例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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【相楽少年記】 神谷道場編 参








「左之助、どうだ?」
「あー……いい湯加減だぜ」







風呂の外で湯炊きをしていた弥彦の言葉に、左之助は気のない返事。
いささか疲れた声に聞こえるのは、弥彦の気の所為ではないだろう。

風呂に入らせて貰えることは有り難いが、薫にすっかり子供扱いされているのが応えているようだ。


追いかけっこの様子を思い出し、弥彦は確かにあれは大変だった、と思う。
弥彦だって廻りにしてみれば十の子供であるが、それでも男だ。
薫が年頃の娘で在る事は判っているつもりだし、一緒に風呂に入るなんて言語道断。
左之助に至っては十九歳で、恋仲でもない女と二人風呂に入る男はいないだろう。
これが湯屋ならまだしも。

なのに小さくなった左之助に、薫はすっかり母性本能を擽られ、構いたくて仕方がないらしい。
中身は十九歳のままの左之助にとって、それは屈辱的な話だ。



午後には、小国診療所に剣心が連れて行くと言っていた。
それで原因と治療法なりが判れば良いが、医者に見せて片付くものか甚だ疑問が残る。

そして、仮に原因と治療法が判ったとして。
すぐに元に戻れるのかと言ったら、そう簡単な話ではないと思うのだ。


恐らく、元の姿に戻るまで、左之助はこの神谷道場に居候する事になるだろう。
破落戸長屋に子供が一人暮らしなんて、弥彦にしても物騒だと思う。
言えば左之助は怒るかも知れないが、こればっかりは如何にもなるまい。




ぱちぱちと爆ぜる火に薪を投げ入れ、こんなもんかと弥彦は湯炊きを終えた。
足元の埃を払うと、弥彦は風呂場の格子窓に手を引っ掛け、壁に足をかけて中を覗き込む。


風呂桶の中にいたのは、やはり子供。

何度見ても信じられない光景だが、確かに此処にいるのは左之助だ。
言葉遣いも何気ない仕種も、よく知る男をそのまま映している。



視線に気付いた左之助が顔を上げた。







「なんでェ、なんか用か?」
「ん? いや、別に用はねえけど」







風呂の底に足が着かない左之助は、湯船の縁にしがみついている。
そんな左之助を見る事があろうとは、夢にも思っていなかった……思えるものでもない。


つくづく、弥彦は不思議な気分だった。







「……本当に左之助なんだよな」
「だから、そう言ってんだろ」
「だってよ、オレの知ってる左之助はもっとデカイ奴だし」






弥彦が知っている左之助は、十九歳の姿だけ。
誰にでも過去はあるものだけれど、弥彦はあまり想像することが出来ない。
剣心の過去も、薫の過去も、勿論あるけれど、弥彦にとっては遠い時代の事のようだった。

あの大きな背中にも、こんなに小さかった時代があったのだ。







「意外と小さかったんだな、左之助って」







剣心のように小柄ならば、想像できた。
けれど左之助は一等背が高く、蒼紫や斎藤と並んでも然程の差はないだろう。
だから自然と弥彦は、昔から大きかったのではないかと思っていた。

弥彦が想像していた事は、言葉なくとも左之助には伝わったらしい。
湯船の縁に腕を引っ掛け、沈まないように保って、左之助は自分の右手を見つめた。






「そうだな……この頃は、まだ小さかった」
「いつからあんなにデカくなったんだ?」
「あんまりはっきり覚えちゃいねェが、十三、四の頃だったか。赤報隊にいた時は、隊長も見上げねえと顔見えなかったし」
「…赤報隊にいた時って、オレと同じ年ぐらいだったんだっけ」
「ああ、そんくらいだな」






拳ダコすら消えた右手を、握ったり開いたり。
しながら左之助が何を考えているのか、弥彦にはよく判らない。

過ぎた日を振り返るほど、弥彦はまだ、成長していない。
成長の真っ只中にいる今、過去を振り返るほどの猶予と時間はなく、それほど大きな出来事もない。
両親を失ったことは今でも思い返せば寂しいし、菱卍愚連隊の事だって強烈な記憶だ。
だが、それにも勝る激烈な日々を駆け抜けている今、過去よりも前に進むことの方が弥彦にとって大切だった。






「……オレも、でっかくなれるよな」
「なんでェ、急に」
「…いや、なんとなく」





自分よりも小さかった左之助が、あんなにも大きくなれたのなら。
いつか自分も大きくなれるのだろうかと、弥彦は思う。

視覚的な話だけではなく。
剣心も、左之助も、弥彦よりもずっとずっと前を走っている。
薫はそれで普通なのだと、十歳という年齢を考えれば無理はないと言うけれど。
いつか大きくなれたら。








ぼんやりとそんな事を考えていたら、不意に、ばしゃんと派手に水飛沫が上がった。









「――――左之助?」








音の出所など、其処しか在るまい。
弥彦はそろそろ辛くなってきた姿勢に少しだけ無理を強いて、今一度、格子窓から風呂場を覗き込む。



――――先程まで、湯船の縁に掴まっていた子供の姿はなく。
湯場から上がった訳でもない様子に、弥彦はまさか、と思い。







「左之助!!」






いつだって心配無用の男に対して、こんな切羽詰った声をかけるとは思わなかった。



返事はなく、弥彦は格子窓から飛び降りると、急いで風呂の入り口に回る。
戸を開けると立ち込める湯気に一瞬視界を奪われた。

着物の袖を捲り上げ、腰掛け椅子に上り、濡れるのも構わず湯船に腕を突っ込んだ。


掴まえた肩を思い切り引っ張り上げる。






「―――――っは……! ぜ、はぁっ…!」
「左之助、大丈夫かよ!?」






縁を掴むのに疲れたのか、それとも湯当たりか。
自分がすぐ外にいて良かったと、弥彦は心底安堵した。

風呂炊きを終えて稽古にでも行っていたら、こんな事態になっても気付かなかった。
最近ちらほらと聞く、銭湯で溺れる子供を思い出し、弥彦はゾッとする。
幾らなんでもそれはないだろうと思っていた薫の心配事が、本当に起きるなんて思ってもいなかった。


真っ赤な顔の小さな左之助を、弥彦は腕の力だけでなんとか持ち上げ、湯船から外に出してやる。







「げほっ、っぷ……はーっ……し、死ぬかと、思ったぜ……」






弥彦に支えられて、左之助はぐったりと項垂れる。






「まさか、お前ェに助けて貰う日が来るとはな…」
「しかも風呂場だぜ。なんか間抜け……」
「言うな」






弥彦の呟きに、苦々しげな顔をして左之助は言う。






「薫が聞いたらホラ見ろってとこだろうな」
「…言うんじゃねえぞ。こんなの知られてたまるか」
「言う気はねえけど、危ないのは確かだろ」
「元に戻っちまえば問題ねえよ。ちょっと手ェ滑っただけだし、もう二度とねぇから」






濡れて張り付く前髪を掻き揚げ、左之助はきっぱりと言い切った。







「で、どうするんだ? まだ入るのか?」
「あー……いや、いいわ。上がる」






ちらりと湯船を見遣って出た答えは、弥彦も予想通りだった。
あんな目にあった後ですぐにもう一度浸かりたいなんて、其処まで風呂好きではない左之助だ。
薫が散々言っていた埃も十分落ちた事だし、と左之助は手拭で身体を拭いていく。


なんとなくその背中を見ながら、やっぱり小っちぇな、と弥彦はぼんやりと思った。
右手が包帯に覆われていないのも、晒しもないのも、なんだか目の前の子供の全てが不思議でならない。
中身がそのままで、身体はすっかり子供になってしまっているのだから、まずその事態そのものが不思議だらけだが。




小さな左之助の身体は、まだ発展途上と言うにも足りない。
歳相応の肉はついているが、鍛えられた筋肉はなく、さっき掴んだ肩も酷く薄かった。
長身の割りに細身なのは確かだったが、ケンカで鍛えられた身体は伊達ではないのだ。
飛天御剣流を持ってしても倒れることのなかった頑丈さを、弥彦はまだ覚えている。

しかし目の前にある子供の背中は、記憶にあるものよりとても小さく、頼りない。
筋金入りの意地っ張りと負けず嫌いは、恐らく生来からのものだろうが、身体付きは後天的なものだったか。
打たれ強さは天性のものらしいけれど。


壊れかけていた右手は、今は弥彦よりも小さく、柔らかい。
子供らしく大きな瞳は成長後の面影を今から宿しているが、睨み付けられても、子供の生意気程度にしか見られまい。

何もかもが自分の知っている男とは程遠くて、弥彦は首を傾げる。
何度も確認したけれど、これが本当に左之助なのかと。




そうしている間に、左之助はさっさと弥彦の襦袢を羽織っていた。
柄のない真っ白な襦袢はやはり今の左之助には大きいらしく、裾合わせに梃子摺っている。







「なぁ、悪ィが持っててくんねぇか?」
「いいぜ」






合わせた襟元を持ってやると、左之助は帯を手早く結ぶ。


左之助が襦袢を着ているというのも、また変わった風体のような気がする。
いつも半纏に細袴だから、なんでも珍しく見えてしまうのだろう。



これでよし、と左之助が息を吐いて、弥彦も支えていた襟を放す。
その時見えた帯の結び目に、弥彦は笑った。






「お前、結ぶの下手だな」
「煩ェ、解けなきゃいいんだよ、こんなモンは」





真ん中から曲がった位置にある結び目。
左之助はこれで十分だと弥彦の横を通り過ぎる。
いつもの半纏が乾くまでで良いのだから。






「それより、剣心何処だ? まだ洗濯してんのか?」
「多分な。多分庭にいると思うけど、まだ半纏乾いてないと思うぞ」






弥彦の言葉を最後まで聞かず、左之助はさっさと言ってしまう。
その小さな手が頭を何度も触っているのを見て、ああそうかと弥彦は気付いた。

いつも其処にある鉢巻がない。
それが落ち着かなくて、それだけでも早く手元に取り戻したのだろう。











庭に向かう小さな背中を追い駆ければ、あっさりと追いつくことが出来て。
やっぱり不思議な、奇妙な感じに、弥彦は偶にはこんな日もあっていいかと思う事にした。

















弥彦と仔左之。なんだか真面目な話になりました。
明治の初めはまだ自宅に風呂というのは少なかったようですが、話の都合上書いてしまいました(←風呂場で溺れる左之が書きたかった…)。

弥彦は色んな意味で難しい……
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