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どうしたって好きになれない物や事柄はある。
人それぞれに人格があって、相手によって合う合わないの相性があるのだから仕方がない。
けれども、此処ではそんな理屈はただの言い訳や我侭でしかない。
立場がそうさせていて、そして自分は面倒臭い言は全て飲み込み、伸ばされる腕は全て受け入れなければならない。
袖振り合うも多少の縁とは言うが、それも自分である程度選べられたらの話だと思うのは、こんな時だった。
座敷の襖を開けて、下げていた面を上げれば、案の定。
「やぁ、京ちゃん」
胡散臭い程ににこやかな笑みを浮かべて、男―――――八剣右近は言った。
京一は、この男が苦手だった。
嫌いでないのかと問われれば、出てくる答えは迷いなく“嫌い”だが、それよりも苦手の部類に入る。
見た所、年の頃は二十の半ば程で、城に仕える高官お抱えの侍であると言う。
元は浪人をやっていたと言うが、なんの因果か今の位置に納まり、七日に一度(多い時は日を開けずに)此処に来る。
腰に携えた刀は無銘であるらしいが本人は気に入っているようで、妙に綺麗な細工の入った刀に比べると酷く地味であった。
お陰で良い賃金を貰っているようには見えないのだが、太夫の京一の馴染みになる程だから、所得は高いのだろう。
顔立ちは整っている方で、普通に女の所に行けば引く手数多である筈だ。
京一は女がどんな顔を好きかなど興味もないし知らないが、こういう顔が好きなんじゃないかとは思う。
だれだって不細工より整った方が好きだろうし、京一も(選びたい訳でも、選べる訳でもなかったが)脂ぎった腹の肥えた狸親父よりも、こっちの方が随分マシに思えた。
廓に来る客の中では、珍しいほど身奇麗な男であった。
さて、京一が何故この男を苦手としているかと言うと。
「お酌、してくれる?」
「…………」
これだ。
先ずこれだ。
それが仕事なのだから、言われなくともする。
言う男もいて、それらは大抵命令口調で、あまりに態度が酷いと京一は躊躇わずに股間を蹴飛ばしてやる事もあった。
だが、こうして柔らかな物腰で―――裏もありそうにない―――頼まれることは、滅多にない。
言われた通り、京一は八剣の傍に寄って、徳利を手に取った。
差し出された猪口に注ぐと、八剣は一息に煽る。
この後、大抵の客は性急に事に及ぼうとする。
一般的にはどうだか知らないが、少なくとも、京一の客は殆どがそうだった。
だから最初にこの男と会って、あっと言う間に馴染みになった時も、床入れだけが目当てなのだろうと思っていたのだが、
「最近、夜になるとめっきり冷え込むね。北の方じゃ、もう雪が降ったってさ」
「…………」
「此処で雪は降らないな。雪見酒も良いんだが、降らないのじゃあどうしようもないか」
「…………」
空になる事に猪口に酒を注ぐも、その間、京一は無言だった。
相槌も打たないのは昔からで、この態度を崩してやろうと男達が躍起になったのが京一の人気の由縁だ。
だから馴染みになった男達は、高慢な顔を打ち壊そうと性急に床入れしようとするのである。
が、何故かこの男だけはそれをしない。
聞いているか否かも確認することなく、酒を飲んでいる間は好きに喋っているばかりだ。
京一が本当に聞いていなくても、この男は気を咎めた様子もない。
詰まらない話だったね、次はもう少し面白そうな話を仕入れておくよ。
そんな事まで言ってくるのだ。
「眠る時、寒くはないかな。うちの屋敷は見た目は良いが、隙間風が酷いんだ」
主殿が守銭奴でね、中々直して貰えない。
笑い混じりのその言葉は、深読みすれば、熱を欲しているという意味にも取れる。
徳利を置いて、杯を取り上げる。
八剣は何も言わず、京一の好きにさせていた。
腕を首に絡めて、触れ合いそうな程に顔を近付ける。
形の良い唇に舌を這わせ、八剣の首の後ろで指を滑らせた。
「寒いんだったら、温まりゃいいだろ」
「京ちゃんが温めてくれるのかい?」
「…………」
どうせそれが目当てだろう。
だから、此処に来るんだろう。
睨む京一の瞳は口ほどに物を言うもので、八剣もそれをしっかりと知っていた。
けれど、八剣は動かない。
だから苦手なのだ。
嫌いなのだ。
此処は“そういう”場所なのに、此処にいるから自分は“そういう”ものなのに。
どうしてかこの男はそうであれとは言わず、京一から誘いをかけないと床にも入らない。
ただ酒を飲むだけで店で一夜を明かし、酒代には吊り合わない揚代金を置いていく。
単純に客として相手をするなら、こんなに楽な客は早々いないが、京一には返ってそれが苦手意識に繋がった。
抱くことがない日もあれば、酌すら求めることがない日もあって、本当に京一が隣にいるだけの事もある。
それで何が楽しいのだか、コイツは此処に何しに来てんだと思うのだ。
京一が抱けと言えば、抱く。
激しくしろと言えば激しくするし、さっさと済ませろ言えば本当にさっさと済ませる。
京一が自分の好きに動けば受け入れて、主導しろと言えば主導した。
けれども、前の客のお陰で京一が疲れている事があると、自分の相手は良いから寝ろと言う。
本当に寝ていても寝込みを襲ってくる事はなく、そういう日はお陰で助かるが、やっぱり困惑した。
時々、どちらが客か判らなくなる程、八剣は京一の要望に答えてみせる。
こんな妙な客は他にいない。
「……お前は、オレをどうしてェんだよ」
「好きにしてくれていいよ」
問うてみれば、毎回そんな答えが返ってくる。
番頭や楼主は、良い客だ、上客だと言うが、京一は冗談じゃないと思う。
こんなに性質の悪い客はいない、と。
同じような事を言って置きながら、京一の主導を赦さない男もいる。
好きにしろと言って、好きにしてやれば、罵詈雑言をはき掛けてくる輩もいる。
……腹は立つが、そっちの方が判り易いので良いと京一は思う。
「じゃあ、お前はどんなオレがお望みだ?」
帯を解いて、着物を肌蹴させて。
さぁお前はどんな趣向が好きなんだと、意地の悪い質問を投げかける。
その薄ら笑いの裏側を見せてみろと、囁いてやる。
自分に何か幻想を見ているのなら、いっそ打ち砕いてやる。
甘美な夢を見せるのは、この穢れた躯なんだと教えてやる。
―――――――なのに。
「そのままでいいよ」
そう言って、背中に回った腕は、何をするでもなく閉じ込めるだけで。
少し大きな手のひらは、拗ねた子供を宥めるように頭を撫でる。
言葉も行為も、いつも意味が判らない。
結局お前は、オレの何が見たいんだ――――――?
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長い。
拍手なのに長い。
プレなのに長い。
ごめんなさいいいいい!!
京一が荒んでれば荒んでるほど、八剣が寛容になって行く気がします。
でもこのシリーズの八京は、終始こんな感じになりそうです。
あと、うちの八剣はいつも言葉が足りなすぎるんじゃないかと思います。
……だって言っても京ちゃんが信じないからさぁ……
一月ぶりに見た顔に、京一の表情が思わず晴れる。
三週間前に京一付きの禿(かむろ)になったばかりの少年は、初めて見た太夫の笑顔に驚いた。
彼は自分と話をする時にも、何処か傷ましげな顔をして、笑った顔も見せた事がない。
そんな太夫に、心からの笑顔をさせる人物がいるなんて、とてもじゃないが想像できていなかった。
「龍麻じゃねェか。久しぶりだな」
「うん。これ、お土産」
店にやって来て京一を指名したのは、京一とまだ歳の変わらぬ青年――――いや、少年だろうか。
元服はしているだろうが、齢を重ねた大人達と並ぶと、まだ垢抜けぬ雰囲気を纏っている。
そんな人物がどうして太夫と親しく出来るのか、傍目には理解できないだろう。
龍麻と呼ばれた少年が差し出したのは、東の都で今流行の饅頭。
それを、京一は躊躇わずに受け取った。
後で食わせて貰うと言う京一に、少年は嬉しそうに頷いた。
禿の少年がその場にいられたのは其処までで、京一に言われて土産の饅頭を京一の寝所に持って行く事になった。
その時龍麻と目が合って、澄んだ瞳がこの店にはなんだか不似合いなような気がして、どうして彼のような人物が廓に―――それも陰間茶屋に―――来るのかが不思議でたまらなかった。
座敷を後にする間際、禿の少年は、少しだけ座敷の様子を伺っていた。
その間、二人は客と太夫と言うよりも、まるで長年の友人のような気安さで会話を交わしていた。
「今回は何処行ってたんでェ? 東の都だけか?」
「北にも行ったよ。東の都から、仕事でだけど」
「北はもう冬か」
「うん。僕が行った時は雪は降ってなかったけど、今はもう降ってる時期かな」
用意されていた酒を、龍麻は手酌で注いだ。
本来ならば京一の仕事であろうに、しかし京一は龍麻の手を止めず、自らの分も手酌で注ぐ。
乾杯の音頭もなく、二人は、まるで其処が町の安宿であるかのように酒を飲む。
太夫が珍しく、客を気に入っているようであると、少年にも判った。
誰に対しても気を赦さない人だと思っていたのに、こんな顔をする事もあるのか―――――そう思いながら、少年は座敷を後にした。
………禿の少年が座敷を離れて。
足音が遠退き、気配も消えたのを確認してから、京一は銚子と猪口を捨て、手を伸ばした。
親しい友の表情から、艶を宿した太夫の顔に変えて。
「雪ってェのは、冷てェんだろ?」
「京一は、雪を見た事ないの?」
「さァてね。忘れた」
首に腕を絡めて、顔を近付ける。
目を閉じた龍麻に、京一は躊躇わずに口付けた。
数度舌が触れ合って、離れる。
「オレと雪と、どっちが冷てェんだろうな」
龍麻の手を捕まえて、京一はその手を着物の袷の中へと誘う。
女と違う平らな胸―――――龍麻は直ぐに答えて、其処に掌を滑らせた。
左側に触れてみれば、心臓の鼓動が感じられて。
「京一は温かいよ」
「………ふぅん」
呟いた龍麻に、京一はなんとも気のない返事をする。
「どうかねェ。オレぁそうは思わねェな」
「大丈夫。本当だから」
「口じゃなんとでも言えらァな」
口端を吊り上げて漏れた言葉を、龍麻は確りと受け止めた。
受け止めたことに龍麻の表情が歪むことはなく、ただほんの一瞬、寂しそうに眉尻が下げられて。
―――――龍麻のそんな顔にさえ、京一は同じように笑んで見せただけで。
「好きだよ、京一」
廓で囁かれる愛の言葉こそ、薄っぺらいものはないだろう。
不確かな言葉を注ぐくらいなら、明確な証を寄越してみろと、切れ長の瞳が嗤う。
そら見ろ出来ないじゃねェかと、出来た所でなァんにも返すモンなんかねェけどな、と。
伸ばされた腕を捕まえて、褥に横たえる。
じっと見下ろす先にある表情は、笑っているようで、嘲笑っているようで。
見上げてくる瞳は、艶を灯しているのに、目の前にいる人間から素通りしているようで何も映す事はなく。
「好きだよ」
「ああ」
繰り返された言の葉に、京一の表情は変わらない。
囁かれる愛も受け入れて、何も拒むことはない。
そして、返事を望むのならば、臨む言葉を紡いでみせる。
「オレも好きだぜ、龍麻……―――――――」
囁かれた愛の言葉は、龍麻が呟いた言葉以上に中身がない。
それが当たり前だ。
京一にとっては、相手の言葉も、自分の言葉も、価値を持たない。
だって差し出すものは、単なる言の葉だけだから。
囁かれるだけ、囁いてやろう。
中身の要らない愛なら、幾らでも。
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龍麻に対してこんな態度の京一と言うのは、うちのサイトじゃ珍しいですね。
こうなっちゃうと相当荒んでる事になります。
このまま行ったら、雛○○症○群とかになるんじゃないですかね(えぇぇぇ)。
他の客よりは気に入ってるので友好的ですが、だからって受け入れてる訳でもない感じ。
お前の要望には応えてやるよ、みたいな。
夜は蝶。
昼は蜘蛛。
その言葉を聞く度に、褒められているようで貶されている気分になる。
何が良いのか知らないが、幸か不幸か、自分は人気があった。
お陰で最初の頃はあちこち引き回されて疲労ばかりが溜まったが、太夫になると随分楽になった。
太夫になると、此方が相手を選べるようになる。
無論、自分だけの一存で決められる訳でもなかったが、それでも相手にする数は随分減った。
以前は眠りたい時に眠れずに、それでも目の下に隈でもあれば打たれるので、その心配がなくなったのは助かった。
愛想も何もない自分の何処に気に入る要素があるのか、京一には判らない。
オレだったら座敷持の時点でブン殴ってるがな、と常々思う。
それが一部の男達の色心を煽るとは、知らなかった。
眠い目を擦りながら、昨日の客を見送る。
この廓につれて来られた頃から、京一のこんな態度は変わらない。
上位の遊女になる素質があるとされ、引込禿(かむろ)として楼主から英才教育を施されたにも関わらず、だ。
挙句、その楼主に反抗する事も多く、躾直しと言って手を上げた楼主を返り討ちにしたりして、その出来事は前代未聞として今でも語り草になっている。
いつの間にか、その話は客層にも広まっており、強気なその性格を己が挫かせてやろうと言い出す者が出て来た。
しかし結局、京一の性格も態度も、今の今まで変化を見せていない。
起こすんじゃねえよと言わんばかりに客を睨み、愛想もなく見送る京一。
整えていない胸元から、赤い華が覗いている。
隠しもしなければ恥ずかしがることもしない、憮然とした態度で京一は其処に立っていた。
「また来るよ」
引き締まった腰を男の手が抱き寄せる。
それを甘受し、京一は一度だけ、男の胸に顔を寄せた。
鉄錆の匂いがして、京一は一瞬眉根を顰める。
それは男の目には見えなかったようで、ちらりと上目で伺うと、鼻の下を伸ばしきっていた。
何をした訳でも、言った訳でもないのに、これだけで勘違いをしてくれるのだから、男とは単純なものだ。
自分も一応、男なのだけれど。
名残を惜しむ素振りでも見せるように、男の手に力が篭る。
しかし京一はそれをあっさりと振り払い、踵を返した。
欠伸を一つ漏らして、戻ったらさっさと寝ようと決める。
部屋に戻るその背中に、聞こえる声があった。
「おい、どうだった? 太夫を抱いたんだろ?」
「ああ、最高だぜ」
連れの男と顔を合わせて、京一の客が色めいた声で言った。
あの男はもともとは男色に興味がなかったらしいが、京一にはそうは思えない。
慣れているようにも思えなかったが、全く経験がないようには見えなかった。
第一、初回から馴染みまでの間が短く、逢う度に男は好色な目をして京一を見ていたように思う。
単なる勘であるが。
「噂に聞いてた通りだったよ」
「どっちがだ?」
「どっちもさ」
性格のことか、具合のことか。
問いかける連れに、男は肩を揺らせて応える。
外で自分がどんな噂をされているのか、京一は知らない。
興味がないし、聞いても大抵それは下らないもので、記憶の片隅にも残らない。
時折ご親切に教えてくれる客がいるが、それもまともに取り合っていなかった。
けれどもなんとなく、この時だけは。
眠い頭が何を思ったのか、足を止めさせた。
「あれだけ強気なのが、床入れしちまうと大人しいんだよ」
「へェ」
「その差がいいな。うん。気紛れに甘えるのも」
長々喋って夜の様子を言いふらす男。
はっきり言って、気が悪くなった。
初回と裏では特に問題がなさそうだったので、そのまま馴染みにしたが、失敗だったなと思う。
何が失敗であるかは、この場合、京一の気分を害した事に因る。
床入れするのも、大人しくするのも、本当は御免だ。
それでも、此処はそういう場だから、好きにさせてさっさと終わらせるのが負担も少なくて助かると思って、そうするようになった。
気紛れに甘えて見せるのは、そうした方が効果的だからだ。
相手に出すものがあるなら、たった一度で切れてしまうよりも、繰り返し来てくれた方が良い。
その為の手段の一つとして、甘えてみせる仕種は、十分効果を齎してくれた。
「いい躯してる。抱いてる時なんか、蝶みてェに色っぽくてよ」
「男だろ、その喩えは無理があるんじゃねえか?」
「お前も会ってみろ、そう思うぜ」
どうかなァ、と連れが呟く。
所作がどうの、眼差しがどうの、褥の中はどうの――――男はまだ延々と喋っている。
連れの男は段々と興味が湧いてきているようで、ほうほうと相槌を打ちながら聞いていた。
「その癖、床入れするまで隙がねェのよ」
「ほォ」
「気を抜きゃ、こっちが食われそうなぐらいさ」
危険はないと見せかけて、獲物を捕らえて雁字搦めにする。
その後、獲物を食うか殺すかは、京一の気分次第。
男は、その瀬戸際のやり取りも楽しいのだと語った。
喋り続ける男と、聞き続ける連れは、そのまま店を離れていった。
京一はがりがりと頭を掻いて、そういや眠かったんだと今更ながら思い出す。
思い出すと、また眠くなって来た。
でも、さっきの男と共にした気配の残る床は使いたくない。
禿を呼び付けて、寝所に床を敷いて置くように言い付けた。
まだ八つ程の禿の少年は、太夫直々に指示されたからか、何処か嬉しそうに頷いて駆けて行った。
自分が、あの少年のように笑っていたのはいつ迄だったか。
最早思い出すことは出来ず、笑うこともないだろうと思う。
愛想笑いも浮かべられない自分に、どうすれば笑えるのかなど判らない。
これが蝶?
笑えてくる。
そんなに綺麗な色じゃない。
これが蜘蛛?
罠なんて張ってない。
勝手に周りが糸を作って、糸に引っ掛かる間抜けがいるだけだ。
だけど、他者から見ればそうなのだろう。
だって、そういう風にしか生きれない。
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遊廓パラレル、お試し版です。
ダークサイドで連載考えてますが、雰囲気とちょこちょことした設定を小出しに…
……と言うか、私の中でもイメージがはっきり固まってないのです(オイ)。
荒んでる京一で、龍京と八京の同時進行の予定。
エロシーンは……まだ書く予定はありません。
数日間、仕事で拳武館の寮に戻れなかった。
それは事前に判っていた事だから、仔猫の事は壬生に任せる事にした。
仔猫は案外、壬生の事を気に入っているらしい。
仔猫が暇な時に遊び相手にしている八剣似の人形は、壬生手製のものであり、修復も彼が引き受けている。
それに限らず手先が器用で何でも出来るから、子供が喜ぶような菓子ぐらい、簡単なものなら作る事が出来た。
更に言うなら、壬生は誰に対しても一線引いた態度を取るから、踏み込まれるのが嫌いな仔猫にとっては気が楽な相手だ。
だから仔猫を数日間預けておく事に、特に不安は無かった。
無かったが、壬生が彼に懐かれていることを知っているから、少々複雑だったりもした訳だ。
拾ったのも、引き取ったのも、毎日を一緒に過ごしているのも自分なのに。
どうも仔猫は、八剣よりも壬生の方が気に入っているように見える。
出会ってから随分経つと言うのに。
これが隣の芝が青く見える原理と同じと言うなら、まだ良い。
だが明らかに仔猫は壬生に懐いていて、一度捨てかけた人形を自分で壬生の下に持っていって修復して貰って以来、八剣がいないと時々壬生の部屋にちゃっかりお邪魔するようになった。
自分から甘えることこそなかったが、壬生が撫でても嫌がらないし――――八剣は未だに払われてしまうのに。
……どう見たって、仔猫は八剣よりも壬生の方に懐いている。
それとも、自分が仔猫に構いつけすぎなのだろうか。
自分と壬生との態度の違いを比較すると、先ずそういう点が浮かんで来る。
八剣はいつでも抱き締めていてやりたいが、仔猫はそれを嫌がる。
機嫌が良ければ触るのを許すが、それでもやり過ぎれば引っ掛かれる。
しかし壬生はと言えば、基本的に一定の距離を置いていて、それ以上は近付かないし、近付けない。
同じ空間にいても、別々の部屋にいるような錯覚感があったりして、“一人”を好む性質の者には丁度良い。
話しかけれられれば返事をする、必要がなければ不用意に触れてこない――――そんな所が仔猫には良いのか。
そんな訳だから。
仕事から戻って来た時、壬生の部屋を訪れるのに、少しだけ躊躇った。
帰ったのだから、仔猫を迎えに来たつもりだったけど。
あの子が「こっちの方が居心地が良い」と言ったらどうしたものか。
言い兼ねないから、やっぱり此処には預けない方が良かったか、と今更考えたりもして。
だけれど手放せる訳もなかったから、結局、その部屋の戸を叩こうとして。
「其処で待っていても、まだ戻って来ないよ」
一枚扉越しに聞こえてきたのは、壬生の声だった。
それに続いて、耳に馴染んだ子供の声。
「でも、いつ戻って来るかお前も知らねェんだろ」
「ああ」
「じゃ戻って来るかも知れねェじゃんか」
「まぁ、それもそうだけど。しかし出入り口を塞ぐのは――――」
「塞いでねェよ。跨げばいいだろ」
一枚扉の向こう側。
直ぐ其処に、京一がいる。
ノックの為に浮いた手が、中途半端な高さで留まっている。
何故か戸を叩く事が出来なかった。
直ぐ其処に京一がいて、扉が開けばあの顔が見れるのに。
「……君は、一昨日から其処にいるけど」
「なんだよ」
「待つならリビングでも良いんじゃないのか?」
「此処が落ち着くんだよ」
「そうは見えないが」
「るせーな。いいんだよ、オレは此処でッ」
フーッ! と威嚇する声がした。
それに対して、壬生は相変わらずトーンの変わらない声で、
「随分、八剣の事が好きなんだな」
「はぁッ!?」
壬生の一言に、仔猫がひっくり返った声を上げる。
同時に、八剣の肩が僅かに揺れた。
直ぐに京一の甲高い声が響く。
「バカな事言ってンなよッ、誰があんな奴!」
「でも待っているんだろう。そんな所で、ずっと」
ぴたり、京一の声が止む。
それは多分、図星だと言う事だろう。
一枚扉の向こうの玄関は、決して落ち着く場所などではない。
壬生の部屋だから綺麗に片付いてはいるだろうが、元々人が出入りする為の場所だ。
ドア向こうの廊下は往来があるし、仔猫がゆっくり出来る訳もないだろう。
けれど、仔猫はこの扉の直ぐ向こうにいる。
一昨日からずっと、此処で八剣の帰りを待っている。
……数瞬。
間があってから、また声が聞こえた。
「…………好きじゃねェや。っつーか嫌いだ、あんな奴」
拗ねる声音で聞こえた言葉は、八剣にとってはショックなもの。
目の前で言われたのなら顔が見えるから、それが本意か否か、少しは判る。
天邪鬼でも、根は素直な子なのだから。
だけど本人のいない場所で言ったとなれば、其処には相手がいない故の真実味があった。
「……そうなのか?」
「……………」
また沈黙。
ドア一枚隔たれている八剣には、京一の壬生への返事がわからない。
それでも、開けるべきか否か、迷った手は彷徨うまま。
「…………だってよ、」
先刻よりも、随分長い沈黙の後。
ぽつりぽつり、京一の声が零れて来た。
「だってよ、」
「何かっつーとベタベタするし、」
「なのになんにもしなかったりよ、」
「どうしてェんだか訳判んねえし」
「一緒にいるよーなんて言ってる癖によ、」
「直ぐどっか出かけて行ってよ、」
「けっこー帰って来ンの遅ェしさ、」
「一緒にいた日なんかロクにねェし」
「この間もさ、」
「すぐ帰るーなんていった癖に、」
「もう何日目だってんだよ、あのバカ」
……つらつらと。
言うべき相手のいない場所で、いない筈の場所で。
告げられて行く言の葉は、相手が其処にいない故の真実があって。
「だから嫌いだ、あんな奴」
うん。
うん、そうだね。
そうだったかも知れないね。
早く帰っているつもりだったけど、君にとっては遅過ぎて。
毎日傍にいるつもりだったけど、君にとっては足りなくて。
あまりくっついたら嫌がるかなと思ったりもしたんだけど。
そうだ、君は甘えるのが下手で、だけど寂しがり屋の意地っ張り。
素直にそんな事が言えるような性格じゃない。
だから、気付いてあげないと。
言葉の裏側にある、本当の気持ちに。
“好き”の代わりの、その言葉に。
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チビ京なので、高校生の京ちゃんよりは素直です。
好きな人の前では、やっぱりツンデレですけど(笑)。
ちなみに扉の向こうの京一は、八剣人形抱えて三角座りです(私の趣味(爆))。
近所に住んでいた猫がいなくなった。
仔猫と仲の良い猫だったのに。
八剣がその猫と最初に逢ったのは、一週間前の事だった。
仕事を終えて部屋に戻ると、いつもなら絶対に出迎えなどしない筈の仔猫――――京一が、玄関先で八剣を待っていた。
少し驚いていると、珍しく仔猫の方から「お帰り」を言われて、益々驚いて。
その傍ら、リビングのソファをやけに気にするから、覗き込んでみると案の定。
京一が連れ込んだのは、怪我をした老猫だった。
見つけた途端に、京一は追い出すな、と八剣に詰め寄った。
これまた珍しく、京一の方から八剣に“お願い”して来たのだ――――腹が減っても退屈でも、何の催促もしない仔猫が。
八剣がそんな事を考えているとは京一の知る由ではないが、八剣は別段、この部屋に猫が増えても一向に構わなかった。
寧ろ、京一を一人で部屋に残していた方が、寂しがるのではないかと心配していた程である。
良い遊び相手が出来たと思えば、別段、何も気にする事はなかった。
滅多に鳴きもしない老猫であったから、恐らく、同僚達の迷惑にもなるまいと。
老猫の手当てをしてから、三日。
その老猫は、挨拶もそこそこに――あの猫は京一と違って人語を介せない、故にこれは京一の言である――部屋を出て行ってしまった。
元々野良であるから、これは仕方がない。
また京一が寂しがるかなと思ったが、その心配は杞憂に終わった。
老猫は部屋を出て行きはしたものの、近所の何処かをねぐらに決めたのか、度々部屋のベランダに姿を見せた。
老猫が部屋に上がることは二度となかったが、それでも京一は嬉しそうだった。
それを言うと、真っ赤になって否定したが。
時々、八剣を放ったらかしにして老猫と一緒にいる事には、大人気ないながらも少々妬いたけれども。
仔猫が嬉しそうにしている事や、寂しくない事は八剣にとっても、有り難かった。
だけど、野良だ。
他の猫と縄張り争いでもしたか、人に追い立てられたか。
……ふらりといなくなってしまっても、それは仕方のない事で。
昼日中。
ベランダに出て、落下防止の柵に寄りかかっている仔猫。
尻尾はじっとしていて、時折先端がピクッと動いて、同じように寝てしまった耳も時々動く。
……それだけで、それ以上はなくて。
いつもなら、昼寝をしている時間だ。
老猫がいた頃もそれは同じで、一緒にベランダで丸くなって眠っていた。
そんな猫達の為に、八剣はベランダでも室内と同じように眠れるように、スノコで敷板と囲いを作ったものだった。
そのスペースに、京一は最近、毎日のように納まっている。
「京ちゃん、ご飯だよ」
少し遅い昼食になったのに、京一は振り向かなければ、反応もしない。
じっと柵の向こうに広がる世界を見つめているだけ。
京一の顔は、八剣からは見えない。
見せてくれなかった。
老猫がいなくなってから、京一は此処――――ベランダにいる間、一度も八剣に顔を見せない。
無理に覗き込もうとは思わなかった。
仔猫だってプライドはある、だから八剣は気付かないふりをして、何も言わない事に決めた。
ベランダと部屋を繋ぐ窓を開けたまま、八剣は踵を返した。
じっと見つめていては、仔猫は動かないだろうから。
背中を向けると、少ししてから、窓の閉まる音がした。
「飯、なんだ?」
問う声に八剣が振り返ると、うきうきと、楽しみだと言う顔をした京一。
「ラーメンだよ。インスタントで悪いけど」
「いい。美味ェし」
「そう。ありがとう」
「…お前褒めたんじゃねーよッ」
拗ねた顔をして、でも顔を赤くして京一は八剣を睨んだ。
それに笑みを返せば、ふんっと一度そっぽを向いて、いそいそ椅子に登る。
きちんと手を合わせてから、箸を持つ。
多少癖はあるものの、京一はちゃんと箸を仕えるようになった。
熱いラーメンで火傷しないように、少し冷ましてから口に運ぶ。
「美味しい?」
問いかければ、返ってくるのはコレでもかと言う程に嬉しそうな笑顔で。
甘え下手で、寂しがり屋で、意地っ張りな仔猫。
一所懸命、笑ってくれるから。
いつか泣ける日が来るまで、今はまだ、知らないふりをしていよう。
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老猫は普通の猫なので、人の言葉は喋れません。
京一は獣人なので人語・猫語が喋れます。
なので、八剣は猫に御礼を言われても判らないから、京一から伝言みたいな感じ。
……こういう事は本編中に記した方がいいですよね、すみません……
老猫は京士浪……とか言ってみたりして。
いやいや、そこ等辺は設定してませんが。