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――――――あの時、
伸ばされた手を、初めて掴んだ瞬間から
【Palmar whereabouts】
ガラリ、と足元が崩れ落ちる感覚がした。
咄嗟に瓦礫と化した床を蹴って、宙に飛ぶ。
同時に手を伸ばして、離れかけた鉄柵に掴まった。
――――――当然、相棒も同じように隣にいるもの、だと。
思って。
「龍、」
それは、助けを求める声ではなかったけれど。
置いていかれた子供が、親を求めるような。
……そんな音に似ているような、気が、して。
振り返って崩落する足場を見た。
一瞬前まで自分がいた空間は、既に虚空に飲まれて。
落ちていく瓦礫が、底の見えない闇に食われて行く。
その真ん中に、
君が、いて。
「――――――――きょーいち、」
咄嗟に伸ばした手は、君に届くことはなく、空を足掻き。
呼応するように伸ばされた君の手は、僕の場所まで遠過ぎて。
「京一――――――――ッッ!!!」
鬼との戦いを終えて、後方支援の葵と小薪が来た時には、酷い有様だった。
醍醐が止めるのも聞かずに、龍麻が常の様相の面影もなく、声を荒げて京一を呼び続けていたのだ。
闘いによって崩落したのだろう瓦礫を力任せに放り投げながら。
龍麻が声を荒げる場面なんて、誰も見た事がなかった。
そして、そうまで龍麻が心乱すという事も。
普段、龍麻の表情筋はあまり動かない。
ぼんやりした面持ちでいる事が多く、眉間に皺を寄せることもなく、笑うときでさえ微笑と言う風が正しい。
授業中に注意されてもやはりぼんやりとした表情で、誰に何を言われても、激昂する事はない。
故に“ミステリアス”だと言われているのである。
しかし、その時の龍麻には、そんな印象は一つもなかったのだ。
表情こそあまり変化はなかったように見受けられたけれど、纏う空気が違う。
焦燥感に掻き立てられ、ガラスの破片で手を切ることも厭わなかった。
瓦礫の山を邪魔な代物であるとだけ判断し、片っ端から壊して行った。
唯一無二の相棒の名を呼びながら。
闘いの最中の出来事は、不運な事故としか言いようがない。
古びた中層ビルの屋上だった。
止めを刺したのは、遠方から撃った小薪の矢だ。
鬼の柔らかな身体は、龍麻や醍醐の打撃は勿論、京一の斬撃も効果がなかった。
唯一効いたのが破壊力を一点に集中させた小薪の矢。
前衛の三人は鬼の体力消耗と、狙い易い場所まで誘導させる事に専念し、
結果、作戦は無事に功を奏し、鬼を消滅させる事が出来た。
鬼を消滅させるその直前―――時間にして、小薪が矢を放つ実に直前の話だった―――、
その場所での激しい戦闘に耐えかねた屋上の床が、前触れもなく崩落を始めた。
ビルが揺れるような予告もなく、老朽化と、戦闘の振動によるもの。
鬼の放った攻撃ではなかったし、各々の技によるものでもなかった。
だからあれは、不運な事故としか言いようがない。
―――――いや、そんな事は龍麻にとってどうでも良かったのだ。
「京一! 京一……!!」
転校した初日からずっと傍にいた、唯一無二の相棒。
誰よりも何よりも、背中を預け、信頼を寄せる、傍にあって心地良い気配が、今はない。
それが龍麻にとって、酷く恐ろしいことのように思えたのだ。
遮二無二京一の姿を探して瓦礫の山を崩す龍麻を、醍醐が後ろから羽交い絞めにして止める。
「落ち着け、緋勇! 下手に崩したら、京一が下敷きになるかも知れん!」
「だって……早く見つけないと、……京一ぃッ!!」
「緋勇君、僕等も探すから! だから、緋勇君は落ち着いて!」
見兼ねた小薪の言葉と、背中から抱える醍醐と。
泣きそうな顔で見つめる葵の視線に気付いて、ふっと龍麻の身体から力が抜けた。
そのまま崩折れそうになって、醍醐に支えられて辛うじて立っている。
こういう時、真っ先に手を伸ばして肩を支えてくれたのは、いつも京一だった。
バカだバカだと言って、付き合ってやるよと口端を上げて笑う、彼。
何も言わなくても判ってくれているようで、それが龍麻は無性に嬉しかった。
今までそんな風に接してくれる人なんていなかったから。
……だから緋勇龍麻にとって、蓬莱寺京一とは、とても特別な位置づけにあった。
その姿が見えないだけで、世界がモノクロームになってしまう程に。
瓦礫の上に座らされる。
醍醐が京一を探す為に、瓦礫を退かす。
小薪は身軽に瓦礫を上り、何か手掛かりはないかと辺りを見回した。
茫洋とした表情で佇む龍麻に、葵が駆け寄った。
「緋勇君、怪我をしてるわ……」
白磁のような手が頬に触れ、温かな光を放つ。
その場所に傷があったとは覚えがなかった。
痛みなど、殆どない。
それよりも。
(そうだ、京一、怪我してた―――――……)
脳裏を過ぎった親友は、右足に傷を負っていた。
鬼の放った一撃をかわし切れずに、右足を貫かれた。
咄嗟に名前を呼べば、その時は屁でもないと言って代わらずに木刀を構えていたけれど、
一撃を放つ瞬間、跳躍する時、一歩を強く踏み込む大切だった筈の右足だった。
右足で一歩踏み込む度に、僅かに表情が苦悶に歪んでいた事には気付いた。
出血はそれほど酷いものではなかったけれど、筋肉を動かす都度、確かな痛みが其処に在ったのは間違いない。
だからあの瞬間、跳ぶ事が出来なかった。
崩れゆく瓦礫の中で、伸ばされた手を思い出す。
どうして、気付かなかったのだろう。
あの頃にはもう京一の足は限界で、歩く事もままならなかったに違いない。
細かに震えていた右足を見ていた筈だったのに。
あの時、傍にいたのは自分だけだった。
だから、自分が気付かなければいけなかった筈なのに。
失いたくなければ、守りたければ、何があろうとあの手を掴まなければならなかったのに――――
『たつ、ま』
瓦礫と共に奈落に落ちていく瞬間。
確かに、彼は名前を呼んだ。
崩れ落ちて行く瓦礫の騒音の中で、不思議とその声だけがクリアだった。
いつも、いつでも、彼は名前を呼んでくれた。
不思議と、自然と、一番最初から、ずっと。
何処にいても、その名を呼んで、傍にいてくれた。
言葉らしい言葉を交わさなくても、彼はいつだって自分の事を理解してくれたのに。
どうして自分は、彼が無理をしていると、もっと早く気付くことが出来なかったんだろう。
「京一、」
『龍麻』
呼べば、振り返って名を呼んでくれたのに。
どうして今、それがないのだろう。
「京一―――――ッ!」
「何処なのさッ、京一―――ッ!」
彼を呼ぶ仲間達の声さえ、酷く遠い。
身体が動くことを止めたら、脳の回転が止まらなくなった。
探さなきゃ、探さなきゃ、探さなきゃ。
あの手を掴まなきゃ。
あの暖かい手をもう一度。
でも見付からなかったらどうする?
こんなに大きな瓦礫の下、もしも彼が彼の姿さえ留めていなかったら。
見付けたとして、あの暖かな手が冷たくなっていたらどうする?
もう二度と、笑ってくれなかったら、どうする………―――――?
だって、初めてだったんだ。
何もかも預けても良いと思ったその手を、同時に失くしたくないと思ったのは。
「京一、」
『おう、龍麻』
「――――…京一、」
『また居眠りか? よく寝るよな、ホント』
ふらり、立ち上がる。
幽鬼のように。
彼が落ちたのがどの当たりだったのか、もう判らない。
だけどきっと判る筈だ。
だって彼は、何処にいたって自分を見つけてくれたのだ。
それなら、自分だって彼の居場所が判る筈だ。
闇雲に瓦礫を崩していた時は、焦燥感ばかりが先に立っていたけれど。
今ならもう少し、彼の呼吸を追えるはずだから。
――――でももしも、その呼吸さえもうなかったら?
「きょう、い、ち、」
『ラーメン食いに行こうぜ、龍麻』
不吉なことなど頭の中から追い出して。
醍醐の横を過ぎて、小薪の横を過ぎて。
葵が心配そうに追いかけてきた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
ちゃんと見つけられるから。
君のいる場所なら、きっと何処でも、絶対に見つけられるから。
だからお願い、もう一度。
『ほら、行くぞ』
――――――――その手でこの暗闇から、お願い、僕を引き上げて。
後編
うっかり長くなって前後編。
うちの京一は龍麻の安定剤。
実際、九角の罠の時とか、よく居場所判ったよね…