつまです」
「何歳ですか?」
「…よっつ」
繋いだ母の手を引っ張って、その影に隠れようとしながら、それでもなんとか答えられた。
Good! よく出来ました。
そう言って、女の人は龍麻の頭を撫でた。
いつも頭を撫でてくれる母とも、父とも違う手だ。
でも優しい手なんだと判る、だって頭を撫でる手はとても温かいんだ。
「私はマリア・アルカード。マリア先生って呼んでね」
「まりあせんせい」
「OK!」
また撫でられた。
手が離れて、撫でられた場所に手を持っていってみる。
なんだか、ほこほこしているような気がした。
今日から宜しくお願いします。
はい、此方こそどうぞ宜しく。
ぺこり、ぺこり、母とマリア先生が頭を下げている。
母がしゃがんで、龍麻と同じ目線になった。
「それじゃあ、お母さんはお仕事に行って来るわね」
「うん」
龍麻は、此処がどういう場所なのか、ちゃんと判っていた。
龍麻の父は陶芸家で、最近注目を浴びるようになり、色々な所から仕事のお願いが来るようになった。
その前から工房に篭ると篭りっきりになる事が多かった父は、益々篭るようになった。
それでもちゃんと、龍麻が晩御飯だよと呼びに行くと、手を止めて家に帰って来る。
だから龍麻は、普段は父の仕事の邪魔にならないよう、日中の工房には近付かないようにしていた。
ようやく芽が出始めた父の陶芸だけでは、一家は食べて行けない。
だから母はパートで朝から夕方まで仕事が入っていて、その間、龍麻は保育園に預けられていた。
昨日の夜にも母から説明をして貰っていたし、此処に引っ越してくる前も同じような場所に通っていた。
龍麻にとっては、保育園という場所は、それほど遠いものではなかった。
でも、新しい場所はやっぱり少し緊張する。
と、思っていたのだけれど。
離れて行く母に手を振って、角に曲がって見えなくなるまで見送って。
手を下ろしたら、マリア先生が隣でしゃがんで、
「じゃあ、行きましょうか。まず皆にご挨拶しましょうね」
「はい」
ドキドキする。
前の保育園では、引っ込み思案な龍麻は、あんまり友達が出来なかった。
段々それが当たり前になって、自分からも皆の輪に入らなくなった。
でも、此処は新しい場所だ。
ドキドキする。
でも、同じくらいわくわくする。
手を引くマリア先生の後をついて、龍麻は新しいドアを潜った。
広い部屋の中は、龍麻と同じくらいの子供で一杯だった。
その人数の十人かけることの二。
二十のまん丸な瞳が、龍麻とマリア先生に真っ直ぐ向かう。
じっと見つめられるのが恥ずかしくて、龍麻はマリア先生の後ろに隠れたくなった。
でも、此処では沢山友達を作りたいと思ったから、頑張って皆の前に立っている。
「今日から皆のお友達になります。はい、お名前は?」
「ひゆぅたつまです」
「Good、よく出来ました。皆、仲良くね」
はーい。
十個の声が広い部屋に反響する。
「それでは、仲良くなる為の第一歩。QuestionTimeー!」
「くぇ……??」
高々と右手に人差し指を掲げて言ったマリア先生に、龍麻はきょとんと首を傾げる。
しかし判らなかったのは龍麻だけだったようで、他の子供達ははいはいと声を出して手を上げる。
マリア先生はくるりと子供達を見回して、一人の子供を指名した。
「それでは美里さん。自分の名前もちゃんと教えてあげてね」
「はい」
呼ばれて立ち上がったのは、長い黒髪で、耳の横の髪に飾りをつけた女の子。
ふんわりとした雰囲気で、きちんと両足を揃えて立っている。
「みさとあおいです。ひゆうくんの、好きなたべものはなんですか?」
「いちご、です」
「あ、ボクもすきー!」
葵の隣にいた、セミロングの髪の女の子が手を上げた。
龍麻は、少しほっとした。
前に、女の子みたいで変、と言われた事がある。
言った子は先生に怒られていたけれど、その後もしょっちゅう龍麻をからかって来た。
その子は悪気はなくて、単純にそう思って、それが口から出てしまっただけだろう。
でも龍麻は少しショックだったから、また言われないかと少し心配していたのだが――――此処では、大丈夫のようだ。
他に聞きたいことはある? とマリア先生が言った。
さっきのセミロングの女の子が手を上げる。
「はい、桜井さん」
「さくらいこまきです! 好きなどうぶつさんはなんですかー?」
元気な声で、小蒔はきらきらした瞳で龍麻を見詰めた。
龍麻は少し考えた。
考えて、最初に浮かんで来たのは、この間父と一緒にテレビで見たもの。
「どうぶつさん…えっと………てんぐさん?」
「てんぐ?」
「てんぐってなにー?」
父が時代物が好きだから、龍麻も一緒に見ている。
この間見た“天狗”と言う生き物が動物かは判らなかったが、人間ではなかった事だけはちゃんと覚えていた。
だから言ったのだが、子供達は皆顔を見合わせて、「てんぐってなに?」と首を傾げている。
間違ったことを言っただろうか。
オロオロして龍麻がマリア先生を見ると、マリア先生は笑っていて、
「変わったものが好きなのね、緋勇君は。うん、教えてくれてありがとうね」
ぽんぽんと頭を撫でられる。
ほっとした。
子供達は“てんぐ”が何かを話し合っていたが、マリア先生が手を叩くとお喋りを止めて前を向く。
「じゃあ、次の質問。はい、手を上げて」
「はーい」
「はい!」
マリアが名前を呼んだのは、前髪で片目を隠した男の子。
今までの子と違って、少し近付きにくい雰囲気だ。
「…きさらぎひすい、です。好きなテレビはなんですか?」
「えっと……えっと…」
龍麻が見るテレビは、時代物が殆ど。
それも父と一緒に見始めたものばかりだ。
龍麻は戦隊ヒーローも見なかったし、アニメも見ていない。
でも時代物のタイトルを言っても、さっき天狗が判らなかったから、皆判らないだろう。
オロオロしていると、マリア先生がしゃがんで龍麻を見つめ、
「隠すことないのよ、緋勇君。皆が判らなかったら、アナタが教えてあげればいいの」
「………」
「なんでもいいのよ。皆に、アナタをちゃんと教えてあげてね」
微笑むマリア先生に、龍麻も頷く。
「えっと……いがにんじゃって言うの、今、見てます」
「あ、きさらぎくんも見てるのよね」
葵が言うと、質問した子―――如月が小さく頷いた。
龍麻は少し驚いたが、嬉しかった。
同じテレビの話が出来る相手は、今までいなかったからだ。
次の質問。
また何人かが手を上げる。
呼ばれた子は、帽子を前後ろ逆に被った、頬に絆創膏を貼った男の子だった。
「うもんらいと。…聞きたいことじゃないんだけど」
「うん? どうしたの?」
男の子―――雨紋はマリア先生を見た。
「きょーいちがいねェよ」
「…あら。またあの子……誰か知ってる?」
マリア先生は溜息交じりで聞いたが、子供達は皆首を横に振る。
またあいつ、と小蒔が言って、隣の葵が少し寂しそうに俯いた。
俯いた葵を慰めるように、如月が葵の頭を撫でる。
マリア先生は部屋を何度か見回して、廊下の窓へと目を留めた。
ぱたぱたと其方に駆け寄ると、丁度外を通りかかっていた眼鏡のお姉さんを呼び止める。
「遠野さん、蓬莱寺君見なかった?」
「え? あの子またいないんですか?」
「ええ。私が此処に戻った時はいたと思うんだけど……新しい子が来たから、皆に紹介したら、いつの間にか」
「じゃあ、この荷物置いたら探しに行きます」
「お願いね」
ぱたぱた、眼鏡のお姉さんは廊下を駆け足で通り過ぎて行った。
それを見送って、マリア先生は下の位置に戻る。
「京一君には、また後で逢いましょうか」
「きょういちくん…?」
「いいよ、きょういちなんか気にしなくって」
小蒔が声を上げた。
其方を見ると、小蒔は怒ったような顔をしている。
マリア先生が小蒔の傍にしゃがむと、眉尻を下げて小蒔のおでこをピンッと弾く。
小さな悲鳴が上がって小蒔の額は少し赤くなっていたが、泣き出すほどではない。
「桜井さん、そういう事は言っちゃ駄目よ」
「だってマリアせんせー、きょういち、いっつもかってにしてるんだもん」
「京一君もまだ此処に慣れていないのよ」
「そんなことないよ。きょういち、二月からここに来てるのに」
唇を尖らせる小蒔に、マリア先生は頬杖で考え込む仕草をした。
葵が小蒔の肩を叩く。
せんせいこまらせたらダメよ、と葵が言って、小蒔はまた拗ねた顔をしたが、それ以上は何も言わなくなった。
楽しそうだった空気から一転、部屋の中は静かになってしまった。
帽子の男の子の隣で本を読む子の、ページを捲る音くらいしか聞こえて来ない。
マリア先生はそれを払拭するように、明るい声で、
「――――それじゃあ、QuestionTimeは此処までにして、皆で遊びましょうか」
「はーい!」
マリア先生の言葉に、皆が大きな声で返事をする。
葵が立ち上がって、早速龍麻の傍に駆け寄ってきた。
龍麻は少し緊張してマリア先生の影に隠れたが、葵は気にせずに微笑んでいる。
にっこりと笑うのが可愛くて、龍麻は少し頬が赤くなる。
「よろしくね、ひゆうくん」
「うん」
「ね、こっちにきて」
葵が龍麻の手を取って、小蒔ともう一人男の子が座っている。
龍麻より一回りも体の大きな男の子だった。
「よろしく、ひゆうくん」
「うん」
「だいごゆうや。よろしく」
「うん」
葵が小蒔の隣に座ったので、龍麻は葵の隣に座った。
反対隣には醍醐が座っている。
三人は、他の子供達の事を教えてくれた。
龍麻と同じテレビを見ていると言うのが、如月翡翠。
家は古い道具を沢山売っている店で、彼と葵の親はずっとずっと昔からの知り合いだ。
帽子を反対に被っている子が雨紋雷人。
彼の傍で静かに本を読んでいるのが唐栖亮一。
二人は家が近いので、いつも一緒にいるのだが、活発な雨紋に対し、亮一はあまり他の子供と遊ばない。
外に遊びに行くのも雨紋が誘ってようやく、と言う手合いだった。
二人、そっくりの女の子がいる。
一人はストレートで、もう一人はポニーテール。
双子の姉妹で、ストレートの方が妹の雛乃、ポニーテルの方が姉の雪乃だ。
部屋の隅で、一人椅子に座って本を開いている眼鏡の子は、壬生紅葉。
あまり喋らない大人しい子で、頭が良い。
この保育園にいる子供達の中で、一番色々な事を知っている。
マリア先生と同じ、金色の髪を持った子がいる。
一番小さな女の子で、名前はマリィ。
黒猫のぬいぐるみがお気に入りで、メフィストと言う名前をつけていつも抱きかかえている。
それから―――――
「あとね、きょういちくんがいるの」
「さっき言ってた子?」
「うん」
その名前が出ると、小蒔がむぅとまた唇を尖らせた。
それに首を傾げると、醍醐が言う。
「あんまり、みんなとあそばないんだ。きょういちは」
「どうして?」
「さぁ……」
「かってだからだよッ」
「こまき、しーっ」
大きな声を出した小蒔に、葵が人差し指を立てて「静かに」の合図。
それを叱るマリア先生は今いなかったけれど、小蒔は慌てて口を手で塞いだ。
「きょういちくんはね、二月にここに入ったの。まだなれてなくって、あんまりあそんでくれないの」
「それだけじゃないよ。あおい、いっぱいヒドいこと言われたじゃん」
きっぱりと言い切る小蒔に、葵は表情を曇らせる。
大人であれば、もう少し判っていれば。
小蒔もこんな言い方をしなかっただろうけれど、此処にいるのはまだ小さな子供達ばかり。
思ったことをどうやって丸く包んで収めるかなんて、判らなかった。
そして葵も、そんな事ないよ、とフォローが出来ない。
小蒔が言う事が真実であるからだ。
怖い子――――なのかな。
二人の会話を聞いていて、龍麻は思った。
が。
「きょーいちがカッテなんじゃねェよ」
聞こえた声に龍麻が振り返ると、雨紋が立っていた。
隣に亮一もいて、亮一は雨紋の影から龍麻をじっと伺っている。
「きょーいちがカッテなモンかよ。カッテなのはお前らだろッ」
「なんでそういうコト言うのさ!」
「だってそうだろ。なんにも知らねェクセして」
雨紋の言葉も、小蒔を見る目も、酷く刺々しい。
どうやら、雨紋は“きょういち”に対して、小蒔とは違う思いがあるらしい。
どちらが正しいのか判らなくて、間に挟まれた龍麻はオロオロしてしまう。
二人の間に割って入ったのは、醍醐だった。
今にも飛び掛りそうな小蒔の肩を抑えて、雨紋は亮一が服をグイグイ引っ張っている。
龍麻が葵を見ると、“きょういちがいない”と聞いた時と同じ、寂しそうな顔をしていた。
部屋のドアが開いて、一人の男性が入ってきた。
喧々とした部屋の真ん中の子供達を見て、ゆっくり歩み寄ると、子供二人の襟首を掴んで持ち上げる。
「ケンカをするなら、外でやれ」
「げッ、いぬがみッ」
「先生をつけろ」
すとん。
小蒔も雨紋も床に下ろされる。
誰だろう――――そう思って見上げていた龍麻に、葵が教えてくれた。
名前は犬神杜人、マリアと同じくらい長く保育園に勤めている人だと言う。
小蒔と雨紋は渋い顔で犬神先生を見ていたが、龍麻は不思議な人だなぁと思って彼を見上げた。
怖いようなそうでもないような雰囲気で、今は小蒔と雨紋を起こっている筈なのに、怒られているような気がしない。
でも小蒔も雨紋も大人しくしていて、じっと見下ろしてくる視線をただ受け止めていた。
……そんな時である。
龍麻がトイレに行きたくなったのは。
なんとなく言い出し辛い雰囲気に、龍麻はどうしよう、ともじもじした。
此処にいるのがマリア先生だったら言えただろうけれど、目の前にいるのは犬神先生だ。
怖くはないけれど、ちょっと近寄りにくそうな感じがした。
そんな調子でもぞもぞしていると、ふと、眼鏡の奥の細い目が此方を見た。
「……緋勇龍麻だったな」
呼ばれて、こくりと頷く。
「俺は犬神だ。トイレに行きたいなら言え。此処ではちゃんと主張しろ」
「しゅちょう?」
「言いたいことは言って良い。そういう事だ」
言われて、龍麻は少し恥ずかしかったが、
「……………おしっこ」
呟くと、くしゃりとごつごつした大きな手が龍麻の頭を撫でる。
そのまま後ろ頭を押す手に従って、龍麻は部屋を出た。
大きな手は、父のものよりずっとずっと、ごつごつしている。
手が持ち上がったのを見た時、その大きさとゆっくりした動きで、ちょっと怖かった。
でも頭を撫でるのは、父や母、マリア先生とやっぱり同じだ。
此処にいる人達は皆柔らかくて優しくて、温かい。
声をかけてくれた葵も、小蒔も、醍醐も、他の子供たちも、誰も龍麻を遠巻きにしたりしなかった。
此処はすごく温かい。
大好きになりそうだ。
でも今は取り敢えず――――早くトイレに行かなくちゃ。
連れてこられたトイレでおしっこをして、洗面台できちんと手を洗う。
その間、犬神先生はトイレの入り口にじっと立っていた。
濡れた手をハンカチで拭いて、犬神先生の下に戻ると、犬神先生は何も言わずにトイレから出て行く。
龍麻もそれを追い駆けて、トイレを後にした。
と、その時。
「いてッ」
「あう」
どんっと誰かとぶつかって、龍麻は床にころりと転んだ。
相手も同じように尻餅をついて、ぶつけた頭を手で押さえている。
ぶつかった相手は男の子で、さっき部屋にいなかった子だった。
「きィつけろッ!」
「ごめん」
怒られて、思わず龍麻が謝る。
男の子は、怖い目をしていた。
この子が、さっき部屋で皆が話をしていた“きょういち”だろうか。
“きょういち”と思しき男の子は、首や袖口に赤いラインの入ったシャツを着ていた。
それはあちこち泥だらけに汚れていて、“きょういち”の顔や手や腕、膝なんかも泥がついている。
靴下はどうしてか濡れていて、其処にも泥がついて茶色になり、床に足跡を作っていた。
いや、足だけではない、よくよく見たらシャツもズボンも、髪の毛も、水を吸って体に張り付いている。
―――――そんな“きょういち”を、犬神先生がひょいと持ち上げる。
「気を付けるのはお前だろう。また池に落ちたのか」
「るせェ、はなせッ! この犬ッ」
「犬神だ」
宙ぶらりんのまま、“きょういち”はじたばた暴れた。
けれど、犬神先生は“きょういち”を床に下ろさない。
ぱたぱた、廊下の向こうから人が走ってきた。
龍麻が部屋で見た、眼鏡のお姉さんだ。
「あッ! 犬神先生ごめんなさいッ、ありがとうございます!」
「早く風呂に入れてやれ」
「はい。ほら、行くわよッ」
「いーらーねーえーッッ!」
「だーめ!」
尚も暴れる“きょういち”を、眼鏡のお姉さんが抱っこする。
髪を引っ張られたり、腕を抓られたりして悲鳴が上がったが、お姉さんは“きょういち”を落とさなかった。
やめなさいと怒る声があったけれど、だからと言って手を離したりはしなかった。
遠くなっていく眼鏡のお姉さんの背中と、その肩口から覗く“きょういち”と。
じっとそれらを見送って、龍麻は傍らで同じように見送っている犬神先生の手を引っ張った。
無言で見下ろしてきた犬神先生と、見上げる龍麻の視線が交わる。
「いぬがみせんせー、いまの子が“きょういち”?」
「ああ」
やっぱり。
あの子が、皆が言っていた“きょういち”なんだ。
どうしてあの時、あの子は部屋にいなかったのだろう。
最初はいたとマリア先生は言っていたけれど、龍麻はそれを見てはいなかった。
そして今の今まで、何処で何をして、あんなにびしょ濡れになったんだろう。
葵は“きょういち”の話が出ると、寂しそうな顔をする。
小蒔は“きょういち”の話が出ると、どうしてか怒り出す。
でも雨紋は“きょういち”は勝手じゃない、と言っていた。
龍麻には、“きょういち”がどんな子なのか、さっぱり判らない。
さっきは怒られて怖い子だと思ったけど――――――
この保育園の園舎はコの字型に作られていて、廊下は庭に面していて壁がない。
透明な大きな窓ガラスとカーテンしかなく、そのカーテンは今は開けられている。
角を曲がって、『おふろ』のプレートがかけられた部屋の扉を、お姉さんが開ける。
その時、龍麻には“きょういち”の横顔が、ほんの一瞬だけど見えた。
お姉さんの腕の中。
大人しくなった“きょういち”に、お姉さんが何か話しかけた。
“きょういち”はぷいっとそっぽを向いてしまった。
その時、確かに―――――“きょういち”は寂しそうな目をしていたのだ。
桜が咲いて花吹雪く四月。
それが、二人が初めて出会った日だった。
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ノリと勢いって凄い(笑)。
やっちゃいました、保育園パラレル。
取り敢えずはやっぱり、龍麻と京一の出会いから……って、二人まともな会話してねェよ。
ちなみに私は保育園ではなく幼稚園で育ったので、保育園がどういう場所か具体的には判りません(汗)…
色々間違ってる箇所や、都合良くしてる箇所もあると思いますが、大目に見てやって下さい。
歌わせろだのいらないだの、延々続くかと思われた押し問答は、如月の咳払いで幕を閉じた。
京一は眉根を寄せ、如月に目を向ける。
「お前もなんかあんのか?」
「お前のような単細胞に必要なものがあるのかと、少し考えたが、一応な」
「……京一、怒らない」
如月の言葉に青筋を立てた京一を、龍麻が宥める。
如月の手から放り投げられた小さな紙袋をキャッチする。
袋の中の膨らみは薄く、手触りで御守りであると知れた。
「なんでェ、織部と被ってんじゃねェか」
言いながら袋を開けて、中身を取り出す。
「………二つ?」
「君には足りないものが多過ぎるからな。かと言って欲張るのも良くない。最低限これは必要だろうと、それらを選んで来た」
「ケンカ売ってんのか、手前」
如月を睨む傍らで、吾妻橋が御守りの一つを手に取る。
其処には、『学業成就』の文字。
それを見た一同の脳裏に過ぎったのは、京一の学校での成績。
はっきり言って宜しくなく、赤点・補習は常連である。
真神のメンバーには卒業さえ怪しいのではと言われているので、成程これは必要だと言う感想が沸く。
が、京一にしれみれば莫迦にされた気分だ。
神頼みという柄ではないし、骨董品屋に埋もれていた物がどれだけ利益があるかは知らないが、貰うだけ貰おう。
そう思う一方で舌打ちを漏らしながら、こっちはなんだともう一つの御守りを見る。
其処に書いてあったのは、
「………………………………………………………………安産祈願?」
呟いた京一の言葉に、しん、と店の中が静まり返った。
それから如月へと視線が向けられる。
「……如月君、間違えたの?」
「いえ」
「…なんで安産…?」
「必要かと」
「いや、京一、男だし」
真顔のまま微動だにしない如月に、一同は当然、困惑する。
女子が相手なら、気が早いと言われても、いつかは通る道である。
今は必要なくても。
気の知れた相手で、冗談を言い合うほどなら、笑って済ませる事だ。
まして、如月と京一の間柄は決して穏やかではないし、最初の頃程ではないにしても、やはり憎まれ口を叩き合う仲。
ベチッ、と音がして、京一が御守りを床に叩き付けた。
「テメェやっぱケンカ売ってんだろ、このムッツリ野郎!!」
「真摯に考えて行き着いたものだ」
「尚更悪いわッッ!!!」
「アニキ、落ち着いて下せェ!!」
「離せ、いっぺんブッ飛ばすッ!!」
木刀を振り上げた京一を、龍麻が後ろから羽交い絞めにした。
それでも激昂して暴れる京一に吾妻橋が宥めようと必死になる。
「オレになんでこんなモンが必要なんだよッ! 頭イカれてんんか!」
「近いうちに必要になる」
「ならねーよ!!」
龍麻に抑えられては、暴れたところで早々逃れられる訳もなく。
止むを得ず両脇を押さえられたままの格好で、京一は如月を睨む。
その遣り取りを眺めていた八剣が割り込んだ。
「京ちゃんじゃなくて、京ちゃんの周りで必要な人がいるとか、かな?」
「京ちゃん言うな! いねーよ、そんな奴ッ」
「いや、蓬莱寺が必要なものだ」
「お前も頭沸いてんじゃねーぞ、コラァ!!」
「京一、どうどう」
八剣の考えを、京一だけでなく、如月までもが否定する。
益々困惑するのは周りの方で、如月の考えが全く読めない。
そんな中、誰も気付いてはいなかったが、八剣だけは如月を冷ややかな目で見ていた。
このまま京一を怒らせていたら、今日と言う日が台無しになる。
そう思ったのは様子を見ていた全員の一致で、慌てて遠野が話題転換を吾妻橋に持ちかけた。
「ね、アンタ達は何持ってきたの?」
「へッ? あ、あっしらですかい?」
「そうそう!」
話を振られた吾妻橋は、焦った様子で他の面々と顔を合わせる。
気まずそうなその表情が京一の視界に入り、京一は睨んでいた如月から無理矢理視線を外した。
京一に見られた吾妻橋達は、益々居心地が悪そうに縮こまる。
「その…あっしらは、その、金もねェもんで……」
―――――心酔する京一の誕生日。
何か出来る事はないかと考えたものの、金銭もなければ時間もない。
京一がその日その日で欲しいものは聞いているが、それを用意する事も出来ない。
集まったメンバーが各々のプレゼントを疲労する中、肩身が狭くなったのだろう四天王達は、その肩書きを忘れてきたかのように、叱られるのを恐れる子供のように縮こまっている。
京一はそんな舎弟達を見て、ガリガリと頭を掻く。
「……別に期待しちゃいねェから、気にすんじゃねえよ」
「すいやせん!!」
「だから謝るなっつーの。その代わり、今度ラーメン奢れよ。それでチャラだ」
「へい! アニキの為でしたら、幾らでも!」
吾妻橋達の目は尊敬の眼差しだ。
優しいね、と隣から声が聞こえて、京一はそちらを睨む。
其処にあるのはやはり見慣れた相棒の笑顔だ。
その下から、高い少女の声。
「あたしも何もないわよ」
「お前こそ期待してねーよ」
マリィであった。
龍麻にずっとくっついたままの彼女が、龍麻以外に何かを贈る等、考えてもいない。
パーティの場所にこの店を選び、龍麻が参加するという時点で、彼女も参加するのは自然なこと。
それ以上に参加する理由はないのだ、彼女の場合。
でも、と龍麻と京一にのみ聞こえる小さな声で、マリィが続けた。
視線は、大好きな龍麻に向けて。
「どうしてもって言うなら、一つ約束してあげても良いわよ」
「どんな?」
訊ねたのは龍麻だ。
マリィはぽっと頬を赤らめ、恋する乙女のように恥ずかしそうに手で顔を隠しながら、
「あたしと龍麻ちんのラブラブ新婚生活計画、あんたも加えてあげてもいいわ」
「へーそーかい。そりゃありがてェな」
「そうよ、感謝しなさいよ。本当なら、お邪魔虫なだけなんだからねッ」
「へーへー。ありがとーよ、チビ」
ぐしゃぐしゃと乱暴にマリィの頭を掻き撫ぜてやる。
龍麻と違う粗野な手付きが気に入らなかったのだろう、直ぐに払われてしまったが、京一は気にしなかった。
龍麻と顔を合わせると、クスクスと楽しそうな笑顔。
マリィの計画が何処まで本気なのか、本当にそうなるのかはともかく、彼女が楽しそうなのが嬉しいのだろう。
京一も、生意気な子供だとは思うけれど、本気で怒るような気にはならない。
それは彼女の見た目が、まだ子供子供している所為でもあるのだろう。
生意気な口調の一つや二つ、受け流してやればいい。
悪気があってそうしている訳ではないのだから、此方が広い心で対応すれば良いのだ。
プレゼントと言うには随分曖昧なものであったが、これでマリィからのプレゼントも貰った。
残るは真神メンバーと、八剣だ。
「ボク達からは、さっきの料理だったんだ。コニーさんに調理場借りて、ケーキは醍醐君が全部作って」
「プレゼントと言っても、毎日顔を合わせていると今更っていう気がしてな」
「どう? 美味しかったかしら」
「ああ、美味かったぜ。ありがとよ」
「あたしからは、後でね。今日の写真、全部焼き増ししてあげる」
「おう」
改めて畏まられるよりは、京一も気が楽だ。
たらふく食べた後だし、その味も十分味わうことが出来た。
付き合いが長いこともあってか、味はちゃんと京一の好みに合わせて作られていた。
それだけでも京一にとっては嬉しい事だ。
醍醐の料理も、いつもは小蒔の為に作られているものが殆どだ。
それをわざわざ、自分の為に作ったのだから、それだけで妙にくすぐったい。
小蒔、葵も指先には絆創膏が張られており、努力の色が滲んでいる。
カメラをずっと構えたままの遠野は、チャンスさえあればシャッターを切っている。
一体どういう瞬間を撮っているのか知らないが、遠野らしいプレゼントだ。
「でも、緋勇君は緋勇君で用意したみたいよ」
「龍麻が?」
一体何をと窺ってみると、龍麻は鞄の中から箱を取り出す。
ラッピングなどされていない箱には、“イチゴパンケーキ”の文字。
龍麻らしいと思っていると、それを見た八剣が、
「あらら。被っちゃったね」
「八剣君も、苺?」
「じゃあないけど」
「お前だけだろ、苺に拘んのは」
龍麻の言葉に苦笑を漏らしつつ、八剣が差し出したのは、和菓子の詰め合わせだ。
「あまり甘いものは好きじゃないようだけど」
「…まぁな。食えない訳じゃねえよ」
詰められた和菓子は綺麗に並んでおり、綺麗な彩色が施されている。
上菓子と呼ばれる、細工も凝ったものばかりだ。
あまり馴染みのない品に、京一はしばしそれに目を奪われていた。
和菓子については全くと言って良い程知識もないのだが、知らなくても凄いと思う。
冬の季節を感じさせる伝統工芸に、他の面々も見入っていた。
その中から一つ摘んで、口に放り込む。
餡の甘みが広がった。
「甘ェ」
「茶請けにするのがいいよ。抹茶と合わせると美味いから」
「ふーん。抹茶ねェ」
「良い茶葉ならうちにあるから、今度来るかい?」
「調子に乗んな」
「それは残念」
菓子の食べ方など、気にした事もない。
『女優』に抹茶なんてあったかと考えつつ、龍麻に視線を戻す。
「で、お前はソレだよな」
「うん。美味しいよ。京一も気に入ってくれると思うな」
早速、と龍麻は一つ小袋を取り出して、封を開ける。
京一は口の中に残っていた和菓子の甘みを水で流して、龍麻の苺菓子を受け取ろうと手を伸ばした。
が、届くという場所でそれは逃げる。
目的である筈のものを掴み損なった手は、中途半端に宙で浮いている。
しばしフリーズした後、改めて延ばしてみると、やはりそれは届くという距離ですいと逃げた。
―――――――間抜けな事をしている、と思ったのは当然の事である。
手に菓子を持ったまま、龍麻はいつもの笑みを湛えている。
普段から何を考えているか判らないのが、その笑顔の所為で余計に内面が測れない。
何がしたいんだと眉根を寄せると、龍麻は益々にっこりと笑み、
「京一、あーんして」
「……………はァ!?」
何を言い出すんだと、呆れで口を開けた直後、ぽいっと菓子が放り込まれた。
一口で咥内に収まるサイズのそれは、口を閉じると同時に甘味が広がる。
美味い。
確かに、悪くはない。
考えていた程、甘くもなかった。
なかったが、さっきのはなんなんだ。
胡乱な目で見ると、龍麻はにこにこと代わらぬ笑顔を浮かべている。
なんだかその表情が満足感に浸っているようで、京一は口の中に菓子が残っているのもあり、閉口してしまった。
「いいねェ、それ」
「何が……んぐ」
八剣の言葉に反応して口を開けると、二個目が押し込まれる。
口の中に入ったものを出す訳にも行かず、京一はそれも食べ切る。
「京一、もう一個」
「待て、た……む…」
「まだいる?」
「………………ちょっと待て、龍麻」
三個目も飲み込むと、京一は手で口元を隠してストップをかける。
龍麻は止められた事が不思議であるかのように、きょとんとして首を傾げた。
京一の咥内は、和菓子に続く苺菓子の連続で、今までにない程甘みで一杯になっている。
もともと甘いものは得意ではないから、それ程甘くないとは言っても、連続で食べれば限界も早い。
吾妻橋に差し出された水を飲み干して、ようやく一息吐いた。
「お前は何考えてんだ」
「プレゼントあげたいなって」
「自分で食う」
「食べさせてあげたいんだ」
「………お前等も止めろッ!」
自分が言っても無駄だと判断して、京一は見ていた周囲の面々に言う。
「あ、いや……なんか、ごく普通にしてたもんだから…」
「タイミングを外したと言うか……」
小蒔と遠野の言葉に、京一はがっくりと肩を落とす。
完全に龍麻のペースに飲まれている。
壬生が眼鏡のズレを直し、龍麻に訊ねた。
「………君達は、よくそういう事をするのかい?」
「時々」
「するか、阿呆ッ!!」
声を荒げた京一に、龍麻が傷付いたように顔を顰めた。
「でも、昨日もしたし」
「ありゃお前が勝手にオレの口に苺パン突っ込んだんだろうが!」
「美味そうだなって言ったから」
「言っただけで、食いたいっつった訳じゃねーよ!」
そうなのか、と納得しかかっている壬生の誤解を撤回しようと、京一は違うと言い張る。
しかし龍麻の方も負けておらず、その前もした、と言う。
実際、殆どは龍麻の方が勝手に京一の口に菓子を押し込んでいるパターンである。
あまりに龍麻が嬉しそうに苺ばかり食べるから、それを眺めた感想を京一は述べただけだ。
京一の言葉に「食べたいの?」と問うならばまだいいが、問答無用で口に入れるのは勘弁願いたい。
もともと、甘い物はそれほど得意ではないのだから。
否定する京一に、龍麻の表情は段々と不満げなものに変化する。
が、此処で引き下がっては誤解が広がると、京一は壬生に違うからな! と詰め寄った。
そんな京一の肩を、八剣が掴んで引き寄せる。
「まぁまぁ京ちゃん。紅葉も判ってるだろうから」
「うるせェ、手前は引っ込んで―――――ぐ」
今度は、和菓子を放り込まれた。
食べ物を出す訳に行かないお陰で、京一は閉口せざるを得なくなる。
「あ、八剣君、ずるい」
「君が先に始めたんだろう」
「京一、あーんして」
口の中の和菓子は既になくなっていたが、これ以上は御免だと京一は真一文字に口を噤む。
同じように八剣も、次の和菓子を差し出していた。
「イライラしている時には、当分がいいんだよ、京ちゃん」
「京一、あーん」
するか! とさえ怒鳴れずに、京一は詰め寄る二人をどうすべきか、必至で逃亡策を考えるのだった。
「………食べ物か…そうか、それがあったか……」
「……如月君?」
「何言ってんだ? あいつ…」
「それより、京一どうしましょうか…」
「京一って、妙に男にモテるのねー…」
「オレ達の札、効果ないかもな」
「……《黄龍の器》ですものね」
「ロックでHappy birthdayの何が不満だってんだ」
「耳慣れないものであるとは思うよ、僕もね」
「だからいいんじゃねえか」
「……僕にはよく判らないよ」
「いいなぁ。あたしも龍麻ちんにあーんしてあげたいなー…」
「アニキィィ……不甲斐ない俺達を赦して下せェ……」
「……正直、おっかねェです…」
「京一、あーん」
「はい、京ちゃん」
(いい加減にしてくれ――――――ッッ!!)
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ギャグを目指して見事玉砕。
龍麻と八剣はゴーイングマイウェイ、ひっそり如月も壊れて頂きました(爆)。
初の如月×京一だったような気がします。
地味でごめん、如月。
マリィとの遣り取りを一番書きたかったような気がします。
あと、壬生は真面目な顔でボケ(多分、本人はボケてるとも思ってない)てくれたら良いと思う。