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猫を拾った。
仕事の帰り、野良犬に囲まれているのを見つけた。
尻尾を膨らませて威嚇していた猫は、見るからにまだ小さな仔猫だった。
ようやっと授乳期が終わったのではないかと思うぐらいの、小さな猫。
なんとなく見過ごす気にならなくて、野良犬を追い払ってやると、気が抜けたのかくったり地面に落ちた。
あちこち埃や泥だらけ、傷まで作っていた仔猫は、明らかに弱っていて、そのまま連れて帰ってしまった。
傷の手当てをして、風呂に入れてやって、飯を食わせてやると、仔猫はみるみる元気になった。
なった頃には愛着が沸いて、アパートの大家がペットに関して寛容だった事も手伝って、そのまま家で飼う事にした。
名前は、左之助。
左之助は、相楽に随分と懐いてくれた。
本来ならばまだ親元にいるであろう事から、恐らく、自分を親と認識したのかも知れないと思う。
しばらくすると、言葉を覚えて、喋るようになった。
相楽の呼び名は、最初、“さがらさん”から始まった。
宅急便やら電話やら、それで受け応えをするので、真似をする感覚だ。
しかし左之助も相楽宅で暮らしている以上、“相楽左之助”で“相楽さん”である。
可愛いけれどもなんだか可笑しいなと思ったので、名前の“総三”から“そうさん”と呼ばせるようにした。
すぐに覚えて、以来、“そうさん”と舌足らずに呼んで後ろをついて来る。
仕事から帰ると、にゃあにゃあ鳴いて迎えに来る。
寝ている時もあったが、相楽が帰って来るとひょっこり起きて、おかえりなさいと眠気眼を擦って言った。
もう、相楽は可愛くて仕方がなかった。
可愛くて仕方が無いのだけれど、躾はきちんとしなければならない。
元々野良であるという気質だろうか。
左之助は仔猫である事を差し引いても、暴れん坊でやんちゃだ。
気になるものにまっしぐら、時に猫らしくゴミ箱をひっくり返したりなんてこともしてくれる。
左之助は聞き分けの良い猫だったが、甘やかしたりしてはならない。
いけない事はいけない、決まりはきちんと教え込まなければ。
先日、一緒に公園まで散歩した時、通りかかった駄菓子屋の老婆から、丸いガムを貰った。
左之助はそれが大層気に入ったようで、もぐもぐといつまでも噛んでいる。
始めに味がなくなった時は、不思議そうに首を傾げて、そうなったらもう捨てるんだよと教えるまでいつまでも噛んでいた。
左之助がガムを気に入ったことを老婆に話すと、老婆は喜んで、袋に詰めて渡してくれた。
子供ばかりがお客さんの駄菓子屋だ、沢山詰めても100円にもならない。
こんなに悪い、と言ったら、老婆はいいから今度は猫ちゃんと来てね、とほわほわした笑みで言った。
結局それに甘えてガムを貰って、左之助に渡せばこれまた喜んで、今度お礼を言いに行こうと話した。
それから数日、ようやく仕事が一段落して休みを貰い、一緒に散歩に出かけた。
前と同じルートを通って。
あと一つ角を曲がったら駄菓子屋さんだと言う所で、左之助が盛大に転んだ。
「左之助、大丈夫か?」
小さな体を抱き起こすと、左之助はうーっと顔を顰めた。
しきりに足元を気にする仕種を見せるので、腕に抱えて足を持ち上げさせてみると、
「ああ、ガムか……」
「ガム?」
首を傾げて、左之助が鸚鵡返しした。
左之助の足の裏には、まだ捨てられて間もないガムがくっついていた。
べたべたとするそれが嫌で、左之助は一所懸命剥ごうとしたが、指で突くと今度は指についてしまう。
むっとした顔になって、左之助は躍起になったが、ガムはぐいぐい伸びるだけだ。
道の端に左之助を下ろして座らせてから、相楽はティッシュを取り出した。
足の裏にくっついたガムを、綺麗に取り除いてやる。
「そうさん、ガムって、あのガム?」
「ああ。誰かが此処に捨てたんだな」
「ひでェ事する奴がいるぜ」
「全くだな」
尻尾を膨らませて憤慨する左之助に、相楽はこっそりと笑った。
「こういう事にならないように、ガムはきちんと紙に包んで、ゴミ箱に捨てるんだぞ」
「オレ、ちゃんとしてます」
「ああ。良い子だ」
胸を張る左之助の頭を撫でて、相楽は立ち上がった。
ティッシュに包まれたガムは、コンビニ横のゴミ箱に捨てる。
角を曲がると、駄菓子屋が見えた。
仔猫の尻尾はゆらゆら、ゆらゆら、嬉しそうだった。
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何を思ったか仔猫さのパラレルに走りました。
飼い主は隊長、多分近くに克が住んでます。
赤ぁい提灯
しゃんしゃん、しゃんしゃん、祭囃子
ふわふわ白い、綿の飴
きらり、きらきら、光の雫
隣にいるのは、お父さんと、お母さんと
手を繋いでる、君の笑顔
みーんな僕の、たからもの
- 夏と浴衣と線香花火 -
しゃんしゃん。
しゃんしゃん。
ちんとんしゃん。
遠くで祭囃子が鳴っている。
今年も祭りの日がやって来た。
祭りはいつも、隣村で開かれる。
その日だけは、夜になっても山道を歩く人が絶えなくて、そんな人達の為に篝火が焚かれる。
篝火に照らされる人々は、皆様々にめかしこんで、手に手に団扇を持っていた。
行く人々は今日の出店はなんだろなとか、踊りは忘れちゃいないだろうかと話をして。
帰る人々はその手に水風船や綿飴、焼きもろこしを持っていて、めいめい楽しそうに笑っていた。
そんな人達と擦れ違いながら、龍麻も隣村へと歩いていた。
普段は焼き場に篭りっぱなしのことが多い父も、この日は絶対に忘れない。
幼い龍麻の手を引いて、母も一緒に祭りに行くのが、毎年恒例。
渋めの色の着物を着た父は、いつも穏やかに笑っていて、この日は殊更嬉しそうだった。
母も綺麗な浴衣を着ていて、きれいきれいと言ったら、照れたように嬉しそうに笑っていた。
龍麻も青地にとんぼ柄の浴衣を着せてもらって、草鞋を履いて外に出た。
篝火に照らされた山の道は、いつもは真っ暗なのに、それを忘れさせるくらいに明るい。
毎日蝉の声が止まない雑木林は、今日ばかりはしぃんと静まり返っていた。
しゃんしゃん。
しゃんしゃん。
祭囃子が段々近くなって来て、篝火の数が増えて来て。
遠くに太鼓を鳴らす櫓が見えた頃、龍麻は道の向こうに知っている顔を見付けた。
「きょーいちー」
手を振って呼んだら、振り返って向こうも手を振り替えしてくれた。
繋いだ父の手を引っ張って走ったら、おいおい、ひーちゃん、危ないよと父が笑った。
目の前まで来て、立ち止まる。
京一が着ていたのは黒に白でトンボ柄を描いた浴衣で、足元はいつもの雪駄履き、腰に団扇を挿している。
いつも右手にある筈の木刀は、今は左手の方にあって、右手は隣に立つ人と繋がれていた。
京一の隣の男の人は、擦れ違う大人達よりも一つ背が高い。
数日前に、龍麻はその背中に乗せて貰った。
父よりずっと広くてがっしりした背中は、見える高さもやっぱり父とは違っていて、少し高かった。
見上げれば少し怖い顔をしているけれど、目尻が京一と似ていて、龍麻は少しも怖くない。
背中に乗せて貰った時の温かさも、まだはっきりと思い出せる。
「よう、龍麻」
「おう、坊主か」
「こんにちわ」
ぺこっと頭を下げると、いい子だ、と頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。
父や母に比べて豪快で、手はごつごつと節張っていて硬かった。
京一も大人になったら、こんな手になるんだろうか。
「先日は、どうもお世話になりました」
父が頭を下げる。
男の人は、いやいや、こっちの方こそ倅が迷惑かけて、と頭を下げる。
自分たちの話をしている事は判ったけれど、内容について龍麻は聞いていなかった。
「とんぼ、おそろい」
「だな」
「京一、お祭り好き?」
「おう!」
「僕も好き」
龍麻の言葉に、京一がにーっと笑う。
龍麻も笑った。
しゃんしゃん。
しゃんしゃん。
ちんとんしゃん。
追いついた母と、父と自分と、京一と京一の父と。
五人並んで祭りの中へと加わった。
そんなに人がいる村でもないのだけれど、この日だけは近くの村々からも人が来る。
いつもに比べればずっと人が多くなっていて、龍麻は流されないように父の手を強く握った。
父は母と楽しそうに話をしていて、なんだか幸せそうだった。
進む度に、色んな匂いがして腹が減る。
焼き蕎麦のソースの香りや、とうもろこしの醤油の香り、焼きおにぎりの香ばしい匂いもする。
隣でぷしゅぅっと音が聞こえて、見るとラムネを飲んでいる子がいた。
カキ氷を食べている子、アイスキャンデーを舐めている子。
どら焼き、焼き鳥、いか焼き……とにかく、沢山あった。
金魚すくいの前を通り掛かる。
「龍麻、勝負しようぜ!」
京一の突然の言葉に、龍麻は少しの間きょとんとした。
そうしている間に、京一は父にねだって100円玉を一枚貰って、金魚すくいのおじさんにそれを渡していた。
ポイを貰って、京一が振り返る。
「龍麻、早くしろよ」
すっかりやる気満々だ。
断る理由もないし、金魚すくいが嫌いな訳でもない。
今まで率先して遊ぶことはなかったけれど。
母が持っていた巾着袋から、100円玉を出してくれた。
それ一枚を握って、龍麻も金魚すくいの前にしゃがむ。
おじさんに100円玉を渡して、ポイを貰った。
「一杯取った方の勝ちな」
「うん」
「おっちゃん、よーいどん言って」
京一に言われて、おじさんはよぉーい、どん、と言った。
京一は、大きな金魚を取ろうと頑張った。
隅っこに逃げた金魚を追い駆けて、金魚のプールに乗り出す。
危ねェぞ、と後ろで父親が言ったけれど、京一は聞いちゃいなかった。
龍麻は、近くを泳ぐ小さな金魚を取った。
一匹、二匹、順調に椀に金魚を移す。
一分経つ頃に、京一の紙が破れた。
結局、一匹も取れなかった。
龍麻も、四匹取った所で紙が破れた。
「お前ェの負けだ、京一」
「言われなくたって判ってらァ」
あははと笑って言う父に、京一は唇を尖らせた。
一匹も釣れなかったのがつまらなかったのだろう。
京一はむーっと膨れていて、龍麻はおじさんに金魚の入った椀を渡しながら、それを見ていた。
虫を取るのはあんなに上手いのに、金魚が取れないなんて、なんだか不思議だった。
とは言え、龍麻も金魚はなんとか取れたけど、虫は捕まえられないのだけど。
少し考えてから、龍麻はプールの向こう側にいるおじさんの傍に行った。
「おじさん、あのね、」
こしょこしょ耳打ちすると、おじさんは笑っていいよと言ってくれた。
四匹の金魚を、二匹ずつに分けてビニール袋に入れて貰う。
それぞれを右手と左手に受け取って、龍麻は揶揄う父に言い返している京一の肩を叩いた。
「京一、あげる」
二匹ずつ金魚の入った袋の一つを差し出した。
京一はしばらくきょとんとして、龍麻の顔と、金魚とを交互に見比べた。
いいのか? と言うように、京一の瞳が龍麻を見る。
それに笑って応えると、手が持ち上がって、金魚を受け取った。
「いいのか? 坊主。引き分けになっちまうぞ」
「父ちゃん黙ってろよッ」
京一の頭に手を乗せて言った父親に、龍麻は首を傾げた。
それから、ああ勝負していたんだと思い出す。
龍麻にとっては、勝ち負けなんてどっちでも良くて、ただ京一が楽しそうにしているのを見るのが楽しかった。
京一に金魚すくいに誘って貰えて嬉しかったし、一緒に出来たことが嬉しい。
それに、何より。
「僕、京一と一緒がいい」
言うと、京一は耳を赤くして、照れくさそうに鼻をかく。
さんきゅな、と言うのが聞こえて、龍麻もなんだか照れくさくなった。
それを振り切るように、京一は手首にビニール袋を引っ掛けて、その手で龍麻の手を掴まえる。
「次、射的やろうぜ」
「うん」
そのまま京一が走り出したから、龍麻も走った。
人ごみをするする擦り抜けて、色んな景品が飾られている射的の店に行く。
迷子になっちまうぞ、と京一の父の声が背中にかけられた。
しゃんしゃん。
しゃんしゃん。
どん、どん、どん。
そんなに広い訳でもないから、射的の店はすぐ見付かった。
店を預かっていたのは、龍麻の家の近くに住んでいた若い男の人だった。
おう、ひーちゃんか。
今日は友達と一緒かァ。
よしよし、100円で一回5発だぞ。
追いついて来た両親へ振り返る。
「とーちゃん、100円!」
「やるんだったら、何か取れよ」
「お母さん、いい?」
「はいはい。頑張ってね」
直ぐに100円玉が二人の手に渡される。
小さな子供の体には合わない、大きな銃。
構える為に台に乗せてもらっても、狙いなんてちっとも合わなくて、見かねた父が後ろから支えてくれた。
その隣では京一が同じように父に支えて貰っていたけど、自分で出来ると言ってごねている。
でも既に3発を使っていた京一は、結局、拗ねた顔をしながら、父に手伝って貰った。
4発目は景品の近くに当たって、ほれ見ろ、と父に言われて煩ェ、とまた拗ねた。
当たりそうで当たらない、そんな感じ。
背中で父が、もうちょっとこっちだよと、教えてくれる。
結局、龍麻は何も取れなかった。
残念賞に飴玉を貰った。
龍麻の好きな苺味だったから、これはこれで嬉しい。
京一は背中に父親とケンカのような会話をしながら、最後の一発の狙いを慎重に定める。
そっちじゃねェ、こっちだ、と言われて、京一はムーッとしながらそれに従った。
息を詰めているのが龍麻にも伝わって、知らず、龍麻も息を飲む。
どきどきする。
当たると良いな。
当たって欲しい。
なんでもいい、狙っているものに当たったらいい。
ぱんっと音がして、コルクの弾が飛び出した。
それは真っ直ぐ飛んでいって、景品の番号に当たって、番号札は台の後ろに落ちて行った。
お見事、と若い男の人が手を叩く。
「やった!」
「俺のお陰だ、感謝しろ」
「判ってるよッ」
ぐしゃぐしゃ頭を撫でる父親に、京一はやっぱり拗ねた顔で言い返す。
でも頭を撫でられるのを嫌がらないから、多分、心の中はありがとうで一杯なんだろう。
手に入れた景品は、子供用の花火グッズ。
手持ち花火が数種類、ねずみ花火が三つ、それから線香花火が二本。
それを受け取って、京一は龍麻の前に駆け寄る。
「龍麻、龍麻」
「なに?」
「後でやろうぜ。父ちゃんライター持ってるから、すぐ出来るぞ」
嬉しそうに言う京一に、龍麻は頷いた。
友達と一緒に花火なんて。
いつも、家族三人で遠くの打ち上げ花火を見るだけだったから、なんだか新鮮な気分だ。
勿論、打ち上げ花火も嫌いじゃないし、とてもキレイだと思うけど、それとこれとは別の話。
きらきらキレイな花火が自分の手の中にある、それがとても楽しいのだ。
そして、京一が貰った花火を、京一と一緒に楽しめるのが、また一層嬉しくて堪らない。
でも、今はまだ祭りの真っ最中。
立ち並ぶ出店は、まだ半分も通過していない。
「次、アレやろうぜ!」
「勝負する?」
「とーぜん!」
しゃんしゃん。
しゃんしゃん。
ちんとんしゃん。
駆け出す子供達を、やぁれやれ、と親三人が追って行った。
しゃん、しゃん、しゃん……
しゃん、しゃん、しゃん……
祭囃子が遠くで響く。
今は人気の少ない、広い場所で、きらりきらりと煌くものがあった。
それらは二人の子供の手元から放たれていて、地面に落ちて吸い込まれるように消えていく。
その消える瞬間までもとてもキレイで、子供達はすっかりそれに目を奪われた。
使い終わった手持ち花火は、屋台で貰った、水を張ったバケツの中。
火が消えて、水の中に入れる時、じゅっと音がするのが面白い。
バケツと同じく貰ったろうそくに、京一の父が火をつけた。
吹く風で消えないように石で囲んで、ブロックを作った。
其処に花火の口を近付けていれば、やがてしゅぅっと音を立てて光を吹く。
白い光、緑の光、青い光。
くるりくるりと表情を変えて、細い棒から沢山の光が吹き出して、暗い世界を照らし出す。
キレイだった。
吹き出す光が、光に照らされた世界が。
光に照らされた、きらきら笑う友達が。
手持ち花火がなくなって、京一がねずみ花火を取り出した。
地面に置いたそれを、京一の父がライターで火をつけてくれた。
ドキドキしながら見ていると、しゅーっと音を立てて、ねずみ花火がくるくる地面の上で回り出す。
危ない危ないときゃあきゃあ逃げながら、それも龍麻も京一も楽しんだ。
面白いモン見せてやると京一の父が言った。
落ちていた長い枝を拾って、その先端に、何処に持っていたのか糸を括り付ける。
枝と反対側の糸の先端に、ねずみ花火を取り付けて、点火。
さっき地面を這っていたねずみ花火が、今度は空中をぐるんぐるんと廻る。
それは確かに面白かったけれど、あっちこっちに火花が散って、京一が危ねェじゃんかと怒鳴った。
父は豪快に笑っていた。
龍麻も、龍麻の両親も笑っていて、最後は京一も笑っていた。
いつもの麦わら帽子はないけれど、それでも、京一の笑顔が龍麻は好きだった。
父の笑顔も好きだ。
にっこりと、頬と目尻に皺が出来て、優しい笑顔。
母の笑顔も好きだ。
ふんわり、見ていて心がぽかぽかする、温かい笑顔。
京一は、まるで夏の太陽のような眩しい笑顔。
どれも龍麻にとっては宝物だ。
その宝物が、きらきら花火に照らされて、まるで此処は宝石箱のよう。
ぱん。
最後のねずみ花火が破裂した。
動かなくなったねずみ花火を京一の父が拾って、バケツの水につけた。
後に残ったのは、線香花火。
「ほら、龍麻」
「うん、ありがとう」
二つしかない線香花火。
一つずつ持って、ろうそくの火に近付ける。
程なく、点火は成功した。
二人向き合う形にしゃがむ。
小さな小さな線香花火が、風で揺れて消えてしまわないように、自分の体で壁を作る。
―――――さっきまでの賑やかさが嘘のように、辺りは静けさに包まれた。
知らず知らず、龍麻と京一は口を噤んで、じっと線香花火に見入っていた。
龍麻の父も母も、京一の父も、しんと黙って二人の子供を見つめている。
しゅっ。
しゅっ。
ぱち。
ぱち。
小さな小さな音がして、丸くなった赤い灯火から小さな光が生まれて来る。
それは次第に連続し、ぱちりぱちりと音を立てた。
「きれい」
「うん」
龍麻の呟きに、京一が小さく呟いて返した。
キレイだ。
沢山の光が吹き出る手持ち花火もキレイだった。
くるくる回るねずみ花火も楽しかった。
線香花火は、そのどちらよりも光も音も小さいけれど、負けないくらいにキレイだった。
ぱち、ぱち、ぱち。
ぱち、ぱち。
このまま時間が止まればいい。
夏休みが終わらなければいい。
此処には、龍麻の大好きなものが全部ある。
父がいて、母がいて、友達がいて、きらきらの光があって。
このまま時間が止まれば、ずっとずっとキレイな世界にいられる気がする。
でも時間が止まっちゃったら、花火はきらきらしないんだなぁ。
そう思うと、それも勿体ない気がする。
ちらり、京一を覗いてみる。
京一はじっと線香花火を見ている。
其処にあるのはいつもの麦わら帽子の笑顔ではないけど、線香花火に照らされた顔は、やっぱり大好きな友達のもの。
大きな瞳の中で、線香花火がぱちぱち閃いて、きらきら輝いているように見えた。
目の前の線香花火もキレイで、京一の瞳の中の光もキレイで。
それをじっと見ていたら、京一の目が此方を見た。
「なんだ?」
「ううん」
首を横に振る龍麻に、京一は不思議そうに首を傾げる。
しばらく見つめあう形になって、先に京一が目をそらした。
瞳はまた線香花火の光を映す。
ぱち、ぱち、ぱち。
ぱち、ぱち。
ひらひら、ひら。
きら、きら。
手元で揺れる、小さな光。
瞳の中で閃く、光。
キレイなキレイな、きらきらの光。
夏だなぁ。
夏ですねぇ。
二人の父の会話が聞こえる。
でも、それも何処か遠くに思えた。
先日はどうも。
いえいえ、此方こそ。
うちの子がいつも世話になりまして。
いやいや、こっちの方こそ。
最近、とても楽しそうなんですよ。
京一君が大好きだって言ってました。
この間も、大きなカブトムシを見せてもらったって。
いやぁ、悪ガキでね。
お宅の息子さんはいい子ですな。
爪の垢ァ煎じて飲ませてやりたいくらいです。
吹き抜ける風が、涼しくて気持ち良い。
ぱち、ぱち。
ひらひら、ひら。
きらり。
線香花火が、光を吹き出すのをやめた。
でも、まだ丸い灯火が先端に残っている。
それは、少しの間明滅して、
………ぽと。
二つ同時に、音もなく、地面に落ちた。
終わっちゃった。
少し勿体ない気持ちで、龍麻は役目を終えた線香花火を見つめた。
ろうそくの火もいつの間にか消えていて、光を失った世界は、本来の色を取り戻す。
それでも、龍麻はこの暗い世界を怖いとは思わない。
「終わっちまった」
「うん」
線香花火をバケツの水に落とす。
沢山の終わった花火の入ったバケツを、京一の父が持ち上げた。
終わっちゃった。
終わっちまった。
楽しい時間は、過ぎてしまうのが本当に早い。
誰が促した訳でもないけれど、自然と足は家路へ向かった。
龍麻は右手で京一の左手と手を繋いで、左手は母の右手を握り締めた。
龍麻の父と、京一の父は、三人を挟んで歩く。
「またしようね」
「おう」
祭りの終わりが近い。
道々を照らす篝火の灯は、来る時に比べると随分小さくなっていた。
それでも、帰る道を照らす分には十分足りる。
お喋りしながらゆっくり歩く子供達を、大人達は急かさなかった。
子供達が焦らなくていいよに、子供達と同じ速さでゆっくり歩く。
金魚すくいも、射的ゲームも、スーパーボールすくいも、全部楽しかった。
焼き蕎麦も、いか焼きも、たこ焼きも、カキ氷もラムネも美味しかった。
花火はきらきらキレイで、眩しくて。
またしようね、と。
その約束が本当になるかは、今は知らない。
今はただ、その約束を交わせることが嬉しい。
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(夏休みで5題 / 3.夏と浴衣と線香花火)
線香花火って不思議ですね。
直前までどんなにわいわい騒いでても、線香花火になると皆静かになって見入っちゃう。
意外に出張った京一の父ちゃん(笑)。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
みぃん、みぃん……
……………
……かなかな
かなかな、かなかなかな……
蝉が一度静かになって、次はヒグラシが鳴き出した。
木の枝に覆われた空を見たら、蒼じゃなくて茜で一杯になっていた。
いつもなら、もう家に帰り始める時間だった。
時計など持っていないから、正確な時刻は判らないけれど、空がこの色になったら家路についた。
京一も同じで、これぐらいになったら山を降りてきて、龍麻に捕まえた虫を見せて、二人で帰路に。
でも、京一はどんどん前へと進んでいって、手を繋いだ龍麻も前へ前へと足を進ませる。
少し、帰ろうか、と言おうかと思ったけれど、あのつり橋が頭から離れない。
結局、遠いね、こんなに遠かったっけ、と言うのが精々で、後はひたすら前に歩いた。
分かれ道があった。
綺麗に分断されている道。
其処で、京一が立ち止まって、龍麻も立ち止まった。
二人で顔を見合わせて、どっちだろう、考える。
分かれた道の根元に看板があったけれど、文字は消えていた。
どちらに行けばあのつり橋に辿り付くのか、ちっとも見当がつかない。
そうだ。
思いついて、龍麻は落ちていた枝を拾った。
道の真ん中に真っ直ぐ立たせて、手を離す。
ぱたり。
枝は右に倒れた。
龍麻の手を引っ張って、京一が歩き出す。
それに逆らう事なく、龍麻も歩き出した。
かなかなかな。
かなかなかなかな。
かなかなかな。
かなかなかな。
かなかなかな…
……かなかな……
………かなかな、かな……
……………
……ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう……
歩いても、歩いても。
探すつり橋は見つからない。
時間だけが過ぎて、気付けば茜の空は黒に変わっていた。
木の枝々の隙間から、白く淡い光が零れてくる。
それが月の光だと知って、龍麻は立ち止まった。
京一も立ち止まった。
「京一、」
言わなきゃ。
言わなきゃいけない。
もう、言わなきゃいけない。
繋いだ京一の手が、小さく震えていることに、本当は随分前から気付いていた。
握った手の力が少しずつ強くなっていることも。
多分、此処で立ち止まってもどうにもならないから、京一は歩き続けていたんだ。
気付けば山道も外れていて、気付いた時には辺りは真っ暗。
そんな時に立ち止まってもどうにもならないから、だから、ずっと前を見て。
もう直ぐ着くんじゃねえか?
結構歩いたろ、だから、多分、もう直ぐだ。
そう言って、京一は笑った。
龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔だった。
でも、最後にそう言ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
京一はもう随分と振り返ってくれなくて、ただ前だけを見て歩いている。
「京一、ごめんね」
京一が前を歩くのは、自分の方が山道に慣れているから。
虫を早く見つけられて、捕まえて、龍麻に見せる事が出来るから。
だから真っ直ぐ、前を見て、歩いて。
「ごめんね」
繋いだ手が震えている。
謝ったってどうにもならないけれど、他に何を言えばいいのか判らない。
帰ろう、と言えばいいのだろうけど、こんな所まで来てしまう切欠を作ったのは自分の方で。
あの時、つり橋なんて見付けたから。
「ごめ、」
「謝んな」
背中を向けたままで、京一が龍麻の言葉を遮った。
もう一度ごめんと言いそうになって、なんとか飲み込んだ。
「………帰るか」
「……うん」
繋いだ手を、もう一度しっかり繋いで。
二人で後ろを振り返って、其処に広がる暗い世界に息を飲む。
田舎の灯りは少ないから、夜になればいつだって真っ暗だ。
月のない日はもっともっと真っ暗で、家の灯りも随分遠い。
自転車の小さな光が、凄く明るく見えたりする。
でも、こんなに真っ暗な世界を、龍麻は知らない。
空から落ちてくる月の雫も、照らしてくれない、そんな世界。
京一が歩き出す。
龍麻も歩き出した。
手を引っ張り、引っ張られじゃなくて、二人で。
ほう、ほう、ほう。
真っ直ぐ歩いて来たつもりで、何処をどう歩いたのか思い出せない。
何かに気を取られて真っ直ぐから逸れたのを覚えてる。
其処から前を向いて歩いたけれど、また何かに気を取られたのを覚えてる。
何処をどんな風に歩いたっけ。
何処に何があったっけ。
何処で何を見たんだっけ。
目印なんて何もなくて、それが益々不安になる。
こっちであってる保障が何もなくて、もしかしたら、反対方向なんじゃないかと。
考え始めたらちっとも道が定まらなくて、最初に向いていた方向から逆を向いて歩くのが精一杯。
前を歩く京一は脇目も振らないで、後ろを歩く龍麻は、周りの景色と記憶の景色を照らし合わせて。
だけど似たような景色ばかりが続いているから、やっぱりあっているのか自信がない。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
段々と京一の歩く早さが遅くなって、龍麻も遅くなっていった。
がさり。
傍の茂みが揺れて驚いた。
ざざっ。
頭上の木々がざわめいて、怖くなった。
道はこっちであってる?
こっちに行けば帰れる?
もしかして、帰れない?
見えない何かが、真っ暗な世界へ自分たちを誘い込もうとしているんじゃないかと。
自分で考えたのが怖くなって、龍麻は京一の手を目一杯握り締めた。
痛いくらい。
京一は、同じくらいの力で握り返した。
ほう、ほう、ほう。
その内、立ち止まる間隔が増えていった。
辺りを確認する為じゃなく、もう歩けない、そう思う自分を叱る為に立ち止まった。
段々、歩き出すまでの時間が長くなる。
ひく。
そんな音が聞こえて、龍麻は前を歩く京一を見た。
相変わらず前を見ているから、京一の顔は見えない。
でも、手で顔を擦っているのが見えて、龍麻はじんわり視界がぼやけて行くのを感じた。
京一は、ずっと泣くのを我慢している。
多分、迷ってしまったことを龍麻より早く気付いていて、どうにかしようと一所懸命歩き続けて。
それでもちっとも変わらない景色に、ずっと泣くのを我慢している。
ひっく。
でも、もう限界なんだろう。
立ち止まって、京一の肩が何度も跳ねる。
木刀を持った右手が、白いくらいに力が入っていた。
龍麻は繋いでいた手を解いて、京一の前にまわる。
それに気付いた京一は、麦わら帽子の縁を引っ張り下ろして、顔を隠した。
大好きな麦わら帽子の笑顔は、今は見れない。
龍麻は、それが一番悲しかった。
さらさら、川の流れる音が聞こえた。
龍麻は京一の手を取って、今度は自分が前に立って、音のする方へ歩き出す。
京一は俯いたままで歩き出した。
「川、あったから」
「………」
「ちょっと休もう。僕、ノド乾いた」
京一が小さく頷いた。
辿り着いた岸辺に座って、手で水を掬う。
柔らかな水は、美味しかった。
京一は、川原の石の上に膝を抱いて蹲っていた。
ぎゅうと木刀を握る小さな手が、なんだか酷く心細そうに見える。
龍麻は隣に座って、京一の背中を擦った。
「…っく……ひっ……」
暗い静かな世界の中に、小さく響く声。
座り込んで息を吐いて、もう堪え切れなくなったのだろう。
少しずつそれは大きくなった。
「ひっ…えっ……うぇっ……」
「平気、帰れる。大丈夫」
「うっく……ふ、ふぇっ…」
「大丈夫」
だから、泣かないで。
泣かないで、いつもみたいに笑って。
そうしたら、僕も大丈夫。
まだ歩ける。
歩けたら、家に帰れる。
がさって音も。
ばさって音も。
怖くないから、大丈夫。
だから、泣かないで。
でないと、でないと。
「ひっ…え、うぇ…ふぇっ……」
「…………」
泣いちゃダメ。
泣いちゃダメ。
京一が泣いちゃったから、僕がなぐさめてあげなきゃダメ。
大丈夫だよって、僕が言ってあげなくちゃ。
「う、えっ……ぁ、わ、ぁあ、ああん」
「…ふ、ぇえ、え……」
京一が大きな声で泣き出して。
ぽろり、目から雫が一つ零れるまでが、龍麻の限界だった。
周りの木々の音なんて、水の流れる音なんて、なんにも聞こえなくなるくらい、大きな声で泣いた。
泣いてもどうにもならないと思っていても、もう我慢できなかった。
後から後から涙は出てきて、ぽろぽろ零れて、喉が枯れる位の声で泣いた。
どっちに行けばいいのか判らない。
どっちから来たのか判らない。
帰りたい。
帰りたい。
だけど、帰り方が判らない。
つり橋なんか、もうどうでもいい。
キレイな虫だって、もういい。
お父さんとお母さんが待ってる。
京一のお父さんとお母さんも待ってる。
早く帰らなきゃいけないのに。
帰り方が判らない。
判らなくって、歩けない。
京一が泣いてる。
帰れなくって泣いてる。
龍麻が泣いてる。
帰れなくて泣いてる。
なぐさめなきゃいけないのに。
歩かなきゃいけないのに。
「とーちゃ…とーちゃぁ……わぁああああん…」
「おとぉさぁん…ふえ、え、えぇえん……」
守ってくれる大人はいない。
だから、この子は自分が守ってあげなくちゃ。
だけど、涙が止まらない。
ほう、ほう、ほう。
泣き声が響く。
子供二人分の、大きな大きな泣き声が。
ほう、ほう、ほう。
隙間を塗って、ふくろうが鳴く。
ほう、ほう、ほう。
ああん、わぁん。
うえぇえん。
ほう、ほう、ほう。
がさ。
がさ、がさ。
ほう、ほう、ほう。
がさ、じゃり、ざざっ。
じゃりっ。
「京一!!」
響いた声に、二人の子供の肩が跳ねた。
ぐす、と鼻を啜って、二人で振り返る。
見付けたのは、息を切らして立ち尽くす、見慣れない着物の男の人。
ざんぎり頭に少し強面で、でも今はそれは微塵も感じられない。
不安と焦燥で一杯になった、そんな顔で。
龍麻は少しきょとんとして、誰だろう――――と思ってから、そう言えば京一を呼んだと思い出す。
隣を見れば、少し涙の引っ込んだ京一がいて。
「………とー、ちゃん………」
父ちゃん。
お父さん。
京一の、お父さん。
男の人は走って二人の傍まで駆け寄って来て、京一も立ち上がった。
「父ちゃん!!」
飛び込んできた京一を、男の人はしっかり受け止めた。
京一はそのまま、抱き締められてわぁわぁ泣き出した。
バカ息子。
こんなトコまでガキだけで来る奴があるか。
心配させんな。
あぁ、あぁ、怖かったな。
歩き回ったか、頑張ったな。
くしゃくしゃ京一の頭を撫でて、男の人はほっと息を吐いた。
それから、龍麻へと目を向ける。
目尻の形が京一と似ていた。
「お前ェが龍麻か?」
聞かれて、なんとか頷く事が出来た。
「お前ェの親父さん達も心配してる。ほれ、帰ンぞ」
そう言って、男の人はしゃがんで龍麻に背中を見せた。
少しの間考えて、理解して、龍麻はその背中に乗った。
男の人はひょいっと立ち上がって、龍麻の視界が一気に変わる。
腕に京一を抱いて、背中に龍麻を乗せて、男の人は迷いのない足取りで歩き出す。
「ったく……人様の息子まで迷子にさせやがって」
「…………」
「山にゃあな。おっかないもんがあるんだよ。ガキだけで遠くに行くんじゃねえ」
「……うん」
「お前、コイツに怪我させたらどうすんだ。川ァ落ちたらどうすんだ」
「……オレが、助ける…」
「そんでお前も怪我したらどうすんだ。溺れたらどうすんだ。母ちゃん泣くぞ。そんな親不孝ねェぞ」
「………ごめんなさい」
「全くだ。よーく反省しやがれ」
ぐす、と京一の声がした。
龍麻は、男の人の背中でそれを聞いていた。
「龍麻っつったか」
「……?」
「お前もよーく反省しな。同じ事だ」
「おんなじ……」
反芻して呟くと、おうよ、と男の人は言った。
男の人が京一に言った言葉を、頭の中で繰り返す。
京一が怪我をしたら、川に落ちたら。
あの時、あんなに高い木の上から落ちていたら。
助けることが出来て、京一が無事だったら嬉しいけれど、もしも自分が帰れなくなっていたら。
今も帰りを待ってくれている父と母は、どんなに悲しむだろう。
例えば二人がいつまでも帰って来ない日が来たら――――龍麻は、悲しくて悲しくて、どうしようもない。
そのまま、一人ぼっちになってしまったら…………
ごめんなさい。
心配かけてごめんなさい。
今は此処にいない両親に、心の底から謝った。
帰ったらちゃんと、もっともっと謝らなきゃいけないと思った。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
男の人は迷わずに、真っ直ぐ真っ直ぐ、歩く。
歩いている場所が何処なのか、昼間通った道と一緒なのか、龍麻には判らない。
でも少しずつ、馴染んだ香りが感じられて。
ほう、ほう、ほう。
ほう、ほう、ほう。
父と、母の、呼ぶ声が聞こえた。
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(夏休みで5題 / 2.たまには遠出しようよ)
構想段階でいっちばん書きたかった話。
ネタ粒置き場に書き散らした通りですね。
……って言うか、長いね(滝汗)。
こんな話も、ちみっ子ならでは。
でもってやっぱり京一の父ちゃんが大好きです。
君の手を引いて歩いて行く
君に手を引かれて歩いて行く
いつか辿り付く場所へ
其処にあるのが例えば暗闇であるとしても、君と一緒ならきっとなんにも怖くない
- たまには遠出しようよ -
麦わら帽子の男の子の名前は、京一。
龍麻の知らない名前だった。
それでも構わない。
名前はしっかり心の刻んで、消えたりしない。
麦わら帽子の笑顔と一緒に。
京一は毎日、龍麻のいる山道の麓にやって来た。
右手に木刀、左手に虫取り網と虫かごを持って。
ある日は龍麻に一声かけて、じゃあ行って来ると山に入って行った。
空の蒼が茜に変わる頃に降りて来ると、虫かごの中の虫を得意げに見せる。
その度、何処かに怪我が増えていたけれど、京一はちっとも気にしていなかった。
カブトムシやクワガタムシを見せる京一は、なんだかとても楽しそうで、龍麻も見ているだけで楽しくなった。
ある日は砂利道の端っこに座って、龍麻が絵を描くのをじっと見ていた。
時々一緒になって地面に絵を描いて、何かを描くこともある。
テレビで見たキャラクターだと言われても、時代劇や歴史モノしか見ない龍麻は、判らなかった。
知らないと言うと京一は驚いた顔をして、一つ一つを説明してくれた。
ある日は傍らに流れる川に足を浸して、ぱしゃぱしゃ跳ねさせて遊んでいた。
龍麻はそれを見ているだけだったけれど、京一は楽しそうだったから、龍麻も楽しかった。
麦わら帽子の笑顔はいつも眩しくて、龍麻はそれが好きになった。
その内、二人が一緒にいる光景は、通り掛かる大人達にも見慣れてきた。
あれあれ、ひーちゃん、友達かい?
坊、名前はなんてェ?
へえ、京一、京ちゃんかい。
仲が良いねえ。
そんな二人にご褒美だ、飴さんあげよう。
二人でちゃあんと分けっこするんだよ。
そんな風に声をかけられる度、京一は麦わら帽子で顔を隠した。
どうして隠すの、と訊いたら、なんでもねェ、と言った。
その耳が赤かった。
貰った飴やおにぎりを、二人で分ける。
一人で貰った時にも美味しかったけれど、もっと美味しかった。
美味しいね、と言ったら、ん、と京一が頷いた。
嬉しかった。
誰かと一緒に遊ぶのが、凄く楽しい。
京一と一緒にいられるのが、凄く嬉しい。
きらきらの太陽の下、きらきらの麦わら帽子の笑顔を、どんどん好きになっていく。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
今日も暑い。
でも、日陰は涼しい。
絵を描いていた手を止めて、龍麻は道の向こうを見た。
京一、そろそろ来るかなぁ、と。
いつもこれ位の時間になって、麦わら帽子の男の子はやって来る。
龍麻は朝から此処にいるけど、京一は昼になってから。
朝から昼の間は剣術稽古をしているから、出て来れるのがそれが終わった後なのだ。
昨日は腕に大きな青痣があってびっくりした。
でも京一は、母ちゃんが冷やしたからヘーキ、と言って腕を振り回していた。
痛くないのと訊いたら、慣れてる、と笑って言った。
道の向こうに、麦わら帽子を見つけた。
「きょーいちー」
立ち上がって手を振ったら、麦わら帽子が上がって顔が見えた。
京一は直ぐに走り出して、龍麻の傍まで来て止まる。
その手に、いつもの木刀はあるのに、虫取り網と虫かごがなくて、龍麻はあれっと首を傾げる。
「京一、虫取り網、忘れた?」
「今日は置いてきた」
山に行く日も、此処で過ごす日も、いつも虫取り網と虫かごがあったのに。
今日はなんで置いてきたんだろうと、反対側に首を傾げた。
と。
京一の左手が、龍麻の右手を捕まえた。
「今日はお前も山行こうぜ」
「え?」
言われた意味が一瞬よく判らなくて、龍麻はきょとんとする。
京一は直ぐに歩き出していて、龍麻はそれに引っ張られて歩き出した。
「お前、勿体ねェんだよ。此処で絵描いてんのも、いいけどさ」
「何が? 勿体ないって、何が?」
「山には面白ェもん一杯あるんだからさ。龍麻もたまには見に行けよ」
山に行く。
山に登る。
今まで、学校の遠足ぐらいでしか、登った事のない山に。
初めての事に、どうしよう、と龍麻は迷った。
嫌だと思っている訳じゃないけど、あんまり行きたいとも思わない。
それは多分、学校の子達と会うかも知れないから、それを避けたい為で。
でも京一はそんな事は知らなくて、良いこと思いついたみたいに笑っている。
時々、振り返ってついて来るのを見て笑うのを見たら、行きたくないなんて言えない。
初めてなのはそれだけじゃない。
こうやって、手を引っ張られるのも初めてだった。
学校の子達は、無理強いは良くないと先生に言われていて、龍麻が行きたいと言わなかったらもう誘わなかった。
答えを聞く前に手を繋がれて、引っ張って行かれて。
でもそれも嫌じゃなくて、寧ろ嬉しいくらいで。
「カブトムシだろ、クワガタだろ、チョウチョもいるし」
「チョウチョは春だよ」
「夏だって飛んでらァ。知らねえの?」
「白いのしか覚えてない」
「ほらみろ、勿体ねェ」
何が、ほらみろ、なんだろう。
判らなかったけど、京一は楽しそうだった。
「いるのに知らねェなんて勿体ねェよ。キレーなチョウチョ飛んでるんだぞ」
「京一、見たことある?」
「見た見た。昨日も見たんだぜ」
ふぅん。
京一は見てるんだ。
じゃあ、僕も見たいかも。
「オニヤンマも飛んでたぜ。あと、夕方になったらヒグラシが鳴いてる」
「ヒグラシ、僕も知ってる」
「見たか?」
「ううん」
「じゃ、見せてやる!」
京一が知ってることなら、自分も知りたい。
龍麻はそう思った。
京一が見たものは、自分も見たい。
京一が見せてくれると言うのなら、凄く見たい。
「でも、虫取り網、ないよ」
「なくたって取れらァ」
「そうなんだ。京一、すごい」
任せとけ、と笑った京一は、やっぱり眩しい笑顔だった。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
京一は木登りが上手い。
龍麻の知っている人の中で、きっと一番に上手かった。
すいすい登っていって、あっという間に天辺まで行ってしまう。
龍麻も木登りが出来ない訳じゃないけれど、あんなにすいすい登って行けない。
一所懸命置いて行かれないように頑張ってみるけど、やっぱり京一は早かった。
虫を見つけるのも上手い。
龍麻は何処にいるのか見えないのに、京一はすぐに見つけた。
あそこだ、あそこ、と指を指されても、龍麻は中々見つけられない。
目を擦ったりして見るけれど、見付からなくって京一の方が焦れた。
結局京一が藪の中や茂みに入って、手で捕まえて見せてくれた。
最初にカブトムシを捕まえて、見せてくれた。
凄く大きなカブトムシ。
一緒にクワガタムシも見せてくれた。
カブトムシの角と同じくらい、大きなハサミ。
挟まれたら痛そう、と言ったら、痛ェよ、と京一は言った。
山道の途中で見つけたカマキリも、京一は手で捕まえた。
龍麻は鎌が怖くて触れない。
慣れちまえばへっちゃらだ、と京一は笑った。
蜂の巣も見つけた。
そーっとしゃがんで通ろうとしたら、ぶーんと音がして驚いた。
二人で一目散に逃げた。
その後で、青い蝶が目の前を飛んでいった。
京一がやっぱり手で捕まえた。
少しの間手のひらの中に閉じ込めて、二人で息を殺してじっと見た。
黒地に、キレイな青白い筋が一本入った蝶。
そっと手のひらを開いて、ふぅわり飛んでいくのがキレイで、二人でそれを見送った。
山に色んな虫がいるのは知っていたけど、こんなに沢山いるなんて。
見つける度に驚いて、見つけられる京一にも驚いた。
網も使わずに捕まえてしまうから、もっと驚いた。
みぃん、みぃん。
みぃん、みぃん、みんみん、みぃん。
じー、じー、じー。
今もどうやったら見えるのか、京一は木の上の蝉を見つけて、それを捕まえようと登っている。
他の木よりも一際高いのに、なんだか細く見える木に、龍麻は下でハラハラしていた。
京一は平気平気と笑っていたけど、もしも枝が折れたりしたらどうしよう。
足元の地面は、山道に比べると柔らかかったけど、きっと落ちたら痛いに違いない。
落ちないで、落ちないで、と龍麻は祈っていた。
京一はそんな龍麻のことなど気付かずに、もう随分高い位置。
もう少し。
もう少し。
木の幹にしがみついた京一の息が、詰まる。
狙っているのは、背中が緑のミンミンゼミ。
龍麻が近くで見たことがないと言ったから、見せてやろうと木に登った。
そっと手を持ち上げて、狙いを定めて、迷わずに。
ぱしっと手が幹と当たった音を鳴らして、其処に蝉を捕まえた。
「捕まえた!」
言うなり、京一は飛び降りた。
天辺に近い高さから。
わあ、と龍麻が声を上げた後に、京一は地面に降りていた。
「ほら見ろ、龍麻。ミンミンゼミ!」
嬉しそうに差し出されて、龍麻はそれを覗き込む。
案外小さくて、龍麻は少し驚いた。
あんなに大きな声で鳴くから、大きいものだと思っていた。
だけど目の前の蝉は、羽は確かに長いけど、体はとっても小さくて。
じぃっと見ていると、突然、蝉が鳴き出した。
みぃんみぃんみんみんみんみんみん。
「うわッ」
間近で聞いた大きな声に、京一が思わず手を放す。
ぱっと蝉は飛び出して。
「げッ」
「わっ」
ぴしゃり。
何かが降って来て、京一の手に引っかかった。
液体だ。
…おしっこだ。
「げぇ~ッ! ベタベタするッ」
京一は顔を顰めて、ズボンに手を擦り付ける。
京一のズボンはとっくに砂埃やホツレ糸があって、多少汚れても気にならなかった。
それでも匂いが気になるらしく、京一は手を顔に近付けては嫌そうな顔をした。
「洗う?」
傍に流れていた小川を指差すと、京一は頷いた。
木に立てかけていた木刀を左手に持って、直ぐに坂を下って川岸にしゃがむ。
ぱしゃぱしゃ手を洗う音がした。
その傍に歩み寄って、龍麻も川の水に手を浸してみる。
水面は太陽の光をきらきら反射させて眩しいけれど、その下はひんやり冷たくて気持ちが良かった。
アメンボが通り過ぎていった。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら、ぱしゃぱしゃ、さらさら。
さらさらさら、ぱちゃん。
さらさら。
日差しは強くて暑いけれど、そんなに眩しくはなかった。
龍麻は京一のように麦わら帽子を被っていないけど、頭の上の木々の枝が覆ってくれる。
上を見れば、隙間から零れる光が、やっぱり眩しかったけど。
京一は、雪駄を履いている。
サンダルじゃない、雪駄だ。
父親が和装を好んでいて、雪駄を履くから、真似るように履くようになったらしい。
その雪駄履きの足を、京一はそのまま水の中に突っ込んだ。
水の中の足は、涼しそうだった。
それを見て、龍麻は靴も靴下も脱いで、足を水につけた。
手を入れた時も冷たくて気持ち良かった、これはもっと気持ち良い。
楽しい。
山遊びがこんなに楽しいなんて、初めて知った。
ぽかぽか、ぽかぽか。
暖かいのが止まらない。
ふわふわ、きらきら。
嬉しいのが止まらない。
京一が誘ってくれなかったら、知らなかった。
京一が手を引っ張ってくれなかったら、判らなかった。
知らないものを一杯見れることが、楽しくて面白くて仕方ない。
隣で麦わら帽子の笑顔がきらきら光っているのが、嬉しくって仕方ない。
「あっちィなー」
「うん。でも、気持ち良い」
「だな」
京一が水を蹴った。
雫が、きらきら孤を描く。
きらきら。
きらきら。
皆光る。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ふと、龍麻は見つけた。
川の向こうが途切れていて、その向こうに見える二つの山を繋ぐものを。
「京一、京一」
「あ?」
肩を叩いて振り向かせてから、龍麻は立ち上がる。
京一も水から足を上げて、歩いて行く龍麻について来た。
途切れた川は急な下り坂に沿っていて、その下へと流れていた。
その手前で立ち止まって、龍麻は見つけたものを指差した。
一つ向こうの二山を繋ぐ、それは多分、
「あれ、つり橋かな」
「……みたいだな」
遠くを少し眺めて、京一が頷いた。
「何かあるのかな」
「さぁ。オレ、あそこは行ったことねェや」
知らないもの。
見たことのないもの。
知らないものを見付けた時、子供の好奇心はこれでもかと言う程に高鳴って。
つり橋が何を繋いでいるのか。
繋ぐ山には何があるのか。
どんなものが隠されているのか。
山が少し遠いことなんて、子供達にはどうでもいい事だ。
道は、山は、地面は繋がっているんだから、歩いていれば辿り付く。
探していたものに辿り付く。
子供は、自分の限界値なんて知らないし、そんなものがある事すら知らない。
目標が出来たら、後は真っ直ぐ、それに向かって進むだけ。
「行ってみようぜ、あそこまで」
その言葉に、嫌だなんて言う訳もなく。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
坂を下る子供達を、蝉たちが大丈夫かねェ、あの子達、と囁くように鳴いていた。
----------------------------------------
≫
----------------------------------------
蝉の声
水の音
きらきら太陽
キレイな世界に現れた、きらきら光る、キミ
- 麦わら帽子に隠れた笑顔 -
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
今年も山の中で、沢山の蝉が鳴いている。
それを聞きながら、山頂へ続く山道の麓で、地面に落書きをするのが龍麻の日常。
時々自転車に乗った大人達が通り掛かって、今日もお絵かきかァ精が出るな、と言う。
“精が出る”の意味が龍麻にはよく判らなかったけれど、上手いなァと褒められるのは嬉しかった。
龍麻は、いつも此処にいる。
晴れた日はいつも。
小学校のクラスメイトは、山に登って蝉を取ったり、川で魚釣りをしたりしている。
けれど龍麻は、いつも此処で、一人で地面にお絵描き。
駆け回るのは嫌いではないけれど、龍麻は人の輪の中に入るのが苦手だった。
色んな子が遊ぼうよと手を伸ばしてくれるのだけど、どうしてか、その手を取るのを躊躇ってしまう。
怖がってばかりじゃ友達が出来ないのは判っているつもりなのだけど。
ずっとそんな調子だから、段々、周りも龍麻を誘わなくなった。
困らせて嫌な思いをさせたくないから、その事には少しだけ安心していたりする。
小学校の登下校も一人で、寂しくない訳じゃない。
だけど、どうやって人の輪の中に入れば良いのか判らないものだから、結局変わらないまま日々は過ぎる。
今日みたいに、一人で地面に絵を描いて。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
蝉の声、トンビの声、川魚の跳ねる音。
かりかり、地面を削る音。
ちりんちりん。
ひーちゃん、今日もお絵描きかい?
暑いねェ、お茶あげよう、美味しいよ。
じゃあね、暗くなる前に帰るんだよ。
冷たいお茶を飲んだら、なんだかすっきりしたような気がする。
明日から持って来れるようにお母さんに頼んでみよう。
でも大変かなぁと思いながら、龍麻はまた地面にお絵描きを始めた。
描くのはいつも、忍者やお城。
父が時代劇が好きで、だから龍麻もよく見るようになった。
お殿様やお姫様は今の日本にはいないけど、忍者はいると信じている。
彼らは人前に姿を見せてはいけないから、自分たちは見つけることが出来なくて、だからいないものだと言われているだけで、本当は今も何処かに忍の里と言うものがあって、其処で修行をしているんだと思う。
そう言ったら、父はそうだねぇ、と言ってくれた。
だから、いると信じている。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
このまま、空が茜色に変わるまで、龍麻は此処でお絵描きをする。
描いては消して、消しては描いて、気に入ったものは消さないで。
だけど明日になったら消えている、少しだけがっかりする。
誰とも一緒に遊ばない。
一緒に遊んでみたいけど。
もう皆との距離の縮め方が判らない。
だから一人で絵を描いて、空が茜になるのを待つ。
夕暮れになって家に帰って、母の作ったご飯を食べて、父と一緒にテレビを見て。
お風呂に入って、三人で寝る。
それが龍麻の日常。
ずっとずっと変わらない風景。
だと、思っていた。
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
さらさらさら。
じゃり、じゃり。
じゃり。
足音。
最初は気にしなかった。
田んぼに行く大人が通りかかったんだろうと。
でも違った。
足音の主の影は、龍麻の前で立ち止まった。
短い影が龍麻の絵に被る。
地面ばかりを見ていた目を、少しだけ上げてみたら、自分と同じ位の大きさの足。
少し迷って、もう少し頭を持ち上げた。
自分と同じ大きさ足、擦り剥いた痕の残った膝小僧。
色落ちした半ズボン、汚れだらけの白いシャツ。
右手に長い棒を持っていて、左の手には虫取り網と虫かご。
龍麻がゆっくりゆっくり頭を上げている間にも、影の主は動かない。
じっとしていて、まるで龍麻が顔を上げるのを待っているみたいだった。
いいかな。
大丈夫かな?
思っても、誰も答えを教えてくれない。
どうしたい? と自分が自分に問いかけてくる。
迷って迷って、顔を上げて。
見下ろしていたのは、麦わら帽子を被った男の子。
見慣れない子だった。
誰だろう、と思い出そうと試みて、結局出来なかった。
この辺りに住んでいる子は少なくて、クラスも一学年で十人にもならない。
だから知らない子なんていない筈なのに、龍麻は目の前の男の子を知らなかった。
じっと見上げていると、麦わら帽子の男の子は口を開いた。
「これ、お前が描いたのか?」
両手が塞がっているからだろう。
手の代わりに、足で地面を鳴らして、これ、と示して男の子は聞いた。
そんな事を聞かれたのは初めてだったから、龍麻は少し、どう答えて良いのか考えた。
考えたところで出てくる答えは、真実以外の何者でもなく。
こっくり龍麻が頷くと、へー、と男の子は感心したように言って、しゃがむ。
「オレ、絵なんかガッコの授業じゃねえと描かねェよ」
絵を覗き込んでくる男の子の顔は、麦わら帽子に隠れてしまって、龍麻からは見えない。
それでも。
「すげーな、上手いじゃん」
その言葉が嬉しくて、龍麻の頬はほんのり赤くなった。
学校の休憩時間、自由帳によく絵を描いている。
連絡帳の隅にも、時々落書きをした。
先生にはよく褒めてもらうけど、クラスの子に褒めてもらったことはない。
お絵描きの授業で、自分より上手な子がいたから、その子に見られるのが恥ずかしかった。
何より、クラスの男の子達は皆外で遊んでいて、教室に残っているのは自分一人。
だから、同じ年の子に褒められた事は、ない。
初めて、同じ年の子に褒められた。
なんだか胸がぽかぽかする。
「……うまい?」
「おう」
問い掛けてみると、男の子は絵を見たまま、頷いた。
また、ぽかぽかする。
照れくさくって、嬉しい。
「なあ、これなんだ?」
絵の一つを指差して、男の子が訊いた。
「こうが忍者」
「コーガ?」
「こうがの忍者」
「ふーん」
龍麻もよく判っていなかったが、昨日、テレビでそんな忍者を見た。
頭に“甲”の字が入っている。
こいつは? と男の子は隣の絵を指差す。
「いが忍者」
「イガ? 栗か?」
「?」
「イガって栗のイガ?」
「…? ……多分」
首を傾げたが、そうかも知れない、と龍麻は頷いた。
ふぅん、と男の子は納得したらしい。
ほっとした。
判らなかったと知ったら、怒るかも知れない、と思ったから。
でも男の子はそうなんだ、と納得してくれたようだった。
「これ手裏剣か?」
「うん」
「これも?」
「それは、マキビシ」
一つ一つ指差して。
男の子の質問に、龍麻は答えた。
こんなに絵の事を聞かれるなんて、初めてだ。
大人達は上手いねェと言ってくれるけど、皆畑仕事で忙しいから、ゆっくり話が出来ない。
学校の先生には、採点はして貰うけど、直接あれがこうで、とは話していない。
クラスメイトの子には見せていないから。
初めてで、少しドキドキする。
「上手いな、お前」
また褒められた。
ぽかぽか、ぽかぽか。
暖かいのが止まらない。
訊かれてばっかりだ。
自分も、何か訊いた方がいいのかな。
でも、何を訊けば良いんだろう。
お絵描きの鉛筆代わりの石を握って、考えて。
「それ、なあに?」
「あ?」
男の子の持っている長い棒を指差して、訊いてみる。
男の子は顔を上げた。
麦わら帽子に隠れていた顔が、やっと見れた。
「何が?」
「これ」
「……ああ、コイツ」
龍麻の示したものを理解して、男の子はよく見えるようにと、棒を差し出してみせる。
「オレの木刀」
「ぼくとう?」
「剣術やってっから」
「…剣道?」
「違う、剣術」
言い直されて、龍麻は首を傾げた。
一緒じゃないの? と。
口にしなくても、男の子もそれを感じたらしい。
「よく知らねェけど、違うって父ちゃんが言ってた」
「ふぅん……」
どう違うんだろう。
龍麻が首を傾げると、男の子も傾げた。
男の子がよく判っていないから、剣術も剣道もしていない龍麻は、もっと判らない。
でも、違うと言うなら違うんだろう。
男の子は自慢げに、それを肩に担いだ。
それが、左手に持った虫捕り網と虫かごと、なんだか不似合いなような、そうでもないような。
でも、麦わら帽子は男の子の笑った顔に似合ってると思った。
棒のことは判った。
次は、何を聞こう。
「……虫、取りに行くの?」
虫取り網と、虫かご。
どちらもまだ新しそうだった。
やっぱり、この辺りの子じゃないのかも。
だってこの辺の男の子は、夏になるといつも虫取りをして遊んでいる。
龍麻と同じ年の子の虫取り網や虫かごは、穴が開いたり、ボロボロだ。
いや、単に新しく買い直して貰ったのかも――――。
考えていたら、男の子も考えていた。
「行く、つもりだったけど……」
「?」
「やっぱ、今日は止めとく」
男の子は虫取り網と虫かごを地面において、自分も座る。
山の麓の道の端っこ、龍麻と向き合う形で。
男の子は、また地面の絵に視線を落とす。
そうすると、麦わら帽子の縁の所為で、男の子の顔は見えない。
「此処でお前の絵見てる方が、面白ェや」
言われて、龍麻のまんまるい目が、零れそうな程開かれて。
だけど男の子は、それを知らない。
龍麻も、男の子の顔を知らない。
今、どんな顔してるの?
どんな顔して、言ってくれたの?
訊いてみたかったけれど、どうやって訊けばいいんだろう。
判らなくって、考えて、まあいいか、と思うことにした。
笑ってたらいいなぁ、と思って。
「ぼく、龍麻」
「京一」
みぃん、みぃん。
じー、じー、じー。
ぴーひょろろろろ。
さらさらさら、ちゃぷん。
かりかり。
かりかり。
きらきら、ふわふわ。
小さな世界が、ゆっくり、ゆっくり、広がり始める。
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(夏休みで5題 / 1.麦わら帽子に隠れた笑顔)
龍京ちみっ子。ほのぼの。
微パラレルだと思います。
季節的にアップ早いかなぁと思ったんですが、最近真夏並みの気温ですので…
夏の気分で読んでやって下さい。