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鉢巻乾いてねぇか、と言う左之助に、剣心は洗い物の手を止めて立ち上がり、物干し竿へ足を進めた。
きちんと糊付けされた悪一文字の半纏が、風に翻る。
そちらは触れてみるとまだぐっしょりと濡れていて、着れたものではなかったが、
並べて干していた赤い鉢巻の方は、身に着けるに差し障りない。
「ほら、左之」
「おう、ありがとよ」
ようやく手元に戻って来た鉢巻に、左之助も嬉しそうに礼を言う。
額に当てて慣れた手付きで結び終えると、満足そうに笑う。
やはり、左之助にとって“赤報隊”は特別なのだ。
隊員皆が身につけていた赤い鉢巻は、今となってはその名残を形にする唯一の物。
この原色に込められた思いは、他者には到底想像もつかないだろう。
左之助がひょいと縁側に腰掛けると、その隣に弥彦も座った。
剣心は残りの洗い物を済ませる為、水桶に手を入れる。
「風呂はどうだったでござるか?」
「ん? あー……ま、のんびり出来たしな。悪くはなかったぜ」
言いながら、ちらりと左之助は弥彦を見遣る。
風呂場での失態を知っている唯一の人間だ。
言うんじゃねえぞと釘は差したが、何せ弥彦だ。
何かの調子に口を滑らせないとも限らない。
だが今回は言うつもりはないようで、剣心の目線に気付いた弥彦は、左之助の言葉を肯定の意として頷く。
剣心は少し物言いたげな顔をしたが、弥彦と左之助が揃って目を逸らすと、苦笑して追及するのを止めた。
「それは良かったでござるな」
「おう。一応、嬢ちゃんに感謝だな」
温かい風呂なんて久しぶりだったし、と呟く左之助。
足音がして振り返ると、薫の姿があった。
「あ、左之助、お風呂どうだった?」
「まぁいい加減だったぜ。ありがとよ、嬢ちゃん」
「ねっ、お風呂入って良かったでしょ」
満足げに嬉しそうに言う薫に、左之助も笑って応える。
「もう鉢巻してるの? もうちょっと乾いてからの方がいいんじゃない?」
「コイツがねぇとどうも落ち着かねェんだよ。洗って貰っただけで十分だ」
鉢巻の端を指先で弄りながら言う左之助に、そう、と薫も納得したらしい。
他人にしてみれば赤い布切れでしかないソレが、左之助にとってどれほど大切なものか。
薫も理解しているし、自分もいつも身につけているリボンがないと落ち着かない事がある。
濡れている訳でもなし、本人が良いと言うなら良いだろう。
だが薫の手には裁縫道具があり、半纏の方は繕うまで返す記はないらしい。
それまで、このぶかぶかの弥彦の寝巻きを借りたままなのか……と左之助はまた落ち着かない。
あの半纏も鉢巻同様、自分の身に馴染んだものなのだ。
乾いたら早く返してもらって、寝巻きも弥彦に返したい所だが、薫はそうも行かないようである。
まぁ、ボロボロなのは確かにみっとも無い。
一人暮らしをして長いから、身の回りのことは一通り出来るが、やってくれると言うなら甘えよう。
「剣心、半纏乾いたら私に貸してね」
……薫もすっかりやる気であるし。
剣心は苦笑して頷くと、洗い終わった洗濯物を干し始めた。
作業を続けながら、剣心が呟く。
「しかし、何故そのような姿になったのでござろうなぁ」
パンパンと着物の皺を伸ばしつつ呟く剣心に、オレが聞きたい、と左之助は返す。
「まるで覚えがねェよ」
「酒の摘みに変わったものを出されたとか……」
「いや、特にそんなもんはなかったな。皆で一個の皿から突いて食ってたし。オレ一人食ったってモンはねェぞ」
「昼間はどうしていたでござるか?」
剣心の問いに、左之助は腕を組んで考え込む。
昨日の昼間は、神谷道場で昼飯を集った後、何をするでもなくブラブラと町を歩き回っていた。
頭の中にあったのは晩飯はどうするかという事で、その時は修の所に行く予定はなかった。
無為に時間を過ごした後、目的なく歩き回るのが面倒になり、克弘の所に行った。
しかし新聞屋としての情報探しの真っ最中で不在、空振りに終わる。
宛が外れてさてどうするかと、自身の住む破落戸長屋に戻り、夕方までゴロ寝。
目が覚めた時に丁度修が長屋にやって来て、智や銀次などの顔馴染みの面子に揃って、修宅で夕飯にありついた。
食後は安酒を飲みながら雑談に花が咲き、面子の半分程が潰れた所でお開き。
家の近い者は運んでやり、家が遠い、歩けぬ程酒の酔った者は修宅にお泊りとなり、
左之助は意識もはっきりしていたし、夜風に当たって酔い覚ましをしながら自分の長屋に帰り着き、眠った。
――――――別段、変わったことなど何もない。
「……碌でもない生活してるわね……」
「思いっきりプータローだな」
「煩ェな、本題は其処じゃねえだろ」
薫と弥彦の突っ込みに、左之助はムッとしながら言う。
「酒も飯も、ダチ同士で持ち寄ったモンだったし、自分で勝手に徳利から注いでたぜ」
「うーん……仮にその酒や飯に何か入っていたのなら、他の者にも同様の事態が起きている筈でござるな」
「……って剣心、もしかしてオレのダチが食いモンの中になんか仕込んだと思ってんのか!?」
剣心の言葉に、左之助の声に険しさが篭った。
言葉が足りなかったかと剣心は慌てて首を横に振り、眉尻を下げる。
「いや、左之助の友人が何かしたと言うのではなく、買った酒や調味料に何か混じっていたのではと…」
店で買った酒や調味料の細かい成分など、判る筈もない。
左之助の友人達が意図していないに関わらず、その類のものを偶然手に入れ、
そしてこれもまた偶然、昨日の夕食時に持ち寄ったのではないかと、剣心は言った。
友人と疑っている訳ではないと言う剣心に、左之助も落ち着いた。
「ともかく、それも確認せねばならないでござる」
「昨日集まったのは、修に知に銀次だろ。あと……」
「……結構集まってたんだな」
指折り数える左之助に、その数を見た弥彦が呟く。
裏社会に関わらず、左之助は顔が広い。
そして左之助の一本気な性格に惚れ込んだ者達も多く存在する。
左之助が集まろうと言えば、皆喜んで集まるのだろう。
右手の指では足りなくなって、左之助は名前を連ねながら、左手も折っている。
これを全て当たって尋ねて回るのは骨が折れそうだ。
左之助が思い出し終えた時、両の指は一本だけが残っている状態だった。
「ざっとこんなもんだな」
「その中で、家を把握しているのは?」
「オレが知ってんのは……6人だな。後の3人は、大抵誰かのトコぐるぐる回って寝泊りしてるみてェだ」
「今日は小国診療所に行くから……半日でそれを全て周るのは少々キツいでござるな」
「そうか?」
確認するだけだろうと軽い調子の左之助に、剣心は苦笑し、
「いつもの左之なら楽勝でござろうが、今の左之助は子供になっているのでござるよ。全部周ろうとしたら陽が暮れる」
「だからって、問題はねェだろ」
「ダメよ!!」
横合いから声を上げたのは薫だった。
「陽が暮れてからも子供が破落戸長屋の近くをウロウロしてたら危ないじゃない!」
「あのな、あの辺にだってガキは住んでるんだぜ。碌でもねェ場所みてェに言うなよ」
「でも夜中に歩いてる子はいないでしょ」
「……そりゃ、あんまり見ねェがよ……」
「ほら。どっちにしろ、小さい子が夜中に歩き回るなんて言語道断だわ」
きっぱりと言い切る薫に、左之助も、横で聞いている弥彦も若干押され気味だ。
左之助としては、さっさとこの事態がどんなものなのか把握して、元に戻りたいのだ。
何より左之助にとっては破落戸長屋の周辺も身に馴染んだ土地。
今更何を心配することがあるのかと言う気分なのだろう。
だが、これについては剣心も薫に賛成だった。
「左之、もう少し自分の姿形を自覚した方が良いでござる」
「中身はオレのまんまなんだから、問題ねェだろうが」
「背も縮んで、恐らく骨格や筋肉も昔のものになっている。その右手、いつもの調子で打てば、逆に痛めてしまう事になる」
包帯もなく、拳ダコもない、まっさらな柔らかい掌。
拳を握った所でその大きさはたかが知れている。
風呂場でも見つめた自分の小さな手に、左之助は顔を顰めた。
「子供が夜半に歩き周れるような場所でない事は、あそこに住んでいるお主が一番よく判っている筈でござるよ」
気が急く気持ちが判らないでもないが、焦っても仕方がない事であるのも確か。
左之助は唇を尖らせ、恨めしそうに剣心を見上げ、
「……今朝だって、その長屋から一人で此処まで来たんだぜ」
「それもあまり感心はせぬよ」
「…………」
胡坐を組んだ足に手を乗せて、左之助は俯いた。
項垂れる所作が叱られて拗ねる子供のようで、剣心はこっそりと笑う。
一人前の男の意識のある左之助にとって、今の状況がどれほど屈辱的か。
だが如何に当人が大丈夫だと言っても、周りはそうは行かないものだ。
どれ程屈強な相手が立ちはだかろうと、左之助ならば剣心も心配しない。
しかし、それは左之助の実力があり、剣心がそれを認めているからこそ。
今の左之助には経験はあっても、身体がその経験から遠い状態になっている。
大の大人を相手にして、今までのように毅然とはしていられない。
小さくなった手を、ぎゅうと握り締める。
無骨な筈だった手は柔らかく、ふと、もう十年も逢っていない妹を思い出した。
彼女の手もこんな風に柔らかくて、守ってやりたいと思った。
今の自分は、その“守られる手”しか持っていない。
――――やっぱり、早く元に戻りたかった。
「――――――左之助」
呼ぶ声にも、左之助は顔を上げなかった。
構わず、剣心は続ける。
「原因も判らぬのだから、今は焦っても仕方がない。気持ちは判らぬでもないが、今は順序良く行くでござるよ」
洗濯物を全て干し終え、桶の水を流しながら言う。
それを鼓膜だけで捕えながら、左之助は息を吐いた。
「……おう…」
いつものはきはきとした声とは程遠かったが、それでも返ってきた言葉。
風に翻る悪一文字が、早く持ち主のところに戻りたがっているように見えた。
次
またちょっと真面目な話。
子供扱いする周囲と、判りはするけど癪に障る左之助。