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健康的な生活を送る弥彦が寝入った頃、左之助は道場を後にした。
それを見送ったのは剣心一人であったが、薫もその気配が遠退くことには気付いていた。
門で挨拶程度の言葉を交わした後、左之助は振り返る事無く去っていった。
その背中が破落戸長屋に帰るとはそう思えず、剣心は小さく溜め息を吐く。
最後の最後まで結局、何があったのかと問いかけることは憚られてしまった。
また左之助も、最後の最後まで“いつも通り”だった。
角を曲がって背中が見えなくなると、剣心もくるりと踵を返す。
門の後ろに薫が立っていた。
お気に入りのリボンは既に解かれて、髪は下ろされて風に流れていた。
言葉を探るような表情をする薫に、剣心はすぐに合点が行った。
左之助の様子が常と違う事に、彼女も気付いていたのだろう。
昼間に見た風景と合わせて、気の知れた友人の事が気にかかったのか。
いつも勝気で噛み付いているけれど、優しい彼女に剣心は小さく微笑んだ。
「左之の事、でござるか?」
言いあぐねているらしい薫に代わり、剣心自らが投げかける。
薫は少しの間瞳を彷徨わせた後、頷く。
「左之助の事だから、賭博に負けたとか、そんな事かなとは思ったんだけど…」
その日その日暮らしの生活をしている左之助である。
豪放磊落な性格で、彼が本気で落ち込んだ場面を自分達は見た事がなかった。
どうあっても弱気な姿を見せたくない彼だから。
右手が使えなくなった時だって、左之助は一つも悔やんだ様子を見せなかった。
その壊れた右手に何が詰まっていたのか、彼自身が何よりもよく知っている。
そんな彼が束の間落ち込んだ風な溜め息を吐いた時、大概は日々の生活の愚痴零しが付属する。
だが、今日はそれとも様子が違った。
「どうでござろうな……少々、気掛かりと言えば気掛かりか……」
左之助は強い。
闘いに置いては勿論、その心も。
だがその根まで芯まで打たれ強いのかと言われれば、それは否。
人は誰でも脆い部分を持っていて、だからこそ強くなろうと生きて足掻く。
左之助は人一倍足掻いて足掻いて生き抜いているから、強く見えるけれど。
子供の頃に一番大切だったものを失ったから、二度とその悲しみを繰り返したくないから。
……其処が左之助の、一番強くて、脆い部分。
「とは言え、真っ向切って問う訳にもいかないでござるなぁ…。左之には左之の思うところもあるだろうし…」
「思い過ごしならいいんだけど………」
薫の言葉が真実となるか否か、それは明日になってもう一度顔を合わせた時に判るだろう。
だがその日暮の左之助が毎日道場に来るかと言えば、今ではそうではなくなっていた。
幼馴染との再会を果たしてからはそちらに行っている事も増え、舎弟達と街に繰り出している事も多い。
右手の為に定期的に小国診療所に赴いてはいるが、時間は判らなかった。
明日、左之助と逢えるか否かは、左之助の気分次第。
「明日、様子が変わらぬようなら、それとなく聞いてみるでござるよ」
薫や弥彦が問うたのでは、のらりくらりとかわすだろう。
剣心相手であれば、左之の気も応える方向へと向くかも知れない。
左之助の根性を叩き直したのは、他でもない剣心だ。
だから知らないが、左之助は剣心を他の者とは違う意味で信頼している。
剣心もまた、左之助に抱く思いは他の者ともまた違う。
巣立ったばかりで危なっかしい若鳥を遠目に見守るような、保護者のような気分。
無為に手を差し出すことはないし、信じているけれど、束の間その手が必要とあらば差し伸べる。
左之助がその手を拒む事があっても、剣心の彼への瞳は常に温かな色を持っていた。
剣心の言葉に安心したのか、薫は小さく頷いた。
「さ、もう寝なきゃ。明日は出稽古だから、留守番お願いね」
「あい、判った」
「門の戸締りしておいてね」
くるりと踵を返した薫は、少しばかり軽くなった足取りで寝所へ向かう。
その背を見送った後で、剣心は神谷道場の門を閉ざす為に向き直る。
が、扉を閉めようとした直前、手を止める。
門扉の小さな隙間から、道が見える。
見慣れた道風景だった。
この闇色の向こう側に、あの青年は消えて行った。
破落戸長屋に戻るのか、飲みに行くのか。
どちらにしても、きっとその背中は独りでいるのだろう。
夏の始まりの風が吹く中で、独り全てを拒絶して。
それが束の間の事であれば良いのだけれど。
あの強がりな背中が、本当は酷く淋しがり屋だと知る者は、少ない。
彼ならば大丈夫、彼ならば心配はいらない……それは信じられているからこそ向けられる安堵の言葉。
そして彼もその言葉通り、常に気丈に振る舞い、小さな不安程度は笑って吹き飛ばす。
凪の似合わぬ男らしく、豪快に笑って。
けれども大切なものを失い、道を彷徨い続けた時間は酷く長い。
誰に心を許すことも出来ず、自分自身を赦す事もなく、周りも自分自身も責め続けた、十年間という月日。
それが容易く薄れないことは、何よりも剣心自身がよく知り、感じていた。
消えない傷を抱き続けて生きていくのは、とても窮屈で、苦しいものだ。
例え新たに温かい場所を見つけても。
もう殆ど骨格の出来上がった体躯に、まだ成長し切らぬ心を抱く、その命。
―――――――――相楽隊長
時折、その名を口にする時、彼はとても幼く笑う。
一番大切な思い出を取り出す時、彼は小さな子供に戻ったようだった。
…………それでも、左之―――――……
彼がどんなに昔を懐かしみ、浮かぶ顔に思いを馳せても。
………時代(とき)はさかしまには流れぬよ―――――………
それでも人は、思い出さずにはいられない。
一番優しく、穏やかで、一番悲しかったその記憶を。
愛され左之が好きなもんで……
剣心、微妙に保護者な心境。