例えば過ぎる時間をただ一時でも止められたら。 忍者ブログ
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visual hallucination 前編


















紅い、紅い、
血の色に染まる。


世界も、自分も、何もかも。
























【visual hallucination】



































紅い月。
それを見るようになったのは、いつだっただろうか。





子供の頃にも何度か見たような気がするが、いつの頃からか、目を向ければ緋色に見える事が増えた。

余りにも繰り返し見られるものだから、自分の目が可笑しくなったのかと思った事もある。
特に中学生の頃、目の前にあるのが喧騒と苛立ちと血錆で出来ていた頃は。




記憶を辿り、緋色の月がはっきりと瞼の裏に焼き付いた最初の日を、京一はまだ覚えている。

祭囃子と行き交うヒトのざわめきの中、劈くように響いた悲鳴と、動かなくなった見慣れた大人の手。
地に伏した大人の腹から赤黒い液体が溢れて地面に染みこんで行った。
その日見上げた空にあった月は、あの腹から零れ出していた色とそっくり同じ色だった。

それが目に焼き付けるほどに睨み続けた液体が見せた残像だったのかは、判らない。



幼い日、埃に塗れた高架下で蹲っていた時。
見上げた夜を見上げれば、ビルの隙間に覗く月は、やはり紅い色をして見えた。



師と出逢い、『女優』の人々と出会ってからしばらくは、紅い月を見なかった────と言うより、夜の空を見なかった。
優しくて温かい人達は、子供の自分が夜出歩く事にあまり良い顔をしなかった。
世話になっている彼女達に嫌な思いをさせたくなくて、その頃だけは、夜の空の下に出なかった。

中学生になってからも、暫くは見ていなかったように思う。

だのに、再び紅い月を見るようになった。
それは師が突然行方を眩ました日を境にした出来事だった。




虹彩に溢れた人工灯の海の中で、真黒な空に浮かんだ月だけが異様な程に紅い。
そんな光景を、中学生の京一は一人見上げるようになった。


月が紅いのか、月を見るこの瞳が紅に染められたのか。
判らなくなってしまうほどに、京一の世界は緋色で塗り潰された。

その隙間にいつかの紅黒い液体の残像を見た。



紅い月。
紅い瞳。

紅い血。



中学生の頃の京一には、そんなものしかなかった。
優しい人達はいたけれど、彼女達には顔向け出来なくて、知らない振りをし続けた。

彼女達はあんなにも優しくて綺麗なのに、自分の穢い眼で汚したくなかった。
振り返った時に彼女達まで緋色に塗り潰されていたら、悲鳴を上げてしまいそうだったから、目を逸らす。
赤黒いフィルターが剥がれ落ちるまで、ずっとずっと。






赤黒いフィルターが剥がれ落ちて、月は金色に返り、空が抜けるような青を取り戻して。
それから、もう紅い月を見る事はないと思った。



────────筈、なのに。
















ふと見上げた空に、ぽっかりと浮かんだ光の穴。
それを見た葵が感歎の声を漏らした。






「凄い。綺麗な月ね」






葵の言葉に促されたように、小蒔が足を止める。
小蒔が止まれば醍醐も止まり、更にその前を歩く龍麻と京一も遅れ遅れに歩を止めた。


夜回りと穏やかではない追いかけっこの所為で、五人は埃塗れの汗塗れだ。
だから誰も口には出さなかったが、総じて早く家に帰ってシャワーでも浴びてゆっくり眠りたかった。

だが、足を止めた葵はその場から動く様子はなく、じっと空を見上げている。
そんな親友の姿に、小蒔はそんなに言うほどのものかなァと呟きつつ、葵に倣って空を見る。
見えるのは葵と同じ、夜空にぽっかり浮かんだ光の穴だ。






「ほんとだ、キレーにまんまるだ」






葵が言いたかったのは其処ではなかっただろうが、確かに、見た目も綺麗な満月。

少女二人は暫くそうして空を見上げていた。
風が吹いて葵の黒髪が流れても、二人はじっと動かない。



ビルが乱立し、人工灯で溢れた都会の真ん中で、欠けない満月を見る。
ありそうで中々なくて、けれども空が見える場所であれば当たり前に見られる光景だ。
だが、この場にいる少年少女達にとって、そんな当たり前こそが最も遠い場所にあった。

葵と小蒔が月に見入っているのも、恐らくそれが理由だろう。
のんびりと空を眺めて月見に洒落込む時間なんて、いつの間にか遠くに放り投げて来ていたから。


色々な事が、沢山の事があり過ぎて、けれどその一つ一つを飲み込んで消化するような時間も与えられない。
あっという間に通り抜けてしまう日々の中、少年達は後ろを振り替える間もなく、思い返す暇もなく、ただ前へ前へ進み、その行く道を阻害する“モノ”を打ち滅ぼさなければならない。
それが彼ら自ら背負った重みだから。


でも、こうして空を見上げる時間を欲しいと思ってしまうのは、決して罪な事ではない。
どんなに大きな《力》を持っていても、その心が平穏を望む一介の若者である事に変わりはないのだから。






「今度、葵の家でお月見しようよ」
「ええ。いつでも来て」
「その時は醍醐君、美味しいお団子とか作って来てね!」
「はい。腕によりをかけて作りますよ」






小蒔の言葉に、醍醐は意気揚々として頷いた。
その返事に小蒔は嬉しそうに笑い、醍醐の向こうで立ち尽くしている二人に声をかけた。






「緋勇君は来るよね」
「うん。楽しみだね」
「ね! だから京一も、」
「パス」






小蒔の言葉を最後まで待たず、京一はきっぱりと拒否の返事。
京一と言う人物の性格を考えれば、先ず間違いなく返って来るであろう反応だった。

予想の範疇であると当然判っていたようで、小蒔はつかつかと京一に近付き、






「そういう空気読まない発言どうかと思うよ、京一」
「お前ェが言うな」
「ボクがいつ空気読まなかったのさ」
「いつも読めてねェだろが。なァ?」






京一の視線が呼び掛けと同時に、その相手へと向けられる。
相手からの返事はなく、小蒔には返ってそれが引っ掛かったのだろう、眉根を寄せて他の面々を振り返る。
しかし小蒔の疑問に答えてくれる人物は居らず、仲間達は揃って視線を逸らしていた。

視線を彷徨わせている仲間達を見て、小蒔はきょとんと首を傾げる。
そんな彼女に、ほら見ろ、と京一が呆れて溜息を吐いた。


くるりと京一が踵を返して歩き出す。
直ぐに小蒔がそれを追い駆け、続いて龍麻、醍醐、葵もまた足を動かし始めた。






「ちょっと京一」
「煩ェな……とにかくパスだ、パス。やるならお前らだけでやれ」
「なんだよ、それ」






愛想のない京一の言葉に、小蒔は不服そうだ。

小蒔の事だ、明日になったら遠野も誘ったに違いない。
この一年間で築いた仲間達で、なんでもない、のんびりとした平和な思い出を作りたいと思っているのは、京一にも判る。
その事は────むず痒くはあるけれど────京一とて決して嫌ではなかった。


それでも。








「月が紅い内は、御免だな」








呟かれた言葉に小蒔の足が止まる。
京一はそのまま進み、一人、仲間の輪を抜けて暗闇の中に紛れて行く。

その背中が追う事を拒絶しているのは誰の目にも明らかだ。
夜の闇に消えようとする京一を葵が追い駆けようとしたが、足は小蒔の隣まで来て不自然に止まってしまう。
醍醐と龍麻は何も言わず、二人の少女の後ろから、遠くなって行く仲間を見送った。



小蒔が頭上を仰ぐと、先程と同じ、満月が夜闇を照らし出している光景があった。


子供の頃に月の絵を書くと、空は黒で、月や星は黄色で描いていたと思う。
確かに夜空を彩る色といったら、日本人の感覚もあるのだろうが、この二色が常である事が多い。
実際に空を見上げた子供が抱く印象も、似たようなものではないだろうか。

それが成長に従って形容する言葉を覚え、月の満ち欠けや大気の層によって見える色が違うと知る。
時に金色に、時に白く、また青白く変化する微細な光を、小蒔も確かに知っていた。




けれども、紅い月など小蒔は聞いた事がない。











見上げた空に瞬く月からは、淡く青白い、優しい光が降り注いでいた。








































傷が痛むような気がして、京一はコンクリートに寄り掛かった。
包帯の巻かれた胸元を、シャツの上から力任せに握る。
爪が引っ掛かって傷が悲鳴を上げたような気がしたが、そんな事はどうでも良かった。

明らかに傷口が熱を持って全身に行き渡り、それが痛みを通り越した重さに繋がりつつあった。
傷の完治を望むのであれば、今直ぐに桜ヶ丘中央病院に向かうのが正しい判断と言える。



しかし、冷たい壁に寄りかかった京一の足は、其処から前に進まない。




熱の放つ傷口を鷲掴んだまま、壁に背中を預ける。
背中に当たる剥き出しのコンクリートの冷たさが少し心地良かった。


途中まで同じ道を歩いていた仲間達は、どうやら何処かで置いて来てしまったらしい。
自分の行動としては然程珍しい事ではないから、明日になって顔を合わせても、何某か言及される事はないだろう。

だからこそ、京一は臨界点を越した我慢の壁を崩壊させて、こんな醜態を晒す事が出来る。

もしも此処に仲間の誰か一人でもいたのなら、絶対にこうはならなかった。
臨界点を越えた事も無視して、いつもと同じ顔をしてみせる。
それは京一のプライドの為でもあったし、見せれば間違いなく心配して焦る仲間を気遣わせない為でもあった。
どちらに比重が傾いているかは判らないけれど。


……そうは言っても、ついさっきまで自分がいつもの表情を保てていたのかは、京一にも判然としない。
そう考えるのは傷の痛みの所為ではなく、見える視界が異様な状態になっているからだ。






「くそ……!」






目元を掌で多い、視界を黒で塗り潰す。

眼球の奥がぐりゅぐりゅと動いているような、気持ちの悪い錯覚があった。
これと同じ感覚を数年前に嫌と言う程味わっているから、余計に吐き気がして来る。


頭を上へと持ち上げて、見えない天上を仰ぐ。
手の甲に光の暈が零れ落ちているのが判ったが、そうと感じた瞬間、眼球の奥がまた蠢き出す。
まるで外へ外へと出て行こうともがいている様だった。



瞼から手を離せば、世界は未だ暗闇に覆われている。
其処からゆっくりと瞼を持ち上げて───────







紅。

紅。


紅い月。









「─────────ッッ!!!」






息を飲み、京一は俯いて再び瞼を掌で覆う。



紅い月が見える日は、いつも碌な事がない。
あの祭囃子の日も、埋まらない飢餓感に追われ続けた日々も、月はいつも紅かった。

紅い月は不吉の兆しだと言われているが、京一にとっては兆し等と言うものではない。
ほぼ確定事項であって、空に紅い穴が空いている日は、必ず厄介事や災厄に遭う羽目になる。
どんな事があったのかと問われれば、細かい事は覚えていなかったりするのだけれど、それでも“紅い月”が京一にとって面倒事を運んでくる荷馬車であるのは事実だ。


紅い月を一番最近見たのは、然程遠い出来事ではない。
胸の傷が引き攣るほどに近い日だった。



今日は一体どんな厄介事が来るのだろう。
気が重い中で、京一は熱と痛みと、眼球の蠢きが収まるのをじっと待ち続けた。





しかし、厄介事はやはり何処までも、何をしても厄介事なのだ。





故意にアルミ缶を蹴飛ばしたと判る甲高い音が響いて、それが京一の頭部目掛けて飛来した。
俯き目元を掌で覆った京一に、飛来物そのものを確認する事は出来ない。
だが気配で感じ取るのは難しい事ではないし、避けることも簡単だ─────普段ならば。


気付かなかった訳でも、判断が鈍った訳でもなく。
その場と状態から少しでも動くのが面倒で立ち尽くしていると、飛来物は京一の頭部に当たって跳ねた。
中身が半分程残っていたようで、甘い匂いとアルコールの匂いが混じった液体が京一に降り注ぐ。

カラカラと空っぽになった音を立てて、缶がアスファルトの地面に落ちる。
転がった缶は京一の靴に当たって止まり、その上にぽたりと雫が零れた。



目元を覆っていた手を離せば、其処にも液体は浸食している。
囲いをなくした所為で無防備になった目元に、額から流れた雫が引っ掛かってくる。






(……勿体ねェ)






濡れた手を見下ろしながら思った。


頭から被る羽目になった液体は、どうやらカクテルの類らしい。
別段、これが好きな銘柄だった訳ではないが、半分以上も残して棄てるなど、余裕のない生活を送る京一には愚の骨頂。
嫌がらせとしては十分役割を果たしているが、それにしてもやはり、勿体無い。




ゴミを蹴散らし進む足音が聞こえて、顔を上げる。

暗く狭い路地の向こうから、厳つい顔の男達が数名此方に向かって歩いて来ている。
判り易い、卑下た笑みを浮かべながら。


先頭の男が立ち止まると、後ろに並んだ取り巻きらしき男達も止まる。
リーダー役であろう先頭の男の手には鉄パイプがあった。






「久しぶりだな、用心棒さんよ」
「………なんだ、手前ェ」






何処かで逢ったか。
京一には判らないが、相手の目的は予想が付く。
以前大敗した御礼参りをしようと言うのだ。






「なンかお疲れみてェだなァ」
「判ってんなら失せろ。手前ェらみてェな三下、相手してやる気じゃねェんだよ」






壁に寄りかかる京一の表情は、何処か朧だ。
常に強気に相手を挑発し、威嚇する瞳に明滅するのは、頼りない光。

目を覆っていた京一の片手は、またシャツの上から傷元をぐしゃぐしゃに握り締めていた。
頭から被った酒が肌を流れ落ちて包帯に滲み、傷口が嫌な痛みを発する原因になっている。
それが煩わしくて取った行動は、男達に京一が万全の状態ではない事を知らしめる事となった。


にぃ、と男の顔が凶悪な笑みに歪む。
歯にヤニを見つけて、汚ね、と京一は顔を顰めた。






「そう言わねェで、ちょいと遊んで行けよッ!!」






鉄パイプを振り上げ、男が地を蹴る。
京一は一つ溜息を吐いて、壁から預けていた背を離した。



場所が狭い路地だから、どうしても敵は正面にいる状態が限られる。
周囲に回り込めるような小道はないから、挟み撃ちにされる可能性も無い。

正面からの勝負で自分に勝てると思っているのかと、京一は呆れる。
余程自分に自信があるのか、此方を侮っているのか、何れにしても目出度い頭だと思う。
頭の悪そうな顔をしているから、きっと中身もそれ相応にした脳みそは詰まっていないのだろう。


バカ正直に鉄パイプを振り被って目の前で落とす男。
京一は木刀でそれを受け止めて後ろへと流すと、返す刀で男の後頭部を打った。






「アニキ!」
「このガキがァ!」






手に手に獲物を持った舎弟達が一斉に襲い掛かってくる。
しかし、やはり道の制約上、京一に勝負を挑めるのは一人ないし二人が限界だった。






「地の利ってモンをちったぁ考えろよ」






肩と肩がぶつかり合うような狭い場所で、二人が一挙に殴りかかるのは無理だ。
互いに邪魔し合うのが関の山で、結局の所京一に対して無防備になるだけ。
せめて挟み撃ちにするのならもう少しやりようがあるだろうに。

京一が思うように挟み撃ちにして襲い掛かったとして、彼らの思惑通りに行くかは、二割以下の確率になる。
男達と京一の間には、絶対に越えられない実力の差があった。




それでも男達は我武者羅に京一に向かって飛び掛ってくる。

ちなみに、彼らがアニキと呼んだ男は、頭部の衝撃に脳震盪でも起こしたのか、京一の足元で転がっていた。




道を塞ぐように二人揃って突進してきた男達は、木刀の一振りで呆気なく終わった。
狭いお陰で多少手元の扱いが面倒だが、それは相手も同じ事、こうなると実力差で男達は負ける。

時間差を利用して前後に連なって向かって来た二人は、前の一人を蹴飛ばす事で片付いた。


やけくそにナイフやらガラス片を投げつけられても、京一の表情は変わらない。
ふらりふらりと歩を踏んでかわし、避けきれないものは木刀で打ち落とす。
怯んだ男が呼吸を詰めた一瞬の間に、京一は男の眼前に迫り、その顔面に膝を食い込ませていた。



木刀は紫色の太刀袋に入れたまま、止め紐に手をかけてもいない。
それ所かまともに剣を構える姿勢すら、京一は見せなかった。

本気ではないと誰が見ても判る戦い方に、男達は益々怒りを煽られる。
同時に、万全でないにも関わらず呼吸を乱さない京一に、勝てない現実を突きつけられていた。





そのまま、一方的な乱闘は続き──────男達が死屍累々と積み上げられるまで、時間はかからなかった。






「こんなモンかよ」






地面に転がる男達の屍を踏み付け、京一は嘆息する。
これなら吾妻橋達の方がよっぽど手応えがあった。



ただでさえ紅い月の所為で気分が最悪だと言うのに、傷まで熱を持って体も重いと言うのに。
これで喧嘩をするのは流石に重労働だったようで、体はより一層の気だるさを露呈させる有り様になっていた。
ついでに、酒の所為かも知れない、頭の奥がぼんやりとしてくるような気もする。

良くない事が重なり放題な上に、喧嘩を吹っ掛けてきた相手は、対して実力のないチンピラ集団。
張り合いまでもがないとなっては、気分の悪さによるストレスの発散も損ねた事になる。


やはり碌な事にならない、と京一は酒臭くなった前髪を掻き揚げて呟いた。




─────直後だ。







「ンのガキャァァアッッッ!!!」







獣の怒号のような野太い声が、京一の背後で上がった。
茫洋とした意識に、その声は酷く響き、京一の体が一瞬硬直する。


それが命取りだ。


背後から伸びてきた熊のように大きな手が、京一の両の手首を捉える。
レスラー体系の醍醐を悠に越える巨躯を持った男は、そのまま京一の両腕を持ち上げ、京一の自由と抵抗を奪う。

手首をギリギリと締め付けられて、京一の喉から僅かに呻く声が漏れる。
握ったままの木刀を取り落とすことはなかったが、手首から先の感覚が徐々に鈍って行くのが判る。
血管が圧迫され、血の循環を妨げとなっているのは、誰の目にも明らかだった。






「て、め……離せ、この木偶!」
「ふ、ふーッ、ふぅぅううううッ…!」






肩越しに睨む京一だが、男は鼻息を荒くするだけで全く効果がない。
顔も目も赤くした男は完全に興奮しきっている。


腕を捉えられた被虐対象を見て、地面に落ちていた屍達がのろのろと起き上がり始める。
中には肋骨を数本折ったであろう人間もいたが、それらも表情は光悦としている。

頭のラリったゾンビみてェだ、と意味のない事を考えた。






「いい様だぜェ」
「そりゃどーも」






顔を近付け、爛々と目を輝かせるリーダーに、京一は唾を吐いてやる。
びちゃっと音を立てて、それは男の顔を汚した。

リーダーの顔が一気に赤くなり、






「オラァッ!!」
「――――――ッッ……!!」






拳が京一の腹を抉る。
胃やら腸やらを圧迫されて呼吸が出来ず、京一は目を見開いた。

衝撃そのもののショックが引いても、腹部には強い痛みが残り、咽返る。






「げッ、ごほッ、おぁッ…!」
「うらッ!」
「ぐッ……!!」






二発目、三発目が続けて打ち込まれる。
瞬間的に丹田に力を込めて内臓を守ろうとするものの、一発目のダメージが思いの外残っているのか、衝撃を弾き切れない。


身動きが出来ずとも抵抗を見せる京一に、男の拳の方が先に根を上げた。

紅くなった手の甲を摩ると、後ろで京一の様に悦を浮かべていた舎弟達に向かって手を出す。
察しの良い一人が無言の催促を察知すると、地面に転がっていた鉄パイプを渡した。


男はバットを構えるように鉄パイプを握ると、せぇの、とわざとらしい掛け声をかけて腕を振るった。
全力で振るわれた鉄パイプは、ぶぅんと耳障りに風を切る音を立て、続け様硬い音を響かせる。
その音が自分の頭部で鳴ったので、京一には音よりも激痛に脳が揺さぶられるような気がした。

殴られた場所が切れたのだろう、生温い液体が額を伝い落ちてくる。
続け様横顔をパイプが打って、この所為で口の中が切れたのが判った。



振り被り、打ち下ろした一撃が、目測を誤ったのか、頭部ではなく胸を殴打した。






「―――――あ……!」






全身を襲った激痛に、思わず声が上がる。
瞬間的に強張った躯が弛緩した時には、全身から脂汗が滲み出ていた。


それまでとは明らかに様子の違う京一に、男も気付いた。
項垂れて荒い呼吸をする京一へと顔を近付け、細い顎を捉まえて上向かせる。






「なんだ? そんなに痛かったか?」
「……屁でもねェよ、お猿の大将のやる事なんざ」






ぴしり、と男の額に青筋が浮かんだが、京一は表情を変えなかった。


そんな京一を見下ろしている内に、男は緩んだ彼の襟元から覗く白に気付く。
京一の不調の原因を其処にあると睨んだ男は、にやりと口端を上げて、京一の赤いシャツの裾に手をかける。

力任せにシャツを捲り上げられれば、幾重にも包帯を巻いた様が露になった。






「へェ。“歌舞伎町の用心棒”も落ちたモンだな、こんな有り様にされるたァ」
「……るせェよ」






見られたくないものを見られた。
自分自身でさえ、見たくもない代物だと言うのに。


京一の苦虫を噛み潰すような表情に、男はサディスティックな笑みを浮かべ、再び鉄パイプを構える。
先程と同じくせぇの、と掛け声をかけて、腕を振るう。

包帯に巻かれて庇われてあるとは言え、それは日常の些細な衝撃を防ぐ為のものでしかない。
力任せに、武器を使って与えられる衝撃は、包帯やガーゼ程度では庇い切れなかった。






「……ッあ…! がッ!」






一発、二発。
三発、四発。

裂傷の上を鈍器で打たれ続ければ、京一とて痛みを感じずにはいられない。

その上、頭部を殴られた所為だろう。
視界がブレるような感覚がする。


《力》を使えば、この程度の人間達を蹴散らすのはものの数秒もかからない。
腕を振り解く程度に《力》を行使するなら、許される範囲になる筈だ。
ついでに骨の一本位折ってしまっても、命に別状がないなら問題ない。

しかし全身の倦怠感は、一瞬の氣を練る為の気力すら阻害し、男達にされるがままサンドバッグになるしかない。
握ったままだった木刀が、血の気の失せた手から滑り落ちて、地面に転がった。



男が頭上へと、鉄パイプを大きく振り上げる。
間違いなく、その行き先は自分の頭だろうと京一にも判った。

だが京一の視線は男を通り過ぎ─────その向こうに浮かぶ、紅い穴を見ていた。







紅い穴。

紅い月。





紅い世界。











(やっぱり、碌な事がねェ──────)












その胸中の呟きを最後に、頭部の衝撃を待たず、意識はブラックアウトした。

























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