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どて。
転ぶ音がして、マリア先生は振り返る。
すると、部屋の出入り口と廊下の敷居につまずいた子供が一人。
駆け寄る前に起き上がった子供は、緋勇龍麻だった。
起き上がると、龍麻はそのまま部屋を出て行く。
緋勇龍麻は大人しい。
誘われれば応じるけれど、基本的に活発な子供ではないので、部屋の中で本読みやお絵かきをする事が多い。
それがこの間、三日に一度の公園遊びの日から、何かと外に出ようとするようになった。
だが、園外に出て遊んでいる訳ではないようで、いつも園内の何処かへ姿を消す。
何処で何をしているからは犬神先生が確りと把握しているようだが、マリア先生は知らされていなかった。
気にはなるのだが、犬神先生が好きにさせろと言うので、複雑ながらも見守ることにしている。
ただ怪我をするような場所には行っていない、と言う事だけはきちんと確認させてもらった。
今日は何処に行くのだろう――――と言うマリア先生の心情を、当の子供は知らない。
転んでいる間に遅れてしまって、龍麻は廊下を走った。
その向こうには、ここ数日、いつも追い駆けている背中がある。
「まって」
言っても待ってくれないのは判っている。
だっていつも待ってはくれないから。
でも、今度は待ってくれるかも知れないから、待ってと繰り返し声をかける。
「ね、どこ行くの?」
龍麻が追い駆けているのは、“きょういち”だ。
毎日毎日、この背中を追い駆けて、龍麻は声をかけている。
いつか、返事が返ってくるのを期待しながら。
“きょういち”は部屋にいる事が少ない。
朝はちゃんといるのだけれど、皆が遊ぶ時間になるといつもいなくなる。
お昼の時も時々帰って来なくて、後の時間になって先生達の部屋で食べている事がある。
雨紋が遊びに誘うと一緒に行くけど、終わると直ぐに何処かに行ってしまう。
そして、四日に一度は庭にある池に落ちて、びしょ濡れになっているようだった。
追い駆けている内に、“きょういち”が何処で何をしているのか、龍麻も覚えた。
風の気持ちの良い日は園舎の屋上にいて、雨の日は廊下のガラス戸を開けて、其処に座って外を眺めている。
日差しが強い時や、表で遊んでいる子供が多い時は、日陰になっている庭の隅の池で過ごす。
日差しも風も丁度良い時は、庭にある一番大きな木に登っていた。
今日は何処だろう。
昨日は屋上だった。
思い出しながら、龍麻は“きょういち”の後ろをついて行く。
“きょういち”が外に出て、靴を履いた。
龍麻も靴を履いていると、“きょういち”が振り返る。
「なんなんだよ、おまえ」
「ぼく?」
「おまえしかいねーじゃん」
返って来た言葉に、確かに、と思う。
此処には今、子供たちも先生もいなくて、龍麻と“きょういち”しかいない。
「あのね、」
「いい。しらね」
言おうとした龍麻の言葉を遮って、“きょういち”はくるりと背中を向けた。
言いたかったのに。
龍麻の眉毛がへにゃりと下がった。
でもめげずに、龍麻は歩き出した“きょういち”を追い駆ける。
今は誰も遊ぶ子のいない庭を横切っていく“きょういち”。
とことこ後ろをついて歩きながら、龍麻はなんとなくウサギ小屋へと目を向けた。
「あ、いぬがみせんせい」
呟くと、ぴくっと“きょういち”の肩が跳ねた。
“きょういち”は犬神先生が苦手らしい。
姿を見つけると、走って逃げてしまう。
今回も同じく、走り出してしまった。
龍麻は慌ててそれを追い駆ける。
「まって」
「ついてくんなッ」
そう言った途端、“きょういち”がぐらりと傾いた。
後ろ向きに走ったりするからだ。
ざあっと音がして、土の地面に“きょういち”が転ぶ。
龍麻は急いで駆け寄った。
「だいじょうぶ?」
「さわんなッ」
起こそうとした手から、パシンと音がして、じんとした痛みが残った。
ずきり、胸の奥が痛む。
でもそれ以上に、何もなかったように一人で立ち上がった“きょういち”の顔を見た時の方が、胸の奥がぐしゃぐしゃになってしまうような気がした。
転んだ時に擦り剥いたのか、“きょういち”は少し足を庇って歩いた。
龍麻はその少し後ろをついて歩く。
本当は並んで歩きたいのだけど、並ぶと“きょういち”は怒るから、今は後ろをついて行く。
これも何度も怒られたけれど、ついて行くのも止めてしまったら、もう仲良くなれない気がした。
だから何回怒られても、龍麻は“きょういち”の後ろをついて歩いて行く。
到着したのは池の傍。
子供の目線では大きな池は、足場に出来る飛び石が点在している。
ひょいっと“きょういち”が飛んで、小さな足場に着地した。
“きょういち”はいつもこうして、一人で遊んでいる。
それで時々バランスを崩して、池の中に落ちてしまうのだ。
龍麻は少し勢いをつけて、“きょういち”と同じように飛び石目掛けて飛ぼうとした―――――が。
「やめろよ」
「なんで?」
三つ向こうの飛び石に片足で立って、“きょういち”が言う。
それに龍麻がきょとりと首を傾げると、
「おまえ、昨日おちただろ」
「うん」
「マリアちゃんにおこられんの、オレなんだぞ」
“きょういち”はマリア先生の事を「マリア先生」と呼ばない。
どうして呼ばないのかは知らないけれど、それで怒られても、“きょういち”はその呼び方を止めなかった。
昨日も龍麻は、今日と同じように“きょういち”の後ろをついて歩いて、この池にも来た。
“きょういち”はぴょんぴょんと飛び石の上を渡って、龍麻もそれについて行きたかったのだ。
それで少し頑張って、ジャンプしてみた。
してみたら、見事に池の中に落ちた。
小さな子供にしてみれば深い池だ。
泳げない龍麻はパニックになって、水の中でバシャバシャ暴れた。
それを引っ張って岸に上げてくれたのは、他にいる筈がない、“きょういち”だったのだ。
その出来事を思い出して、龍麻はふにゃーっと笑う。
「……なんでわらってんだよ」
真ん中にある大きな石に乗って、“きょういち”は怖い顔をして言った。
「だって助けてくれたもん」
マリア先生か犬神先生か、呼んでくれたって良かった筈だ。
でも“きょういち”は、龍麻が落ちて直ぐに、迷わずに助けに来てくれた。
それが嬉しかったと言ったら、“きょういち”の顔が赤くなる。
「やさしいね」
どんどん赤くなる。
龍麻はせぇの、と勢いをつけて、今度こそジャンプした。
昨日より強く飛んだら、今日はちゃんと飛び石の上に届いた。
もう一回飛んで、それから飛んで、また飛んで。
時々落ちそうになったけれど、なんとか真ん中の大きな石に辿り着く。
其処には真っ赤になった子がいて。
龍麻は、上着のポケットに入れていた苺チョコを取り出した。
「あげる。ともだちのしるし」
苺は、龍麻の大好きな食べ物だ。
甘い苺のチョコレートも、勿論大好き。
これを分けっこするのは、龍麻にとって仲良しの証みたいなものだった。
でも“きょういち”はそっぽを向いて、次の飛び石に移ってしまった。
「まって」
受け取って貰えなかった苺チョコをポケットに戻して、龍麻は“きょういち”を追った。
ひょいひょい、“きょういち”はウサギみたいに飛んで渡る。
龍麻は一回一回立ち止まって、せぇの、と勢いをつけて飛んだ。
“きょういち”がちゃんとした足場に辿り着いた時、龍麻はまだその半分も行っていなかった。
そのまま“きょういち”は立ち止まっていて、少しだけ振り返って此方を見ている。
小さな足場で龍麻がぐらりと揺れると、あ、と小さな声が“きょういち”から漏れた。
それでもどうにか、龍麻も無事に地面に辿り着く。
と、“きょういち”はくるっと背中を向けて、歩き出した。
待っていてくれた。
落ちたら助けようと思っていたんだと思う。
やっぱり優しいなぁ、と背中を追い駆けながら思う。
「ついてくんな」
「うん」
「じゃあついてくんな」
「うん」
「ついてくんなってば」
同じ言葉のやり取りばかりが繰り返される。
“きょういち”が睨んだ。
その時の目は、今でもちょっと怖い。
でも、最初にそれを見た時程じゃない。
だって本当は優しい子だって判ったし、単に何も言わないだけなんだ。
怒ったふりで大きな声を出したり、物を投げたりするけど、それで龍麻は怪我をした事がない。
いつもちゃんと手加減されていた。
“きょういち”が向かう先には、大きな木がある。
それを見て、龍麻は少しだけ眉毛を八の字にした。
木の上は“きょういち”のお気に入りの場所だった。
子供でも乗れる枝でも随分高い場所にあるのだけれど、“きょういち”は其処まで簡単に登れる。
反対に、龍麻は木登りが出来ない。
でこぼこでくねくね曲がった低い松の木のようなものならともかく、此処にある木は真っ直ぐ上に伸びている。
表面もそれほどでこぼこしていなくて、何処を持って何処に足をかければいいのか判らない。
足を地面から離した途端に、ズリズリ下に落ちてしまう。
“きょういち”はそれを判っているようで、龍麻が追い駆けて来れないのを判っていて、此処に登る。
龍麻が一所懸命登ろうとしても辿り着けないその上で、“きょういち”はじっと、龍麻が諦めるのを待つのだ。
最も、龍麻が諦めることはなくて、マリア先生が呼びに来ないと二人とも其処から動かないのだが。
「木のぼりするの?」
聞かれた事に答えずに、“きょういち”は木に足を引っ掛けた。
そのまま、スイスイ登っていく。
「まって」
龍麻も登ろうと、木に片足を引っ掛ける。
“きょういち”がしていたように、幹に手をついてもう片方の足を地面から離す。
………ずりり、落ちた。
上を見ると、“きょういち”はもういつもの高さまで登っていた。
「まって、」
手を服の裾でゴシゴシ擦って、もう一回。
………ずりり、また落ちた。
何度も何度も、同じことの繰り返し。
何回やっても登れない。
時々、落ちずにちょっとだけ上まで登れることがある。
高さは、自分の身長の頭一つ上、程度のものだけれど。
そのまま登れればいいのに、やっぱりずり落ちてしまう。
「……むぅ」
木にしがみついた姿勢のまま、龍麻は上を見上げた。
辿り着きたい場所は、ずっと遠い。
あそこまで行きたいのに。
ずり。
ずり。
ずり。
段々泣きそうになってくる。
見上げると、“きょういち”が顔を出していた。
龍麻の方を見下ろしていて、多分、早く龍麻がいなくならないかと見ているのだろう。
龍麻は泣きそうになるのを我慢して、もう一回、木に登る。
「うー……」
どうしてこんな高い木に登れるんだろう。
どうやったら登れるんだろう。
仲良くなったら、教えてくれるだろうか。
地面から足を離す。
木の幹にしっかりしがみついた。
此処からどうすればいいんだろう。
ちょっとだけ右手を上に持っていって、左手もちょっとだけ上に。
足は―――――どうしたらいいんだろう。
考えている間に手が痛くなって、ずるずる下に落ちていった。
こてん、と木に掴まった姿勢のまま、龍麻のお尻が地面についた。
「……おまえさ、」
頭の上から声が降って来た。
見上げると、ちっとも揺れないで、枝の上に立っていた。
怒った声以外で“きょういち”から声をかけられたのは、多分、これが初めてだった。
「なに?」
「……なんで、」
高いところと低いところで距離があるのに、“きょういち”の声はストンと龍麻の下まで降りてきた。
龍麻は木に虫みたいに捕まったまま、上にいる“きょういち”を見上げる。
首が少し痛くなったけれど、お構いなしだ。
見下ろしてくる“きょういち”の目は、いつもと違って怖くない。
「なんでいつもついてくんだよ」
「?」
「オレといたって、おもしろかねェだろ」
「なんで?」
質問を質問で返して、龍麻は首を傾げる。
面白くないと、一緒にいたらいけないんだろうか。
“きょういち”はそう思っているのだろうか。
龍麻は、面白いと思うから一緒にいたいと思うんじゃない。
一緒にいると楽しいとか、嬉しいとか思うから、一緒にいたい。
「いっしょにいたいもん」
「………なんで」
「だってぼく、キミとなかよくしたいよ」
木から手を離して、龍麻は立ち上がって“きょういち”を見上げて言う。
真っ直ぐ落ちてくる視線を受け止めて、真っ直ぐ見詰め返して。
「ヘンだろ。おまえ」
「ヘンじゃないよ」
「ヘンだろ」
ずばっと言った“きょういち”に、龍麻はむぅと頬を膨らませる。
「ヘンじゃないよ。ふつうだもん」
変わったものが好きなのね、とか、そういう事はよく言われる。
自分でもそれは少し判っている。
でも、それだけで、別にそんなに変じゃないと思う―――――多分。
龍麻にしてみれば、“きょういち”の方が変だ。
わざと怒ってるふりをして大きい声を出して怖がらせようとしたり、皆と一緒に遊ばないで一人でいたり。
一人で平気なふりをして、自分から皆と遠ざかる。
……本当は寂しいクセに。
「ぼく、キミといっしょにいたいよ」
「……オレは、」
「キミのこと好きだから、いっしょにいたいよ」
“きょういち”が何を言おうとしたのか、龍麻は知らない。
でも、何を言われたってきっと龍麻は気にしなかった。
高い高い場所からこっちを見下ろす“きょういち”に、龍麻は手を伸ばした。
「だから、ぼくとともだちになってください」
大好きだから、もっと一緒にいたいから。
一緒に遊んで、一緒に怒られたりもして、一緒に泣いたりもして、一緒に沢山のものを見たい。
大好きだから、自分の事を知って欲しいし、“きょういち”の事も教えて欲しい。
何が好きで何が嫌いなのか、なんでもいい、教えて欲しい。
木登りの仕方も、飛び石の渡り方も、全部全部教えて欲しい。
この伸ばした手で、君と手を繋いで歩きたい。
見下ろす目が、泣き出しそうに揺れた。
でもその揺れ方は、いつもの寂しい目とは違っていた。
それをじっと見上げながら、龍麻は空へ、“きょういち”へ伸ばした手を下ろさない。
「ぼく、ひゆぅたつま」
「………」
「おなまえ、おしえてください」
龍麻は、あの子の名前を知っている。
でも、あの子から聞いた訳じゃない。
龍麻が初めて真神保育園に入った日、他の子供達はそれぞれ挨拶してくれた。
名前を教えてくれて、好きなものとか、見ているテレビとか、色々教えてくれた。
でも、“きょういち”だけは皆の話を聞いただけで、ちゃんと挨拶していない。
好きな食べ物は?
好きな動物は?
好きなテレビは?
何して遊ぶのが好き?
あの時描いてたパンダ、やっぱり好きなの?
聞きたいことは一杯ある。
だからその為にも、先ずは仲良くなる第一歩。
質問の前に、きちんとはじめましてのご挨拶。
“きょういち”が枝の上でしゃがんだ。
それを見て、やっぱりダメかなぁ、と龍麻は思った。
思った後で、わぁと目を見開く。
枝の上から、“きょういち”が飛んだ。
何もない宙に。
小さな体はそのまま落ちてきて、龍麻は思わず顔を手で覆った。
どうなるのか怖くて、見ていられなくて。
けれども、聞こえた音は転ぶとか打つとか言うものじゃなくて、とんっと軽いもので。
「きょういち」
聞こえた声に、そっと顔から手を離す。
すると、直ぐ目の前に、いつも背中を追い駆けていた男の子が、こっちを向いて立っていた。
「ほうらいじきょういち」
―――――それは、男の子の名前。
“京一”の名前。
初めて真正面から見た顔は、やっぱりまだ、少しだけ眉毛を吊り上げていたりしたけれど。
頬がちょっと赤くなっていて、照れているのが龍麻にも判る。
そんな京一が、龍麻に向かって手を伸ばした。
さっき、木の下から空に、京一に向かって手を伸ばしていた龍麻のように。
だから龍麻は嬉しくなって、笑ってその手を握った。
「…………ヘンなやつ」
ぽつりと呟いた京一の声は、龍麻に聞こえていたけれど、龍麻は気にしなかった。
呟いた頬がやっぱり赤くて、京一は龍麻から眼を逸らしている。
でも怒っているような雰囲気はちっともなくて、照れ屋さんなんだなぁと思う。
手が離れると、京一は木の幹に手を当てて、
「おまえ、こんなののぼれねェの?」
「うん」
「じゃあおしえてやる」
「ほんと?」
思わず龍麻の声が弾む。
京一はそれに頷いた。
取り敢えず登ってみろよ、と京一が言うから、さっきと同じように登り始める。
それで早速、そうじゃねえよと怒られた。
あの大きな声じゃなくて、優しい声で。
上まで登って行けたら、
今度こそ、二人で苺のチョコをわけっこしよう。
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やっぱり二人は仲良くしてるのがいいですね(一、二話書いといて何抜かす)。
木の高さは、そんなに言うほどないですよ。高校生なら普通にひょいひょいっと登れるくらいです。
でも4才の子供にはやっぱり大きい木なのです。