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手紙が回されてきた。
数人のクラスメイトを伝いに、相棒から。
面倒くさいことをするもんだと思いつつ、京一はそれに付き合った。
発端は、クラスの女子が授業中に手紙を回し合っていたのを龍麻が見つけた事から。
最近の女子高生ならよく見る風景であったから、京一は気にした事がなかったが、不思議に龍麻の琴線には触れたらしい。
やってみたいと言い出す龍麻に思わず顔が崩れ、何阿呆な事を、と言い掛けて、止めた。
言った本人は、至って真面目そうな顔をしていたからだ。
適当にクラスメイトに頼めば、メンバーに加えてくれるんじゃないかと言ったら、それは嫌だと言い出した。
相手がいなきゃ手紙の遣り取りなんて出来ないだろうと言えば、じゃあ京一が相手をして、と来た。
また顔が崩れた。
授業中のヒソヒソ話とは言え、言いたい事があるなら口で言えば早いだろう、と言うのが京一の考え。
わざわざクラスメイト数人を間に挟んでまで、手紙を遣り取りする必要が何処にあるのか。
そもそも、何故か判らないが、龍麻とは一々言葉を交わさなくてもなんとなく意志が通じてしまうのだ。
仲介人を交える意味が判らない。
面倒臭いし、女々しいしで、冗談じゃないと言ったら、途端に龍麻はしょんぼりしてしまった。
何故其処まで凹むんだと思った――――思ったが、結局京一の方が負けた。
負けた途端にケロリと笑顔になったので、あれは演技だったんじゃないかと最近思うようになった。
回されて来る手紙の内容は、シンプルで――――且つ、よく判らない。
大抵は「お昼、何処で食べる?」とか、「放課後ラーメン食べよう」とか。
そんな他愛もないもので、後で話せば良い事だろうと思いつつ、律儀に付き合って返事を書いて回してもらう。
大体一言ポッキリで終わる、返事を書くから京一にしては付き合いが良い方だ。
が、時々、返事に困ると言うか、返事のしようがない事がある。
ノートの端を千切って、落書きだけを描いて寄越して来るのだ。
今日は、普通の手紙だった。
短い一文、「今日のお昼どうする?」と言うもの。
(ラーメン)
この授業が終わったら、出前の注文の電話をするつもりだった。
単語一つを書いて、前に座っている男子生徒の肩を突く。
振り返ったクラスメイトに手紙を渡して、京一は机に突っ伏す。
と、其処に隣に座っていた女子生徒に肩を突かれ、京一は仕方なく閉じかけていた眼を向ける。
(小蒔ちゃんから)
小声で告げられた名前に、眉を寄せる。
差し出されたのは、紙切れ――――手紙である。
受け取って開いてみれば、『放課後、ラーメン食べに行く人』とあり、その下に小蒔、葵、醍醐の名前。
昼飯はラーメンに決めた。
コニーのラーメンである。
美味いので、昼晩と続いても京一は気にしない。
ラーメンは大好物なので、寧ろ嬉しい。
以前は考えなかった、友人達と連れ立って行く事も、近頃は随分慣れて楽しいものになって来た。
空いているスペースに名前を書いて、前に座っている男子生徒の肩を叩く。
(龍麻ンとこ)
男子生徒はさっき回したんじゃないのか? と言う顔をしたが、受け取った。
程無くして、それは龍麻の元に回されたらしく、
「ハイ、そこッ」
運悪く英語教師にバレてチョークを投げつけられる親友を、知らない振りで机に突っ伏した。
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ちょっとだけ龍京気味。
そしてこっそり黒いかもしれない龍麻。
アニメのマリア先生のノリは結構好きです。
こつん。
何かが頭に当たって、睡魔に落ちかけていた意識が浮上した。
浮上はしたが、丁度良いまどろみの中にあった頭はぼけていて、今のなんだろう、と頭を擦る。
こつん。
もう一度当たった。
また頭を触ってみるが、何もない。
ひゅん。
小さく小さく空気を切る音が聞こえて、飛んできた何かを頭の後ろでキャッチした。
なんだろうと確かめる為に眼前で手を開くと、其処には消しゴム。
振り返ってみると、クラスメイト二人を挟んで、後ろに座っていた親友がにやにやと笑っていた。
頬杖をついて楽しそうに此方を見る京一は、どうやらとっくの昔に授業に飽いていたらしい。
龍麻が此方を見ている事に気付いて、京一は窓の外を指差した。
何を言わんとしているのか、音にしなくても判る。
授業が終わるまで、まだ30分。
始まる前からこの授業に乗り気でなかった(乗り気の時の方が稀だ)京一には、拷問に似た時間だろう。
時計を見てから、教卓に立つ教師を見る。
黒板に英単語を書く担任教師は、此方に気付いた様子はない。
と、一番前に席を取っていた葵が振り返った。
目があって笑うと、葵も笑った。
それから、サボっちゃ駄目よ、と生徒会長らしく、口パク。
でも、無理。
5、4、3、
心の中でカウントする。
他の教師ならともかく、担任・マリア=アルカードは手強い。
予備動作に入るまでに気付かれたら、失敗。
2、1。
二人一緒にガタリと席を立つのと、マリアがチョーク片手に勢いよく振り返ったのは同時だった。
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“&”でも良いけど、気持ちは“×”です。
脱出成功か失敗かは、ご自由に想像して下さい(投げっ放し!)。
ねえ、君を頂戴
そうしたらきっと、僕は“彼”になれるんだ
【To shoot the general, shoot his horse first】
全く、何を考えているのか。
そう何度思ったか判らない。
そしてやっぱり、相棒が何を考えているのかも判らない。
公園のベンチの隣に佇む京一と、反対側で沈黙している車椅子の少年と。
二人の間にはお世辞にも良い空気は流れておらず、かと言って互いを無視していると言う訳でもない。
車椅子の少年の視線は、公園の中心で遊びまわる子供達に向けられたまま動かないが、京一は時折少年へと目を向ける。
それも一瞥足らずと言う短い時間ではあったが、見ている事は見ているので、意識している事は確かだ。
だが友人同士と言うにはあまりにも殺伐とした空気。
京一から少年へと向けられる目は、何処か、“監視”の意味合いを持っているように、見る者に印象付ける。
それは間違っていない。
京一にとって、この少年は友人でもなければ知人でもなく、良い仲ではない。
それでも京一が此処に残っているのは、確かに、“監視”の意味があった。
少年が一体どんな人間で、何をしたのか。
前者については京一も把握しているとは言い難いが、後者については明確だった。
故に、京一は監視している。
この少年と、今はこの場にいない相棒の行動を。
―――――色んなもの、見せてあげたいんだ。
彼はそう言って、少年を迎えに行った。
そして常と変わらぬ表情で連れて帰ってくると、二人で街に行くと言い出した。
彼の中で、あの出来事が薄らいだ訳ではあるまい――――きっと一生消えはしない。
だと言うのに、彼は少年を迎えに行き、まるで以前からの友人であったかのように振る舞う。
その瞳に一瞬、違う意識が過ぎるのは否めなかったが、それでも彼は努めて平静だった。
そんな仲間に、まさか、まさかと不穏な考えしか浮かばなかった、クラスメイト達。
無理もないと思う者、それでもと言う者、様々。
その時、自分が何を思っていたかは、京一にもよく判らない。
小蒔が言っていたように、昏い感情を覚えても無理はない。
嘗ての自分はそれに似ていて、そして我武者羅に剣を振い続けていた。
失ったものは大きく、得たものは喪失感と消えない傷だけ。
それを埋め合わせるように、時に狂気に身を狂わせても、京一にそれを否定できる理由と材料はなかった。
ただ出来るものなら、その色に手を染めてくれるなと思うのが精一杯。
だから。
だから、こうして此処にいる。
何を考えているのか判らない親友に付き合って、東京巡りなんてものをしている。
殺伐とした時間を、延々と過ごしている。
(けどなァ龍麻……このシチュエーションはねえだろが)
この場にいない親友の顔を思い出して、京一は頭を掻く。
漏れかけた溜息は、どうにか飲み込んだ。
ちょっとコンビニに行って来ると言って、彼は京一の止める声など聞かずに、一人行ってしまった。
少しの間待っててね、と車椅子の少年に言って、京一には頼むね、の一言だけ。
まるで、それで十分だと言わんばかりに、相棒はあっと言う間にいなくなった。
そうして、京一と少年だけが此処に取り残されている。
はっきり言って、間が持たない。
別に持たせようとは思っていないが、続く沈黙が随分と長いように感じるのだ。
どうしろと。
いや、きっとどうしろとは言わないだろう。
頼まれた(何をとは知らないが)とは言え、別段、何かする事がある訳でもない。
会話をするような間柄ではなく、正直、どちらかと言えば接点は薄い方だ。
こうして京一が二人に同行している事の方が、不思議と言えば不思議なのだろうし。
だから単純に、相棒は彼と一緒に待っていて欲しいと言っただけなのだ。
その間に自分がこの少年と会話しようと、何もせずにいようと、それは相棒にとってはどちらでも良い事で。
(……だりィ)
何がと言われると判らないが、ふっと浮かんだ言葉がそれだった。
恐らく、現状への感想である。
また漏れかけた溜息を、ギリギリの所で飲み込んだ。
ちらりとベンチを挟んだ向こう側に目を向ける。
少年は相変わらず、ボールを追って駆け回る子供達を見ている――――表情のないままで。
口角は僅かに上がっているが、それは笑みとは違うものだった。
元気に駆け回る子供を見つめる瞳は何処か空虚で、中身の気配が酷く稀薄。
京一は、彼がその表情のまま全てを、まるで羽虫を殺すかのように容易く切り捨てられることを知っている。
ふと、そのキレイな顔を演技的に歪めた顔を思い出す。
つい先刻、見たばかりの顔だった。
木刀を握る手に力が篭ったのは、無意識。
それに気付いて舌打ちが漏れたのも、また無意識だった。
くるり、少年の目が此方に向いた。
舌打ちが聞こえたかと思うと、また同じように打ちそうだった。
「蓬莱寺京一――――だったよね」
抑揚のない声だ。
目を細め、笑うのがわざとらしい。
当たり前だ。
向けられる眼が何処か空虚に見えるのも、中身の気配が酷く稀薄である事も、何もかも演技がかって見えるのも。
何せこの少年――――耶之路龍治は“欠如”した人間なのだから。
返事をせずにいれば、龍治はしばし此方を見つめたまま黙ったが、少しするとまた口を開いた。
「君は変わってる」
「テメェ程じゃねえ」
自分が“普通”の枠に収まるとは思っていない。
しかし、この少年の方が余程“普通”ではない。
目を向けぬまま、まるで切り落とすように低い声で告げると、そうかなァと龍治は首を傾げる。
「変わってるよ。凄く。面白い位だ」
言葉通り、面白がっている色が垣間見えて、京一は龍治を睨んだ。
話し方の一つ一つが、酷く癪に障る。
空っぽのその喋り方は、京一の神経を逆撫でするのに十分な役割を果たしていた。
「君達を初めて見た時、緋勇龍麻の次に、君の事が気になったんだ」
車椅子が方向を変え、龍治は体ごと此方を向いた。
京一はそれを横目で見ただけで、街灯の柱に寄りかかったまま、動かずにいる。
「君達の中で、彼が一番、生きている感じがしたんだ」
「………」
龍治のその言葉は、以前も聞いた。
“あの事件”の全てを起こす切っ掛けになったとも言える理由として。
彼が大切なものを失う理由と言うには、あまりにも理不尽で身勝手な理由だった。
だからなんだと。
声を荒げかけて、また湧き上がりかけた感情を、歯を噛んで押し殺す。
殴り飛ばしてやりたいと思うし、それで何が変わる訳でもないと思う。
大体、それをすべきは自分ではなく、彼なのだ。
今、自分はただ見守る事だけが赦された介入なのだ。
「そして、一番生きていると感じる彼の、その隣に、君はいた」
車椅子のタイヤが砂利を踏む。
からりからり、車輪のチェーンの音がして、それさえ酷く空っぽに聞こえた。
「よく覚えているよ。初めて君を見た時の事」
「……そりゃ、ありがとうよ」
心にもない言葉を述べれば、龍治はまるで嬉しそうに笑う。
その本心は喜んでもいなければ、傷付いてさえいない、琴線に触れてすらいないのだろう。
空っぽの少年には、己の感情さえも、何処かに置き去りにした遠い存在でしかない。
「不思議だったよ」
「………」
「そう、とても不思議だったんだ。だから覚えてる。他の人の事は、顔も覚えていないんだけどね」
龍治の言葉は、告白に似ていて、単なる独り言のようにも聞こえる。
少しの間、思い出そうとするように、龍治は目を伏せた。
京一は龍治から視線を逸らさぬまま、動かない。
「君は強い光に似ていた。けれど、深淵で眠る闇にも似ている」
それは、正反対の性質。
全く逆の極地にある、云わば裏表。
一辺がなくなっては存在できず、しかし自らの裏側を見る事は敵わず、近くて遠いモノ。
光の中に存在しながら、深淵の闇を知っている。
深淵の闇に身を落としながら、光の中を歩いている。
失う痛みを知っている。
奪う瞬間の悦楽を知っている。
全てが崩れたその後の、虚しさを覚えている。
だから、酷く面白かったと龍治は笑う。
「……そうかよ」
再び姿を見せた瞳は、やはり空虚で、其処には京一が綺麗に映り込んでいた。
褒めてんのか、貶してんのか。
こいつもよく判らない頭してやがる。
相棒はまだ帰って来ないのかと、公園の入り口を見遣りながら胸中で思う。
なんだって自分の周りには、よく判らない思考回路を持った奴ばかりが集まるのかと。
「そんな君を、彼は一番信頼している」
京一は返事をしなかった。
恐らく、しようとしまいと、龍治にとっては関係ないのだろう。
思った通り、龍治は喋り続けた。
「さっきも、彼は君に、俺の事を頼むと言った」
「ああ、言ったな」
「俺が今此処で、君を殺す事だって在り得るのに」
聞こえた台詞に、京一は振り返る。
見たのはやはり、常と変わらぬ表情の龍治。
街灯から背を離し、真っ直ぐに地面に脚をつけて。
木刀を肩に担ぐいつもの姿勢で、京一はこの日この時始めて龍治と向き合った。
何と言った。
何を言った?
僕が今此処で、君を殺す事だって在り得るのに。
それは、あの事件のようにか。
自分は何をする訳でもなく、他者をまるで玩具のように操って、例えば首を絞めるのか。
例えば刺すのか、例えば、例えば―――――方法は幾らだって思いつく。
そして目の前の少年がそれを指示したとは、恐らく誰も思うまい。
目の前で友達が殺された、それを助ける事が出来なかった、可哀想で心優しい車椅子の少年。
きっとそれ位の泣いた顔や台詞くらい、すらりすらりと口から滑り出てくる事だろう。
可能だ。
まだ、あの不可解な《力》が使えるのならば、それは可能な話だ。
………京一が大人しく殺されるような人間であれば、だけど。
「殺されるかよ。お前なんぞに、このオレが」
きっぱりと言い切る京一に、彼もそう思っているんだろうね、と龍治は呟いた。
「それがまた、不思議なんだよ。どうして、他人をそんなに信用できるのか」
「……今のお前じゃ、到底判りっこねェんだろうよ」
言いながら、自分もはっきりとした理由は判らない。
理屈ではない、としか思い付かない。
嘗てあれだけ嫌悪していた人と人との繋がりが、今はやけに温かく思える。
何処でどう、そういう方向に変化したのか判らないが、それでも何某かの切っ掛けはあったのだろう。
変わる切っ掛け、思う切っ掛け、それはまるで静かな水面に落ちた雫のように波紋となって広がった。
いつしか雫の数が増え、雫が雨になって晴れた頃、湖面には沢山の光が棲んでいた。
その一つ一つを掬い取ってみれば、其処にあるのは、身近な人々の言葉や顔であったりして。
だから、多分―――――人を信じるようになったのは、やはり、人のお陰なのだろう。
今の龍治には判らない。
怒りも、悲しみも、喜びも、全ては人と交わることで生まれて来る。
何処かにそれを置き去りにして、忘れてしまったままの今では、きっと判らない。
「……緋勇龍麻は、どうしてそんなに君を信じる事が出来るのかな」
龍治のその言葉は、問い掛けのようで、独り言地味ている。
「…ンなモン、オレが知った事かよ」
「君にも判らない?」
「あいつの頭の中身なんざ、判った例がねェ」
ただ判るのは、自分が信頼されていることと、自分が彼を信頼していること。
春の桜吹雪の中で交えた時から、何故か、気付けば当たり前のように隣にいた。
まるで随分昔から知っていたかのように、言葉なくとも通じる何かがあって。
「………それなら、」
判らないものは、判らない。
どうして龍麻が自分を信頼しているのか、どうして自分が龍麻を信頼しているのか。
龍麻なら、例えば――――「京一だから」なんて台詞が出て来るのだろうか。
「それなら君が俺のものになったら、彼が君を信じる理由が判るのかな」
真っ直ぐに射抜く瞳は空虚で、昏く、深い。
その奥底が見えないのは、何かが阻んでいるからか、それとも真に底がないのか。
空っぽだから、底辺さえも見つからないのか。
龍治の台詞の意味を判じかねて、京一は眉根を寄せた。
「君が彼じゃなくて、俺を見たら、その理由は判るかな」
「……オレの知った事かよ」
「俺が彼になったら、君が彼を信じる理由が判るのかな」
京一の声など聞こえていないかのように、龍治は繰り返す。
彼じゃなく、俺が。
俺が、彼になったなら。
馬鹿馬鹿しい机上の空論を並べる龍治は、真剣というには曖昧で、しかし巫戯蹴ている訳ではなく。
空っぽの心の埋め方を探し続ける瞳は、空虚であるが故に嘘を知らないのだろう。
嘘を吐く程に、中身が埋まっていないから。
「そうしたら、彼は俺になるのかな。君を失った彼は、どうなるのかな」
言葉に奇妙な色が浮かび、顔を見れば何処か喜色が含まれて。
並べられる言の葉に似合わぬ色が其処にはある。
「俺が彼になって、彼が俺になって……君は彼じゃなくて、俺を見る」
「馬鹿馬鹿しい」
「君は俺を見て、彼を見ない。俺は彼になっていて、彼は俺になっていて」
「……うるせェな」
「彼は空っぽになってる? 今度は、俺が満たされる? 生きている?」
滑稽な戯曲の台詞を聞いているようで、酷く苛々する。
なんだってこんなのを任せて行くんだ、と今は此処にいない相棒を少しだけ恨む。
「空っぽになった時……彼はどんな顔をすると思う?」
突然投げかけられた問いの意味が、京一には判らない。
龍治の指す“空っぽ”がどれであるのか、それさえも判然としない。
ただ並べられる言の葉の一つ一つが、酷く気に障って仕方がない。
あはは、と明るい笑い声が響いた。
公園の中心で駆け回る子供達と比べても、遜色のない明るい声。
ただし、それは酷く空っぽな笑い方で。
「面白いね!」
そういった龍治の顔は、まるで悪戯を思いついた小さな子供のようだった。
「ねぇ、試してみよう」
「………あぁ?」
「君が俺のものになって、俺が彼になって。その時、彼がどんな顔をするのか。見てみようよ」
共犯者を求める子供は、それがどれだけ残酷な事なのか判らないのだろう。
有が無に変わる瞬間の冷たい時間を、知らないから。
木刀を握る手に、痛いほどの力が篭る。
振り上げてはいけない、振り下ろしてはいけない。
その先にあるものに気付かせる為に、きっと龍麻はこの少年を連れ出したのだから。
「俺は、君の事を気に入ってる。きっと彼と同じように」
「…“カラッポ”のテメェに、そんな事が判んのかよ」
「さあ。よくは判らない。でも、きっと同じだと思うんだ」
伸ばされた龍治の腕は、真っ直ぐに京一に向かっていた。
其処に不穏な気配は感じられないけれど、まるで捕らえようとしているかのようで、京一は顔を顰める。
浮かんだ“空っぽ”の笑みは、酷く空虚で薄っぺらい。
ヒトを壊す事で笑うしか、この“空っぽ”には束の間の感情を覚える事すら思い付く方法がない。
己を埋める方法を、他者を壊す歪んだ手段でしか、考えることさえ出来ない。
…何を考えてこんな少年を連れ出して、同じ時間を過ごそうとしているのか。
相変わらず、相棒の考えが判らない。
届かない手を伸ばして、まるでいつかは其処に来るべきものが自然と収まるものだと。
信じることさえ判らない筈なのに、まるで絶対者のように告げるのが、
「だってほら。俺は君を欲しがってるみたいだ」
―――――――気に入らなくて、虫唾が走る。
全てを見透かすように、空虚な笑顔を浮かべ。
場違いな程に明るい声を上げ。
その芯は、何もなく空っぽで底さえも存在しない。
……きっと、ヒトが“死”を持たずして壊れる事も、この少年にはまるで些細な事なのだ。
ふざけるなと怒鳴ることも面倒だった。
第一、この少年にはそんな台詞も意味を持たないだろう。
砂利を踏む音が聞こえた。
勝手に席を外した当人が、ようやく戻って来たのだ。
そちらへ向く前に、京一は一つ息を吐いて、龍治を見据える。
「オレが、お前のものになるって?」
改めて相手の言葉を吟味すれば、やはり馬鹿馬鹿しいとしか思えずに。
「出来るモンならやってみやがれ」
オレは、お前になんざ興味ない。
言って背を向ければ、面白いと思うんだけどなぁ、という台詞。
動きかけた右腕を左手で掴んで、京一は強く拳を握った。
振り返って、見慣れた顔を見つける。
……それが随分、久しぶりだったように感じた。
「どうしたの? 京一」
なんの話、と問いかける声が。
不思議そうに見つめる瞳が。
例えば空っぽになるなんて、考えたくもない。
壊れかけた色を、ついこの間見たばかりだ。
あれが今度は空虚になって、何も映さなくなるなんて、冗談じゃない。
「―――――なんでもねェよ」
龍麻の手のコンビニ袋から、断りを入れずにコーラのペットボトルを抜き取った。
止める声も注意の声もなかったから、そのまま蓋を開けて黒い液体を胃へ流し込む。
喉が潤うと同時に、炭酸の気泡が弾けていた。
龍麻は黙したままでそれを見て、京一が視線に気付いて交えると、ふわりと笑う。
今の何処か笑うタイミングだったかと疑問に思ったが、言った所で解決もしないだろう。
気にしないことにして、またコーラを煽った。
がさがさと音を立てて龍麻が取り出したのは、案の定、苺牛乳。
それを片手に持って、龍麻は龍治にパックのジュースを見せながら、
「龍治君も飲む?」
親しい友人に見せるのと同じ笑顔で、問う。
そんな龍麻に、龍治は先刻京一に見せた笑顔とは一変した顔を見せた。
「いらないよ」
「そう」
あっさりと龍麻は引き下がった。
龍治は既に此方を見ていない。
よく判らない。
緋勇龍麻も、耶之路龍治も。
どうして自分なんかを気に入ったなんて言い出すのか。
どうして自分のことをあんなに信頼なんてしているのか。
何を見て、
何を感じて、
何を得て、
何を思うのか。
判らないけれど、一つだけ。
彼らは対でありながら、何処かが酷く似通っていることだけが、なんとなく判る。
―――――――だからと言って、あの空虚な手を掴むつもりは、なかった。
……出来るものなら。
彼は言った。
彼は確かに、そう言った。
それは、つまり。
出来るのならば、彼は自分のものにもなってくれると言う事か。
「……うん」
告げた彼に、きっとそんな意識はないのだろうけれど。
都合良く解釈したところで、誰も咎める者も、止める者もいない。
向けられる鋭い眼差しも。
鋭さを隠さない言葉も声も。
自分に向けられることのない、笑顔も。
束の間の無防備な表情も。
何もかも、何故か酷く記憶に焼きついて離れない。
この感情の名を、自分は知らない。
それが“感情”の一つであるのかすら、よく判らない。
ただ、やけに記憶に鮮明に残る色を、自分だけに向けてみたい。
その時、やっと、自分は“空っぽ”ではなくなるような気がする。
「やっぱり、俺は君が欲しいんだ」
君の全てで、僕を埋めたいんだ。
君の光と、影で、全てを。
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初! 龍治×京一です。マイナー路線ドンと来ーい!!
厳密にすると龍京←龍治です。自分の予想通り、龍京前提になりました。
龍治、難しい。
無邪気に怖い事言ってるイメージは揺るがないのですが、それだけに逆に中々……
妙に老成しかかっている部分と、善悪の区別がつかない小さな子供の部分を意識しました。
……玉砕してる感有りますが。
こんな感じが、龍治×京一のスタートです。ダーク路線だな、こりゃ。
もう直、電車がやって来る。
そんな時間になっても、息子は頑固なままだった。
バカ息子、とよく揶揄った。
しかしそれでも、やる時はやる。
けれど、こんな時には臆病で、まだまだガキなんだと。
「……京一」
ベンチに座って、麦わら帽子に顔を隠して俯いたままの息子に、声をかける。
返事もなければ、顔を上げることもなく、まるで貝みたいだと思う。
「電話ぐれェなら、今からでも十分間に合うぞ」
「………」
「其処に公衆電話あるだろう。100円やっから、行ってこい」
ふるふる。
京一は、首を横に振った。
父は、はっきりと溜息を吐いた。
息子が何を嫌がっているのか判っている。
自分の口から、あの言葉を言いたくない。
あの子に向かって、あの言葉を自分の口で言いたくない。
だから電話をするのも嫌がって、今朝も父を頼って伝えてもらうのが精一杯。
自分であの子に、あの言葉を告げたくない。
だって、本当に嫌だから。
さよならなんて、したくない。
けれど、もう直ぐ夏休みは終わってしまって、東京の学校も授業が始まる。
母も娘も東京の家にいるから、自分たちは帰らなければ行けない。
それは京一も判らないほど幼くはなくて、だから友達にさよならしなきゃいけないことも判っていて。
………だけど、言いたくない。
さよならなんて、したくない。
「ばあちゃん、年だからな……お前も知ってるだろ」
「………」
「そろそろ、病院とか行った方がいいんじゃねェかと思ってんだ」
「………うん」
「足ィ悪いだろ。ばあちゃん。一人にしてちゃ、危ねェかも知れん」
今年の夏に此処に来たのも、そんな祖母の説得の為。
大きな田舎の家は、確かに思い出も沢山あると思うけど、孫たちの為にももう少し長生きして欲しくて。
何かが起きて大変なことになる前に、何処か―――例えば子供達でも直ぐに行ける場所の病院だとか。
移っては貰えないだろうかと。
そんなに頑固な祖母ではない。
せめて自分が逝くまでは家も土地もそのままにしておいてと、それで話はまとまった。
子供の京一は、難しい話はよく判らなかった。
でも、こんなに遠い場所に一人で住んでいたおばあちゃんが、近くに来てくれるのなら嬉しかった。
それは、京一にとってとても嬉しいことだったのだけど。
「だからな。来年、此処に来れるかどうかは、判らねェ」
それはつまり。
此処で出会った友達と、もう逢えなくなるかも知れなくて。
東京から此処までは、遠い。
子供だけで来れる場所でもないし、移動に時間もお金もかかる。
だから、息子には悪いけれど、もう来ない可能性もあった。
だから何も言わずに此処を離れて、ずっと後悔するよりも、せめて何か言った方がいいんじゃないかと父は思う。
けれど、この息子は誰に似たのか、妙に聞き分けのないところがあって。
「行って来い。電話すぐ其処だ」
「………」
やっぱり、京一は首を横に振った。
あの言葉を、自分であの子に告げた瞬間、全てが夏の夢になってしまうような気がする。
楽しかった日々も、現実にあった筈なのに、あの言葉が全て夢にしてしまうようで、だから言いたくない。
こんな別れ方も初めてだから、余計に怖くて言えなかった。
電車がホームに滑り込む。
父が立ち上がっても、京一はベンチから降りなかった。
帰らなきゃいけない、でも帰りたくない。
息子の気持ちは判るし、父自身もやきもきした所はあったけれど、父は息子を抱きかかえて電車に乗った。
こうしてやると、いつも子供扱いするなと怒るのに、今日ばかりはしがみついて来る息子。
バカ息子、と呟いたのは無意識。
乗客の少ない電車のボックス席に座って、京一を窓側に下ろす。
窓の肘掛に寄りかかって、京一は広がる田舎の風景に見入った。
実の成り始めた田んぼ。
さらさら流れる小川。
山から聞こえる、鳴きやまない蝉。
どこでどんな風に遊んだのか、覚えてる。
底が見えなくなるぐらい、沢山の記憶があちらこちらに散らばっている。
夏の強い陽の光の下で、春の陽気みたいにふんわり笑う友達は、思い出全部の中にいて。
さよならなんて、したくない。
間もなく、発車します。
アナウンスの声が車内に響いて、ドアの閉まる音がした。
丁度、その時。
「待って!」
聞こえた声に、無情にもドアは閉まる。
けれども、その声は確かに、京一の耳に届いた。
景色が動き始めたのも構わずに、京一は夢中で窓を開けようとした。
しかし、施錠された電車の窓の開け方が判らず、ガタガタと音を立てるだけで、気ばかり焦る。
後ろから腕が伸びて、それは父のものだった。
直ぐに窓は開けられ、京一は危ない事なんて頭に一つも浮かばずに、窓から外に乗り出した。
見付けたのは、駅のホームを走る友達。
「龍麻、」
必死に走る最中、京一の呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げて前を見れば、窓から乗り出す、見慣れた麦わら帽子。
龍麻は手足を精一杯動かして、出来る限りの速さで走る。
列車はまだ速度を出していない。
「京一、」
「龍麻、お前、なんで」
「お父さんに、自転車」
焼き場にいた父を母が呼んでくれて、自転車に乗せて此処まで連れてきてもらった。
もっと早くもっと早くと珍しく急かす息子に、父は応えられるだけの速さで応えてくれた。
そうして、今、間に合った。
列車は既にドアを閉めてしまったけれど、まだ加速していない。
友達の存在はまだ此処にあって、遠い遠い東京じゃない。
言葉を紡げば、届く距離。
「バカ、危ねェ」
「京一だって危ないよ」
電車と並んで走るのも、走る電車の窓から乗り出すのも。
どっちも危ないけれど、今はそんな事は問題じゃなくて。
「龍麻、オレ、」
何かを言いかけて、京一が喉を詰まらせた。
見上げた瞳に浮かんだ雫に、龍麻も視界が滲みかけて、目を擦る。
そうしている真に、列車は少しずつ少しずつ、加速を始める。
残された最後の時間は、残り僅か。
「龍麻、」
「京一、」
言葉を捜す京一に変わって、龍麻が口を開く。
「また、逢えるよね、」
「龍、」
「いつでも、いいから。来年でも、来年じゃなくても、」
いつでもいい。
いつでも。
来年でも、再来年でも、十年先でも。
いつだっていい、もう一度会えたらいつだっていい。
それがどんなに遠い日でも。
「だから、だから、」
だから、さよならなんて言わないで。
これっきりみたいに言わないで。
もう逢えないなんて、言わないで、思わないで、決めないで。
楽しい日々は、直ぐに過ぎてしまうけど、また繰り返される時が来る。
そう教えてくれたのは、他でもない、目の前にいる友達で。
だから。
「また、逢えるよね、」
手を伸ばしても、もう届かない。
少しずつ開き始める、二人の距離が、今もまだ寂しくて悲しい。
時間が止まってくれたらいいのに。
夏が終わらなければいいのに。
何度思ったか知れない。
何度願ったか判らない。
叶うはずのない、子供の希望。
だって時間は止まらない、夏は過ぎて秋になる。
蝉はもうじき鳴くのを止めて、コオロギや鈴虫が鳴き始めて、川の水はもっともっと冷たくなる。
山の緑は緋色に替わって、空の蒼も少し変わって、稲穂は重くなり頭を垂れる。
でもそれと同時に、この小さな自分たちの手も、少しずつ大きくなってくれるはず。
届かないこの距離を、もう一度縮められるくらいに、足も速くなるはずだから。
「今度は僕が、逢いに行くから」
―――――最初の一歩は、京一からだった。
だから今度の一歩は、龍麻から。
届かなくなったこの手を、もう一度届かせる為に。
だから、さよならなんて言わないで。
「……ばぁか」
赤い顔で、京一が呟いた。
それから、腕でごしごし目を擦ってから、
「またな、龍麻!」
龍麻の大好きな、麦わら帽子の笑顔。
ほんの少し、涙の滲んだ、きらきらの笑顔。
ホームの終わりに立ち止まって、精一杯背伸びして手を振った。
同じように、京一も、窓から乗り出して手を振った。
見えなくなるまで、ずっとずっと。
滲んだ視界を、また擦って、見えなくなった笑顔を忘れないよう心に刻む。
さよならなんて言わないで。
もう逢えないなんて言わないで。
だって逢いに行くんだから。
だって、大好きな友達なんだから。
この夏が終わっても、
キミと出逢った思い出は、ずっとずっと忘れない。
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(夏休みで5題 / 5.夏の終わり)
最後は“さよなら”に決めてました。
悲しい感じにならないように、未来に向かってく感じで。
意外と京ちゃんがよく泣いたなぁと……感情の起伏が龍麻より激しそうなので。
京一が弱ると、やっぱり龍麻がちょっと男らしくなります。でも天然気味。
そして出張りに出張った京一の父ちゃんでした(笑)。
蒼と茜
金と緑
麦わら帽子と君の笑顔
止まってくれない時間が少し寂しくて
見えない約束だけを握り締めて、僕らは未来(あした)へ歩き出す
- 夏の終わり -
夏休みが終わるまで、あと一週間を切った。
蝉はまだ煩いくらいに鳴いていて、夕暮れにはアカトンボが飛び交う。
小学校のプールは解放されていて、毎日、何処かの家族連れが遊んでいる。
夏山の木々は青々と茂り、川の中ではすいすいと魚が涼しげに泳いでいた。
あと数日もすれば、暦の上の季節は夏から秋へと移り変わる。
それにしては相変わらず暑い日々が続いて、子供達は夏休みが終わるなんて少しも思えなかった。
親に言われて、ほったらかしの真っ白な宿題を急いで片付ける子は、少し違ったかも知れないけれど。
龍麻は、今年の夏が随分早く終わってしまっていくような気がした。
夏休みの日取りは何も変わっていないのに、どうしてだろう。
考えてから、麦わら帽子の笑顔が頭に浮かんだ。
あの男の子が龍麻の前に現れてから、なんだか、何もかもが新鮮だ。
山の麓で一人で絵を描いていたのが、二人になった。
山中に入って虫取りもするようになって、今まで知らなかった虫の色や形も覚えた。
夏祭りも、親子三人だけだったのが、今年は友達と友達のお父さんが一緒だった。
父とは滅多にしないゲーム勝負もやったし、手持ち花火で一緒に騒いだ。
その帰り道、皆手を繋いで家路についた。
家に友達を連れてくることなんてなかったのに、麦わら帽子の男の子は連れて行った。
二人並んで縁側に座って、母が切ってくれたスイカや、カキ氷を食べた。
美味しかった、楽しかった。
夏休みが終わるなんて思えない。
終わってしまうなんて、勿体ない。
もっと長かったら良いのに、ずーっと夏休みだったら良いのに。
もっとずっと、毎日、ずーっと。
麦わら帽子の笑顔が見れたら、良いのに。
子供らしい、ささやかな願いだった。
かなかなかな。
かなかなかな。
ヒグラシが鳴き始めたのを聞いて、京一が水辺から顔を上げた。
龍麻も同じく、空を見上げる。
遠く澄んだ蒼が茜になって、もう帰らなくちゃ、と龍麻は思った。
ふくらはぎまでの深さの川の水は、茜の陽光を反射させ、透けた砂利がほんのりオレンジ色に映っていた。
それでも、本音はまだまだ遊びたくて、龍麻は川の中から上がりたくなくて動けない。
京一と遊んでいると、あっと言う間に時間が過ぎる。
絵を描いていても、山の中でも、こうして川の中で遊んでいても、気がついたらもう夕暮れだ。
一人で地面にお絵描きしていた時は、こんなに早く空が茜にならなかったのに。
でも、仕方がない。
そろそろ帰る準備をしないと、両親が心配するし、京一の父も迎えに来る。
龍麻が先に川を上がった。
今年の夏、京一と一緒に遊ぶようになってから買って貰ったサンダルを履く。
買って間もない新品の筈なのに、そのサンダルは、もう少し草臥れ始めていた。
毎日のように、山を歩き回って、そのまま水に浸したりしたからだ。
京一と一緒に過ごした日々の証のようで、龍麻は少し嬉しかった。
京一も川を上がる。
龍麻のサンダルと並べていた雪駄を履いた。
「あーあ。もう直ぐ終わっちまうな、夏休み」
「うん」
小石詰めの川原を歩いて、土手に向かう。
その途中の京一の呟きに、龍麻は改めて、夏休みが終わってしまうことを感じた。
「京一、宿題やった?」
「ん。父ちゃんが煩ェから、とっとと片付けた」
「僕も終わった」
朝起きて、父と一緒にラジオ体操をして、それから少しの間勉強をした。
一時間ほどで勉強時間は終わりにして、家を出て地面にお絵描きをして、京一が来るのを待つ。
木陰で母に貰ったおにぎりを食べて、昼時が少し過ぎた頃、やってきた京一と一緒に夕方まで遊ぶ。
家に帰ったら、ご飯を食べて、また少し勉強をして、お風呂に入って眠る。
それが龍麻の一日のスケジュール。
宿題は順調に進んでいって、夏休みが半分を過ぎた頃には、殆ど片付いた。
時々、母の手伝いもしようと思ったけれど、それを言ったら母は京一君と遊んでおいで、と笑っていた。
苺味の飴玉やおにぎりを二つ持たせて、暑い日差しの中で、母はいつも笑顔で息子を見送った。
京一は、いつもギリギリまで放っとくんだ、と言った。
でもそうすると、父から遊んでばっかいないで宿題しろ、と怒られる。
龍麻と何も気にせず遊びたかったから、今年は早く片付けた。
朝起きたら、手早く食事を済ませて、父と昼間で剣術稽古。
稽古が済んだら、外に出て、夕方まで龍麻と一緒に遊ぶ。
家に帰ったら、夕飯の準備が出来るまで宿題をして、食事が済んでも宿題をする。
そうしていつもなら手付かずのままの宿題を、今年だけはきちんと済ませた。
やりゃあ出来るんだから、言われる前にやりやがれ、と父には小突かれた。
「なーんか、一杯間違ってる気ィするけどな」
言いながら、まァいいかと京一は笑う。
済ませるものは済ませたんだから、と。
「京一、自由研究とかした?」
「おう。セミの脱皮の観察やった」
「あ、僕もそれにすれば良かったなあ」
「龍麻は何やったんだ?」
「アサガオの観察」
「いいじゃねえか、それでも」
「だって去年もやったもん」
他にやりたい事が見付からなかったから、去年と同じものを選んだ。
選んだ時、一緒でいいのかなあと呟いたら、母は毎年少しずつ違うものよ、と言ってくれた。
確かに、少しずつではあるけれど、去年とは違ったと思う。
でも、セミの脱皮も見てみたかった。
山の中で抜け殻は見た事があったけど、其処から蝉がどうやって出てくるのかは見た事がない。
来年の自由研究は、セミの観察にしよう。
龍麻は決めた。
京一が見た事があるなら、自分も見たい。
京一が知っている事なら、自分も知りたい。
同じ学校のクラスの子達が相手でも、龍麻はこんなに強く思ったことはなかった。
それぐらい、龍麻にとって、この一夏で出会ったこの友達は、特別なものになっていて。
「京一、大好き」
告げた言葉に、京一がぽかんと口を開く。
なんだ急に、そんな顔で。
「大好き」
「…お、う?」
「大好き」
「判ったって」
言う度に、京一の顔が赤くなる。
京一は、結構照れ屋だった。
褒められるとそっぽを向いてなんでもない風を装うけれど、顔を見たらいつも真っ赤。
前に麦わら帽子で直ぐに顔を隠したりしていたのも、やっぱり恥ずかしいからだった。
その赤い顔を見られないように、京一はそっぽを向いた。
龍麻は反対側に回り込んで、京一と向き合う。
すると、また京一は反対側を向いてしまった。
めげずに、龍麻はくるくる京一の周りを回る。
「京一は?」
「なんだよ」
「京一、僕のこと好き?」
「…なんでェ、いきなり…」
嫌いだなんて言わないのは判っている。
だから龍麻が求めている答えは一つしかなくて、出てくる答えも多分一つしかない。
それでも、龍麻は言って欲しかった。
「僕ね、お父さんとお母さんと京一が、世界で一番大好き」
また京一の顔が赤くなる。
空の茜の所為だけじゃない。
「……バカ。一番ってのは、一つだけだろ」
「なんで?」
「だって一番だろ。かけっこだって、一等賞は一人だけだろ」
「でも一番だもん。お父さんとお母さんと京一、皆一番好きだよ」
暖かいお母さん。
優しいお父さん。
眩しい京一。
順番なんて決められない。
皆それぞれ大好きで、其処に違いはなかった。
赤くなった京一の顔を見ようとすると、今度は麦わら帽子の縁を引っ張って顔を隠してしまった。
下から覗き込むことも出来るけど、そうすると次は多分怒り出すだろう。
答えを聞けなくなるのは嫌だったから、龍麻は覗く込むのをやめた。
「ねえ、京一は?」
「あーッ……判れよ、判ンだろ」
「ねえってば」
「だーかーらァ……」
顔を隠したままで、足早に歩く京一を追いかける。
かなかなかな。
かなかなかな。
ヒグラシの鳴く隙間、龍麻はねえねえ、と京一に問いかける。
シャツの裾を引っ張って、龍麻は何度も聞いた。
その内、そんなに長くはない京一の我慢の方が、先に限界が来て。
「好きだよ、好き! じゃなきゃ、一緒に遊ぶかよッ。これでいいかッ」
少しやけっぱち気味の台詞と、帽子に隠れ損なった真っ赤な耳と。
嬉しくなって、龍麻は京一の左手を掴まえて、ぎゅっと握った。
京一は嫌がるような素振りはなくて、またそっぽを向いてしまったけれど、同じくらいの力で握り返した。
「京一」
「ンだよ」
「明日も一緒に遊ぼうね」
それは、いつも別れ際に交わされる、些細だけれど大切な約束。
そんな約束しない日でも、次の日はまるで習慣になったように二人並んで遊ぶのだけど。
約束が出来るのが嬉しくて、龍麻はいつも言っていた。
大抵、京一はおう、とか、気が向いたらな、なんて少し素っ気無い返事をする。
でも気が向いたら―――と言いながら、一度もこの約束を破ったことはない。
だから返事がなくても、気にしなかった。
真っ赤な耳に、照れているんだと思ったから。
この繋いだ手が、麦わら帽子の笑顔が。
ずっとずっと傍にあると、信じて疑わなかった。
目が覚めて、父と一緒にラジオ体操をして。
母の手製のご飯を食べて、食器洗いのお手伝い。
それから、障子戸を開け放った部屋の中で、朝のテレビ番組を少しの間眺めてから。
いつものように外に向かおうと思った所で、電話が鳴った。
母はまだ水仕事をしていて、父はもう焼き場に行っていた。
電話機は玄関にあって、どの道そこに向かうから、ついでに出ようと思った。
少し背伸びをして、古びた黒電話の受話器を取る。
「もしもし、ひゆうです」
『ああ、坊主か』
受話器の向こうから聞こえた声は、少ししゃがれた男の人。
『京一ンとこの親父だが、おふくろさんいるか?』
「お皿洗ってます」
『そうか。少し急ぎなんだがな、替われるか?』
聞こえる声は至って落ち着いていて、急いでいるようには聞こえない。
でも急ぎと言うから、急ぎなんだろう。
龍麻は受話器を持って、台所にいるだろう母を呼んだ。
「お母さん、電話」
「はいはい」
ぱたぱたと足音を立てて、エプロンで手を拭きながら母が出てくる。
持っていた受話器を、京一のお父さん、と説明して渡す。
もしもし、緋勇です。
おはようございます。
ええ、ええ、此方こそ。
見えない電話向こうの人に頭を下げている母。
それを少しの間見つめてから、そうだそろそろ行かなくちゃ、と龍麻は思い出した。
今日はどんな遊びをしよう。
山の中に行くのもいいし、麓で絵を描いていてもいいし、川辺で遊ぶのもいい。
虫取りも、魚取りも、木登りも、なんでも楽しいから、龍麻はいつも迷う。
前はそんなに楽しいと思ったことのない遊びでも、京一と一緒だったらなんでも楽しい。
きっと、大好きな麦わら帽子の笑顔があるからだ。
そうだ。
あのつり橋。
ふと思い出した。
初めて二人一緒に山に入ったあの日、見つけられなかった遠くのつり橋。
あの日は結局迷子になってしまったけれど、今度は見つけられるかも知れない。
前回ギブアップしてしまった冒険に、もう一度挑戦してみるのも悪くない。
あの時よりは龍麻も山に慣れたし、ちゃんと目印をつけながら歩けば、帰る時だって迷わない。
それから―――――
「ああ、ひーちゃん、ちょっと待って」
下駄箱から出したサンダルを履き掛けたところで、母に呼び止められる。
母はまだ電話で話をしていた。
別段、龍麻に急ぐ理由はない。
京一がやって来るのは、いつだって昼を過ぎた頃だった。
それでも朝早くから家を出るのは、待っている時間も楽しいからだ。
何をしよう、何で遊ぼう、なんの話をしよう――――そう思っている時間が、とても。
サンダルを履いて、龍麻は電話が終わるのを待った。
まあ、まぁ。
そうですか、それは…
判りました、伝えておきます。
此方こそ、本当にありがとうございました。
チン。
小さなベルの音がして、受話器は戻された。
電話を終えた母は、一つ小さな息を吐いてから、土間に立ち尽くす息子に振り返る。
その表情が心なしか寂しそうに見えて、龍麻はどうしたんだろうと首を傾げた。
「あのね、ひーちゃん」
膝を曲げ、息子と同じ目線の高さになって、母は話し始めた。
落ち着いて聞いてね、と。
「京一君ね、もう遊べないんですって」
「……なんで?」
告げられた言葉の意味と、そんな言葉を告げられる意味と。
判らなくて問いかければ、母はまた寂しそうに眉を下げる。
「京一君、今日、東京に帰っちゃうの」
「…とうきょう?」
聞き覚えはあった、その単語。
テレビで時々見た事がある、高い高い建物が沢山ある場所。
車が沢山走っていて、電車が一杯あって、人が沢山いる場所。
でもそれが何処にあるのか、龍麻は判らない。
外国のような気さえする。
それぐらい、龍麻にとって“東京”とは遠い遠い地だった。
「京一君のおうちは、東京にあるの。こっちには、おばあちゃんが住んでてね。夏休みの間、遊びに来ていたんですって」
だから、龍麻は最初、京一の顔を知らなかった。
児童の少ない小さな村の、小さな小学校で、同じ頃の年なのに、顔を見た事がなかった。
夏休みの間だけ、此処に来るから。
「もう直ぐ、夏休みも終わりでしょう。新学期の準備もあるし…もう帰らなくちゃいけないんですって」
…そんなこと。
そんなこと、京一は一度も言わなかった。
昨日もなんにも言わなかった。
いつものように遊んで、いつものように水や砂やホコリまみれになって。
龍麻の好きな麦わら帽子の笑顔は、いつものように、きらきら輝いて。
さよならなんて、一度も。
「本当は、昨日言おうと思っていたらしいんだけど」
「……」
「結局言えなくて、さっき、お父さんから、伝言貰ったの」
「伝言……?」
「そう。京一君から。自分じゃ、言えないからって…」
頭が追いついていないのが判った。
何が、どうなって―――京一が遊べないのかが、判らない。
浮かんで来るのは、龍麻を引っ張っていく、剣ダコのある、日焼けをした手。
生傷が絶えないのも、勲章みたいに見せて歩く、膝小僧。
案外照れ屋で、直ぐ耳の先っぽまで真っ赤になる。
それでも、大きな声で好きだよと言ってくれて。
きらきら輝く太陽みたいな、麦わら帽子のあの笑顔。
「約束破ってごめんねって。言えなくてごめんねって…」
きらきら輝く笑顔の内側で。
さようならを言えるタイミングを探してた?
ごめんを言える場所を探してた?
好きだよと言ったその声で、さよならの言葉を言おうとして、いた?
「楽しかったって。面白かったって。ひーちゃんと一緒に遊べて、嬉しかったって」
母の言葉と。
告げられなかった京一の声。
頭の中で重なって、繰り返される。
約束破って、ごめん。
言えなくてごめん。
楽しかった。
面白かった。
嬉しかった。
龍麻と一緒に遊べて、凄く。
だけどごめん。
もう帰んなきゃ。
さよならなんだ。
ごめん。
約束破ってごめん。
言えなくて、ごめん。
もう一緒に遊べなくて、ごめん―――――………
「もう直ぐ、電車に乗っちゃうって。だから、京一君のお父さん、急いでかけてきてくれたの」
立ち尽くす息子は、果たして判ってくれるだろうか。
判ってくれたとして、それは我慢ではないだろうか。
滅多にわがままを言わない息子に、母は心配になった。
龍麻が、あんなに友達と一緒に楽しそうに過ごしているのは、随分久しぶりだった。
波長が中々合わないのか、あまり他の子と遊びたがらない息子が、この夏はとても楽しそうで。
そんな夏を一緒に過ごした友達が、もう会えなくなるなんて知ったら、この子はどんなに悲しむだろう。
水槽の中の金魚が、泳ぐ。
あの日友達と分け合った、二匹の金魚が。
少しの間、龍麻は立ち尽くした。
告げられた言葉の意味を、何度も何度も、頭の中で繰り返して。
手を繋いでいた、昨日の温もりを思い出して。
温もりを逃がさないように、強く強く握り締めて、顔を上げる。
ごめん、なんて。
そんな言葉、いらない。
謝らなくたっていい、怒ったりなんかしないから。
「お母さん、駅ってどこ?」
だから、さよならなんて言わないで。
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