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葵はこの数日間、とても嬉しいことが続いていた。
葵の通う真神保育園には、色んな子が集まる。
家族皆が仕事をしている子もいれば、ちょっと難しい事情の子もいて、家に帰らないで保育園に泊まる子もいる。
保育園に泊まる子は、時々泊まる子と、毎日泊まる子といた。
その色んな子の中で、ちょっと難しい事情の子は、結構気難しい子が多い。
雨紋の後をついて行く亮一や、皆と中々話をしない壬生がそうだ。
この子達は自分から積極的に話す事もない所為か、最初の頃は皆に中々馴染めなかった。
けれど今では、皆それぞれの形で仲良く過ごせるようになった。
でも、一人だけ。
二ヶ月前に入った男の子は、皆と仲良くするのが嫌みたいだった。
京一と言う名前のその子は、葵が幾ら話しかけても返事をしてくれなかった。
怒った小蒔が「へんじしなきゃダメなんだよ」と言っても、何も言わないでそっぽを向いてしまう。
男の子達とは時々遊んでいるようだったけど、それもずっとじゃない。
皆で一緒にと言うこともなくて、雨紋と亮一だったり、醍醐だったりと、二人か三人で遊んでいるばかりだった。
京一はケンカもする。
織部姉妹の姉の雪乃や小蒔がしょっちゅうで、時々醍醐ともケンカをする。
京一がケンカを始めると雨紋もやってきて、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになってしまう。
こうなると、マリア先生か犬神先生じゃないと止められない。
皆とわいわい遊ぶのが苦手な子もいるのは知っている。
亮一は雨紋の傍から離れないし、壬生や如月は遊び回るより本を読んでいる方が楽しいらしい。
それでも、挨拶をすれば返事をしてくれるし、気が向いたらほんのちょっとだけ付き合ってくれる。
京一は本を読むのはあまり好きではないみたいで、外で遊んでいる方が好きみたいだった。
けんけんぱをしていたり、池の飛び石を渡ったり、―――― 一人でそうやって遊んでいる。
そんな京一が、葵はなんだか放っておけなかった。
怒っている事が多いけれど、本当は優しい子なんだと葵は思っていた。
だって、ケンカはするけど、誰かをいじめたりしないし、公園に行った時に誰かがいじめられて泣いていたら、それが知らない子でも助けに行く。
怖い顔をして大きな声で皆を怖がらせるけれど、地面にお絵かきをしている時の背中は、なんだかいつも寂しそうだった。
わざと嫌われるようにしているみたいで、葵はそれが悲しかった。
葵は、京一と仲良くしたかった。
公園に行った時にも、追いかけっこをしようと誘った。
でも京一は「いやだ」ばっかりで、いつも一人で遊んでいた。
そんな京一が、最近少しずつ、皆と遊ぶようになってきた。
保育園の園舎の玄関横に、葵はいた。
京一と一緒に。
二人の間に会話はなくて、京一はずっと黙って地面に絵を描いている。
葵は玄関の段差にちょこんと座って、お絵かきをする京一をじっと見ていた。
そのまた傍では、舞子先生がお昼寝用の布団を干している。
布団と並んでお泊りする子のパジャマや着替えも竿にかけてある。
ぽかぽかとした春の陽気の今日は、最高の洗濯日和だ。
風が吹く度にパタパタと踊るシーツは綺麗な真っ白で、これで寝たらとても気持ちが良さそうだった。
今日のお昼寝の時間が、今から少し楽しみになる。
葵は立ち上がって、そうっと京一に近付いた。
影が重なった事に気付いて京一が振り返れば、ばっちり目が合う。
「……なんだよ」
言葉は少し尖っていたけれど、葵を見る目は怖くなかった。
最近、京一はこんな事が多くなってきた。
変わりに大きな声を出して皆を怖がらせる事が少なくなって来て、ケンカも減った(始まるとやっぱり凄いけれど)。
ずっと一人で遊んでばかりいたのが、少しずつ皆の輪の中に入って来てくれるようになった。
それもこれも、新しい子のお陰だ。
京一の後に入って来た子と仲良くなってから、皆とも仲良くしてくれるようになったのだ。
思い出したら嬉しくなって、葵は笑っていた。
にこにこ笑う葵に、京一は眉と眉の間に皺を作ったけれど、怒ることはしなかった。
しばらく葵の顔を見つめた後、また地面に向き直ってお絵描きを再開した。
葵が隣にしゃがんで絵を覗き込んでも、京一は何も言わない。
以前は傍に行くだけで怖い顔でこっちを見て来たけれど、最近はそれもなくなった。
お喋りをする事はあまりなかったけど、これもかなりの変化だ。
京一と一番仲の良い子は、今日はいない。
京一の隣はずっとその子の専用になっていたのだけれど、今日だけは葵が其処にいられる。
それに京一は怒らなかった。
ギィと玄関のドアの開く音がして、振り返ると園舎から遠野先生が出て来た所だった。
洗濯物を一通り干し終えた舞子先生が、アン子先生を呼び止める。
「お買い物ですか?」
「はい。明日のお遊戯で使う折り紙がなくなっちゃってて……あと、冷蔵庫の中身も少なくて」
「あら、そうなんですか」
「商店街の方に行くんで、他に要るものあったら買ってきますよ。何かあります?」
「えーっと……先生に確認して来るので、少し待っていて貰えますか?」
舞子先生が“先生”と呼ぶのは、保健室を預かっている岩山先生の事だ。
アン子先生が頷くと、舞子先生は空になった洗濯籠を抱えて保健室へ駆けて行った。
待ち人が戻るまでどうしようと、アン子先生は辺りを見回す。
其処で、ふわりとシーツが翻った横に、地面にしゃがむ葵と京一の姿を見つける。
「京一、美里ちゃん、何してるの?」
「きょういちくん、おえかきしてるんです」
黙ったままの京一の代わりに葵が答えると、アン子先生はひょいっと絵を覗き込んできた。
京一の足元には、小さなパンダが沢山いた。
それぞれ、少しずつ顔が違っていて、どうやら皆別人(別パンダ?)らしい。
「結構上手よねー、京一」
くしゃくしゃ、アン子先生が京一の頭を撫でる。
と、京一はぶんぶんと頭を振ってそれを払ってしまった。
優しく頭を撫でると、京一は嫌がる。
慣れていないらしかった。
「何よ。可愛くないッ」
アン子先生はそう言って京一の耳を軽く抓ったが、京一は今度は特に嫌がる素振りはしなかった。
抓られた耳はちっとも痛くなかったようで、それは傍で見ている葵にも判った。
だって怒った風な言葉を使ったアン子先生は、決して本当に怒っている訳ではなかったから。
葵はそんな様子を隣で見ていて、やっぱり嬉しくて笑っていた。
「――――遠野さん、先生にメモ貰ってきました」
舞子先生が戻って来て、アン子先生に小さな紙を渡した。
アン子先生は買い物リストのそれを確認して、判りましたと返事をしてから、メモを上着のポケットに仕舞った。
舞子先生は、アン子先生に一度頭を下げてから、また保健室へと戻って行く。
その後姿を見送った後で、アン子先生はさっき仕舞ったメモと、もう一枚メモを取り出した。
もう一枚も恐らく買い物リストだろう、折り紙の他にもまだ買うものがあったらしい。
葵がアン子先生の顔を見上げると、アン子先生は少し難しい顔。
「アン子せんせい、どうしたんですか?」
「うん、ちょっとね。数が多くなっちゃいそうだなあって思って」
メモをひらひら揺らしながら、アン子先生は笑う。
真神保育園の規模は小さいもので、常勤の保育氏はマリア先生と犬神先生ぐらいのものだった。
保健室には岩山先生と舞子先生がいるけれど、時々どちらかが日もある。
アン子先生は一週間の内、どれか一日が休みだったりして、代わりに夜遅くまでいる事もあった。
他にも数人の大人がいるけれど、その人達の殆どはお昼ご飯を作っていたり、お遊戯の準備をしていたりして、葵はあまりゆっくり話した事がない。
他の子供達も恐らくそうだろう。
子供達の相手をしているのは、専らマリア先生、犬神先生、アン子先生と、舞子先生ぐらいのものだ。
大きな保育園ではないのだから無理もないけれど、全体の人数として、真神学園はいつも人手不足なのが困る所であった。
そんな訳だから、買い物などをする時は、その時必要な物と一緒に他諸々も纏めて買い揃える事が多い。
これが犬神先生のような男手ならば問題ないのだが、女の人は中々苦労する。
折り紙、色鉛筆、ティッシュ箱、掃除洗濯用の洗剤、朝昼晩の食材―――――これがかなり重い。
慢性的に人手不足なものだから、買出しに廻せる人数も限られて、手が空いている人が時間の折を見て走るのが常。
結局、一人で重い買い物袋を抱えて、よろよろと帰って来るのである。
葵は、マリア先生やアン子先生が買い物に行って帰って来た時、疲れた顔をして帰って来るのを知っている。
犬神先生はいつもと同じ顔をして帰って来るけれど、両手に抱えた荷物はいつも重そうだった。
それを見つけると、葵はお手伝いしなきゃ、と思うのだ。
「アン子せんせい、わたしも、おかいもの行きたいです」
葵がそれを言い出すのは、これが初めての事ではない。
葵は誰かの為に何かをするのが好きだった。
そうして相手が喜んでくれたら、自分も嬉しくなって、胸の辺りがぽかぽかする。
それが好きだった。
アン子先生は本当? と嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ、悪いんだけど、ちょっとだけ荷物持ってくれる?」
「はい」
「ありがとう! 美里ちゃんはいい子よね~ッ」
ぎゅう、とアン子先生が葵を抱き締める。
ごほーびにアイス買ってあげるね、と頭を撫でながら言われた。
一頻り葵の頭を撫でてから、アン子先生は京一を見た。
地面にパンダを描いていた京一の手は、いつの間にか止まっている。
葵はなんとなく、自分達の方を気にしているんだと判った。
「京一は来てくれないのかな~?」
「……なんでオレが」
アン子先生が言ってみれば、素っ気無い言葉が返ってくる。
けれど、アン子先生は怒らなかった。
「女の子だけに重い荷物持たせるなんて、男じゃないわよ」
「アン子はオトナだろ。オレより力あるじゃんか」
「なーんだ、京一ってあたしより力ないんだ。男の子なのに。でも来てくれると助かるんだけどなー」
京一が顔を上げてこっちを見る。
口がちょっと尖っていた。
京一はあんまり素直になれない。
手伝ってと言われても、中々それに「うん」と言ってくれない。
そんな京一がどうしたら「うん」を言ってくれるのか、アン子先生はよく知っていた。
言ったら少し腹が立つような事を言って(勿論、そう思っている訳でもないのだけれど)、ちょっとだけ彼を怒らせる。
素直じゃないこの男の子は、「出来ないんだ」と言われたら、「出来る」と反論してくるのである。
更に駄目押しに、これ。
「一緒に買い物行ってくれたら、パンダさんのお菓子買ってあげようと思ったのになー」
「………………いく」
――――――食べ物の誘惑こそ、子供にとって最大の魅力なのだ。
実は、葵に限らず、買出しの際に子供がついて来る事は珍しくない――――この真神保育園に置いては。
殆どの場合は子供の自主性であるが、時折、マリア先生達の方針で、買い物に同行させる事がある。
真神保育園には複雑な事情を持つ子供がいる。
そんな子供は、中々環境に溶け込む事が出来ず、また保育園の外界へも心を閉ざしてしまう。
そうなってしまう事のないように、真神保育園の保育士達は、子供を箱庭の世界へ閉じ込めまいと試行錯誤しているのだ。
買い物の荷物持ち等の手伝いをして、ご褒美を貰うことで、“誰かの助けになること”“褒められる、喜んでもらえる喜び”を学んで欲しかった。
織部神社での境内の掃除等も、その一環だ。
幸運な事に、想いは奏して、保育園の子供達は周辺近所の人達にも評判の良い、良い子達に育っている。
そんな訳で、真神保育園の子供達は、ご近所でちょっとしたアイドルみたいなものだった。
いつも買出しに利用させて貰っている商店街でも同じ。
「こんにちはー」
「こんにちは」
「はいはい、いらっしゃい」
八百屋の暖簾を潜って挨拶するアン子先生と、葵が続いて挨拶すると、奥からおばあちゃんが顔を出した。
腰の曲がったおばあちゃんだけれど、足元はしっかりしていて、目元は柔らかく笑っている。
このおばあちゃんは、保育園の子供達を孫みたいだと言って可愛がってくれる。
「今日は葵ちゃんと京ちゃんかい」
おばあちゃんのこの呼び方が、京一はあまり好きではないらしい。
む、と顔が少し嫌そうなものになる。
「……京ちゃんちがう」
「そうそう。京一ちゃんだったね」
また京一の顔がむぅとなる。
けれど、それ以上は言わなかった。
言っても止めてくれないと思ったのだ――――“ちゃん”付けで呼ぶ事を。
京一が拗ねた顔で暖簾の外に出て行く。
アン子先生が呼び止めたけれど、京一は戻って来なかった。
「しょーがないなァ。美里ちゃん、外で京一見ててくれる?」
「はい」
「何かあったら直ぐ呼んでね。あたしも、早めに買い物終わらせて出るからね」
「はい」
一度拗ねると、京一は中々機嫌を直さない。
少し前に比べると随分柔らかくなった彼だけれど、それは変わらなかった。
無理に引っ張って連れ戻せば余計に拗ねてしまって、一人で保育園まで歩いて帰ってしまい兼ねない。
それを考えると、店の直ぐ外で待っていてくれている方が良い。
幸い、商店街の人達は葵の事も京一の事も、勿論保育園の事も知っている。
知らない大人が声をかけてきたら、周りの大人の方が気を付けてくれるだろう。
とは言え、何よりも一番良いのは、アン子先生が早く買い物を済ませる事だ。
葵が店の外に出ると、京一は店の入り口横に立っていた。
隣に並ぶと、ちらりと目がこっちを見て、また前に戻される。
二人の間に、やっぱり会話はなかった。
買い物に行く前とそっくり同じシチュエーションだ。
でも、これが葵にとって待ちに待ち望んだ事。
まだまだお喋りは出来ないけれど、一緒にいたいとずっとずっと願っていたのが、ようやく実った。
―――――店の中から、アン子先生とおばあちゃんの会話が聞こえてくる。
「ピーマン嫌いな子が多くって」
「ああ、そうだろうねェ。栄養たくさんあるのにね」
「あとグリンピースとか、人参とか。なんとか食べさせてるけど、泣いちゃう子もいて大変で…」
「葵ちゃんや京一ちゃんも、嫌いなものあるかい?」
「美里ちゃんはなんでも食べてくれるの。でも、京一は凄い好き嫌い激しくて」
その声は、葵に聞こえている訳だから、当然隣にいる京一にも聞こえていて。
京一の拗ねていた顔が益々拗ねて、足元に転がっていた石をこつんと蹴飛ばした。
「でも一応、全部食べてくれるの。時間はかかっちゃうけど」
「うんうん、それがいいよ。ああ、そっちの大根は辛いから、こっちの方が良いよ」
「ありがとう~!」
「そう言えば、この間初めて来た子…なんて言ったかねェ……歳だねェ、やだよ、物覚え悪くなっちゃって」
「緋勇龍麻君って言うの」
「そうそう、そうだったね。あの子は苺が好きって言ってたねェ」
物覚えが悪くなったと言ったけれど、葵はそんな事はないと思う。
だって此処のおばあちゃんは、保育園の子供達の名前を皆覚えてくれているのだ。
葵は、いつか自分もおばちゃんになるなら、あんなおばあちゃんがいいと思った。
にこにこ優しい顔で笑っていて、近所の子供達に好かれるおばあちゃんがいい。
皆の名前をちゃんと間違えないで覚えていて、色んな事も知っていて、子供達から凄いなぁと言われるおばあちゃんになりたい。
そう思っていた矢先の事だった。
飛んできたサッカーボールが、京一に当たったのは。
「――――きょういちくん!」
見ていない方から飛んできたボールは、京一の頭に当たって跳ねて、地面を転がって行った。
ボールが当たった瞬間にバンッと大きな音がしたものだから、葵は目を白黒させて京一の名前を呼ぶ。
京一は一度ぐらっとしたけれど、転んだりはしなかった。
けれども当たった頭は痛みを訴えて、頭を抱えて蹲る。
「きょういちくん、だいじょうぶ?」
「………ん…」
じんじんと痛む頭を抱えながら、心配する葵の声に、京一はなんとか頷いた。
しかし痩せ我慢である事は葵の目にも明らかだ。
どうしよう、と葵は焦った。
とにかくアン子先生に言った方が良い、と言うかそれしか思い付かない。
慌てて八百屋の店の中に入ろうとして―――――聞こえた声に葵の足が止まる。
「やーりィ、この間のおかえしだッ」
葵が声のした方向へと振り返れば、ほんの少しだけ見覚えのある男の子が立っていた。
手にはサッカーボールを持っていて、この子が京一に向かってボールを蹴ったのだ。
男の子は、少し前に保育園の子供達が公園で遊んでいた時、京一が泣かせた男の子だった。
同時に、葵の幼馴染の男の子を苛めて泣かせた子でもある。
公園での出来事と、今の出来事で、葵は腹が立った。
あの時も今も、幼馴染の子も、京一も何も悪い事はしていない。
アン子先生は泣かせたのは良くない事だと言っていたけれど、先に幼馴染を泣かせたのはこの男の子の方で、京一は幼馴染の子を助けてくれた。
京一がボールをぶつけられて痛い思いをする必要なんて、絶対になかった筈だ。
「何するの!」
葵が怒って言うと、男の子は葵をちらりと見て、べーっと舌を出す。
「おかえしだよ、おかえしッ。だいたい、そいつナマイキでムカつくんだッ」
京一を指差して、男の子は言う。
「オレのかーちゃんが言ってたぜ。そいつのかーちゃん、いないんだって。オヤジがロクデナシで、シャッキン作ったから、出てったんだって。ロクデナシのオヤジのこどもは、ロクデナシなんだってさ。なのにナマイキでムカつくッ」
男の子が何を言っているのか、葵にはよく判らない。
男の子の方も、どんな意味が其処にあるのか、きっと判っていない。
母親の言葉をそのまま繰り返しているに過ぎない。
でも意味がどんなものであれ、きっと京一が嫌がる事だと言う事は、葵にも判った。
京一は葵の隣で黙ったままだったけれど、ぎゅうと手を握っている。
今にも殴り掛かりそうだった。
「ロクデナシのこどもが、えらそーにするな!」
「あなたにかんけいないじゃないッ」
「かんけいある。ココは、オレのナワバリなんだッ」
―――――男の子は、典型的なガキ大将だった。
同じ年頃の子供よりも体が一回り以上大きくて、ケンカをすれば負ける事は滅多にない。
他の子供が持っているオモチャを力付くで取り上げてしまう事も少なくなかった。
大人達もほとほと手を焼く問題児である。
対格差が明らかに違う男の子に向かって行く子供は、殆どいなかった。
いても負けてしまう事が殆どで、気付けば彼は、子供達の王様のようなポジションになっていた。
それが当たり前になってきた頃に、京一が現れた。
男の子と京一が会うのは、児童公園で。
男の子が誰かを泣かせたら現れて、飛び掛ってくる。
こんなチビなら楽勝だと思っていたら、京一は強かった。
殴れば殴り返すし、押し倒して揉み合いになっても泣かないし、全力で抵抗してくる。
終いには、男の子の方が泣かされた。
ガキ大将で王様気分だった男の子には、それが酷く屈辱的な事だった。
けれども、京一にとってはそんな事はどうでも良い。
「……べつにテメーなんかどうでもいい。ナワバリなんかきょうみねェし」
「だったらなんででしゃばるんだよ。ロクデナシのくせに」
何度も繰り返す単語。
京一がイライラとしているのが葵にも判る。
いや、葵もイライラしていた。
意味は判らないけれど、それでも酷い事を平気で繰り返して言う男の子に。
京一は何も悪くなんかないのに。
「……ろくでなしって言うな」
なんにもしらねェガキのクセに……!
苦しそうな、消えそうな声で京一が言った。
何かを我慢しているような声だった。
男の子はそれに気付かない。
寧ろ、京一がその単語に反応したのに気付いて、余計に繰り返して来る。
ろくでなし。
ろくでなし。
何度繰り返されても、葵にはなんの事かさっぱり判らない。
でも一番大事な事は判る。
京一はそんなものじゃないって事。
葵が京一の顔を見ると、怒った顔と、泣きそうな顔がごちゃ混ぜになったみたいだった。
――――――ばちん、と大きな音が響いた。
手がじんじんと痛みを訴える。
葵の手が。
生まれて初めて、人を叩いた手が痛い。
でもきっと、絶対、それ以上に、京一の方が痛い筈だと思う。
男の子の言っている意味は殆ど判らなかったし、男の子もきっと判っていなかった。
けれど、言って良い言葉と悪い言葉の区別ぐらい、葵にだって判る。
言えば京一を傷付ける事になると男の子も判っていて、なのに何度も繰り返すなんて最低だと思う。
相手を泣かせる言葉なら、京一も言った事がある。
二月に初めて真神保育園に来てから、京一はずっと、葵や小蒔が傷付く事をわざと言っていた。
その時は冷たい子だと思ったけれど、今なら判る――――あれは本気で言ったんじゃないと。
京一の事情を、葵は知らない。
でもあんな風にわざと人を遠ざけるような事を言わなきゃいけなかった位、何かを抱え込んでいたんだと今なら判る。
葵や小蒔を傷付ける言葉を言いながら、彼も傷付いていたんだと。
でも、この男の子の言葉はそういうものじゃなくて、単純に人を傷付ける為のものだ。
そうと判っていて繰り返す言葉は、とても鋭く尖っていて、痛い。
「きょういちくんのこと、しらないのに、ひどいこと言わないで」
ひっく。
葵の喉が引きつった。
じわり。
目の前がぐにゃぐにゃになる。
「しら、ないのにッ…しらないのにッ……ひどいことッ……」
服の裾をぎゅうと握って、葵は座り込んでしまいたいのを必死で我慢した。
男の子は、まさか女の子の葵に打たれるとは思っていなかったのだろう。
打たれた頬を押さえて、目を白黒させている。
京一もまた同様に、驚いた顔で葵を見ていた。
「ひッ…ひどッ……う、ふぇッ……」
じわじわと浮かんできた涙が、ぽろぽろ零れ落ちる。
泣き出した葵を前にして、男の子はオロオロとうろたえ始めた。
八百屋の暖簾が捲られて、買い物を終えたアン子先生が出てくる。
「美里ちゃん!?」
「せ、んせぇ……えっ、ふぇ……」
「京一、何、どうしたの? 何があったの?」
以前なら、京一がまた葵を泣かせたものと思っただろう。
だが最近の京一は、まだ少し素っ気無い所はあるものの、ケンカにならない限りは相手を泣かせてしまう事はしなくなった。
時々不可抗力で泣かせてしまう事はあったけれど、直ぐに謝れるようにもなった。
アン子先生の問いに、京一はあいつ、とだけ言って、男の子を指差した。
頬を腫らせた男の子を見て、アン子先生も思い出す。
その男の子が近所で有名なガキ大将で、児童公園で顔を会わせる度に誰かを泣かせていた事を。
「あんたはまたッ!!」
「やべッ…!」
大人のアン子先生が来た事で危機を感じた男の子は、くるりと背中を向けると、一目散に走り出した。
アン子先生は一瞬追い駆けようとしたが、泣いている少女の事を直ぐに思い出す。
出掛けた足を引っ込めて、泣きじゃくる葵と、傍に黙ったまま佇む京一に向き直る。
外での子供たちのケンカに気付けなかった事を、アン子先生は後悔していた。
勘定を終えて外に出ようと思ったら、奥間に戻ろうとしたおばあちゃんが転んでしまい、腰を打ってしまった。
年齢で言えば八十を超えたおばあちゃんを、そんな状態で一人に出来る訳もない。
直に息子が帰って来ると言われたけれど、それまで店先に座らせて置くのも良くないと思い、奥間に運んでいる間に子供達はケンカを始めてしまったのである。
戻ってみれば葵が泣いていて、京一は呆然としていて、ガキ大将の男の子がいて。
致し方のない事だったとは言え、やはり目を離すべきではなかったと思ってしまうのは無理もない。
アン子先生は、葵と京一を二人一緒に抱き締めた。
葵はぎゅうとしがみついて来て、京一は少しじたばたとしたけれど、直ぐに大人しくなる。
葵が落ち着いてまた笑えるまで、三人はそのままじっとしていた。
必要な買い物を全て終えてみれば、予想通り。
アン子先生一人で抱えるには重くなった荷物に、葵はついて来て良かったと思う。
京一もご褒美に約束のパンダのお菓子を買って貰って満足していた。
人参やピーマンやトマト、お肉や牛乳やジュースの入った重い荷物は、大人のアン子先生が持っている。
「おとこなんだからオレがもつ」と京一は言ったけれど、袋を引き摺ってしまう為、結局アン子先生になった。
京一は色鉛筆や画用紙やマジックペンの箱の入った袋と、お菓子の入った袋を持っていた。
葵は一番軽い、色紙や絆創膏の入った袋。
京一は葵の分も持つと言ったけれど、それじゃ自分がついて来た意味がなかったから、葵は自分も持ちたいと言って譲らなかった。
保育園への帰り道を、三人並んで歩く。
一番車道に近い側にアン子先生がいて、葵がいて、京一がいる。
葵はアン子先生と手を繋いでいた。
「アン子せんせい、おもくない?」
「へーきへーき。ありがとね、美里ちゃん」
一番重い荷物を持っているアン子先生を葵が気遣うと、アン子先生は荷物を持ち上げながら言う。
本当は少し肩が痛いくらい重かったりするのだけれど、言わない。
「美里ちゃんと京一が来てくれて助かっちゃった。あたし一人じゃ、全部は持てなかったもん」
ありがとね。
もう一度そう言って、アン子先生は葵の頭を撫でた。
葵は嬉しくて、胸の奥がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。
赤信号に引っかかって、三人並んで止まる。
真っ直ぐ進む先に、真神保育園の玄関が見えた。
葵は、なんだか少しほっとしたような気がした。
それは多分、今日一日で色々なことが起きたからだろう。
京一とずっと一緒にいて、一緒に買い物に出て。
何か特別な会話をした訳ではなかったけれど、それでもやっぱり嬉しかった。
少し前までは、話どころか一緒にいることさえも出来なかったのだから。
そして初めて誰かとケンカをして、相手の子を叩いた。
後で少し後悔したけれど、あのまま黙って聞いている事も、あの男の子に京一を傷付けられるのも嫌だった。
友達を守りたくて初めて振り上げた手は、じんと痛みはしたけれど、いつまでも後悔する事はなかった。
――――――今日はいつもと同じ一日のようで、いつもと違う一日だった。
…ただ少し不安なのは、あれから京一が一度も口を利いてくれないことだ。
元々葵と京一はお喋りが出来る仲ではなかったけれど、目を合わせたら何かアクションをしてくれた。
でも今日は、あの出来事から目を合わせることもしてくれない。
こっちを見ているような気はするのだけれど、葵が振り返ると、急にそっぽを向いてしまうのである。
何か良くない事をしてしまっただろうかと、不安になるのも無理はない。
葵は以前よりも京一の事を知っているけれど、全部を知っている訳じゃない。
また、京一の方から葵に歩み寄ってくれる事も、今のところなかったから。
あの男の子が言っていた事を気にしているのかも知れない。
あの言葉を、葵も思っているんじゃないかと、思われているのかも知れない。
思ってなんかいない。
そう言いたかったけれど、言ったら思っていたように見られそうで、迷ってしまう。
何を言えばまたこっちを見てくれるのか、まだ判らない。
赤信号の待ち時間が残り僅かになった。
曲がり道行きの横断歩道の信号がチカチカ点滅し始める。
そんな時、
「――――――………きょういちくん?」
荷物を持っていない方の手に、京一の手が重なった。
名前を呼んでそちらを見れば、京一は明後日の方向を向いている。
でも、重なった手は離れない。
葵は、そっと、重なった手を握ってみた。
すると、柔らかな力で握り返される。
信号が青に変わる。
行こう、とアン子先生に促された。
京一が先に歩き始める。
葵は京一に引っ張られながら横断歩道を渡った。
それからも手は離れなくて、葵はずっと京一に手を引かれていた。
突然の思わぬ出来事に、葵はしばらく、瞬きを繰り返し、
――――――――……ありがとな。
聞こえた言葉に、初めて京一から手を繋いでくれた事を思い出した。
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うちのサイトでは珍しく、葵メインの話でした。
思った以上に長くなってしまいました(汗)。毎度の事ながら…
京一の事情をちらり。
でも子供の口からこんな台詞出て来たら嫌ですねι書いてて残酷な気分でした…
京一の家庭事情については、追々書いて行きたいと思います。
ただほのぼの傾向ではないので、いつ滑り込ませていいかと迷ってます……