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月の綺麗な夜に散歩に出るのは、ちょっとした粋だ。
けれども月のない夜に散歩に出たのは、どんな気紛れだったのだか。
ひょっとしたら、召喚(よ)ばれたのかも知れない。
月のない夜、一人ぼっちで泣いている、小さな小さな子供の声に。
鬱蒼とした夜道―――人間にすれば獣道―――を、宛てがある訳でもなくブラブラ歩く。
なのにどうしてだろうか、ふらりふらりと彷徨っている訳でもなく、進む道は不思議と淘汰されて選ばれる。
縦横無尽に交差した道でさえ、八剣は迷わず一本の道を選んで進んで行った。
不可思議な現象が我が身に起きていると思ってはいたが、かと言って何某か害がある訳でもない。
人里へ向かおうとしている訳でなし、ならば何処に辿り着くのか見てみようと、軽く物見遊山感覚になっていた。
――――しかし、ふと鼻腔をくすぐった匂いに気付いた時には、流石に眉根を寄せた。
(……ヒトにやられた奴でもいるのかな?)
明らかな血の匂い。
それと同じく、此方は微かにだけれど、人間の匂い。
この真神のお山は、随分と長い間平和だった。
人が近くに住み始めたのはかなり前の話になるが、お互いに踏み込まずに生活することで、均衡は成り立っていた。
食事に貧窮する冬は、少々畑に入って作物を失敬する者もいるが、それだってちょっとした量だ。
まぁ、ちょっとした量でも追い回される事はあるのだが、それでも真神のお山は平和だったと言って良い。
しかし此処数年から、山の木々が切り開かれるようになり、人間の生活範囲が動物達を追い込み始めた。
それは麓に住んでいる、何百年も生活を営んできた村々の者ではなく、遠い都から来たと言う厳つい人間達の仕業。
何処ぞの誰に何を献上するのだと言って、村の人々が反対するのを押し切り、山を切り崩すようになった。
住処を追われた動物達の中には、自分達の縄張りを取り戻さんとする者もいた。
けれども、それらの殆どは捕らわれ、皮を剥がされ、肉を食われ――――いや、それだけだったらまだ良かったか。
人間達は動物達を邪魔者と見なすや否や、山のあちこちを我が物顔で練り歩き、動物達を殺して周るようになった。
一時期よりは随分落ち着いてきたが、まだ人間達の中には、動物達を邪魔者扱いする者がいる。
そういう輩は、猟銃を持って山を練り歩いたり、酷い罠を仕掛けて行ったりする。
血の匂いと、微かな人間の匂い。
誰かが銃で撃たれて此処まで逃げたか、罠にかかって動けないのか。
どちらか知らないが、なんとなく気になって、八剣は匂いのする方向へと歩いて行った。
(全く不思議な夜だ)
まるで何かに導かれるように、考えるよりも早く足が動く。
これは一体どうした事か。
月夜の晩ならまだ判る、あれは妖しくも美しい輝きだ。
けれども今日は全くの新月、森の中は鬱蒼として昏いばかり。
血の匂いがしたからと言ってわざわざ助けに行こうと思うほど、生憎、八剣は人(?)の良い性格をしていない。
全く見向きがしないとは言わないけれど、そういう理由で動くには、足も腰も重い方だ。
だが足は迷わないし、そんな自分を可笑しいとは思わなかった。
がさりがさりと、幾つか茂みを掻き分けて通り抜け。
少しずつはっきりとしてくる血と人間の匂い。
血の匂いは乾きつつあるものの、相当な出血だったのか、まだ薄れる様子はなさそうだ。
――――それだけ強い匂いがするのに、辺りには狼や梟、山猫の気配がない。
やがて、もう暫く茂みを掻き分けたその先で。
八剣は、小さく蹲る、幼い子狐を見つけた。
「……酷いな」
子狐に歩み寄りながら、八剣の視線は子狐の右足へと釘付けられていた。
其処には人間の仕掛けた鉄の罠が食い込み、まだ細い足から今も血が溢れ出している。
傍らに跪いて覗き込んでみると、見覚えのない顔をしている。
この辺りに住んでいる狐の子ではないだろう、恐らく。
匂いも―――血と鉄と人間の匂いが混ざっているけれど―――此処らの匂いとは少し違う。
目尻は泣いた跡だろう、少し腫れている。
口の端が切れて血が出て、これはもう乾いていた。
子狐の目は閉じられて、それは眠っているというよりも、気を失っていると言うのが正しいのだろう。
だらりと全身の力を失って、子狐は浅い呼吸を繰り返していた。
「…………」
どうしたものか――――八剣は少しの間考えた。
少しの間。
罠を外してやって起こした所で、この足では子狐は帰れないだろう。
足を引き摺って帰れば、道中で間違いなく捕食者に見付かって、一度助かった命を無残に散らせる結果になるだろう。
だが、同じ種に生まれた事と、子狐がまだ幼い事を思うと、放って置くのは夢見が悪い。
八剣は、子狐の足を噛んでいる鉄を掴んで少し力を入れると、意外にあっさりと外れた。
暗がりなのでよく判らないが、螺子かバネが緩んでいたのかも知れない。
鉄に混じって、血の臭い以外で錆の匂いが強い事から考えても、もう忘れられた罠だったのかも。
そうでなければ、幾ら八剣が大人でも、こう簡単には外れない筈だが――――
何にしても。
外れた事は良かったが、罠を作ったまま放置しているのは気に入らない。
子狐の足は酷い有様だ。
時間が経っていないのか、腐ったりしている様子はないが、それでも痛かっただろう。
血は乾き始めているものの、暴れたのだろう、皮膚が引き攣って裂けている。
子狐の体を抱え上げ、八剣は傷付いた足を舐めてやった。
子狐はぴくりとも動かず、ぐったりと八剣に身を預けたまま、浅い呼吸を続けている。
しばらく傷を舐めてやり、暗がりでも見える程度に、傷口の周囲を消毒して。
小さな体を抱いて立ち上がった時、ぷらりと揺れた手が見えた。
………ボロボロの傷付いた、両手が。
「……頑張ったね」
八剣に外せた壊れた罠は、重みの所為か、子供にはまだ固かったようだ。
どうにか外そうと頑張って、結果、足の傷は余計に酷くなっていたけれど、子狐は十分頑張った。
帰ったら先ず、この傷をきちんと手当てしよう。
それから、冷たくなった小さな体を、柔らかな温もりで包み込もう。
そして――――目覚めた時に、怖いものはなくなったよと、頭を撫でて教えてあげよう。
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保護者八剣が怒涛のマイブーム。
ちなみに八剣も狐ですよ。