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数日前に、愛用している三味線の弦が切れた。
好きで愛用しているものでもないが、商売道具である。
古ぼけた三味線であるが、良い音を鳴らすもので、客には評判が良い。
禿達もこの音は好きだと言うし、京一もそれ自体は嫌いではなかったから、ずっと同じものを使っている。
そうして長く使っているという事もあるから、多少の愛着――のようなもの――は湧いていた。
新しいものを買おうと言う楼主の言葉を、京一は毎回断っている。
大体、弦が切れたぐらいならば張り直せば良いのだから、新品を買う程大袈裟な事ではないと思う。
どの道、弦を張り直すついでに調弦もした方が良いかと思う頃合であった。
時期が良いと言えば良かったので、京一は長袋に三味線を包んで、それ一つ抱えて伎楼を出た。
伎楼の中では女物の着物を着ている京一だが、外に出る時は普通に男の着物を着る。
その方が奇妙な目に遭う事も少ないし、女の格好で外に出るよりは好きに歩き回る事が出来る。
とは言え、特に気紛れで寄るような道がある訳でもない。
伎楼に来る客はあれこれと廓の中の話も外の話もよくするが、京一は基本的に聞き流している。
だから何が流行っているかなど京一の頭には残っておらず、そんなものだから、外に関する情報が何も無い。
外に出たらあれが見てみたい――――等と思う事もないのである。
向かうのはいつも決まっている。
伎楼の場所から四半刻も歩いた先にある茶屋だ。
廓の女を引き連れた男が集まる場所だったが、一人で出入りする客も少なくない。
その雑多な客の出入りに混じって、京一も茶屋の奥へと足を運んだ。
少し奥まで行くと、途中で茶屋の親父に止められた。
が、京一は何度となく此処に来ているし、親父とも馴染みである。
それどころか、京一が太夫になる以前、この親父は数回に渡って京一の伎楼に足を運んでいた。
顔を確認すると、親父はどうぞと言って奥を示した。
それを見ることなく、京一はさっさと足を進ませる。
表口の喧騒から離れた店の奥。
表と違って個別に仕切られた座敷の一室の戸を、京一は躊躇わずに開けた。
「よォ、ムッツリ」
それは其処にいた人物の名前ではなく、けれども京一にとっては彼を形容する呼び名。
呼ばれた相手はいつも眉間に皺を寄せるが、何も言ってくることはなかった――――言っても無駄だからだ。
「弦が切れた」
座敷に上がりながら言うと、相手――――如月翡翠はまた更に顔を顰める。
「…もう少し大事に扱え。月に一度でも持って来れば、まだ暫くは長持ちするんだぞ」
「ンなこたァオレの勝手だ」
長袋から三味線を取り出す京一の手付きに、如月は溜息を漏らす。
如月は廓の外にある骨董品屋の若い主だ。
京一はその店を見た事もないし、骨董がどういうものか知らないが、どうせ暇な店なんだろうと思う。
何故なら、京一がこうして調弦を頼みに此処へ来る時、一度も擦れ違うことなく彼は此処にいるのだ。
つまり、如月は毎日のように店を開けてこの茶屋へ通っていると言う事になる。
骨董品屋の主が、どうして三味線を調弦する事が出来るのか。
京一は知らないし、聞こうとも思わないから、如月が自らそれを語ることもない。
取り敢えず、見た目は出来て可笑しくなさそうだなと思うから、昔取った杵柄か何かだろうと勝手に予想を立てている。
まぁ真実がどうであるとしても、京一にとっては、調弦をしてくれさえすれば問題ない。
如月の腕は他のどの調弦師よりも良かったから、こうして彼を頼っているだけの事だし、店が暇であろうと暇でなかろうと、如月が毎日此処に通っているなら、他の宛てを探さなくても済む。
受け取った三味線の残った二弦を鳴らして、酷いな、と如月が小さく呟いた。
「全く、とんだ主に気に入られたな。この三味線も」
「そりゃァお互い様だ」
座敷奥の壁に背中を押しつけて、京一は机に置かれていた徳利の酒を猪口に注ぐと口をつける。
「こんな所で、とんだ奴に気に入られねェ事の方が珍しいだろ」
まともな奴の方が少ねェんだからよ――――と。
零す京一の表情は嘲笑を含み、それは自分自身にも向けられていた。
此処に、この街にいる限り、そんなものはいつまでも纏わり付いてくる。
妙な趣味をした客だったり、他者を貶めることしか考えていない女だったり、労咳だったり、呪いや祟りの類だったり。
人が溢れかえって零れて堕ちる場所だから、此処にはそんなものがつき物だ。
妙なものに取り付かれない訳がない。
更に言うならとんでない奴の方が少ない、と京一は思っている程だった。
そして自分自身も、“まとも”と言える人間ではないだろうと。
「此処にいるだけで、色んなモンが麻痺して来やがる」
「女侍らせてだらしねェ面してる野郎の横で、金なくした男が女に袖振られてる」
「今日まで男の下で何十両って稼いでた奴が、明日になったら血ィ吐いて死んでる―――――」
「………そんな所で、いつまでもまともな頭してらんねェよ」
極楽浄土のように華やかで。
地の底のようにくすんでいて。
一人の人間の間で、その色は一瞬の間で言ったり来たりを繰り返す。
そんな場所で京一の記憶は始まり――――きっと終わる時も同じなんだろうと思うから。
如月はそれを黙って聞いていて、時折調弦を確かめる音だけが二人の間に響く。
「ま、オレは最初からまともな頭してなかったけどな」
空になった徳利を放り投げる。
ころりと床に転がったそれは、京一の足に当たって止まった。
調弦の音が止んで、如月が三味線を差し出す。
受け取って長袋で包み、座敷を立つ。
通路に下りて草鞋を履いた所で、如月が声をかけて来た。
「おい」
「ンだよ」
首だけをめぐらして肩越しに見遣ると、如月は既に京一に背を向けていた。
そのままの姿勢で、如月は続ける。
「次は弦が切れる前に持って来い」
「なんでェ、急に。今までンな事――――」
「いいから来い」
急かされた事などなかったと、言おうとして。
遮った如月の声は、低く強い音で、拒否する事を先に拒絶していた。
抱えた三味線は商売道具で、愛着―――のようなもの―――は確かにある。
あるけれど、それと大事にするか否かは、京一の中で全く別の話だった。
少しでも三味線が面白いと感じる事があったなら、如月が言うように、月一でも皮張りや、弦や駒に気を配るだろう。
けれども京一が三味線を覚えたのは、楼主の教育によるもので、本人が好きで覚えた訳ではない。
客が音を聞いて喜ぶことも、京一の喜びに繋がるには程遠く、客の叩く囃子の音も乾いた音にしか聞こえなかった。
返事をせずに立ち尽くしている京一に、如月はやはり振り向かないままで、
「……良い三味線なんだ。もっと大事にしてやれば、今よりもっと良い音が出る」
そうかよ、と。
一言だけ呟くと、京一は外へと足を向ける。
奥から出て来た京一に、茶屋の主が頭を下げる。
今は愛想の良い膨らんだ顔が、夜は酷く卑下た構えになるのを京一は覚えていた。
……さっさと忘れてしまいたいのに、この男の顔を見る度に何故か思い出す。
ガヤガヤと煩い表口を出ると、今度は別の煩い音が京一の鼓膜に届く。
それらから早く解放されたくて、京一は戻りたくもない―――けれども他にない―――場所へと足を速めた。
此処には雑多な音が有り触れていて、酷い時には耳鳴りもする。
耳鳴りがするのは近くに霊がいるからだとか、何処かで誰かが言っていた。
じゃあ女に溺れて死んだ莫迦な男か、足抜け損ねて投げ込み寺に放られた女か。
そういう輩は同業や男だけでなく、陰間にも祟るのか、と何もない空を眺めて思う。
まぁ――――どうせ碌なのがいない街なんだ、何がいても可笑しくはない、と。
女に袖を振られて泣く男と擦れ違いながら一人ごちた。
先程の如月の言葉が、脳裏で蘇る。
どんなに良い音を鳴らす三味線でも、乱暴に扱えば弦が切れて、皮が破れ、棹も折れる。
だから大事にしてやれば、勿論逆で、もっと良い音が出る。
けれども、京一にはどうしても、腕に抱えた商売道具を特別大切には思えない。
碌でもない奴が弾いてるんだから、碌でもない音しか出ないのは当たり前だろうとしか考えられなかった。
此処は碌でもない街だから。
この碌でもない街を、もう少し愛することが出来たなら、何か変わる事があったのかも知れないけれど――――……
もっと大事にしてやれば、今よりもっと良い音が出る。
(――――――………人も、な。)
別れ際。
言葉の後に呟かれた音は、京一の耳には聞こえなかった。
聞こうと思えば聞けた言葉は、向けられた京一自身の意識によって掴む者なく流れて消えた。
大事にされた事がないから、
大事にしたいものがない。
だってこの街は、碌でもないもので溢れている。
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如月の台詞は深読み希望。
っつか、な が い … … !
しかも内容が内容なので、これ拍手御礼でいいんだろうかと(滝汗)…
毎回こんな拍手が一つは混じってるような気はしますけども。
如月を出したい出したいと思っても、中々本編に登場予定がなくて…
パラレルにすると毎回役所に困ると言うのも理由の一つだったり(爆)。
あと、未だに私の中でこの二人はケンカしてるイメージが強くて、中々喋ってくれないのですι
プレ版にお付き合いありがとう御座いました。
イメージも固まりましたので、そろそろ本腰入れて書こうと思います。
宜しければ、またお付き合い下さいませ。