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「殺れよ」
物騒な言葉だ。
一つ間違えると、意味が違ってくる言葉だ(下の意味で)。
けれども茶化すところでないだろうから、八剣は黙した。
学ランを脱いで、シャツを脱いで。
巻かれたばかりの白い包帯を剥き出しにして。
京一は、壁に寄り掛かったまま目して動かない男に問う。
「なぁ、殺れよ。なんでしねェんだよ」
ともすれば触れ合いそうな程に、互いの唇の距離が近い。
京一が少し前に傾ければ、八剣が少し動けば、それは間違いなく重なるだろう。
その直前の距離を保ったまま、二人の間はそれ以上には縮まらなかった。
また何処かで喧嘩をして来たのか、京一の唇の端は切れて、血の固まった痕が残っていた。
先刻まで学ランの襟で隠されていた首にも鬱血があり、痣になっている。
何気なく、八剣は京一の首の鬱血に触れた。
そのまま重ねようと思えば重なる唇は、やはり互いに動かないまま距離を保つ。
切れた唇の端を舐めても良かったが、止めておいた――――なんとなく。
「聞いてんのか」
「聞いてるよ」
何も言わない八剣に焦れて睨む京一に、八剣は端的に返す。
疑うように眼が光る。
「殺れよ」
「どうして?」
同じ言葉を繰り返す京一に、八剣は問う。
「殺られてみてェ」
またこれは……興味本位とは、実に物騒な言葉だ。
そして見下ろす瞳もまた、この上なく物騒で危険だ。
其処に何があるのか。
其処で何があるのか。
見てみたい。
ただそれだけの事。
小さな子供が、見つけた小道の向こう側に興味を示すのと同じ事。
「拳武館てよ、暗殺集団なんだろ」
「ああ」
「依頼したらよ。金払ったら殺ってくれんだろ」
「さてね、無差別の暗殺集団じゃないから。誰も彼もって訳じゃない」
「基準は?」
「単純に言えば、法の隙間で悪事を働く連中―――が、標的になる」
「判断すんのは?」
「館長だね」
依頼。
するつもりなのだろうか、この少年は。
冗談とも本気ともつかない言葉の真意は、八剣にも判らない。
単なる言葉遊びをしているようにも見えるが、先程の物騒な言葉と、興味本位と言うのは恐らく本気だ。
仮に目の前の少年が拳武館に依頼をしたとして、館長は受けるだろうか。
―――――恐らく否、あの人はこの少年の人となりと、その傍らにいる人間を知っている。
「オレはどうなる?」
「標的にはならないよ」
「お前、オレ殺りに来ただろうが」
「…あれは偽者だったから」
あの話をされると、今も耳が痛くなるし、心中は酷く複雑になる。
信じるものを信じていたら、その信じた筈のものが紛い物になっていて、それに気付かずにいた。
お陰で自分はこの少年に出会えたから、悪いことばかりでなかったと言えばそうかも知れないが、やはり――――悔やまれる事は多い。
今後、目の前の少年が八剣の標的になる事はないだろう。
京一は口も悪いし、態度も悪いし、目つきも優しくはないが、素直じゃないだけだ。
根は真っ直ぐで気に入らないことは気に入らないというし、其処にも彼自身の行動理念がある。
裏表の顔がある訳でもなく、この少年が再び拳武の標的にされる事は、恐らく有り得ない。
依頼が来たとしても、せめてその真意を確かめてから、と言う事になるだろう。
だが、通常ならばそれで安心しそうなものを、この少年は判り易く舌打ちした。
「――――どうしてそんなに死んでみたいの?」
京一の両の頬に手を当てて、少し上向けさせて。
真っ直ぐに視線を交わらせて、八剣は問うた。
京一は、その手を振り払わなかった。
「あの時―――結果的には生きていたけど、死に掛けたんじゃないのかな?」
「ああ。死んだと思った。ムカついたけどな。生きてる訳ねェってよ」
「じゃあ、もういいだろう」
最初の逢瀬。
最初の決着は、京一の完全な敗北で終わった。
あの時、八剣は殺すつもりで京一を斬った。
躊躇うこともなければ、感慨を残すこともなく、紙切れに鋏を入れるのと同じように。
その後確認したつもりはなかったが、生きて戻って来る事もないと思っていた。
京一自身、死の淵を彷徨った覚えがあると言う。
《力》を持っていた所で、躯は生身で、多少頑丈だと言う程度で、不死になった訳ではない。
大きな傷と大量の失血をすれば生命維持は出来なくなり、やがて心臓は止まる。
紅い海の中で、紅い世界で、闇の底へと落ちていく――――――。
京一は生きて戻ってきたけれど、その一歩手前まで行っていた。
「あまり何度も経験したいものでもないと思うよ」
「あー……そりゃまァな。夢見の良いモンでもなかったし」
頬に手を添えられたまま、京一は思い出すように目を動かしながら言う。
だが、どうも気が変わることはないようで、
「けどよ。今なら面白いモンが見れそうだし」
やっぱり単なる子供の興味本位のように、京一は言う。
表情も変わらない。
「あン時、嘘だろってよ。そればっか思ってた。吾妻橋が喚いてんのもどうでも良くて。負けんのがありえねェってよ」
「今こそ、京ちゃんが俺に負ける事はないと思うよ」
「嘘吐け。ああ、その前に、負ける負けねえの話じゃねえんだよ」
同じ姿勢でいるのが辛くなったのか、京一が少し身を起こした。
「負かせろって誰が言ったよ。殺れっつってるだけだ」
「違うのかい?」
「勝負してねェから、オレが負けた事にゃならねェ」
「ああ、成程」
勝負ではなく、一方的に。
暗殺の標的として屠れと。
無茶を言うなァ、と八剣は思って、笑みが浮かんだ。
感情の殺し方はしっているし、知っている人間を殺した事が皆無と言う訳でもない。
表の顔の付き合いがあった人間の中で、裏の顔を見た事だって何度もある。
見ていなくても、標的になれば刀を振るった。
それが自分の選んだ道だから。
館長からの見え隠れする気遣いも、気持ちだけを汲み取って、昨日までの知り合いを闇に葬って。
後で血反吐を吐こうが、見えない何かに追われようが、刀を振るうのは止めなかった。
でも、駄目だ。
目の前の少年だけは、もうどうしたって“標的”として見る事が出来そうにない。
「無理だね」
「何が」
「京ちゃんを殺すのが」
「ンだよ」
「館長も受けないだろうし」
「………」
八剣の言葉に、京一は至極つまらなそうに唇を尖らせた。
子供が拗ねる顔と同じだ。
その顔で、物騒なことを考えている。
「いいじゃない。一度死に掛けたんだし、俺は京ちゃんを殺しかけた。そういうのは、一度きりで」
「だから違ェよ。オレは今殺られてみてェ気分なの。あの時と違ェんだよ」
抵抗する意思がない、それが最大の違い。
向けられた刃を、今度は素直に受け止める。
それでも無理だと繰り返して言い続けていると、くるりと京一は八剣に背を向けた。
機嫌を損ねたかと一瞬思ったが、どうやらそういう訳でもないらしく。
背中から倒れこんできた京一は、八剣に胸に寄り掛かって体重を預け切って来た。
見下ろした先に白い包帯があって。
その下にある傷は、自分が刻み付けたものだ。
「京ちゃん」
「あ?」
「面白いものって何?」
「あ? ……ああ、」
八剣の言葉が、先程自分の言った言葉そのままだと思い出して。
京一はがりがりと頭を掻いてから、
「さぁな。知らね」
「そう」
「でも、あン時とは違うんだろーなって思ってよ」
負けると思っていなくて斬られた。
だから、あの瞬間其処にあったのは自信と自身の喪失感。
でも今は違う。
勝ち負けとは関係なく、ただ斬られる。
判っていて逃げずに、斬られる。
「例えば、オレを斬った時のお前の顔とかよ」
「京ちゃん、案外趣味が悪いんじゃない?」
「良くはねェだろ。お前ェと一緒にいるんだし」
これはこれは、酷いことを言ってくれる。
けれども、八剣は腹を立てなかった。
「あの時は見てなかったからな。お前の顔」
「見なくていいよ」
即座に返ってきた言葉に、京一が顔を上げる。
互いに見上げ、見下ろしていた。
先程と同じように、少し動けば触れ合うほどに近い距離で。
「見てみてェんだよ」
「酷い顔してるから、見なくていい」
「だから、」
「いいから」
言い募る声を遮って、八剣は強い口調で言い切った。
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……此処ら辺で着地点が判らなくなって、手が止まって、以降進まなくなりました。
まぁ、恐らく甘々を暫く書き綴ってたので、その反動だったんだと思います。