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暇だったので、賭けをした。
持ち掛けたのは京一で、応じたのは八剣だ。
賭けに勝ったら相手に何でも命令できる、と言う、よく考えればとんでもないオプション付きで。
賭けの勝負に選んだゲームは、花札を使っての“こいこい”。
八剣の部屋の片隅に置いてあったのを京一が見つけたのが切欠だ。
退屈を持て余していた京一には、持って来いの玩具だったのだ。
勝負に賭けを持ち込んだのは、勿論、自身に勝算があっての事。
それほど運が良いと言う訳でもない京一だったら、いざとなったらイカサマと言う手段がある。
舎弟達としょっちゅう行っている丁半勝負ほど簡単ではないけれど、手段を知ってはいたのだ。
イカサマをしたとして、八剣が気付く可能性は正直高かったが、とにかく、京一は暇を持て余していたのだ。
バレてしまったら勝負は無効にして、勝つまでこの繰り返しをする心算だった。
京一には勝負の勝ち負けとか、相手に命令できると言うオプションよりも、暇を潰すことが第一の目的。
八剣ならば用事が出来る以外は大抵付き合ってくれるから、勝負が長引くことに文句はないだろう、多分だけれど。
だから、賭けを持ち込んだのはあくまで八剣の興味をそそる為のスパイスで、自身には大した意味はなかったのだ。
――――――が。
「…………ヴゾ…………」
突きつけられた勝敗に、呆然とした呟きが漏れた。
京一vs八剣。
花札勝負。
開始から数時間が経って、結果は14戦3勝10敗1分。
………………京一のボロ負けである。
がっくりと肩を落とした京一に、八剣がクスクス笑う。
「悪いね、京ちゃん」
散らばった札を集めて整えながら、八剣は楽しそうだった。
…そりゃそうだろう、これでなんだって命令することが出来るのだから。
最初は京一が三回勝ち越して、こりゃ楽勝だなと思った。
一度勝った後にすぐ次の勝負を促すと、八剣は「命令は?」と聞いて来たが、京一は気にしなかった。
本気で何か命令するような気もなく、思いつきもしなかった所為だ。
取り敢えず「幾らか勝ちが溜まってから」と後付ルールを加えた。
それから一回引き分けて、―――――京一の転落人生は其処から始まった。
三回負けるまでは普通に勝負していたのだが、其処から先が可笑しい。
二人の点数差に明らかに不自然な開きが生じ始め、イカサマをされているんじゃないかと疑った。
だが普段から吾妻橋に仕掛けている自身、バレた時には「見破れない方が悪い」と開き直った。
目の前の男も恐らく同じように開き直るだろうから、せめてイカサマの瞬間を見つけてからじゃないと文句が言えない。
だからこっちもイカサマを仕掛けてやったのだが――――――結果はこの有様。
「可笑しいだろ、絶対ェ……」
「そうは言っても、勝負は勝負だから」
非情なものだよねェ、と。
笑って言う目の前の男の顔を、思いっきり殴ってやりたくて堪らない。
が、ぐっと堪えて俯けていた頭を持ち上げた。
「確かに負けは負けだからな。で? 命令はなんだよ」
「ああ、そう言えばそうだったね」
顎に手を当てて考え始める八剣を、京一はのんびりと眺めていた。
どうせ大した事じゃないだろう、と。
此処にいるのが小蒔や遠野だったら、仲間同士の気安さで、バカみたいなえげつない事を考えるのだろう。
けれども此処にいるのは八剣で、どういう訳か知らないが、この男はバカみたいに京一に対して甘いのだ。
命令と言うと大袈裟だが、精々この部屋の中で片付く雑用ぐらいだろうと京一は予想していた。
少しの間、手の中でちっぽけな点数の花札を弄ぶ。
カチ、カチ、と数秒分の時計の針の音がして、八剣が動いた。
「拒否はなしだよね?」
「おう」
なんだか軽く脅し地味た台詞が出て来たが、京一はやっぱり気にしなかった。
……気にしなかったことを、次の瞬間激しく後悔する。
「俺の事をどう思っているか、正直に教えて欲しいな」
フリーズしました。
再起動をかけて下さい。
………いや、オレ、パソコンじゃねェから。
等と、自主ツッコミしている場合ではない。
真っ直ぐに見詰められて告げられた言葉に、京一の目尻が一気に釣り上がる。
「~~~~~ンだ、そりゃあッ!!」
「そのままの意味だよ」
思わず立ち上がって怒鳴った京一に、八剣は常と同じ表情でけろりと言う。
と、京一と同じように立ち上がって、身長差の所為で少し見下ろす形になって、京一と目を合わせた。
「命令の拒否はなしなんだろう?」
「あ……ンなのはッ勢いだ勢いッ! あんだろ、その場のノリっつーのが!」
「でも、命令の事も元々の言いだしっぺは京ちゃんだしねェ」
「だからそれもッ」
「自分で言った事には責任取ろうね、京ちゃん」
学校の先生に言われるような事を言われた。
その瞳の奥で、猛禽類のように光が閃いて、京一は悪寒を覚える。
なんであんな事を言ったんだ。
なんでさっき否定しなかった。
花札を見つけて、暢気にしていた過去の自分を力一杯殴りたい。
逃げられないので、観念して腹を括るしかない。
そう悟って、京一は一つ溜息を吐いてから、
「―――――キザで妙にロマンチストのナンパ野郎。強くて美しいものが好きとか言って、なんかホモみてェで気持ち悪ィ」
「ゲイではないね。俺が好きなのは京ちゃんだけで、男好きって訳じゃないから」
「いっつもニコニコ笑ってて胡散臭ェ。ヒョロいクセに無駄にタッパあんのがなんかムカつく」
「脱いだら結構凄い方だと思うけど?」
「言ってろ、自惚れ屋。そんで……ニコニコしてる割にゃ口悪ィよな。下衆とか外道とか」
「それは否定できないね。そういう手合いには、そうしてるから」
いやもう、出るわ出るわ。
此処までスムーズに腹が立つ要因が出て来るのも珍しいのではないだろうか。
つらつらと上げ連ねながら、なんでオレはこいつなんかとデキちまったんだろう、と他人事のように考える。
ちらりと見た彼は、先に述べたとおりニコニコと笑っていて、あ、やっぱ胡散臭ェ、と内心で思う。
……でもそんなのだから、自分は此処にいるんだろうとも思う。
…………そう思ったら、それ以上の言葉がぴたりと出てこなくなった。
「それから?」
顔を覗き込んで問いかけて来た八剣の瞳の奥。
聞きたいのはそういう事じゃないんだよ、と音なく告げる言葉が、聞こえたような気がして。
思わず目を逸らしたら、察したと気付かれたらしく。
「京ちゃん」
肩を押されて、背中が壁に当たった。
退路を失った京一の前に八剣が立って、両の腕を使って籠を作る。
「言ったよね―――――正直にって」
正直。
正直に。
隠さないで。
いつも隠している事を、全部、正直に。
今まで告げた言葉も、全部嘘じゃない。
罵る言葉も全部、思っていること。
そして―――――幾つもの憎まれ口の裏側に、隠している言葉が、あって。
言えるか。
言えるもんか。
言える訳あるか!!
心の底からそう叫びたかったのだけど、どうしてだろう。
見詰める瞳を真正面から捕らえてしまって、口が喉が思うように働かない。
まるで、命令だけに従う人形になったよう。
……そうか。
命令。
命令、だ。
拒否不可、の。
だから。
今から告げる言の葉は、決して自分の意思で告げる言葉じゃない、なんて。
意味の判らない言い訳。
「あ。」
「………てめえええええええッッッ!!!!」
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うちの京ちゃん、八剣に対して結構ヒドいね(爆)。
でも八剣が気にしてないので、暖簾に腕押し。
ケンカには勝った。
勝ったが、その後が面倒なことになった。
足が動かない。
それに気付いたのは、路地裏で派手に暴れた後の事だ。
挫いたとか、捻ったとか、そんなレベルではない。
耐え切れずにズボンの裾を捲り上げて見てみれば、有り得ない程に蒼くなった皮膚。
そろそろと触れば激痛が奔り―――――多分、骨が折れたか罅が入ったか。
ケンカの途中から感覚が鈍ってきていた事には気付いていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
ケンカの時はケンカに集中しているから、躯の多少の故障は意識に昇らなかった。
いちいち気にしていたら相手に先手を取られてしまうのだから無理はない。
そしてケンカを終えて、そろそろ戻ろうかと気を抜いて、数分歩いた後。
段々と足が持ち上がらなくなって(若しかしたら、そう思う以前から足は動いていなかったのかも知れない)、その内引き摺るのも辛くなって、鬱血の青痣を直に見た瞬間、こりゃ駄目だとその場に崩れ落ちた。
腕も動くし、肩も壊れていない。
内臓がどうかなった訳でもないし、失血した訳でもない。
でも、足が動かなかったら歩けない。
小さな段差一つが辛い。
階段なんか上れない。
緩やかな筈の坂道も、いつも以上にきつい。
痛みが脳に繋がって、熱まで持ち始めたのか、全身が重くなって来た。
壁に背を預けて座っているのも辛くて、ズルズルずり落ちていく間に、気付いたら地面に伏していた。
こんな所を誰かに見られたらと思うと、本当に情けない。
特に真神のクラスメイト、更に言うなら相棒だ。
彼にだけは絶対に見られたくない。
……まぁ、彼が用もないのにこんな路地裏に来る事はないだろうけど。
でも、それはそれで困る。
だって自分は、自力で此処を離れることも出来ないのだ。
行きたくないけど、病院に行かないと。
大嫌いなあの先生の所に行かないと。
だって歩けないのは困るじゃないか。
……でも、動けないから其処にも行けない。
這い蹲っても、進めない。
(案外、腹ン中もやられてんのかもな……)
骨折だけの発熱にしては、少し可笑しい。
じわじわと寒さのようなものも感じて来た気がするし。
何発か腹や背中にも食らったから、それが今になって響いているのかも。
視界の端に見えていた、ビルの隙間の狭い空が、灰色になって行く。
此処には屋根がないから、降り出したら大変だ。
移動しないと。
……でも、動かないから。
(……一回、寝て起きりゃ、なんとかなるか?)
安易で馬鹿な考えだ。
もう直ぐ雨が降りそうなのに。
でも他に出来ることがないんだから、仕方がない。
そう思って、目を閉じようとして、
「そんなところで寝ていたら、通りすがり野良犬に襲われるよ」
冗談めかした声が聞こえて、京一は判り易く顔を顰めた。
閉じかけていた目を開けて、首だけどうにか動かす。
頭の中はもう亡羊としていたが、まだ現実に繋ぎ止められている。
だから、其処に立っていた人物の顔もよく見えた。
「……しょうがねェだろ。眠ィんだよ」
「巣に帰るまで頑張ったらどうだい? 此処より温かいだろう」
「足痛ェから無理」
「転んだのかな」
「野良犬が噛んだ」
「じゃあ急いで病院に行かないと。野良犬だったら、ワクチンなんかしてないだろうし」
「歩けねえ。お前が連れてけ」
「いいの?」
冷たいコンクリートの上で、妙な言葉遊びが続いた後。
最後に告げた京一の言葉に、八剣は問いかけて来た。
陽光がないお陰で、見上げる際に視界に障害を与えるものはない。
影もそれ程濃くないから、京一は八剣の表情を知る事が出来た。
そうして見えた彼の顔は、なんだか随分楽しそうで、
「俺で良いの? 子猫ちゃん」
誰が猫だ。
言い掛けて、京一は止めた。
どうせ自分を指差してくるに決まっている。
のろりと起き上がって、壁に背を預ける。
「お前が野良犬じゃねェならな」
「ああ、それなら大丈夫だ。俺は犬じゃないからね」
言いながら、八剣は京一に手を差し出した。
これはターニングポイント。
此処で、今後の人生が天国と地獄か決まる――――と言う事にしておいてみる。
地獄だったら、この手の向こうにあるのは野良犬の溜まり場。
それも腹がペコペコに減っていて、道を行き交う人達からは煙たがられて、薄汚れた野良犬だ。
多分、そいつらは体が大きくて、爪は伸びて、口を開けば涎がだらだら落ちるのだ。
天国だったら、温かい毛布と、美味くて豪華な食事と、ちょっと痛い注射とか。
注射が終われば満腹になれて、ふかふか綺麗な布の上で丸くなれる。
さて、目の前のこいつは?
言葉遊びで、腹の探り合いをしながら、本当はとっくに判ってる。
手を差し出した男こそ、子猫を取って喰おうとしている狼だと。
知っているから、その手を掴んでやろうと思う。
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他に選択肢がないんだから仕方がないだろ、と。
そんな風にならないと、手を取ろうとしない京一。
最近、京ちゃんと猫だ猫だとばっかり書いてますね、私…
だって猫っぽいんだもん(開き直る)!!
八剣は狼だったり虎だったり狐だったり……一番イメージで強いのは狐かなー。
とすっ、と。
背中に乗った重み。
何かと思って振り返ろうかと思ったが、寸での所で止めた。
風呂上りの火照った体温が、背中越しに伝わってくる。
拭き切っていない髪から雫が滴っているのが判ったが、今は何も言わなかった。
珍しい事もあるものだと思ったが、それ以前に、そう言えば今日は少し様子が可笑しかったと思い出す。
受け答えはいつも通りで、「京ちゃん」と呼んだ後の返す言葉も代わらなかったけれど、何かが違った。
あまり目線を合わせなかった気がするし、しかし避けられてる訳でもない(それなら、最初から此処に来ない筈だ)。
風呂に入ると言うから見送って、八剣はその間、本を開いていた。
彼が風呂から上がったのも物音で判ったが、特に気にせずにいたのだが―――――
「湯加減、どうだった?」
「別に」
「そう」
良いとも悪いとも言わない。
別にどちらでも構わない――――出来れば良い方が良いとは思うが。
会話の糸口にしただけだ。
「外、寒かっただろう。ちゃんと温まった?」
「んー………」
重みが寄り掛かってくる。
すっかり体重を預けているようだった。
背中越しに伝わる体温は、いつもより高め。
まだ風呂に入っていない八剣には、ちょっとした湯たんぽ代わりだ。
ふと、八剣が窓へと眼をやると、其処には自分たちの姿が映りこんでいた。
寄り掛かっている京一は俯いていて、鏡代わりとなった窓には気付いていない。
盗み見しているような気分だったが、八剣はそのまま、窓を見つめていた。
俯く京一の表情は、何かに心奪われているとか言う様子はない。
だが頬が赤くなっているのは、風呂上りだからという理由一つではないような気がする。
時々、照れ臭そうに恥ずかしそうに鼻頭を掻いているのが見えた。
どうやら、何か気になることがあったとか言うのではなく、単純にこうしていたいらしい。
本当に珍しいものだ。
―――――珍しいが、甘えてくれるのは悪い気がしない。
「明日も寒いらしいよ」
「…ふーん」
「厚着した方がいいね」
「……ふーん」
「その前に、今夜の内から冷え込むかな」
「…………」
もぞり、背中の重みが動く。
八剣の八掛の裾が引っ張られた。
振り向きたい。
が、恐らくそれはやってはいけない。
だから窓に映り込んでいるのを見た。
眉根を寄せて、何かを言おうとして止めるのを繰り返す仕草。
素直じゃない彼の、多分これが精一杯。
くすり、笑みが漏れる。
それが聞こえてしまったらしい。
京一の顔が真っ赤に染まる。
「今日は一緒に寝ようか、京ちゃん」
寒いしね、と。
言い訳になる一言を付け加えて。
頷かない代わりに、赤い額を押し付けてくるのに、また笑みが漏れた。
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気紛れを起こして素直になってみたけど、スッゲー恥ずかしい京ちゃん(笑)。
そんな京一を「可愛いね」と思ってる大人な八剣が好きです。
携帯電話が小学生にまで普及している現代。
「持っていない」と言うだけで「なんで!?」と驚かれるのが当たり前になり、持っていないのが異常な事のように見られる今日。
つい数年前まで町のあちこちで見かけていた公衆電話は、めっきり姿を消した。
そんな現代であるから、公衆電話から電話がかかってくると言う事は滅多にない。
けれども、八剣の携帯電話には、時折公衆電話からの発信が届いて来る事がある。
公衆電話からの電話主が誰かなんて、普通は判らない。
着信履歴に残る名前は、何処からかけても“公衆電話”でしかないからだ。
だが八剣は、自分にかかってくる公衆電話からの主が誰であるのか、ほぼ九割の確立で判る。
いや、判ると言うよりは、その人物ぐらいしか知り合いで電話を持っていない者が見当たらないのだ。
持っていないと言う今時珍しい人物であるから、必然的に彼から電話がかかって来る時は公衆電話の履歴が残る事になる。
だから不在着信履歴が残っているのを見た時は、ああなんで出られなかったんだろうと思う。
だって公衆電話からだ、此方からかけ直すなんて不可能で、自分が出るしか彼を繋ぎとめる方法はないのである。
―――――ある雨の日。
暫く携帯電話の確認が出来ずにいる間に、それは残っていた。
約十分起きに刻まれた、公衆電話からの着信履歴。
一瞬、それがいつもの彼のものであるのか、八剣には判じかねた。
そんなにも短い間隔でかけ直されていたのが初めての事だったのだから、無理もない。
少しの間他の誰かのものかと考えたが、やはり思い当たる人物は彼しかいなかった。
掛け間違えた訳でもないだろうと思うと、ならば彼に何かあったのかと心配が過ぎった。
女子供じゃあるまいし、そんなに柔な性質の子ではないのだが、常にない事が起きているのだ。
しかもそれをしているのが彼であると思うと、心配にもなろうと言うものである。
とは言え前述の通り、此方から掛け直すことは不可能だから、再び彼からの連絡があるのを待つしかない。
確認したつい数分前にも着信はあったから、この調子ならまた直ぐかかってくるだろうと思っていた。
しかし、それから約一時間、携帯電話は鳴らなかった。
だから鳴った瞬間、八剣は同僚達が見れば驚くほどの速さで、携帯電話を取ったのである。
通話ボタンを押して、直ぐにいつもの呼び方で彼を呼んだ。
呼べば条件反射のように「呼ぶな」と怒ってみせる呼び名で。
「京ちゃん? どうかした?」
『………………』
問い掛けに対して、返ってきたのは無言。
小さくパタパタと聞こえるものがあったが、恐らくそれは雨音だ。
無言である事に、ひょっとして違う相手だったかと液晶を確認する。
が、其処にあるのは間違いなく“公衆電話”の文字。
普通はこれでかかってきた相手が判るのだが、生憎“公衆電話”だ。
相手が名乗ってくれるか(そうでなくても、最低でも声を聞くか)しなければ、確認が出来ない。
「京ちゃん?」
『………………』
せめて何か言ってくれないかと、繰り返し呼んでみる。
彼がいつも嫌っている呼び名で。
どれ程そうしていただろうか。
電話向こうでバシャンと水の跳ねる音がした。
どうやら電話主がかけている公衆電話は、ボックスタイプではないらしい。
最低限の電話を守るだけの箱があるだけ、人間は雨曝しになっている。
悪戯電話と言う線はない。
そんな場所からかけて、いつまでも濡れ鼠になる間抜けな愉快犯はいないだろう。
かかってきた電話を八剣が取ってから数分、しつこい悪戯電話でも普通はもう切れている。
八剣から切るという選択肢も、既になかった。
そんな事をしたら、繋がりかかっている糸を切ることになってしまう。
だから、いつまでもこうして、相手の反応をただ待っている訳には行かない。
「今、何処にいる?」
いつも彼を前にしている時の声とは違う、ワントーン落とした声。
彼にこの声を聞かせたのは――――恐らく、初めて出会った時以来になる。
その後は八剣は閉口し、しばらくの間沈黙が過ぎて。
『………………』
「――――――――其処にいろ」
小さく、小さく、辛うじて。
聞こえるか聞こえないか。
それでも届いた音に、八剣はそれだけ告げて、通話を切った。
平時から、素直な性格ではない。
好意を好意と受け取るのも苦手なら、好意を相手に向けるのも得意ではない。
嫌われることの方が余程得意で、わざとそんな言動を取る事も多い。
でも、人に対して素直でなくても、自分自身に関してはもう少し素直だ。
だから良くも悪くも、他人と衝突することが多いのだろう。
―――――と、思っていたのだけれど。
告げられた場所に行けば、八剣の言った言葉を守った訳ではないだろうけれど、彼は其処にいた。
降りしきる雨粒を凌ぐものなど見当たらない場所の、真ん中に、彼はいた。
天から落ちる雫を、まるでシャワーのように浴びている彼。
それでも彼が笑っているなら、八剣は苦笑の一つも漏らして済ませる事が出来た。
風邪を引くよと、今更ではあるが傘の下に入れて、温まらせてあげれば良いから。
だが曇天を見上げる彼の表情は、感情が抜け落ちたように光がない。
どんな時でも、例えそれが虚勢でも、くるくる忙しなかった表情が今は何一つ残っていなかった。
それを見て最初に思ったのは、そんな彼の変調に気付いても、直ぐに飛んですらいけなかった自分への苛立ち。
彼が自分の居場所を僅かでも呟くまで、自分は彼を手繰り寄せる事すら出来ないのだ。
ぱしゃり、足元の大きな水溜りが跳ねる。
その音は土砂降りの雨の中でも、どうやら無事に彼の意識に届いてくれたらしい。
「――――――よォ」
振り返った彼は、そう言って笑った。
………笑った。
「悪ィな。呼び出してよ」
「…いいや、構わない。どうせなら、来てくれて良かった位だよ」
「そうか?」
そう言ってまた、笑う。
……笑う。
近付く毎に、彼の今の姿が鮮明になってくる。
雨のカーテンの向こう側の彼が。
泥で汚れた足元。
喧嘩でもしたのか、服には所々可笑しな染みがある。
木刀は相変わらず手の中にある、けれど。
それは力を失われた腕に従い、切っ先は地面に向けられている。
天を仰いだ彼の代わりに、俯いているように見えた。
「龍麻ン家行く訳にも行かねェし」
「兄さん達はもう営業入ってるだろうしよ」
「つーか、こんなで戻っても邪魔臭ェし」
「お前ンとこもどうかと思ったんだけどよ――――――」
それ以上、なんと続けようとしたのか、八剣は知らない。
知りたくないし、聞きたくなかった。
だから、腕の中に閉じ込める。
素直な子じゃない。
いつでも、何にでも、誰にだって。
それはよく知っている。
知っている、のだけど。
………自分にまで素直じゃないなんて。
笑った顔が、泣いているように見えるのは、
きっと雨の所為だけじゃない。
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京ちゃんが弱ると、雨が降るらしい(なんだその方程式)。
京一に対して、命令口調と言うか、毅然とした態度の八剣が書いてみたかった(玉砕気味)。
ほら、うちの八剣っていつも京ちゃんにあんな(どんなだ)だから……
「バッカじゃねーの」
顔を見て第一声がこれだ。
思わず苦笑が漏れる。
でも、彼らしいとも思った。
八剣が、随分久しぶりに風邪というものをひいたのは、二日前の事。
最初は大した事でもないだろうと思っていたら、これがとんだ侮りで、昨日は39度の熱が出た。
何が原因だったか考えても特に浮かぶものはない、本当に急な出来事だった。
その昨日のうちに彼――――京一は寮に来ていて、八剣の部屋に泊まる算段だったらしい。
しかし入り口で壬生に逢い、風邪が移ると良くないからと帰って貰った。
もしも来たらそうしてくれと壬生に頼んだのは八剣で、何故だか壬生はそんな事まで彼に伝えてくれたらしく、案の定京一は不機嫌な足取りで帰っていったと言う。
それから一日が経ち、今日になって。
昨日のピーク時に比べると熱は下がったが、頭痛はまだ続いており、今日はずっと寝て過ごしていた。
そうして昼過ぎ頃から、今の今まで眠っていて、目が覚めたら。
彼がいて。
そう、
「バッカじゃねーの」
……と来たのである。
今日も無理だと、壬生に頼んでおいた筈だったのだが。
出掛けた隙だったのか、壬生の方がその頼みを放棄したか。
それとも、目の前の少年が押し切ったか。
それはともかく。
昨日の事が尾を引いているのか、京一は思い切り不機嫌な顔をしていた。
これでもかと言わんばかりに眉間に皺を寄せて、右肩に担いだ木刀がゆらゆら揺れる。
でも、その不機嫌な顔でも、数日振りに見ることが出来たのだ。
頭痛とだるさで滅入っていた気分が、これで少し楽になる気がするのだから、自分は相当彼に嵌っているのだろう。
今更の話だが。
「どうせ空調つけっぱなしで寝たとか、そんなのだろ」
「さてね」
空調は、どうだっただろう。
昨日と一昨日はつけていなかったと思うが、その前は。
考えている合間にも、京一はバーカ、とまた言った。
「あまり言われると傷付くね」
「はァ? お前が?」
「病人は気弱になるものだよ」
「ンなモンお前にゃありえねーよ」
がんっとベッドを蹴られた。
やはり不機嫌だ、恐らく昨日の分も加算されての。
でも昨日は家に上げてやることは出来なかった。
今日よりもダウンしていたから、いつものように出迎えることも出来ない。
彼は何度も此処に来ているから、茶菓子の場所は知っているし、一人にしていても好きに過ごすだろう。
けれど、それは八剣が嫌だった。
「バカだバカ。大バカ」
「京ちゃん……」
ちょっと勘弁してくれるかな、と。
言いかけて、八剣は声を詰まらせた。
「とっとと治せ、大バカ野郎」
心配なんかさせんな。
不安になるとか思わせるな。
逢わせないとかするんじゃねェ。
とっとと治して、いつもと同じ顔して出迎えろ。
風邪なんかひいてんじゃねえよ、バカ野郎。
見下ろす瞳は揺れていて、そんな声が聞こえてくるようで。
現実、耳に聞こえてくるのは、相変わらずの罵倒の台詞。
だけどどちらが真実なのかは、迷わなくてもすぐ判った。
優しい言葉が苦手な君の、精一杯の言葉だから。
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八剣が寝たら、色々世話焼くんじゃないですかね。
んで八剣は実は寝たフリだったりするといい。