例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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やくそくのかたち








一人、また一人。
夕刻頃を始まりにして、この真神保育園で預かっている子供達は、家に帰って行く。






全員で11人と言う、決して大規模ではないけれど、勤める保育士の人数を考えると少なくはない預かり子達。

その中で雨紋雷人、来栖亮一、マリィ・クレアの三人は家に帰す事が良く思えない環境である為、保育園で保護児童となっている。
保護児童として保育園が引き取り、保護者代わりとなっているので、彼らは基本的に寝食全て保育園で過ごす。
保育園がこの子供達にとっては家となっているのである。

他にも壬生紅葉もそうなのだが、彼の場合は他三名とは少し違う。
壬生の家は、子供と母親の二人だけの家庭であるが、母は体調を崩して桜ヶ丘中央病院に入院している。
時折、医者の許可を貰えた時だけ、迎えに来てくれる事になり、一晩を親子で過ごすようになっていた。



今日は壬生の母の調子が良かったようで、陽が西に沈み始めた頃に息子を迎えに来た。
いつも物静かな壬生であるが、母の事はやはり大好きなようで、迎えが来たわよと言うと小走りで玄関に向かった。
他の子供達に比べて少し大人びた感のある壬生だけれど、この時ばかりは歳相応に子供らしく、マリアの微笑みを誘った。

母と一緒に行儀良くマリアに頭を下げてさようならの挨拶をして、壬生は二週間振りに母に手を引かれて、我が家へと帰って行った。


保育園の門を潜って二人の姿が見えなくなってから、マリアは遊戯室へと戻る。
其処には保護預かりの三人の子供と、もう一人――――京一がそれぞれ自由に過ごしていた。

雨紋と亮一は二人で積み木遊び、マリィは眠たくなってきたようで布団の上で舟をこいでいる。
京一は自分の落書き帳にクレヨンでお絵描きしていて、いつものようにパンダを描いていた。
四人を見守っているのは、高見沢舞子だ。




マリアの視線は、この四人の中で唯一、保護児童としての預かりではない子供へと向けられる。
お絵描きに熱中している京一だ。

京一はいつも遅くまで残る。
ほぼ毎日だ。
早い日の方が珍しく、一番最後まで残っているのが常だ。


真神保育園では、一日の保育時間が10時間を越すと延長保育扱いとなる。
京一は朝8時前に入園し、帰るのは大抵、夜8時を過ぎた頃で、いつも延長保育になっていた。
時には子供が眠る時間まで残っている事もあった。

そんな時間まで残る子供の面倒を見るのは、チーフのマリアか、犬神だけで、他の保育士達は家に帰る。
そうなると、他の子供達が眠ってしまうと、いつもは賑やかな園内はとても静かで寂しさを感じさせた。



今日もまた、京一は一番最後。

これは京一が真神保育園に来るようになってから、ずっとだ。
土日を除けば、ほぼ毎日預かるのに、この三ヶ月の間に京一が早く帰ったのは、たったの一度か二度。


この子も壬生同様、特殊な事情があるのは聞いている。
迎えに来るのが彼の父母ではなく、預かっていると言う懇意にしている青年である事も。
青年は大学生でアルバイトもしているから、迎えが遅くなる理由も判らない訳ではない、寧ろ仕方がないとも思う。

しかし、それでも静まり返った園舎で一人迎えを待つ子供を見ると、胸が痛む。
来ない訳ではないけれど、いつ来るか判らない迎えを待ち続ける彼の心は何を思うのだろうかと。





マリアは一つ溜息を吐いて、遊戯室を出た。
向かうのは職員室だ。

遅くまで残る子供や保護児童の為に、真神保育園では午後7時頃に補食を出す。
日と季節によって変わるが、大抵は小さな果物やラスク等である事が多い。


職員室の扉を開けると、其処には犬神杜人が残ってパソコンに向かっていた。
他の保育士は既に帰宅しているようで、残っているのはこの場にいるマリアと犬神、遊戯室にいる高見沢のみらしい。

―――――こうなると、園舎はどんどん静かになって行く。



棚に保管していたラスクの入った袋を取り出し、封を開ける。
用意した三枚の皿にそれぞれ二つずつ出す。

マリィに用意するのは、牛乳で柔らかくしたパンである事が覆いのだが、彼女はそろそろ寝入る頃だろう。
途中で目覚めるかも知れないので、念には念を入れて準備をしておく事にする。
冷蔵庫から取り出した牛乳パックを開けながら、マリアは呟いた。






「今日も京一君が最後ですよ」
「……いつも通りです」
「まぁ、そうなんですけど」






淡々とした口調で返す犬神に、マリアは判り易く大きな溜息を吐いた。






「連絡なしで延長保育は、金額的にもきついものがあると思いますよ」
「そうですね」
「連絡があってもほぼ毎日となると……」






一日の延長ならば、こんなにも気にする事はなかっただろう。
しかし京一の延長保育は、この三ヶ月間で毎日になっている。
時に夜半にまで及ぶのではないかと思う程、迎えが遅れた事もあった。

それによって保護者にかかる金額的負担は、普通の保育時間よりも倍額以上になる。
また、仕事を終えて迎えに来る保護者への体力の負担も、やはり見逃せるものではない。






「やっぱり、宿泊保育の方も考えてみた方が良さそうですね」






それならば、毎日必ず迎えに来なければいけないと言う事もない。
時間と都合の折を見て、壬生の母親のように隔週に一回でも良いから、迎えに来てくれれば良い。

雨紋達のような保護児童と決定的に違う点は、其処にかかる費用だ。
保護児童は彼らの背景事情から無償若しくは格安になるが、宿泊児童はそれよりも少し高い。
しかし、通常保育に加えて毎日の延長保育との差を考えれば、随分と荷が軽くなる筈だ。


あちらの事情を聞かなければならないので、今すぐにと言う訳にはいかないだろうが、悪い話ではない筈だ。



―――――マリアはそう思っていたのだが。







「さて、どうかな………―――――」







ぽつりと零れた犬神の言葉に、マリアは一度、瞬きした。






































時刻は午後8時半。
昼間によく遊んだ子供などは、そろそろ睡魔に誘われる頃合だった。

その例に漏れず、マリィは勿論、雨紋と亮一もマリアに促されて布団に入った。
布団に包まった雨紋は直ぐに寝付き、続いて亮一も幼馴染に寄り添って瞼を閉じた。
マリィは二人よりも先に眠りについている。


保護児童の中で一番賑やかな雨紋が眠ると、園内は一層静けさを増した。




そうして遊戯室で唯一起きているのが、京一だ。




眠った子供達の様子を時折覗きに行きながら、マリアは京一の傍で彼の迎えを待った。

マリアと京一の間に会話らしい会話はない。
時折マリアがかける声に小さな反応をするだけで、京一は基本的に喋らなかった。


京一は無口な訳ではないけれど、抱える特殊な事情の所為か、中々周りに心を開かない。
ついこの間までは、子供達には怒鳴るか威嚇するかで、大人には反抗ばかりだった。
最近になってようやく馴染んで来たようだが、まだ特定の子供以外とはケンカを繰り返している。

同じ年頃の子供にも心を開かない京一は、大人に対しては更に頑なだった。
それは今も変わらないようで、京一が話をする大人は真神保育園の保育士だけでも限られる。
そんな子供相手に無理に話をしようとすれば、子供は此方を鬱陶しがってしまうだろう。
だからマリアは、出来るだけ京一が落ち着いていられるように、必要以上に話しかける事をしなかった。



園内は静かだ。
京一と一番よく喋る雨紋が眠ったから、京一は益々喋る事がなくなった。

無言でクレヨンを画用紙に押し付ける横顔は、真剣そのもの。
目の前の真っ白な紙を埋める事に一所懸命になっている。


……が、その瞳が僅かながら眠そうに緩んでいるのは否めない。


京一は活発な性質だから、日中はやはり外遊びをしている事が多い。
だからこの時間になって来ると、雨紋同様に眠気を感じるのも無理はなかった。




かくん、と京一の頭が揺れた。
クレヨンを握る手が止まっていて、絵もそれ以上進まない。

マリアは苦笑して、京一の頭を撫でた。







「お迎え来るまで、お休みしましょうか」







迎えが来たらちゃんと起こしてあげるからと。
言ったのだが、京一はぶんぶんと頭を横に振ってそれを拒否した。

眠気眼をごしごしと擦り、またクレヨンをぐりぐりと動かし始める。


―――――いつもこうだ。
この時間になれば眠っても無理はないのに、京一は迎えが来るまでずっと起きている。
時々耐え切れなくなる事もあるのだが、数分すると飛び起きてしまうのだ。

無理やり寝かしつける訳にもいかない、そうすると抱き上げた途端にじたばたと暴れて嫌がるのだ。
意地でもこの遊戯室から出ようとはしないのである。


本人が嫌がるのなら無理強いは出来ないと、マリアは一つ息を吐いて、早くこの子の待ち人が来ないものかと一人ごちる。



ぱたぱたと廊下で足音がして、遊戯室のドアが開く。
顔を覗かせたのは高見沢だ。






「お疲れ様です、マリア先生」
「お疲れ様」
「私、お先に失礼しますね。京一君、また明日ね~」






ひらひらと手を振る高見沢。
呼ばれた京一は顔を上げて彼女を見たが、特にこれと言った反応はしなかった。
しかし此方を見てくれただけでも上出来と、高見沢は嬉しそうに微笑む。


マリアに軽く頭を下げてから、高見沢は遊戯室のドアを閉める。
そのまま彼女は玄関へと向かって行った。

これで園舎に残ったのは、保護児童の子供達と、マリアと京一だけになる。
犬神は30分程前に仕事を終えて上がっており、保健室を受け持って貰っている岩山は元より非常勤が多い。
チーフとして夜勤を受け持つのはマリアか犬神のどちらか一人のみだから、益々園内は人気がなくなって静かになった。



――――と、思ったのだが。
玄関を出たとばかり思っていた高見沢が早足で戻って来た。






「京一君、お迎え来たわよ~ッ」






弾む高見沢の声に、京一が顔を上げる。

遊戯室に顔を見せた高見沢に続いて、一人の青年がひょいっと顔を出す。
薄い金の入った髪色に、恐らく画材や教材を詰め込んだ鞄を持った彼が、京一を現在預かっている人物――――八剣右近であった。






「や、京ちゃん。遅くなって悪かったね」
「……別に」






遅い迎えを詫びる八剣に、京一は素っ気無い言葉。
それでも手元はクレヨンを片付け、落書き帳を閉じている辺り、待ち続けていた彼の心を表しているようにも見えて、微笑ましさを誘う。


ロッカーから引っ張り出した鞄に、順番はバラバラだがきちんと収められたクレヨンと、落書き帳を入れる京一。

其処までしてから、京一は思い出したように鞄を床に置いて、とたとた駆け足で遊戯室を出て行った。
何処に行くのかと慌てて高見沢が追いかける。






「京一君!」
「しょんべん!」






鞄を用意してから尿意に気付く辺りが子供らしいと言うか。
トイレへ駆けて行く京一と、それを追う高見沢を見送る八剣は、くすくすと面白そうに笑っていた。

マリアはそんな八剣へ、京一の鞄を持って歩み寄る。






「お迎えご苦労様です」
「いやいや。此方こそ遅くまでありがとう」






互いに頭を下げてから、マリアは鞄を八剣に手渡す。


赤色を基調にしたその鞄には、パンダのキーホルダーが取り付けられている。
いつから付けているのかは知らないが、随分長いのだろう、もうかなり汚れている。

鞄の中には落書き帳とクレヨン以外に、パンダ柄のハンカチとケースに入れられたティッシュがある。
その程度のもので、ゲームやオモチャの類を持って来た事はなかった。
時々マンガが入っている位で、鞄は他の子供達に比べると随分と軽い。



軽い小さな鞄を手に、預かり子が戻るのを待つ八剣の瞳は、何処までも穏やかで優しい。
だから彼が子供へと向ける愛情は本物で、迎えに来るのも吝かでないのは判るのだけれど。






「―――――あの、少し宜しいですか?」
「うん?」






常に子供に見せている笑顔を潜めたマリアに、八剣は何かと此方を見る。






「その……、いつもこの時間までお仕事なさって、お迎えも大変だと思うんですけれど」
「いや、そんな事は。寧ろ其方に申し訳ないかな、遅くまで面倒を見て貰う訳だから」
「いえ、それは構いません。保護の子達もいる事ですから」






京一が遅くまで残っていても、早くに帰っても、これは変わらない。
マリアか犬神のどちらかが残り、雨紋、亮一、マリィ、壬生を見守る事になるのだ。

それでも仕事が一つ増える事に変わりはないと詫びる八剣に、マリアは気遣いを感じて眉尻を下げて笑う。






「それでですね。出過ぎた事かとも思うんですが、京一君、宿泊保育にしては如何かと思うのですが……」
「宿泊保育……となると、一晩此処に預けることに?」
「はい。毎日お仕事の後にお迎えに来られるのが大変なようでしたら…」






マリアの言葉に、八剣は苦笑した。


八剣はいつも笑顔で京一を迎えに来るけれど、そんな彼も暇な訳ではないのだ。

大学の授業に課題をこなし、一人暮らしである為に就学後にはアルバイトがある。
家庭教師の派遣アルバイトだそうだが、嬉しい悲鳴で人気があるので、受け持っているのは一人二人ではない。
一箇所に二時間近く、それを一日で二箇所から三箇所は回る事が多いので、終わる頃にはとうに月が昇っている。

都内に住んでいるので移動手段に問題はないが、それでも体力の限界はある。
毎日詰まったスケジュールで生活している上、その後に更に子供の迎えと言うのは、言葉で言うほど単純な事ではない筈だ。


だから八剣の苦笑は、マリアの心配が決して外れていない事を教えている。






「……確かに、遅くまで迎えを待たせるよりは、その方が良いかな」







八剣の呟きに、それじゃあ、とマリアは紡いだ。
けれども、直ぐに遮られる。












「けど、それじゃあ京ちゃんとの約束を破る事になる」












告げた言葉に、マリアは八剣を見遣る。
彼は此方を見ることはなく、京一が戻って来るだろう廊下の向こうを見詰めたまま、動かなかった。

振り返らずに八剣は続ける。






「京ちゃんの事情は複雑でしてね。あの子はそれに振り回される形になってしまった」
「ええ、聞いています。前に一度、お父さんが迎えに来られた時に、ご本人から」






京一の迎えはいつも八剣が来るのだが、この三ヶ月の間に、たった一度だけ。
彼の父だと言う初老の男性が迎えに来ており、その時の京一は表情こそいつもと同じだったけれど、足取りは軽かった。
何より男性の差し出した手を恥ずかしそうに握った時、彼の瞳は確かに悦びを滲ませていた。

その時、マリアは踏み込んだ話になると判っていても、聞かずにはいられなかったのだ。
どうして息子の世話をほぼ八剣に一任する形になっているのかと。


真神保育園は、保育士と子供の家族揃って子供に接したいと言うのが基本方針だ。
だから出来るだけ子供の環境を把握して置きたかった。


父は少しの間言い澱んだが、全てを話してくれた。
息子を巻き込んだ事を悔いているとも言っていたし、普段ろくに顔を合わせる事すら出来ないのも心苦しい。

そして――――京一自身がその事について何も言わないのが、また父には苦しかった。






「京ちゃんはその事には何も言わないけど、声に出さないだけで、酷く心に傷を残しているのは間違いない」






………それが、先日までの京一の態度の原因。



誰にも心を開かず、仲良くしたいと子供達が声をかけても威嚇とケンカばかり。
唯一雨紋とはシンパシーがあるのか話をして遊ぶ事もあったけれど、それ以上はない。
雨紋も何処かでそれを感じているようで、何より雨紋の優先順位はあくまで亮一が上だった。

大人に対してはもっと頑なで、最初は口も聞いてくれない、目も合わせてくれない、触れようとすれば嫌がる。
一ヶ月、二ヶ月と経つ間に少しずつ軟化し、今では反抗は憎まれ口、素直になれない感情表現になったけれど、それでも何処かで壁を作っているようにも見えた。


けれども愛情を欲しがる気持ちは他の子供と同じで、伸ばされた手を絶対に拒否すると言う事はなかった。
池に落ちてびしょ濡れになったのを見つけた遠野が、捕まえて風呂に入れようとすると、最初はやはり暴れるけれど最後はいつも大人しい。
柔らかなタオルに包まれている時は、暴れていた事など忘れさせる位に静かだった。

その際、京一は相手の大人を見る事はないけれど、瞳の奥の光は頼りなさげに揺れている。
何かを必死に堪えているような、そんな表情を浮かべて――――きっと本人はそれに気付いていないけれど。




大人の勝手な事情に振り回されて。
父は息子に構うことが出来ず、彼はいつも一人だった。






「本当は父上殿も京ちゃんを放っておけなかった。けれど、現実は残酷で、結局一人で待たせるしかない。いつ頃帰るなんて言っても、守れない事が多かった。迎えに来ると言って置いて、待ち惚けにさせてしまう事もあった」






大人の所為で、京一の日常は壊れた。
一番好きな筈で、一番構って欲しい筈の親に、その所為で構って貰えない。

でも聡い子供は、子供なりに現状を理解してしまっていた。


寂しさにも、約束を守って貰えない悲しさにも、耐える事に慣れてしまった。
約束を反故にされても、仕方がないからと思うようになってしまった。

それは彼なりに周囲を慮っての事であるのだけれど、同時にやはり、周囲を悲しませる行動でもある。
遊んで鎌ってと子供らしい我侭を言えなくなった京一は、素直に人に甘える事が出来ない。
本当ならばもっと甘えて我侭を言って良い筈なのに。



そんな様が、八剣には見るに耐え兼ねるものだったのだ。






「だから俺は、京ちゃんを預かるようになってから約束したんだよ。俺は絶対に迎えに来るよって」






生憎、その時間までは決める事が出来ない。
目処は立てても、その時間通りに来れるかは判らなかった。

だからせめて、“迎えに来る”と言う約束だけは、破れない。






「俺の自己満足だとも思うけど。それでも、この約束を破ったら、あの子は本当に何も信じられなくなる」






大人の事情に振り回されて、京一は色んなものを見た。
その所為で、他人に気持ちを委ねることが出来ない。
自分の事は自分でしなければならないのだと、そんな意識が植え付けられた。

まだ、たった4才の小さな子供なのに。


八剣は少しずつ、その意識を取り払いたかった。
京一が思うほどに大人は決して冷たくなくて、京一は絶対に一人じゃない。

そう知って貰う為には、迎えに行くと言った約束は果たさなければならないのだ。






「宿泊保育の話は有り難いけど、辞退させて頂くよ」
「―――――判りました」






のっぴきならない事情にならない限り、八剣が今日のこの話を撤回させることはないだろう。
八剣自身が誓った想いに従って。

ならば、マリアに言える事はもうなかった。



宿泊保育にしたからと言って、もう迎えに来ないと言う訳ではない。
けれども迎えに来る日の数がずっと減る事は確かで、そうなると、結局迎えに来ないんだと京一は思うようになる。

京一は何処かで八剣を信じながら、信じ切れずにいる。
絶対に迎えに来ると言ったけれど、本当に迎えに来てくれるのか、本当に見捨てないでいてくれるのか。
大人は簡単に嘘を吐くと知ってしまったから、彼は八剣にも甘える事が出来ない。
それを、京一を慮っての事だとしても反故にしたら、それは絶望に叩き落すのと同じことだ。


それは駄目だ。
絶対にあってはならない。

京一が握り続けている細く頼りない糸。
八剣へ、父へ、そして沢山の大人と未来へ繋がる糸を手放させるような真似は、絶対にしてはいけない。





二つ足音がして、角から京一と高見沢が戻って来た。
京一は真っ直ぐ此方へと向かう。






「はい、鞄」
「ん」






差し出された鞄を受け取って、背負う。
その背中はまだ小さくて、守ってあげたいとマリアに思わせる。






「では、お世話にまりました」
「じゃーな、マリアちゃん」






頭を下げる八剣と、ひょいっと手を上げて挨拶する京一。


八剣が頭を上げるよりも早く、京一はくるっと方向転換して玄関に向かう。
早足で下駄箱に行く京一を八剣はのんびりとした歩調で追った。

倣って高見沢もマリアに一つ挨拶してから、今度こそ帰路へとついた。





―――――最後の子供が帰宅の途に着き、マリアの仕事はこれで一つ段落を迎えた。
しかしマリアの仕事がこれで終わりになる訳ではなく、今晩はずっと起きて雨紋、亮一、マリィを見守らなければならない。

マリアは玄関外の明かりは残したまま、他の外灯のスイッチを切りながら、子供たちの就寝室へと向かった。




こうして保護児童を見ていられるのはマリアと犬神だけなので、時々体力的にも精神的にも辛くなる事がある。
せめてもう一人か二人は増やした方が良いかと、犬神と岩山を交えて相談する事も増えた。
候補の保育士は何人か上がっているが、子供との適正を考えると迂闊に決められない。
何せ子供達はマリアと犬神が残るものだと思っているから、途端に他の人間が来ると、雨紋はともかく亮一やマリィは緊張しそうだった。

子供達が今の所一番慣れている保育士は遠野だが、彼女は新人だ。
規則正しい生活を送っているのもあって、急にそれを崩すと彼女の方がダウンし兼ねない。
何せ夜勤は何事が起きなくとも、気を張って子供達を見守らなければならないのだ。


最近、富に睡眠時間が短くなった。
肌が荒れてきて、スキンケアの時間もろくにないのが悔やまれる。
今度の休みには久しぶりにエステに行きたい。

ああ、でもその前に新しい服が欲しい。
保育に向く動き易い服ばかりを買うので、一着ぐらいはブランドの新品を買いたい。



………そんな事を、つらつらと考えてはいるのだけれど。




就寝室のドアをそっと開けて、音を立てないようにゆっくり入る。


一番小さなベッドにマリィが眠っていた。
うつ伏せになっていたので、気を付けながら仰向けに直す。

雨紋と亮一は一緒のベッドに眠っている。
大の字で寝ている雨紋に対して、亮一はこじんまりと丸くなっていた。
掛け布団が蹴飛ばされていたので、肩まで掛け直しておく。

いつも壬生が使っているベッドは、今日は久しぶりに無人だ。



眠る子供達の顔が夜の星明りに照らされる。
三人三様に楽しい夢を見ているようで、子供達の寝顔は穏やかなものだった。

それを見ているだけで、さっきまであれこれ考えていた自分の事は、もうどうでも良くなって。






(守らなきゃね)






この寝顔を。
この安らぎの眠りを。

母に、父に、手を引かれて帰る子供達の笑顔を。
愛して欲しいと全身で訴える、子供達の心を。













夢の中まで、悲しい思いをする事がないように。

















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今回は大人サイドなので、ちょっとシリアスめ。
犬神先生からマリア先生への口調が判りません(汗)……

京一の家庭事情については、小出しに小出しにしたいと思ってます。

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長編



龍麻→京一←八剣/京一災難/黒龍麻
親友と苦手な男、二人に想いを寄せられて…
現在停止中



ちび京一&ちび龍麻
田舎の夏休み、出会った子供達



幼児化パラレル
京一・龍麻・八剣メイン/オールキャラ
毎日がきらきら光る宝石箱





しっていること、しらないこと






葵はこの数日間、とても嬉しいことが続いていた。




葵の通う真神保育園には、色んな子が集まる。
家族皆が仕事をしている子もいれば、ちょっと難しい事情の子もいて、家に帰らないで保育園に泊まる子もいる。
保育園に泊まる子は、時々泊まる子と、毎日泊まる子といた。

その色んな子の中で、ちょっと難しい事情の子は、結構気難しい子が多い。
雨紋の後をついて行く亮一や、皆と中々話をしない壬生がそうだ。
この子達は自分から積極的に話す事もない所為か、最初の頃は皆に中々馴染めなかった。
けれど今では、皆それぞれの形で仲良く過ごせるようになった。


でも、一人だけ。
二ヶ月前に入った男の子は、皆と仲良くするのが嫌みたいだった。



京一と言う名前のその子は、葵が幾ら話しかけても返事をしてくれなかった。
怒った小蒔が「へんじしなきゃダメなんだよ」と言っても、何も言わないでそっぽを向いてしまう。
男の子達とは時々遊んでいるようだったけど、それもずっとじゃない。
皆で一緒にと言うこともなくて、雨紋と亮一だったり、醍醐だったりと、二人か三人で遊んでいるばかりだった。

京一はケンカもする。
織部姉妹の姉の雪乃や小蒔がしょっちゅうで、時々醍醐ともケンカをする。
京一がケンカを始めると雨紋もやってきて、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
こうなると、マリア先生か犬神先生じゃないと止められない。


皆とわいわい遊ぶのが苦手な子もいるのは知っている。
亮一は雨紋の傍から離れないし、壬生や如月は遊び回るより本を読んでいる方が楽しいらしい。
それでも、挨拶をすれば返事をしてくれるし、気が向いたらほんのちょっとだけ付き合ってくれる。

京一は本を読むのはあまり好きではないみたいで、外で遊んでいる方が好きみたいだった。
けんけんぱをしていたり、池の飛び石を渡ったり、―――― 一人でそうやって遊んでいる。


そんな京一が、葵はなんだか放っておけなかった。
怒っている事が多いけれど、本当は優しい子なんだと葵は思っていた。

だって、ケンカはするけど、誰かをいじめたりしないし、公園に行った時に誰かがいじめられて泣いていたら、それが知らない子でも助けに行く。
怖い顔をして大きな声で皆を怖がらせるけれど、地面にお絵かきをしている時の背中は、なんだかいつも寂しそうだった。
わざと嫌われるようにしているみたいで、葵はそれが悲しかった。




葵は、京一と仲良くしたかった。
公園に行った時にも、追いかけっこをしようと誘った。

でも京一は「いやだ」ばっかりで、いつも一人で遊んでいた。






そんな京一が、最近少しずつ、皆と遊ぶようになってきた。

































保育園の園舎の玄関横に、葵はいた。
京一と一緒に。

二人の間に会話はなくて、京一はずっと黙って地面に絵を描いている。
葵は玄関の段差にちょこんと座って、お絵かきをする京一をじっと見ていた。


そのまた傍では、舞子先生がお昼寝用の布団を干している。
布団と並んでお泊りする子のパジャマや着替えも竿にかけてある。
ぽかぽかとした春の陽気の今日は、最高の洗濯日和だ。

風が吹く度にパタパタと踊るシーツは綺麗な真っ白で、これで寝たらとても気持ちが良さそうだった。
今日のお昼寝の時間が、今から少し楽しみになる。



葵は立ち上がって、そうっと京一に近付いた。
影が重なった事に気付いて京一が振り返れば、ばっちり目が合う。






「……なんだよ」






言葉は少し尖っていたけれど、葵を見る目は怖くなかった。



最近、京一はこんな事が多くなってきた。
変わりに大きな声を出して皆を怖がらせる事が少なくなって来て、ケンカも減った(始まるとやっぱり凄いけれど)。
ずっと一人で遊んでばかりいたのが、少しずつ皆の輪の中に入って来てくれるようになった。

それもこれも、新しい子のお陰だ。
京一の後に入って来た子と仲良くなってから、皆とも仲良くしてくれるようになったのだ。



思い出したら嬉しくなって、葵は笑っていた。

にこにこ笑う葵に、京一は眉と眉の間に皺を作ったけれど、怒ることはしなかった。
しばらく葵の顔を見つめた後、また地面に向き直ってお絵描きを再開した。


葵が隣にしゃがんで絵を覗き込んでも、京一は何も言わない。
以前は傍に行くだけで怖い顔でこっちを見て来たけれど、最近はそれもなくなった。
お喋りをする事はあまりなかったけど、これもかなりの変化だ。




京一と一番仲の良い子は、今日はいない。
京一の隣はずっとその子の専用になっていたのだけれど、今日だけは葵が其処にいられる。
それに京一は怒らなかった。




ギィと玄関のドアの開く音がして、振り返ると園舎から遠野先生が出て来た所だった。

洗濯物を一通り干し終えた舞子先生が、アン子先生を呼び止める。






「お買い物ですか?」
「はい。明日のお遊戯で使う折り紙がなくなっちゃってて……あと、冷蔵庫の中身も少なくて」
「あら、そうなんですか」
「商店街の方に行くんで、他に要るものあったら買ってきますよ。何かあります?」
「えーっと……先生に確認して来るので、少し待っていて貰えますか?」






舞子先生が“先生”と呼ぶのは、保健室を預かっている岩山先生の事だ。
アン子先生が頷くと、舞子先生は空になった洗濯籠を抱えて保健室へ駆けて行った。


待ち人が戻るまでどうしようと、アン子先生は辺りを見回す。
其処で、ふわりとシーツが翻った横に、地面にしゃがむ葵と京一の姿を見つける。






「京一、美里ちゃん、何してるの?」
「きょういちくん、おえかきしてるんです」






黙ったままの京一の代わりに葵が答えると、アン子先生はひょいっと絵を覗き込んできた。


京一の足元には、小さなパンダが沢山いた。
それぞれ、少しずつ顔が違っていて、どうやら皆別人(別パンダ?)らしい。






「結構上手よねー、京一」






くしゃくしゃ、アン子先生が京一の頭を撫でる。
と、京一はぶんぶんと頭を振ってそれを払ってしまった。

優しく頭を撫でると、京一は嫌がる。
慣れていないらしかった。






「何よ。可愛くないッ」






アン子先生はそう言って京一の耳を軽く抓ったが、京一は今度は特に嫌がる素振りはしなかった。
抓られた耳はちっとも痛くなかったようで、それは傍で見ている葵にも判った。
だって怒った風な言葉を使ったアン子先生は、決して本当に怒っている訳ではなかったから。

葵はそんな様子を隣で見ていて、やっぱり嬉しくて笑っていた。






「――――遠野さん、先生にメモ貰ってきました」






舞子先生が戻って来て、アン子先生に小さな紙を渡した。
アン子先生は買い物リストのそれを確認して、判りましたと返事をしてから、メモを上着のポケットに仕舞った。


舞子先生は、アン子先生に一度頭を下げてから、また保健室へと戻って行く。
その後姿を見送った後で、アン子先生はさっき仕舞ったメモと、もう一枚メモを取り出した。
もう一枚も恐らく買い物リストだろう、折り紙の他にもまだ買うものがあったらしい。

葵がアン子先生の顔を見上げると、アン子先生は少し難しい顔。






「アン子せんせい、どうしたんですか?」
「うん、ちょっとね。数が多くなっちゃいそうだなあって思って」






メモをひらひら揺らしながら、アン子先生は笑う。



真神保育園の規模は小さいもので、常勤の保育氏はマリア先生と犬神先生ぐらいのものだった。
保健室には岩山先生と舞子先生がいるけれど、時々どちらかが日もある。
アン子先生は一週間の内、どれか一日が休みだったりして、代わりに夜遅くまでいる事もあった。

他にも数人の大人がいるけれど、その人達の殆どはお昼ご飯を作っていたり、お遊戯の準備をしていたりして、葵はあまりゆっくり話した事がない。
他の子供達も恐らくそうだろう。
子供達の相手をしているのは、専らマリア先生、犬神先生、アン子先生と、舞子先生ぐらいのものだ。


大きな保育園ではないのだから無理もないけれど、全体の人数として、真神学園はいつも人手不足なのが困る所であった。


そんな訳だから、買い物などをする時は、その時必要な物と一緒に他諸々も纏めて買い揃える事が多い。
これが犬神先生のような男手ならば問題ないのだが、女の人は中々苦労する。

折り紙、色鉛筆、ティッシュ箱、掃除洗濯用の洗剤、朝昼晩の食材―――――これがかなり重い。
慢性的に人手不足なものだから、買出しに廻せる人数も限られて、手が空いている人が時間の折を見て走るのが常。
結局、一人で重い買い物袋を抱えて、よろよろと帰って来るのである。



葵は、マリア先生やアン子先生が買い物に行って帰って来た時、疲れた顔をして帰って来るのを知っている。
犬神先生はいつもと同じ顔をして帰って来るけれど、両手に抱えた荷物はいつも重そうだった。

それを見つけると、葵はお手伝いしなきゃ、と思うのだ。






「アン子せんせい、わたしも、おかいもの行きたいです」






葵がそれを言い出すのは、これが初めての事ではない。

葵は誰かの為に何かをするのが好きだった。
そうして相手が喜んでくれたら、自分も嬉しくなって、胸の辺りがぽかぽかする。
それが好きだった。


アン子先生は本当? と嬉しそうに笑ってくれた。






「じゃあ、悪いんだけど、ちょっとだけ荷物持ってくれる?」
「はい」
「ありがとう! 美里ちゃんはいい子よね~ッ」






ぎゅう、とアン子先生が葵を抱き締める。
ごほーびにアイス買ってあげるね、と頭を撫でながら言われた。


一頻り葵の頭を撫でてから、アン子先生は京一を見た。

地面にパンダを描いていた京一の手は、いつの間にか止まっている。
葵はなんとなく、自分達の方を気にしているんだと判った。






「京一は来てくれないのかな~?」
「……なんでオレが」






アン子先生が言ってみれば、素っ気無い言葉が返ってくる。
けれど、アン子先生は怒らなかった。






「女の子だけに重い荷物持たせるなんて、男じゃないわよ」
「アン子はオトナだろ。オレより力あるじゃんか」
「なーんだ、京一ってあたしより力ないんだ。男の子なのに。でも来てくれると助かるんだけどなー」






京一が顔を上げてこっちを見る。
口がちょっと尖っていた。


京一はあんまり素直になれない。
手伝ってと言われても、中々それに「うん」と言ってくれない。

そんな京一がどうしたら「うん」を言ってくれるのか、アン子先生はよく知っていた。
言ったら少し腹が立つような事を言って(勿論、そう思っている訳でもないのだけれど)、ちょっとだけ彼を怒らせる。
素直じゃないこの男の子は、「出来ないんだ」と言われたら、「出来る」と反論してくるのである。


更に駄目押しに、これ。






「一緒に買い物行ってくれたら、パンダさんのお菓子買ってあげようと思ったのになー」
「………………いく」






――――――食べ物の誘惑こそ、子供にとって最大の魅力なのだ。


































実は、葵に限らず、買出しの際に子供がついて来る事は珍しくない――――この真神保育園に置いては。
殆どの場合は子供の自主性であるが、時折、マリア先生達の方針で、買い物に同行させる事がある。

真神保育園には複雑な事情を持つ子供がいる。
そんな子供は、中々環境に溶け込む事が出来ず、また保育園の外界へも心を閉ざしてしまう。
そうなってしまう事のないように、真神保育園の保育士達は、子供を箱庭の世界へ閉じ込めまいと試行錯誤しているのだ。
買い物の荷物持ち等の手伝いをして、ご褒美を貰うことで、“誰かの助けになること”“褒められる、喜んでもらえる喜び”を学んで欲しかった。
織部神社での境内の掃除等も、その一環だ。

幸運な事に、想いは奏して、保育園の子供達は周辺近所の人達にも評判の良い、良い子達に育っている。


そんな訳で、真神保育園の子供達は、ご近所でちょっとしたアイドルみたいなものだった。
いつも買出しに利用させて貰っている商店街でも同じ。






「こんにちはー」
「こんにちは」
「はいはい、いらっしゃい」






八百屋の暖簾を潜って挨拶するアン子先生と、葵が続いて挨拶すると、奥からおばあちゃんが顔を出した。

腰の曲がったおばあちゃんだけれど、足元はしっかりしていて、目元は柔らかく笑っている。
このおばあちゃんは、保育園の子供達を孫みたいだと言って可愛がってくれる。






「今日は葵ちゃんと京ちゃんかい」






おばあちゃんのこの呼び方が、京一はあまり好きではないらしい。
む、と顔が少し嫌そうなものになる。






「……京ちゃんちがう」
「そうそう。京一ちゃんだったね」






また京一の顔がむぅとなる。
けれど、それ以上は言わなかった。
言っても止めてくれないと思ったのだ――――“ちゃん”付けで呼ぶ事を。


京一が拗ねた顔で暖簾の外に出て行く。
アン子先生が呼び止めたけれど、京一は戻って来なかった。






「しょーがないなァ。美里ちゃん、外で京一見ててくれる?」
「はい」
「何かあったら直ぐ呼んでね。あたしも、早めに買い物終わらせて出るからね」
「はい」






一度拗ねると、京一は中々機嫌を直さない。
少し前に比べると随分柔らかくなった彼だけれど、それは変わらなかった。

無理に引っ張って連れ戻せば余計に拗ねてしまって、一人で保育園まで歩いて帰ってしまい兼ねない。
それを考えると、店の直ぐ外で待っていてくれている方が良い。


幸い、商店街の人達は葵の事も京一の事も、勿論保育園の事も知っている。
知らない大人が声をかけてきたら、周りの大人の方が気を付けてくれるだろう。
とは言え、何よりも一番良いのは、アン子先生が早く買い物を済ませる事だ。




葵が店の外に出ると、京一は店の入り口横に立っていた。
隣に並ぶと、ちらりと目がこっちを見て、また前に戻される。

二人の間に、やっぱり会話はなかった。


買い物に行く前とそっくり同じシチュエーションだ。
でも、これが葵にとって待ちに待ち望んだ事。
まだまだお喋りは出来ないけれど、一緒にいたいとずっとずっと願っていたのが、ようやく実った。





―――――店の中から、アン子先生とおばあちゃんの会話が聞こえてくる。






「ピーマン嫌いな子が多くって」
「ああ、そうだろうねェ。栄養たくさんあるのにね」
「あとグリンピースとか、人参とか。なんとか食べさせてるけど、泣いちゃう子もいて大変で…」
「葵ちゃんや京一ちゃんも、嫌いなものあるかい?」
「美里ちゃんはなんでも食べてくれるの。でも、京一は凄い好き嫌い激しくて」






その声は、葵に聞こえている訳だから、当然隣にいる京一にも聞こえていて。
京一の拗ねていた顔が益々拗ねて、足元に転がっていた石をこつんと蹴飛ばした。






「でも一応、全部食べてくれるの。時間はかかっちゃうけど」
「うんうん、それがいいよ。ああ、そっちの大根は辛いから、こっちの方が良いよ」
「ありがとう~!」
「そう言えば、この間初めて来た子…なんて言ったかねェ……歳だねェ、やだよ、物覚え悪くなっちゃって」
「緋勇龍麻君って言うの」
「そうそう、そうだったね。あの子は苺が好きって言ってたねェ」






物覚えが悪くなったと言ったけれど、葵はそんな事はないと思う。
だって此処のおばあちゃんは、保育園の子供達の名前を皆覚えてくれているのだ。

葵は、いつか自分もおばちゃんになるなら、あんなおばあちゃんがいいと思った。
にこにこ優しい顔で笑っていて、近所の子供達に好かれるおばあちゃんがいい。
皆の名前をちゃんと間違えないで覚えていて、色んな事も知っていて、子供達から凄いなぁと言われるおばあちゃんになりたい。




そう思っていた矢先の事だった。
飛んできたサッカーボールが、京一に当たったのは。






「――――きょういちくん!」







見ていない方から飛んできたボールは、京一の頭に当たって跳ねて、地面を転がって行った。

ボールが当たった瞬間にバンッと大きな音がしたものだから、葵は目を白黒させて京一の名前を呼ぶ。
京一は一度ぐらっとしたけれど、転んだりはしなかった。
けれども当たった頭は痛みを訴えて、頭を抱えて蹲る。






「きょういちくん、だいじょうぶ?」
「………ん…」






じんじんと痛む頭を抱えながら、心配する葵の声に、京一はなんとか頷いた。
しかし痩せ我慢である事は葵の目にも明らかだ。

どうしよう、と葵は焦った。
とにかくアン子先生に言った方が良い、と言うかそれしか思い付かない。
慌てて八百屋の店の中に入ろうとして―――――聞こえた声に葵の足が止まる。






「やーりィ、この間のおかえしだッ」






葵が声のした方向へと振り返れば、ほんの少しだけ見覚えのある男の子が立っていた。
手にはサッカーボールを持っていて、この子が京一に向かってボールを蹴ったのだ。


男の子は、少し前に保育園の子供達が公園で遊んでいた時、京一が泣かせた男の子だった。
同時に、葵の幼馴染の男の子を苛めて泣かせた子でもある。

公園での出来事と、今の出来事で、葵は腹が立った。
あの時も今も、幼馴染の子も、京一も何も悪い事はしていない。
アン子先生は泣かせたのは良くない事だと言っていたけれど、先に幼馴染を泣かせたのはこの男の子の方で、京一は幼馴染の子を助けてくれた。
京一がボールをぶつけられて痛い思いをする必要なんて、絶対になかった筈だ。






「何するの!」






葵が怒って言うと、男の子は葵をちらりと見て、べーっと舌を出す。






「おかえしだよ、おかえしッ。だいたい、そいつナマイキでムカつくんだッ」






京一を指差して、男の子は言う。






「オレのかーちゃんが言ってたぜ。そいつのかーちゃん、いないんだって。オヤジがロクデナシで、シャッキン作ったから、出てったんだって。ロクデナシのオヤジのこどもは、ロクデナシなんだってさ。なのにナマイキでムカつくッ」






男の子が何を言っているのか、葵にはよく判らない。
男の子の方も、どんな意味が其処にあるのか、きっと判っていない。
母親の言葉をそのまま繰り返しているに過ぎない。

でも意味がどんなものであれ、きっと京一が嫌がる事だと言う事は、葵にも判った。


京一は葵の隣で黙ったままだったけれど、ぎゅうと手を握っている。
今にも殴り掛かりそうだった。






「ロクデナシのこどもが、えらそーにするな!」
「あなたにかんけいないじゃないッ」
「かんけいある。ココは、オレのナワバリなんだッ」






―――――男の子は、典型的なガキ大将だった。


同じ年頃の子供よりも体が一回り以上大きくて、ケンカをすれば負ける事は滅多にない。
他の子供が持っているオモチャを力付くで取り上げてしまう事も少なくなかった。
大人達もほとほと手を焼く問題児である。

対格差が明らかに違う男の子に向かって行く子供は、殆どいなかった。
いても負けてしまう事が殆どで、気付けば彼は、子供達の王様のようなポジションになっていた。



それが当たり前になってきた頃に、京一が現れた。



男の子と京一が会うのは、児童公園で。
男の子が誰かを泣かせたら現れて、飛び掛ってくる。

こんなチビなら楽勝だと思っていたら、京一は強かった。
殴れば殴り返すし、押し倒して揉み合いになっても泣かないし、全力で抵抗してくる。
終いには、男の子の方が泣かされた。


ガキ大将で王様気分だった男の子には、それが酷く屈辱的な事だった。




けれども、京一にとってはそんな事はどうでも良い。






「……べつにテメーなんかどうでもいい。ナワバリなんかきょうみねェし」
「だったらなんででしゃばるんだよ。ロクデナシのくせに」






何度も繰り返す単語。
京一がイライラとしているのが葵にも判る。

いや、葵もイライラしていた。
意味は判らないけれど、それでも酷い事を平気で繰り返して言う男の子に。
京一は何も悪くなんかないのに。








「……ろくでなしって言うな」







なんにもしらねェガキのクセに……!


苦しそうな、消えそうな声で京一が言った。
何かを我慢しているような声だった。

男の子はそれに気付かない。
寧ろ、京一がその単語に反応したのに気付いて、余計に繰り返して来る。




ろくでなし。
ろくでなし。



何度繰り返されても、葵にはなんの事かさっぱり判らない。

でも一番大事な事は判る。
京一はそんなものじゃないって事。




葵が京一の顔を見ると、怒った顔と、泣きそうな顔がごちゃ混ぜになったみたいだった。








――――――ばちん、と大きな音が響いた。








手がじんじんと痛みを訴える。
葵の手が。

生まれて初めて、人を叩いた手が痛い。
でもきっと、絶対、それ以上に、京一の方が痛い筈だと思う。


男の子の言っている意味は殆ど判らなかったし、男の子もきっと判っていなかった。
けれど、言って良い言葉と悪い言葉の区別ぐらい、葵にだって判る。
言えば京一を傷付ける事になると男の子も判っていて、なのに何度も繰り返すなんて最低だと思う。



相手を泣かせる言葉なら、京一も言った事がある。
二月に初めて真神保育園に来てから、京一はずっと、葵や小蒔が傷付く事をわざと言っていた。
その時は冷たい子だと思ったけれど、今なら判る――――あれは本気で言ったんじゃないと。

京一の事情を、葵は知らない。
でもあんな風にわざと人を遠ざけるような事を言わなきゃいけなかった位、何かを抱え込んでいたんだと今なら判る。
葵や小蒔を傷付ける言葉を言いながら、彼も傷付いていたんだと。


でも、この男の子の言葉はそういうものじゃなくて、単純に人を傷付ける為のものだ。
そうと判っていて繰り返す言葉は、とても鋭く尖っていて、痛い。






「きょういちくんのこと、しらないのに、ひどいこと言わないで」






ひっく。
葵の喉が引きつった。

じわり。
目の前がぐにゃぐにゃになる。






「しら、ないのにッ…しらないのにッ……ひどいことッ……」






服の裾をぎゅうと握って、葵は座り込んでしまいたいのを必死で我慢した。


男の子は、まさか女の子の葵に打たれるとは思っていなかったのだろう。
打たれた頬を押さえて、目を白黒させている。

京一もまた同様に、驚いた顔で葵を見ていた。






「ひッ…ひどッ……う、ふぇッ……」






じわじわと浮かんできた涙が、ぽろぽろ零れ落ちる。
泣き出した葵を前にして、男の子はオロオロとうろたえ始めた。

八百屋の暖簾が捲られて、買い物を終えたアン子先生が出てくる。






「美里ちゃん!?」
「せ、んせぇ……えっ、ふぇ……」
「京一、何、どうしたの? 何があったの?」






以前なら、京一がまた葵を泣かせたものと思っただろう。
だが最近の京一は、まだ少し素っ気無い所はあるものの、ケンカにならない限りは相手を泣かせてしまう事はしなくなった。
時々不可抗力で泣かせてしまう事はあったけれど、直ぐに謝れるようにもなった。


アン子先生の問いに、京一はあいつ、とだけ言って、男の子を指差した。

頬を腫らせた男の子を見て、アン子先生も思い出す。
その男の子が近所で有名なガキ大将で、児童公園で顔を会わせる度に誰かを泣かせていた事を。






「あんたはまたッ!!」
「やべッ…!」






大人のアン子先生が来た事で危機を感じた男の子は、くるりと背中を向けると、一目散に走り出した。

アン子先生は一瞬追い駆けようとしたが、泣いている少女の事を直ぐに思い出す。
出掛けた足を引っ込めて、泣きじゃくる葵と、傍に黙ったまま佇む京一に向き直る。



外での子供たちのケンカに気付けなかった事を、アン子先生は後悔していた。

勘定を終えて外に出ようと思ったら、奥間に戻ろうとしたおばあちゃんが転んでしまい、腰を打ってしまった。
年齢で言えば八十を超えたおばあちゃんを、そんな状態で一人に出来る訳もない。
直に息子が帰って来ると言われたけれど、それまで店先に座らせて置くのも良くないと思い、奥間に運んでいる間に子供達はケンカを始めてしまったのである。

戻ってみれば葵が泣いていて、京一は呆然としていて、ガキ大将の男の子がいて。
致し方のない事だったとは言え、やはり目を離すべきではなかったと思ってしまうのは無理もない。




アン子先生は、葵と京一を二人一緒に抱き締めた。
葵はぎゅうとしがみついて来て、京一は少しじたばたとしたけれど、直ぐに大人しくなる。








葵が落ち着いてまた笑えるまで、三人はそのままじっとしていた。





























必要な買い物を全て終えてみれば、予想通り。
アン子先生一人で抱えるには重くなった荷物に、葵はついて来て良かったと思う。
京一もご褒美に約束のパンダのお菓子を買って貰って満足していた。


人参やピーマンやトマト、お肉や牛乳やジュースの入った重い荷物は、大人のアン子先生が持っている。
「おとこなんだからオレがもつ」と京一は言ったけれど、袋を引き摺ってしまう為、結局アン子先生になった。

京一は色鉛筆や画用紙やマジックペンの箱の入った袋と、お菓子の入った袋を持っていた。
葵は一番軽い、色紙や絆創膏の入った袋。
京一は葵の分も持つと言ったけれど、それじゃ自分がついて来た意味がなかったから、葵は自分も持ちたいと言って譲らなかった。




保育園への帰り道を、三人並んで歩く。
一番車道に近い側にアン子先生がいて、葵がいて、京一がいる。
葵はアン子先生と手を繋いでいた。






「アン子せんせい、おもくない?」
「へーきへーき。ありがとね、美里ちゃん」






一番重い荷物を持っているアン子先生を葵が気遣うと、アン子先生は荷物を持ち上げながら言う。
本当は少し肩が痛いくらい重かったりするのだけれど、言わない。






「美里ちゃんと京一が来てくれて助かっちゃった。あたし一人じゃ、全部は持てなかったもん」






ありがとね。
もう一度そう言って、アン子先生は葵の頭を撫でた。

葵は嬉しくて、胸の奥がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。




赤信号に引っかかって、三人並んで止まる。
真っ直ぐ進む先に、真神保育園の玄関が見えた。

葵は、なんだか少しほっとしたような気がした。
それは多分、今日一日で色々なことが起きたからだろう。


京一とずっと一緒にいて、一緒に買い物に出て。
何か特別な会話をした訳ではなかったけれど、それでもやっぱり嬉しかった。
少し前までは、話どころか一緒にいることさえも出来なかったのだから。

そして初めて誰かとケンカをして、相手の子を叩いた。
後で少し後悔したけれど、あのまま黙って聞いている事も、あの男の子に京一を傷付けられるのも嫌だった。
友達を守りたくて初めて振り上げた手は、じんと痛みはしたけれど、いつまでも後悔する事はなかった。



――――――今日はいつもと同じ一日のようで、いつもと違う一日だった。



…ただ少し不安なのは、あれから京一が一度も口を利いてくれないことだ。

元々葵と京一はお喋りが出来る仲ではなかったけれど、目を合わせたら何かアクションをしてくれた。
でも今日は、あの出来事から目を合わせることもしてくれない。
こっちを見ているような気はするのだけれど、葵が振り返ると、急にそっぽを向いてしまうのである。


何か良くない事をしてしまっただろうかと、不安になるのも無理はない。
葵は以前よりも京一の事を知っているけれど、全部を知っている訳じゃない。
また、京一の方から葵に歩み寄ってくれる事も、今のところなかったから。


あの男の子が言っていた事を気にしているのかも知れない。
あの言葉を、葵も思っているんじゃないかと、思われているのかも知れない。

思ってなんかいない。
そう言いたかったけれど、言ったら思っていたように見られそうで、迷ってしまう。
何を言えばまたこっちを見てくれるのか、まだ判らない。





赤信号の待ち時間が残り僅かになった。
曲がり道行きの横断歩道の信号がチカチカ点滅し始める。


そんな時、






「――――――………きょういちくん?」







荷物を持っていない方の手に、京一の手が重なった。
名前を呼んでそちらを見れば、京一は明後日の方向を向いている。

でも、重なった手は離れない。


葵は、そっと、重なった手を握ってみた。

すると、柔らかな力で握り返される。







信号が青に変わる。
行こう、とアン子先生に促された。

京一が先に歩き始める。
葵は京一に引っ張られながら横断歩道を渡った。
それからも手は離れなくて、葵はずっと京一に手を引かれていた。



突然の思わぬ出来事に、葵はしばらく、瞬きを繰り返し、










――――――――……ありがとな。










聞こえた言葉に、初めて京一から手を繋いでくれた事を思い出した。














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うちのサイトでは珍しく、葵メインの話でした。
思った以上に長くなってしまいました(汗)。毎度の事ながら…

京一の事情をちらり。
でも子供の口からこんな台詞出て来たら嫌ですねι書いてて残酷な気分でした…
京一の家庭事情については、追々書いて行きたいと思います。
ただほのぼの傾向ではないので、いつ滑り込ませていいかと迷ってます……

龍麻×京一




↑ Old ↓ New


Is the nickname necessary?
龍麻&京一。アニメ一幕14話。
あだ名呼び。

Give-and-take
龍麻→京一。
報酬のオゴリ。

Joke and worry
龍麻×京一。アニメ一幕4話。
僕の手で、君が死んでしまうのが怖かった。

Palmar whereabouts 前編 後編
その手に、僕は生かされてる。

To catch up with you, all
アニメ一幕11話。
追い駆ける為に、見つけ出す為に。

How to, for you 前編 後編
18禁。初H。エロは後編のみ。
親友の、たっての頼み。

Remember the result
18禁。体育倉庫で。
声を殺して。

vestiges carve
微エロ。拳武編戦闘後。
消えない傷、刻まれた痕。

There is a limit also in intimate relations
18禁。放課後の教室。
君だけに、ただ夢中になる。






There is a limit also in intimate relations













此処に君がいるから、止められない。

























【There is a limit also in intimate relations】

























何故こういう事になっているのか。
一から十まで、判るように納得できるように説明して欲しい。

京一の胸中はそんな言葉で一杯だった。


と言うのも無理のない話で、現在京一は、自分自身では到底理解できない状況にある。




場所は京一が通う都内の有名高校、真神学園のとある講堂。
時刻は授業が全て終わった放課後で、空はすっかり夕闇色に染められた頃。
放課後の部活に精を出していた生徒達も、既に帰路へと赴いてからかなりの時間が経っていた。

本来なら、今頃は行き付けのラーメン屋で夕飯にありついているか、『女優』でゴロゴロしている筈だった。
それなのに未だに教室を出られずにいるのは、机の上に山積みにされた補習プリントの所為だ。
最低でもこれらの中身を一通り埋めないと、京一に安息が訪れる事はないのだ。



しかし、今現在の京一は、その面倒臭いながらも義務となっているプリントを片付ける事さえ出来ない状態。



彼が落ち着いているのは、机に向かうための椅子ではなく、机の上。
一つの机につき、生徒が三人は並んで座れる机に、京一は上半身を背中から預ける形になっていた。

幅は広いが奥行きのない机である。
横に寝るならともかく、縦に体を乗せても、腰から肩までしか支えはない。
腹筋の力を緩めてしまえば、首から上は重力にしたがって逆さまになってしまうから、京一は必死だった。


それだけなら降りれば済む話なのだが、腕を拘束されている所為で適わない。
拘束しているものはロープ等ではなく、京一のスラックスに通してあったベルトだ。
机に立てかけていた木刀は、京一が此処に乗った時の揺れで倒れたらしく、床に転がっている。


起き上がりたいけれど、起きられない。
木刀も拾いたいが、拾えない。

その最大の原因と理由は、京一同様、居残り補習をしていた親友・緋勇龍麻にある。






「……何してんだ、お前ェは」






笑みを浮かべて見下ろしてくる龍麻を、京一はぎろりと睨み付ける。
元々穏やかとは程遠い眦が更に凶悪さを帯びるが、龍麻はまるで堪えない。

居残り補習中にあるまじき状態の京一を見下ろす龍麻は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべているように見えるが、京一には明らかに違うと判る。
室内に自分達二人しか残っていないから、この底意地の知れぬ笑みが顔を出したのだろう。
だから自分もこんな状況に落ちているのだと。


腰骨の辺りに机の角が食い込んで痛い。
机に乗っているのは背中だけで、下半身は乗り上げていないのだから当然だ。

それからもう一つ、気になっている――――と言うか、心許無い事がある。
ベルトを抜かれている所為で、スラックスが落ちてしまい兼ねない事だ。
サイズに然程の余裕がある訳ではないが、留める物が失われていると言うのは不安になる。



それらを全て判っている上で、親友は笑っているのだ。
机に乗せられた京一の上半身横に手をついて、自分の有利に絶対の確信を持って。






「退け。帰れねェだろ」
「退いても京一はまだ帰れないよ」






それは確かな事実だ。
京一に用意された補習プリントは、全量から計算してまだ半分も残っている。

しかしそれらは机の下にバラバラにぶち撒けられており、そうなった瞬間、京一のなけなしのやる気は完全に折れた。
わざわざ持って帰って片付けようとも思わない、明日の朝まで恐らくこのまま放置になるだろう。
今から数秒以内に犬神が此処へ来ない限り、その予想は現実のものになるに違いない。

後でどれだけ怒られようと、結局はいつかまた補習で居残る羽目になるのだとしても、今日の京一はもう帰る腹積もりだった。
……龍麻が自分の上から退きさえすれば。





「帰るんだよ。だから退け」
「いや」





平仮名二文字できっぱり拒否される。


拘束された腕で龍麻の顔を押し上げる。
それで効果があるとは期待していないが、取り敢えずこのまま大人しくしている訳にも行かない。





「退けっつってんだよ」
「いや」
「こンの……!」






膝で龍麻の腹を蹴ってやる。
が、腹筋に力を入れたのだろう、堅い反動があっただけで龍麻はけろりとしていた。



とにかく腕の拘束だけでも解かなければ。
ぐるぐると無造作に巻かれたベルトは、絶妙な絡まり方をしているようで、いっそ千切ってしまおうかとも思う。
だが案外頑丈に出来ているこの代物は、簡単には裂けてくれそうになかった。

これさえ解ければ本気で全力の抵抗が出来るし、暴れまくれば龍麻も笑ってはいられない。
後は僅かでも良いから隙が生じれば、現状打破は可能になる筈だ。


龍麻の顔を見上げながら、京一は腕を何度も捻った。

千切るのも解くのも無理なら、どうにか緩めて腕を抜くしかない。
状態を確認する事が出来ないのが辛い、見えれば何処をどう弄れば良いか少しは判るのに。



ベルト相手に四苦八苦する京一を、龍麻は明らかに面白がっている瞳で見下ろしていた。

傍目には普段と変わりない表情だが、京一には判る。
他人が聞いたら被害妄想だろうといつも笑われるのだが、京一は絶対の自信があった。






「ふざけた真似してねェで其処から退け!」
「うーん」
「悩むな考えるなッ! つーか考えてもねェんだろ、どうせ!」






辛うじて自由である足をジタバタと暴れさせ、眼前の親友を跳ね除けようと試みる。
しかし龍麻はそんな京一を見下ろしながら、尚も「どうしようかなァ」等と呟いている始末。
その瞬間の微笑みの憎らしい事と言ったら!


腕を擦るベルトの角が痛い。
皮製のそれは鋭利とまでは言わずとも、柔らかなものではない。
幾らか痕になっているのは確実だ。

その手首に龍麻の手が伸び、ベルトのラインが擦れた痕をなぞるように、指を滑らせる。
ヒリヒリとした小さな痛みの隙間を塗って来た緩やかさに、京一の腕が一瞬不自然に硬直した。






「龍麻ッ」






これ以上の好き勝手を許してはならないと、最後通告の如く声を荒げる。
が、それが通じるような相手ではない事は、京一が誰よりもよく知っていた。






「京一、煩い」
「んだと―――――んぅッ、」






噛み付くように唇を塞がれる。
龍麻の唇と舌によって。



ちゅく、と咥内で音がする。
歯列をなぞる生暖かい蠢くものがあって、ぞくりとしたものが背中を駆け上って脳髄を蝕む。
蠢くものは数回歯列をなぞり、隙間が開くと、其処から更に奥へと侵入を果たす。

囚われまいと逃げた舌はあっさりと絡め取られ、いっそ噛んでやろうかと物騒なことを思えば、まるで頭の中を覗いたかのように下顎を捉えられて叶わない。
頭を少し上向きに持ち上げられると、口が更に開いてしまって、侵入者の横暴を許してしまう。


長く続く口付けに、京一は呼吸することを忘れていた。
脳に回される筈の酸素が不足すれば、思考回路の結び目は解け始め、躯は抗う力を失う。

拘束からの開放を求めて諦め悪く捻り続けていた手首は、もう動かない。
辛うじて束ねられた両手が握り開きを繰り返していたが、その程度が何の働きになると言うのか。
背にした机の下をガンガンと蹴っていた足も、次第に勢いをなくし、重力に逆らう事を止めた。






「ん、ん……んぅ…ふ、っは……んん…」
「京一…ん………」






まるで飴でも舐めているかのように、龍麻は執拗な程に京一の唇を貪った。

喰われそうだ―――――と京一は思う。
常の穏やかな印象とは程遠い激しい口付けに、茫洋としながら。






「んぁ…龍、麻……ん、ぅ、ふぅッ……」






手首に触れていた龍麻の手が離れ、京一のシャツを捲り上げる。
火照り始めた肌に触れた外気は、少しひんやりとしていた。

温度差の所為だろうか、微かに硬くなった胸部の頂に龍麻の指先が触れる。






「んッ…!」






ふるりと身を震わせた京一の甘い声は、口付けによって妨げられた。


最後に唇の形をなぞるように舌を這わせて、龍麻は京一の顔から離れる。
ようやっと息苦しさから開放された京一は、ぼんやりとした瞳で無機質な天井を見上げ、呼吸する。
その間にも龍麻の指は京一の躯に悪戯を止めることはなく、若く敏感な躯は素直に反応を示していた。






「っは…あッ、あ…ん、ふぅ……あぁッ……」
「乳首、勃ってる」
「や、め……バカ…んッん、あ、ぅ…」






濃厚な口付けによって高められた官能は、京一の全身をまるで甘い毒のように犯す。


夕暮れ時になって暗くなってきた教室の中。
時折、散らばったプリントを踏んだ瞬間のくしゃりと言う音が鳴る。
それ以外は、もう艶を含み始めた京一の呼吸以外は酷く静か。

龍麻の指先によって刺激を与えられる胸と、未だ触れられてもいない下肢。
どちらも同じ熱を覚えていて、京一はもどかしさと羞恥で身を捩る。






「ひあッ、あ…!」
「下、触って欲しい?」
「んん……!」






問い掛けに、どちらであっても答えるのが嫌で、京一は口を噤んだ。
そんな親友の反応を面白がるかのように、龍麻は勃起した乳首の先端を指先で弾く。






「あ、あッあッ…! やッあ、龍麻…ッ!」
「ねぇ、下も触って欲しい?」






胸板に舌を這わせながら、龍麻は問う。
京一の答えを急かすように、敏感な先端を弄りながら。

机からはみ出た頭を支える気力なんて既になく、京一は喉を露にして、躯は仰け反る姿勢になっていた。
肩幅より少し大きめに開いた足の間には龍麻がいて、京一に覆いかぶさる彼には、親友の躯が今どんな状態であるのか感じ取れている筈。
だのに龍麻は自ら手を伸ばす気はないようで、親友の返事を待ち、上半身ばかりを刺激する。






「はひッ、あ、ん、ううッ…」






胸ばかりを集中して攻められて、後の期待は何もない。
開発された躯には、それは緩やかな拷問だった。


しかし、だからと言って自ら望みを口にする事は出来ない。

何せ此処は学校の教室で、今自分達は補習中なのだ。
この補習を言いつけた犬神が何時戻ってくるのか判ったものではない、仮に最中に教室のドアが開こうものなら、京一はその瞬間に死ねる自信がある(威張れるものでもないけれど)。
―――――それを差し引いても、京一の性格が、相手に“請う”と言う行為を簡単に赦せない。






「っは…ん、う……くぅッ…!」
「……んー……」






何度促しても、貝の如く口を閉ざす京一に、龍麻は眉尻を下げる。
困ったと、判り易い表情を浮かべつつも、情交を止めるつもりはなく、クリクリと指先で京一の胸を弄っていた。






「言わないんだったら、教えてあげるよ」
「はッ…? はあ……?」






突然の龍麻の言葉に、どう言う意味だと京一は顔を顰めた。
腹筋に力を入れて頭を持ち上げ、龍麻を見る。

龍麻は、にっこりと何とも楽しそうな顔を浮かべていた。


――――――野性の感が“危険”の鐘を鳴らすまで、時間はかからなかった。






「待て、龍ッ……うわ!」
「暴れたら駄目だよ。プリント余計に散らばるよ?」






京一の躯を引っくり返して、仰向けからうつ伏せに。
敵に背中を向ける(敵ではなくて親友なのだが、このシチュエーションでは完全に敵だ)格好に、京一は更なる嫌な予感を覚えて肩越しに後ろを見やる。

拘束した腕を支えに起き上がる事を妨げる為だろう、京一の背中には龍麻の腕が乗せられている。
重力プラス体重で押さえつけられては、容易く跳ね除けることは出来ない。
結果、京一の腕は自身の体の下敷きにされ、背後の力に抗う術は完全に封じられた。






「プリントなんか今更だッ! つーか何しようとしてんだ、お前は! いやなんでもいいから、とにかく止めろッ!」






膝で机を蹴りながら、京一は無駄な抵抗と判っていながら叫ぶ。
現状で流される事は自分のプライドが赦さなかったから、もうそれしか出来る事はなかった。

机がガタガタと煩い音を立てて揺れる。
龍麻はそれも気にした様子なく、寧ろ心配しているのは床に散らばったプリントの方。
後で集めるの大変だなぁと呟くのが聞こえ、じゃあ今すぐこの行為を止めて集めろと言いたくなる京一だ。


だが京一の願いも空しく、龍麻は京一の背中に覆い被さって来る。
拘束の為にベルトを抜いた為に既に緩んでいたスラックスに手をかけ、擦り落とした。






「龍麻ッ!!」






肩越しに睨んだ親友の瞳が、嫌に楽しそうに見える。

スラックスが床に落ちて、京一愛用のパンダ柄のトランクスが晒される。






「京一って案外可愛いもの好きだよね」
「~~~~~~ッッ!!!」
「そういう所、可愛くて好きだよ」






耳たぶにキスが降って来たが、京一はそんな事に構ってはいられない。



パンダ柄のトランクスなんて、子供っぽいのは判っているつもりだ。
他者から見た自分のキャラクターと違うのも。
高校生にもなって――――と自分で思わないでもない。

しかし、どうしてか―――習慣になっているのか、どうしても無意識に選ぶのはこんな柄だ。

他人には絶対に見られたくないから、体育の着替えの時でもさっさと済ませてグランドに向かっていた。
夏のプール授業もそれは同じで、なるべく人には知られないよう、気付かれないようにして来た。


………なのに。
一番知られたくない人間に知られてしまって、この羞恥と歯痒さと言ったら最高レベルだ。
言い触らすような人物ではないのが唯一の救いかも知れないが、知られた時点で京一のプライドはズタボロである。


それでも無意識に選んでしまい、履くのは止められないのだが。




耳まで真っ赤になって突っ伏す京一に、龍麻はくすりと笑う。

愛用のパンダも脱がせれば、引き締まった臀部が外気に晒される。
龍麻は手のひらでそのラインをなぞった。






「てめッ、龍麻!」
「何?」
「なんかやらしーんだよ、止めろッ」
「やらしいのは京一だよ」






抗議の声をさらりとかわして、龍麻は京一の股の間に手を潜らせて前部に触れる。






「あッ……!」






ビクッと京一の躯が跳ね、甘い声が漏れる。

前部は触れられてもいなかったのに、竿は既に半勃ち状態。
袋をやわやわと揉んでやると、京一は机の縁を縋るように握り、ふるふると躯を震わせた。






「気持ち良いんでしょ?」
「んッ、あッ、や…! やめ、龍麻ッ……」
「ほら、やっぱり京一の方がいやらしいよ」






吐息がかかる距離で耳元で囁かれ、京一の官能は更に高まる。


くにゅくにゅと柔らかな袋を強弱をつけて揉む手。
それにより、雄は少しずつ頭を持ち上げて行く。

抵抗を抑える為に背中に乗せられていた腕が離れ、代わりに龍麻が覆い被さる。
空いた手がまた下肢に伸びて、京一の雄を扱く。
強くなる快楽の刺激に、京一はいやいやするように頭を振った。






「あ、ひぁッ、あッ! 龍麻、やめっえ…は、あぁああッ…!」






刺激された雄はみるみる内に膨張し、あと少しで達すると言う所まで来た。
その頃には京一の足は殆ど力を失い、自重を支える事も出来ない。
それを龍麻が押し開くように内股を押すと、力の作用に素直に従い、秘孔が露出する。

ヒクヒクと伸縮を繰り返す其処は、明らかに刺激を欲している。






「京一のココ、物欲しそうだよ」
「んんッ……!」






秘孔を指で突付かれて、ひくりと京一は躯を仰け反らせた。


つぷり、龍麻の指が入り口を広げて入り込む。
異物感よりも期待感が勝って、京一はそんな自分に歯を鳴らす。
快楽に慣れてしまった躯と心が悔しくて――――けれど、背後の存在を拒否する事も出来なくて。

羞恥と、迫る期待を押し隠そうと口を噤む親友に、龍麻は双眸を窄めて指を抜き差しする。
出て行っては入り、入っては出て行くそれは、決して奥へ進もうとはしない。






「んッ、あッ、やだ…あッあひッ、んぁあ…!」
「京一、可愛い。お尻振ってる」
「んぅ……あぁああ……ッ」






囁かれる言葉に耳が熱くなるのを自覚しても、腰の揺れは止められず。
秘孔から指が出て行く度に、京一は甘やかな声を漏らして身悶えた。


秘孔を攻めると同じく、龍麻のもう一方の手は京一の前部も刺激する。
指で輪を作って根元から先端まで扱き、太い部分を爪先で擦り、時折指の腹で押してくる。

敏感な箇所を同時に攻められて、京一の脳内は次第に、確実に蕩けて行く。
未だ微かながら理性が残り、羞恥を覚えているけれど、それも直に欲望の熱に押し流されそうだった。



何度も指を抜き差しされて、秘孔からちゅぷちゅぷと言う卑猥な音が聞こえて来る。
いつの間にか二本に増やされていた其処に痛みはない。
既に其処は受け入れる器として出来上がっていた。






「た、つま…たつま、龍麻ぁッ……!」
「うん……あげるよ」






夢中で腰を揺らす親友の痴態に、龍麻もまた興奮冷めやらず。
京一の秘孔を二本の指で押し広げながら、自身の下肢を寛げた。


机に上半身を乗せていた京一は、臀部を差し出すように龍麻へと突き出している。
其処に埋めていた指が抜かれて、代わりに太く熱く脈打つモノが宛がわれる。

龍麻は京一の肩を引いて上半身を起こすと、腕を支えにさせた。
だが下肢の方はまるで力が入っておらず、龍麻が腰を掴んで支えていなければ呆気なく膝から崩れるだろう。
その状態をキープさせて、雄を確りと入り口に宛がってから、龍麻は京一の腰を掴んでいた手を離した。







「あぅうぁぁあああッッ!」







龍麻が思っていた通り、膝から体勢を崩した京一は、自重によって龍麻の雄を受け入れる事になる。

待ちに待ったその刺激に、肉壁はきつく締まり、龍麻に痛みさえ与えた。
一瞬痛みで顔が引き攣った龍麻だったが、直ぐにいつもの調子を取り戻すと、再び京一の腰を掴む。
今度は支えて浮かせる事はなく、律動の突き上げに合わせて腰を引き寄せ、京一の奥を抉ってやる。






「あッあッ、いあッ! んあ、あうぅッ!」
「んっく…う…っは……京一ッ…」
「いあ、ああ! た、つまぁッ! ん、っくぅ…! あぁ…!」






机の縁を確りと握り、腕を立たせて、京一は腰をくねらせる。
拘束によって纏められている手首には、赤い痕が蚯蚓腫れのように浮き上がっていた。
身を揺らせれば更に擦れるそれを、もうどちらも気にしてはいない。







「やっぱり、…京一って、やらしいね」
「あぅ、あッ、あッ…んん、ふぁ、っはぁ!」
「こんな所でお尻出して挿れられて、こんなに感じるんだもん」
「ん、それはッ…ふぁ、お前、がぁ……あぅんッ!」






こんな事するから――――と言い掛けて、出来なかった。
最奥を擦り抉られる快感に、甘い悲鳴しか出て来ない。




放課後の学校、誰もいない教室。
居残り補習で取り残された自分達。

床に散らばった白紙の問題プリント。
いつ戻ってくるのか判らない教師。
今にも開かれるかも知れない教室の扉。


妙なスリルと緊張感があって、京一は興奮している自分に気付いた。
同じように、龍麻も場所も時間も問わず乱れる京一に、昇り高ぶる己の欲望を自覚する。




スラストに合わせて揺らめく細い腰。
龍麻はそれを壊さんばかりに、自らの腰を激しく揺らして自身の欲望を愛しい親友へと叩きつける。






「っは、あ…も…むりッ……龍麻ぁ…!」
「僕、も……ッ」






京一の痴態に、龍麻が興奮するように。
龍麻が限界を絶える声音に、京一もぞくりとしたものを覚える。

互いの躯は麻薬のようで、一度嵌ると抜け出せない。
不足したら、場所も時間も問わずに摂取しないと禁断症状が起きそうだ。
……だからこんな場所でも、繋がってしまえば夢中になって熱を貪るしか、解放する術はない。






「あッ、イくッ…! 龍麻ぁ、イっちま……」
「ん、う、うぅぅッ……!」
「っひ、い、ああぁ――――――ッ!!」






どくり、熱を吐き出す感覚にさえ快楽となり、京一は大きく身を震わせる。
同時に強く締め付けられた龍麻も、京一の体内へと濃い蜜液を注ぎ込んだ。


卑猥な音を篭らせて、結合部から粘着質な蜜が零れ出す。

京一の雄から放出された白濁は、受け皿がなかった為に、机、床、足元のプリントを汚していた。
しかし肩で呼吸を繰り返す二人は、そんな事に気付ける程の余裕はなく、



―――――龍麻に至っては、






「京一、もう一回」
「あぅんッ…! ば…ちょッ……あ!」






京一の制止を無視して、また律動を始める始末。











結局京一が教室を出る事が出来たのは、宵闇が西の空まで完全に染め切ってからだった。















































居残りの生徒の下へ犬神が戻ったのは、空の茜が漆に侵食されてからの事。
山積みのプリントを全て終えるには、それ位の時間は入用だと思い――――案の定、それは的中した。


廊下の窓から様子を伺ってみた段階で、居残り二人の内一人は既にプリントを片付けていた。
時間がかかるだろうと見積もったもう一人は、これもまた予想通り、相棒の答えを丸写し状態。
とにかく今だけやっつけてしまおうと言う姿勢は明らかだったが、今更なので特に感慨は沸かない。
寧ろどんな方法でも良いから片付けてくれないと、彼等も自分も帰宅できないのだから、此処で文句をつけて振り出しに戻しても疲れるだけなのだ。

犬神は暫く廊下に留まって、丸写し作業が終わるのを待った。
やや時間が経った頃、作業を終えた少年がぐったりと机に突っ伏したのを期に、入室する。






「犬神先生」
「てめッ、何処行ってやがった!」






一人はのんびりと会釈、もう一人は噛み付いて来る。






「手前ェがどっか行った所為で、こちとら大変だったんだぞ!」
「何がだ」
「何がって―――――」






問い掛けた犬神に、京一は続けざま噛み付きかけて尻すぼみする。
その顔に朱色が上っているのが見えたが、犬神は知らぬ振りをしてプリントの回収に回った。


綺麗な文字に埋められたプリントが緋勇龍麻。
殴り書き走り書き、ギリギリ読めるプリントが蓬莱寺京一。

自力にしろ他力にしろ、終わっている事は終わっているようだ。
しかし。






「枚数が足りないな」






担当教科以外のものも含め、プリントは犬神が用意したのだから、その枚数も勿論覚えている。
数えてみればそれぞれ四枚分が足りず、それらは足元に落ちている様子もない。

何処にやった? と無言で問うてみれば――――――龍麻は満面の笑み、京一は真っ赤になっている。






「~~~~~~るせェッ! 知るかよ、ンな事!」
「僕も知りません」
「手前ェの勘違いだろ、どーせ! とにかく終わったんだ、オレは帰るからなッ!!」






中身の薄い鞄と木刀を担いで、京一は足早に廊下へと向かう。
龍麻も犬神に一つ頭を下げて、直ぐに相棒を追い駆けた。

随分と上機嫌な龍麻に比べると、京一は頗る機嫌が悪い。
待ってと言う親友の言葉に耳も貸さず、すたすたと足を進めて教室のドアに手をかけた。


―――――と、其処で犬神は二人を呼び止める。






「蓬莱寺、緋勇」
「はい」
「ンだよ!?」






今直ぐにでも教室を飛び出して行きたい。
京一はそんな形相だ。

尖ったその眦に睨みつけられた所で、犬神は欠片も動じることはなく。












「仲が良いのは結構だが、程々にしろよ」













……犬神が告げたその言葉に、京一一人が声にならない悲鳴を上げるのだった。





















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放課後の教室でえっち!!
……でもプレイ内容は毎回同じような気がする(進歩しねぇ…!)

ラストの犬神先生が書きたかった(笑)。


タイトルは諺「親しき仲にも礼儀あり」をちょっと変換。
「親しき仲にも限度あり」です。