例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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無題

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八剣×京一




↑ Old ↓ New


Where is this cat's house?
雨の中、行き場を見失った仔猫。

To tell the truth, both are mortified
18禁
笑う仮面の下の本音は、いつも。

Visual hallucination 前編 後編
後編のみ18禁。ダーク傾向。
此処には虫が棲んでいる。





ひとりぼっちにしないでね





空が夕暮れに染まる頃、真神保育園は少しずつ静かになって行く。
保育園に預けられた子供に迎えが来る時間で、一人、また一人と保育園から家族のいる家へと帰って行く。


一人帰り、二人帰り、三人帰り。
母だったり、父だったり、祖母だったりに迎えられて、子供達は家路に着く。

お泊りで過ごしている子供達は、そんな子供達を、少し羨ましそうに見送る。
中には、帰っちゃイヤ、と泣き出して、帰ろうとする子を引き止めようとして、玄関先でちょっとした騒ぎになったりする。
それをマリア先生や遠野先生が、また会えるから大丈夫よ、と困った顔で宥めていた。




龍麻の母は、いつも決まった時間に迎えに来る。
夕飯の準備を一通り済ませて、後は暖めたり、ちょっと寝かせれば完成と言う所で、コンロの火を止めて龍麻を迎えに行く。
だから龍麻が家に帰ると、いつも色とりどりの料理がテーブルに並んでいて、其処で父が新聞を読んでいるのがいつもの光景。

保育園で過ごす時間も楽しいけれど、家に帰ると龍麻はとても安心する。
だから龍麻は、朝は保育園に行く時間が待ち遠しくてそわそわして、夕方の帰る時間が近付く頃、母がもうすぐ来るんだと思ってそわそわする。


でも龍麻がそわそわし始めると、別の理由でそわそわし始める子もいる。
いつも龍麻の後ろをついて来てくれる、マリィがそうだった。

マリィは、自分が知らない間に龍麻が帰ってしまうと、後でとても泣くのだと言う。
龍麻が大好きで大好きで仕方がないマリィは、自分も龍麻の家に一緒に買えると言って、よくマリア先生達を困らせているらしい。
そんな風に言ってもらえるのは龍麻も嬉しいから、母にお願いして一緒に帰れるように出来ないかな、と思う。
マリィはとっても可愛いから、きっと父も母も可愛がってくれる。



マリィは、どうしてだか判らないけれど、お迎えの人が来ないらしい。
そういう子はマリィだけではなくて、雨紋や亮一もそうで、壬生もお迎えがない日の方が多い。


迎えがないって、どんな気持ちになるのだろう。
龍麻は、寂しそうに自分を見送るマリィや、羨ましそうに他の子達を見送る雨紋達を見て、自分が同じ立場だったらどう思うだろう、と一度だけ考えた。

想像して思ったのは────とても寂しい、悲しい、という事。

毎日迎えにきてくれる母がいない、いつも待っていてくれる父がいない。
迎えに来てくれる人がいなくて、待っていてくれる人がいないなんて、まるで世界に一人ぼっちになったみたいだった。


マリィや雨紋や亮一や壬生は、毎日そんな気持ちなんだろうか。
龍麻は、そんなのは耐えられない。







それから、もう一人。

いつも仲良しの筈の龍麻を見送る事もしない、男の子がいる。





































「緋勇くーん」






呼ぶ声に顔を上げれば、遠野先生が遊戯室の入り口にいた。
それから時計を見れば、短い針が5と6の間。
いつも通り、迎えが来る時間だ。


龍麻は開いていた本を閉じて、立ち上がった。
その理由を判っているのは傍らにいたマリィで、龍麻の靴下をぎゅっと摘む。

立ち上がった龍麻が下を向けば、ぷくうと頬を膨らませたマリィがじっと見上げている。






「だぁめー」






帰っちゃ駄目、帰っちゃ寂しい。
真っ直ぐに見上げるマリィの大きな目が、一心にそう告げている。

そう言ってくれるマリィの気持ちは嬉しいけれど、帰らないと言ったら迎えに来てくれた母を困らせる。
龍麻はマリィの頭を撫でて、さっきまで自分が読んでいた本を拾って、マリィに差し出す。
マリィはやっぱり頬を膨らませたまま、龍麻の代わりに、絵本を受け取った。


ぎゅうと抱き締めたマリィに笑いかけて、龍麻はロッカーに入れていた自分の鞄を引っ張り出す。
母手作りの苺のワッペンが縫い付けられた鞄を背負って、龍麻は遠野先生の待つ部屋の出入り口へ向かう。






「お迎え来たよー、緋勇君」
「ぁい」






手を上げて返事をする龍麻に、遠野先生はいい子いい子、と龍麻の頭を撫でる。


遠野先生に背中を押されながら、龍麻は園舎の玄関へ向かう。

それと擦れ違うように、雨紋と亮一が追いかけっこをしていた。
二人とも逃げているようで、追いかけているのはまた別の子供らしい。
それは多分、と思っていたら予想通り、






「まてコラ! にがさねェぞ!」
「ほら亮一、はやくしろって!」
「まってよ~」






ドタバタと賑やかな足音を立てて、雨紋と亮一を追い駆けて来たのは、京一だった。


三人は突き当りまで走りきった後、Uターンして今度は龍麻を追い越した。
玄関口まで走りきると、またUターンで、龍麻の方へと向かって来る。

のんびりと歩く龍麻と遠野先生の下まで来ると、三人は二人の周りをぐるぐると走り回りだしてしまった。






「あ、あ、」
「こら、アンタ達ーッ!」






前に行くに行けなくて、オロオロする龍麻を庇いながら、遠野先生が三人を叱り付ける。






「やべッ、にげろー!」
「らいと、まってー!」






怒鳴られて一目散に逃げたのは、雨紋だった。
それを慌てて追い駆けて行ったのは亮一だけ。

ぽつん、と京一だけが龍麻の前に足を止めていた。






「きょーいち」






龍麻は、京一が一等好きだ。
保育園で一緒に過ごす子たちは皆好きだけれど、京一が一番好きだった。

そんな京一と帰る前に会えたので、嬉しくて名前を呼んだ。


─────けれども、京一の表情はなんだか酷く不機嫌そうで。






「……かえんのか」
「うん。またね」






ひらひらと手を振ってバイバイの挨拶をすると、京一はぷいっとそっぽを向いてしまう。
そんな京一の頭を遠野先生が小突いたが、京一はそのまま歩き出した。


京一があまり返事をしてくれないのは、最初の頃からだ。
いや、会ったばかりの時の方がもう少し反応してくれていたかも知れない。
でも返って来るのは怒った声や不機嫌な顔ばかりで、小蒔や雪乃とはそれが原因でいつもケンカになっていた。

京一が返事をしないと言うのは、必ずしも、相手を嫌っているからではない。
ただ単純に面倒だから、と言う所だろう。



でも、何故だろうか。
龍麻がバイバイの挨拶をした時だけ、前と同じ位に、機嫌が悪くなるのだ。



龍麻は、歩き出した京一の背中を目で追いかけた。
その足取りはしっかりとしているのに、見える姿が酷く寂しそうに見えるのは、なんとなくだが────確かだった。

けれども廊下の角から雨紋が顔を出すと、






「おい、きょういち! はやくこいよ、ずーっとおまえがオニだぜ!」
「るせェ、バーカ! いますぐ、とっつかまえてやる!」






雨紋の無邪気な声に、直ぐに京一もまた走り出す。
バタバタと賑やかな足音に、遠野先生が静かにしなさいと怒る声が上がった。
勿論、二人が聞く訳もなく、人気の少なくなった園舎に、また賑やかな声が響く。

怒っても聞かない子供達の姿に、遠野先生は腰に手を当てて、怒った顔をしてみせる。






「全くもう! ……元気よねぇ、あの二人。ねー?」
「ねぇー」






怒った顔をしていたのに、ね、と言う遠野先生は笑っている。
龍麻が言葉を真似してみれば、遠野先生はクスクスと楽しそうな顔をしていた。



改めて玄関へと向かうと、其処にはいつもと同じように、母が柔らかな笑みを浮かべて待っていた。
嬉しくて駆け出して行くと、母はしゃがんで両手を広げて迎えてくれた。






「おかあさん!」
「はい、ひーちゃん。お帰りなさい」






抱き締める腕の温かさで、心の奥までぽかぽかとしてくるような気がする。
いや、気がするのではなくて、本当にそうなのだ。

落ち着いた色合いのケープに顔を埋めると、きっと今日の夕飯なのだろう、美味しそうな匂いがする。
多分また父の手伝いをしていたのだろう、漆器作りの工房の匂いもほんの少し香る。
でも何よりも龍麻が安心するのは、母自身の温もりによく似た、お日様の匂いだった。


よく仕事をする皺のある手が、頭を撫でてくれる。
嬉しくて、龍麻は母の肩に頬を摺り寄せた。



ぎゅっと強く抱き締めてもらった後で、龍麻は見守ってくれている遠野先生へ振り返る。






「おせわになりました!」
「うん。またね、緋勇君」






ひらひらと手を振る龍麻に、遠野先生も同じように手を振り返してくれる。
母もぺこりと頭を下げてくれるのが、毎日のバイバイの挨拶だった。


靴を履いて、鞄を少し背負い直して、母に手を伸ばす。
何も言わなくても母は判ってくれて、手を繋いでくれた。

そうしていつものように玄関を潜ろうとして─────ふと、後ろを振り返る。



いつものように見送ってくれる遠野先生。
その向こうで追いかけっこをしている雨紋と亮一と、京一。

その京一の足が止まって、龍麻を見て────目が合う。




……帰るのか、と。
そう言った時、あの子はどんな顔をしていただろう。

不機嫌そうに見えたけど、それはきっと怒っているからではなく。
前にもよく見られたその顔は、どんな時、どんな風にして浮かんだ表情だったのか。
思い返して直ぐに気付くのは、あれは何かを我慢している時に見せる顔だと言う事で。


マリィだったら手を伸ばして、帰っちゃ駄目、と言ってくれる。
葵だったら手を振って、また明日ね、と言ってくれる。
壬生だったら、手も振らないし何も言わないけれど、少しだけ笑ってみせてくれる。

京一は手も振らないし、何も言わないし、笑うこともしない。
怒ることもしなくて、ただ見ているだけ。



そう言えば、龍麻はいつもこの時間に帰るけれど、京一はいつになったら帰っているのだろう。
真神保育園に集まる子供達の帰る時間は、勿論それぞれバラバラで、固定している子供の方が少ない。
龍麻より早く帰る事が多い子も、時には龍麻より遅い日もあるし、逆もあった。

そんな中で、京一だけがいつも龍麻より遅くはないだろうか。

龍麻は一度も京一を見送ったことがないし、龍麻より早く京一が玄関を出て行くのを見た事はない。
龍麻が京一にまたねを言って、先に保育園を出て行くのがいつもの光景だった。


京一はいつ帰っているのだろう。
いつになったら、迎えの人が来るのだろう。





足を止めた京一の表情に、色はない。
無表情でじっと龍麻を見詰めていて、その内に、ふいとまた視線を逸らしてしまった。

それを見詰める龍麻の足が動かないから、母が不思議そうに顔を覗き込んできた。






「どうしたの、ひーちゃん」
「……あ」






心配そうな母に気付いて、龍麻も我に返る。


龍麻は、母と京一が入っていった遊戯室とを繰り返し交互に見る。

もう帰らなければいけないのだけれど、あの気難しい男の子が気になって仕方がない。
放って置いたら、以前のような寂しい気配ばかりをまとうようになるような気がして。






「おかあさん、ぼく、もうちょっといたい」
「あらあら。どうしたの?」






珍しい龍麻のお願いに、母は驚いた表情で問い掛ける。

龍麻は母と繋いでいた手を離し、靴を脱いで下駄箱に戻す。
そこに鞄も半ば無理やりに押し込んだ。






「もうちょっとだけ。いい?」
「構わないけど……どうしたの? 忘れ物?」
「ううん。でも、きょういち、しんぱいだから」






一番大好きな友達だから、もうあんな悲しい顔をして欲しくない。


最近になってやっと照れ臭そうに笑ってくれることが増えて、あの困った笑顔も見なくなった。
怒る事もあるけれど、前のように周りを怒らせて自分から遠ざける事はない。
取っ組み合いのケンカだってするけれど、ちゃんと謝って仲直りが出来る。

でも京一はまだ他の子供達との距離を計り兼ねているようで、時々、皆の輪から外れている。
葵や雨紋が遊びに誘っても、其処にいるのが沢山の子供達だと気付いた時、二の足を踏んでしまっている。



少しずつ、少しずつ。
子供達の間で、蟠りは解けつつある。

けれどもあの子自身は、まだその意味に気付けていない。




いつでも、一人ぼっちに戻れる覚悟を、ずっとしたまま。





遊戯室のドアを開けると、一番にぐずり出したマリィと、それを宥める高見沢先生を見つけた。
カーペットの隅では遊び疲れて座り込んだ亮一と、そんな亮一の為に本棚から絵本を持ってきた雨紋。
壬生と如月は、三人分並んだ椅子の真ん中を本置き場にして、それぞれ好きに本を読んでいる。

龍麻と特に仲の良い葵、小蒔、醍醐は今日は先に帰っている。
雛乃と雪乃の姉妹もおじいちゃんが迎えに来て、姉妹仲良く手を繋いで帰って行った。


京一は─────遊戯室の壁に寄り掛かって、いつも見ている動物図鑑を開いている。
その傍らに、マリィがメフィストを抱き締めて丸くなっている。






「きょーいち」






呼ぶと、京一が顔を上げた。
マリィも目を開ける。






「たつま」
「たぅあ!」






目を丸くした京一と、ぱっと嬉しそうな顔になったマリィ。
龍麻が駆け寄れば、マリィは両手を伸ばして抱っこをねだった。


龍麻が京一の隣に座ると、マリィが一所懸命に這って来た。
それを抱いて膝上に下ろしてあげると、マリィはにこにこと上機嫌だ。

京一は眉と眉の間にくっきりとした谷が出来ていて、龍麻が遊戯室に戻ってきたのが不思議でならないらしい。






「おめェ、何してんだ」
「うん」
「うんじゃねェよ」
「うん」






京一が心配だったから、まだもうちょっと帰らない。
なんて言ったら怒り出しそうだったから、龍麻は笑って誤魔化した。



遊戯室に遠野先生と母が入ってきて、ドア横にあるお客さん用の椅子に座る。
遠野先生は少し困った顔をしていたけれど、母は微笑んでいた。

少し悪いことをしているような気はしたけれど、後で怒られるのは仕方がないと思う。
夕飯が遅れる訳だから、父はちょっと待ち惚けさせてしまう事になるし、龍麻もお腹が減る。
だから、ほんのちょっとの間だけ。


龍麻はそのつもりでいたのだけれど、戻ってきた龍麻を見た京一は、そうは思わなかったらしい。






「かえれよ。かあちゃん、まってんじゃねェか」
「だいじょうぶ」
「…じゃねえよ」






呆れた顔で溜め息を吐く京一に、龍麻は少し口の先を尖らせる。






「もうちょっとだけ、へいきなの」
「………」
「うー、うー」
「ね、マリィ」






京一にばかり話しかけるのが不満だったのだろう。
ぐいぐいと服を引っ張るマリィに笑いかけると、マリィはきゃっきゃと嬉しそうに笑った。

しばらく険しい顔をしていた京一だが、龍麻が其処から動かないのと、母が笑顔で待っているのを見て、それ以上言うのを止めた。
言っても聞かないのなら、言うだけ無駄だと踏んだようだ。
手に持っていた図鑑にまた視線を落とす。


龍麻の膝上に乗ったマリィが、床に置いてある本に手を伸ばす。
それは、先程まで龍麻が読んでいた絵本だった。

龍麻が本を取って開くと、マリィは龍麻に抱きついたまま、首だけを巡らせて本を覗き込む。
マリィはまだ字が読めないが、龍麻が声に出して本を読むと、夢中になって絵本の世界に入り込んだ。



京一は隣から聞こえる声に時折目を向けていたけれど、その内、それもしなくなった。





あと少し、もう少し。
この子が不安にならないように。

この子を迎えに来てくれる人が現れるまで、もう少しだけ。








































龍麻と、京一と、如月と。
今日は壬生は泊まりになっているらしいから、残った子供達の中で帰るのは、後はこの三人だけだった。

如月が帰ったのは時計の短い針が6を過ぎた頃。
迎えに来たのは着物を着た女の人で、とても綺麗な人だった。
雰囲気が如月によく似ていて、仕草も丁寧で、ちょっと厳しそうな印象の女の人だった。


如月も帰ってしまって、後に残ったのは泊まりの子供達の他には、龍麻と京一だけ。
龍麻は母が迎えに来ているから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。

迎えが来ていないのは、京一だけになってしまった。



窓から覗く外の世界は、夕焼け空も段々と見えなくなってきている。
周囲の家々からは灯りが零れ始め、暗くなる世界を照らし出していた。

もうすぐ空は真っ暗になってしまうだろう。
中々陽が沈まない季節ではあるけれど、沈み始めると早いのは季節関係なく同じ事だ。


こんな時間になっても、京一のお迎えはまだ来ない。


ひょっとして何かあったのかな、と龍麻は顔も知らない京一の親を心配していた。
京一の方は気にした様子はなくて、図鑑を読むのに飽きたのか、お絵かき帳を取り出して、床に寝転がって絵を描いている。
偶に時計を気にするように顔を上げるけれど、確認すると直ぐに意識を絵に戻してしまった。

マリィ同様に、遊び疲れた亮一も、雨紋の横でカーペットの上に寝転んで眠っている。
雨紋はまだまだ遊びたそうにしていたが、幼馴染が眠ってしまったので、賑やかにしようとは思っていないらしい。
亮一と一緒に読んでいた本を本棚に戻して、子供向けのマンガ雑誌を持ってきてまた広げている。
壬生はマリア先生のお手伝いをすると言って、マリア先生と一緒に遊戯室を出て行った。




京一がこんな時間まで残っているのは、いつもの事なのだろう。

誰も京一がいる事を特別気にしていない、京一自身もそうだ。





龍麻の膝上に乗ったマリィが、何度も身動ぎして、膝の上から落ちそうになる。
出来ればマリィが落ち着けるような姿勢を取らせてあげたいけれど、その度、今度は龍麻が辛い姿勢になる。
難しいなぁ、と思いながら、龍麻はああでもないこうでもないと、何度も姿勢を変えて模索していた。

その様子を見た遠野先生が、小さく苦笑して、歩み寄って来た。






「緋勇君、マリィちゃん預かるわ」
「……はい」






龍麻のシャツを掴むマリィの姿は、離れてしまうことに少しばかり寂しさを感じさせた。
けれど、今のまま何度も何度も姿勢を変えていたら、いつかはマリィが起きてしまうだろう。


遠野先生がマリィを抱き上げる。
離れる直前、遠ざかる気配を夢ながらに感じたのか、マリィがいやいやと小さく首を横に振った。
そのまま泣き出しそうなマリィに、遠野先生は慌てず、よしよしとあやしてやった。

遠野先生に抱かれるマリィに、龍麻が手を伸ばし、金色の髪を撫でてやる。
それからマリィの小さな手に自分の手を寄せれば、きゅっと小さな手が龍麻の指を握った。



可愛いな。

一心に慕ってくれるマリィに、龍麻はいつも思う。






「マリィちゃん、ホントに緋勇君のこと好きなのねー」
「ぼくもマリィ、すきです」
「うんうん」





仲の良い保育園の子供達に、遠野先生は嬉しそうに頷いた。
眼鏡の奥の目が意地悪っぽくきらりと光って、






「京一ももうちょっとねェ。緋勇君みたいな事言えたら可愛いのに」
「べつにおまえにかわいいとか思われてもうれしかねェよ」
「そういうのが可愛くないって言ってんのッ」






ぴしッ、と遠野先生の指が京一の額をデコピンする。
京一が少し赤くなった額を押えて顔をあげ、ムスッとした顔で遠野先生を睨む。
遠野先生はそれを気にした様子はなく、寝息を立て始めたマリィを抱え直している。

京一と遠野先生のこんな遣り取りは、いつもの事だ。
遠野先生だけではなく、マリア先生も京一に対しては似たようなスキンシップを取っていた。


遠野先生がマリィの為の毛布を取りに言っている間に、京一はまたお絵かき帳にクレヨンを乗せている。
龍麻もその隣に横になって、頬杖で京一の絵を覗き込む。

京一のお絵かき帳を埋めているのは、殆どパンダの絵だ。
時々他の動物も描いているけれど、一番数が多いのは、やっぱりパンダだった。
描いているのがお絵かき帳じゃなくて地面でも、これは変わらない。






「きょういち、ぼくもおえかきしたい」
「………ん」






龍麻の言葉に、京一は端的に答えて、クレヨンケースを寄せて来る。
折り畳んでいたお絵かき帳も見開きにして、こっちを使って良いと無言の許可。


京一のクレヨンケースの中は、色の順番はバラバラになっている。
減っているのは京一が今使っている黒が一番で、それから白、赤、黄色、橙色。
緑や空色は少し減っていて、後はあまり使っていなかった。

黒が一番減っているのは、京一がいつもパンダを描いているからだ。
他の色よりもダントツの減り方で、もう半分以下の長さになっている。



龍麻は赤のクレヨンを取って、三角形を描く。
三角の中を綺麗に塗ってから、緑色で三角形の一片にトゲトゲを描いた。
緑色も綺麗に塗りきると、次の色を手に取ろうとして、それがケースの中にない事に気付く。

次に必要な色は、黒。
でも黒は、まだ京一が使っている。


龍麻は少し考えた後で、橙色を手にとって、三角の横に橙色の丸を描いた。
次は茶色で丸の橙色の上半分と、下の外側を塗って、赤色で丸の中にお椀を描く。

白だと描いた色が見えないから、代わりに赤色を使って線を描いていく。






「…………」






隣で身動ぎする気配があって、龍麻は隣の友達を見る。
京一は顔を上げて、遊戯室の壁にかけられている時計を見詰めていた。

時計の短い針は6を過ぎて、長い針は3を過ぎている。


─────迎えは、まだ来ない。






「おそいね」
「……べつに」






ぽつりと呟いた龍麻に、京一は素っ気無い言葉。
けれども隣を見れば、お絵かき帳を見る目が、なんだか頼りなさそうで。






「……おむかえ、こないのかな」






まだ来ないのかな、と。
龍麻は、そう呟いたつもりだった。

けれども、僅かに言葉が足りなくて。






「―――――きょういち?」






黒いクレヨンを握った京一の手が、小さく震えていた。
どうしたんだろう、と龍麻が京一の横顔を見れば、何かを耐えるように口を一文字に噤む京一の顔があった。
その顔は、なんだか泣き出しそうに見えて、けれどそれを堪えていて、だから余計に見ていて苦しくなる気がした。


何か、悪いことを言っただろうか。

龍麻は、自分の先の言葉に足りないものがある事に気付けなかった。
それでもきっと自分の所為だという事はぼんやりとだが理解できて、どうしよう、と眉の端が下がる。






「……きょーいち」






泣き出しそうな顔を見ているのが辛くて、龍麻は手を伸ばした。
茶色の髪を撫でると、大きな瞳が此方を見た。

京一はしばらく、じっと龍麻を見詰めた後で、お絵かき帳に視線を戻し、






「……もうおまえもかえれよ」






その言葉が、龍麻には酷く冷たい、さよならの言葉に聞こえた。
どうしよう、怒らせた────そんな思考に囚われて、今度は龍麻が泣きそうになる。

京一の頭を撫でていた手を下ろして俯いていると、また京一が顔を上げた。
少し驚いたように目を丸く見開いた後で、京一が困ったように眉毛を下げて小さく笑う。
それから、今度は京一の方が手を伸ばして、龍麻の頭を撫でた。






「かあちゃん、まってんじゃねェか。かえったらメシなんだろ」
「……うん」
「はらへってんなら、もうかえれ」






マリア先生や遠野先生や葵のような、決して柔らかい言葉ではない。
けれど、困ったように笑った顔で言う京一の声は、とても優しい音を紡いでいた。


京一が言うように、確かに、お腹は空いていた。
いつもなら既に家に帰っていて、夕飯も食べ終えて、父と一緒にテレビを見ている頃だ。
それが大幅にずれ込んでしまっているのだから、食べ盛りの龍麻は勿論、ずっと待っている母も、家で待ち惚けになっているだろう父も、当然空腹なのは想像に難くはない。

龍麻の方が京一を心配して帰るのを遅くさせて貰っているのに、龍麻が京一に心配されてしまった。
これでは意味がない。



同時に────やっぱりこの子は凄く優しい、と思う。



龍麻の目に、じわりと水が浮かんで来た。
京一がまた驚いた顔になって、頭を撫でていた手を引っ込める。

龍麻は、引っ込んだ手を掴まえて握った。






「きょういち、ひとりぼっちになっちゃうよ」
「なんねェよ。マリアちゃんいるし、とおのセンセいるし」
「いるけど、ひとりぼっちになっちゃうよ」






マリィと亮一は眠ってしまったし、雨紋もマンガ雑誌を下敷きにして床で寝てしまった。
壬生はまだ職員室から帰って来ない。
遠野先生は遊戯室にいるけれど、ずっと京一に構っていられる訳ではない。

龍麻が帰ってしまったら、京一はまだ来ない迎えの人を一人でずっと待たなければならない。
自分だったら寂しくて耐えられないから、龍麻は京一を放って置けなかった。


けれど、京一は困った顔で笑うだけ。






「べつに、おそかねェよ。いつもだし」






いつも────いつも、こんなに遅いのか。
いつも一人でずっと待っているのか。






「なれてるよ」






そんな言葉は嘘だ。
龍麻には判る。
だって、嘘だったらあんなにも泣きそうな顔はしない。

けれども京一は、なんでもない顔をしてクレヨンをケースに戻し、蓋をする。
お絵かき帳も閉じてしまい、立ち上がると、横になったままの龍麻の手を引っ張って強引に立たせた。






「ほら、もうかえれよ。とうちゃん、いえでまってんだろ」
「……うん」






夕方になると母が迎えに来てくれて、家に帰れば父が待っている。
それが龍麻にとっては日常。

でも、この保育園には、その日常が日常ではない子供達もいる。



立ち上がった龍麻の手を引っ張って、京一は龍麻を母の下まで連れて行く。
椅子から腰を上げた母に龍麻が抱きつくと、京一は頭の後ろで手を組んで、いつもと同じ仏頂面。

そんな京一に母が笑いかける。






「ひーちゃんと仲良くしてくれて、ありがとうね」
「……べ、つに」






母の言葉に京一は素っ気無い返事だったが、顔が赤くなっていた。
むず痒さを誤魔化すように鼻の下を掻いたりして、母が微笑ましそうに笑みを深める。






「大丈夫よ。きっともう直ぐ、お迎え来てくれるから」
「知ってる」
「そう。良かったわねえ」






母の皺のある手が、優しく京一を撫でる。

遠野先生や高見沢先生に撫でられると、頭を振って振り払うのに、今日はそれをしなかった。
京一は赤い顔のまま、何処を見ていいのか判らないようで、あちこち視線を彷徨わせている。



それでも龍麻は心配だった。

こんな時間になってもお迎えが来ない京一は、いつになったら寂しくなくなるのだろうかと。



龍麻の胸中は判り易く顔に出ていて、京一もそれに気付いた。
京一はそれ以上何かを言うことはなく、母の手が離れると、くるりと背中を向けて、積み木が置かれている部屋の一角へ。
此方に背を向けて座ってしまったから、もう龍麻にあの子の表情は見えない。

見えないから、龍麻は余計に、京一が本当はどんな顔をしたいのか、考えてしまう。
泣き出しそうな横顔が頭から離れなくて、龍麻は自分まで泣きそうになっている事に気付いた。
泣いたら母を困らせるし、優しいあの子はまた無理をして笑うだろう。
龍麻は泣きたいのを誤魔化すように、母の脚に顔を埋めてしがみついた。


しがみついてきた龍麻を、母はあらあら、と苦笑して抱き上げた。
今度は母の肩に顔を埋めていたら、ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれる。






「ありがとうね、えぇっと……京一君」
「きょーいち、またあした」






母と龍麻のバイバイに、京一は返事をしなかった。
代わりに、右手をひらひら振っている。

それだけを肩越しに見て、龍麻はまた、母の肩に顔を埋めた。


遊戯室のドアを開けると、外側から開けようとしたのだろう、マリア先生の姿があった。






「まあまあ、マリア先生」
「お迎えご苦労様です、緋勇さん」
「いいえ。此方こそ、お世話になっております」
「ありがとうございます。あら、緋勇君、どうしたの?」






母の肩に顔を埋める龍麻に、マリア先生が心配そうに覗き込んでくる。
龍麻は泣きそうな顔を隠して、マリア先生の視線から逃げた。






「お友達とバイバイするのが、寂しかったみたいで。ねぇ、ひーちゃん」
「……ああ、京一君ね。大丈夫よ、明日になったらまた遊べるわ。ね?」






母とマリア先生の言葉に、龍麻はなんとか、小さく頷いた。

もう一度お互いにぺこりと小さく頭を下げると、母は廊下へ、マリア先生は遊戯室へと入れ違いになる。
それから、閉まりかけたドアの隙間から、マリア先生の声が聞こえて来た。






「京一君、お迎えよ」






声が聞こえて直ぐにドアが閉まってしまったから、その後の遊戯室の事は知らない。

母は龍麻を抱き上げたまま、真っ直ぐに園舎の玄関口へ歩いて行く。
龍麻はの首に抱きついていて、遠くなっていく遊戯室で、ようやく帰る準備を始めているだろう友達を思う。





良かった。
良かった。

一人ぼっちにしなくて良かった。


本当はもっと一緒にいたかったし、一緒に遊戯室を出たかった。
一緒に靴を履き替えて、一緒に玄関を出て、一緒に歩いて帰りたい。

でも良かった。
自分の方がほんのちょっと早く部屋を出る事になったけれど、あの子ももう帰れる、お迎えが来た。
もうあの子は一人ぼっちじゃない。


寂しいのを誤魔化すように、困った顔で笑わなくていい。





下駄箱の前で母の腕から下ろしてもらって、下駄箱に入れていた鞄と靴を出す。
靴を履いて、鞄を背負って、もう一度母に抱き上げて貰った。

その傍らに、壁に背中を押し付けて立っている男の人がいる。
さっきはいなかったし、マリア先生が「お迎え」と言っていたから、きっとこの人が京一のお迎えなのだろう。
龍麻の父よりずっと若くて、父と言うより、兄ではないかと言う表現の方が似合う。


母はその男の人に小さく会釈した。
男の人も口元に笑みを浮かべて、同じように頭を下げる。



園舎を出ると、外は大分暗くなっていた。
星こそまだ見えないし、空の一部は燃えているように赤く光っていたけれど、殆どが黒で塗り潰されている。

あの子は毎日、こんな時間まで、ずっと迎えを待っている。










遠ざかっていく、毎日を過ごす、龍麻のもう一つの家。
沢山の友達と一緒に過ごす、家。

遊戯室から出てきたあの子が、男の人に抱き上げられるのを見て、ほんの少しホッとした。



でも、もう少しだけ早く、迎えに来てくれたらいいのにな。
あの子が寂しい顔をしなくて済むように。














久しぶりの執筆……(汗)。

京一のお絵かき帳は殆どパンダばっかりです。ページを捲っても捲ってもパンダ。
気が向いたら他のも描きます。

龍麻のお母さんはのんびりしている人なので、息子のちょっとしたワガママもあまり怒りません。
怒っても多分「仕方ないわね」って笑顔でちょっと注意かな。龍麻自身が滅多に聞き分けない事がないし。
お父さんにはちゃんと連絡入れてあります。龍麻視点なので書かず仕舞いでしたが……

visual hallucination 後編






















夢は願望の現われだと言う。
それなら、この光景は自分の望む事なのか。

延々と続く屍の道を立ち尽くし見渡して、京一は自問してみるが、答えは見付からない。






場所は新宿歌舞伎町、メインストリートから随分と離れたビルとビルの隙間にある路地だった。
目的地への道が大回りで面倒だと近道に使おうとする者すらいない、ゴミとゴロツキに溢れた場所。
近くの空き地には何某とか言う大層な名前のついたグループが溜まり場にしており、近くを通ると集会場に引きずり込まれてボコボコにされる、と言う話があった。

その大層な名前のグループの連中が、今京一の足元に転がっている。
実力の程は────あるにはあるのだろうが、京一にしてみれば単なる烏合の衆に過ぎなかった。


屍となって地面に並ぶ人間達は、生きているのか死んでいるのか、京一にもよく判らない。
腕の一本や二本折れているのは間違いないだろうけど、それ以上は判然としなかった。
確認しようとも思わない。



ぬるりとしたものが額を伝い落ちてきた。
鬱陶しくて埃塗れのブレザーの袖で拭うが、後から後から溢れてくる。
どうやら、盛大に切っている箇所があるらしい。

面倒だが病院に行った方が良いだろう、このままだと頭部から腐って行くような気がする。
腐って困るような頭も脳もしていないけれど、実際に腐ってしまったら、こんな自分を受け入れてくれている数少ない人達が悲しむ。
それだけは、どうしてか、許されないと思っていた。



転がる肉の塊から目を逸らし、病院へ向かおうと歩き出す。
が、数歩進んだ所で、足は動かなくなった。

見下ろせば、死んでいるように見えた人間の手が一本、京一の足を掴んでいる。






「逃がさ…ねェぞ……このガキ……!」






鼻血を垂らし、蒼痰の出来た顔で此方を見上げ、睨む男。
ぎりぎりと食いしばった歯の真ん中が抜けているのは、以前からだったか、この乱痴気騒ぎの所為なのか。

─────どっちでも良い。

そう答えを出して、京一は自由な足を持ち上げる。
男の視線がそれを追い、やがて彼の視界は真黒に塗り潰された。


ぐしゃり。
そんな音が足の裏から聞こえたような気がする。

ゆっくりと落とした足を持ち上げると、にちゃりだかぐちゃりだか、気持ちの悪い音がした。
見下ろした男の顔は暗がりでよく見えないが、恐らく原型を留めてはいないだろう。
でもスパイクではないから、言う程酷くはない────京一はそう思った。




路地を抜けて大路に出ようとして、足を止める。
頭部から流れる液体のことを忘れる所だった。
流石にこの状態でメインストリートを歩くのは避けた方が良い。

最短ルートは諦めて、京一は踵を返す。
そうして向き直した道の先に、明かりの切れ掛かった自動販売機を見付けた。



ポケットに手を突っ込むと、小銭がチャラチャラと指先に当たる。
適当に掴んで引っ張り出した。



自販機に小銭を落としてボタンを押す。
ガランと煩い音を立てて機械から吐き出されたのは、本来ならば許されないアルコール────ビールだ。

プルタブを開けて一気に半分ほど飲み干して行く。
其処までしてから、異様な程に喉が渇いていた事に気が付いた。
ついでに夕飯にも在り付いていない事を思い出す。






(食いっぱぐれたな)






今晩はラーメンにするから早く帰ってきてね。
今朝方そんな事を言われていたような気がするが、夕飯になるだろう時刻はとっくの昔に過ぎている。

時計などと言うものは持ち歩いていないから、正確な時間は判らない。
けれど、店はとうに営業時間を迎えて客が出入りしている頃だろうし、第一こんな風体で戻れる訳がない。
最低でも病院で適当に手当てをして貰ってからでなければ、彼女達はまた大袈裟に泣き出すだろう。
……他の誰がどんな顔をしても気にならないけれど、彼女達は駄目だった。


まぁ、食いっぱぐれ自体は然程珍しい事ではないし、逆に言えば彼女達の言葉を守る事の方が稀だ。
気紛れに守る分でも京一にとっては破格の扱いなのである。
彼女達もそれは知っているだろうから、今から慌てて戻る必要はないだろう。



……寧ろ、戻らない方が良いのかも知れない。

そもそも自分は、あの店に常連(と言うにはふらりと消えてふらりと帰って来ていたけれど)だった師が勝手に連れて来た存在に過ぎない。
贔屓にしている客が連れて来たのが、まだ10歳になった子供だったから、彼女達は保護しなければと思っただけ。
その出来事から既に四年が経ち、京一を拾った師が行方を眩ませた今、彼女達に京一を保護しなければならない理由はない。
子供の頃から見ているし、京一自身他に行き場所がないから、優しいあの人達は突き放そうとしないだけで─────………



自動販売機に寄りかかる。
それが原因かは判らないが、元々接触が悪く明滅していた機体の明かりがブツリと切れた。

元々明かりのない路である。
煌煌として見えた自販機の明かりも消えてしまうと、世界は真暗になる。
夜目に慣れた目のお陰で、周辺にある物質の影や形は読み取れるが、それが限界だ。


目の前を猫が通った。
なんとなくそれを目で追う。






(穢ェ猫だな)






暗闇でも直ぐに猫の形と判ったのは、白い体毛をしていたからだ。
これなら夜目に慣れた京一には直ぐに見付けられる。

闇にぼんやりと浮かび上がった猫は、ゴミ箱でも漁った帰りなのか、口に魚の頭を咥えている。
それを奪おうとは思わなかったが、ああ腹減ってるんだった、とぼんやりと思い出した。


無遠慮に見詰める京一の視線を感じ取ったのだろうか。
猫が足を止め、くるりと振り返る。

その猫の顔を────否、瞳を見て、京一は目を瞠る。







(─────紅)







猫の瞳は、暗闇の中で光る。
しかし、京一の前にいる猫の瞳で金色に輝いているのは片方だけ。

もう一方は血と見紛うような緋色をしていた。



うぞり。

目の奥で何かが動いたような気がして、京一は掌で目頭を覆う。
缶ビールが音を立てて地面に落ち、猫は音から逃げるように走り出した。






「………ッ!!」






痛い訳でも、むず痒い訳でも、先程の乱闘でやられた訳でもない。
なんの理由もないのに、突然眼球の奥で何かが動いて、脈動している。






(なんだ?)






やられていないと思っただけで、何か仕掛けられていたのかも知れない。
そう言えば、グループの中に一人、ガス缶のような者を持っていた奴がいたような気がする。
確かな記憶ではないが、いたのだとして、催涙のようなガスを吹き付けられていたなら、目に違和感があっても可笑しくはない。

ああ、頭部から流れる血もあったのだ。
衝撃が脳にまで届いて何処かを損傷して、感覚器官の何処かに異常信号が出ているのかも。


失明するのは御免だった。
夜闇の世界こそ慣れているが、何も見えない世界は嫌だ。



自販機に寄りかかっていた背中を動かし、両の足で歩き出す。

病院に行く道程は、いつだって気が重く、進まない。
けれど今だけは早く辿り着いて、この異常な感覚から解放されたかった。






(鬱陶しい)






眼球の奥で芋虫でも飼っているような気分がして、吐き気を催した。
耐え切れそうになくて手近な壁に寄りかかり、自販機にしていたように、背中を預けた。

瞼を掌で押えたまま、天を仰いで、ずるずると座り込む。






(鬱陶しい)

(気持ち悪い)






出来る事なら、目の中に指を突っ込んで、頭蓋から眼球を取り出したい。
もう少し理性が働いていなかったら、実際にそうしていたかも知れなかった。
それ程、気が可笑しくなりそうだったのだ。


木刀を握り締める手に、痛い程の力を込める。
樫で出来た持ち手がみしりと嫌な音を立てたが、弛緩する事はなかった、出来なかった。

喉の奥から熱くて気持ちの悪いものが競り上がってくる。
下を向いたら吐いてしまう。
だから上を向いていた。







あの猫の、目。
赤い、紅い、血と同じ色。




記憶の海に沈んでいた情景が蘇る。

子供の頃に見た、祭囃子の中に生まれた、紅い海。
優しい思い出も温もりも、何もかも全て一瞬で飲み込んで行った、紅い色。


それは全ての生き物の体内に流れているものであって、人間ならば皆同じ色をしている。
猫も犬も兎も鳥も同じ色で、それは皮膚や筋肉に覆われているが、ふとした瞬間に直ぐに顔を出してくる。
子供の頃の京一にとっても、別段、見ない訳ではない色だった。

だが、あの血の海を見たのはあれが初めてだ。
人間の体にはあんなにも赤黒い液体が入っているのだと、あの時知った。
そしていとも簡単に失われていくものなのだと。



あの猫も、紅い海を見たのか。
だからあんな色をしているのか。

そんな莫迦げた話がある訳がない、あれは単なる先天性の色素異常が起こす現象だ。
それ以外の意味はない。



ない、筈だけれど───────








眼球の中で蠢く正体不明の生き物が、ぐいぐいと眼球を押し出そうとする。
そのまま球体を割り壊して、外へ出ようとしているように思えた。


それで良い。
それで良いから、出て行け。

失明への恐怖よりも、眼球の奥の生き物の方が怖かった。
このままおぞましい生き物と感覚を飼い続ける位なら、目など見えなくなっても構わない。
それが握り締めたままの己の唯一信じる道を、壊す結果になるとしても。



発狂していない自分が寧ろ不思議だった。
だから余計に苦しい。
何も判らなくなってしまえば、もう何も恐ろしい物など無いから。




目元を覆っていた手を離す。
閉じていた瞼を開けた。

虫が出て行くように。








そうして見上げた、暗闇の空に、紅い穴は浮いていた。














紅い、紅い、



血塗られた世界が其処にあった。































































悲鳴。
それが自分のものだと気付くまで、相当の時間がかかった。



跳ね起きた京一は、瞠目し、呆然として荒い呼吸を繰り返す。

背中を冷たいものが這うような感覚がすると同時に、酷い吐き気に襲われた。
喉を詰まらせるえぐい感触に耐え兼ねて、手の平で口を押さえる。






「お…ぐッ……!!」






吐き出してしまえばいいのか、飲み込んで殺せば良いのか、それは判らない。
結局汚物を自分の膝元にぶちまける事への抵抗から、飲み下す事を選んだ。

ぐ、と息を殺して吐き気を強引に飲み込めば、今度は喉が焼けるように熱くなる。
今度は喉を押さえて咳き込み、京一は背中を丸めて膝に顔を埋めた。


そうして呼吸さえ出来ずに咳き込む京一の背に、何かが触れる。






「───────ッ!!!」






脊髄反射で触れたものを振り払うと、乾いた音がした。
それがヒトの手であると気付いたのは、その時だ。


手を振り払うと同時に振り返って始めて、京一は其処にいる人間を知る。


薄紅色の着流しに、緋色の上掛、褪せた黄色に近い色の髪は、前髪が片目を覆い隠している。
京一が始めてそれらと相対したのは、今から然程遠い記憶ではない。
両手の指で数えて余る程度の前日の事だった。

忘れようにも忘れられないその風体、そんな男に受けた屈辱と、挫かれたプライド。
消したい記憶も消したい過去も、思えば思うだけ、胸の傷が痛み忘却を赦さない。



拳武館十二神将の一人、八剣右近。

京一に敗北と胸の刀傷を負わせた男だった。






「大丈夫かい?」






京一を負かしたその男は、殊更に優しい口調でそう言った。
それを聞いて最初に思ったのは、気持ち悪い、と言う感想で、それを言ってやろうとして出来なかった。
吐き気を無理に飲み込んだ喉がヒリヒリと焼け付いて、声帯がまともに機能しない。


振り払われた手を再び伸ばし、八剣は京一の背中を上下に摩る。
病床人にするような柔らかい手付きを、京一はもう一度振り払った。

八剣は二度も振り払われた手を見下ろした後で、今度は顔だけを此方に向け、






「驚いたよ。大声を上げて飛び起きるから」
「………ッ……」






とんだ醜態を晒していたのだと知って、京一の頬に朱が上る。






「あんな場所で、あんな輩に負けているのを見たのも、驚いたけどね」
「……見たのか、てめェ」






じろりと睨んで問い詰めれば、八剣は肩を竦めて曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
言わずとも確かだろう事が容易に想像できて、京一は苦虫を噛み潰す。


今すぐ忘れろ、と言おうとして、出来なかった。
胸部に酷い痛みが走り、呼吸を忘れて蹲る。

その京一の背に、また再び、あの振り払った手が触れた。






「無理はしない方が良い。相当酷くやられているから」
「……最初にそれをやりやがったのは、何処のどいつだよ…ッ」






痛む胸部に手を当てて、京一は傍らの男をもう一度睨む。
背中を撫でる手を振り払うような気力は無かった。


ぎりぎりとした痛みを訴える胸部に当てた手に触れたのは、蛮行によって解け、血を滲ませた布の感触ではなかった。
汗の所為かそれとも開いた傷の出血かで滲んだ、けれどもまだ真新しいであろう包帯。
誰がそんな処置をしたのかは、考えるまでも無く、この部屋の───此処が何処の部屋なのかは判らないが───主であるのは間違いない。

それは────癪に障るが、感謝するべき所なのだろう。
謝辞を述べるつもりはないけれど。



もう少し寝ていた方が良いと言われて、ゆっくりと後ろへ肩を押された。
昨今の疲労と、意識を失う以前の重労働は、未だ躯を重くしている。
胸部の痛みに熱が加わっているのも思い出して、京一は力に逆らわず、布団の上に横になった。

数秒目を閉じて荒い呼吸を繰り返していると、額にひんやりとした布が置かれる。
薄く瞼を開けて枕元を見やれば、水桶と、正座して此方を見下ろす男がいた。






「傷口が開いている。処置はしたが、動かない方が良い」
「…………」
「それと、服は洗濯したからね。明日の朝には乾くかな」






服、と言われてから、京一は自分の格好がいつもと違う事に気付く。


腕を目の高さまで持ち上げると、腕に引っかかっているのが筒袖ではなく、着物の袂である事を知る。
さっきは気付かなかったが、胸元も緩ませた袷が重なっており、腰元には帯の僅かな締め付け感。
真っ白のそれが襦袢と呼ばれる類の下着類であると理解するのに、時間はかからなかった。

恐らくと言うか、十中八九間違いなく、八剣の私物だ。






「後で病院に行った方が良いだろうね」
「……行かねェ」
「案外、子供みたいなんだな」






くすりと笑う気配があって、京一は顔を顰めて傍らの男を見上げた。
案の定、その表情は笑みに形を作っている。

常時笑っている顔と言うのは、自分の相棒もそうである筈だ。
しかし、何故かか龍麻相手は平気な筈の笑顔は、この男相手に限ってはどうにも腹が立つ。
多分、あの日のあの笑顔が、殆ど同じような形を自分を揶揄っていたからだろう。


京一の病院嫌いは、何も病院への苦手意識によるものではない。
とある病院の、とある院長に限った事だ。

だが、そんな事をこの男が知る由もないだろう。
今の京一の一言は、単純に子供の病院ひいては注射嫌いと同様のものとして受け取れたに違いない。
腹は立ったが、否定してわざわざ説明するのも面倒で、京一は笑う男から目を逸らした。




──────そうして飛び込んできた、赤い月。






「────────ッッあ……!」






がさり、と。
瞳の奥で虫が蠢いて、京一は目を抑えて蹲る。

途端に悲痛な声を上げて蹲った京一に、八剣が目を見張った。






「京ちゃん?」






いつもならば「言うな」と反応を返す呼び方に、京一は構わなかった、構っていられなかった。
それよりも、眼球の中を這い回る虫の方がおぞましい。


両手で目を押さえて震える京一に、八剣は眉根を顰める。





「目に何か……?」
「………なんッ…でも……ッ」






心配するような八剣の声に、京一は頭を振って否定する。



虫がいる────京一の感覚としては、その言葉が一番当て嵌まる。

しかし、実際に眼球の中に寄生虫も何も棲んでいないのは、京一自身よく判っていた。
だから眼球に傷を負った訳でも、血管に異常がある訳でもなんでもない。


異常があるのは眼ではなく、自分の頭の方。
そうは思っていても、それだけで眼球の中の虫が気を静める事はなく、ぼこぼこと眼球を押し出そうと暴れ回る。
目元を覆う手の指を、そのまま突っ込んで抉って球体を取って、追い出してしまいたい。
その時の痛みも、その後の永遠の暗闇も、虫が暴れ出せばどうでも良かった。






(気持ち悪い)

(鬱陶しい)


(気持ち悪い……!)






先刻飲み下したばかりの吐き気まで舞い戻ってきた。
傷の開いた胸は熱を持って、汗が噴出すのは、果たしてそれの所為だけなのか。



目を覆う京一の手の平に、男の節張った手が触れた。
それに気付くと同時に、どくりと眼球が飛び出そうなほどに虫が跳ねる。






「触……んなッ……!!」






身を捻ってうつ伏せになる。
が、肩を掴まれて引き寄せられ、再び仰向けにされた。






「京ちゃん、手を放して」
「……嫌…だ……ッ」
「放せ」






飄々とした言葉を拒否すれば、今度は命令の意図を持った声が降って来た。
それも首を横に振って拒絶すると、目元を覆う手の腕を掴まれる。



抵抗の仕方が、まるで駄々を捏ねる赤ん坊のようだと、自分でも思った。
目元を覆う手を退かせようとする力を嫌がるように、子供のように首を横に振って要らないと拒否する。
強引な手段に出た力に対しても、同じように目元を覆ったまま、頭を左右に振るしか出来なかった。

そんな弱々しい抵抗がこの男に通じる訳も無い。
もう良いよと相手が匙を投げるまで、京一が延々と抵抗を繰り返すような体力が戻っていないのも、事実だった。



大した時間稼ぎにもならない抵抗は、あっさりと奪われた。


両の手首を掴まれて顔から引き離され、顔の両横に縫い付けられる。
逃れようと全身で暴れようと試みれば、両腕を片手で纏められて頭上に拘束され、空いた片手が脇腹を押さえた。
それでも暴れようとした時、胸部の痛みに全身が強張って、呼吸を忘れる。

痛みに仰け反った京一を、八剣は無言のまま、じっと見下ろした。
その表情が僅かに悲哀を帯びたように歪められているのは、熱で浮いた頭の世迷言か。



正面からじっと見下ろされ、灰の瞳が間近にあった。

目を閉じれば逃れる事は可能だ。
だが、男は再び瞼が開かれるまで、今の状態から動く事はしないだろう。


京一は、茫洋とした意識の中で、見下ろす男の顔を眺めていた。






「眼が─────どうかしたの?」






子供に言い聞かせるような柔らかな口調で、八剣はゆっくりと問い掛けた。






「鬼と?」
「……違う、」
「なら喧嘩で?」
「……違う……!」






原因など何がある訳でもない。
自分の頭が可笑しくなっただけ。

判っているのに、涙が出て来る。
子供のように。



視界が滲むのは、痛みの所為か、それとも別の雫の所為か。
頭まで痛くなってきたような気がして、耐えるように瞼を固く閉じれば、頬を伝うものがあった。






「──────京ちゃん」






呼ぶ声に反応する気にもならなくて、頬を伝うそれを隠す事も出来ず、息を詰めるしかない。

詰めた息を吐き出すように努めても、まるで上手く行かない。
喉から蓋をされたように、呼気そのものの仕方を方法を忘れてしまったようだった。


頬に節張った手が触れる。
両腕は纏められたままだ。

詰めた息を吐き出そうと、魚のように喘ぐ唇に、熱のあるものが触れた。






「ん、ぅ……!?」






別の理由で息が出来なくなって、京一は瞠目する。
開かれた両目に映り込んだのは、窓から差し込む紅い光を反射させる、僅かに褪せた金糸。


呆然と隙間の開いた唇から滑り込んできたものが、男の舌であると気付くまで、数瞬かかった。
その出来事そのものに気をやっている内に、それと自分の舌とが絡められる。

気持ち悪い─────と思ったのは、不思議と、最初の一瞬だけ。
まるで宥めるように頬を撫でられて、絡めた舌をゆっくりと踊らされて、性急さは其処にはない。
両の手首を拘束する手が離れても、京一は暴れようとはしなかった。
そうする事すら忘れていて、ただぼんやりとした頭の中で、薄らと感じられる心地良さに身を委ねる。



男にキスされて気持ち悪くないとか、心地が良いとか。
いよいよ頭が可笑しくなったと、自分でも思う。

でも目の中でざわつく虫は静かになったから、疲労した精神は、それで十分だと考える事を放棄した。






「ん、ふ……」






触れられるのは好きではない。
子供の頃から、他人の熱が近い事が苦手で、今でも慣れない。

自分から触れるのは構わない、触れようと思った人間、許容した人間にしか触れないから。
けれど受ける側となるとそうも行かず、それがどうにも京一は寛容出来ない。


この男は、どちらだっただろう。
問うまでもない、許容していない人間だった。

その筈なのだけど──────






「…ん…はぁッ……ぅ、んん……!」






一度離れて、角度を変えてまた口付けられる。


解放された腕を頭上から身へと寄せて、次に伸ばしたのは、金糸の絡みつく男の首。
間近にあった閉じた男の瞼が僅かに開いて、それが驚きを映し出していたように見えた。
それを見なかった事にして、京一はまた目を閉じる。

咥内を弄る他人の舌の熱がより一層感じられて、ゆっくりと京一もそれに応えるように絡み付ける。
口付けの角度がまた変わって、より深く繋がり合う。






「んぅ…ふ……」






首に絡めた手から力が抜けて行き、やがてするりと滑り落ちた。
京一の眉間に寄せられていた深い皺も消え、強張っていた躯の緊張が解けて行く。




妙な事もあるものだ。

この男に口付けられる事があるなんて事も、それを受け入れている事も。
他人の熱は勿論、いけ好かない男を赦すなんて有り得ない筈だ─────普通なら。



そもそも、何故この男はこんな事をしているのだろう。
路地裏に無様な格好で意識を失っていた自分を拾って、自分のテリトリーまで運び込んで、傷の手当てまでして。

恩を着せるような人間ではないのは、癪に障る事だが、あの闘いでの一件でよく理解している。
思っていた以上に潔いのが、八剣と言う男なのだと。
それが尚更理解できず、だからこそ京一にとって八剣は苦手意識の消えない対象だった。


お世辞にも仲が良い訳ではないし、龍麻と壬生と言う青年のように、遠巻きながらも繋がりがある訳ではない。
一切の無関係と言えばそうで、八剣が何かと京一に構いつけて来なければ、あの事件以降会う事もなかっただろうと思う。




其処まで考えてから─────ああ、だからかと理解した。






(こいつなら)

(別に何も要らねェんだ)






プライドも矜持も、あの敗北で一度に全てズタズタにされた。
信じていたものも、自分自身が持っていた何もかもを、この男は砕いたのだ。

無様な姿を晒すのも、この男に限っては既に過去に起きた事の繰り返しに過ぎない。


押し殺す行為そのものが、既に無意味なのだ。






「ふ、ぁ……ッ……」






唇が離れて、ようやく呼吸が可能になる。
肺に酸素が送られて、傷のある胸部が大きく上下するのを自覚して、ようやく呼吸の仕方を思い出した。


閉じていた瞼を僅かに持ち上げれば、男の顔はまだ直ぐ近くにあった。
ゼロ距離と言うほどではないけれど、ふとすれば触れ合いそうな程だ。

見下ろす男の灰色の瞳は柔らかい。
その眼球のハイライトが僅かに赤みを帯びている事に気付いた瞬間、あの感覚が蘇る。






「………ッ!!」
「京ちゃん」






思い出した筈の呼吸がまた詰まって、片手で目元を覆う。






「……大丈夫だよ」
「……ッるせェ……!」
「大丈夫」






頭を撫でる手。
振り払おうと子供のように腕を振り回しても、それは離れない。

頭を抱えるように抱き寄せられて、男の胸板に押し付けられる。


衣擦れの音が聞こえて、それが着物の帯を解く音だと気付いた。
頭の奥で警鐘が鳴っているのは判っていたが、京一は沈黙したまま、男に身を委ねている。

目を覆っていた手を掴まれて、無理のない力で、ゆっくりと放される。
それでも閉じたままの瞼に柔らかなものが一瞬触れて、それがキスであると判った。
それから柔らかい布地が当てられて、






「……何して、」
「見たくないものがあるなら、この方が楽だろう。そうでないなら、勿論、取っても構わない」






布地を頭の後ろで結ばれるが、それは決して固くはない。
取ろうと思えば一瞬で取れる、その程度の遮蔽。

戸惑いがないとは言わないけれど、拒絶する理由も───何故か───見付からなくて、京一は暗闇を受け入れた。





暗闇と、紅い光と。

極端な二択しかないのであれば、京一は迷わない。
中途半端はグレーゾーンよりも、選ぶ手段と理由は深くなくて構わない。





子供が親に抱かれるように、腕の中に囚われている事は理解している。
だが拒絶するには、あまりにその腕の力は曖昧なもので、そんな触れ方に慣れていない京一に戸惑いを呼んだ。
迷っているならこのままでいても良いよな────と、滅裂とした思考が生まれる。


八剣は愚図る赤ん坊を宥めるように、京一の背中を撫でている。
時折遊ぶように項をくすぐり、背骨のラインを指先でなぞり、また宥めるように鼓動に合わせて背を叩く。
それを何度も繰り返していた。

それらに身を委ねている内に、京一の躯から緊張と言う強張りは解けて行く。
妙な奴だと思う傍らで、案外と居心地が良いから、つい。



耳朶の裏を男の指がくすぐって、僅かに肩が跳ねた。
見えない分だけ、触れるその熱を強く感じるものだから。






「……っあ……」






耳元に唇を寄せられる。
細い髪が頬に触れる感触で判った。

吐息が耳をくすぐって、京一は肩を竦め、手探りで男の打掛を探す。






「んッ……ふ、ッ……」






手の平の感覚だけで探した肩口。
上等だと判る生地に皺を寄せて、京一は其処を強く握り締めた。


ぴちゃ、と耳元で濡れた音がする。
温かい柔らかな肉質が耳朶をなぞって、京一は零れそうになる吐息を殺す。

男の片手がするりと背中をなぞって下りて行き、京一の臀部を弄る。
気持ち悪、と胸中で悪態をついても、振り払うような気力はなかった。
好きにさせていれば、それは次第に前へと周り、既に乱れていた袷から内側へと滑り込んでくる。






「ッ……!」
「大丈夫」






何が大丈夫なのか、京一には判然としない。
しないが、抵抗はしなかった。






「う、ん……!」






下着の中に侵入した手が、京一の中心部に触れた。
覆うように包み込んで上下に扱く。

男と言うものは刺激されれば反応するし、増して若い躯である。
其処が硬く張っていくまで時間はかからなかった。
視界を遮られ、触れる感覚に鋭敏になっている今なら、尚の事。






「あ、…っは、……ぅん…ッ」
「直ぐにイきそうだな」
「…ん、んッ……ふぁ…!」






耳元で囁かれた言葉に、顔に朱が昇るのを自覚した。
唇を噛んで耐えようと全身を強張らせれば、逆に解すように耳元に吐息を拭き掛けられる。






「ん、んぅ……ッ」
「随分、溜まってたみたいだねェ。処理はしていなかったのか?」
「る、せェッ……んんッ…!」






そんな事は此処数日、考える暇もなかった。
穏やかでない日々を送り、事によっては数日気を張り詰めることも珍しくない。
下世話な話など別世界の出来事も同然だ。

この男に触れられて感じているのは、その所為だ。
男の肩に縋るようにしがみついて、京一は胸中でそう吐き捨てた。


中心部への上下の刺激が速度を増して、京一は息を詰める。
喉を逸らせて息を殺せば、浮き上がった鎖骨を舌が舐めて形をなぞる。

張り詰めた先端に指の爪を立てられて、それが限界だった。






「あッ、あ……! ふ、あ……ッ」






吐き出した汚濁が男の手を汚し、京一の太腿を流れ落ちる。


開放感と虚脱に苛まれて、八剣の肩にしがみついていた京一の手から力が抜ける。
ぱたりとそれが蒲団の上に落ちて、京一は気だるさに身を任せ、仰向けで艶の篭った呼吸を繰り返す。

脱力した太腿を押され、脚を広げられる。
八剣の手がそのまま中心部から更に下へと降りて行く。
慎ましく閉じられた蕾に触れると、指先で其処を僅かに押し上げた。






「あッ……ぅ…!」
「痛むか」






当たり前の事だ。
其処は受け入れる器官ではないのだから。

けれども八剣は構わず、京一の蜜で濡れた指をゆっくりと押し進めて行く。






「いッ、あう…! 痛……ッ!」






有り得ない場所からの痛みと異物感に、再び京一の躯が強張る。

押し戻そうと締まる肉壁の中で、八剣の指は擦るようにゆっくりと回転する。
鳴らそうとしているのが京一にも辛うじて理解できた。


唇が重なり合う。
詰まる息を強引に吐き出させるように、八剣は京一の歯列をなぞって隙間を作ると、舌を侵入させた。
逃げる京一の舌を絡め取って捕まえると、外へと引き摺り出してしまう。
半開きになった京一の咥内から、途切れ途切れの呼吸が漏れた。






「ふぁ、は……あッ、あ…はぁッ…」






ぐ、ぐ、と秘孔を押し広げていく指。
その異物感はいつまでも消えない。

けれども、痛みは僅かであるが消えて来たような気がする。






「あッ、あッ…んぁ……ッ」
「いい顔だ」
「……んぅッ……」






褒めているのか、揶揄しているのか。
聞こえる声はどちらにも取れる色をしていて、京一にははっきりと理解することは出来なかった。




片足を持ち上げられて、高い位置で引っ掛けられる。
痴態を晒している事は────強引に頭の中から追い出して、考えない事にした。

体内で指が間接を曲げて、内壁を押し広げる感覚に、京一の喉から高い声が上がる。






「んぁッ……!」






ぞくりとしたものが背中を駆け抜けて、シーツを手繰り握り締めてその感覚に耐える。
だが八剣は更にそれを与えようと、同じ箇所を繰り返し刺激した。






「あッ、や…ん、あ、あッ……!」






刺激のタイミングに合わせて、京一の躯が何度も跳ねる。

しこりになっている部分を指が掠めれば、一際甘い声が上がった。






「ひぅうッ…!」
「此処か」
「ふあ、や! あ、くぅッ……!」






頭を振って悶える京一。
その耳元に唇を寄せて、八剣は笑みを含んだ声で囁く。






「あまり暴れると、帯が解けるよ」
「………ッ」






──────それはつまり、あの紅を再び目の当たりにすると言う事だ。

一気に蘇った感情は、“恐怖”と呼びなわされるもの。
途端に硬直したように息を詰めた京一に、八剣は悪いね、と詫びの言葉を零した。


何も見えない暗闇の世界は、重なり合った熱や、触れるものに対して嫌でも敏感になる。
布の擦れ合う音も常よりもはっきりと聞こえるし、体内で蠢くものも必要以上に形を確認するような気になってしまう。
こんな事をして来る男の顔は見えないから、何を考えているのか判らない。

でも、あの紅い月を見るよりは良い。
あの日の色で塗り潰されてしまったような世界の中で、眼球の中に虫を飼うよりは、ずっと。



……眼球の奥が疼き出す。
男の言葉に嬉々として、そうしろとでも言っているようだ。

布の上から瞼を押えて、見えない天井を仰ぐ。






「痛むか?」






八剣の問いが、どの痛みに対するものなのかは判らない。
何れにsちても、京一に応える余裕などなかった。

沈黙する京一の頬にキスを落として、八剣はゆっくりと指を動かす。






「んッ…ふ、う……んんッあッあッ……!」






声を零す度に上下する胸。
包帯で覆われた其処に男の空いていた手が滑り、見えない傷の形を確かめるように撫でる。


彼が自分で負わせた傷だ。
その太刀筋のラインは、恐らく見なくてもなぞる事が出来るだろう。

綺麗に傷痕の上をなぞる手は、決してそれを圧迫するような事はしなかった。
けれども、存在が其処にあるというだけで、痛みに対する動物の本能なのか、京一は躯に力が入ってしまう。
それによって秘部の締め付けが強くなり、八剣の指を圧迫し、自分諸共に苛む事になる。






「う、ん……!」
「改めて傷を見たんだが……よく生きているよ」
「あうッ…! あ、や、んん…!」
「殺したとばかり思っていたしね」






それは────自分でも不思議だと、京一も思う。



この男に斬られた数瞬、現実を受け入れる事が出来なかった。
それでも、地面に倒れて僅かに残った思考が思ったのは、これで自分は死ぬのだと言う事。

不思議と恐ろしいと思わなかったのは、其処まで思考が追い付かなかったからだろう。


あの時、吾妻橋は柱に縛られて身動きの出来ない状態だったし、仲間達が来る事に期待はしていなかった。
他の三人の舎弟はあの姿勢のまま動けずにいて、放置してきていたし、他の誰かに連絡をしようとも思わなかった。
“舐めた真似”をしてくれた敵に対しての怒りと、売られた喧嘩を買うと言う、京一の行動はそれだけが理由だった。

それを呆気なく打ち壊された後に残ったのは、絶望と失望だけ。
他の事など、何一つ湧き上がっては来なかった。


それから、どう言う訳か判らないが、目覚めた時には見慣れぬ老人の下にいて。
傷は其処で手当されたのだろうけれど、それ自体も不思議だった。
包帯の下の有様を見たのは、事が終わった後の事だが、その時にはあの時の出血ほど酷い状態ではなくなっていた。

日本刀は斬る事に特化した刃物であるから、まともに手入れをされていれば、酷い傷痕にはならない事が多い。
しかし、だからと言って、人体に全く欠損が出来ない訳ではないのだ。
斬られてからどれ程の時間が経って治療されたかは知らないが、あれだけの負傷を、事もなかったかのように治療するのは難しい。
更には直後に戦闘などしてのけているのだ、通常では考えられない事である。



斬り捨てた八剣にしてみれば、あの場で戦闘に参加している事は勿論、生きていた事そのものが予想外だったに違いない。






「それだけ頑丈なのに、……意外と繊細なんだな」
「……黙…れッ…!」






見えない目で睨むように顔を向ける。
其処に彼の顔があるかは知らないけれど。

くりゅ、と男の指が体内でしこりを押し上げて、京一の喉から堪えることを忘れた声が上がる。






「ふぁッ、あッ! やッ…!」
「別に悪いとは言っていない。俺が知っていたのは、“歌舞伎町の用心棒”だったものだからね」
「ん……や、あん……! あッ……」






何処でどういう噂を聞いていたのか、それは京一の知る由ではない。
拳武館と言う機関からして、様々な情報は行き交っているのだろうが、其処から選ぶ情報はやはり必要なものだけだろう。
京一が普段何処でどう過ごしているのか、それを人伝か監視カメラか、そんなもので見たものが精々だ。

日常生活でどう過ごしていようと、それはどうでも良い事だろう。
ターゲットは狩る対象であって、その為に使える情報以外は、記憶メモリの余分にしかならない。


その知らなかった顔を、八剣は今見ている。

……見られている。
きっと誰にも────あの優しい人達以外で見せた事のなかった、情けない姿を。






「ん…あ、あ、う……!」






泣きたい気分になってきた。
けれども、どうしたって涙は流れないだろう。
瞼を覆った布が全て吸い込んでしまうから。

だったら、きっとこの男には判るまい。
散々に砕かれたプライドを、更に微塵にすり潰すこともないだろう。






「意地を張るのが好きなのか?」
「…っふ、ん、んッ、ふぅんッ……!」
「それとも、意地を張るしかなかったのかな」
「ひぃうッ…! や、痛……ぁ…!」






くちくちと、秘部で卑猥な音がする。
顔だけじゃなく、全身が熱くなるのが判る。






「あッ、あふッ、ひぃん…! あッあッ、あん……!」






受け入れる器官ではない箇所に、有り得ないものを受け入れて。
それで感じている自分が可笑しいと思うような理性は、とうの昔に捨てていた。


紅い月が昇る日はいつもそうだ。
現実と非現実の境界が曖昧になって、理性と本能が判らなくなる。
いやと言うほど現実的に思考が働いたり、理由のない破壊衝動に駆られたり。

世界が紅に染められる日は、そんな事ばかりが起きて、だから面倒事も起きる。

だから、今更だ。
こんな可笑しな出来事が起きても、驚くような気にもならなければ、避けようとも思わない。
どんなに逃げても、あの紅い月は空から自分を見下しているのだから。



胸部の痛みと、下肢の痛みと快感。
混ざり混ざって、脳の伝達神経までも冒して行く。






「んぅ…! う、ふぁ……あ…!」
「いいよ、出しても」
「あぅ…あ、あ、あッ…!」






頬に舌が這う。
ぞくりとして、京一は身を震わせた。
同時に秘孔内部が強く締まり、男の指を締め付ける。

そのまま緊張が解れるのを待たず、八剣は京一の前立腺を突いた。






「ひぃぅッ! ひあ、あ、んぁああぁッ………!!」






絶頂を迎えることへの抵抗はない。
逆らうと言う行為そのものを忘れて、京一は声を上げて達した。



































意識の覚醒と共に見えたのは、暗闇。
それと同時に感じたのは、自分よりも少しだけ低い、ヒトの体温。

何度か身動ぎした後で、その体温が自分ヲ抱きこんでいる事を知る。



誰かに抱き締められるなど、『女優』の人々を除けば、何年振りになるだろう。
あの人達以外を許容する事はなかったし、赦そうと思った事そのものがない。

思ったよりは、居心地が良いと思う自分がいる。
彼女達とは違う力強さやくすぐったさはなくて、ただ触れているだけ、その延長のような熱。
その人物の顔が見えないから、今は、尚更。






「少しは落ち着いたかな」






声が聞こえて顔を上げる。
見えはしないけれど。






「悪かったね、急にあんな事をして」
「………」
「紛らわすには手っ取り早いと思ったんだが」






それにしたって唐突過ぎるし、極端だろう。
増して男が男相手になんて、よく出来たものだ。

思ったけれど言わなかった、他に誤魔化せる方法もなかっただろうと自分でも思う。


共犯者同士なら、互いに何も言える訳がない。




男の手が京一の頭を撫でて、視界を覆う布の結びにかかる。






「解くかい?」
「………いい」






それ程固い結びではないから、八剣の手を借りずとも、解こうと思えばいつでも解ける。
当然今なら京一自らの手で取り払う事も出来た。

けれど、京一は今はまだ暗闇の中で良いと思う。






「聞いていいかな」
「……何を」
「何を見ていたのか、と言う事だよ」






まるで内緒話のように潜められた声で囁かれた言葉に、僅かに京一の頭が揺れた。
布で隠された瞼の裏で、瞳が右往左往とするのが自分でも判る。


上げた頭がどの方向を向いているのかは判らないが、直ぐ其処に壁のように男が存在しているのは判った。
横になった自分の傍らに男も転がり、親が子供を守るように眠るように、抱かれているのだと。

……その躯の向こうに何があるのか、不意に気になった。
同時に瞼の奥が微かに蠢いて、京一はそれを誤魔化すように、男の胸に顔を埋める。




今更、守る矜持もプライドもない。
散々張り続けた意地は壊された。

それなら、もう、良いだろう。






「………月」






呟かれた言の葉に、頭を撫でていた男の手が止まった。






「紅い月」






紅い月が見える。
あの日の紅で塗り潰された、赤い世界が。



本当に月が紅い訳ではない事も、他者にはごく普通の空が見えている事も判っている。
自分の目が、頭が可笑しくなっただけで、後は何も狂ってなどいない。

父親がいなくなった日から何度となく繰り返されてきた、紅い月の夜。
幼い頃はそうでもなかったと思うのだが、それを見ると、いつからか眼球の中で虫が蠢くようになった。
暴れる虫の所為で眼球が傷付くとか、そう言う不安は不思議と一度も持った事がない。
恐ろしいのは、目の中に虫がいる事そのものだった。


赤い月が見える日は、決まって面倒事に巻き込まれた。
……単純に、それに対する回避能力が欠落しているだけだとも思うが。



こんな時の紅は駄目だ。
遠い日の、祭囃子と匂いを思い出す。



逃げても逃げても、紅い月は追ってくる。
遥か天上から嘲笑うように此方を見下ろして、何処までもついて来る。
朝になって月が沈んで太陽が昇っても変わらない、その夜にはまた紅い月が昇る。

眼球に巣食う虫を黙らせる為に、恐怖を苛立ちに変えて捌け口を求めて暴れていたのが、中学生の頃だ。
けれどどれだけ暴れても、天上に昇った紅い月を見れば、また虫は騒ぎ出す。




月が紅いなんて、とんだ虚言だ。


今日の帰り道だって、葵と小蒔は綺麗な月だと笑っていた。
龍麻と醍醐は何も言わなかったが、きっと同じように思ったに違いない。

紅い月を見ているのは自分だけだ。
赤黒いフィルターに覆われているのは、虫が巣食った自分の眼だけ。
世界は何も、何処も、壊れてなどいない。






「………そんだけだ」






見えているのは紅い月。
見ているのは紅い瞳。

あの日、海のように溢れ出した紅い血と同じ色の世界。


幻視に囚われた瞳が見ているのは、そんなものだった。



これでこの男も幻滅しただろう、と頬を押し付けた熱に抱かれて思う。
いや、そもそもこの男が自分に偶像を持っていたという事そのものが有り得ない。
一番の失態と情けない姿を、一番最初に見られているのだから。

あれから何故かこの男は自分に構いつけてくるが、それは物珍しい玩具を手に入れた感覚なのだろう。
苦手意識からして、打てば響く京一の性格は、飄々として他人を煙に巻く男には面白いものだろうし。



そう思っていたら、額に柔らかな熱が押し付けられる。
─────キスだった。






「別に怖がる事じゃない」
「……知ってる」






紡がれた言葉は、きっと誰もが言うだろう言葉だと思った。
相手が龍麻でも、葵でも、きっと同じ事を言うだろう。

けれど、その先が違った。






「紅い月なら、俺も見てる」






その言葉にこそ驚いて、京一は布に覆われた目を見開いた。
見えるのは暗闇だけ、赤い世界もなければ、男の顔も見えないままだ。


京一の驚愕を感じたのだろう、くすりと笑う気配がある。
揶揄の色ではなく、純粋に可笑しかったと笑う声。






「そう意外な事でもないだろう? それとも、俺がまともな神経の男だと思ったかな」
「……まともな神経した人間が、弱った人間を犯すかよ。おまけに男だぞ」
「俺が言っているのは其処じゃないんだけどねェ」






判っている、そんな事は。



拳武館は暗殺集団だ。
八剣は其処に属する十二神将の一人である。
京一が知っている以上に人の生死をその手に握り、斬り捨てて来たに違いない。

人の生死をその手に握ると言う事は、それが生であれ死であれ、決して簡単に割り切れることではない。
京一とて中学生の頃に散々痛めつけた人間が、後に生き続けたのか死んだのか、判らない事は多い。
それは決して直接的ではないけれど、人の生死を握っていたのは確かだろう。


今年の夏、きっと歯車が一気に加速を始めた鴉の事件に巻き込まれた少女がいた。
後に不可思議な形で再び龍麻の前に姿を見せた彼女に、龍麻は巻き込んだ事への罪悪感でもあったのだろうか。

小蒔は遠い記憶を重ねた少女の死に嘆き、苦しみ、弓を引けなくなるまでになった。
醍醐は同じ道を歩み、そして引き裂かれた友人と分かち合えないままの死別に今も苦しんでいる。
葵は人が死ぬ事そのものに酷い抵抗感と拒絶感を抱いている、恐らくその切欠も生死が彼女の手に委ねられた瞬間が遠い日にあったのではないだろうか。



人の生死をその手に握り、終わりの引き金を引く。
その重みはどんなものだろう。
引き金を引いた後、其処に何もないなんて事はない。

魂が抜けて入れ物になった肉魂と、引き換えに生きている自分が其処にはいるのだ。


そんな出来事が延々と繰り返されて、まともな思考でいられる人間の方が、きっと少ない。






「紅葉はそうでもないと思うけどね。館長もそんなつもりはないだろう。皆、それぞれにそれぞれの正義があって拳武館にいる」
「……お前ェもあんだろ」
「一応、ね。だが、それでも決して、そう軽く刀を振るっている訳じゃあないよ」






斬る瞬間に見えるのは、飛び散る紅。
斬る瞬間に感じるのは、刃が肉を切り裂く感触。

斬った後に残るのは、世界を染める、紅い色。






「いつからだったかな。見上げた空が、随分と紅く見えたんだ」






八剣の言葉が真実か嘘か、それは京一には判らない。
京一の言葉を、虚言と笑い飛ばす事が出来るように。






「面白いね。同じ世界が見えているなんて」
「……知るかよ、お前が見てる世界なんざ」
「それに意外だ。この世界が怖いとは」






人の話聞いてねェな。
続く八剣の言葉にそう思いながら、京一はふと気になった。






「お前は……なんともねェのかよ」
「紅い月が?」
「………」
「全然。そういうものなんだろうと思ったよ」






ああ、こいつも可笑しい人間なんだ。
平静とした声で紡がれた言葉に、京一は小さく笑った。


同じ世界が見えていて、その世界を受け入れている男。
こいつの方がオレより可笑しい人間だ。
眼球の中に虫がいる訳でもないのに赤い月を見上げて、それを普通に受け容れるなんて、正気の沙汰じゃない。

同じ月を見ているから、同じ世界を共有出来る。
だからこんなにも居心地が良い。






「だから、また紅い月が見えたら此処に来ればいい。怖いのなら見えないようにしてあげるから」
「………気持ち悪」
「酷いねェ」






クスクスと笑う男。
頬を押し付けた胸板が上下して、少し鬱陶しかった。
























紅い月が見える時。
あの人達の下に帰らなかったのは、彼女達を赤黒い色で染めたくなかったから。

紅い月が見える時。
友人達を振り返らないのは、彼らを紅黒い色で穢したくなかったから。



でも、此処なら良いだろう。
此処なら虫も静かで大人しい。
紅い月を見ない限り。

そして此処に唯一存在する男は、既に紅い世界に身を置いている。
仲間や優しい人達のように、守りたいと思う事もない。






紅い月。
紅い瞳。

紅い世界。




暗闇に覆われたままなら、紅い世界でも怖くはない。



















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シリアスって言うより、暗い……そして長い! 前後編に分けて尚長い!
「紅」や「月」と言うキーワードは、どういう訳か強く惹かれます。結果、こんな暗いものを書いてしまっているんですけども……

うちの京一って深層心理の部分ではかなりネガティブ思考なので、一回落ちるとこんな感じでどんどん落ちて行きます。
八剣はいつも大人な感じで書いている事が多いですが、時々こんなのが書きたくなります。

visual hallucination 前編


















紅い、紅い、
血の色に染まる。


世界も、自分も、何もかも。
























【visual hallucination】



































紅い月。
それを見るようになったのは、いつだっただろうか。





子供の頃にも何度か見たような気がするが、いつの頃からか、目を向ければ緋色に見える事が増えた。

余りにも繰り返し見られるものだから、自分の目が可笑しくなったのかと思った事もある。
特に中学生の頃、目の前にあるのが喧騒と苛立ちと血錆で出来ていた頃は。




記憶を辿り、緋色の月がはっきりと瞼の裏に焼き付いた最初の日を、京一はまだ覚えている。

祭囃子と行き交うヒトのざわめきの中、劈くように響いた悲鳴と、動かなくなった見慣れた大人の手。
地に伏した大人の腹から赤黒い液体が溢れて地面に染みこんで行った。
その日見上げた空にあった月は、あの腹から零れ出していた色とそっくり同じ色だった。

それが目に焼き付けるほどに睨み続けた液体が見せた残像だったのかは、判らない。



幼い日、埃に塗れた高架下で蹲っていた時。
見上げた夜を見上げれば、ビルの隙間に覗く月は、やはり紅い色をして見えた。



師と出逢い、『女優』の人々と出会ってからしばらくは、紅い月を見なかった────と言うより、夜の空を見なかった。
優しくて温かい人達は、子供の自分が夜出歩く事にあまり良い顔をしなかった。
世話になっている彼女達に嫌な思いをさせたくなくて、その頃だけは、夜の空の下に出なかった。

中学生になってからも、暫くは見ていなかったように思う。

だのに、再び紅い月を見るようになった。
それは師が突然行方を眩ました日を境にした出来事だった。




虹彩に溢れた人工灯の海の中で、真黒な空に浮かんだ月だけが異様な程に紅い。
そんな光景を、中学生の京一は一人見上げるようになった。


月が紅いのか、月を見るこの瞳が紅に染められたのか。
判らなくなってしまうほどに、京一の世界は緋色で塗り潰された。

その隙間にいつかの紅黒い液体の残像を見た。



紅い月。
紅い瞳。

紅い血。



中学生の頃の京一には、そんなものしかなかった。
優しい人達はいたけれど、彼女達には顔向け出来なくて、知らない振りをし続けた。

彼女達はあんなにも優しくて綺麗なのに、自分の穢い眼で汚したくなかった。
振り返った時に彼女達まで緋色に塗り潰されていたら、悲鳴を上げてしまいそうだったから、目を逸らす。
赤黒いフィルターが剥がれ落ちるまで、ずっとずっと。






赤黒いフィルターが剥がれ落ちて、月は金色に返り、空が抜けるような青を取り戻して。
それから、もう紅い月を見る事はないと思った。



────────筈、なのに。
















ふと見上げた空に、ぽっかりと浮かんだ光の穴。
それを見た葵が感歎の声を漏らした。






「凄い。綺麗な月ね」






葵の言葉に促されたように、小蒔が足を止める。
小蒔が止まれば醍醐も止まり、更にその前を歩く龍麻と京一も遅れ遅れに歩を止めた。


夜回りと穏やかではない追いかけっこの所為で、五人は埃塗れの汗塗れだ。
だから誰も口には出さなかったが、総じて早く家に帰ってシャワーでも浴びてゆっくり眠りたかった。

だが、足を止めた葵はその場から動く様子はなく、じっと空を見上げている。
そんな親友の姿に、小蒔はそんなに言うほどのものかなァと呟きつつ、葵に倣って空を見る。
見えるのは葵と同じ、夜空にぽっかり浮かんだ光の穴だ。






「ほんとだ、キレーにまんまるだ」






葵が言いたかったのは其処ではなかっただろうが、確かに、見た目も綺麗な満月。

少女二人は暫くそうして空を見上げていた。
風が吹いて葵の黒髪が流れても、二人はじっと動かない。



ビルが乱立し、人工灯で溢れた都会の真ん中で、欠けない満月を見る。
ありそうで中々なくて、けれども空が見える場所であれば当たり前に見られる光景だ。
だが、この場にいる少年少女達にとって、そんな当たり前こそが最も遠い場所にあった。

葵と小蒔が月に見入っているのも、恐らくそれが理由だろう。
のんびりと空を眺めて月見に洒落込む時間なんて、いつの間にか遠くに放り投げて来ていたから。


色々な事が、沢山の事があり過ぎて、けれどその一つ一つを飲み込んで消化するような時間も与えられない。
あっという間に通り抜けてしまう日々の中、少年達は後ろを振り替える間もなく、思い返す暇もなく、ただ前へ前へ進み、その行く道を阻害する“モノ”を打ち滅ぼさなければならない。
それが彼ら自ら背負った重みだから。


でも、こうして空を見上げる時間を欲しいと思ってしまうのは、決して罪な事ではない。
どんなに大きな《力》を持っていても、その心が平穏を望む一介の若者である事に変わりはないのだから。






「今度、葵の家でお月見しようよ」
「ええ。いつでも来て」
「その時は醍醐君、美味しいお団子とか作って来てね!」
「はい。腕によりをかけて作りますよ」






小蒔の言葉に、醍醐は意気揚々として頷いた。
その返事に小蒔は嬉しそうに笑い、醍醐の向こうで立ち尽くしている二人に声をかけた。






「緋勇君は来るよね」
「うん。楽しみだね」
「ね! だから京一も、」
「パス」






小蒔の言葉を最後まで待たず、京一はきっぱりと拒否の返事。
京一と言う人物の性格を考えれば、先ず間違いなく返って来るであろう反応だった。

予想の範疇であると当然判っていたようで、小蒔はつかつかと京一に近付き、






「そういう空気読まない発言どうかと思うよ、京一」
「お前ェが言うな」
「ボクがいつ空気読まなかったのさ」
「いつも読めてねェだろが。なァ?」






京一の視線が呼び掛けと同時に、その相手へと向けられる。
相手からの返事はなく、小蒔には返ってそれが引っ掛かったのだろう、眉根を寄せて他の面々を振り返る。
しかし小蒔の疑問に答えてくれる人物は居らず、仲間達は揃って視線を逸らしていた。

視線を彷徨わせている仲間達を見て、小蒔はきょとんと首を傾げる。
そんな彼女に、ほら見ろ、と京一が呆れて溜息を吐いた。


くるりと京一が踵を返して歩き出す。
直ぐに小蒔がそれを追い駆け、続いて龍麻、醍醐、葵もまた足を動かし始めた。






「ちょっと京一」
「煩ェな……とにかくパスだ、パス。やるならお前らだけでやれ」
「なんだよ、それ」






愛想のない京一の言葉に、小蒔は不服そうだ。

小蒔の事だ、明日になったら遠野も誘ったに違いない。
この一年間で築いた仲間達で、なんでもない、のんびりとした平和な思い出を作りたいと思っているのは、京一にも判る。
その事は────むず痒くはあるけれど────京一とて決して嫌ではなかった。


それでも。








「月が紅い内は、御免だな」








呟かれた言葉に小蒔の足が止まる。
京一はそのまま進み、一人、仲間の輪を抜けて暗闇の中に紛れて行く。

その背中が追う事を拒絶しているのは誰の目にも明らかだ。
夜の闇に消えようとする京一を葵が追い駆けようとしたが、足は小蒔の隣まで来て不自然に止まってしまう。
醍醐と龍麻は何も言わず、二人の少女の後ろから、遠くなって行く仲間を見送った。



小蒔が頭上を仰ぐと、先程と同じ、満月が夜闇を照らし出している光景があった。


子供の頃に月の絵を書くと、空は黒で、月や星は黄色で描いていたと思う。
確かに夜空を彩る色といったら、日本人の感覚もあるのだろうが、この二色が常である事が多い。
実際に空を見上げた子供が抱く印象も、似たようなものではないだろうか。

それが成長に従って形容する言葉を覚え、月の満ち欠けや大気の層によって見える色が違うと知る。
時に金色に、時に白く、また青白く変化する微細な光を、小蒔も確かに知っていた。




けれども、紅い月など小蒔は聞いた事がない。











見上げた空に瞬く月からは、淡く青白い、優しい光が降り注いでいた。








































傷が痛むような気がして、京一はコンクリートに寄り掛かった。
包帯の巻かれた胸元を、シャツの上から力任せに握る。
爪が引っ掛かって傷が悲鳴を上げたような気がしたが、そんな事はどうでも良かった。

明らかに傷口が熱を持って全身に行き渡り、それが痛みを通り越した重さに繋がりつつあった。
傷の完治を望むのであれば、今直ぐに桜ヶ丘中央病院に向かうのが正しい判断と言える。



しかし、冷たい壁に寄りかかった京一の足は、其処から前に進まない。




熱の放つ傷口を鷲掴んだまま、壁に背中を預ける。
背中に当たる剥き出しのコンクリートの冷たさが少し心地良かった。


途中まで同じ道を歩いていた仲間達は、どうやら何処かで置いて来てしまったらしい。
自分の行動としては然程珍しい事ではないから、明日になって顔を合わせても、何某か言及される事はないだろう。

だからこそ、京一は臨界点を越した我慢の壁を崩壊させて、こんな醜態を晒す事が出来る。

もしも此処に仲間の誰か一人でもいたのなら、絶対にこうはならなかった。
臨界点を越えた事も無視して、いつもと同じ顔をしてみせる。
それは京一のプライドの為でもあったし、見せれば間違いなく心配して焦る仲間を気遣わせない為でもあった。
どちらに比重が傾いているかは判らないけれど。


……そうは言っても、ついさっきまで自分がいつもの表情を保てていたのかは、京一にも判然としない。
そう考えるのは傷の痛みの所為ではなく、見える視界が異様な状態になっているからだ。






「くそ……!」






目元を掌で多い、視界を黒で塗り潰す。

眼球の奥がぐりゅぐりゅと動いているような、気持ちの悪い錯覚があった。
これと同じ感覚を数年前に嫌と言う程味わっているから、余計に吐き気がして来る。


頭を上へと持ち上げて、見えない天上を仰ぐ。
手の甲に光の暈が零れ落ちているのが判ったが、そうと感じた瞬間、眼球の奥がまた蠢き出す。
まるで外へ外へと出て行こうともがいている様だった。



瞼から手を離せば、世界は未だ暗闇に覆われている。
其処からゆっくりと瞼を持ち上げて───────







紅。

紅。


紅い月。









「─────────ッッ!!!」






息を飲み、京一は俯いて再び瞼を掌で覆う。



紅い月が見える日は、いつも碌な事がない。
あの祭囃子の日も、埋まらない飢餓感に追われ続けた日々も、月はいつも紅かった。

紅い月は不吉の兆しだと言われているが、京一にとっては兆し等と言うものではない。
ほぼ確定事項であって、空に紅い穴が空いている日は、必ず厄介事や災厄に遭う羽目になる。
どんな事があったのかと問われれば、細かい事は覚えていなかったりするのだけれど、それでも“紅い月”が京一にとって面倒事を運んでくる荷馬車であるのは事実だ。


紅い月を一番最近見たのは、然程遠い出来事ではない。
胸の傷が引き攣るほどに近い日だった。



今日は一体どんな厄介事が来るのだろう。
気が重い中で、京一は熱と痛みと、眼球の蠢きが収まるのをじっと待ち続けた。





しかし、厄介事はやはり何処までも、何をしても厄介事なのだ。





故意にアルミ缶を蹴飛ばしたと判る甲高い音が響いて、それが京一の頭部目掛けて飛来した。
俯き目元を掌で覆った京一に、飛来物そのものを確認する事は出来ない。
だが気配で感じ取るのは難しい事ではないし、避けることも簡単だ─────普段ならば。


気付かなかった訳でも、判断が鈍った訳でもなく。
その場と状態から少しでも動くのが面倒で立ち尽くしていると、飛来物は京一の頭部に当たって跳ねた。
中身が半分程残っていたようで、甘い匂いとアルコールの匂いが混じった液体が京一に降り注ぐ。

カラカラと空っぽになった音を立てて、缶がアスファルトの地面に落ちる。
転がった缶は京一の靴に当たって止まり、その上にぽたりと雫が零れた。



目元を覆っていた手を離せば、其処にも液体は浸食している。
囲いをなくした所為で無防備になった目元に、額から流れた雫が引っ掛かってくる。






(……勿体ねェ)






濡れた手を見下ろしながら思った。


頭から被る羽目になった液体は、どうやらカクテルの類らしい。
別段、これが好きな銘柄だった訳ではないが、半分以上も残して棄てるなど、余裕のない生活を送る京一には愚の骨頂。
嫌がらせとしては十分役割を果たしているが、それにしてもやはり、勿体無い。




ゴミを蹴散らし進む足音が聞こえて、顔を上げる。

暗く狭い路地の向こうから、厳つい顔の男達が数名此方に向かって歩いて来ている。
判り易い、卑下た笑みを浮かべながら。


先頭の男が立ち止まると、後ろに並んだ取り巻きらしき男達も止まる。
リーダー役であろう先頭の男の手には鉄パイプがあった。






「久しぶりだな、用心棒さんよ」
「………なんだ、手前ェ」






何処かで逢ったか。
京一には判らないが、相手の目的は予想が付く。
以前大敗した御礼参りをしようと言うのだ。






「なンかお疲れみてェだなァ」
「判ってんなら失せろ。手前ェらみてェな三下、相手してやる気じゃねェんだよ」






壁に寄りかかる京一の表情は、何処か朧だ。
常に強気に相手を挑発し、威嚇する瞳に明滅するのは、頼りない光。

目を覆っていた京一の片手は、またシャツの上から傷元をぐしゃぐしゃに握り締めていた。
頭から被った酒が肌を流れ落ちて包帯に滲み、傷口が嫌な痛みを発する原因になっている。
それが煩わしくて取った行動は、男達に京一が万全の状態ではない事を知らしめる事となった。


にぃ、と男の顔が凶悪な笑みに歪む。
歯にヤニを見つけて、汚ね、と京一は顔を顰めた。






「そう言わねェで、ちょいと遊んで行けよッ!!」






鉄パイプを振り上げ、男が地を蹴る。
京一は一つ溜息を吐いて、壁から預けていた背を離した。



場所が狭い路地だから、どうしても敵は正面にいる状態が限られる。
周囲に回り込めるような小道はないから、挟み撃ちにされる可能性も無い。

正面からの勝負で自分に勝てると思っているのかと、京一は呆れる。
余程自分に自信があるのか、此方を侮っているのか、何れにしても目出度い頭だと思う。
頭の悪そうな顔をしているから、きっと中身もそれ相応にした脳みそは詰まっていないのだろう。


バカ正直に鉄パイプを振り被って目の前で落とす男。
京一は木刀でそれを受け止めて後ろへと流すと、返す刀で男の後頭部を打った。






「アニキ!」
「このガキがァ!」






手に手に獲物を持った舎弟達が一斉に襲い掛かってくる。
しかし、やはり道の制約上、京一に勝負を挑めるのは一人ないし二人が限界だった。






「地の利ってモンをちったぁ考えろよ」






肩と肩がぶつかり合うような狭い場所で、二人が一挙に殴りかかるのは無理だ。
互いに邪魔し合うのが関の山で、結局の所京一に対して無防備になるだけ。
せめて挟み撃ちにするのならもう少しやりようがあるだろうに。

京一が思うように挟み撃ちにして襲い掛かったとして、彼らの思惑通りに行くかは、二割以下の確率になる。
男達と京一の間には、絶対に越えられない実力の差があった。




それでも男達は我武者羅に京一に向かって飛び掛ってくる。

ちなみに、彼らがアニキと呼んだ男は、頭部の衝撃に脳震盪でも起こしたのか、京一の足元で転がっていた。




道を塞ぐように二人揃って突進してきた男達は、木刀の一振りで呆気なく終わった。
狭いお陰で多少手元の扱いが面倒だが、それは相手も同じ事、こうなると実力差で男達は負ける。

時間差を利用して前後に連なって向かって来た二人は、前の一人を蹴飛ばす事で片付いた。


やけくそにナイフやらガラス片を投げつけられても、京一の表情は変わらない。
ふらりふらりと歩を踏んでかわし、避けきれないものは木刀で打ち落とす。
怯んだ男が呼吸を詰めた一瞬の間に、京一は男の眼前に迫り、その顔面に膝を食い込ませていた。



木刀は紫色の太刀袋に入れたまま、止め紐に手をかけてもいない。
それ所かまともに剣を構える姿勢すら、京一は見せなかった。

本気ではないと誰が見ても判る戦い方に、男達は益々怒りを煽られる。
同時に、万全でないにも関わらず呼吸を乱さない京一に、勝てない現実を突きつけられていた。





そのまま、一方的な乱闘は続き──────男達が死屍累々と積み上げられるまで、時間はかからなかった。






「こんなモンかよ」






地面に転がる男達の屍を踏み付け、京一は嘆息する。
これなら吾妻橋達の方がよっぽど手応えがあった。



ただでさえ紅い月の所為で気分が最悪だと言うのに、傷まで熱を持って体も重いと言うのに。
これで喧嘩をするのは流石に重労働だったようで、体はより一層の気だるさを露呈させる有り様になっていた。
ついでに、酒の所為かも知れない、頭の奥がぼんやりとしてくるような気もする。

良くない事が重なり放題な上に、喧嘩を吹っ掛けてきた相手は、対して実力のないチンピラ集団。
張り合いまでもがないとなっては、気分の悪さによるストレスの発散も損ねた事になる。


やはり碌な事にならない、と京一は酒臭くなった前髪を掻き揚げて呟いた。




─────直後だ。







「ンのガキャァァアッッッ!!!」







獣の怒号のような野太い声が、京一の背後で上がった。
茫洋とした意識に、その声は酷く響き、京一の体が一瞬硬直する。


それが命取りだ。


背後から伸びてきた熊のように大きな手が、京一の両の手首を捉える。
レスラー体系の醍醐を悠に越える巨躯を持った男は、そのまま京一の両腕を持ち上げ、京一の自由と抵抗を奪う。

手首をギリギリと締め付けられて、京一の喉から僅かに呻く声が漏れる。
握ったままの木刀を取り落とすことはなかったが、手首から先の感覚が徐々に鈍って行くのが判る。
血管が圧迫され、血の循環を妨げとなっているのは、誰の目にも明らかだった。






「て、め……離せ、この木偶!」
「ふ、ふーッ、ふぅぅううううッ…!」






肩越しに睨む京一だが、男は鼻息を荒くするだけで全く効果がない。
顔も目も赤くした男は完全に興奮しきっている。


腕を捉えられた被虐対象を見て、地面に落ちていた屍達がのろのろと起き上がり始める。
中には肋骨を数本折ったであろう人間もいたが、それらも表情は光悦としている。

頭のラリったゾンビみてェだ、と意味のない事を考えた。






「いい様だぜェ」
「そりゃどーも」






顔を近付け、爛々と目を輝かせるリーダーに、京一は唾を吐いてやる。
びちゃっと音を立てて、それは男の顔を汚した。

リーダーの顔が一気に赤くなり、






「オラァッ!!」
「――――――ッッ……!!」






拳が京一の腹を抉る。
胃やら腸やらを圧迫されて呼吸が出来ず、京一は目を見開いた。

衝撃そのもののショックが引いても、腹部には強い痛みが残り、咽返る。






「げッ、ごほッ、おぁッ…!」
「うらッ!」
「ぐッ……!!」






二発目、三発目が続けて打ち込まれる。
瞬間的に丹田に力を込めて内臓を守ろうとするものの、一発目のダメージが思いの外残っているのか、衝撃を弾き切れない。


身動きが出来ずとも抵抗を見せる京一に、男の拳の方が先に根を上げた。

紅くなった手の甲を摩ると、後ろで京一の様に悦を浮かべていた舎弟達に向かって手を出す。
察しの良い一人が無言の催促を察知すると、地面に転がっていた鉄パイプを渡した。


男はバットを構えるように鉄パイプを握ると、せぇの、とわざとらしい掛け声をかけて腕を振るった。
全力で振るわれた鉄パイプは、ぶぅんと耳障りに風を切る音を立て、続け様硬い音を響かせる。
その音が自分の頭部で鳴ったので、京一には音よりも激痛に脳が揺さぶられるような気がした。

殴られた場所が切れたのだろう、生温い液体が額を伝い落ちてくる。
続け様横顔をパイプが打って、この所為で口の中が切れたのが判った。



振り被り、打ち下ろした一撃が、目測を誤ったのか、頭部ではなく胸を殴打した。






「―――――あ……!」






全身を襲った激痛に、思わず声が上がる。
瞬間的に強張った躯が弛緩した時には、全身から脂汗が滲み出ていた。


それまでとは明らかに様子の違う京一に、男も気付いた。
項垂れて荒い呼吸をする京一へと顔を近付け、細い顎を捉まえて上向かせる。






「なんだ? そんなに痛かったか?」
「……屁でもねェよ、お猿の大将のやる事なんざ」






ぴしり、と男の額に青筋が浮かんだが、京一は表情を変えなかった。


そんな京一を見下ろしている内に、男は緩んだ彼の襟元から覗く白に気付く。
京一の不調の原因を其処にあると睨んだ男は、にやりと口端を上げて、京一の赤いシャツの裾に手をかける。

力任せにシャツを捲り上げられれば、幾重にも包帯を巻いた様が露になった。






「へェ。“歌舞伎町の用心棒”も落ちたモンだな、こんな有り様にされるたァ」
「……るせェよ」






見られたくないものを見られた。
自分自身でさえ、見たくもない代物だと言うのに。


京一の苦虫を噛み潰すような表情に、男はサディスティックな笑みを浮かべ、再び鉄パイプを構える。
先程と同じくせぇの、と掛け声をかけて、腕を振るう。

包帯に巻かれて庇われてあるとは言え、それは日常の些細な衝撃を防ぐ為のものでしかない。
力任せに、武器を使って与えられる衝撃は、包帯やガーゼ程度では庇い切れなかった。






「……ッあ…! がッ!」






一発、二発。
三発、四発。

裂傷の上を鈍器で打たれ続ければ、京一とて痛みを感じずにはいられない。

その上、頭部を殴られた所為だろう。
視界がブレるような感覚がする。


《力》を使えば、この程度の人間達を蹴散らすのはものの数秒もかからない。
腕を振り解く程度に《力》を行使するなら、許される範囲になる筈だ。
ついでに骨の一本位折ってしまっても、命に別状がないなら問題ない。

しかし全身の倦怠感は、一瞬の氣を練る為の気力すら阻害し、男達にされるがままサンドバッグになるしかない。
握ったままだった木刀が、血の気の失せた手から滑り落ちて、地面に転がった。



男が頭上へと、鉄パイプを大きく振り上げる。
間違いなく、その行き先は自分の頭だろうと京一にも判った。

だが京一の視線は男を通り過ぎ─────その向こうに浮かぶ、紅い穴を見ていた。







紅い穴。

紅い月。





紅い世界。











(やっぱり、碌な事がねェ──────)












その胸中の呟きを最後に、頭部の衝撃を待たず、意識はブラックアウトした。