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賑やかな夕餉を終え、闇色の滲んだ空の下を、左之助は見上げていた。
それを見つけたのは薫で、つと首を傾げる。
食事時はあれだけ騒がしく弥彦と争っていた彼が、すとんと何か零れたように静かだったのだ。
次いで思い出したのが昼間の風景であったのだが、かと言って何があったと問えるような雰囲気でもない。
問うた所で「なんの話しでェ?」と問い返されそうな気もする。
夏間近になってすっかり陽が長くなった。
けれどもそろそろ夜と言って良い時分である。
遠くの東空には、既にちらりほらりと星の光が覗くようになっていた。
そんな時間に、この青年は何をしているのだろうか。
道場と門の丁度真ん中辺りで、左之助は一人、空を仰いでいる。
夕闇に染まっていく空を見上げる瞳は、いつもと変わらず釣りあがった勝気なもの。
しかし其処に薄らと滲んだ色が何処か寂しそうに見えた。
確か薫よりも一つ年上であった筈だが、何故かその時ばかりは、薫にはそうは思えなかった。
道端で迷子になって立ち尽くす小さな子供が不意に脳裏を掠め、薫はぶんぶんと頭を振る。
それからもう一度左之助を見ると、左之助は寸分違わぬ姿勢で其処に立ち尽くしていた。
白半纏に染め抜いた悪一文字が柔らかな風に揺れている。
(……何かしら)
感じた違和感は、なんだったのだろう。
昼間見た光景を薫は忘れていなかった。
その所為だろうか。
いつも真っ直ぐで、猪突猛進という言葉がよく似合う男だ。
何かと莫迦呼ばわりされている(薫も時々する)が、勝負事においてはかなり頭が切れる。
時に辛辣に物事を判断する彼は、確かに酸いも甘いも知っているのだろう。
それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、前を見据えて突き進んでいく。
左之助は生粋の兄貴肌だ。
破落戸の中に左之助を慕う者は多く、皆一様に左之助の男気に惚れている。
女子供から怖がられることも滅多にないようだった。
面倒見は、良い方だろう。
左之助を堂々と子供扱いするような節を見せるのは、薫が知る限り、ごく少数だ。
薫は左之助をそんな風に見たことはない―――筈、だ(何せ言動が言動なので)。
弱味を見せることを、左之助は極端に嫌う。
それは自身の持つプライドの所為もあるだろうし、生来の負けん気と聞かん気の所為もあるだろう。
それが今、何故か。
(………食事の時は、普通だった筈だけど……―――――)
弥彦と肉の取り合いをしていた時の様子を思い出しながら、薫は思った。
良い歳をして十歳の弥彦と同じレベルで張り合う左之助に、薫は何度怒鳴ったか判らない。
毎日のように集りに来る―――来なければ来ないで、他所で集っているらしい―――左之助に一時は迷惑したものだが、
今となっては賑やかしが増えたようで、気の良い仲間の来訪を、薫も快く思っていた。
食費の足しだけでも出してくれるのなら、それこそ本当に文句なしなのだが……
プータロー状態の左之助に言った所で無駄だろう。
力仕事を頼めば渋面になりながらも引き受けてくれるし。
薫とて賑やかな夕餉は嫌いではないし、事情も何もかも知って傍にいてくれる仲間がいるのは嬉しい事だ。
だからそれなりに、左之助のことは知っているつもりだった。
必要以上に自分の事を話そうとしない彼だが、それは教えたくないからではなく、話す必要がないから。
過去がどうあれ今を生きているから、無理に昔の詮索をしようとは思わず、また彼も言わないのだ。
彼の、きっと一番の要になっている部分は、会った頃に聞いたから。
けれど、この青年のこんな背中は、見た事がなかった。
(…やっぱり、何かあったのかしら)
そう考えると、鼓膜の奥で草笛の音が聞こえたような気がした。
ズボンのポケットに両手を突っ込んで、左之助はただ空を仰ぐ。
吹く風が赤い鉢巻を揺らしていた。
まるで何かを探すように、左之助は空を見上げている。
今日は新月の日だったか、夜闇を照らす金色は顔を出さなかった。
少し汚れの目立つ白半纏が、そのまま闇色に消えて行きそうに見えた。
真っ直ぐに伸びている筈の背は、今日だけは何かを耐えようとしているような気がして。
空を見上げているのは、零れ落ちそうな何かを誤魔化す為のもののようで。
宵闇の中、翻る悪一文字は酷く頼りなく見えた。
薫視点。
女の子は苦手です。